視察に来た社長が、エリート大学卒の新入社員のボーナスは100万円。中卒はボーナスなし、と言い放った。
俺と、工場で働く中卒の社員23人は、全員が呆れて言葉を失った。
前から問題のある人物だとは思っていた。だがまさか、自分の立場を利用して、ここまでするとは思わなかった。
この瞬間、俺たちは心の底から見限った。
社長は、自分の発言が何を意味するのか、まったく理解していないようだった。
そして、この後、社長は自らの首を絞め、何もかも失うことになる。
俺の名前は長岡、42歳。我が家は貧乏で、高校に進学することもできないほど困窮していた。
家族を養うために、俺は中卒で働きに出ることを決めた。幸運なことに、大手の自動車部品工場に雇ってもらえた。
この会社は、前社長の方針で学歴不問の採用をしていたのだ。
おかげで俺は、中卒の技術者としての道を歩むことができた。前社長には返しきれない恩がある。
工場で一緒に働く仲間たちにも、長い間支えてもらった。特に、同じ中卒の社員や、工場長の一村さんには、とてもよくしてもらった。
俺は現在、副工場長として一村さんを支えている。
学歴なんてなくても、手を動かして技術を磨けば、ちゃんと評価してもらえる。そう信じられる会社で働けたことが、俺の誇りだった。
これから先もずっと、みんなとこの工場で働き続けると、何の根拠もなく思っていた。
平和な日々は、突然終わりを告げる。
前社長が病気で倒れ、会社を去ることになったのだ。
新しい社長になったのは、矢沢さんという人物だった。元副社長で、高い偏差値の大学の出身だ。父親は元銀行員で、母親は教師。いわゆるエリートで、本人もそれを自慢に思っている。
社長就任直後に開かれた工場の飲み会で、一村さんから教えてもらった話だ。
噂によると、銀行員だった矢沢さんの父親は、町工場への融資を打ち切ったことがあるらしい。その工場は、ほどなくして潰れた。面倒見のいい経営者で、俺たちみたいに学歴が低くて就職できなかった連中を、率先して雇っていたんだ。工場の経営者も高卒だったらしい。
工場が潰れた際、矢沢社長の父親はこう言ったそうだ。
「学歴のない人間に金を貸すのは博打だ。勉強のできない奴は、仕事もできない。そんな奴と関わるのはリスクでしかない」
本社に呼ばれて矢沢社長と飲んだ時、彼は父親が自分に人生の教訓を教えてくれたと、自慢げに語っていたらしい。
俺は矢沢社長と直接話したことはなかったが、とんでもない人物だというのは一村さんの話から分かった。
「何もないといいんですけど」
そう言った俺に、一村さんは奇妙な表情で頷いた。
「本当だな」
思い返せば、矢沢さんは副社長だった頃は、物静かな人という印象だった。前社長の目がある手前、本性を隠していたのかもしれない。
しかし、俺の嫌な予感は的中してしまう。
矢沢社長が会社のトップに就任して半月後、一村さんが社員を集め、暗い表情である通達をした。
「新社長が新しい方針を打ち出した。社員の給料の一部が変動制になる。はっきり言うと、みんなの給料が少なくなるんだ」
社員たちがどよめく。
「一定の業績に到達すれば、以前と同じ給料を支払うとのことだ。それと……工場は近い将来、完全自動化になるらしい」
一村さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「すまない。みんなを守れなかった」
小さく呟いたその声は、静まり返った工場に虚しく響き渡った。
一村さんが頭を下げる必要なんてないのに。悪いのは、現場を知らないまま方針を押し付ける矢沢社長の方だ。
そう思いながらも、俺は込み上げる悔しさを飲み込むしかなかった。
工場の自動化は、すぐに始まった。一村さんの通達から1週間後には、新型の生産設備が導入されたのだ。
機械を操作するのは、俺たちではない。本社から派遣された大卒の社員だ。
この工場には、俺と同じ中卒社員が23名働いている。その他は高卒が若干名だ。一村さんも中卒で叩き上げで工場長まで昇進した。
そんな一村さんでも、新型機械に触ることはできない。矢沢社長の方針なので。
一村さんが他の社員にも操作を教えてほしいと頼むが、大卒社員たちは即座に断った。
俺たちは残った生産作業に回されるが、新型機械と大卒社員たちに仕事を奪われ、時間を持て余すはめとなる。
「本社に直談判してみる」
一村さんはそう言うと、工場から車で1時間ほどの距離にある本社へ向かった。だが、結果は残念なものだった。
「効率化のためだ」って、話も聞いてもらえなかった。
肩を落とす一村さんを、俺たちは慰めることしかできない。
窮地はさらに続いた。前社長の時から続いていた主要な取引先が、取引縮小を決定したのだ。
原因は、新型の生産設備で作った部品だった。俺たちは機械に一切関わることができなかったので知らなかったが、ほぼ全て機械で作った部品は、従来品と比べて精度が落ち、これを納品された取引先の先方が不審感を抱いたらしい。
「うちの工場、このままだとやばくないか?」
中卒の仲間たちの動揺した声が聞こえてくる。
「工場が潰れる前に、早めに見切りをつけた方がいいんじゃないか」
正直、俺も同じことを考えていた。しかし、一村さんはまだ諦めずに戦おうとしていた。
俺を拾ってくれたのは前社長だが、ここまで育ててくれたのは工場長である一村さんだ。恩人を見捨てることはできない。
「みんな、今は大変だけど、もう少し頑張ろう」
俺は中卒の仲間たち全員に、そんな声をかける。全員、一旦は説得を聞き入れてくれたが、嫌な空気は完全には排除できない。
一体、いつになればこの状況を打破できるのか。先の見えない不安感に、俺はこっそりため息をついた。
そんなある日のこと。一村さんが慌てた様子で、俺の元に駆け寄ってきた。
「長岡君、急な話で申し訳ないんだけど、明日、矢沢社長が工場に視察に来るそうだ」
「え、そんな急に?」
「新型機械の稼働状況を見るらしい。この前の取引先の件を気にしているんだろう」
取引先から本社にクレームが入ったため、新型機械で作った部品は納品しないことになった。矢沢社長はそれが気に食わないらしい。原因究明という名目で、うちの工場への緊急視察が決まったのだ。
俺は慌てて、他の社員にも事情を説明する。忙しい合間を縫って、社長を迎えるための準備を進めた。
翌日。到着予定時刻を30分過ぎた頃、矢沢社長が工場に姿を表した。
「お待ちしておりました」
一村さんが社長を出迎える。遅れたことへの謝罪は一切せず、社長は工場の中を見渡した。
「新型機械で作った部品と、中卒連中が作った部品を見せろ」
社長の乱暴な物言いに、一村さんが固まる。近くで見ていた俺も、偉そうな口ぶりに驚いて目を丸くした。
「早くしろ。俺はお前らと違って、忙しいんだよ」
矢沢社長は苛立ちを隠さず、一村さんに詰め寄る。一村さんは慌てて2つの部品を用意し、社長に見せた。
「この2つの何が違うんだ? 取引先は適当なことを言ってるんじゃないのか」
そう言いながら、社長は一村さんを睨みつける。
「あの取引先とは長い付き合いがあるんだってな。お前が何か吹き込んだんじゃないのか」
「え、いえ、そんなことは」
動揺のあまり声を震わせる一村さんに、矢沢社長は鼻で笑って返した。
「学歴の低い連中の言うことなんて、信用できないな。お前らは妙なところで頭が回るからな。前の社長もそうだった。高卒のくせに、偉そうに会社を仕切りやがって」
社長の目には、前社長に対する憎しみの感情が滲んでいる。2人が不仲だというのは、社員全員が知っている事実だ。矢沢社長は、前社長の打ち立てた方針を全て変えようとしている。それほど前社長を恨んでいるのだ。
「そうそう。今日来たのは部品の確認もあるが、この前決まった新しい決定を伝えるのもあったんだ」
「新しい決定ですか?」
嫌な予感を察したのか、一村さんが青白い顔で社長に問いかける。その反応がお気に召したのか、矢沢社長は口元を歪めつつ、とんでもないことを宣言した。
「今後、エリート大卒の新卒のボーナスは100万円と決まった。中卒はボーナスなしだ。高卒は1万円だけやるよ」
俺と一村さんは言葉を失った。社長の言葉があまりにも信じられなかったからだ。
「学歴で社員に差をつけるんですか?」
先に我に返って反論したのは、一村さんだ。先ほどまで青白かった顔は、今は違う。社長の傲慢さに対する怒りで、わずかに赤くなっていた。
「学歴は重要だ。中卒のお前には理解できないだろうな。低学歴の人間ができる仕事なんて、高が知れてる」
「じゃあ、取引先との一件はどう説明するおつもりですか?」
一村さんの反論に、社長の表情が固まった。
「大卒の社員が機械で作った部品は、取引先の怒りを買うレベルの不良品でしたよ。でも、俺たち中卒の社員が作った部品に戻したら、取引先からのクレームはなくなりました。これは、お前が取引先に妙なことを吹き込んだんじゃないのか」
「証拠もない言いがかりはやめてください。俺も部下も、そんなことはしていません。これは機械と俺たちの腕の差です。その事実を無視して学歴でレッテルを貼り続けていたら、いずれ社長の首を絞めることになりますよ」
次の瞬間、社長が一村さんを突き飛ばした。
「何をするんですか!」
俺はとっさに2人の間に割って入り、社長を睨みつけた。
「お前も俺に逆らう気か」
「口より先に手が出るようじゃ、社長の器ではないですね」
ついカッとなって言い返すと、社長が工場中に響き渡る怒鳴り声をあげた。
「低学歴のくせに、エリートの俺に生意気な口を聞きやがって。お前は首だ。お前みたいなゴミがいるから、この工場はいつまでも三流のままなんだよ」
口汚く俺を罵る矢沢社長を見ていたら、一気に頭が冷静になった。こんな最低な人間と言い合いをするのは、時間の無駄だ。
「そうですか。わかりました。では、今日でやめます」
「お、おい、長岡!」
一村さんが止めようとするが、俺は首を横に振って答えた。
「こんな人の下で働きたくありません」
「上等だ。生活に困って路頭に迷え。退職届は今すぐ出せよ。いいな」
そう言い捨てて、矢沢社長は工場を後にした。
「長岡さん……」
少し離れたところで様子を見ていた仲間たちが、徐々に集まってくる。
「ごめん、みんな。一村さんも、申し訳ありません。売り言葉に買い言葉で、あんなことを言ってしまって」
頭を下げつつ、俺は改めて宣言した。
「しかし、一度口にしたことは撤回しません。俺は今日でこの会社をやめます」
一村さんは俺をまっすぐ見つめる。小さくため息をついた後、あることを口にした。
「俺に考えがあるんだが」
そして、この後、俺の予想していなかったことが起こる。
退職宣言から3日後。俺はある場所に赴き、慌ただしく用事を済ませていた。退職届はすでに一村さんに提出してある。残った有給を使い、1ヶ月後に退職することが決まった。
用事が一段落してトイレに向かったタイミングで、ポケットに入れていたスマホが震える。着信を知らせるが、ずっと止まらなかったので画面を確認すると、本社の番号が表示されていた。
しかし、今は電話に出る余裕はない。電源を切って、スマホをポケットにしまい直した。
それから2時間後、ようやく用事を終え、スマホの電源を入れる。
「うわっ」
思わず驚きの声が出てしまったのは仕方ないだろう。着信が200件を超えていたからだ。全て本社からの電話だった。
一体何の用だと考えている間にも、本社から電話がかかってくる。しつこい着信に若干の恐怖を抱きつつ、無視もできないので通話開始ボタンを押した。
「もしもし」
「ようやく電話に出たな。今どこにいる? そこに一村はいるか?」
聞こえてきたのは、矢沢社長の声だ。鬼電の犯人は社長だったらしい。
「あの、どうされたんですか?」
慌てた様子の社長とは対象的に、俺は冷静に問いかける。すると、こんな答えが返ってきた。
「やめるのはお前だけじゃなかったのか? なんで一村は、自分を入れた25人分の退職届を持ってきたんだ」
「ああ、そのことですか」
俺は冷静さを保ったまま、何も知らない社長にある事実を教えてやった。
3日前、退職を決意した俺に、一村さんはこんなことを言ってきた。
「会社を去るなら、俺がいい転職先を紹介してやるよ。よくしてもらっている取引先や知り合いが務めている会社を、いくつか紹介できる」
「本当ですか?」
驚く俺に頷いて返した一村さんは、周りに集まっていた社員たちにもこう言った。
「他にもやめたい奴がいるなら、俺が面倒見てやるよ。というか、俺もやめるつもりだ。この工場に残ってもいいことないぞ。今こそ会社に見切りをつけるタイミングだ」
突然飛び出した驚きの発言に、俺も他の社員も目を丸くする。
一村さんは表に出さないだけで、矢沢社長の傲慢さに心底呆れていたらしい。水面下で転職活動の準備を進めていたと、この時に初めて明かした。
「お前らの仕事の能力は俺がよく知ってる。能力に合う会社を紹介するぞ。どうだ?」
断る人は誰もいなかった。俺と中卒の社員23人は、その場で全員転職を決意する。そして、俺の退職届と合わせて一村さんに預けたのだ。一村さんは今日、それを本社に届けると言っていた。矢沢社長は退職届を受け取り、慌てて電話してきたのだろう。
「そ、そんな……」
俺から事情を聞いた社長が、泣きそうな声をあげる。
「今まで電話に出られなかったのは申し訳ありません。今日は転職先に挨拶をしていて、忙しかったんですよ」
社長の相手をしている暇はない。そう伝えたつもりだったが、一斉退職というとんでもない事態を前にして、社長はよほど焦っているようだ。俺に八つ当たりするように、苛立ちと困惑の混じった声でこんなことを口にした。
「あの野郎、退職届を人事に出した後はさっさと帰りやがって、電話をかけても出なかったんだよ」
会社に登録されている連絡先の名簿は、一村さんの次に副工場長の俺が記載されている。社長は名簿の順番に電話をかけていたのだろう。社長の喚き声をこれ以上聞きたくなかった俺は、改めて事実を突きつけた。
「ちなみに、一村さんの紹介で全員無事に転職先が決まりそうですよ。中卒の社員以外の人たちも、おそらく退職するでしょう。これだけ一気に退職したら、工場が回りませんからね。残ってもロクなことにならないと、工場の人たちは全員分かってますよ」
本社から派遣された大卒の社員たちには伝えていない。あの人たちは本社に戻ることができる。わざわざ転職を持ちかける必要はないだろう。
「中卒連中が転職できるはずないだろう。嘘を言うな」
「大手の自動車部品工場に勤めているので、経歴と経験は十分です。矢沢社長は学歴にやたらとこだわっていますけど、他の会社はそうでもないんですよ」
そう言った瞬間、電話が突然切れてしまった。
「よほど慌ててるみたいだな」
そう呟いて、俺はスマホをポケットにしまった。
それから1週間後。俺は本社の会議室にやってきた。矢沢社長を始め、役員たちが勢揃いしている。俺の横には一村さんが座っていて、後ろには退職届を提出した中卒社員たちがいた。
俺たちは今日、矢沢社長と役員たちに呼び出されたのだ。すでに退職届を提出しているが、呼び出しを無視することはできない。
もし嫌味を言われたら倍にして返してやろうと身構えていると、矢沢社長が突然頭を下げたではないか。
「すまなかった」
よく見ると、矢沢社長の顔は少し見ない間にやつれていた。そんな社長を、他の役員たちは冷めた目で見ている。
「君たちから退職届を受け取った後、急いで人員を募集したが、全然人が集まらなかったんだ」
代わりに役員の1人が説明をしたが、一村さんが呆れた様子で口を開く。
「あんな低い給料じゃ、誰も来ませんよ。時給換算で最低賃金以下です」
「だ、頼む。退職は考え直してくれないか?」
社長が懇願するような声を俺たちに向けるが、誰も頷かない。
「俺たちは会社に見切りをつけています。これ以上、あなたの元で働きたくないんですよ」
全員を代表して、俺が素直な気持ちを社長に伝える。
「学歴で社員を値踏みする会社なんて、中卒や高卒の人たちにとって地獄でしかありません。そんなところで働き続けたいと思うはずがないですよね」
「待遇は見直す。ボーナスもちゃんと出すから」
「戻った途端、同じことを繰り返さない保証はどこにもないですよね」
その場しのぎの発言を、俺は即座に封じた。
「新型機械も定着していないのに、工場は閉鎖するしかないでしょう。これは前社長が守ってきた学歴不問の方針を踏みにじった、社長自身の責任ですよ」
社長の口から、短い呼吸が聞こえてくる。
「ど、どうして、こんなことに……」
後悔に満ちた呟きを、全員が冷めた目で見ていた。
退職して2ヶ月後、一村さんから電話がかかってきた。
「工場は結局、人員が確保できるまで閉鎖が決まったらしい。残っていた高卒の社員から聞いた話だ。その社員も含め、工場にいた人たちは全員転職済みだ。生産率が落ちて業界中に噂が広まり、会社の評判もがた落ちらしいぞ。矢沢社長は責任を追求され、会長の上、自主退職という形で会社を追われたと後で聞いた。悪評が広がって、家に引きこもってるらしいぞ」
「自業自得ですね」
そう返した俺に、一村さんは笑いながら言った。
「それで本題なんだけど、みんなでお祝いの飲み会をやろう。来月はどうだ?」
「いいですね。店の候補を考えておきますよ」
俺たちは全員、新しい職場で再出発をしている。仲間たちとの再会を楽しみにしながら、俺は今日も誇りを持って働いている。



