「お母さんは他人だから、写真に入らなくていいです」
とみの言葉が、孫の晴れ姿を祝う私の心に、冷たい刃のように突き刺さった。神社の記念撮影で、カメラマンがご家族の皆様でどうぞと声をかけた瞬間のことだった。
私は孫の成長を喜ぶ気持ちで胸がいっぱいだった。なのに、その一言で全てが凍りついた。
「母さんは外で待っててよ」
息子の秀までもが、当然のように私を押しのけた。りこが「おばあちゃんも一緒に!」と手を伸ばしかけた時、とみがその小さな手を引き戻した。
周囲の参拝客の視線が痛い。私は静かに微笑み、一歩後ろに下がった。心の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じながら、息子夫婦と孫、そしてとみの両親が仲良く並んで写真に収まる姿を見つめていた。
私はまるで、最初から存在しなかったかのようだった。
あの屈辱を胸に刻みながら、私は過去を振り返っていた。秀が大学に進学する時、夫と二人で必死に働いたことを思い出す。看護師として夜勤を重ね、夫は体を壊しながら工場で残業を続けた。学費は総額で八百五十万円。どんなに辛くても、秀の将来のためだと、夫婦で支え合って乗り越えたのだ。
十年前、夫が病気で亡くなった後も、私は息子を支え続けた。結婚式の費用三百万円も、夫が残してくれた保険金から全額負担した。
「お母さんのおかげで、素晴らしい式ができました」
涙を流しながら感謝していた秀の姿が、今でも鮮明に思い出される。
それなのに今は、「うちの親とは違うから、外の人でしょ」という言葉が、とみの口から平然と出てくる。とみの両親は家族として大切にされ、私は他人扱いだ。
三十九年間、看護師として人を救い続け、家族のために全てを捧げてきた私の人生は、一体何だったのか。夫と一緒に築いてきた家族の絆が、こんなにも簡単に否定されるなんて。
私の心に、静かな怒りが芽生え始めていた。
写真撮影が終わった後、私たちは会食会場へと移動した。料亭の個室に入ると、とみがすぐに席の指示を始めた。
「お母さんは、そちらの端の席でお願いします」
上座にはとみの両親が案内され、私は末席に追いやられた。まるで招かれざる客のような扱いに、胸が締め付けられる。
「りこちゃん、こっちにいらっしゃい」
とみの母親が孫を手招きすると、りこは嬉しそうに駆け寄った。
「おばあちゃんと一緒に座りたい」
りこが私の方を振り返って言った。その純粋な瞳に、私は思わず微笑んだ。
「りこ、向こうのおばあちゃんは忙しいから、こっちで一緒に食べましょうね」
とみが素早くりこの手を引き、私から引き離した。
「でも、しずえおばあちゃんも!」
「りこ、まだまま言わないの」
とみの強い口調に、りこは黙ってしまった。私は何も言えず、ただ遠くから孫の姿を見つめるしかなかった。
料理が運ばれてくると、とみの父親が大きな声で話し始めた。
「いや、孫の成長は早いものですな。うちの娘も良い家に嫁いで安心です」
「本当にそうですね。秀樹君のような立派な方をもらえて」
とみの母親も愛想を振りまく。まるで私が存在していないかのような会話が続いていた。秀はとみの両親に気を遣い、お酒を注いで回っている。私のグラスは空のままだ。
「お母さん、あの……」
ようやくとみが私に声をかけたかと思えば、それはお祝い金の催促だった。私は用意していた祝儀袋を取り出した。十万円。決して少なくない金額だと思っていた。
とみは袋を受け取ると、その場で中を確認し始めた。
「えっ、十万円ですか?」
その声には、明らかな不満が込められていた。
「うちの両親は三十万円包んでくれたんですけどね」
周囲の空気が凍りついた。
「とみ、そんなこと言うものじゃない」
秀が小声で注意したが、その表情にも不満が見えた。
「でも秀樹さん、普通は同じくらい包むものじゃないの?」
とみの母親まで口を挟んできた。
「そうですよ。孫の晴れの日なんですから、ケチケチしないで」
とみの父親の言葉に、私は言葉を失った。三十九年間、看護師として働き続け、夜勤明けの疲れた体で息子の学費を工面し、夫の死後も一人で頑張ってきた私が、ケチだと言われるなんて。
「お母さん、追加でもう少しいただけませんか? せめて二十万円くらいは」
とみが遠慮なく言った。
「とみさん、私は年金暮らしで……」
「あら、看護師だったんでしょう。退職金もあったはずですよね」
とみの探るような視線が突き刺さる。秀も黙って見ているだけで、何も言わなかった。むしろ、とみに同調するような表情さえ浮かべていた。
会食が進むにつれ、私への扱いはさらにひどくなっていった。料理の説明も私だけ飛ばされ、記念品の配布も最後。写真撮影の時も「お母さんは結構です」と言われた。りこが私のところに来ようとするたびに、とみかとみの母親が引き止める。
「しずえおばあちゃんと遊びたい」
「りこちゃん、あちらのおばあちゃんは疲れているから、こっちで遊びましょう」
孫との触れ合いさえ奪われ、私はただ座っているだけの存在になっていた。
会食の終盤、秀がようやく私のところにやってきた。
「母さん、今日はありがとう」
少しは息子の優しさが戻ってきたのかと思ったが、続く言葉に愕然とした。
「でも正直、母さんがいると、とみの両親も気を遣うし、雰囲気が重くなるんだよね」
「秀、私はあなたの母親よ」
「分かってるよ。でも、もう少し空気を読んで欲しいんだ」
空気を読む。息子の口から出たその言葉が、私の心に深く突き刺さった。
会食が終わり、皆が店の外に出た時、とみが私に近づいてきた。
「お母さん、ちょっとお話があるんですけど」
その表情には、いつもの作り笑いさえなかった。
「何かしら」
「率直に言いますけど、お母さんの遺産って、いくらくらいあるんですか?」
突然の質問に、私は息を飲んだ。
「とみさん、それは……」
「だって考えてみてください。看護師の給料なんて知れてるでしょう。退職金だって大したことないはずです」
とみの言葉は容赦なく続いた。
「正直言って、お母さんの遺産なんて期待できませんよね。せいぜい百万円程度でしょう」
秀がとみの隣に立ち、口を開いた。
「母さん、とみの言い方は悪いけど、現実的な話なんだ」
息子までもが、そんなことを言い出すなんて。
「僕たちも将来設計があるし、りこの教育費も必要だ。でも、母さんの財産なんて期待してないよ」
期待してない。その言葉が、軽蔑を含んでいるように聞こえた。
「看護師の退職金なんて、せいぜい一千万円くらいでしょう。もうほとんど使っちゃったんじゃないですか」
とみが探るような目で私を見つめる。
「それに、この先の介護費用とか考えたら、私たちに残るものなんてないですよね」
秀も頷いた。
「そうだよ、母さん。だから僕たちは自分たちで頑張るしかない」
まるで私が彼らの重荷であるかのような言い方だった。
とみの両親も近づいてきて、会話に加わった。
「まあ、小野寺さんも大変ですわね。一人暮らしで、財産もあまりないなんて」
とみの母親の哀れむような視線が痛かった。
「うちは違いますよ。娘夫婦には、しっかりと財産を残してやるつもりです」
とみの父親が誇らしげに言った。
「土地も株も、全部とみたちに譲るつもりだ。孫の将来のためにもね」
「お父様、お母様、ありがとうございます」
秀がとみの両親に深々と頭を下げた。私の息子が、他人の親に媚びへつらう姿を見るのは、本当に辛いものだった。
「それに比べて、お母さんは……」
とみが言いかけた時、りこが私のところに走ってきた。
「しずえおばあちゃん、また遊びに来てもいい?」
「もちろんよ、りこちゃん」
私がりこの頭を撫でようとした瞬間、とみがりこを引き離した。
「りこ、もうおばあちゃんのところには行かなくていいから」
「どうして?」
「おばあちゃんは忙しいの」
そしてとみは私を見て、冷たく言い放った。
「正直言って、もう孫の行事には来なくていいです」
その言葉に、私は凍りついた。
「とみさん、それはあまりにも……」
「迷惑なんです。お母さんがいると、うちの両親も気を使うし、写真も撮りにくいし」
秀も黙って頷いている。
「母さん、とみの言うことも一理ある。これからは少し距離を置いた方がいいかもしれない」
距離を置く。私はりこの祖母よ。
「血は繋がってても、家族じゃないでしょう」
とみの言葉が、鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。
「母さんは母さんで、自分の生活を楽しんでよ。僕たちは僕たちで、とみの両親と家族として過ごすから」
秀の言葉に、私は言葉を失った。
「それに、お母さんの老後の面倒なんて、私たちには見られませんから」
とみは顔に誘いをかけるように言った。
「施設にでも入ってもらうしかないですね。もちろん費用は自分で何とかしてくださいね」
「そうだな。母さんも一人の方が気楽でしょ」
秀が他人事のように言った。とみの両親も満足そうに頷いている。
「それが一番いいでしょう。お互いのためにも」
私は震える声で言った。
「本当にそれでいいの? お父さんと私が、どれだけあなたのために……」
「昔の話はもういいよ、母さん」
秀が私の言葉を遮った。
「親なら子供のために尽くすのは当たり前でしょ。それをいちいち恩に着せないでよ」
恩に着せる。まさか息子の口から、そんな言葉を聞くことになるとは。
「とにかく、もう家族ごっこは終わりです」
とみが最後通告のように言った。
「お母さんは他人として、適切な距離を保ってください。もう、あなたの顔も見たくありません」
私はただ、立ち尽くすしかなかった。三十九年間の献身が、夫と共に築いた家族が、全て否定された瞬間だった。
「分かりました」
私は静かに微笑みながら、そう答えた。とみも秀も、そしてとみの両親も、私の反応に少し戸惑ったような表情を見せた。
「泣いたり、すがったりしないんですか?」
とみが不思議そうに聞いてきた。
「いいえ。あなたたちの気持ちは、よく分かりましたから」
私の落ち着いた態度に、秀は不安を覚えたようだった。
「母さん、本当に大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。他人は他人らしく、距離を置きますね」
私はもう一度微笑みを浮かべ、その場を立ち去った。
「しずえおばあちゃん!」
りこが追いかけようとしたが、とみに引き止められた。その小さな声を背中で聞きながら、私は歩き続けた。
タクシーに乗り込み、自宅へと向かう車中で、私は深く息を吸い込んだ。悲しみも怒りも、全てを胸の奥深くに沈めて、ある決意を固めていた。
家に着くと、私はまず書斎に向かった。亡き夫が大切に保管していた金庫を開け、中から数枚の書類を取り出した。不動産の権利書、銀行の通帳、証券口座の明細書。そして、最も重要な一枚の書類——秀の家の土地と建物の名義が、実は私になっていることを示す登記簿だった。
十年前、夫が亡くなる直前に言った言葉を思い出す。
「しずえ、この家と土地はお前の名義にしておいた。息子夫婦には言うな。もしもの時の、お前の切り札になるから」
当時はなぜそんなことを、と思ったが、今になって夫の先見の明に感謝した。
私は携帯電話を取り出し、長年お世話になっている弁護士の番号を押した。
「和田先生、お久しぶりです。小野寺です」
「ああ、小野寺さん、どうされました?」
「実はご相談したいことがありまして、明日お時間をいただけませんか?」
「もちろんです。何か深刻な問題ですか?」
「ええ、全ての財産関係を整理したいんです」
電話を切ると、次に銀行の担当者に連絡を取り、投資信託と定期の解約を依頼した。
実は私の資産は、息子たちが想像しているよりも、はるかに多かった。看護師として三十九年間働き続けた給料と退職金、夫の生命保険金三千万円。そして夫が残してくれた株式投資。それらを慎重に運用した結果、現在の総資産は三億円を超えていた。質素な生活を続けていたため、誰もそんな財産があるとは思わなかっただろう。
「明日、全て清算します」
私は鏡に映る自分に向かって、静かに宣言した。
夜、仏壇の前に座り、夫の遺影に手を合わせた。
「あなた、秀は変わってしまいました。でも、これも運命なのでしょうね」
遺影の夫が、優しく微笑んでいるように見えた。
「私は私の人生を生きます。もう誰かのために犠牲になることはしません」
長い間、子のため、家族のためと思って生きてきた。でも、それは本当に正しかったのだろうか。私自身の幸せを、ずっと後回しにしてきたのではないだろうか。
書類を整理しながら、私は明日の計画を立てた。秀が名義になっていると思い込んでいる家と土地の件を明らかにすること。次に、全ての財産を私個人の管理下に置くこと。そして、新しい人生を始めること。
「他人として扱われるなら、他人らしく振る舞いましょう」
私は静かにつぶやいた。
夜が更けても、私は眠れなかった。三十九年間の看護師人生で培った冷静さが、今の私を支えていた。患者の生死に関わる場面で常に冷静な判断を求められてきた経験が、今この瞬間にも生きていた。
明日、息子夫婦に送る内容証明郵便の文面を考えた。法的に問題のない、しかし決定的な内容。それは私の人生を取り戻すための第一歩となるはずだ。
深夜二時、私はようやくペンを置いた。全ての準備は整った。
「さあ、明日から新しい人生の始まりです」
窓の外には静かな月明かりが差し込んでいた。その光は、まるで私の決意を祝福しているかのようだった。
翌日、私は口座を解約するため銀行へ行った。
「小野寺様、全ての手続きが完了しました」
担当者が丁寧に説明してくれた。
「定期預金と投資信託の解約で二億八千万円。株式の評価額が二千万円。合計で三億円ですね」
「ありがとうございます。全額、私個人の新しい口座に移してください」
「承知いたしました。それにしても、お見事な資産運用でしたね」
担当者の言葉に、私は静かに微笑んだ。夫が残してくれた資産を、コツコツと運用してきた成果だった。
その足で、和田弁護士に用意してもらった書類と、私からの手紙を同封し、内容証明郵便を送った。明日の朝には、息子夫婦の家に着くことだろう。
翌朝、郵便配達員が秀の家のインターホンを鳴らした。
「内容証明郵便です。ご本人様の受け取りをお願いします」
「内容証明?」
秀が不審に思いながら封筒を受け取り、中を開けた。
「贈与の撤回及び不動産明け渡し通知書」
その文字を見た瞬間、秀の顔が青ざめた。
「とみ、大変だ!」
慌てた様子の秀に、とみが駆け寄ってきた。
「何よ、朝から騒いで。何?」
「こ、これを見てくれ」
とみが書類を読み進めるうちに、その顔色も変わっていった。
「これ、どういうこと? この家と土地が、お母さんの名義ですって?」
「そんなはずはない。この家は僕たちの……」
秀は慌てて書類を確認した。そこには紛れもなく不動産登記簿のコピーが添付されており、所有者欄には「小野寺しずえ」の名前がはっきりと記載されていた。
「お母さんが所有者? いつから?」
「十年前。父さんが亡くなった時からみたいだ」
書類にはこう記されていた。
「私は私の所有する不動産に無償で居住させていましたが、昨日の面会での発言により、家族関係は存在しないことが明確になりました。つきましては、他人である貴殿に無償で不動産を使用させる理由はありません。本書面到達後、三ヶ月以内に当該不動産から退去していただきます」
「退去? 冗談でしょう!」
とみが悲鳴のような声を上げた。
「すぐに母さんに電話だ!」
秀が慌てて母に電話をかけたが、繋がらなかった。
「留守電になってる」
その時、もう一通の書類が目に入った。
「なお、これまでの十年間の賃料相当額として、月額十五万円×百二十ヶ月=千八百万円の支払いを求めます」
「千八百万円!」
とみが絶叫した。
「これはおかしいわよ。お母さんにこんな権利はないはず」
しかし、添付された書類は全て本物だった。弁護士の署名もあり、法的に完璧な内容だった。
さらに秀は、私からの手紙に気づいた。
「退職金、夫の保険金、夫が残してくれた株式投資。それらを合わせて、私の財産は三億円ほどあります」
「嘘だ。母さんの財産が、三億円?」
秀は思ってもいなかった母の手紙の内容に驚愕した。
秀の家はパニック状態になっていた。
「どうするのよ。家を追い出されるなんて!」
とみが秀を攻め立てる。
「まさか、お母さんの名義だったなんて」
秀は青い顔で書類を見つめていた。
「とにかく、母さんに会いに行こう!」
二人は慌てて私の家に向かった。インターホンを何度も鳴らしたが、私は不在だった。
「お母さん、開けてください! 話があります!」
秀が必死に叫んだが、返事はなかった。
実は私は、高級ホテルのスイートルームでゆったりと過ごしていた。今後の生活について、じっくりと考える時間が必要だったのだ。
携帯電話には、秀から何十件もの着信があった。メッセージも次々と届く。
「母さん、謝ります。話を聞いてください」
「家族じゃないなんて、本気で言ったわけじゃありません」
「お願いです。一度会ってください」
私は全てのメッセージを既読にせず、放置した。とみからもメッセージが来ていた。
「お母さん、昨日は言い過ぎました。謝ります。りこもおばあちゃんに会いたがっています」
今更、孫を使って哀訴しようとしても、遅いのだ。
夕方、秀たちはとみの両親の家に相談に行った。
「お父さん、お母さん、大変なんです!」
事情を聞いたとみの両親も、驚きを隠せなかった。
「三億円の資産? あの地味な看護師が? 信じられませんが、本当みたいです。それで、家を追い出されるって?」
とみの父親が唸った。
「なんて、白状な母親だ」
しかし、とみの母親は冷静だった。
「でも、あなたたちが他人扱いしたんでしょう」
とみも秀も、言葉に詰まった。
「自業自得ね」
とみの母親の言葉は、厳しいものだった。
その夜、秀から再び電話があった。今度は、私も出ることにした。
「母さん、やっと繋がった!」
「何かご用ですか?」
私の冷たい声に、秀が戸惑った。
「母さん、昨日のことは謝るよ。だから、家のことは……」
「秀樹さん、私たちは他人でしたよね」
「え?」
「他人に無償で家を貸す理由はありません」
「母さん、そんな……」
「それから、私の財産についてですが、あなたたちの期待通り、大したことないものですから。遺産なんて、期待しないでくださいね」
「三億円もあるくせに!」
秀が思わず叫んだ。
「大したことないと思っていたのは、あなたでしょ」
「母さん……」
「もう『母さん』と呼ばないでください。私たちは他人ですから」
「お願いします。考え直してください」
「考え直す? 私は静かに笑った。三十九年間、あなたのために生きてきた私の人生を、考え直す時が来たんです」
「りこはどうなるんですか?」
秀が最後の切り札を出してきた。
「りこちゃんには罪はありません。でも、あなたたちが合わせたくないと言ったんでしょ」
電話の向こうで、秀が言葉を失っているのが分かった。
それから一ヶ月が経った。秀夫婦は何度も私の家を尋ねてきた。
「お母さん、お願いします。開けてください!」
とみの必死な声が聞こえてくるが、私は応じなかった。
ある日、弁護士の和田先生から連絡があった。
「小野寺さん、息子さん夫婦が事務所に来られています。どうしても会いたいと」
「お断りください」
「分かりました。それと、家賃の件ですが、月十五万円では返したいと申し出ています」
「そうですか。でも、もう遅いんです」
私は高級老人ホームの入居手続きを進めていた。プール付き、レストラン完備、二十四時間体制の整った、まるでホテルのような施設だ。入居金は五千万円だったが、私には十分な資産があった。
「しずえさん、素敵なお部屋ですね」
同じフロアに住む女性が声をかけてくれた。
「ありがとうございます。やっと、自分のための人生を始められました」
その方も、似たような境遇だったそうだ。
「子供に尽くしても、結局は他人扱いされるものね」
「本当にそうですね」
私たちは微笑み合った。ここでは、同じような経験を持つ仲間がたくさんいた。皆、自分の人生を取り戻し、充実した毎日を送っている。
その頃、秀の家では深刻な状況が続いていた。
「どうするのよ。もう二ヶ月よ!」
とみが秀を攻め立てる。
「新しい家を探さないと。こんな広い家を借りたら、月三十万円はかかる。買うにしても頭金が……」
二人の関係も険悪になり始めていた。とみの両親も、以前のような援助はしてくれない。
「うちも限界があるから」
と、冷たく突き放された。
ある日、りこを連れた秀が、私の入居している施設を尋ねてきた。受付で面会を断られたが、偶然ロビーで会ってしまった。
「母さん……いや、お母様」
秀の憔悴した顔を見て、一瞬心が揺れた。でも、私は毅然としていた。
「しずえおばあちゃん!」
りこが駆け寄ってきた。
「りこちゃん、元気だった?」
「おばあちゃん、どうしていなくなっちゃったの?」
その無邪気な問いかけに、私は優しく答えた。
「おばあちゃんはね、新しいお家で幸せに暮らしているのよ」
「一緒に住めないの?」
「ごめんなさいね。でも、りこちゃんには他のおばあちゃんがいるでしょ」
りこは悲しそうな顔をした。
秀が土下座した。
「母さん、本当に申し訳ありませんでした。全て僕が悪かったんです。とみも反省しています。どうか、許してください」
周囲の人々が注目する中、私は静かに言った。
「秀樹さん、あなたは『親が子供に尽くすのは当たり前』と言いましたね。でも、子供が親を大切にすることも、当たり前だったはずです」
「はい……」
「あなたたちは、その当たり前を忘れてしまった」
秀は顔を上げることができなかった。
「家のことは、もう決定事項です。来月までに退去してください」
「せめて、もう少し時間を……」
「他人にそこまで配慮する必要はありません」
私はりこの頭を優しく撫でた。
「りこちゃん、おばあちゃんはりこちゃんのことが大好きよ。でも、お父さんとお母さんが決めたことだから、会えなくなってしまったの」
りこは理解できない様子だったが、私はそれ以上説明しなかった。
秀たちが帰った後、私は施設の庭園を散歩した。美しく手入れされた花が、優しく風に揺れている。
「しずえさん、大丈夫でしたか?」
先ほどの出来事を見ていた友人が、心配してくれた。
「ええ、大丈夫です。これで本当に終わりました」
私はすがすがしい気持ちだった。三十九年間の看護師生活で、多くの患者さんとその家族を見てきた。最後まで家族に大切にされる人、見捨てられる人。その違いは何だったのか、今ならよく分かる。
お互いを尊重し、感謝の気持ちを忘れない。そんな当たり前のことができるかどうかだったのだ。
夕食は施設のレストランで、友人たちと楽しく過ごした。
「しずえさんの決断は、正しかったと思うわ」
「自分の人生は自分で決める。それが一番大切」
皆の温かい言葉に、私は本当の家族のような絆を感じた。
その夜、部屋で夫の写真に語りかけた。
「あなた、私は間違っていなかったでしょう」
写真の夫は、いつもの優しい笑顔で見守ってくれているようだった。
「秀樹は、いつか分かってくれるでしょうか? でも、もうそれは私の問題ではありませんね」
私は新しい人生を歩み始めた。趣味の書道教室にも通い始め、若い頃からの夢だったカフェを開く準備もしている。毎日が充実していて、本当に幸せだ。
後日、風の便りで聞いたところによると、秀夫婦は小さなアパートに引っ越したそうだ。とみとの関係も悪化し、離婚の危機にあるとか。でも、それも彼らが選んだ道だ。人を軽く見たり、家族を他人扱いした結果。因果応報とは、まさにこのことだろう。
私は今、本当に自由で幸せだ。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。六十五歳にして、やっと本当の人生を始められた。これから先の人生も、きっと素晴らしいものになるだろう。私にはその確信がある。なぜなら、私には三億円という資産と、三十九年間培った看護師としての経験と知識。そして何より、自分を大切にする勇気を手に入れたのだから。



