朝の3時、俺はまだ暗いうちに目を覚ます。冷蔵倉庫から運ばれてきた発泡スチロールの箱を開け、氷の上からサバを一匹つまみ上げた。エラを開いて色を見る。身を指で押して跳ね返りを確かめる。目は濁っていないか、腹の針は、鱗の艶は。
この仕事を始めて10年になる。市場の連中は俺のことを「魚博士」と呼ぶ。魚は嘘をつかない。鮮度が落ちれば教えてくれる。人間よりずっと正直だ。
その日の競りが一段落した頃、観光客の一団が市場に現れた。明るい黄色いパーカーを着た娘が、目を輝かせてヒラメの箱を覗き込んでいる。ポニーテールに健康そうな顔。二十歳前後だろうか。
「あの、すみません。この魚って何ですか?」
「ああ、それはヒラメだよ。今日は身がいい」
彼女は水原里と名乗った。大学のレポートで漁業の町を取材に来ているのだという。港の食堂で昼ごはんを食べるつもりだと聞いて、俺は港食堂の海鮮丼を勧めた。里は嬉しそうに頭を下げて、見学グループの方へ駆け戻っていった。
その日の昼過ぎ、氷の補充をしていると市場の外が騒がしくなった。走ってくる足音。誰かの叫び声。
「救急車だ! 救急車呼んでくれ! 食堂で女の子が倒れた!」
俺の手からスコップが滑り落ちた。頭の中で映像が組み上がる。黄色いパーカー。ポニーテール。水原里。俺は走り出していた。
食堂の入り口には人だかりができていた。人をかき分けて中に入ると、床に黄色いパーカーが倒れていた。顔は蒼白で、唇は紫色になりかけている。胸はわずかに上下しているだけだ。俺は膝をつき、頸動脈に指を当てた。脈は早くて弱い。皮膚には赤い発疹が浮き出ている。首筋にも腕にも、じんましんのような発疹が広がっていた。
アナフィラキシーだ。見た瞬間に分かった。食堂のテーブルには食べかけの海鮮丼が残っている。
「誰かAEDを持ってきてくれ! 市場の事務所にあるはずだ!」
若い男が叫んで駆け出した。俺は里の手首を取り脈を測りながら呼吸を観察した。明らかに弱くなっている。喉も腫れてきている。このままだと窒息する。
「親方、救急車はどのくらいで来ます?」
「15分はかかるって言ってた」
持たない。あと数分で気道が完全に塞がる。俺は唇を噛んだ。アドレナリンがあれば時間を稼げるが、ここには何もない。あるのは俺の二本の手だけだ。
AEDを抱えた男が戻ってきた。俺はパッドを貼りながら親方に声をかけた。
「親方、台所からよく切れる包丁を一本。それと、ボールペンの軸を抜いたものかストローでもいい。中が通る細い管が要ります」
「お前、何する気だ?」
「気管切開です。喉を開けて空気の通り道を作ります」
その場の空気が凍りついた。親方は俺の顔を見つめ、それから黙って厨房へ走った。俺は里の胸を軽く叩いた。意識はもうない。時間がない。
天婦の妻が、熱湯にくぐらせた包丁とボールペンの軸を持ってきた。俺はそれをもう一度アルコールで拭き、里の首筋に指を当てた。軟骨と輪状軟骨の間。そこを正確に押さえる。10年ぶりの感覚だった。
「親方、頭を押さえてください。動かないように」
皮膚が割れ、薄い膜を抜けた瞬間、シュッと空気の漏れる音がした。俺はボールペンの軸を切れ目に差し込み、口で軽く息を吹き込んだ。里の胸がゆっくりと膨らんだ。紫だった唇に、わずかに赤みが戻ってきた。
サイレンの音が遠くから近づいてきた。救急隊員が駆け込んでくる頃には、里の呼吸は安定していた。俺は処置の内容を簡潔に伝えた。
「アナフィラキシーショック推定です。気道確保のため緊急で輪状甲状膜を切開しました。ボールペンの軸で代用しています。アドレナリンとステロイドを早めに」
「失礼ですが、どちら様で?」
「市場の中買いです」
病院に着くと、医師が俺の応急処置を見て目を見開いた。
「これ、誰がやったんですか?」
「現場にいた市場の方が」
「素人がこんな切開できるわけないでしょ。位置も深さも出血のコントロールも完璧です」
数日後、里は後遺症もなく退院した。甲殻類のアレルギーで、本人も知らなかったらしい。親方を通じて両親から何度もお礼の電話がかかってきた。事件はそれで終わったはずだった。
ところが噂というのは妙な広がり方をする。あの医師が誰かに俺の話をしたらしい。市場には地元新聞の記者も来たが、俺は魚の話ならと笑って何も語らなかった。
その週末、家のポストに一通の封筒が入っていた。差出人を見て、俺は思わず動きを止めた。
青葉医学大学医学部同窓会事務局。
懐かしい文字だった。中を開けると案内が一枚と出席者のリストが入っていた。あの医師が俺の名前と顔を覚えていて、事務局に問い合わせたらしい。リストの一番上に見慣れた名前があった。
鈴木浩司。医学部教授、大学病院外科部長。
高校から大学まで同じ道を歩いた男だ。俺が「神の手」と呼ばれていた頃、彼は俺の半歩後ろを歩いていた。今は彼が俺の何倍も上の場所にいる。行く理由はない。俺はもう医者ではない。魚屋だ。
その夜、親方が珍しく俺の家を訪ねてきた。座敷に上がるなり、茶卓の上の案内状をちらりと見た。
「お前、医者だったのか?」
「昔の話です」
「行ってこい」
「親方?」
「けじめをつけるために行くんだ。お前、あの子を助けた時、嬉しそうな顔をしていたぞ。自分じゃ気づいてないだろうがな」
親方はそれだけ言って帰っていった。
二週間後、東京のホテルの宴会場。仕立てのいいスーツに身を包んだ男たちの笑い声が飛び交う中、俺は地味な背広を着て受付に名前を書いた。受付の同期が顔を上げて目を丸くした。
「原田か。お前、本当に来たのか?」
「呼ばれたんでね。ちょっと顔を出させてもらった」
会場に入ると壁際に寄って、ウーロン茶のグラスを手に取った。俺の名前は原田誠。かつてこの東京でメスを握っていた男だ。
ある手術で、俺は患者を救えなかった。助かるはずの命だった。判断ミスではなく、病院側の機材トラブルだった。それでも俺は責任を一人で背負い、白衣を脱いだ。誰にも何も言わずに、消えるように東京を出た。
「原田じゃないか」
背後からよく通る声がした。振り向くと鈴木浩司が立っていた。仕立てのいいネイビーのスーツ。胸には大学病院のバッジ。目つきは昔より鋭くなっていた。
「久しぶりだな。十年ぶりか」
「ああ。元気そうで何よりだ」
「今の仕事のことは聞いたぞ。魚屋だってな」
鈴木は笑った。周りにいた数人も釣られて笑った。
「もったいないよな。あの神の手が魚屋とは。今からでも遅くないぞ。うちの病院で雑用くらいなら世話してやってもいい。お前の腕、錆びついてるだろうけどな」
また笑い声が起きた。俺は鈴木の顔を見て、薄く微笑んだ。
「ありがたい話だけど、俺はもう市場の人間だ。鈴木、出世したんだな。良かったじゃないか」
「うん。お前と違って、現場で戦い続けた結果だよ」
鈴木は俺の肩を軽く叩いて、別の輪へ歩いていった。不思議と腹は立たなかった。昔の俺なら言い返していたかもしれない。今はもうどうでもよかった。
午後九時を回った頃だった。鈴木の胸ポケットでPHSが鳴った。
「はい。鈴木。なんだ? 交通事故? 今すぐか。分かった。すぐ戻る」
鈴木の顔色が変わっていた。彼は周りの同期に緊急が入ったと告げて足早に出ようとした。だがその途中で立ち止まり、何かを思い出したように振り返った。
「原田、お前、暇だろ? 一緒に来い」
「俺に何ができる」
「見学だよ。昔の腕がどのくらい鈍ったか、見てやるよ」
タクシーの中、鈴木は無言でPHSを握りしめていた。普段の余裕は消えて、額に汗が滲んでいる。大学病院に着くと、廊下を走る看護師たちの姿があった。鈴木が会議室の扉を開けると、モニターにCT画像が映し出されていた。
「部長、患者は22歳の男性。バイク事故です。血圧が落ち続けています。アプローチが難しい」
「部位は分かってる。俺がやる」
鈴木は手早くガウンに袖を通した。俺は壁際でその様子を見ていた。手術室の扉の前まで連れて行かれ、ガラス越しに手術台の上の若者を見た。三十分後、手術室の中の空気が変わっていた。
鈴木のメスは正確だった。だが損傷の場所が悪すぎた。血管の裏側に潜り込んだ裂傷に、彼の手は届かない。出血が止まらない。
「くそ。視野が取れない。誰かもっと吸引機を」
「部長、血圧60切りました。このままだとあと十分もちません」
鈴木の手が止まった。額から汗が滴り落ちる。俺は手術室の扉に手をかけた。脇にいた看護師が声を出した。
「あの、関係者の方でしょうか?」
「原田です。鈴木部長の同期で、元外科医です。手を貸させてください」
鈴木が俺を見た。
「入れ、原田。入ってくれ」
俺はガウンを着て、手を洗った。十年ぶりの消毒液の匂い。手術台に立った瞬間、視界がすっと開けた。出血点が見えた。動脈の枝が一本避けている。普通のアプローチでは届かない場所だ。
「鈴木、頭側に持ち上げてくれ。一気にだ。俺が裏から血管をクランプする」
「お前、本気か? 指が届くのか?」
「間に合わせる」
鈴木が持ち上げた瞬間、俺の指が一気に裏側へ滑り込んだ。避けた血管の根元を指の腹で抑える。出血が止まった。
「血圧、戻ってきました。70、80。安定しています」
俺は鈴木に視線を送った。彼は黙って縫合糸を手に取った。俺が血管を抑えている間、鈴木が確実に縫合していく。手術が終わったのは深夜二時を回った頃だった。
手術室を出ると、廊下のベンチに鈴木が腰を下ろしていた。両手で顔を覆っている。俺は隣に座って何も言わなかった。しばらくして、鈴木が顔を上げた。
「原田、お前、なんで医者をやめた?」
「もういいじゃないか。済んだ話だ」
「俺はお前に勝ちたかった。ずっとだ。お前が消えてからも、心のどこかでお前と比べて生きてきた。今夜よく分かった。俺はお前の足元にも及んでない」
鈴木の声が震えていた。俺は彼の肩を軽く叩いた。
「鈴木。お前は今夜最後まで諦めなかった。俺を呼んだのもお前の判断だ。あの子はお前が救ったんだよ」
「戻ってこないか。こっちに」
「ありがとう。でも俺の居場所はもう港にあるんだ」
鈴木はそれ以上何も言わなかった。俺は立ち上がり、廊下を歩き出した。窓の外が白み始めていた。
始発の新幹線で港町へ戻った。塩の匂いが肺の奥まで満ちてくる。市場の入り口で、親方がタバコを加えて立っていた。
「けじめはついたか?」
「ええ。おかげ様で」
「うん。なら今日もサバを見てもらおうか。氷の締めが甘いのが入ってる」
「分かりました。すぐ行きます」
俺はゴム前掛けを腰に巻き直して、発泡スチロールの箱の前にしゃがんだ。銀色に光るサバを一匹つまみ上げる。朝日が市場の屋根の隙間から差し込んできた。
塩風が頬を撫でて通り過ぎていった。



