研修から戻って出社したその瞬間、部長がニヤニヤしながら言った。「おい、やめる人間がこんなところで何してるんだよ」。俺はやめるつもりなんてない。そう答えると、彼は俺の名前が書かれた退職届を突きつけてきた。しかも社長の判まで押されている。こんな書類を書いた覚えはない。俺が作ったわけじゃないのは明らかだ。しかし、部長は「これは未来や」と笑うばかり。俺は「後悔しないでくださいね」とだけ言い残し、社長…

研修から戻って出社したその瞬間、部長がニヤニヤしながら言った。「おい、やめる人間がこんなところで何してるんだよ」。俺はやめるつもりなんてない。そう答えると、彼は俺の名前が書かれた退職届を突きつけてきた。しかも社長の判まで押されている。こんな書類を書いた覚えはない。俺が作ったわけじゃないのは明らかだ。しかし、部長は「これは未来や」と笑うばかり。俺は「後悔しないでくださいね」とだけ言い残し、社長...

研修旅行から戻って出社した瞬間、よりによって最初に顔を合わせたのは部長だった。「おい、やめる人間がこんなところで何してるんだよ」と、彼はニヤニヤしながら言った。

俺は「やめるつもりはありませんが」と答えたが、部長はさらに不気味な笑みを浮かべ、「これは未来や」と言って、一枚の書類を見せてきた。

そこには俺の名前が書かれた退職届があった。しかも社長の委環まで押されている。偽物ではないが、部長が何か細工して偽造したのは間違いない。俺はすぐに悟った。そうか、そういうことか。

「後悔しないでくださいね」

そう言い残して、俺は社長の元へ向かった。だが、部長はまったく分かっていなかった。これをきっかけに、自分の立場が危うくなるとは思いもせずに。

俺の名前は高部。32歳。大学を出てすぐに入社した保険会社で営業として働いて、今年で10年目になる。社長の橋本さんはとにかく優しい人で、その影響か社員同士の仲も良く、社内は穏やかな空気に包まれている。先輩も後輩も気持ちのいい人ばかりで、俺は楽しく仕事をさせてもらっていた。

だが、そんな職場にも気の合わない人間はいる。特に部長の北田さんとは、入社当時からとにかく相性が悪い。気が合わないというより、一方的に俺が目の敵にされている気がする。少しでもミスをすれば必要以上に叱られるし、大きな契約を取って帰ってきても嫌味を言われる始末だ。

「契約一つ結べたぐらいでそんなに喜べるとは、随分と目標が低いな」

こんな調子だ。しかし、同僚たちは一緒に喜んでくれたし、後輩たちは「さすがです」と持ち上げてくれた。社長も「お手柄だ」と褒めてくれたので、部長の嫌味など気にならなかった。

そんな風に部長のことは気に入らなかったが、他のみんながいい人ばかりなので、俺は概ね良好に仕事をしていた。そして入社10年目の今年、ついに契約件数で社内1位になることができた。

「高部君、見事だ。素晴らしいよ」

「ありがとうございます」

尊敬する社長から褒められたことが、とにかく嬉しかった。後輩たちも一緒に喜んでくれていた。

「これは特別にご褒美を上げないとな」

社長はそう言って、社長賞として特別ボーナスをくれると約束してくれた。

「いいんですか?」

「もちろん。こんな素晴らしい結果を出したのは高部君が初めてだ。これによって後輩たちのやる気にも繋がるだろう。遠慮なく受け取りなさい」

その日から後輩たちのやる気に火がつき、みんながより熱意を持って仕事をするようになった。俺が出した結果が会社全体の士気を上げたようで、そのことも嬉しかった。

しかし、みんなの士気が上がるのに比例して、部長からの嫌がらせはひどさを増していった。俺宛ての郵便物を渡さずにゴミに捨てられたり、契約先からの電話を「俺は留守だ」と嘘をついて取り次いでもらえなかったり、お客様のために作った見積もり書をシュレッダーにかけられたりもした。

「ちょっと、何てことするんですか?」

「すまん、すまん。つい間違っちゃってな。でもミスは誰にでもあることだろ」

抗議しても、こんな風にのらりくらりと避けられてしまう。さすがにうんざりするし、いちいち相手にするのにも疲れてしまう。しかし、部長に文句を言っても俺の成績が上がるわけではない。ここは自分がしっかりすべきだと、気持ちを入れ替えた。

契約先とは細かく約束の時刻を決め、連絡は確実につける。書類は記載事項を徹底的に確認し、処分も人に任せず全て自分で行い、保存しておく分は完璧に保管する。

そうしていたら、他の上司や社長、契約先からも「高部の仕事は確実で信頼できる」という評価をもらえるようになった。俺は部長からの嫌がらせを自分がより成長するチャンスだと前向きに捉え、もっと仕事に打ち込んだ。

そんなある日のことだった。

「研修旅行。契約トップの人間だけが行くことができる研修だ。うちからは高部君に行ってもらおうと思うんだが、どうだ?」

契約トップの人間が集まる研修なら、俺にとってもいい刺激になるし、たくさんのことを学べるだろう。

「是非行かせてください」

俺はすぐにそう返事をした。そして研修に行く前日。明日からの研修でどんな人たちに出会えるのだろうと楽しみにしていた。

「高部君、ちょっといいか?」

社長から呼び出され、明日からの研修のことかと思い社長室に向かった。

「この見積もり書、金額が明らかにおかしくないか?」

そう言って見せられた見積もり書は、俺が作成したものだった。

確かに金額が明らかにおかしい。掛け金に対して受け取り金額が多すぎる。よく見ると、見積もり書の受け取り金額の数字にゼロが一つ足りなかった。こんな馬鹿な見積もりはありえない。

部長の仕業だな。

そう思うが、それを社長に言っても仕方がないし、仕事も止まってしまう。

「確認不足でした。申し訳ありません。すぐに作り直します」

俺は社長に謝罪し、すぐに書類を直した。

「申し訳ありませんでした。もう一度確認していただけますか?」

直した見積もり書を社長に提出する。

「うん、確かに」

社長が頷く。

「しかしどうした?高部君らしくもない」

「申し訳ありません」

「高部君は明日から研修に行くんだろ?私が気がついたから良かったものの、このまま出していたら一大事だったぞ。次からは気をつけてくれよ」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

「分かればいい。明日からの研修、しっかり学んでくるんだぞ」

「はい。ありがとうございます」

社長はミスした人間にもちゃんと最後はフォローをする。やはり素晴らしい人柄の人だと思った。そして俺は次の日から研修旅行へ向かった。

2泊3日の研修。そこで出会う人たちはみんな素晴らしい能力を持つ人ばかりだった。普段会社で仕事をしているだけでは得られない情報や仕事の仕方、新しい考え方など、たくさん学ぶことができた。会社でトップになったからと言って、そのことに傲り気を抜いてはいけないなと、気持ちを引き締め直すこともできた。3日間とは思えないほど充実した時間を過ごした。

そして会社へと戻る日。

「おい、やめる人間がこんなところで何してるんだよ」

出社してすぐ、よりによって最初に顔を合わせたのは部長だった。ニヤニヤと笑いながらそう声をかけてくる。

「3日間の研修に行ってたんです。やめるわけじゃありません」

部下が研修に行っていたことすら知らないのかと、不愉快に思いながら返事を返す。しかし部長はより不気味に笑った。

「いやいや、これ見ろや」

そして何か書類を出してきた。

その書類は、俺の名前が書いてある退職届けだった。そこには社長の委環も押されていて、偽物でないのは確かだ。書類は偽物ではないが、部長が何か細工して偽造したのは間違いないだろう。こんな手段に出るこの男には、もはや嫌気が差す。

「後悔しないでくださいね」

俺はそう言い、ニヤニヤと笑う部長を置いて社長の元へ向かった。

「失礼します」

社長室のドアをノックし、中に入る。

「さあ、高部君、研修はどうだった?何か学びはあったかね?」

社長はいつもと変わらない様子でそう聞いてくる。

「いえ、その前に社長。俺が退職ってどういうことですか?」

「どういうことって?君が退職届けを出したんだろう?私はそれに承認しただけだが」

「俺はそんなもの出してません」

「どういうことだ?」

事情が掴みきれていない社長と、二人で情報の擦り合わせをしていく。

「退職届けが出されたのはいつですか?」

二人で日付を確認する。

「この日、俺は会社にいませんよ。研修旅行の真最中です」

「そうだ。だって私は北田君から退職届けを受け取ったんだから」

俺は「やっぱりか」と思い、うんざりする。

「その時、部長は何て?」

「北田君は、高部君は見積もりの失敗のことで落ち込んでいて、それに悩んで退職届けを出したと言っていたよ」

「どう言ったんですか?」

「ああ、『これから研修に行くのに私の顔を見るのは忍びないから、代わりに渡してくれ』と頼まれたんだと。ふざけた話だ。よくもまあ、そんな嘘を思いつくものだ」

「いや、私も君が退職なんておかしいと思ったんだが、それを聞いたら無理に引き止めるのも良くないと思ってな」

この社長の優しさに俺は何度も救われてきたので、ありがたいと思うと同時に、少し隙がありすぎるなとも感じる。

「その退職届けを見せてください」

社長が退職届けを持ってきた。

「こりゃひどいな」

思わずそうこぼす。筆跡が俺の書いた字と全く違う。単純に字が汚く、人が読むものだという意識が全く感じられない。それに何より、俺の名前の字が間違っていた。「高部」ではなく「高部」となっている。こんなお粗末な偽造文書を提出した部長には、もはや呆れてしまう。

「高部君、本当にすまん」

社長が頭を下げるので、慌てて止める。

「いえいえ、社長は悪くありません。お忙しくて気が回らなかったのでしょう。それよりも問題は、こんな偽物を提出した部長です」

「ああ、今すぐ呼び出す」

あの優しい社長が鋭い目つきをしてそう言った。そして部長が社長室へとやってくる。

「どうかしましたか?」

部長が悪びれた様子もなくそう言う。

「どうかしましたか、じゃないだろう。これはどういうことだ?」

鋭い目をした社長に厳しくそう言われ、部長は明らかに焦り出した。きっとこの優しい社長なら、適当な言い訳を並べれば言い逃れられるとでも思っていたのだろう。

「なぜこんな偽装をした?」

「偽装じゃなくて、それは高部君から『代理で書いておいてくれ』と言われて」

俺が目の前にいるのに、ありえない嘘を突き出した。

「俺がそんなこと言うはずないでしょう」

「いや、そうじゃなくて。高部君の同僚から『代理で書いておいてくれ』と私に伝えてくれと言われて。高部君から『代わりに出しておいてくれ』と頼まれたと言ったじゃないか。話が違うぞ」

「いや、それはその…」

「じゃあ、その同僚は誰かね?連れてきなさい」

「いや、それは…」

部長は言葉が出なくなっている。

「これ以上言い訳を続けたら、君の立場がより苦しくなるだけだぞ」

「すみません」

社長にとどめを刺され、部長は観念して自分のやったことを認めた。

「謝るのは私にじゃないだろう」

しかし部長は、俺への謝罪はしなかった。俺も社長も、部長のその態度にため息をついた。

「なぜこんなことをしたんだ?」

「だって、こんな会社に、もっと優秀な人材がいるのに」

部長が悔しそうにそう言う。

「どういう意味ですか?」

「こんな会社に、もっと優秀で仕事のできる人材がいます。なのに社長はこいつばかり評価するから」

「この優秀な社員とは、誰のことだ?」

「新人の渡辺という社員がいます。彼はとても優秀です」

「高部君、知ってるか?」

社長が俺にそう聞く。

「名前は聞いたことがありますが…」

しかし、その程度で特に仕事ができるとか優秀だとかいう噂はない。むしろ先輩である俺から挨拶をしても無視するような失礼な奴だし、仕事に対する学習意欲もない。俺が後輩に仕事を学ばせる意味も込めて手伝いを募った時も、みんなは手を貸してくれるが、渡辺だけは一人でサボっていたりする。

それに渡辺が契約を取ってきたという話も、一度も聞いたことがない。

部長のことは嫌いだが、なぜあんな奴を庇うのか不思議だったし、そこに何かあるかもしれないと思った。

「社長、渡辺も呼びましょう」

「そうだな。呼んで話を聞こう」

そして渡辺を呼び出す。

「何ですか?」

社長室に入ってきた渡辺は、明らかに不機嫌そうだった。相手は社長であるにも関わらず、面倒くさいと思っているのを隠そうとすらしない。その態度には、もはや呆れるを通り越して感心してしまう。

「北田部長は、君が不当に低く評価されていると言っているが、君自身もそう思うか?」

「そりゃそうですよ」

渡辺は当然のことのようにそう答える。

「だって、俺の方がその人よりも頭もいいし、学歴も高いですし。そんな人よりも俺の方がよっぽど仕事できますよ」

「その頭の良さで、仕事でどんな良い結果を出したんだ?」

「いや、それが間違いなんです。そもそも与えられる仕事がつまんない仕事ばっかりで、俺の能力に見合ってないんですよ。もっとやりがいのある仕事をくれないと」

俺が怒りそうになるのを、社長が止める。

「いいか?ここは学校じゃない。会社なんだ。ここでは仕事の結果が全てなんだ。会社を甘く見るなよ」

そう厳しい口調で言われた渡辺は、泣きそうな顔になりながら社長から目をそらした。

「君の学歴なんて関係ないんだよ。学生気分もいい加減にしたらどうだ」

そう詰め寄られた渡辺は、子供のように泣き出し、こう叫んだ。

「全部おじさんのせいだ。おじさんがちゃんと俺をサポートしてくれないから、俺の評価が低いんだ」

「全部俺に任せろなんて言ってたくせに。おじさん、お前バカ」

「それを言うな!」

部長がまた慌て出す。

「おい、どういうことだ?説明しろ」

「いや、あの…」

「お前、また嘘を重ねるのか?」

社長に詰め寄られ、部長が白状する。

「渡辺君は、俺のおいっこです」

社長は呆れた様子でため息をついた。

「自分の親戚だからと言って、不当な評価をするなんてありえん」

「申し訳ありません」

社長から一括された部長は、何度も謝罪し頭を下げている。その様子を見ているのは、正直気分が晴れる思いがした。

「お前も謝れ」

部長がそう促すが、渡辺は自分に原因はないと言わんばかりの態度を崩さず、謝罪も一度もしなかった。

「君たちの処分は追って決定するからな」

社長のその一言で、その日は終わった。

後日、社長は北田部長と渡辺を解雇した。俺の偽の退職届けは正式に取り消され、俺は北田の後釜として部長のポジションに着くことになった。

風の噂で聞いたが、部長と渡辺はその後、どこにも転職先が見つからず、結局二人ともアルバイトをしてなんとか生活しているらしい。人の優しさにつけ込み、自分の都合のいいように動かそうとしたバチが当たったのだろう。

あの部長がいなくなったことで、会社の雰囲気が明るくなり、みんなのモチベーションも上がり、契約数もどんどん伸びている。「部長に就任したことで仕事がしやすくなりました」と言ってもらえることもあり、そう言ってくれる後輩たちに感謝をしつつ、俺も負けてられないなと、より仕事に打ち込む決意を固めた。

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