葬儀場で、夫の棺の前で、私は自分の息子の声を聞きました。
「これでようやく金が手に入るな。長かったよ」
「あの家と土地を売れば、1億は行くでしょうね。葬式代なんて安いものよ」
私は七十二歳。生涯の伴侶である修三を、人生で最も悲しい日に見送っていました。参列者たちが静かに夫を悼む中、息子の友也と嫁の美由は、宝くじにでも当たったかのような顔で遺産の話をしていたのです。
まさか、夫の葬儀の日にそんなことを考えているなんて。私は耳を疑いました。これが実の息子の本性なのでしょうか。
でも、その時まだ私は知らなかったのです。夫が私のために、どれほど完璧な準備をしてくれていたのかを。
私は私立病院の看護師として働きながら、一人息子の友也を大切に育ててきました。大学費用の八百万円、結婚資金の五百万円。すべて夫婦で協力して支援してきたのです。
生前、修三はよく言っていました。
「みち子、こんなことを言うのはあれだが、俺は友也のことが心配だ。お金のことばかり考えるようになってきた。でも、君だけは信じている」
修三は息子の変化に気づいていたのです。しかし、私はまさかここまでとは思っていませんでした。
葬儀の準備中も、息子夫婦の態度は露骨でした。
「母さん、葬式代は最低限でいいよね」
友也はそう言いながら、安い葬儀プランばかりを提案してきました。
「お母さん、香典は私たちが管理しますから」
美由も、まるで自分たちのお金であるかのように香典の管理を申し出てきたのです。
「早く遺産の話をしよう。相続税の関係もあるし」
夫をなくした悲しみに暮れる私を気遣うどころか、友也の頭の中は完全にお金のことばかりでした。
これが私たちが愛情を注いで育てた息子なのでしょうか。
献身的に尽くしてきた母親と、金目当てで親を見ない息子夫婦。その対比があまりにも残酷で、私の心は深く傷ついていました。
葬儀が終わった翌日の朝、私はまだ悲しみの中にいました。四十年以上看護師として働きながら夫を支え、息子を育ててきた人生を振り返っていたのです。
そんな時、玄関のチャイムが鳴りました。
「母さん、おはよう」
友也と美由が、まるで何事もなかったかのように明るい表情でやってきました。
「お母さん、昨日はお疲れ様でした。気持ちの方は大丈夫ですか?」
美由の言葉には、表面的な気遣いしかありませんでした。
リビングに座ると、友也はすぐに本題を切り出しました。
「母さん、遺言書はないの? 父さんから何か聞いてる?」
私が答える前に、美由が続けました。
「お母さん、このままだと相続税が大変なことになりますよ」
「そうそう。早く名義変更の手続きをしないと、税務署から目をつけられるかもしれない」
夫は亡くなってまだ一日も経っていないのに、二人の話は金のことばかりなのです。
「お母さん、お父さんの生命保険金の手続きも必要ですよね」
「あ、それも俺たちが代わりにやってあげるよ」
美由と友也は、まるで私の財産を管理する権利があるかのように話していました。
「でも、あなたたち。お葬式も終わったばかりなんだし、そんなに急がなくても」
私が控えめに言うと、友也の表情が変わりました。
「母さん、現実を見なよ。父さんがいなくなったんだから、俺たちがしっかりしないと」
「そうですよ、お母さん。お母さんの老後資金も考えなくちゃいけませんし」
美由の言葉は一見優しそうでしたが、その真意は別のところにありました。
「老後資金は最低限あれば十分でしょう。看護師の年金もあるし」
「この家も広すぎるよね。母さん一人には」
友也は家の中を見回しながら言いました。
「そうですね。売却して、お母さんには安いアパートに住んでもらって。その方が管理も楽だし、俺たちも安心だよ。いつか母さんがいなくなったら、家を維持するのも大変だしね」
私は言葉を失いました。自分たちが長年家族で住み続けた思い出の家を、息子たちは簡単に売り払おうとしているのです。
「でも、この家にはお父さんとの思い出が――」
私の言葉を美由が遮りました。
「お母さん、思い出は心の中にあれば十分じゃないですか?」
「そうそう。物に執着するのは良くないよ」
友也も冷たく言い放ちました。
そして、決定的な言葉が飛び出したのです。
「正直言うと、お父さんがいなくなったんだから、お母さんはもうお荷物でしかないんですよ」
美由の言葉に、私の心臓が止まりそうになりました。
「そうだよな。俺たちも早く新しい生活を始めたいし」
友也も平然と続けました。
「早く整理して、俺たちの人生を楽しみたいんだよ」
「本当に、お父さんの葬儀代だってもったいなかったのに」
美由のその言葉で、私の中で何かが音を立てて崩れていきました。
夫への冒涜、そして自分への人格否定。看護師として多くの患者さんを支えてきた私の人生そのものが、息子夫婦によって完全に否定されたのです。
「お母さん、返事は早く決めてくださいよ」
美由が急かすように言いました。
「俺たちだって忙しいんだから、だらだらしてられないよ」
友也の言葉には、母親への敬意などみじんもありませんでした。
私は静かに立ち上がりました。
「少し考えさせてください」
そう言って、私は二階の寝室に向かいました。
息子夫婦の非常識さは、もはや我慢の限界を超えていたのです。
「子供たちにとって、私はただのお荷物だったのね」
私は夫の写真を見つめながらつぶやきました。
「修三さん、私たちの息子はこんな人間になってしまったわ。あなたの心配していた通りだったわね」
この時、ようやく私は息子の本性に気づきました。夫の修三が友也を心配していた理由を、やっと理解できたのです。
私は夫の机の引き出しを開けました。整理しなければと思いながら。
すると、そこには私宛ての手紙が置かれていたのです。
「みち子へ」と書かれた封筒を見つけた瞬間、私の手が震えました。
封を開けると、修三の丁寧な文字で書かれた手紙が出てきました。
『みち子へ。もし君がこの手紙を読んでいるなら、友也たちが君を困らせているのだろう。実は、君を守るために準備してあることがある』
私は息を飲みました。修三は息子夫婦の本性を生前から見抜いていたのです。
手紙は続きました。
『友也は昔からお金のことになると人が変わる。君は優しすぎて気づいていないだろうが、私には分かっていた。だから君が困らないように、全ての財産の名義を君に変更してある』
私は驚きました。修三が、いつの間にそんなことを。
『家も土地も全て君の名義だ。友也たちには一切の相続権はない。信頼できる弁護士の田中先生に全て相談してある。君が困った時は、田中先生に連絡するといい』
手紙の最後には、弁護士事務所の連絡先が書かれていました。
私は涙が止まりませんでした。修三の深い愛情と先見の目に心を打たれたのです。
「修三さん」
私は夫の写真に向かってつぶやきました。
「あなたは最後まで私を守ろうとしてくれていたのね」
私はすぐに手紙に書かれていた田中弁護士に電話をしました。
「田中法律事務所です」
「あの、みち子と申します。夫の修三がお世話になっていた」
「ああ、奥様ですね。修三さんから詳しくお話を伺っております。お悔やみ申し上げます」
田中弁護士の声は優しく、私を安心させました。
「実は、息子たちが遺産のことで――」
「はい。修三さんから相談されていました。明日の午後、事務所にいらしてください。詳しくご説明いたします」
電話を切った私は、心の中で決意を固めていました。
翌日、私は田中法律事務所を訪れました。
「奥様、修三さんは本当に先見の明がおありでした」
田中弁護士は書類を取り出しながら説明しました。
「全ての財産はすでに奥様の名義になっています。息子さんたちには、一切の相続権はありません」
「本当に、そんなことが可能なのでしょうか?」
私は信じられない気持ちでした。
「はい。修三さんは生前に正式な手続きを全て済ませておられました。家も土地も預貯金も、全て奥様の完全な所有物です」
田中弁護士は続けました。
「そして、修三さんからもう一つ伝言があります。『奥様の判断で全てを決めて欲しい』と」
私の目に、新たな決意の光が宿りました。
「分かりました。私も、新しい遺言書を作成したいのですが」
「承知いたしました。どのような内容にされますか?」
私は迷わず答えました。
「私の全財産は、社会福祉施設と教育機関に寄付します。看護師として長年働いてきた私にとって、それが一番意味のあることです。息子への相続分は一円もありません。金目当ての息子には、何も残したくありません」
田中弁護士は頷きました。
「承知いたしました。では、遺言書の作成を進めさせていただきます」
法律事務所での私の表情は、すっかり変わっていました。悲しみに暮れた未亡人から、毅然とした強い女性の顔になっていたのです。
「修三さん、あなたの愛をもって、息子たちに本当の教育をしてあげます」
私は心の中で夫に語りかけました。
家に帰ると、息子夫婦から電話がかかってきました。
「母さん、遺産の件、もう決めた?」
友也の声には、いつもの傲慢さがありました。
「そうね、明日お話ししましょう」
私の声は、これまでになく冷静でした。
「やっと決心ついたか。じゃあ明日、美由と一緒に行くから」
「ええ、お待ちしています」
電話を切った私の口元には、かすかな笑みが浮かんでいました。
明日、息子たちの人生が完全に変わることになります。
翌朝、私は早起きして、夫の写真に向かって静かに話しかけました。
「修三さん、今日はあなたの愛をもって、子供たちに大切なことを教えてあげますね」
私の表情には、これまでの悲しみはありませんでした。代わりに、冷静で確固たる決意が宿っていたのです。
午前中、私は再び田中弁護士の事務所を訪れました。
「奥様、遺言書の準備が整いました」
田中弁護士は書類を私に見せました。
「私の全財産は地域の社会福祉施設と看護師学校に寄付する、と書かれていますね」
「はい。看護師として長年働いてこられた奥様らしい、素晴らしい選択だと思います」
私は遺言書に署名しました。その瞬間、私の中で何かが完全に変わったのです。
「息子夫婦への相続分は完全にゼロということで間違いないですね」
「はい。一円たりとも相続する権利はありません」
田中弁護士の言葉に、私は深く頷きました。
「それともう一つ、お願いがあります」
「何でしょうか?」
「息子たちには今日の午後に真実を伝えるつもりです。もし法的な問題があった場合、すぐに対応していただけますか?」
「もちろんです。修三さんと奥様の意思を、私が責任を持ってお守りいたします」
私は安心して法律事務所を後にしました。
帰宅すると、私は息子夫婦を迎える準備を始めました。しかし、いつものような丁寧なおもてなしの準備ではありません。
午後三時、約束の時間ぴったりに友也と美由がやってきました。
「母さん、来たよ。早速話をしよう」
友也は上機嫌でした。
「お母さん、今日はよろしくお願いします」
美由も、まるですでに遺産を手に入れたかのような明るい表情でした。
リビングに座ると、友也がすぐに切り出しました。
「母さん、遺産の件、もう決めたんでしょう」
「そうそう。私たち、新車も注文しちゃったんです」
美由が嬉しそうに言いました。
「新車?」
私が聞き返すと、友也が得意げに答えました。
「ベンツのSクラス。一千万円もしたけど、父さんの遺産があるからね。それに、新しいマンションも見に行ってきました」
美由も続けました。
「港区の3LDK、八千万円です。でも、お父さんの遺産があれば余裕ですよね」
私は呆れて言葉が出ませんでした。まだ何も決まっていないのに、すでに大きな計画を立てているのです。
「お母さん、家の売却はいつ頃にしましょうか? 不動産屋にも相談したけど、この立地なら土地も合わせて一億は確実だって」
友也と美由は、完全に思い込みをしていました。
「それから、お母さんのアパートも探してきました。月五万円の物件です。お母さんの年金額で十分払える額でしょう」
美由の言葉に、私の心の中で最後の糸が切れました。
「そうですね。では、遺産の話をしましょう」
私は立ち上がり、金庫から書類を取り出しました。
「あ、やっぱり遺言書があったんだ」
友也は期待に目を輝かせました。
「よかった。お母さん、ありがとうございます」
美由も興奮を隠せません。
私は書類を持ったまま、二人の前に座りました。
「確かに、遺産についてお話があります」
「やった。で、俺たちの取り分はどのくらい?」
友也は身を乗り出しました。
「半分ずつかしら」
美由も期待でいっぱいでした。
私は冷静に、しかし毅然とした声で言いました。
「残念ですが、あなたたちの相続分は一円もありません」
リビングが静寂に包まれました。
「え、何それ? 冗談でしょう」
友也の表情が一変しました。
「お母さん、何をおっしゃってるんですか?」
美由も困惑していました。
私は書類を二人の前に置きました。
「お父さんが生前、全ての財産を私の名義に変更済みです。あなたたちには一切の相続権はありません」
「そんな馬鹿な」
友也が書類を掴んで読み始めました。
「これ、本物なんですか?」
美由の顔が青ざめていきました。
「もちろん本物です。弁護士の田中先生に全て確認していただきました」
私の声には、みじんの迷いもありませんでした。
「そんな……俺たちの生活設計が……」
友也は頭を抱えました。
「新車も新しいマンションも、どうしたらいいのよ」
美由も絶望的な表情になりました。
私は二人の動揺ぶりを冷静に見つめていました。
友也と美由は、目の前の書類を何度も読み返していました。しかし、どれだけ見ても現実は変わりません。
「母さん、これは何かの間違いでしょう?」
友也の声は震えていました。
「お母さん、冗談はやめてください」
美由も必死に否定しようとしました。
私は二人の慌てふためく様子を、冷静に見つめていました。
「間違いではありません。お父さんが生前、全ての手続きを済ませてくださったのです」
「そんなはずない。俺は長男だぞ」
友也が声を荒げました。
「法的には全て正式な手続きです。何度も言いますが、弁護士さんにも確認済みです」
私の声には、少しの動揺もありませんでした。
「でも……でも……」
美由は言葉に詰まりました。
「私たち、新車の契約もしちゃったし……」
「そうだ。マンションの手付け金も払ったんだよ」
友也は頭を抱えました。
私は二人の言葉を聞いて、さらに驚きました。まだ何も確定もしていないのに、すでにお金を使ってしまっているのです。
「それはあなたたちの問題ですね。残念でした」
私は冷たく言い放ちました。
「母さん、なんとかしてよ」
友也がすがるように私を見ました。
「お母さん、お願いします」
美由も必死に頭を下げました。
しかし、私の表情は変わりませんでした。
「でも、不思議ですね」
私が静かに言いました。
「確か、先日まで私のことを『お荷物』とおっしゃっていましたよね」
その言葉に、友也と美由の顔が青ざめました。
「あ、あれは……」
「お荷物の財産を当てにするのは、おかしいのではないでしょうか」
私の声は、氷のように冷たくなりました。
「母さん、あれは言いすぎだった。謝るから」
友也は慌てて謝罪しました。
「お母さん、本当にごめんなさい。私も謝ります」
美由も必死に謝りました。
すると、私は続けました。
「葬儀代がもったいないともおっしゃいましたね」
「あ……」
美由は言葉を失いました。
「お父さんの葬儀代がもったいないと思う方に、お父さんの遺産をお渡しするわけにはいきません」
私の言葉は、息子夫婦の心を鋭く突き刺しました。
「母さん、俺たちが悪かった。でも、俺たちも生活があるんだ」
友也は必死に訴えました。
「生活でしたら、ご自分でなんとかしてください。いい大人なんですから」
私は立ち上がりました。
「それから、もう一つお伝えすることがあります」
私は新しい遺言書を取り出しました。
「私の遺産についてですが、全て社会福祉施設と看護師学校に寄付することにしました」
「えっ!」
友也と美由が同時に声を上げました。
「つまり、あなたたちには一円も残しません」
私の宣言に、二人は完全に絶望しました。
「そんな……なんで他人に……」
友也がつぶやきました。
「他人?」
私は振り返りました。
「私を『お荷物』と呼んだ方々に、私が他人と言われる筋合いはありませんね」
その言葉で、友也は完全に言い返せなくなりました。
「お母さん、お願いです」
美由が土下座をしました。
「今まで本当にひどいことを言ってしまいました。でも、私たちには借金もあるんです」
「借金?」
私が聞き返すと、
「車のローンやクレジットカードの支払いが……」
友也も観念したように白状しました。
「遺産があると思って、色々と買い物をしてしまって……」
私は呆れました。まだ何も決まっていないのに、勝手に借金まで作っていたのです。
「はあ。それもあなたたちの問題ですね」
私は冷静に答えました。
「母さん、俺たちを見捨てるのか?」
友也の目に涙が浮かんでいました。
「見捨てるなんて」
私は静かに言いました。
「先に私を見捨てたのは、あなたたちです」
「でも、俺たちは家族じゃないか」
友也がすがるように言いました。
「本当に家族だと思っているのなら」
私は振り返りました。
「お父さんの葬儀で遺産の話をしたりしません。家族でしたら、母親を『お荷物』とは呼びません」
私の言葉に、二人は何も言い返せませんでした。
「お母さん、どうしたら許してもらえますか?」
美由が泣きながら尋ねました。
「許す許さないの問題ではありません」
私は首を振りました。
「これは、あなたたちがしたことの結果です」
「結果……」
友也が聞き返しました。
「因果応報という言葉をご存知ですか?」
私は静かに言いました。
「悪いことをすれば、必ずその報いが来るのです」
「母さん……」
友也が震え声でつぶやきました。
「お父さんは、あなたたちの本性を見抜いていました。だから私を守るために、全ての準備をしてくださったのです」
私は夫の写真を見つめました。
「私はお父さんの愛と意思を尊重します」
二人はもう、何も言えませんでした。
「お母さん、最後にお願いがあります」
美由が震え声で言いました。
「せめて、この家だけでも……」
「この家も私の名義です」
私はきっぱりと答えました。
「あなたたちには一切の権利はありません」
「そんな……」
友也が崩れ落ちました。
「今度は、あなたたちが苦しむ番です」
私の言葉は、氷のように冷たく響きました。
「私は長い間、看護師として働きながらあなたたちのために尽くしてきました。でも、あなたたちは私の人生を『お荷物』と呼んだのです」
私は立ち上がりました。
「これが、私からあなたたちへの最後の教育です」
二人は泣き崩れながら、私の家を後にしました。
私は窓から、息子夫婦が去っていく姿を見送りました。そこにはもう悲しみはありませんでした。代わりに、深い満足感がありました。
「修三さん、ありがとうございました」
私は夫の写真に向かって微笑みました。
「あなたのおかげで、あの子たちに本当に大切なことを教えることができました」
それから半年が経ちました。私の人生は、全く新しいものに変わっていました。
朝、私は地域の社会福祉施設でボランティア活動をしていました。
「みち子さん、いつもありがとうございます」
施設長が感謝の言葉をかけてくれました。
「いえいえ、私の方こそ生きがいをもらっています」
私の表情は、以前とは比べ物にならないほど明るくなっていました。看護師として培った経験を生かし、私は施設の高齢者の方々のケアをお手伝いしていたのです。
「みち子さんがいてくださると、本当に心強いです」
入居者の方々も、私を慕っていました。
午後は、看護師養成学校で学生たちに実習指導をしていました。
「みち子先生、いつも丁寧に教えてくださってありがとうございます」
若い学生たちの感謝の言葉が、私の心を温めました。
「あなたたちのような志の高い若い方々を見ていると、私も嬉しくなります」
私は自分の遺産が将来、この学生たちの教育に役立つことを思うと、深い満足感を覚えました。
夕方、私が家に帰ると、看護師時代の後輩から手紙が届いていました。
『みち子さん、お元気ですか? 先生のおかげで、私は今立派な看護師になることができました。先生から教わった人を思いやる心を忘れずに、毎日頑張っています』
このような手紙が、最近よく届くようになっています。私の社会貢献活動が地域の新聞で紹介され、昔の後輩たちが連絡をくれるようになったのです。
「みち子さんのような人生を送りたいです」「みち子さんに教わったことが、今でも私の支えです」
こうした言葉を読むたびに、私は自分の選択が正しかったと確信しました。
一方、友也と美由のその後は厳しいものでした。遺産を当てにして作った借金の返済に追われ、二人とも必死に働かなければならなくなっていました。新車の契約は当然キャンセルとなり、違約金も発生しました。マンションの手付け金も戻ってきませんでした。
「こんなはずじゃなかった」
友也は毎日、悔恨の言葉を繰り返していました。美由もパートタイムの仕事を増やして、家計を支えなければなりませんでした。
そしてついに、二人は私に電話をかけてきました。
「母さん……」
友也の声には、以前の傲慢さはありませんでした。
「本当に、本当にごめんなさい」
美由も泣き続けていました。
「私たち、間違っていました。お母さん、お願いします。もう一度だけ……」
しかし、私の答えは冷静でした。
「申し訳ありませんが、私の気持ちは変わりません」
「母さん……」
友也がすがるような声を出しました。
「あなたたちは、お父さんの葬儀の最中に遺産の話をしました」
私は静かに言いました。
「私を『お荷物』と呼びました。そして、葬儀代がもったいないとおっしゃいました」
私の声には、もう迷いはありませんでした。
「これが、あなたたちが選んだ道の結果です」
電話を切った私は、夫の写真を見つめました。
「修三さん、私は正しい選択をしたでしょうか?」
まるで夫が答えるかのように、私の心に平安が訪れました。
夜、私は日記を書いていました。
『今日も充実した一日でした。施設のおじいさんが「ありがとう」と言ってくださった時、看護師になって本当に良かったと思いました。学生たちの真剣なまなざしを見ていると、未来への希望を感じます』
私は窓の外を見ました。星空が美しく輝いていました。
理不尽に屈してはいけないということを、私は学びました。正当な権利を主張することは、決して悪いことではありません。我慢し続けることが美徳とは限りません。
金目当ての人間関係は必ず破綻します。真の愛情と尊敬に基づかない関係は、最終的には信頼を失うものです。
私は微笑みました。そして、正しいことを続けていれば必ず報われるのです。
私の新しい人生は、まだ始まったばかりでした。しかしその人生は、金銭ではなく人々への奉仕と愛に満ちた、真に価値のあるものとなっていたのです。
「今、私は心から幸せです」
私は夫の写真に向かって微笑みかけました。
「修三さん、本当にありがとう」
私は静かに、しかし確かな決意とともに、新しい一日の始まりを迎えました。あの日、葬儀場で聞いた息子たちの言葉は、私の人生を悲しみに突き落としましたが、夫の残してくれた愛が、私を新たな幸福へと導いてくれたのです。



