「私は物乞いの娘です。それでも、よろしいのでしょうか?」…

「私は物乞いの娘です。それでも、よろしいのでしょうか?」...

かごが一丁、市場の真ん中で止まった。物乞いの娘の前で、上下姿の役人たちが道を開ける。その中央では、この土地を預かる若い大官が、小さな娘に深々と頭を下げていた。

三日ほど前まで、その娘を物乞いと笑っていた人々は、その場に凍りついたまま動けなかった。

なぜ大官ともあろう者が、名家も持たぬ娘に頭を下げているのか。ただ一つ確かなことは、崩れかけた秋屋で過ごしたわずか三日間が、娘の運命を変えたということだけだった。

物語は、その三日前から始まる。

春の終わりの、風の冷たい朝だった。大州海道沿いの宿町は、大所が救い米を放出するという噂を聞きつけた人々でごった返していた。空の袋を手にした者たちが、通りの端まで長い列をなしている。その一番後ろに、十九になる娘が立っていた。服という名だった。着物の裾はすり切れ、草履から覗く足先には泥がこびりついている。

前に並ぶ行商人が振り返り、「乞食が何を救い米だ。匂いから離れていろ」と鼻先で笑った。服は言い返すこともなく、半歩だけ後ろに下がった。それでも列を離れることはなかった。

服が物乞いになったのは、三年前、母をなくしてからだった。それからというもの、「腹が減っているか」「寒くないか」、そういう問いを服に向けるものはいなくなった。服自身も、それを寂しいと思うことすらやめていた。物乞いという暮らしは、誰にも頼らず、誰にも期待しない代わりに、誰からも顧みられない暮らしでもあった。

その頃、街道の少し先では、一丁のかごが難儀していた。乗っているのは、これより一日ほど北の豪邸に嫁いだ老女だった。「若い頃に育った村へ、一目だけ里帰りをしたい」と今日の者にも強く言いはって出てきたのだという。年を取ると、忘れていたはずの故郷の景色が急に恋しくなるものらしい。

道中、かき手の一人が石につまずいて足を痛め、その拍子に担ぎ棒まで大きく罅割れてしまった。紐も切れかけていた。今日の者たちは、かごかきを宿へ運ぶものと、代わりの担ぎ棒を探すものとに分かれた。慌ただしいその様子を、老女は少し離れた場所から眺めていた。

老女は、その騒ぎの向こうに、若い頃に歩いた旧道の痕跡を見つけた。「ほんの少し確かめるだけだ」と、女中が荷を整えている隙に、一人で旧道へ入ってしまったのである。

若い頃に何度も歩いた道のはずだったが、記憶というものは当てにならない。道は昔とは形を変え、目印にしていた大木も見当たらなかった。気づけば、今日の者の姿はどこにも見えなくなっていた。

元より胸に古い病を抱えていた老女だった。歩き疲れと、夕暮れの冷気がその病を呼び覚ました。目の前が暗くなり、老女はふらつきながら、崩れかけた一軒の秋屋に転がり込むように身を寄せた。

その日の夕暮れ、店仕舞いの市場を服は一巡りした。日が傾くと、行商人たちは店を畳み始める。服が手に入れたのは、大根の切れ端と、飯屋の裏口で洗い物を手伝った礼にもらった、冷たい握り飯半分だけだった。

「貧乏飯一つでもありがたく思え。さっさとお行き」女将は器を片付けながら手を振った。服は頭を下げて背を向けた。その握り飯をすぐには食べず、懐にしまった。今日食べる分と明日食べる分を分けておかなければ、明日は腹をすかせたまま一日を過ごすことになる。母をなくしてから三年。そういう算段が体に染みついていた。

眠る場所を探して市場の外れへ足を向けた時だった。古い古い、秋屋だと思っていた家から、かすれた息の音が漏れてきた。服は足を止めた。屋根は崩れ、戸は傷み、長らく人が住んでいないはずの家だった。

戸の隙間から覗き込むと、暗がりの中で何かがかすかに動いた。

「どなたかいらっしゃいますか?」

返事の代わりに、苦しげなうめき声が返ってきた。服は戸を開けた。見知らぬ老婆が土間に横たわり、震えていた。掛けるものが一枚もない。服は自分の肩に羽織っていたむろを脱ぎ、老婆の体にかけた。

額に手を当ててみると、冷えているのに汗ばんでいるのが分かった。息が浅く、早い。服にも、ただの疲れではないことだけは分かった。

老婆の目が薄ら開いた。焦点の定まらない瞳が、しばらく服の顔の上を彷徨った。それから、乾いた指が服の手首をとっさに握った。

「嫁か。うちの嫁がやっと来たか」

服が違うと答える間もなかった。老婆の目尻から涙がずっと流れ、白髪混じりの頬を濡らした。

「…はい。はい。ここにおります。どこにも参りません」

服の口から、思わずそんな答えが出ていた。老婆の手からようやく力が抜けた。

ところが、うめきの中でも老婆はもう一つ、どうしても尋ねずにはいられないことがあった。

「遊気は、済ませたか」

服は胸のうちが痛み、すぐには答えられなかった。寝込んでいる人が、真っ先に他人の食事のことを尋ねてきたのだ。

「済ませました。たくさんいただきました」

言い終わらぬうちに、すきっ腹がぐうと鳴った。服は思わずお腹を押さえた。

服は井戸へ駆け出し、冷たい水を汲んできた。着物の裾を一枚、びりと裂いて水に浸し、老婆の額、頬に乗せた。懐にしまっていた握り飯を思い出したのは、その時だった。明日の分として取っておいた、その半分だった。

服はためらわなかった。井戸水で握り飯をふやかしておかゆのようにし、匙で少しずつ老婆の口に運んだ。

「飲み込めますか?そう。もう一口」

なぜ自分がここまでするのか、服自身にも分からなかった。この老婆に何かを期待していたわけではない。ただ、誰かのために手を動かしている間だけ、三年間ずっと胸の底に沈んでいた何かが、少しだけ軽くなる気がした。母を見送ってからというもの、服を必要とするものはどこにもいなかった。

「看病」というものが、こんなにも人を満たすとは服は知らなかった。誰かの口に匙を運ぶ。ただそれだけの動きが、これほど胸を温めるとは。

夜が更けても、老婆の息はなかなか落ち着かなかった。服は布を変えては絞り、絞っては変えた。そのうち、老婆の手を握ったまま壁に寄りかかり、うとうとと眠ってしまった。夜明け近くになって、ようやく老婆の息が少し落ち着いてきた。

空が白み始めた頃、老婆は目を開けた。今度は瞳の焦点がはっきりしていた。老婆は、自分の体にかけられたむろと、額に乗せられた濡れた布と、自分の手を握ったまま眠っている、見知らぬ娘の姿を、一つ一つ目に焼きつけた。その視線に服は目を覚ました。

「お気づきになりましたか」

老婆はしばらく黙って服を見つめていた。

「娘は、この辺りのものか」

「家はございません。市場が我が家のようなものです」

老婆の目が、服の荒れてひび割れた手の甲にしばらく留まった。

「何という名だ」

「服と申します。服という、一文字だけの名でございます。母がつけてくれました」

「服…」

老婆はその名を、しわがれた口の中で転がした。それから、もう一言だけ聞いてくれぬかと切り出した。乾いた唇がいく度か動きかけては、また閉じられた。服はせかさず待った。物乞いをして数年。身についたことがあるとすれば、言いにくい言葉ほどせかさずに待たねばならないということだった。

「私には、息子が一人おる」

「はい」

「幼くして父をなくしてから、母の身ばかりを案じ、持ち込まれる縁談を断り続けてきた。年もすっかり満ちたというのに、嫁を迎えぬまま今日まで来てしまった。この宵越せるかもわからぬ病みでは、それが心残りでな」

老婆の息が荒くなった。服が背中をそっとさすってやると、老婆は息を整えて言葉を続けた。

「嫁が作ってくれる膳を、一度も受けられぬまま行くのが悲しくてならぬ。娘。一度だけでいい。嫁のふりをしておくれ」

弱った心が思わずこぼした、老女の願いだった。死を覚悟した心が、見ず知らずの物乞いの娘の前で初めて本音をこぼしたのだった。

老婆は震える手で懐を探った。くしゃくしゃに折りたたまれた布切れが出てきた。布を開くと、銭が何枚か、からりと音を立てた。

「礼にするには恥ずかしいが、これしかなくてすまぬ」

服は銭を見下ろした。三日は食いつなげるほどの額だった。市場でその銭を断る者などいない。ところが、服の手が動いた。銭を手に取ると、それを老婆の手のひらに戻し、その上から老婆の指を一本一本、折り曲げてやったのだ。

「礼は入りません。おばあさん。私は三年前に母をなくしました」

服の声は震えていたが、目はしっかりしていた。

「母と呼べる人ができたのですから、私の方がいただくものが多いございます」

老婆の唇が、ぶるぶると震えた。何か言おうとして、ついに言葉にならず、声を上げて泣き崩れた。服は老婆を抱き起こし、自分の肩に寄りかからせた。骨と皮ばかりの背中が、服の腕の中でひくひくと震えていた。

その日から、服の一日は生まれ変わった。傾いた戸板を立て直し、縄で縛り直した。庭に落ちていた枝や柴を拾い集めてくべ、火を起こした。何年ぶりかで、秋屋だった草の屋根の煙出しから煙がゆらりと立ち上った。井戸を三度往復して水瓶を満たした。そうする間も、戸を半分だけ開けたままにして、老婆の息遣いを耳で追い続けた。

夕方、服は取っておいた握り飯に水を加え、じっくりと煮込んだ。塩一つまみで味をつけた。ぐつぐつと煮た粥を椀に盛り、皿の代わりの板にきれいに乗せて捧げた。戸の前で服はふと立ち止まった。大きく息を一つ吸い込んだ。それから言った。

「お母様、お食事をどうぞ」

その言葉が口から出た瞬間、服の目から涙がぽろりとこぼれた。何年ぶりに呼んでみる言葉だった。呼ぶ相手がいなくて、ずっと胸のうちにしまい込んでいた言葉だった。粥よりも先に涙が部屋に入ってしまった格好になった。

老婆は体を起こして座り直した。

「母が椀を受け取りながら、泣く娘をどうして黙って見ていられようか。さあ、こちらへおいで」

老婆は自分の袖で服の目元を何度も拭ってやった。それから粥を一すくい掬って口に運んだ。じっくりと味わうように飲み込んだ。

「うまいのを。塩しか入れておりません」

「嫁が作ってくれる飯とは、こういう味なのだな」

老婆は粥を二目と掬いかけて手を止め、匙を服の方へ差し出した。

「娘も一口、食べなさい」

「私は、さっき台所でいただきました」

「母の前で嘘をつく娘がどれにおる?」

服は仕方なく口を開けた。自分で作った粥なのに、人に食べさせてもらうと違う味がした。喉を通っていくにつれ、鼻の奥がつんとして、服はさっと顔を背け、粥の加減を見るふりをした。

老婆の言葉遣いには、市場の人々とはどこか違う響きがあった。うめきの中ですら言葉尻が乱れることがなく、乞食だからと見下すこともなかった。服にはうまく言葉にできなかったが、この人のそばにいると、久しく忘れていた何かが胸に戻ってくる気がした。

二日目、老婆の熱はいくらか引いたものの、まだ起き上がれるほどではなかった。消えた火種をもらうため、服は朝から何軒もの家の戸を叩いた。ようやく分けてもらった小さな火を両手で守り、秋屋で走って戻った。昼過ぎには裏山に登り、木の枝で地面を掘って薬になる根を掘り出した。斜面で足を滑らせて膝を擦り剥いた。日が暮れる頃には、爪の間という間に黒く土が入り込んでいた。

その根を抱えて降りてくると、水を注いでじっくりと煎じた。煎じ薬を自分の口で先に確かめた。服の表情が歪んだ。健康なものでも飲み下しがたいほどの苦さだった。病人の口には、この苦さをそのまま含ませるわけにはいかない。

服は空の小瓶を手に、宿場の飯屋へ向かった。

「蜂蜜を少し分けてくださいませんか。洗い物なら何でもいたします」

「何を言うか。物乞いの分際で蜂蜜とは」

女将は鼻で笑いながらも、山のように積まれた器を顎でしゃくって示した。服は日が傾くまで器を洗い続けた。冷たい水で手がふやけて赤くなるまで洗って手に入れたのが、蜂蜜の一匙だった。その間、自分の食事はなかった。腹が鳴るたびに、服は水をいっぱい飲んだ。

市場にはもう噂が広まっていた。「秋屋の乞食娘が、財産目当てで病人を囲っているらしい」。噂は足がないのに一日で市場中を一巡りし、回るたびに尾ひれがついた。この土地の主も耳にしていたが、商家の娘と豪商の家との縁談にかかりきりで、素性の知れぬ年寄りのことは後回しになっていた。人別張に乗らぬ老婆が一つ屋根の下にいても、誰の目にも止まらぬまま日が過ぎていった。

夕方、薬を持って戻った服の手を、老婆がじっと見下ろした。水にふやけて青白い手だった。土の入り込んだ爪だった。

「服や、どうしてそこまでするのだ。ふりなら、ふりだけで良いものを」

服は薬を老婆の手にしっかりと持たせながら笑った。

「お母様の看護は元々、娘の務めです」

老婆はしばらく黙っていた。薬を飲み下す時、喉仏が何度か大きく上下した。薬が苦いせいだけではないようだった。

「服や。私の母は、どのような人であったのだ」

服の手がふと止まった。三年の間、誰も尋ねてくれなかったことを、この老婆が訪ねてくれたのだ。

「針仕事をしておりました。煤けた油燈の下で針を動かし、それでも明方には私の着物から先に整えてくれました。優しい人であったのですが、仕立ての代金を踏み倒されても、人の悪口は口に出さぬ人でした」

老婆が手を伸ばし、服の乱れた髪を撫でた。乾いた指の間から、髪がさらさらと流れ落ちた。

「明日は、母が髪を整えてやろう。そう約束しよう」

服が小指を差し出すと、老婆はその指をじっと見つめてから、自分の小指を絡めた。病人の指に、しっかりとした力がこもっていた。

だが、その晩。戸の隙間から部屋を覗く目があった。飯屋の女将だった。蜂蜜を一匙もらっていった娘が、どこの家に入っていくのか気になって、後をつけてみたのだ。女将はその隙間に目を当てたまま、しばらく立ち尽くしていた。乞食の娘が、口かけた器で見知らぬ老婆の額の布を変えているところを目にしたのだ。

女将の口元が、にやりと上がった。女将は意地悪でそうしたわけではなかった。ただ、素性の知れぬもの同士が肩を寄せ合っているのを見ると、どうにも落ち着かなかったのだ。身寄りのないものが身寄りのないものを助ける。そんな話を女将はこれまで一度も信じたことがなかった。裏に何かあるに違いない。そう思い込む方が、女将にとってはよほど心が休まった。

翌朝、市場に噂が広まり始めた。

「聞いたかい?市場の外れの秋屋に、病人の年寄りが転がり込んだそうだよ」

「あの乞食娘が、いいついて財産でも狙っているのさ」

その頃、服は蜂蜜をもらいに飯屋へ行った。女将が腕を組んで、服を上から下まで眺め回した。

「蜂蜜の値段が上がったよ。昨日の倍だ」

「昨日は洗い物で払いましたが」

「年寄りを騙すなら、倍はもらわなきゃ割に合わないさ」

服は一瞬うつむいたが、すぐに顔を上げ袖をまくった。

「器をください。倍、洗います」

優しくされることに、いつからこんなに弱くなったのだろう。人の陰口には慣れているつもりだった。三年間一人で生きてきて、悪口くらいで揺らぐ自分ではないはずだった。だが老婆の額の布を変えながら、服はふと思う。この人の前でだけは「乞食」と呼ばれても構わなかった。この心が、他人の口一つでこんなにも痛むのはなぜだろう。

夜の座敷では、仲介人が新人の大官の縁談を持ちかけ、ついでに市場の噂話を添えた。「物乞いが考えることなど、たかがそんなものだろう」と笑いが起きた。仲介人にとってそれは当然のことだった。良い家に良い嫁を迎えるとは、家柄と器量を釣り合わせることだ。上等の着物は後からいくらでも作れる。だが身分だけは後から作ることができない。それが仲介人の物差しだった。

秋屋の中の老婆は、その噂話を全て聞いていた。破れた戸を突き抜けて入ってくるその言葉に、老婆は服の顔色を伺った。服の顔色は全く変わらなかった。陰口を聞かされて帰ってきた日でも、粥はきちんと運ばれてきた。老婆はそんな服を黙って見つめていた。見て、また見た。

その晩、老婆の息がまた乱れた。服は飛び起きて老婆を抱き起こした。背中をさすり、ぬるい水を匙で少しずつ含ませた。

「お母様、息をゆっくり。私に合わせて。すー、はー」

息が収まってからも、服は横にならなかった。自分の膝に老婆の頭を乗せ、壁に背を預けた。老婆が息苦しそうな合間に言った。

「膝が痛かろう。下ろしておくれ」

「娘の膝は元々、母の枕でございます。おやすみください」

老婆はそれ以上何も言わなかった。服の膝の上で、老婆の息は少しずつ落ち着いていった。服はそのまま夜を明かした。足の感覚がなくなるまで、身動ぎ一つしなかった。

明け方、浅い眠りの中で老婆が寝返りを打ちながら、うめき声を漏らした。服は思わず低い声で口ずさんだ。幼い頃、母が歌ってくれた子守唄だった。歌詞はほとんど忘れていたが、節回しは体に残っていた。老婆の苦しい息が、その節に合わせて静まっていった。目を閉じた老婆のまつ毛が、暗がりの中でわずかに光った。

夜明け頃、眠っていると思われた老婆が静かに目を開けた。自分に膝を差し出したまま、壁にもたれてうとうと眠る服を、老婆はしばらくじっと見上げていた。それから頭をそっと持ち上げ、服の膝から下ろした。服は壁に寄りかかったまま、深く眠っていた。一晩中膝を差し出していたせいで伸ばすこともできなかった足が、その時初めて床に長く伸びていた。

老婆は服の足元にしばらく座っていた。荒れてひび割れた足だった。かかとには、丸太の輪のような分厚いタコができていた。十九の娘の足がここまでなるとは。この子はどんな道を歩いてきたのだろうか。老婆の目が、その足に長く留まった。

草履と呼ぶには、とても草履とは呼べない履き物だった。穴が開いて肌が覗き、爪先の辺りは何度つくろったのか、布切れがいく重にもでこぼこと重なっていた。

老婆は病んだ体をゆっくりと起こした。腕がぶるぶると震えた。それでも止めなかった。眠っている服の足から、草履をそっと脱がせた。生垣の向こうから、明方の白みかけの光がかすかに差し込んでいた。老婆はその明かりを頼りに、針に糸を通した。三度失敗し、四度目にようやく通った。そして、穴の開いた爪先をつくろい始めた。一針、一針。震えていた手が針を握った途端、嘘のように落ち着いた。行燈もない薄暗い明け方に、縫う針目が物差しで測ったように几帳面と進んでいった。長い年季、針を手にしてきたものの、迷いのない針目だった。

針の音もしないのに、服が目を覚ました。足元がむずむずしたのだ。

「お母様、何をなさっているのですか?」

服は自分の足と老婆の手を見比べ、はっとして膝に寄った。

「お加減の悪い方が、どうしてこんなことを。おやめください」

「じっとしておいで」

老婆の声は低いのに、なぜか逆らえない重みがあった。

「母が娘の履物一つつくろえぬとでも思うのか」

私の息子のことだ。老婆は聞かれもしない話を始めた。

「幼くして父をなくした。それでも曲がることなく真っ直ぐに育ってくれた。私が自分の重りになりはしないか。それだけを案じている子だ」

「息子様は、今どちらに?」

老婆の針が止まった。何か答えようとして唇が動きかけ、また針に戻った。

「遠くにおる。役目でな」

息子が何をしている人なのか、最後まで語らなかった。服もそれ以上訪ねなかった。

「息子が、服のような人と出会えていればよかったもの」

独り言のようなその言葉に、服が首を振った。

「私のような乞食では駄目でございます、お母様」

その瞬間だった。老婆が針を止め、顔を上げた。病人の目ではなかった。

「服や。そのような言葉は口にするものではない。人を卑下する心こそが、何よりの毒だ」

部屋の中が静まった。

「できた。履いてみよう」

服は草履を履いた。穴から入り込んでいた明け方の冷気が、もう入ってこなかった。

「足はどうだ」

「温かいです」

「服や。草履は足に合わねばならぬし、人は心に合わねばならぬ。無理に履かせた草履は、足を痛めるものだ」

服はその言葉を噛みしめるように、足の指を軽く動かしてみた。それから鼻の奥が熱くなり、慌てて布団を整えるふりをした。

「お休みください、お母様。明け方の風は冷えます」

老婆は素直に横になった。眠ったふりをして目を閉じたが、服が背を向けてしばらく立っても、老婆の目尻の濡れは乾かなかった。

ふりから始まった三日間だった。そのふりがいつから本物に変わっていったのか、二人とも知らないままだった。服はこの頃、自分でも気づかぬうちに、日が傾くと足を早めるようになっていた。あの人が待っている。そう思うだけで、物乞いの一日がいつもより軽く感じられた。三年間、誰かのために急ぐということを、服はしたことがなかった。

夜が明けた。服は水桶を頭に乗せて井戸へ向かった。朝の水汲みは、一日とも欠かしたことのない仕事だった。ところが、服が出ている間に、部屋の中で一つの出来事が起きた。老婆が寝返りを打った拍子に、布団の下に置いていたものがするりと滑り出てしまったのだ。袋だった。ずっしりと膨らんだ袋が、布団の外に半分身を乗り出すようにして置かれていた。

水を汲んで戻った服は、敷居をまたぎかけたところでその場に立ち止まった。布団の外に銭袋が半分はみ出していた。見るからにずっしりとしていた。わずかな銭にさえも礼とすることをためらっていた老婆の暮らしからは、出てくるはずのない持ち物だった。

服は水桶を下ろし、近づいて袋を手に取った。重たいものだった。手のひらが下に沈むほど、重たいものだった。市場の相場で言えば、この中身で数か月は食いつなげるほどの額だった。

服の指が紐にかかったまま、止まった。この重み一つあれば、もう物乞いをせずに住む。今日食べる分と明日食べる分を分ける算段をしなくて良くなる。頭の中で、そんな考えがゆっくりと形になっていった。誰も見ていない。誰も知らない。そう思う自分がいたことを、服は後になるまで認めたくなかった。

だがすぐに、老婆の指先の感触が蘇った。一晩中握っていたあの手。震えながら草履をつくろっていたあの指先。服は袋を握ったまま、しばらく動けなかった。長い沈黙の後、服は袋を老婆の手が届く場所へ戻した。その指は袋を離した後も、しばらく震えていた。

その光景を見ていた者がいた。老婆だ。半目を覚ましたまま、初めから終わりまで見届けていたのだ。試そうとしたわけではなかった。寝返りを打った拍子に落ちた袋を、咳の合間に偶然目にしただけだった。だが、その偶然が老婆の心に、釘を打つように何かを決定付けてしまった。

昼になった。秋屋の庭に見知らぬ人影が入ってきた。仲介人の女だった。「噂を聞くだけ聞いて、自分の目で確かめずにはいられない」と、市場の外れまで足を運んできたのだ。仲介人は戸に立って首を伸ばし、部屋の中を覗き込んだ。それから庭にいる服に向かって声を張り上げた。

「やはり噂は本当だったか。病気の年寄りは役所に届けて任せてしまえば、それで済むのだよ。乞食の分際で何が高が娘のふりだ。今日にでも手を引きなさい」

庭が静まった。服は箒を立てかけて、じっと仲介人を見つめた。人の陰口を聞いても言い返さなかった服が、初めて口を開いた。声は荒々しくなかった。静かで、落ち着いていた。

「ふりでも三日もあれば情が映ります」

「何だと?」

「ふりは私がいたします。けれど、情が映ることまでは、私にはどうにもできません」

仲介人の口が、半分開いたままになった。何か言い返そうにも、言葉が見つからない様子だった。

「頭のおかしな女だ。乞食に情も何もあるものか」

仲介人は裾を引き返して庭を出ていった。出ていきながらも、何度も振り返った。

部屋の中では、老婆がそのやり取りを聞いていた。「ふりでも三日もあれば情が映ります」。その一言が、破れた戸を通って老婆の胸に落ちた。老婆は天井を見上げた。死ぬ前に嫁の顔を一目見たいという願いが、いつの間にか別のものへと変わっていた。この子でなければならぬ。ふりの嫁ではなく、本当の嫁として。老婆の乾いた指が、布団の縁をぐっと握りしめた。

豪邸の広間には、いつも冷たい静けさがあった。誰もが老女を敬ったが、誰も老女に「今日は何を食べたか」「疲れてはいないか」と尋ねてはくれなかった。服だけが、その問いを持っていた。

その日の午後、老婆は服に隠れて体を起こし、戸の隙間に目を当てた。庭では服が粥に使う薪を割っていた。薪を割る音に、口遊が漏れていた。明け方に服が口ずさんだ、あの子守唄の節だった。老婆は隙間からしばらく目を離せなかった。

「長生きして残ったものといえば、人を見る目一つよ」

老婆が低く独り言を言った。

「その目が、今、間違っているはずがない」

粥の前で、老婆はいつもより長く粥を味わった。服の顔を一度見ては一口、また一度見ては一口。そしてふと尋ねた。

「服や。お前はこの三日間が、惜しくはないか」

「ございます」

服はためらわずに答えた。老婆の箸が止まった。服は笑いながら言葉を続けた。

「一日過ぎるたびに惜しくてなりません。お母様と呼べる日が、一日ずつ減っていくのですから」

老婆は箸を置いた。そして服の手を引き寄せ、自分の両手で長く包み込んだ。骨と皮ばかりの手なのに、そのぬくもりは不思議なほど深いものだった。

「服や。母の体が治ったら…」

老婆は言いかけて、言葉を止めた。服が首をかしげた。

「治られたら?何でございますか?」

「治ったら見せてやろう。それまで、母の薬を一日も欠かさぬように」

服はわけもわからないまま頷いた。老婆の目が笑っていたので、服も釣られて笑った。

服の中で迷いがなかったわけではない。この暮らしが長くは続かないことを、服自身が一番よく分かっていた。老婆が回復すれば、あるいは息を引き取れば、服はまた一人に戻る。それでも、この三日を悔む日は来ないだろうと服は思った。母と呼べる誰かがいる。それだけで、これまでの物乞いの日々よりもよほど満たされていた。

ちょうどその夕方だった。とと、とと、と。市場の方から馬の蹄の音が響いてきた。一頭ではなかった。何頭もの馬が、土埃りを上げながら通りに入ってきていた。馬から降りた男たちが、行商商人を捕まえ、何かを急いた様子で訪ねていた。行商人の指が、市場の外れの秋屋を差した。

馬から降りた男たちが秋屋の戸口を目指して入ってきたのは、夕餉を下げた直後だった。先頭は役人の小属だった。その後ろから、年配の女中が一人、草履が脱げるのも構わず駆け込んできた。

「奥方様!奥方様!こちらにいらしたのですか!」

女中は駆け込むなり、その場に崩れ落ちた。老婆に取りすがって激しく泣いたが、言葉は断片的だった。

「薬を求めに出て、戻ってみたら御不在で。この年寄りが道を間違えて、同じ方々を探し回り、役所に届け出ましたのです。万一のことがあれば、どう申し開きをすれば良いかと」

女中は何度も声を詰まらせた。だが、服を凍りつかせたのはその泣き声ではなかった。後から入ってきた役人たちだった。屈強な男たちが、土間のど真ん中に一斉に膝をついて平伏したのだ。

「奥方様!私どもの不甲斐ないばかりに!」

物乞いでもなく、行商人でもなく、女中に使える役人たちだった。その役人たちが、今にも崩れそうな秋屋の土間に額を擦りつけて平伏していたのだ。服は台所の柱にすがりついたまま、その光景を眺めていた。

奥方様。あの病んだ、貧しい老婆が、奥方様と呼ばれること。それが何を意味するのか、服はまだ理解できなかった。ただ、胸の奥がすとんと落ちるような感覚だけがあった。

家はあっという間に見知らぬ人々でいっぱいになった。帷子が運び込まれ、薬箱が運び込まれ、医者が脈を取りに入ってきた。それまで服一人が守っていた部屋が、またたく間に服の居場所のない部屋になっていた。

「服、服はどこにおる?」

部屋の中で、老婆が服を探した。服は着物の裾を整えて部屋に入った。人々に囲まれて座る老婆が、手を伸ばして服の手首を掴んだ。三日目のあの夜と同じように、しっかりと。

「行かないでおくれ」

「お母様。これから良いところへ帰られるのです。おめでたいことでございます」

「服や。夕餉にはぬるいうちに蜂蜜を溶かして差し上げてください。苦いものはお飲み込みになりにくいので」

服は老婆の手を握ったまま、女中に向かって言葉をかけた。

「明け方に咳が出ましたら、背中をさすって差し上げてください」

自分の身の事を思っての言葉ではなかった。ただ、残していく人を案じる言葉だった。服はそこで初めて、自分の手首を掴む手を見下ろした。そして、部屋の中を見回した。豪華な寝具が敷かれ、薬箱が並べられ、役人たちがその外に列をなしていた。上等の着物を着た女中たちが、忙しなく立ち働いている。物乞いが座っていられる場所など、その部屋のどこにも残っていなかった。

三日間、ここは服だけの部屋だった。服だけが知っている咳の音があり、服だけが知っている老婆の癖があった。それが今、見知らぬ人々の手によって、あっという間に取り上げられていくようだった。

服は老婆の手を両手で包んだ。三日間、握り続けていたあの手だった。それから手をそっと解いて額に押しいただき、下がって深々と頭を下げた。

「娘、何をするのです」

「ふりは、ここまででございます、お母様」

服の額が床板について、離れた。

「三日間、私にはお母様が降りました。おかげ様で、三年ぶりにお母様の膳を整えることができました。この恩は、何を持ってもお返しできません」

頭を上げた服の目尻は赤くなっていたが、口元は笑っていた。服の胸のうちには、二つの思いが同時にあった。この人が良いところへ帰れることが嬉しい。だが、自分がここにいる理由はもう終わってしまった。喜びと痛みが、同じ場所から込み上げてきた。

老婆の言葉が咳で途切れた。「こほっ、こほっ…」。女中と医者が駆け寄って背中をさすった。その隙だった。服が一歩、また一歩と後ずさったのは。咳の合間に顔を上げた老婆の声が、震えて出てきた。

「何か一言、何か言い残して。言葉でも、何でも」

服は笑うだけだった。そして、次の間際にただ一言だけを残した。

「この上なく尊いお方に、何の役に立ちましょうか」

声にした瞬間、服は自分の言葉に自分で刺されたような気がした。役に立たないのは自分だけではない。物乞いのこの身のものは、あの人の生きる世界にはもういらないのだ。服は闇の中へ下がっていった。役人たちの間をすり抜けていく。綻び切れた裾を、誰も引き止めなかった。

秋屋には、服一人が取り残された。部屋には、老婆が横たわっていた場所が、そのままの形にへこんでいた。入口の方には、作り直された草履を履いた服の足が、ぽつんと立っていた。粥の火種が、ぱちんと音を立てて消えていった。服はそのそばに、長い間しゃがみ込んでいた。

「行ってしまわれた」

独り言が、火の上の灰に落ちた。

「送りの思いも届かぬまま、お見送りしてしまった」

服は老婆の使っていた薬碗を水で洗い、棚の上の一番高い場所に伏せておいた。いつかまた使う日が来るかのように、きちんと伏せておいた。誰がまた来るわけでもないのに、服はそれでもきちんと伏せておいた。

一方、大所へ向かうかごの上でのことだった。老婆が女中の袖をぐいと引き寄せた。とても病人の声には聞こえなかった。一語一語を押し出すような、しっかりとした声だった。

「伝えておくれ」

「はい、奥方様」

「母は、もう一人の娘を見つけた。息子には、その娘に自分の目で会ってほしいとな。息子には、道中であった娘のことを隠さず話してやってほしい。あの子がいなければ、私はあの夜を越えられなかったかもしれぬ。それだけは、正しく伝えておくれ」

女中はかごの跡を歩きながら、その言葉を何度も胸のうちで繰り返した。

翌朝、服はまた一人になった。空の袋を手に、市場への道だった。数日ぶりに歩く道なのに、足がやたらとつまずいた。市場はいつもと変わらなかった。飯屋の湯気が立ち、露店が並び、客引きの声が賑やかだった。変わったものは何もなかった。変わったのは、服一人だけだった。

「服や」と呼ぶ声のような気がして振り返ると、行商人の呼び込みだった。三日間で情がここまで深くなるとは、服自身も思っていなかった。

「ほら来たよ。旦那様のお通りだ」

行商人の一人が、くすくすと笑った。飯屋の向こうで、女将が箸をかき回しながら受けた。

「聞いたかい?あの年寄り、ただの年寄りじゃなかったんだってね。身分の高い奥方様だったらしいよ。役人たちが土下座して連れて行ったってさ」

「それで、あの物乞いは何をもらったんだって?」

「何をもらうも何も、しがみつくだけしがみついて、振り向きもされなかったってさ。ただで看病だけして捨てられた物好きってやつさ。ほら、香う娘さん。財産にありついたか?ありつくも何も、これしか手に入りませんでした」

服が荒れてひび割れた手の甲を見せると、言った当の者は、決まり悪そうに目をそらした。くすくすという笑い声だけが、服の背中を追ってきた。

服はその言葉を全て背中で受け止めながら、市場を回った。空の袋は、今日もなかなか膨らまなかった。秋に戻ると、土間には老婆が寝ていた場所が、まだそのままの形で残っていた。服はその場所をどうしても踏むことができず、入口の方に座った。そして、自分の足元に目を落とした。草履があった。かかとを丁寧に作り直された、あの草履だった。

服は草履を脱ぎ、両手で捧げ持った。手のひらに、明方の白みかけの光の下で一心不乱に進んでいった、あの針の跡が、こぼこと触れた。

「三日で母を得られたのなら、それはむしろ得な取引だった」

口ではそう言ったが、草履を持つ手の甲に、涙がぽたぽたと落ちた。服は声を立てずに泣いた。肩だけが、ひくひくと震えていた。三年前、母を見送った夜も、こうして泣いた。声を出すと隣の家に聞こえるので、服の泣き方はいつも声のないものだった。

泣きながら、服は老婆が寝ていた場所に向かって話しかけた。

「お母様、お食事は召し上がりましたか?」

返事があるはずもなかった。

「あちらでは、薄粥ではなく白いご飯を召し上がってください。私は元気にしております」

喉が詰まって、言葉が続かなかった。「元気だ」という言葉が、この世で一番難しい嘘だった。

その夜、大所の方の空が明るく染まっていた。灯りがいつになく多く灯され、夜空がぽっと色づいていた。服はその明かりに背を向けて横になった。大所の灯りも、尊いお方も、全て自分とは関わりのない別の世界の出来事だった。

「明日は、店仕舞いの前に南の市場に場所を移そうか」

服は明日の算段をしながら目を閉じた。懐のうちでぬくもりが残っているのは、作り直された草履の足だけだった。

その夜、大所の奥座敷では、床に伏せる母の傍らで、若い大官が一部始終を聞いていた。母を三日間支えたのが、姓も知れぬ物乞いの娘であったこと。看病の礼として差し出した銭さえ、固辞して受け取らなかったこと。息が乱れるたびに膝を貸し、眠る間も惜しんで薬を煎じたこと。

話を聞き終えた若い大官は、しばらく黙り込んだまま、庭の暗がりを見つめていた。それから、深く息をついていった。

「母上が身分を明かさぬまま助けられ、差し出した銭にまで拒ばれたのであれば、その娘の心に偽りはございません。まずは母上の恩人として、私自身が礼を申し上げとうございます」

翌日の朝。市場の外れで、先払いの声が響いた。

「控えを」

一度ではなかった。声は次第に近づいてきた。

「控えろ。控えろ」

粥をよそっていた飯屋の女将が、杓子を持ったまま顔を上げた。露店を片付けかけていた行商人たちの手が、一斉に止まった。

「また来た。あの行列だ。それにしても、何のご用だろう。忘れ物でもされたか」

人だかりが、波のようにうねった。土埃りが舞う通りの向こうから、かごが一丁、市場に入ってきていた。かごの後ろには、馬に乗った役人たちがいく人も続いていた。

服は、救い米の列の一番後ろに立っていた。物乞いは人に近づきすぎると押しのけられることを知っているので、服はいつも少し離れて立っていた。

真っ先に飛び出してきたのは、商家の家の者たちだった。表門を大きく開け放ち、商家の主人が裾を引き返しながら門前に立った。

「それ見ろ。あの尊いお方が、霊を追ってお戻りになるのだ」

市場の人々も、「かごは当然そちらへ向かうもの」と信じて疑わなかった。あの秋屋の乞食娘のことなど、誰の頭にもなかった。

ところが。かごは商家の屋敷の門前を、そのまま通り過ぎた。歩み一つ緩めず、通り過ぎたのだ。腰を低くしたまま固まってしまった商家の主人の背後で、仲介人の笑顔が無残に崩れた。かごは宿の前も通り過ぎた。女将が前掛けで手を拭きながら出迎えの支度をしかけて、慌てて手を下ろした。

かごは、まっすぐに救い米の列の方へと向かった。並んでいた人々は逃げた。かごが近づくにつれ、人々は押されるように散っていった。そして、ついに。よりによって、その列の一番後ろ。物乞いの娘の前で、かごがぴたりと止まったのだ。

がちゃんと、女将の杓子が地面に落ちた。役人たちが一斉に、服の方を見た。市場は、水を打ったように静まり返った。誰も口を利かなかった。

長い静けさの中で、かごの簾だけがゆっくりと上がっていった。中にいたのは、あの老婆だった。秋屋の土間でがたがたと震えていた、あの老婆だった。だが、姿がまるで別人だった。美しく結い上げた髪に、簪が真っ直ぐに刺され、深い緑の打ち掛けが肩を包んでいた。病の色はまだ抜け切ってはいなかったが、目の光だけは、三日間服が握っていたあの目のままだった。

先頭の役人が前に進み出て、声を張り上げた。

「この土地を納める国主の、菩提寺様の縁者。家老様の奥方にして、大官様の生みの母君にございまする」

市場に立つ誰もが、その名を耳にするのは初めてだった。市場が、ひっくり返ったような騒ぎになった。

「国主の菩提寺の縁者。家老の奥方。大官の生みの母」

その言葉が人々の口から口へと飛び交った。立っていた人々が、波のように地面に平伏した。昨日まで服を笑っていた口が、一斉に閉じられた。人々は地面に顔を伏せたまま、誰一人として服の顔を見ることができなかった。

ざわめきが引いていくにつれ、市場を包んでいたのは重い沈黙だった。仲介人の顔から血の気が引いた。女将は、落とした杓子を拾うことも忘れて立ち尽くしていた。

老婆は、かごから降り立った。女中が支えようとするのを、静かに手で制した。そして、土の上に立つ服に向かって、歩み寄った。

「服や」

寝込んでいた間はうめきの中でしか呼べなかったその言葉が、今度ははっきりとした意識の下で、市場の真ん中に響いた。

「母が迎えに来た」

服はその場に、へなへなと座り込んだ。空の袋が、手からするりと落ちた。何か言わねばと思うのに言葉が出ず、立ち上がらねばと思うのに足に力が入らなかった。ただ、涙だけが溢れてきた。いつも声を立てずに泣いていた服が、初めて声を上げて泣いた。

老婆は服の手を取り、そっと立たせながら言った。

「母が約束しなかったか。良くなったら見せてやるものがあると」

老婆の目が、かごの脇に並ぶ行列をゆっくりと見渡し、また服へと戻った。

「これのことだ。母が見せてやると思っていたのは、母の健やかな体と、母の生きるこの世のことだ。お前を迎えに来た」

その時、馬が一頭、前に進み出た。若い大官が馬から降りた。役人装束の整った男だった。新しく着任した大官、その人だった。

若者は、座り込んで泣く物乞いの娘の前まで歩み寄ると、驚くべきことに、先に深々と腰を折った。

「母を助けてくださった方と伺いました。私は、この土地を預かる大官の容利と申します」

大官ともあろう者が、物乞いに礼を尽くす。その光景に、平伏する人々の背中がもう一度ざわめいた。腰を折った後も、声を落とさなかった。市場中に聞こえよという声だった。

「見ず知らずの娘が、三日ずっと看病して助けてくださった。母が申しておりました。産んだ恩と生かした恩は、重さが等しいのだと」

若者が服に向かってもう一度、頭を下げた。

「大官としてではなく、一人の息子としての礼でございます」

頭を下げたままの背中を、市場の人々は言葉もなく見つめていた。

服は涙にまみれた顔を上げた。

「私は、物乞いです」

声がかれた。それでも言葉を続けた。

「それでも、よろしいのでしょうか?」

その問いが、市場のただ中に落ちた。若者は静かに首を振った。

「母の命を支えたのが誰であったか、この目で見た上でなお、問いを続けるものがおりましたら、その者の器量の方を疑いましょう。人の値打ちは、生まれた場所では決まりませぬ」

服は言葉を失い、ただ涙をこぼした。老婆は差し伸べた手を引っ込めなかった。それどころか、市場の人々が見守る前で、服の両手を自分の両手でしっかりと包み直した。水にふやけてひび割れたその手を、老婆は自分の方に押し当てた。

「服や。母が何と言った?人を卑下する心が、何よりの毒だと言わなかったか。嫁のふりはこれで終わりだ。まずは母の娘として、私どもの家へ来ておくれ。その上で、息子と心を通わせ、互いに望むなら、本当のお嫁さんになっておれ」

服の泣き声が、また高くなった。今度は老婆も一緒に泣いた。大官の見る前で、地面に伏す市場の人々の見る前で、二人は長い間泣き続けた。その様子をそっと見ていた輿の周りの者たちの間からも、すすり泣く声が漏れてきた。

若者は少し離れた場所からその様子を見つめ、静かに言葉を添えた。

「母の恩としてだけでなく、一人の人間として、あなたのことを知る時をいただきたい」

その声には、急いで答えを求める響きはなかった。

服を先に立てて向かった先は、日の当たらない裏山の、何もない小さな墓だった。木々が低く、膝にも届かない。服の実の母の墓だった。老婆はその前に酒を一杯備え、裾を整えて、立ったまま静かに手を合わせた。

「この土地の者です。娘さんはこれより、私の娘です」

風が墓場の草をはらりと撫でて過ぎていった。

「娘を語り託してくださって、ありがとうございます。これほど遠い世に残されて、さぞ心を痛められたことでしょう」

服は墓の前でもう一度泣いた。三年間一人で通っていた墓参りの道に、初めて隣に人がいた。山を降りる道すら、老婆は服の手を握って歩いた。

「墓前には、毎年一緒に来ようね。そなたの実の母君へのご挨拶を兼ねて」

服が泣きながら笑った。笑う顔の上に、涙の跡が照らしていた。二人の影が、夕暮れの山道に長く伸びていた。

服が屋敷に迎えられてから、いく月かが過ぎた。屋敷の暮らしは、物乞いの日々とはまるで違っていた。それでも服は、市場で身につけた癖を手放さなかった。粥の残りを無駄にせず、使用人にも丁寧に頭を下げた。若者は、服が身分によって人への態度を変えぬことを知った。服もまた、若者が役目の重さを人に見せず、奥の間の愁訴に目を通す人であることを知った。

二人が言葉をかわす夕べが、少しずつ増えていった。庭の松の下で、他愛もない話に笑い合う日もあれば、互いの過去について静かに語り合う夜もあった。やがて、二人は自らの意志で、姻の日を決めた。

その日は朝から、屋敷中が祝いの席のような賑わいに包まれた。女将は服と目を合わせることができず、祝いの粥を黙って炊き続けた。箸を動かす手が、いつもより忙しなく動いていた。やがて、女将は蜂蜜の壺を一つ、若者の薬箱のそばへそっと置いた。

祝い飯を受け取ったと知った若者が、女将に向かってぽつりと言った。

「俺たちは、人を見る目がなかったな」

「全く見抜けなかったのではなく、見る力がなかったのさ」

女将が杓子で鍋をかき回しながら答えた。自分自身への答えでもあった。

綿帽子をかぶった服に、老婆が近づいて、風呂敷包みを一つ差し出した。開けてみると、草履だった。雪のように白い新しい草履。かかとの縫い目が、物差しで測ったように整っていた。秋屋での、明け方の白みかけの光の下で見た、あの縫い目だった。

「あの手で、新しく仕立てた」

服は草履を胸に強く抱きしめた。祝いの晴れ着の袖が濡れるほど、長く抱きしめていた。かつて穴の開いた草履をつくろってくれた同じ手が、今度は真新しい履き物を仕立ててくれたのだった。

歳月が流れた。市場の外れの家は、取り壊されなかった。屋根を新しく葺き替え、戸を直し、庭を広げた。老婆と服は折りに触れてその家を訪れ、並んで縁側に座りながら、市場を生きる人々を眺めた。

腹をすかせた子供が通りかかると、服の方が真っ先に気づいた。人と少し離れて歩く子。空の袋を抱えた子。物乞いは人に近づきすぎると押しのけられることを知っているので、いつも少し離れて立つものだった。服はそんな子を呼び寄せて、縁側に座らせ、粥を整えてやった。子供が粥を食べると、服はその手に握り飯をもう一つ持たせた。

「今日の分と、明日の分は分けておくものですよ」

老婆が笑って尋ねた。

「服や。その知恵は、どこで身につけたのだ」

「今日と明日に分けることは、物乞いの日々に覚えました。そして、自分の分を誰かに差し出すことは、あの秋屋で教わりました」

服はもう一つの握り飯を、子供の懐へ入れてやった。しばしの間、二人は顔を見合わせて笑った。市場に夕方の風が吹き、縁側をさらさらと撫でて過ぎていった。

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