41年間、一度も遅刻をしなかった。それが白石千子の唯一の誇りだった。誰かに褒められたわけでも、昇進したわけでもない。ただ、毎朝暗いうちに起きて、薄暗い高圧室でビニール手袋をはめ、洗濯機の前に立ち続けた。66歳になった今日、その41年が一枚の封筒にまとめられて渡された。退職金は150万円。一度開けて確認し、すぐに封を戻した。数字を見ていると、なぜか泣きたくなった。
3月の終わり、郡立病院のランドリーは湿気と消毒用漂白剤の匂いで満ちていた。千子はその日も午前5時半に出勤し、白衣や患者の衣類を仕分けながら、普段と変わらない朝を過ごした。ただ、ロッカーに私物がほとんど残っていないことだけが、今日という日の異質さを示していた。
千子の手は、何十年もの労働を刻み込んでいた。指先はひび割れ、皮膚は荒れ、爪の根元には洗剤が染み込んで白くなった部分が残っていた。午後3時、上司の吉田係長から薄い封筒が渡された。「お疲れ様でした。長い間、本当に…」と、係長は言葉を切った。続きは出てこなかった。
千子は小さく頭を下げ、封筒を受け取った。ロッカーで私物をまとめながら、41年前の初出勤の日を思い出そうとしたが、記憶はぼんやりとしていて、若い自分の顔すら浮かんでこなかった。代わりに浮かんだのは、洗濯機の振動音、蒸気の厚さ、腰を痛めた同僚が泣きながら作業を続けていた冬の朝の光景だった。
建物の外に出ると、3月末の風が冷たく吹いていた。バスに40分揺られて帰宅した。築30年以上の一軒家は、玄関先の植木鉢が一つ倒れたまま放置されていた。千子は傾いた鉢を起こし、戸を開けた。
今では、夫の白石秀夫が昼間からテレビの前に座っていた。68歳、2年前に長距離トラックの運転手を退職した男だ。腹が出た体に、首元の伸びたポロシャツを着て、缶ビールを片手に持っていた。テレビにはゴルフの中継が映っていた。千子が玄関で靴を脱いでいると、秀夫は振り向きもせずに言った。
「遅かったな。今日で最後だろう。退職金はいくらだ?」
千子は上がり框に腰を下ろし、バッグから封筒を取り出した。
「150万円でした」
秀夫がようやくテレビから目を離した。立ち上がると、千子の前に手を差し出した。
「通帳も出せ」
千子は手を止めた。両手がほんのわずかに白衣の裾を探したが、もう白衣はなかった。
「あなた、膝がここのところ腫れていて、病院に行こうかと思っていたんです。それと、電気代が2ヶ月分…」
秀夫は手を引っ込めなかった。
「話を聞いているか。通帳を出せと言っているんだ」
千子はバッグの底から古い通帳を引き出した。秀夫はそれを受け取り、一度だけ中を確認してから、黙ってズボンのポケットに入れた。
その日の夕方、秀夫は外出した。千子は台所に立ち、じゃがいもと玉ねぎだけの味噌汁を作った。秀夫が戻ってきたのは夜の8時を過ぎた頃だった。両手に大きな紙袋を下げ、顔は上機嫌だった。
「ゴルフクラブを買ってきた。15万円のセットだ。仲間内でも古い道具で出るのは恥ずかしくてな」
千子は何も言えなかった。15万円は、自分の月の年金額が6万円だとすると、2ヶ月半分に相当する。
「それより、来月のゴルフ場の会員費を振り込まなきゃならん。通帳から出しておいてくれ」
夕食の間、2人はほとんど言葉を交わさなかった。秀夫はご飯を食べながら「おかずはこれだけか」と言い、それきりだった。
夜、千子は布団の中で天井を見上げた。150万円が消えた。通帳に入る前に秀夫の手に渡り、すでに数字ではなくなっていた。明日からは月6万円の年金が唯一の収入になる。電気代、水道代、食費、国民健康保険の掛金。頭の中で計算しようとしたが、6万円の中から何をどう削っても数字が合わなかった。
41年間、毎月の給料から少しずつ貯めてきた郵便貯金の口座がある。秀夫には知らせていない口座で、今の残高は32万円ほどだった。そこに手をつけることは、今まで考えたことがなかった。いざという時のために取っておいた。しかし、今がいざという時ではないのなら、いつなのか。
翌朝、千子は5時半に目が覚めた。体の習慣が抜けていなかった。秀夫が起きてきたのは9時を過ぎた頃だった。
「来月、仲間内でコースを回ることになった。宿泊ありで、参加費が1人3万5000円だ。通帳から引き出しておいてくれ。あと、昼は外で食べてくるから、弁当は入らん」
千子はスポンジを握ったまま、流しの底を見ていた。3万5000円。郵便貯金の残高が頭をよぎった。それを使えば、28万5000円になる。その次に崩す理由が、また必ず来る。
退職してから2週間が過ぎた頃には、食卓は目に見えて貧しくなっていた。千子は朝一で安売りされるもやしを買い、それを油で炒めただけのものに、申し訳程度の醤油をかけて出すことが増えた。魚は切り身ではなく、骨と皮ばかりの安いアラを煮付けにして、身の柔らかい部分だけを秀夫の皿に取り分けた。自分の分には、骨の周りに残った筋ばかりの肉をつついて済ませた。
秀夫は箸で皿をかき回しながら顔をしかめた。
「またもやしか。肉はないのか?」
千子は流しの前から振り返らずに答えた。
「今月は少し厳しくて。魚のアラなら安く手に入ったので」
秀夫は茶碗を音を立てて置いた。
「貧乏臭い飯ばかり食わせやがって。俺はゴルフ仲間と高級な店で飯を食う身分なんだぞ。家でこんなものを食わされたら、外で恥をかく」
千子は何も言わず、もやしの最後の一口を飲み込んだ。
その日の午後、秀夫はゴルフ場から戻ってくると、不機嫌な顔で玄関の扉を乱暴に閉めた。
「今日、コースの後にみんなで焼肉に行こうという話になった。俺だけ先に帰ってきた」
「どうしてですか?」
「金がないからに決まってるだろう。あいつらは退職金で別荘を買ったり株をやったりしている。俺は年金とお前の泣けなしの退職金しかない。情けない話だ」
千子は黙って立っていた。自分の退職金が「泣けなしの」という言葉で呼ばれたことが、胸の奥に小さな棘のように刺さった。41年間、毎日洗剤の匂いを吸いながら積み上げてきたものが、秀夫にとっては取るに足らない金額でしかないらしかった。
夕方、千子は買い物籠を手に外へ出た。実際には買うものはほとんどなかったが、家の中にいると息が詰まりそうだった。近所の公園まで歩き、ベンチに腰を下ろした。すると、植え込みの茂みに車が見え、空缶を一つずつ拾い上げては、肩から下げた袋に入れている老女がいた。目が合うと、老女は驚いた様子もなく、ふっと口元を緩めた。
「あんたも、お金のかからない老後の楽しみを探してるのかい? ここらじゃ、缶拾いのことを『ゼロ円の趣味』って呼んでるんだよ」
老女は名を大塚フクと名乗った。70歳で夫を10年前になくし、今は一人暮らしをしているという。年金だけでは家賃と光熱費を払うのがやっとで、空き缶を集めて換金する金額をわずかな足しにしているのだと、フクは淡々と語った。
「最初は恥ずかしくてね。近所の人に見られるのが嫌で、夜にこっそり拾ってた時期もあった。でも、そのうちどうでも良くなる。生きるのに恥も外聞もないってことを、こういう年になって初めて知るんだよ」
千子は、フクの言葉を聞きながら、自分の将来がそこに重なって見える気がした。
家に戻ると、玄関を開けた瞬間、廊下に自分の衣類が散乱しているのが目に入った。箪笥の引き出しが乱暴に引き出され、中身が床にぶちまけられていた。秀夫が顔を出した。手には何かの切れ端を持っていた。
「お前、こんなところに金を隠していたのか」
秀夫が手にしていたのは、郵便貯金の通帳だった。箪笥の奥、古い箱の底に隠してあったものだ。
「これは、もしもの時のために少しずつ貯めていたもので…」
「32万もあって、なぜ最初から出さなかった? お前は俺に隠れて、自分だけの金を貯めていたのか」
「隠していたわけでは、ただ何かあった時のために…」
「何かあった時のためなら、今がその『何か』だろう。来月のゴルフ場の会費も払えない。焼肉にも行けない。これがその『何か』じゃなくて何だ」
秀夫は通帳を自分の上着の内ポケットにねじ込んだ。千子は床に散らばった自分の衣類を一枚ずつ拾い集めながら、何も言い返せなかった。
その夜、秀夫は早々に寝室に引き上げた。千子は一人、居間の電気を消さずに座っていた。32万円。41年かけて、給料の中からほんの少しずつ抜き出して貯めてきた金額だった。それが、今日、たった数分で秀夫の内ポケットに消えていった。
翌朝、秀夫はいつになく早く起きてきた。千子が台所で湯を沸かしていると、秀夫は椅子に座りながら唐突に言った。
「お前、働きに出ろ」
千子は手を止めた。
「働くと言っても、どこにですか?」
「どこでもいい。お前の年金じゃ、来月のゴルフ会費すら払えないんだ。66ならまだ働けるだろう。パートでも何でも探してこい」
千子は湯の立つ薬罐を見つめながら、しばらく言葉を返せなかった。41年働いて、ようやく退職したばかりだった。体のあちこちが悲鳴を上げていたが、それを秀夫に訴えたところで聞き入れられないことは分かっていた。
「わかりました。探してみます」
その日の午後、千子は近所の図書館に出向き、情報誌を手に取った。60代を歓迎する求人は限られていた。清掃、警備、調理補助。どれも体力を要する仕事ばかりだった。一枚の求人が目に留まった。市の外れにあるパチンコ店のトイレ清掃員の募集だった。時給は安く、勤務時間は夜の8時から深夜2時までと書かれていた。
翌朝、秀夫が外出したのを確認してから、千子は電話番号の書かれたメモを取り出した。電話をかけると、5回目で男の声が出た。
「はい、タマコパチンコです」
「あの、求人誌を拝見してお電話しました。清掃のお仕事のことで」
「ああ、清掃ね。今日来られます? 面接ったって、大したことは聞かないんで。本人確認と、体が動くかどうかの確認くらいです」
千子は壁の時計を確認した。午前10時を少し過ぎていた。
「はい。今から伺えます」
タマコパチンコは、千子が住む住宅街からバスで30分ほど離れた市の外れにある店だった。バスを降りると、国道沿いに大型トラックが絶え間なく走り抜けていた。裏口の扉は鉄で、蝶番が錆びていた。千子がノックすると、40代と思われる痩せた男が出てきた。武将髭を生やし、作業着のような格好をしていた。
「白石さん? さっき電話した人。入って。俺、店長の池田です」
池田は、店の裏手にある小さな部屋に千子を案内した。折りたたみの椅子が2脚と、小さなテーブルが置いてあるだけの部屋だった。
「清掃の経験は?」
「病院のランドリーで41年間、洗濯と清掃を担当していました。先月退職しました」
池田は少し目を上げた。
「41年。それはすごいね。うちで求めてる仕事はトイレ清掃がメインです。男女それぞれのトイレと喫煙所。夜の8時から深夜2時、週5日。時給は980円です。きついですよ。正直に言うと、お客さんが多い日は汚れもひどいし、深夜になると体に応える。前に来た人は、何人か1週間もせずにやめてます」
「やれます。病院の洗濯室でも、汚れ物の扱いには慣れています」
池田はタバコを灰皿で押しつぶした。
「じゃあ、明日から来てください。制服のエプロンは高圧室のロッカーにあります。靴は滑らないものを履いてきてください。それだけです」
翌日の夜、千子は午後7時半に家を出た。秀夫には「近所の知り合いのところに顔を出す」とだけ言っておいた。秀夫はテレビを見ながら「ああ」と言っただけで、それ以上は何も聞かなかった。
高圧室には先客が一人いた。50代と思われる小柄な女性で、千子と同じ緑色のエプロンを身につけようとしていた。女性は千子の顔を見て軽く会釈した。
「今日から来た方ですか? 私は本田と申します。ここで清掃を3ヶ月ほどやってます」
本田は物静かな人だった。清掃道具のある場所、各トイレの担当エリアの分け方、汚れがひどい時の手順、記録用紙の書き方。必要なことを、余分な言葉なしに教えてくれた。
清掃カートを押して店内の奥へと向かうと、自動ドアが開いた瞬間、タバコの煙と騒音が一気に押し寄せてきた。数百のパチンコ台が列をなし、それぞれから電子音と光が放たれていた。
女性トイレの扉を開けると、外の騒音が少し遠くなった。千子はビニール手袋をはめ、スプレーボトルを手に取り、最初のブースから清掃を始めた。汚れは想像していたよりも手ごわかった。便器の縁に固まった汚れ。床のタイルの目地に入り込んだ汚れ。鏡の水垢。千子はブラシを動かしながら、41年間で身につけた手順を淡々と実行した。
深夜12時を過ぎ、本田から交代で15分だけ休んでいいと声がかかった。千子が廊下の椅子に腰を下ろすと、廊下の向こうから、やせた女性がカートを押して歩いてきた。目がくぼみ、頬がこけていたが、その輪郭に千子は見覚えがあった。
「松岡さん?」
女性が顔を上げた。目が合った瞬間、女性も表情を変えた。
「白石さん…」
松岡ユリ。千子がかつて同じ病院のランドリーで働いていた古い同僚だった。千子と同じ66歳のはずだった。しかし、今廊下に立っているユリは、それよりずっと老けて見えた。頬の肉が落ち、目の下に濃い影が刻まれていた。
「こんなところで…」と、ユリは小さく笑った。喜びの笑ではなかった。懐かしさと、この場所で会ってしまったことへの気まずさが混ざったような、複雑な表情だった。
「白石さんも、ここで働いてたの。私は先週から」
「松岡さんは、いつから?」
「3ヶ月くらい前から。退職してから少し経って、お金が足りなくなって」
2人はしばらく黙っていた。やがてユリが口を開いた。
「息子がね、40歳になったのに、仕事をやめてしまって。正社員だったのに、上司と揉めたとかで、急に辞表を出したらしくて。それから8ヶ月、家でゴロゴロしてる。家賃も光熱費も食費も、全部私の年金から出てる。5万8000円の年金で2人分の生活をしようとしたら、足りるはずがない。だから、ここに来た」
千子は答えに迷った。ユリの状況は、千子自身の状況と似ているところもあれば、違うところもあった。千子の場合は夫が原因だった。ユリの場合は息子だった。しかし、どちらも行き着く先は同じ。この深夜の廊下だった。
「うちも主人が、なかなか…」
千子はそれだけ言った。それ以上説明しなくても、ユリには伝わるものがあるように思えた。ユリは短く頷いた。
「そうか」
それだけだった。余分な同情も助言もなかった。それが千子にとってはむしろ救いだった。
それから30分後、千子が喫煙所の床を拭いていると、廊下の方から鈍い音がした。何かが倒れる音だった。千子はブラシを置き、廊下に出た。ユリがトイレの扉のそばに倒れていた。床に横向きに倒れており、カートが傾いて、清掃剤が少しこぼれていた。千子は駆け寄り、ユリの肩に手を置いた。
「松岡さん、松岡さん」
ユリの目は細く開いていた。意識はあるようだったが、返事ができなかった。額が冷たい汗で濡れており、顔色は蛍光灯の光の下で青みが勝って見えた。千子は廊下の端まで走り、「人が倒れました」と大きな声で呼んだ。従業員が救急車を手配した。千子はユリのそばに膝まずいたまま、ユリの手を握り続けた。
「もうすぐ来ますから。もうすぐ来ますから」
救急車は10分ほどで到着した。ユリが運ばれていく時、一瞬だけ横を向いた。何かを言おうとしていたのかもしれなかったが、声にはならなかった。扉が閉まり、救急車のエンジン音が遠ざかっていった。
廊下に静寂が戻ってきた。床にはこぼれた清掃剤の跡が残っていた。池田が千子のそばに来て言った。
「悪いんですけど、残りの清掃、続けてもらえます? 一人いなくなっちゃったんで」
池田の口調に悪意はなかった。これが仕事の現場だということを、千子は分かっていた。
「はい」
千子は答え、清掃道具を手に取った。誰もいなくなった廊下で、千子はユリが倒れた場所の床を拭いた。
月末、仕事を終えてロッカーに戻ると、池田が封筒を手渡した。
「今月分です。お疲れ様でした。松岡さんの代わりに色々やってもらって助かりました」
千子は高圧室で一人になってから、封筒を開けた。4万円が入っていた。帰り道、千子は頭の中で使い道を考えた。電気代の督促状の金額がいくらだったか。膝の痛み止めを薬局で買えば一パックいくらになるか。全部を解決するには足りないが、優先順位をつければ、今月を凌ぐことはできるかもしれない。それだけでも十分だと思った。
翌朝、目が覚めると、枕元のバッグの口が開いていた。中を確かめると、財布も保険証もある。しかし、封筒がなかった。バッグを逆さにして中身を全部出した。封筒はなかった。
居間に行くと、秀夫は玄関の鏡の前に立ち、タグが切られたばかりらしい新しいポロシャツの襟を整えていた。明るい米色の、ロゴが入ったシャツだった。
「あなた、私の封筒」
千子は声をかけた。秀夫は鏡から視線を外さずに答えた。
「使った。今日、ゴルフ仲間と焼肉に行くことになったんだ。先月行けなかった分を取り返さないとな。お前は毎晩遅くまで何かやってるんだろう。少しは家計に入れるのが筋というものだ」
千子はその場に立ち竦んだ。
「あれは、電気代を払う予定だったんです。それと食費も…」
「細かいことは後でどうにかなる。お前も少しは融通を聞かせろ」
秀夫は玄関の棚から車の鍵を取り上げた。千子は秀夫の腕に手を伸ばした。
「待ってください。返してもらわないと、電気が止まってしまいます」
秀夫は腕を払いのけた。千子の体がよろめき、後ろに下がった拍子に、冷蔵庫の前の段差に足が引っかかり、体のバランスが崩れた。とっさに手をつこうとしたが間に合わず、左の膝が冷蔵庫の下隅に打ち付けられた。鈍い衝撃が走り、千子はその場にしゃがみ込んだ。秀夫は一瞬だけ振り返り、千子の様子を見た。しかし、何も言わず、玄関の扉を開けて出ていった。
扉が閉まる音が台所の空気を振わせた。千子はしばらくの間、冷蔵庫の前の床にしゃがみ込んだまま動かなかった。膝の内側が痛んだが、それよりも、体全体の力が抜けたような感覚の方が強かった。
膝を打ち付けた翌日、千子は着替えの時、初めてその箇所を確認した。膝の皿の外側に青紫色の痣が広がっていた。病院に行けば診察代がかかる。今の千子にその余裕はなかった。濡れたタオルを固く絞り、痣に当ててしばらくそのままでいた。秀夫は何も聞かなかった。昨日の出来事がなかったかのように、新聞を広げてテレビをつけた。
その週から、秀夫の行動が変わり始めた。ゴルフバッグは玄関の隅に立てかけられたまま動かなくなり、代わりに秀夫は午前中から外出するようになった。帰宅時間はまちまちで、上機嫌で「今日は2万勝った」と言うこともあれば、不機嫌なまま黙って夕食を食べ、早々に寝室に引き上げることもあった。千子はその波のパターンを数日のうちに把握した。秀夫はパチンコを始めていた。千子は秀夫のパチンコについて直接何かを言うことはなかった。言ったところで、どういう反応が返ってくるかは想像するまでもなかった。
ある水曜日の朝、千子が洗濯物を干して玄関を入ると、郵便受けの中に数通の郵便物が届いていた。電力会社からの請求書のチラシが数枚。そしてその中に、一際目立つ赤い封筒があった。差出人は、見たことのない会社の名前だった。消費者金融の会社のようだった。宛名は夫の名前だった。
千子は居間のテーブルに腰を下ろし、封筒を開けた。折りたたまれた書類を広げると、びっしりとした文字が並んでいた。ゆっくりと読み始めた。最初の段落を読んだ時、意味がうまく入ってこなかった。もう一度最初から読み直した。「担保」という言葉が出てきた。その担保物件の住所として記載されていたのは、今、千子が暮らしているこの家の住所だった。借入金額は500万円。返済が滞っており、このまま対応がなければ、担保の処分手続きに入る。期限は30日以内とある。
千子は書類をテーブルに置いた。両手がかすかに震えていた。秀夫がこの家を担保に入れて、500万円を借りていた。千子は何も知らなかった。
秀夫が帰ってきたのは夕方だった。千子は封筒を差し出した。秀夫は封筒を受け取り、中の書類を引き出した。一瞬だけ、目の周りの筋肉が緊張したのが分かった。しかし、それはほんの一瞬ですぐに表情が戻った。
「ああ、これか」
「『これか』とはどういうことですか? 知っていたんですか?」
「知ってるも何も、俺が借りたんだから当然だろう」
千子は言葉を失った。
「いつのことですか? なぜ私に…?」
「お前に言う必要はない。俺の名義の家を担保にして、俺が借りた金だ。お前に関係のあることじゃない」
「関係のあることじゃない…? 私もここに住んでいます。ここが取られたら、私はどこへ行けばいいんですか?」
「そんなことは考えてなかった」
秀夫はあっさりと言った。その言葉があまりにも軽かったために、千子はしばらく何も言えなかった。考えていなかった。40年間一緒に暮らした妻がどうなるかを、秀夫は考えていなかったのだ。
「500万円を何に使ったんですか?」
「パチンコと飲み代だ。あとはゴルフの会費の大部分とか、色々だ」
「全部ですか?」
「全部だ」
千子はテーブルの上の書類を見た。500万円。千子が41年間働いて受け取った退職金の3倍以上の金額が、パチンコと飲み代に消えていた。
「なぜ、こんなことを? なぜ、私に一言も言わずに?」
「お前に言えば反対するだろう。反対されても、俺の意思は変わらない。だったら、最初から言わない方が早い」
「反対するかどうかじゃなくて…。夫婦の財産でしょう?」
「この家は名義は俺だ。名義が俺である以上、俺が決めることだ。お前が何十年家事をしようが、それは関係ない」
千子はその言葉を聞きながら、40年分の記憶が一気に頭の中を流れていく感覚を覚えた。この家の雨漏りを直したのは千子だった。台所のタイルが剥がれた時も、千子が業者に連絡し、支払いをした。秀夫が長距離の仕事で家を開けている間、この家を守り続けたのは千子だった。それが、「関係ない」という一言で切り捨てられた。
「あなたは…、私が41年間、この家で何をしてきたか分かっていますか?」
秀夫は千子の顔をまっすぐ見た。
「分かってる。お前は家事をしてた。それはそうだ。でも、俺は外で稼いで、この家を持てるようにしたんだ。どちらが重要かは、言うまでもないだろう」
千子は秀夫の目を見た。秀夫は本気でそう思っているのだということが、その目から伝わってきた。怒りで言っているわけでも、千子を傷つけようとして言っているわけでもない。秀夫にとって、それは当然の論理だった。それが千子には、怒鳴られるよりも重くのしかかった。
「30日で、この家はどうなりますか?」
「どうにもならなければ、取られるだろう。俺は妹のところに少し世話になるつもりだ。お前はまあ、なんとかするだろう」
翌朝、千子が台所で朝食の支度をしていると、寝室から物音がした。しばらくして、秀夫が大きな旅行鞄を手に廊下に出てきた。鞄は膨らんでいた。
「行ってきます」
「いつ戻ってくるんですか?」
「分からん。妹のところでしばらく様子を見る。借金取りが来ても、向こうには関係ないからな。お前は一人の方が静かでいいだろう」
「私を、ここに置いていくということですか?」
「お前には年金がある。パチンコの仕事もあるんだろう。なんとかなる」
千子は鞄を持った秀夫の腕に手を伸ばした。
「この家はどうするんですか? 私はどこへ行けばいいんですか?」
秀夫は腕を引いた。千子の手が虚しく空を切った。
「それはお前が考えることだ。俺はもう決めた」
秀夫は棚の上に置かれていた千子の小銭貯金の陶器の瓶を手に取り、ためらいなく逆さにした。ジャラジャラと小銭が玄関の床に落ちた。秀夫はそれを上着のポケットに入れた。千子はそれを見ていたが、止めなかった。止めようとする力が、もうどこにも残っていなかった。
秀夫は鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。靴を履きながら、一度だけ振り返った。
「お前も、少し自分で何とかすることを覚えろ。俺に頼りすぎだ」
玄関の扉が閉まった。閉まる音は、特別大きくも小さくもなかった。ただ、扉が閉まり、鍵がかかる音がした。そして、静寂が戻ってきた。
千子は台所の椅子に座り込んだ。朝食の支度は途中のままだった。薬罐の上で湯が沸き、音が鳴り続けていた。千子はしばらくの間、その音をただ聞いていた。
秀夫がいなくなってから、千子は家の中を歩いて回った。特に目的があったわけではなかった。ただ、急に広くなったような気がする家の中を、確かめるように歩いた。寝室のドアを開けると、秀夫が使っていた布団が乱れたままだった。千子はその布団の乱れを直し、枕を揃えた。なぜそうするのか、自分でも分からなかった。ただ、手が動いた。
夕方になると、千子は近所を少し歩いた。秀夫がいなくなったことを誰かに話したいわけでもなく、ただ外の空気を吸いたかった。住宅街の路地を一回りして帰ってきた。玄関の鍵を開けながら、「ただいま」を言う相手がいないということを初めて意識した。
数日後、千子はいつも通りパチンコ店に出勤した。高圧室でエプロンをつけながら、本田にユリのことを尋ねてみた。
「松岡さん、その後どうなったか、何か聞いていますか?」
本田は首を振った。
「店長に聞いたら、まだ入院してるって。それ以上は分からないって言われた」
深夜2時に仕事を終え、千子は一人で夜道を歩いて帰った。家に着き、電気をつけた。今は誰もいない空間を見渡し、千子は上着を掛けた。台所で茶を淹れ、椅子に座って飲んだ。赤い封筒が目に入った。残り23日。
布団に入ってから、千子はしばらく眠れなかった。今まで眠れない夜には、隣で秀夫の寝息が聞こえていた。今夜はその音がなく、家の中が本当に静かだった。30日の期限が来て、家が差し押さえられたとして、その後はどうなるのか。千子は頭の中でその先を想像しようとした。住む場所を失った時、千子が頼れる人間は誰もいなかった。子供はいない。兄が一人いたが、20年以上前に疎遠になり、今どこにいるかも分からなかった。友人と呼べる人間も、長年働き続ける中で、いつの間にかいなくなっていた。秀夫の存在が、千子が外の人間関係を持つことを妨げていた側面もあった。秀夫は、千子が女性同士で食事に行くことを快く思わなかった。電話で長話をすることも好まなかった。千子はそういう機会を少しずつ断り続け、いつの間にか連絡を取る相手が誰もいない状態になっていた。
公園で会ったフクのことを思い出した。夫を10年前になくし、一人で生活費を工面して、「恥ずかしいと思う気力もなくなった」と言っていたフク。千子はあの時の言葉を聞いて、遠い未来の話のように感じていた。しかし、今、それは遠い話ではなくなっていた。
英雄が出ていってから10日が経った。家は静かなままだった。千子は毎朝5時半に目を覚まし、台所で湯を沸かし、一人分の食事を作った。一人分の食事は、二人分の時よりもずっと少量で良かった。米びつの減りが遅くなり、それだけが唯一、この状況のわずかな慰めだった。
役所には2度足を運んだ。最初は法律相談の窓口に、次は住宅支援の窓口に。担当者はどちらも丁寧に話を聞いてくれたが、千子の状況を即座に解決する制度はないことが、話をするうちに明らかになっていった。夫が担保に入れた家の問題は、まず法的な手続きが必要で、それには弁護士に相談することが必要で、弁護士への相談には費用がかかる。そういう説明を受けるたびに、千子の手元にあるものの少なさを改めて突きつけられた。
2度目の役所帰りに、千子は公園のベンチに立ち寄った。フクがいるかもしれないと思ったが、その日は空缶を拾う人影はなかった。
12月の第1週に入ると、冷え込みが急に厳しくなった。夜、電気ストーブのスイッチを入れようとしたが、ウンともスンとも言わなかった。翌日、電力会社から通知が届いており、それでようやく電気の供給が止まったことを知った。電気代の督促状に対応できていなかったのだ。次の手続きをするためには、未払い分と手数料を支払う必要があり、千子の今の手元にある現金では、すぐには対応できなかった。
電気のない夜は、思っていたよりも暗かった。ろうそくを一本探し出し、台所のテーブルに立てた。小さく揺れる炎の光の中で、千子は手のひらを眺めた。漂白剤で荒れた指先が、ろうそくの光に照らされてオレンジ色に見えた。寒さは、深夜になるほど増した。千子は毛布を3枚重ね、その中に体を縮こまらせた。天井の木目は暗くて見えなかった。千子は目を開けたまま、闇の中で息をした。
翌朝、千子は近所の銭湯まで歩いた。湯に浸かりながら、体の芯まで染み込んでいた冷えが、少しずつほぐれていくのを感じた。湯船の中で千子は目を閉じた。あと何日、こうして銭湯に来られるだろう。銭湯代は1回450円。1週間で3000円を超える。それだけの余裕が、あとどれくらい続くか。
12月の第2週のある朝、玄関の郵便受けに一通の書類が入っていた。封筒ではなく、配達証明の形で届けられた書類だった。千子は居間のテーブルに座り、それを開いた。読み進めていくうちに、千子の手が止まった。差し押さえの手続きが正式に開始されるという通知だった。来週中に、家の鍵を指定の場所に返却し、退去しなければならないとある。
千子は書類をテーブルに置き、両手を膝の上に置いた。部屋の中を一度見回した。台所の棚に並んだ食器。寝室との間の引き戸。居間の隅に積み上げた毛布。何十年もかけて少しずつ積み重なってきた生活の痕跡が、そこにあった。
その日の午後、千子は家の中を一部屋ずつ歩いて回った。整理をしようとしたわけではなかった。ただ、歩きたかった。台所には、40年以上使い込んだまな板があった。表面に無数の包丁の跡がついており、縁が少しかけていた。寝室には、千子が長年使ってきた裁縫箱があった。蓋をそっと開けて、閉じた。廊下の奥の押し入れを開けると、秀夫が残していった衣類がいくつかあった。千子はそれを眺め、押し入れを閉めた。
夕方近くになって、千子はコートを羽織り、家を出た。行き先を決めないまま、玄関の鍵を閉め、歩き始めた。住宅街の路地を抜け、千子の足は自然と公園の方へ向かっていた。公園に入ると、奥のベンチへ向かいながら植え込みを見た。そこに、いつもの人影があった。大塚フクだった。今日は缶を拾っているのではなく、植え込みの脇に置いた段ボールの上に腰を下ろし、何かを食べていた。コンビニの袋に入ったらしい、おにぎりだった。フクは千子に気づき、顔を上げた。
「来たね」
千子はフクの近くで立ち止まった。
「ここにいてもいいですか?」
「もちろん」
フクはおにぎりの包みを畳みながら、隣の段ボールを指した。足元には、もう一枚の段ボールが畳まれていた。千子はそれが何を意味するか分かっていた。それでも、そのままフクの隣に座ることにした。段ボールを広げ、地面に置き、その上に腰を下ろした。地面からの冷気が、薄い段ボールを通して伝わってきた。
「家のこと、どうなった?」
フクが尋ねた。千子は驚いた。前回会った時、そんな話をした覚えはなかった。しかし、フクには千子が置かれている状況の輪郭が、何か見えているのかもしれなかった。
「来週中に、出ることになります」
フクは頷いた。驚いた様子も、同情した様子もなかった。
「そうか。行くところはあるか?」
「ありません」
フクはしばらく黙っていた。公園の奥でサッカーをしていた子供たちが、親に呼ばれて帰っていった。だんだんと人が減り、公園が静かになっていった。
「私が最初にここで夜を明かしたのは、3年前の冬だ」と、フクが静かに話し始めた。
「あの時は惨めで情けなくて、夜中ずっと泣いていた。でも、泣いても誰も来なかった。泣き終わったら、自分で起き上がるしかなかった。それから、少しずつ知恵がついてきた。どこに行けば温かい食事がもらえるか、どこで雨をしのげるか、どこに相談すれば次の手がみえてくるか。全部、やりながら覚えた。最初から知っていた人間はいない。みんな、そうやって覚えていく」
「私には…」と、千子は言いかけた。「私には、そういうことを聞ける人が誰もいなくて」
「知ってる」と、フクは千子の方を見た。「だから、私がいる」
千子はフクの目を見た。フクの目は穏やかだったが、その奥には、長い時間をかけて磨かれてきた静かな強さのようなものがあった。フクはダン袋の中から、折りたたまれた紙を取り出した。手書きのメモで、いくつかの住所と電話番号が書かれていた。
「これは、無料の食事を配っているところ。曜日と時間が決まってるから、それに合わせていく。こっちは、生活保護の申請ができる場所。役所に行っても追い返されることがあるから、ここのスタッフに同行してもらうと通りやすい」
千子はメモを受け取り、暗い中で文字を読もうとした。フクがスマートフォンのライトを向けた。電気のない家に住んでいる千子より、フクの方が実用的な道具を持っていた。
「生活保護というのは、私でも申請できるんですか?」
「できる。66歳、資産なし、年金だけで最低生活費を下回っていれば、条件は満たしてる。ただ、申請してもすぐには下りないし、審査の間が一番しんどい。だから、とにかく早く動くことだ。役所で断られても、諦めるな」
千子はメモをコートのポケットにしまった。こういう情報がどこにあるのか、千子は知らなかった。役所の窓口でパンフレットをもらうことはできたかもしれないが、窓口に並んでいる間に何度も心が折れかけた。フクのように、実際に経験した人間から直接教えてもらうことと、書類を読むこととは、全く別の重みがあった。
公園はすっかり暗くなっていた。街灯の光が地面に丸く落ちていた。千子とフクは、段ボールの上に座っていた。しばらく2人は黙っていた。
「怖いか」と、フクが訪ねた。千子は少し考えてから答えた。
「怖いかどうか、よくわからないんです。情けないとか、惨めだとかいう気持ちも、あまり出てこなくて。ただ、これから何をすればいいのか、何から手をつけて良いのか、それだけがぼんやりと」
フクは頷いた。
「それでいい。怖いと思う余裕もないほど切羽詰まってる時は、案外落ち着いているものだ。怖くなるのは、少し余裕ができてからだ」
千子は、その言葉を聞きながら、自分がどういう状態にあるのかを改めて考えた。夫に去られ、家を追われ、持っているものがほとんどない。それでも、今この瞬間は泣いていなかった。感情が動いていないわけではなかった。ただ、感情よりも先に、次に何をするかという計算が頭の中を占めていた。
「41年、働いたんですよ」と、千子はぽつりと言った。「それだけが、ずっと自分の誇りだった。遅刻も休みもしなかった。でも、退職した日から、こういうことになって…」
フクは何も言わなかった。答えを求めているわけでも、慰めを求めているわけでもないことが、フクには分かっているようだった。
「こんなになるって分かってたら、どうしただろうって考えることがあります。でも、分かってたとしても、他の仕様もなかったと思う。結局、同じだったと思う」
「そうだ」と、フクが短く言った。「みんなそうだ。だから、これからのことだけ考えればいい」
夜風が公園の木々の間を通り抜けていった。千子はコートの襟元を合わせた。段ボールの上に座ったまま、千子は自分の手を見た。41年間、毎日何かを洗い、拭き、磨いてきた手。今夜、この手は何も持っていなかった。仕事道具もなく、財布も薄く、帰る家も残り少ない。それでも、この手は今日もここにあった。
フクが立ち上がり、少し離れた植え込みの近くに移動した。夜になってからも、空缶の見回りをするらしかった。千子はその背中を見ていた。70歳になっても、一人でここに立っているフクの後ろ姿が、千子の目に焼きついた。
千子は段ボールの上に座ったまま、しばらくの間空を見上げた。雲が出ており、星はほとんど見えなかった。遠くから電車の音が聞こえた。誰かが今も電車に乗り、どこかへ向かっている。千子が知らない生活が、この町のあちこちで続いていた。ポケットの中のフクのメモが手のひらに触れた。千子はそれをしっかりと握った。
来週、家を出なければならない。行き先はまだない。持っているものはほとんどない。それでも、今夜、千子の隣にはフクの言葉と一枚のメモがあった。それが今の千子に与えられた全てだった。しかし、千子はそのメモをポケットの中でしっかりと持ち続けた。明日、また一日が始まる。今夜が終われば、また朝が来る。それだけのことが、今の千子の中で、小さくしかし確かに息づき続けていた。



