旅のホテルのロビーで、課長が俺の部屋を勝手にキャンセルしたと笑いながら言い放った瞬間、周りの営業部の連中が爆笑し始めた。中には腹を抱えて涙を流している者までいる。俺の中で何かが「プツン」と切れた音がした。
「無能のお前は野宿でいいよな」
課長、遠藤正義はそう言ってケラケラと笑った。三十歳の俺、鏡大地が、高卒だからといってここまで見下される理由が本当にあるのだろうか。
俺は今の会社に高卒で入社した。当時は小さなアットホームな会社で、社員みんなが親切で、学歴なんて関係なく楽しんで働くことができた。営業成績もトップをキープし、この会社と仲間たちに恩返ししたいと心から思っていた。
しかし、前任の課長が退職し、エリート意識の塊のような遠藤課長がヘッドハンティングでやってきて、状況は一変した。彼は有名大卒であることを誇りに思い、高卒の俺を見下すようになった。やがて大卒以外の社員は事務作業や雑用しかさせてもらえなくなり、担当顧客も全て奪われた。
反抗した社員には、「俺の知り合いに裏社会の人間がいる。逆らえばボコボコにされるぞ」と脅した。何人かはそんな課長と働けないと辞めていき、営業部は課長の息のかかった大卒の若手ばかりになっていった。部長に相談しても、引き抜いた本人らしく話にならない。俺は毎日のように「無能」と呼ばれ、一人で全部の雑用を押し付けられ、心が折れそうになりながらも、課長の思う通りに辞めてたまるかと必死に耐えていた。
そして今回、社員旅行の幹事を丸投げされた。毎日残業して計画を立て、ホテルの予約も済ませた。なのに、当日になって俺の部屋だけがない。課長はニヤニヤしながら言った。「お前の分は俺がキャンセルしておいてやったんだよ。無能のお前が他の社員と同じホテルに泊まるなんて図々しいと思ったからな」
「無能のお前は野宿でいいよな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが完全に切れた。今までこいつらをどうにかしようと頑張ってきたのがバカらしくなった。俺は拳を握りしめ、怒りで震える声で言った。「こんな扱いされて平気な人間がいるわけないじゃないですか」
課長は笑い転げながら言った。「怒ったからってお前は俺に何かできるわけないんだよ。なんたって俺の友達はあの山形組の幹部なんだからな」
山形組。この地域に確かに存在するヤクザ組織の名前だ。それを聞いた瞬間、俺は逆に冷静になった。荷物を持つと、大笑いしている営業部の連中に背を向け、ホテルを出て、ある人物に電話を入れた。
次の日の朝。ホテルのロビーでソファに座っていると、荷物を持った課長がエレベーターから降りてきた。「おお、結局昨日はどうしたんだ? やっぱり野宿したのか?」と近づいてくるが、俺の隣に座っている人物を見た瞬間、足を止めて顔色が変わった。
「おい、その人はお前の知り合いか?」
隣の人物の首には、背中から伸びた入れ墨が見えていた。一般人のものとは明らかに違う雰囲気を醸し出している。
「こちらは鏡組の組長で、俺の父です」
課長は顔を真っ青にして、声を潜めて聞いてきた。「な、なんでここにお前の父親がいるんだ? それに鏡組って?」
俺は昨日のことを話した。実は俺の父は関東をまとめるヤクザ組織、鏡組の組長だ。父は俺に組を継げと言ったが、腕っぷしに自信がなかった俺は断り、喧嘩も強くてヤクザになりたがっていた弟を後継者として推した。父は俺の意見を尊重してくれ、それ以来、組長になれとは言わなかった。俺はそのことに引け目を感じて、実家から距離を置いていた。だが、課長の口から山形組の名前が出たことで、俺は父を頼る決心をしたのだ。
父は俺の報告を聞いて激怒し、わざわざここまで来てくれた。そして、課長に静かに、しかし圧力を感じさせる声で言った。「お前が息子の部屋を勝手にキャンセルした野郎だな。それに山形の名前を出して脅したんだって? 知り合いは幹部なんだろ? 幹部の名前は全員知ってるから、さっさと教えろ」
課長は逃げ道を探して「もしかしたら幹部ではないかもしれなくて」と言いかけたが、「どっちでもいいから名前を言え」と迫られると、真っ青な顔で口を閉ざした。どうやら山形組に知り合いなんておらず、名前を語って脅していただけのようだ。エリートのくせに浅はかすぎる。
すると今度は、着物を着た女性が現れた。「あら、お父さんもこんなところにいたの?」
「ああ、母さん」
「この人が霊の課長さん? 初めまして。ここ、ホテルの支配人で大地の母の鏡鈴鹿です」
課長は目を丸くした。「だ、君のお母さん? え、ホテルの支配人?」
そう、俺の母はこのホテルの支配人兼オーナーだ。元々旅館で板前をしていた時に父と出会い、結婚した。俺たちが大きくなった後、働きたいと言った母のために、父がこのホテルを買い取り、母に経営を任せたのだ。社員旅行の行き先がこのホテルに決まった時、俺は母に事情を話して予約していた。
「この度はご利用ありがとうございました。請求書のコピーをお持ちしましたのでお渡ししておきますね。後日、会社の方にもお送りします」
母は静かに微笑んで、請求書を課長に手渡した。課長が中身を確認すると、驚きの声をあげた。「ご、五百万? これ、何かの間違いですよね?」
「いいえ、間違いございません」
「でも、資料には確か二百万って……」
「それは息子が泊まるという話だったので、身内割引にさせていただいた金額です。昨日、息子は泊まらなかったので、正規の料金を請求させていただくことにしました」
「そんなこと突然言われても……」
「資料の詳細に書いておきましたよ。ご覧になられていないんですか? それは課長の確認不足であって、俺の責任じゃないですし、そもそも課長がつまらない嫌がらせをしなければ、こんなことにならずに済んだんですよ」
すると父がスマホを取り出し、課長の家が映っている画面を見せて言い放った。「お前の家はもう割れてて、部下に張り付かせてるから、逃げようなんて思うんじゃねえぞ。後で家に行くから、待っておけ」
課長は崩れ落ちた。
その後、俺は正式に退職届を提出した。会社から事情を聞かれたので、課長にされてきたこと、営業部の現状を全てぶちまけた。日頃から何かあった時のために課長との会話を録音していたので、ホテルでのことも含めて証拠として提出した。これで言い逃れできなくなった課長は、平社員に降格され、窓際部署に飛ばされた。さらに、母のホテルから請求された正規料金との差額三百万円を自腹で負担することになった。そして旅行から帰った日に父に捕まり、山形組の名前を語ったことと、俺への嫌がらせの迷惑料として三千万円を請求された。貯金を使い果たし、借金まで背負った課長は妻子に去られ、離婚した。今は元課長として、片身の狭い思いをしながら働いているらしい。
営業部の連中も全員が減給処分となり、あちこちの部署に散らばされ、営業部は一時閉鎖状態になった。俺はと言うと、元々一緒に働いていた仲間たちと新しい会社を作ることにした。今はその準備で大忙しだが、気の合う人たちとまた一緒に働けるかと思うと、楽しみで仕方ない。仕返しして晴々した気持ちで、俺は故郷へ帰ることにしたのだった。



