風が診療所の窓を叩いていた。夜の十時を過ぎた頃から雪は一層激しくなり、気温は氷点下十二度まで落ちていた。窓の外は白い闇だけだった。
俺は小島県、四十歳。総合診療医だ。半年前まで東京の大学病院で出世競争の渦中にいた。今は北海道の人口二千人に満たない町の小島診療所で働いている。親父が残した古い診療所だ。町の人間は俺を若先生と呼ぶ。四十にもなって若先生もないものだが、親父の現役が長かったから仕方がない。
「先生、今日はもう上がりましょう。こんな夜に来る人なんていませんよ」
そう言ったのは看護師の宮里美おさんだ。五十歳。親父の時代から働いている、この診療所の主みたいな人だ。俺が東京から戻ってきた時、誰よりも先に頭を下げてくれた人でもある。
「いや、もう少しだけ明日の往診ルートを整理しておきたい」
「真面目すぎますよ、先生。あなたのお父さんもそうでしたけどね」
美おさんは肩をすくめて診察室の片付けを始めた。俺は窓の外の風音が気になって仕方がなかった。こういう夜に限って何かが起こる気がする。医者の勘というやつだ。親父も同じことを言っていた。
その時、診療所のドアが鈍い音を立てた。誰かが叩いている。
俺は立ち上がって玄関へ向かった。ドアを開けた瞬間、白い風が顔に吹きつけた。
「すまん、若先生、早く来てくれ」
声を張り上げたのは島袋洋次郎さんだった。六十八歳、元漁協組合長でこの町のまとめ役だ。俺が赴任してきた時、最初に受け入れてくれた一人でもある。
その島袋さんが息を切らせて立っていた。腕の中に雪まみれの女性を抱えている。
「道のところで倒れとった。死んじまうかと思ったよ」
「中へ早く入って」
俺は女性を診察室のベッドへ運んだ。全身が冷え切っている。唇は紫色だ。呼吸は浅く、意識がない。
「先生、低体温です。三十二度を切っています」
「電気毛布、それから加温の準備を急ぐぞ」
女性は町の人間ではなかった。こんな顔は見たことがない。歳は三十代半ばだろうか。顔色は青白いのに、それでもどこか整いすぎた美しさがある。来ているコートは上等な仕立てだ。
「うちのトラックで荷物を取りに行く途中だった。橋の手前にうずくまっとったんだ。最初は雪の塊かと思った」
「声をかけたら反応はどうでした?」
「なかったよ。ぐったりしとった。財布もない。身分証もない。何もな」
俺は女性の手を握った。氷のようだ。
「島袋さん、ありがとう。あなたが見つけてくれなかったら、この人は朝まで持たなかった」
「いいさ。若先生、頼んだぞ」
島袋さんは長靴を鳴らして帰っていった。
これが全ての始まりだった。
夜が明けた。
吹雪は弱まったが、空は厚い雲に覆われたままだ。俺は徹夜で女性の容態を見ていた。
「先生、少し休んでください。私が見ていますから」
「いや、もう少しだ。意識が戻るまで見届けたい」
美おさんは何も言わず、温かい茶を置いてくれた。午前九時を過ぎた頃、女性のまぶたが動いた。
「聞こえますか? ここは病院です。安心してください」
女性はゆっくりと目を開けた。深い色の瞳だった。
「ここは北海道の道東です。小島診療所です。橋の近くで倒れていたあなたを町の人が運んでくれました」
女性は天井を見上げ、それから自分の手を見た。何かを確認するように布団の中をまさぐる。その動きには明らかな焦りがあった。
「か、私の鞄はどこですか?」
「鞄は持っていませんでしたよ。コートのポケットにも何もありませんでした」
その瞬間、女性の顔から血の気が引いた。体を起こそうとして、くらりと倒れそうになる。俺は肩を支えた。
「無理をしないでください。あなたは低体温症で死にかけたんです。今は休むことが仕事です」
「話してください。私は行かなくてはならないところがあるの」
「この吹雪の中、どこへ行くというんですか? あなたの体はまだ歩ける状態じゃない」
女性は俺を睨んだ。やがて諦めたように枕に頭を沈めた。
「お名前を伺ってもいいですか?」
「……ルリ。高田ルリです」
その名前を聞いて、美おさんが一瞬手を止めたのが見えた。どこかで聞いた名前だ。新聞で見たことがある気がする。実業界に名を馳せたあの一族。だが目の前のこの人と結びつけるには、あまりに状況が違いすぎる。
「高田さん、事情は聞きません。今は休んでください。とにかく体を直しましょう」
ルリさんは何も答えなかった。ただゆっくりと目を閉じた。まぶたの端から涙が一筋伝った。俺は見ないふりをして診察室を出た。
廊下で美おさんが小さく囁いた。
「先生、あの方、多分訳ありですよ」
「分かってる。だが医者は病気を見るのが仕事だ。事情は本人が話したくなった時でいい」
「先生らしいですね」
美おさんは少し笑った。
雪はまだ降り続いている。
三日が経った。ルリさんの体調は徐々に戻ってきた。だがほとんど口を開かない。食事も少ししか口にしない。
その日の昼過ぎ、島袋さんが顔を出した。手には大根と漬け物の入った瓶を抱えている。
「美おさんに渡してくれ。あの娘さんにも食わせてやってくれ」
「ありがとうございます。島袋さんのおかげで命は助かりました」
「若先生、ちょっといいか?」
島袋さんは声を落とした。俺たちは古い長椅子に腰かけた。
「あの娘さん、ただもんじゃないな」
「と言いますと?」
「町の連中が噂しとる。あんな上等なコート着て、こんな田舎に倒れとる女が、ただの観光客のはずがないってな」
田舎の町は狭い。昨夜のことがもう町中に広まっている。
「島袋さん、彼女が誰であろうと、私の患者です」
「分かっとる。分かっとるよ。若先生だがな。何かに追われとる人間ってのは、目を見りゃ分かるんだ。俺は長年漁師をやってきたからな。海で死にかけた男の目と似とるよ。あの娘さんの目は……」
島袋さんは湯飲みを両手で包み込んだ。
「俺はな、若い頃に人を恨んだことがある。組合のことでな、長いことその恨みを抱えとった。だがある日気づいたんだ。憎しみってのは、自分を焼く火だってな。相手は燃えん。自分だけが焼かれる。それを彼女に伝えたいんですか?」
「いや、俺なんかが言うことじゃない。ただな、若先生。あんたなら、あの娘さんを救えるかもしれん。そう思っただけだ」
一人になって、俺はルリさんの病室の方を見た。ドアの向こうで彼女が小さく鼻をすする音がした。
一週間が過ぎた。ルリさんは少しずつ起き上がれるようになっていた。だが相変わらず多くを語らない。朝の回診を終えて、俺は彼女のベッドの脇に椅子を引いた。
「血圧も落ち着いてきました。あと一週間もすれば普通に歩けるようになりますよ」
「ご迷惑をおかけしています」
「ここは診療所ですから、患者さんがいるのは当たり前です」
ルリさんは窓の外を見ていた。雪は止んでいた。
「高田さん、少しずつでいいので、食事を増やしてください。体を直すには、まず食べることです」
「はい」
それきり彼女は黙った。俺は無理に話を続けなかった。
診察室を出ると、美おさんが待っていた。
「先生、お薬の在庫、そろそろ発注がいります。それと町長さんが来てましたよ。先生が手が空いたら寄ってほしいって」
「町長か。何の用だろう」
「多分、噂のことですよ」
美おさんは声を落とした。俺はため息をついた。町長は悪い人ではない。だが、町を守るというのが何よりの優先順位だ。
午後、俺は町長を尋ねた。
「若先生、患者さんのことで申し訳ないんだが、町の者から相談が来とってな」
「町長。彼女は私の患者です」
「分かっとる。分かっとるよ。だが若先生も、この町に長くいてくれるなら、町の声も無視できんだろう」
俺は湯飲みを置いた。
「町長。私がこの町に戻ってきたのは、親父の診療所を継ぐためです。継ぐということは、町の人だけじゃない。この町で倒れた人間、全部を見るということです。違いますか?」
「若先生はお父さんに似てきたな」
町長はそれ以上何も言わなかった。俺は頭を下げて診療所に戻った。
その夜、俺は遅くまで診療所に残っていた。午後十時を回った頃、廊下に足音がした。振り向くと、ルリさんが立っていた。
「高田さん、まだ起きていたんですか? 冷えますよ」
「眠れなくて。少しだけ火に当たってもいいですか?」
俺はストーブの前の椅子を進めた。暖炉の火が静かに揺れている。俺は二人分の茶を入れた。
「先生」
「はい。何ですか?」
「私は、ここにいてはいけない人間なんです」
俺は何も言わずに彼女の言葉を待った。
「父が亡くなったんです。半年前に。高田の家をずっと支えてきた人でした。会社のこと、家のこと、全部を一人で背負って」
「病気ですか?」
「表向きはそう発表されました。でも、違うんです。父は追い詰められたんです。叔父に。そして親族たちに」
彼女は茶を一口飲んだ。湯飲みを持つ手がわずかに震えていた。
「私は証拠を持って家を出ました。叔父が父にしたこと、会社の不正、全て。それを公にすれば、高田は終わります。父の名誉は守られるかもしれない。でも……でも、公にする前に、私が消されるかもしれない。だから逃げました。北海道なら誰も知らないだろうと思って」
俺はストーブの炎を見ていた。パチっと薪が鳴った。
「高田さん。私は事情を聞かないと言いましたが、聞いてしまった以上、一つだけ言わせてください。あなたが今生きているのは奇跡です。橋の上でもう少し雪が深ければ、島袋さんは見つけられなかった。あなたは生きるべき人間としてここにいる。それだけは忘れないでください」
ルリさんはうつむいた。肩が小さく揺れていた。やがて抑えきれなくなったように、彼女は両手で顔を覆った。泣いていた。俺はストーブに薪を一本足した。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
「先生は、なぜ東京を離れたんですか?」
「出世競争に疲れたんだよ。誰のために医者をやっているのか分からなくなった。親父が死んで、この診療所を畳むという話が出た時、気がついたら戻ると言っていた」
「後悔はないんですか?」
「ないですね。少なくとも今は」
彼女は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。
それから三日後の昼下がりだった。診療所の前に黒い車が止まった。こんな田舎には不釣り合いな高級車だ。美おさんが窓から外を見て、眉をひそめた。
「先生、何だか嫌な感じの車ですよ」
俺が玄関に出ると、スーツ姿の男が二人立っていた。一人は若い男。もう一人は五十代半ばだろうか。痩せて、目の鋭い男だった。
「小島診療所の先生でいらっしゃいますか? 私、高田玄神と申します」
その名を聞いて、俺は一歩足を前に出した。ルリさんの叔父。彼女が逃げてきた相手だ。
「ご要件は」
「メイ……ルリがこちらでお世話になっていると聞きまして。高田ルリを連れて帰りに参りました」
穏やかな声だった。だがこの男の目は、人を物として見ている目だ。
「申し訳ありませんが、患者の情報は、ご家族であってもお伝えできません」
「先生。事情はご存知ないかもしれませんが、ルリは心の病を患っておりまして。家を飛び出したのも、その症状の一つです。家族として、適切な治療を受けさせたいのです」
「うちでも適切な治療をしています」
「ですから、専門の病院に。東京に、私が手配した施設があります」
俺は男の目を見据えた。
「高田さん。彼女は今、移動できる状態ではありません。医師として、移送の許可は出せません」
「先生。これは家族の問題です。あなたが口を出すことではない」
男の顔色が変わった。
「ここは私の診療所です。患者を守るのは私の仕事です。お引き取りください」
玄神はしばらく俺を見ていた。やがて薄く笑った。
「小島先生でしたね。覚えておきます」
そう言うと、彼は車に戻った。黒い車は雪の道をゆっくりと去っていった。背中に冷たい汗が流れていた。
診療所に戻ると、廊下にルリさんが立っていた。青ざめた顔をしている。
「先生。私、ここを出ます。これ以上ご迷惑はかけられない」
「逃げ続けても終わりませんよ」
「でも……」
「私はあなたを守ります。医者としてではなく、人として。あの男にあなたを渡すつもりはない」
ルリさんはしばらく俺を見ていた。それから、その場に座り込んだ。
五日が過ぎた。ルリさんの様子は目に見えて変わっていた。食事をしっかり取るようになり、廊下を歩く足取りもしっかりしてきた。俺が診察室に入ると、彼女は立っていた。
「先生。お話があります」
「どうぞ」
「私、東京に戻ろうと思います」
俺は彼女の隣に立った。
「逃げるのをやめるんですね」
「はい。先生に言われた言葉がずっと耳に残っていて。逃げ続けても終わらない。本当にその通りでした」
彼女は俺の方を見た。最初に出会った時の警戒に満ちた目ではなかった。澄んだ強い目だった。
「叔父の不正の証拠は、別の場所に隠してあります。信頼できる弁護士にもすでに連絡を取りました。あとは私が動くだけです」
「だけど、危険が伴います」
「分かっています。でも、父の名誉を取り戻すには、私が表に立つしかないんです。隠れていても何も変わらない」
彼女を引き止めたい気持ちがあった。だが、それを止める権利は誰にもない。
「分かりました。ただし、条件があります」
「はい」
「体のことは定期的に連絡してください。それから、何かあれば必ずここに戻ってきていい。ここは、あなたが生き直した場所です」
ルリさんは小さく頷いた。
廊下で美おさんが立ちすくんでいた。
「高田さん。これ、持っていってください。お守りみたいなものですけど」
美おさんが差し出したのは、手編みの白い手袋だった。
「私の母が昔よく編んでたんですよ。寒いところに行く人にね。東京もこの冬は寒いって聞きますから」
「ありがとうございます。大切にします」
ルリさんは手袋を胸に抱いた。
それから二ヶ月が経った。
東京で行われた高田家の結婚式。従妹の由美さんの結婚式だった。本来なら、高田家から追われたルリさんが出席するはずのない場だ。だが彼女は、招かれざる客としてその式に乗り込んだ。
俺は北海道で、その様子を聞くことしかできなかった。語ってくれたのは、ルリさんから連絡を受けた美おさんだった。
「先生、ルリさん、やったそうですよ。やり遂げたんです」
美おさんが診療所のストーブの前で手紙を読み上げてくれた。
会場のホテルは、都内でも有名な格式高い場所だったという。高田玄神は当然のように主賓席にいた。新婦の由美さんは白いドレスに身を包み、笑顔を見せていた。だがその笑顔の奥に何かを抱えているのが、ルリさんには分かったらしい。
ルリさんは黒のスーツで会場に入ったそうだ。喪服のような覚悟だった。
「父のために」
それを見て、玄神の顔色が変わった。会場がざわめく中、ルリさんは由美さんの前に立った。
「由美。おめでとう。今日はあなたを祝うために来たの」
由美さんは言葉を失ったらしい。そして震える声で答えた。
「お姉様……ごめんなさい。私、あの時あなたを裏切って」
「いいの。私はあなたを恨んでない。ずっと伝えたかった」
二人は人前で抱き合って泣いたという。会場は静まり返った。
そしてルリさんは静かに玄神の方を向いた。
「おじ様。今日、ここに父の名誉と会社の真実を持ってきました。全て、しかるべき場所に届けてあります。あなたが今夜ここで何を言おうと、もう止まりません」
玄神は何も言えなかったらしい。青ざめた顔で、ただ椅子に座り込んだという。権力で生きてきた男が崩れ落ちた瞬間だった。
「ルリさん、強くなりましたね。本当に」
美おさんは手紙を畳んで目元を拭った。
俺は窓の外を見た。北海道の春は遅い。まだ雪は残っていたが、屋根から水滴が垂れる音がしていた。
「彼女は強かったんですよ。最初から。ただ、それを思い出すのに時間が必要だっただけでしょう」
「先生が、それを思い出させたんですよ」
「いや。彼女自身が決めたんです。私はただの医者ですから」
美おさんは少し笑った。ストーブの上の薬缶が、いつもと同じ湯気を立てていた。
四月の終わり、遅い春が訪れていた。雪はほとんど消え、土の匂いが戻ってきた。
その日、俺は往診から戻ったところだった。診療所の前に、見覚えのある女性が立っていた。グレーのコートを着ている。手には白い手袋を持っていた。ルリさんだった。
「先生。ご無沙汰しています」
「高田さん。元気そうで何よりです」
二ヶ月ぶりだった。その目には、穏やかな強さがあった。俺たちは診療所のストーブの前に座った。
「叔父は起訴されました。会社も調査の途中です。私は父の残した株を引き継いで、少しだけ手伝うことになりました」
「大変な日々でしたね」
「ええ。でも、不思議と苦しくないんです。前に進んでいる感覚があって」
彼女は茶を一口飲んだ。
「先生。私、ここに来るまでずっと憎しみで生きていました。父を許せない。由美を許せない。自分を裏切った全員を許せない。でも、ここで先生に助けられて、島袋さんや美おさんに支えてもらって、気がついたんです」
「何にですか?」
「島袋さんが言ってた言葉です。憎しみは自分を焼く火だって。本当にその通りでした。今は誰も憎んでいません。それだけで、息がしやすいんです」
俺は頷いた。
「先生。一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「これから、時々ここに来てもいいですか? 患者としてではなく、ただの一人の人間として」
「もちろんです。いつでも戻ってきてください」
ルリさんは微笑んだ。帰り際、彼女は美おさんからもらった手袋をそっと俺に見せた。
「東京でもずっと持っていました。お守りです」
「美おさんも喜びますよ」
彼女が玄関を出ていく時、ちょうど島袋さんが歩いてくるのが見えた。ルリさんが頭を下げると、島袋さんは深く頭を下げ返した。
北海道の遅い春が、静かに始まろうとしていた。



