「中卒は月給8万ね。それでも高いよ。君の母親と同じ、底辺の相場だ」…

「中卒は月給8万ね。それでも高いよ。君の母親と同じ、底辺の相場だ」...

中卒は月給8万円ね。それでも高いほうよ。あなたのお母さんと同じ、底辺の相場だ。

三太は私の給与明細をデスクに放り投げた。磨かれた革靴の先が床を二度叩く。ロレックスが蛍光灯の光を跳ね返す。営業所の9人、誰も顔を上げない。

私は明細を拾い上げ、静かに折りたたんだ。

「わかりました。本日で辞めます」

声は震えなかった。涙も出なかった。こういう目を私は知っている。人に値段をつけて安心する、あの目だ。

私物は紙袋ひとつに収まった。デスクにはクリアファイルを一冊だけ残した。36枚の給与明細が閉じてある。誰も中を開かなかった。

翌朝、品川の本社に取引停止の通知が届き始めた。9時14分までに22通、昼までに34通。取引先38社のうち、9割が消えた。そして、すべての通知の理由欄には、同じ一文が並んでいた。

話は4か月前に遡る。

朝6時5分。私はスマートフォンを開き、登録してある電話番号を鳴らした。3階のコールが終わると、岡持製作所の岡持社長が出る。

「おはようございます。三谷テクノの黒木です」

「おう、すずちゃん。今日は何時に来るんだ?」

「10時20分です。3番のベアリング、先に代車へ出しておきます」

「助かるよ。うちの調理は7時だからな」

それだけの電話だった。相手の調理が始まる前に、その日の納期を確認する。3年間、1日も欠かしていない。資格も学歴もない私にできるのは、それくらいだった。

上等営業所は社員9人の小さな事務所だ。私の席は入口の近くの隅。電話が鳴れば、誰よりも先に受話器を取る。

その朝、白いレンジローバーが駐車場に止まった。降りてきたのは社長のひとり息子、三太。心臓の手術で療養に入った社長の代わりに、専務として着任すると聞いていた。療養の予定は3か月。

三太はスマートフォンを耳に当てたまま入ってきた。

「はい、承知しております。ええ、父さんは療養に専念してください」

通話を切る。舌打ちがはっきりと聞こえた。そして私のほうを一瞥した。

「そこの人、コーヒーブラックで」

名札は胸につけている。黒木すず、と書いてある。

その日の午後、給与明細が配られた。19万4380円。先月と同じだった。私は開いて、33枚目として綴じた。それから明細の裏面に、細かい字を書き足す。

岡持製作所、調理7時。3番ベアリングは代車。大和メタルの宮下さん、火曜は会議で不在。倉庫から戻ってきた菅田さんが、手元を覗き込んだ。

「まだ書いてるのか、それ」

「忘れっぽいので」

菅田さんは何も言わず、麦茶を私の机に置いて出ていった。ファイルの最後には、もう1枚だけ色の変わった明細が綴じてある。私のものではない。

11月の初め、全社員が集められた。三太はホワイトボードの前に立ち、油性ペンのキャップを外した。

「うちは人件費の構造が古い」

書かれたのは「最適化」の3文字だった。

「手当って要は既得権益なんですよ。成果と紐づかない金を配るのは経営じゃない」

誰も声を出さなかった。菅田さんだけが腕を組んだまま、三太を見ていた。

「業績が厳しいので、一時的な見直しです。全社員が対象になります」

「一時的」という言葉に、私は少しだけ安心した。社長が戻るまで、あと2か月ある。

月末、34枚目の明細が配られた。15万240円。先月より4万2240円下がっていた。家族手当と住宅手当ての欄が空白になっている。私は数字を2度読み、ファイルを開いた。

夕方、コピー機の前で経理の篠塚さんとすれ違った。24歳、本社から移動してきた人だ。彼女の手の中に、明細が見えた。住宅手当ての欄に、数字が入っていた。

「黒木さん、なんか、大丈夫ですか?」

「いえ」

私は口を閉じた。「全社員が対象」という言葉は嘘だ。でも、それを口にする資格が私にあるとは思えなかった。

翌朝も6時5分に電話をかけた。

「すずちゃん、今日は雨だから、代車は屋根の下にな」

「はい。10時20分に伺います」

その後、白いレンジローバーが駐車場に入ってきた。ロレックスの文字盤が朝の光を跳ね返す。すれ違い様、三太の目が私の名札で止まる。名札を見られたのは初めてだった。

「事務職に住宅手当てって、過剰でしょ。君、実家でしょ?」

「いえ、母は亡くなっています」

「あ、そう」

三太は事務所へ入っていく。目はもう、私を見ていない。

12月、35枚目の明細は11万1200円だった。通勤手当の欄が消えていた。

「無資格者に技能手当って、矛盾してるでしょ」

三太はそう言って、私のファイルを指で叩いた。

「君、何か持ってるの?」

「資格は、ありません」

「じゃあ、そういうことです」

その日から、取引先への訪問は私の担当ではなくなった。

「訪問は本社で一元管理します。営業は入力だけでいい」

私の机から、納品書のファイルが運び出された。ダンボールに詰めたのは菅田さんだった。

「すずちゃん」

「はい」

「社長が戻るまでの辛抱だ」

菅田さんはそれしか言わなかった。あと1か月。私は指を折って数えた。

翌朝も、6時5分に電話をかけた。訪問がなくなっても、納期は毎日動く。誰も止めろとは言っていない。

「すずちゃん。三太さんって人から、昨日電話が来たよ」

岡持社長の声が、少しだけ低くなる。

「頻繁を3回行っても伝わらんかった。あの人、うちの機械を見たことないんだろう」

「申し訳ありません」

「すずちゃんが謝ることじゃない」

昼過ぎ、私の携帯が鳴った。大和メタルの宮下さんだった。

「黒木さん、火曜の便、1時間早められる?」

「はい。10時20分を、9時20分に変更します」

通話を切ると、篠塚さんがこちらを見ていた。

「本社に回さないんですか?」

「それ回すと、明日の朝に間に合わないので」

篠塚さんが鼻から短く息を吐く。

夕方、三太の席の横を通った。画面に取引先のフォルダーが開いていた。メールの宛先が、並んでいる。

夜、私はファイルを開いて35枚目を閉じた。裏面に書く欄は、まだ余っている。

1月の初めに、本社からの通達が張り出された。社長の療養を延長し、専務が代表代行に就く。日付は3日前になっていた。

「父はもう戻りません」

三太は張り紙を指でなぞりながら言った。

「心臓ってね、1度切ったら元には戻らないんですよ。人も組織も同じです」

私は指を折るのをやめた。数える理由がなくなった。

「ついでに言うと、来月から固定残業代も外します」

「固定残業代ですか?」

声が出た。4か月で初めて出た声だった。三太が振り返る。初めてまっすぐ、私を見た。

「実際に残業してないでしょ。君、定時で帰ってるよね」

「朝は6時に出ています」

「誰かに頼まれた?」

「いえ」

「じゃあ、それは君の趣味です」

三太は自分の左手首を見た。ロレックスの秒針が、静かに回っている。

趣味。その言葉が耳の奥で二重に響いた。私は口を閉じ、書類の端を揃え直す。言い返す言葉は、多分どこかにあった。でも、それを持っていないから中卒なのだと思った。

菅田さんが倉庫の扉の前に立っている。何か言いかけて、やめた。

その夜、電卓を叩いた。基本給8万円。手当が全部消えれば、それだけになる。家賃が4万2000円。母の月命日に買う花が毎月800円。母が最後に働いた工場も、同じことを言われたらしい。「好きでやってるんだろう」と。

電卓の数字を消して、明細のファイルを開いた。35枚目の裏面には、まだ余白がある。私は岡持製作所の新しい機械の型番を書き出した。明日の朝も、6時5分に電話をかけるからだ。

ファイルの最後の1枚は、めくらなかった。めくると、多分立てなくなる。

翌週の月曜日、菅田さんが専務席の前に立った。手には就業規則の冊子があった。

「専務の給与、最低賃金を割ってます」

事務所の音が止まった。三太はモニターから目を離さない。

「割ってない。基本給は8万でも、まだ手当が残ってる。来月、その手当ても外すと言いましたよね」

「言いましたけど」

菅田さんが冊子を開いた。付箋が3枚ついてある。

「東京の最低賃金だと、月18万6000円は必要です。8万は違法です」

「菅田さん」

三太が一礼を回した。

「倉庫の外注、見積もり取ってあるんですよ。3者から。今の人員のまま続けるか、外注に切り替えるか、僕、まだ決めてないんです」

菅田さんの手が、冊子の上で止まった。付箋の色が、蛍光灯の下で妙に鮮やかに見えた。

「失礼しました」

菅田さんは冊子を閉じて、倉庫へ戻っていった。誰も顔を上げない。私も、上げられなかった。

その日の午後、三太が本社へ電話をかけていた。

「ええ、営業は整理します。3月には形になります」

三太は立ち、コーヒーカップを流しに置いた。洗うのは、いつも私だ。

夕方、給湯室で篠塚さんと並んだ。彼女は紙コップを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。

「黒木さん」

「はい」

「あれ、本当に違法なんですか?」

「わかりません」

「経理なのに、私、計算したことなかった」

篠塚さんは自分の指先を見ている。爪の先だけ、色が剥げていた。

「私、毎月みんなの明細をコピーしてます。控えで」

「そうなんですね」

「なんで黒木さん、怒らないんですか?」

答えは持っていなかった。怒っても、朝6時5分の電話は誰もかけてくれない。それだけだった。

母の月命日は、1月の17日だった。花屋で800円の菊を買い、部屋の棚に置く。棚には写真がない。母は写真を撮られるのを嫌がった人だった。代わりに、明細のファイルがある。

最後のページを、その日だけはめくる。黒木千代、昭和の髪の色をした給与明細が1枚。手取り6万8000円。

母は縫製工場のパートだった。母の手は指先がいつも硬かった。布を抑える場所だけ、皮が厚い。朝5時に家を出て、夜9時に帰ってきた。それでも、6万8000円だった。

明細の余白に、鉛筆の字がある。

「今月もよく働いた」

誰に見せるでもない字だ。母は毎月、自分で自分に丸をつけていた。

「すず、給料は自分の値段じゃないよ」

母は1度だけ、そう言った。

「働いた分だけ、残るだけ」

意味が分かったのは、随分後になる。

私が15歳の冬。母はミシンの前で倒れた。救急車で運ばれた病院に着いた時には、もう話せなかった。高校の入学金は、そのまま葬儀代になった。進学しなかったのは、諦めたからじゃない。そういう順番だっただけだ。

私は明細をファイルに戻した。自分の35枚が、母の1枚の上に重なる。来月、この上に8万円が乗る。母より少し多いだけの数字だ。それでも、辞めたいとは思わなかった。

岡持社長は月曜に新しい機械を入れる。大和メタルの宮下さんは火曜が会議で不在。生和伝票の締めが3日早い。私が抜けたら、朝6時5分に誰も電話をかけない。それだけが、辞められない理由だった。

私は鉛筆を持ち、35枚目の裏に書き足す。今月もよく働いた、とは書かなかった。まだ書ける月ではない。

2月の第1週、ペーパーレス化の通達が出た。紙の書類は全て廃棄、というのが三太の方針だった。

「紙って、検索できないんですよ」

調理で三太はそう言い、指を2回鳴らした。

「週中に机の上を空にしてください」

私は伝票の綴じを片付け、最後にクリアファイルを引き出しに入れた。私の明細は、会社の書類ではない。

昼前、三太が私の席に来た。引き出しを、断りもなく開けた。

「これ、何?」

「私の、給与明細です」

「36枚もあるじゃん」

「35枚です」

三太はファイルをめくった。裏面の字が、パラパラと流れていく。

「うわ、裏に落書きしてる」

「落書きではありません」

「何これ? 岡持製作所、調理7時?」

「納期の確認に使っています」

三太が笑った。声を出して、はっきりと。

「そういうの、全部システムに入ってるから。君がやってるのは仕事じゃなくて、自己満足」

「こんな紙、記念にでもすんの?」

ファイルが空中を飛んだ。コピー機の横のゴミ箱に、乾いた音がした。

事務所の誰も動かない。篠塚さんの手が、キーボードの上で止まっている。

私はゴミ箱の前に立った。ゴミ箱の底に、コーヒーのシミが広がっている。私は膝をついて、ファイルを拾い上げた。指が震える。金を減らされた時は震えなかったのに、と思った。

紙は折れていない。最後の1枚も無事だった。母の字は、1番下にある。三太は、そこまではめくらなかった。

「拾うんだ」

三太が背中越しに言った。

「そういうところだよ。中卒って、捨て方が分からないんだよね」

私は立ち上がり、ファイルを胸に抱えた。何も言わない。

その日の夕方、菅田さんが黙って新しいクリアファイルを机に置いた。値札がまだついていた。

2月の中旬、社内メールが一通届いた。差出人は三太。宛先に、営業所の全員が入っていた。件名は「営業体系刷新のご案内」。本文の頭に、取引先の会社名が並んでいた。

私は画面で、最後まで読んだ。

「3月より受発注業務を本社一元化いたします。上等営業所は非効率な人員配置が長く放置されており、これを是正いたしました。一例として、無資格の事務職に月19万を支給していた体制を、8万円まで適正化しております。今後は私が直接、音社を担当いたします」

無資格の事務職。それが自分だと気づくのに、少し時間がかかった。篠塚さんが振り返った。

「これ、取引先にも送ってますよね」

「はい」

「送信済みって書いてありますけど」

三太は椅子にもたれ、両手を頭の後ろで組んでいる。

「透明性ですよ。うちは改革してますんで」

「専務、その金額って、外に出ていいんですか?」

「事実だし」

篠塚さんは何か言いかけて、口を閉じた。私は自分の席で、送信済みの文面をもう1度見た。8万円という数字が、取引先の画面に届いている。嫌だとは思わない。ただ、岡持社長にだけは読ませたくなかった。

その夜、電話が鳴った。岡持製作所の番号だった。

「すずちゃん」

「はい」

「あんた、大丈夫か?」

「大丈夫です」

岡持社長は、しばらく黙っていた。樹の向こうで、機械の音が止まる。

「うちの調理、7時だってこと?」

「はい」

「あれ、あんたしか知らんのよ」

私は何も答えられなかった。

翌朝も、6時5分にいつも通り電話をかける。その日の午後、生和伝票が届いた。締めの担当窓口について確認したい、とだけ書いてある。三太はそれを見て、鼻で笑った。

「窓口なら僕ですけど」

そう言って、机に伏せた。

2月の最終営業日、36枚目の明細が配られた。封を開ける前から、数字は分かっていた。

金額は、8万円ちょうどだった。基本給だけの、綺麗な数字。

私は自分の席でファイルを開く。36枚目を閉じようとした時、下から1枚が滑り出た。昭和の髪の色をした、古い明細。床に落ちる音は、しなかった。

拾おうとした手より、三太の革靴のほうが早かった。爪先で、紙を止める。

「何これ? 6万8000円」

「返してください」

「黒木千代、お母さん」

三太は目の高さまで持ち上げた。蛍光灯に透かして、裏まで見ている。

「うわ、鉛筆で何か書いてある」

「返してください」

三太は声に出して読んだ。

「今月もよく働いた」

事務所が静まり返った。三太が笑い出す。

「これ、自分で自分を褒めてんの? 6万8000円で」

私の中で、何かが静かに閉じた。

「中卒は月給8万ね。それでも高いよ。君の母親と同じ、底辺の相場だ」

三太は明細をデスクに放った。磨かれた革靴の先が床を2度叩く。ロレックスが蛍光灯の光を跳ね返す。営業所の9人、誰も顔を上げない。

私は母の明細を拾い、静かに折りたたんだ。母の字は、少しだけ丸まっていた。

「わかりました。本日で辞めます」

声は震えなかった。涙も出なかった。

「え、辞めるの?」

「引き継ぎは、全部書いてあります」

「はあ」

私は私物を神袋にまとめた。最後の1枚だけ抜いて、胸のポケットに入れる。デスクにクリアファイルを残した。36枚の給与明細が、閉じてある。誰も中を開かなかった。

倉庫の扉が開き、菅田さんが出てくる。何も言わず、私の神袋を玄関まで運んでくれた。篠塚さんが席を立って、追いかけてきた。

「黒木さん、あの、私」

「明細のコピー、捨てないでください」

それだけ言って、私は事務所を出た。2月28日、17時32分だった。

3月1日、目が覚めたのは6時5分だった。3年間そうしてきた体が、勝手に起きる。かける先が、もうない。私はスマートフォンを裏返して、そのまま天井を見ていた。

6時11分、着信が鳴った。岡持製作所。

「すずちゃん、今日の便は、9時でいいのか?」

「私、昨日で退職しました」

沈黙があった。機械の音も聞こえない。

「誰がやるって?」

「本社の三太です」

「あの頻繁が伝わらん人か」

「はい」

「すずちゃん」

「はい」

「残念。ありがとうな」

岡持社長はそれだけ言って、電話を切った。

6時40分、大和メタルの宮下さん。7時2分、生和伝票の経理部。7時半までに、5件の着信があった。全部に同じことを答えた。

「担当は本社です」

9時を過ぎて、篠塚さんから電話が来た。声が少し上っている。

「黒木さん、本社が大変なことになってます」

「そうですか」

「取引停止の通知が、止まらないんです」

ファックスが吐き出され続けていると、彼女は言った。メールの受信は9時14分の時点で22通、昼までに34通。取引先38社のうち、34社。9割が、1番で消えた。

「専務は朝から本社の電話に出てないんです。役員会が10時に前倒しになったって。さっきからずっと通知を並べてます。並べて、理由欄が全部同じなんです」

篠塚さんが紙をめくる音がした。それから、読み上げた。

「月給8万円で人を雇う会社とは、取引できません」

私は胸のポケットに手をやった。母の明細が、まだそこにある。台所で湯を沸かし、1人分の茶を入れた。窓の外は、いつも通りの朝。6時5分に、私は電話をかけなかった。それだけしかしていない。

3月2日の午前、菅田さんから電話が来た。声はいつも通り、低かった。

「すずちゃん、呼び出しが入った」

「え?」

「臨検だ。朝9時から、本社と営業所の両方」

私は座っていた椅子から、少し背を話した。

「申告したの、俺だ」

「菅田さん」

「先月、あんたが髪を拾ったろ。あの日に出した」

言葉が、すぐには出なかった。

証拠は篠塚さんが揃えてた。14人分の明細のコピー、1年分全部。篠塚さんは控えを捨てていなかった。あと、専務のメールな。

「メール?」

「あれが、1番利いた」

菅田さんの話はこうだった。三太が取引先に送った文面を、生和伝票の法務部が問題視した。「無資格の事務職を月19万から8万円に適正化した」という一文は、是正ではなく最低賃金法違反の自白だった。法務部長はそのメールを添付し、同業の協力会へ回している。注意換起の文書には、短い一文が添えられていた。

「月給8万円で人を雇う会社とは、取引できません」

34社は、その文をそのまま理由欄に移した。示し合わせたわけではない。映すのが、1番早かっただけだ。

「三太は自分で証拠を、34社に配ったんだ」

菅田さんはそこで、1度だけ笑った。

私は何もしていない。そう言おうとして、口を閉じる。髪を拾っただけの日が、誰か動かしていた。

昼過ぎ、篠塚さんからも連絡が来た。専務は朝から同じことを言い続けているという。

「事実を書いただけだ」

本社の玄関に、黒塗りの車が止まった。降りてきたのは、社長の三谷現事。療養を切り上げ、傷跡を隠さないまま戻ってきた。そして専務室の扉を、開けたまま閉めなかった。中の声が、廊下まで全部聞こえたそうだ。

3月3日の夕方、一通の着信があった。出ると、三太の声だった。

「黒木さん、戻ってきてんだけど」

名前で呼ばれたのは、初めてだ。

「手当ては全部戻す。前と同じ19万でいい」

「いえ」

「じゃあ20万。営業の主任にする」

「いえ」

「25万。いいねよ。いくら欲しいの?」

「いいえ」

「取締役でもいい。株も少し渡す」

私は少し考えて、答えた。

「私、電話をかけていただけです」

「は?」

「金額の話ではないんです」

三太の呼吸が、受話器の近くで乱れる。

「意味わかんない。僕が悪いの? 事実を書いただけでしょ。8万は事実じゃん」

「はい、事実です」

そこで、通話が切れた。

夜、篠塚さんからメッセージが届いた。写真が1枚、添えられている。私が残したクリアファイル。開かれたページの裏面。

「岡持製作所、調理7時。3番ベアリングは代車。大和メタルの宮下さん、火曜は会議で不在。生和伝票の締めは3日早い」

36枚分、全部埋まっている。

社長が今日、営業所でそれを読んだそうだ。最後まで読んで、ページを閉じて、しばらく動かなかった。それから専務を呼んだ。そして、目の前でもう1度めくらせた。

篠塚さんの文面はそこで終わっていた。菅田さんの倉庫は、外注にならずに残ったらしい。

同じ夜、岡持社長から電話が来た。

「すずちゃん、うち、明日から自分で発注するわ」

「すみません」

「謝るな。3年ぶりに自分で頻繁を読んだよ。あんた、毎朝あれを確認しとったんか?」

私はスマートフォンを置いて、胸のポケットに触れた。母の明細が、まだ折りたたまれたままある。「捨て方が分からない」と言われた紙だ。捨てなかったから、そこに全部残っていた。

3月10日、厚生労働省のサイトに名前が載った。「労働基準関係法令違反の企業一覧」。三谷テクノ株式会社、最低賃金法違反。書類送検の日付まで、そこに並んでいた。

未払い賃金は14人分で305万円。付加金と遅延損害金を合わせて、約700万円。全額、会社が払ったらしい。

3月17日、臨時取締役会が開かれた。専務の解任の同意を出したのは、社長だった。反対は、一票もなかったそうだ。

肩書きが消えると、次に権力が消えた。廊下で挨拶をしていた社員が、目をそらすようになる。

3月末、白いレンジローバーがリース会社に引き上げられた。役員車ではなく、会社名義だったらしい。腕時計の話は篠塚さんから聞いた。紙袋を持って車を出るところを、誰かが見たという。

婚約は4月に解消された。相手は、生和伝票だった。最初に取引を切った会社の、その家だ。

5月、三太は長会解雇になった。理由は、違法な賃金体系の指示と、外部への秘密漏洩。自分で送った「救」のメールが、そのまま根拠になった。最後まで三太は「事実を書いただけだ」と言っていたらしい。業界紙が短く報じ、協力会の共有文書に名前が残った。同じ業界では、もう雇われないという。

会社は取引先を4社まで減らし、営業所を1つに統合した。菅田さんの倉庫はそこに移って、残っている。

6月に1度だけ着信があった。私は出なかった。

社長は退任前に、社員全員へ手紙を配ったそうだ。中身は一行だけだったと、篠塚さんが教えてくれた。

「人を安く見た会社は、安く見られる」

4月から、岡持製作所で働いている。事務所は私1人で、机は工場の隣にある。朝は6時5分に電話をかける。かける先は、7件に増えた。

「おはようございます。岡持製作所の黒木です」

岡持社長は面接をしなかった。履歴書も出していない。

「3年、毎朝聞いた声だ。それ以上、何がいるんだ?」

それだけ言って、机と椅子を用意してくれた。昼になると、社長が観光費を2本持ってくる。1本は自分の分で、もう1本を必ず私の机の橋に置く。

菅田さんは今も、倉庫にいる。篠塚さんは会社を辞めて、社会保険労務士の勉強を始めた。明細の計算ができる人になりたい、と書いてあった。

4月25日、初めての給与をもらった。18万7600円。前の会社の19万より、少ない。それでも、こんなに紙が軽いと思わなかった。

私は菅田さんがくれたクリアファイルを開いた。値札は、まだ剥がしていない。1枚目として、明細を閉じる。その下に、母の6万8000円を重ねた。

母の明細の紙は、もう随分薄い。それでも、鉛筆の字は消えていない。

鉛筆を持って、余白に書いた。

「今月もよく働いた」

母と同じ場所に、同じ言葉が並ぶ。誰にも見せない字だ。

給料は、自分の値段じゃない。働いた分だけ、残るだけ。意味が、ようやく分かった。

翌朝も、6時5分に私は電話をかける。樹の向こうで、機械が動き出す音がする。その音を聞くために、私は3年間、朝を早くしていた。私の仕事は、多分誰にも見えない。朝6時5分は、誰も見ていない。それでも、止めたら止まるものがある。

今日も、紙が1枚増える。

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