私は27歳、派遣社員として入社して3週間。今日、部長に呼び出されて言われた。「顔採用だろ、てめえ。中卒は不要なんだよ。派遣のくせに3週間も無駄飯食いやがって。荷物まとめてとっとと出ていけ」。私は静かに「わかりました」と答えて部屋を出た。廊下の壁に手をつき、目の前が真っ暗になった。そんな私の隣に、清掃員の老人が立っていた。何も言わず、ただそこにいた。「大丈夫ですか?」その一言で、涙が止まらなく…

私は27歳、派遣社員として入社して3週間。今日、部長に呼び出されて言われた。「顔採用だろ、てめえ。中卒は不要なんだよ。派遣のくせに3週間も無駄飯食いやがって。荷物まとめてとっとと出ていけ」。私は静かに「わかりました」と答えて部屋を出た。廊下の壁に手をつき、目の前が真っ暗になった。そんな私の隣に、清掃員の老人が立っていた。何も言わず、ただそこにいた。「大丈夫ですか?」その一言で、涙が止まらなく...

午後3時、8階のフロアに社員たちがひしめいていた。高級スーツを着た男が足を組み、女を上から下まで値踏みするように見た。相澤克巳、42歳。東大卒の新入社員・営業3部部長。着任から2ヶ月足らずで、その圧力は職場全体を支配していた。

「顔採用だろ、てめえ。中卒は不要なんだよ。そんな頭で会社の役に立てるわけないだろう。派遣のくせに3週間も無駄飯食いやがって。荷物まとめてとっとと出ていけ」

辻村里紗は黒縁メガネをかけ、くびれたグレーのスーツを着ていた。27歳。派遣社員として入社してまだ3週間。彼女は静かに「わかりました」と答え、部屋を出た。廊下に出た瞬間、足が止まった。壁に手をつき、小さく呟いた。

「首になっちゃった」

その声は廊下に溶けた。その瞬間、廊下の掃除をしていた老清掃員が立ち止まった。穏やかな目をした老人だった。何も言わず、ただ静かに立っていた。この時、誰も知らなかった。翌日この会社で何が起こるのかを。

――辻村里紗が大崎商事に出社したのは3週間前だった。誰もが彼女を普通の派遣社員だと思っていた。しかし、里紗には本来の職業があった。株式会社ローコンプライアンス調査、シニア調査員。企業内のハラスメントや不正を調査する専門家だ。この4年間で200件以上の案件を担当してきた。誰も気づかない。それが里紗の仕事だった。

依頼は3週間前に届いた。依頼主は大崎商事の親会社、久保グループ。上司の東原誠が封筒を差し出した。

「相澤克巳、42歳。新人の営業3部部長だ。着任1ヶ月で派遣社員を3名解雇している。理由が『顔が好みじゃない』『学歴が低い』だ。さらに架空伝票と社外費データの流出疑惑もある。辻村、頼めるか?」

「はい、行きます」

里紗は即答した。中学を卒業後、家計を助けるために働き始めたのは15歳の時。飲食店のアルバイトを掛け持ちしながら夜中に参考書を開き、高卒認定試験に合格。通信大学で法学士を取得し、23歳で今の会社に入った。誰も声を上げられない場所で、声を上げる仕事。何ひとつ恥ずかしいことはないと思ってきた。

潜入前夜、里紗は自宅の机に向かって作戦を整理した。表向きはデータ入力スタッフとして入社する。調査期間は最長4週間。関係を作りすぎない。記録だけに集中する。それが里紗の潜入ルールだった。それでも今回は少し心に引っかかるものがあった。「顔が好みじゃない」「学歴が低い」――それだけで人を切る男。里紗は、中学を出た夜のことをふと思い出した。生きていれば、いつか誰かの役に立てる。そう言い聞かせた夜が何度もあった。

大崎商事での最初の2週間は静かに過ぎた。データ入力、書類整理、コピー。里紗はただ見ていた。相澤が取引先との打ち合わせ後、架空名目の交際費を伝票に書き込む場面を見た。金額は1件あたり8万円から12万円。月に10件前後、毎月休みなく続いていた。総額は月100万円を軽く超えていた。相澤は伝票を書く時、必ずドアを閉めた。誰かが見ている可能性を薄々感じていたはずだ。それでも続けた。誰も止めないから。それだけの理由だった。

同僚の派遣社員、野田まゆが相澤から暴言を受けていた。野田まゆは25歳、入社3年目の派遣社員だった。明るく真面目で、取引先からの評判も良かった。それが相澤には気に入らなかった。「使えない社員を置いておく余裕はない」が相澤の口癖だった。週ごとに少しずつ野田の仕事が取り上げられていった。それでも野田は笑顔を崩さなかった。

「すみません。次から気をつけます」

野田の声が震えていた。里紗はその笑顔を見るたびに胸が締めつけられた。誰かが声をあげなければ、また同じことが起きる。

2周目の水曜日の夜。里紗が残業で最後に残っていると、廊下を清掃する老人と目があった。白髪で丁寧な仕事ぶり。穏やかな目。

「お疲れ様です」

老人が静かに頭を下げた。

「ありがとうございます」

里紗も頭を下げた。この会社でいちばん礼儀正しい人だと思った。老人は清掃員控室に向かう途中、立ち止まった。廊下を見渡し、何かを確かめるような目をした。理由は分からなかったが、今は仕事に集中する時だった。翌日も翌日も、老人は同じ時間に廊下にいた。すれ違うたびに静かに頭を下げる。それだけだった。それだけなのに、里紗は少し気持ちが楽になった。この場所にも、ちゃんと人がいる。その言葉を胸の中で呟いた時、涙が出そうになった。でも泣かなかった。まだ仕事が終わっていなかったから。

3周目に入り、証拠が揃い始めた。架空伝票の写真データ。録音した暴言42件。社外費データへの不正アクセスログの痕跡。あと数日で報告書を完成させられる――そう思っていた。そして、解雇通告を受けた。

通告を受けた日の午後。里紗は廊下の壁に背をつけ、目を閉じていた。3週間でここまで来たと思った。中卒から高卒認定を取り、通信大学も出た。4年間、200件以上の現場に立ってきた。その全てが今この廊下に集まっていた。間違いだったのかと一瞬頭を過ぎった。違う。間違ったのは私ではない。そう思い直した瞬間、また涙が滲んだ。泣いていいのかどうか分からなかった。ただ、足が動かなかった。壁だけが背中を支えていた。

靴音が近づいてきた。老人だった。清掃用モップを持ったまま足を止めた。

「大丈夫ですか?」

里紗は首を横に振った。

「大丈夫じゃないです」

珍しく素直な言葉が出た。

「少し座りますか?」

老人が非常口の踊り場を指した。コンクリートの段差に、2人で並んで座った。5分間、誰も何も言わなかった。踊り場は薄暗く、空調の音だけが届いていた。老人は里紗の隣に座り、ただ前を向いていた。せかす言葉も慰める言葉も何もなかった。ただ、ここにいていいという空気だけがあった。長い時間を生きてきた人だけが持つ静けさだった。

老人が口を開いた。

「あなたの仕事ぶりは、ちゃんと見ていましたよ」

里紗が顔を上げた。

「見ていてくれる人がいるとは思いませんでした」

「本当に大切なものは、静かな場所にあります」

里紗の目に涙が滲んだ。

「私、間違ってなかったですよね」

「間違ってない」

老人は即答した。迷いが一切なかった。その一言が里紗の胸に深く刺さった。4年間、誰かにそう言われたことはなかった。現場では常に1人だった。賞賛も共感も必要なかった。そう思ってきたはずなのに、今声が出なかった。自分が思っていたよりずっと疲れていたのだと気づいた。

老人が腰のポケットから折りたたんだタオルを取り出した。すり切れているが清潔なタオルだった。何度も使われ、洗われてきた跡が残っていた。老人はこのタオルで、何度かの涙を拭いてきたのだろう。傷ついた手を、濡れた頬を、震える肩を。誰かのそばで静かに立っていることを、この人は長い時間かけて覚えてきた。里紗はタオルを胸に当て、目を閉じた。「ありがとう」という言葉が声にならなかった。出てきたのは、小さな嗚咽だけだった。里紗はそれを両手で受け取った。

「今日はもう帰りなさい。ゆっくり休んで」

里紗は小さく頷いた。帰り道、里紗はそのタオルを鞄の底に入れた。捨てられなかった。なぜかは分からなかった。ただ、明日も仕事をしようという気持ちが戻っていた。

翌日、里紗は残りの私物を取りに会社を訪れた。相澤の行動はさらに激しくなっていた。今度は野田への担当剥奪が始まった。

「東大卒の女が担当できる取引先じゃないだろう」

相澤が野田の担当取引先を強引に取り上げた。野田は反論できず、デスクで唇を噛んでいた。次は私も切られると、野田は思っていた。

「仕事のできない女は邪魔なんだよ。分かるか?」

里紗はその一部始終をフロアの入口から目の当たりにした。声を出したら任務が終わりだった。代わりにスマートフォンのボイスレコーダーを静かに起動した。

「はい」

野田はそれだけ答えた。目に涙が浮かんでいたが、こぼさなかった。

その夜、野田から里紗に連絡が届いた。

「里紗さん、また増えました。今月の架空伝票、月130万円を超えています」

里紗はデータを確認し、静かにキーボードを叩いた。

「分かった。記録しておいて。証拠が消える前に、全部写真に撮っておいて」

「わかりました。信じてます。里紗さんのこと」

野田の言葉に、里紗の手が止まった。誰かが信じてくれている。それだけで続けられると思った。解雇されても、里紗の仕事は終わっていなかった。社外から野田と連絡を保ちながら、証拠を積み上げた。連絡は全て私用のスマートフォンで行った。会社のシステムに痕跡を残すわけにはいかなかった。送る時間は深夜、内容は短く証拠データだけ。野田も理解していた。

競合他社への情報漏洩の痕跡も浮上していた。社外費データへの不正アクセスログ。いずれも相澤の権限IDからのアクセスだった。接触していた競合担当者の名前も特定できた。証拠は揃っていた。あとは報告書にまとめるだけ。37ページ分の事実、全てが証拠付きだった。

3日後、里紗は再び会社の廊下に立っていた。書類受け取りという名目で建物に入った。廊下で老人とすれ違った。

「来ているんですね」

「もう解雇されたんです」

「それでも来ている」

「まだやることが残っているので」

老人の目が細くなり、口元に小さな笑みが浮かんだ。何かを知っている人の目だと感じたが、里紗は気のせいだと思った。その後も里紗は2度、野田と廊下で会った。野田が伝票の写真を渡してくれた。里紗はそれを受け取り、データに追加した。こんな会社にいなくていいのに、と里紗は思った。でも野田は「みんなのために必要なことだから」と言った。里紗は何も言えなかった。

その夜、東原から連絡が入った。

「報告書の準備が整ったら提出してくれ。監査役が動く準備をしている。辻村、よくやった」

東原が「よくやった」と言ったのは初めてだった。里紗は「まだ終わっていません」と答えた。深呼吸をして、パソコンに向かった。37ページの調査報告書が完成したのは翌朝4時だった。キーボードから指を離した時、手が震えていた。3週間分の記憶が37ページに詰まっていた。野田の震えた声、老人に渡されたタオル、廊下での涙。全部が証拠の一部になって、今ここにある。これは数字や書類ではなく、誰かの現実だと思った。夜明けの空が、少しだけ明るくなっていた。翌朝、鞄の中のタオルが目に入った。行けると思った。これだけで十分だった。

報告書の提出は翌日の午前11時だった。東原と里紗が顧問弁護士と面会した。弁護士がページをめくる音だけが響いていた。架空伝票、証拠48件、累計総額480万円。パワハラ発言42件、録音データ付き。社外費データの不正アクセスログ5件。競合他社担当者との不審な接触3件。10分後、弁護士が顔を上げた。

「完璧です。役員会にあげます」

里紗は小さく頷いた。手が少し震えていた。緊張ではなく、やりきったという感覚がじわじわと胸に広がった。廊下に出ると、壁に背中を預けた。4年間でいちばん重い報告書だった。証拠の1枚1枚に、誰かの傷が乗っていた気がした。それでも終わらせた。自分にできることをやりきった。

その日の午後、相澤は監査役に呼び出された。

「社外の調査会社から報告書が提出されました」

相澤が鼻で笑った。

「でたらめだ。誰が書いたんだ、こんなもの。どうせ中卒の派遣員の妄想だろう」

相澤の声にまだ余裕があった。まだ何も知らなかった。

同じ日の夕方、里紗が廊下を歩いていると老人に会った。

「報告書、出しましたか?」

里紗が立ち止まった。

「なぜご存知なんですか?」

「だいたい分かります」

老人は静かに答えた。それ以上説明しなかった。老人が上着のポケットから封筒を取り出した。

「これをお返しします」

里紗が封筒を開け、中身を見て息を飲んだ。小さなUSBメモリが入っていた。3週間前、里紗が廊下で落としていた予備の証拠データだ。なくしたと思っていた。老人が拾って保管してくれていたのだ。

「落とされたものだと思いました。大切そうだったので」

里紗の目が潤んだ。

「ありがとうございます。なぜ覚えてくれていたんですか?」

「あなたが真剣だったからです」

老人が静かに続けた。

「お詫び会議に来てください。私も行きますので」

里紗が困惑した。清掃員さんが会議に? 老人は答えなかった。清掃用具を持ったまま、静かに廊下を歩いていった。どういう意味だろう? 里紗は考えたが、答えは出なかった。

同じ夜、相澤は会社に残っていた。監査室を出た後、執務室に戻りパソコンを開いた。消せるものは消しておかなければ。架空伝票のデータを削除しようとした。しかしファイルは消えなかった。エラーメッセージが表示された。

「なんだ? なぜ消えない?」

ITシステム部がすでに全てのバックアップを取っていた。監査役の指示で2日前から実施されていた。相澤は知らなかった。深夜、煙草を燻らせながら呟いた。

「中卒の派遣が証拠なんて集められるわけがない」

まだ笑っていた。

その夜、里紗はほとんど眠れなかった。布団の中で天井を見上げ、老人の最後の言葉を繰り返した。清掃員が会議室に来る。意味が分からなかった。それでも、何かあるという確信だけがあった。朝4時に起き、もう1度報告書を全て読み直した。完璧だった。あとは明日を迎えるだけだ。

翌朝8時半。里紗は大崎商事のビルの前に立っていた。行ける、と自分に聞いた。行ける、と自分が答えた。エレベーターに乗り、10階のボタンを押した。扉が閉まる直前、廊下の向こうに老人の姿が見えた。老人は清掃用具を持ち、いつも通り廊下を拭いていた。里紗と目があった。老人がゆっくりと頷いた。里紗も頷いた。扉が閉まった。

午前10時。大崎商事10階、役員会議室。テーブルを囲む役員、監査役、顧問弁護士たち。相澤が最後に入室した。高級スーツを着こなし、余裕の表情で着席した。どうせ大したことはないと思っていた。扉が開き、東原と里紗が入室した。相澤が目を向けた。

「なんでこいつがここにいる?」

東原が静かに口を開いた。

「辻村里紗は、ローコンプライアンス調査のシニア調査員です。今回の調査は、正式な業務委託契約に基づいたものです」

相澤の顔から血の気が引いた。

「派遣じゃないのか?」

「3週間で記録した事実を、そのまま報告書にしました」

弁護士が報告書をテーブルに並べ始めた。架空伝票の原本、録音データの反訳資料、社外費データのアクセスログ、競合担当者との接触記録。相澤が「全部でたらめだ」と言いかけた瞬間、会議室のドアが静かに開いた。清掃員ユニフォームを着た老人が入ってきた。相澤が椅子から立ち上がった。

「なんで清掃員が会議室に。出ていけ」

その瞬間、役員の1人が立ち上がった。

「会長……」

会議室が静まり返った。相澤が口を開けたまま固まった。老人が静かに口を開いた。

「久保グループ創業者会長、久保誠一として、一言申し上げたい」

「か、会長……? 清掃員が、なぜ……」

久保誠一、71歳。2ヶ月前から清掃員として大崎商事に潜入していた。会社は数字ではなく人でできている。これを自分の目で確かめるために。久保誠一の名を知らない経済人はいない。資本金300万円から出発し、40年で1000億の企業グループを築いた人物だ。原点は中学卒業後すぐに就職した時のことだった。建設現場の雑用から始め、何度も失敗し、それでも諦めなかった。「人を大切にした仕事だけが本物だ」。久保の全ての根本はそこにあった。

「相澤部長、3週間前のあの廊下を覚えていますか?」

相澤が答えられなかった。

「泣いていた女性に、あなたは何と言いましたか? 『中卒は不要』『顔採用だろう』『使えない女はいらない』」

室内の空気が完全に凍りついた。監査役は目を伏せた。弁護士だけが静かにメモを取り続けた。

「私はあの廊下にいました。清掃員として、ずっとそこにいました。全部、聞いていました」

相澤の手が小刻みに震え始めた。

「でも、彼女は中卒で……」

久保会長が静かに遮った。

「私も中卒です」

完全な沈黙が落ちた。東大卒の部長と、中卒の清掃員という構図が、一瞬で中卒の部長と、中卒の創業者会長に変わった。相澤はその意味をゆっくりと理解していった。

「中学を出てすぐ働き始め、この会社の親会社を作りました。学歴で人の価値は決まらない。それが私の根本です。しかし、あなたが行ってきたことは、学歴差別、ハラスメント、架空伝票、情報漏洩。会社の根幹を揺るがす犯罪行為です。私はあなたを許しません。しかし、これはあなたへの罰ではない。あなたに傷つけられた人たちへのけじめです。彼女たちが受けた痛みは判決では消えない。それでも、この会社は彼女たちを守ると誓います」

久保会長は里紗を一度だけ静かに見た。里紗は目を伏せた。胸が熱くなった。相澤の全身から力が抜けていった。顧問弁護士が立ち上がった。

「本日付けで相澤克巳部長の懲戒解雇通知を発行します。警察への被害届も、本日中に提出します」

相澤が崩れるように椅子に座り込んだ。

「わかりました。全部話します」

声が途切れ途切れになっていた。架空伝票の共犯者、取引先担当者2名の名前が出た。競合他社への情報提供の経緯も全て明かされた。月8万円の報酬を受け取っていたことも。相澤はうつろな目で床を見ていた。もう言葉が出なかった。

社長が深く頭を下げた。

「部長として採用した我々人事にも責任があります。被害を受けた全社員に対し、誠実に対応いたします」

社長の言葉が終わった後、野田まゆが静かに手を上げた。

「発言させてください」

小さく言った。室内の全員が振り返った。

「3ヶ月間、毎日が怖かったです。でも、里紗さんが社外から信じてくれていたから、続けられました。こんな会社は嫌だと思ったこともあります。それでも残ったのは、この会社を守りたかったからです」

野田の声が静かに会議室に響いた。誰も何も言わなかった。でも、誰もが何かを感じていた。会議室に長い沈黙が落ちた。監査役が書類をまとめる音だけが響いていた。里紗は窓の外を見た。いつもと変わらない東京の空だった。でも、今日この部屋で起きたことは、確かに誰かの未来を変えた。それだけは里紗にも久保会長にも分かっていた。野田まゆが静かに泣いていた。誰も気づいていなかったが、里紗は気づいていた。

会議が終わり、廊下に出た。久保会長が里紗の隣に並んで歩いた。

「よくやりました」

「ありがとうございます。会長とは思いませんでした」

「こちらも潜入調査員とは思いませんでした。お互い様ですね」

久保会長が小さく笑った。深い皺の刻まれた、温かい笑顔だった。

「タオル、今でも持っています」

「笑って返してもらえば十分です」

里紗が笑った。涙が1粒こぼれた。久保会長が静かに聞いた。

「『中卒は不要』と言われた時、どうでしたか?」

里紗が少し黙った。

「悔しかったです。でも、悔しいということは、自分の仕事に誇りがあるということだと気づきました」

久保会長がゆっくり頷いた。

「誇りのある人間は、どんな場所でも仕事ができます。あなたは本物の誇りを持っています」

里紗は何も言えなかった。ただ頷いた。廊下の向こうから、野田が駆けてきた。

「里紗さん、本当にありがとうございます」

野田が里紗に抱きついた。

「ずっと信じていました。絶対に戻ってくると」

野田の涙が里紗の肩に落ちた。

「終わったんですね」

野田は呟いた。言葉にならない何かが、その一言に全部詰まっていた。里紗は何も言わず、ただ背中に手を当てた。

「よく続けてくれた」

それだけを小さな声で言った。

「あなたが証拠を集め続けてくれたからです。私だけじゃ何もできなかった。里紗さんがいたから」

「ありがとう」という言葉では足りない何かが、そこにあった。2人がしばらくそのまま立っていた。久保会長が静かに廊下を歩いていった。この日の夕方、架空伝票に署名していた取引先担当者2名も警察の調べを受けた。証拠書類に2名の筆跡がそのまま残っていた。相澤だけではなかった。組織的な犯罪だった。翌日の役員会では、さらに追加の処分が発表された。相澤を採用した前人事部長が降格処分を命じられた。問題を把握しながら放置した、その一点だった。

「コンプライアンスとは、書類に書くものではなく、行動で示すものだ」

久保会長は翌朝の役員会でそう述べ、会議室を出た。会社全体に緊張が走った。見て見ぬふりにも代償がある。この件を通じて、全員がそれを知った。

それから3ヶ月が経った。相澤克巳は詐欺罪で書類送検された。取引先担当者2名と共に起訴された。解雇後、転職活動を始めたが、業界内に大崎商事での不正の情報が広まっていた。50社以上に履歴書を送ったが、全て不採用だった。妻から離婚届が届いたのは、解雇から2ヶ月後だった。

「東大を出て、なぜこんなことに?」

安アパートの狭い部屋で、相澤は呟いた。答えてくれる人は、どこにもいなかった。

8ヶ月後、相澤は執行猶予付きの有罪判決を受けた。奉仕200時間の命令も出た。週2回、市内の清掃ボランティアに参加することになった。初めての日、相澤はゴミ袋を手に公園の通路に立った。隣に立つのは見知らぬ老人と大学生だった。「元部長」という肩書きも「東大卒」という経歴も、ここでは何の意味もなかった。前を向いたまま黙々と作業した。箒を持つ手がふと止まった。大崎商事の廊下を毎日丁寧に拭いていた、あの老人の後ろ姿が頭をよぎった。あの老人は会社の創業者だった。それでも毎朝、誰にも言われず、1人で廊下を拭いていた。なぜそんなことをするのかと聞いたことはなかった。今なら少しだけ分かる気がした。相澤は再び箒を動かした。ゆっくりと、丁寧に。

その日、近くを通り過ぎた小学生の男の子が振り返っていった。

「おじさん、ありがとう。綺麗になったね」

相澤は何も言えなかった。「ありがとう」と言われたのはいつ以来だろう。部下を切り捨てていた日々の中で、その言葉をどこかに捨ててきた。相澤はまた前を向いて作業を続けた。今度は少しだけ早く歩いた。

3ヶ月目のボランティアの日、相澤は初めて隣の老人に話しかけた。

「いつからここに来ているんですか?」

老人は少し間を置いて答えた。

「20年前からです。毎週ここに来ています」

相澤は黙った。20年間、誰にも頼まれずここに来ている人がいる。「なぜ続けるんですか」と聞きたかったが、言葉が出なかった。相澤はまた箒を動かした。丁寧に生きているという意味が、ようやく体に届いた気がした。それがあの日の廊下よりも、少しだけ丁寧に床を拭いていた。

野田まゆはその後、大崎商事に正社員として採用された。相澤に奪われた取引先が全て戻ってきた。新しい部長の元で、初めて自分の担当顧客を持つことができた。野田は初めて自分の名刺を作った。「大崎商事株式会社」と印字された小さな名刺を、しばらく机の上で眺めた。自分の名前が正社員として刻まれていた。それがこんなに温かいとは知らなかった。

ある夜、里紗にメッセージが届いた。

「初めて、仕事が楽しいと思いました」

里紗はそのメッセージを3回読んだ。それだけで十分だった。一方、里紗に久保会長から連絡が届いた。

「大崎商事のコンプライアンス推進部に来てほしい。正社員として」

里紗は一度断った。派遣のままでいいです、と。

「現場で、傷つく人を守る方が、多くの人を助けられます」

里紗はしばらく考えて、受け入れた。久保会長は引退後も週3日はこの会社に来ていた。清掃員ユニフォームのまま廊下を歩き、社員に声をかける。誰もそれを止めなかった。むしろ、会長がいる廊下は空気が違った。挨拶が丁寧になる。仕事が丁寧になる。人は、誰かに見てもらっている時、いちばん正直に働く生き物だ。久保会長はそのことを70年かけて学んでいた。

初出勤の朝、エレベーターを降りると廊下に老人がいた。いつも通りのユニフォームを着て、丁寧に床を拭いていた。

「また潜入ですか?」

「これは本業になりました。現場が好きなんです」

久保会長が笑った。里紗も笑った。朝の光が差し込む廊下に、2人の影が並んだ。外見でも学歴でも肩書きでもなく、何を大切にして生きてきたか。それだけが人の生き方を決める。辻村里紗の新しい仕事が、今日から始まった。

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