顧客データが全部消えたと叫ぶ声で、開発部は一瞬にして静まり返った。慌てて原因を調べると、半年前に教育係として引き受けた新人・高橋のパソコンに、システム設定をいじった履歴が見つかった。よりによって、なぜ簡単なコピー作業を頼んだだけで、こんな大事故になるのか。頭を抱える俺の前で、高橋は悪びれる様子もなく言い放った。
「なんか設定画面ってやつが出てきたんで、邪魔だったから消してやりましたよ」
俺の名前は足立、38歳。中堅IT企業の開発部で係長を務めている。貧しい家庭に生まれた俺は高校にすら行けなかったが、独学でシステム開発を学び、この会社で必死に働いてきた。器用貧乏な俺はどんな仕事も引き受けてきたし、新人教育も何度も経験してきた。そんな俺に、部長が新しく入ってくる中途採用の教育係を頼んできたのは、今のプロジェクトが佳境に入る直前のことだった。
「頼むよ、足立。お前しかいないんだ」
そう言われて断れるはずもなく、教育係を引き受けた。だが、やってきた高橋君は、とんでもない男だった。有名私立大学出身であることを鼻にかけ、俺が中卒だと知るや、嫌味を言うようになった。
「足立係長は中卒だから、大学の話をしても分かりませんよね」
申し訳なさそうな口調の裏で、その目は明らかに俺を見下していた。腹は立ったが、教育係としてぐっとこらえた。しかし、高橋君は指導期間が終わっても仕事をまったく覚えなかった。部長に相談しても、正社員になってしまった以上、簡単には解雇できないと言う。そうして俺は、今進めているシステム開発プロジェクトの雑用を、高橋君に手伝わせることにした。誰でもできる簡単な仕事を任せれば大丈夫だと思ったのだ。だが、それが甘かった。
顧客データ消失事件の後も、高橋君は小さなトラブルを数えきれないほど起こし続けた。俺が中心になってフォローし、なんとか乗り切っていた。それから1年後、突然、高橋君が衝撃の発表をした。
「大手企業への転職が決まったんで」
仕事がまったくできないのに、なぜか内定をもらったらしい。みんな首をかしげていたが、問題児がいなくなるならそれに越したことはない。引き継ぎを済ませ、高橋君が最後にこんな言葉を吐き出した。
「いやあ、中卒無能の上司のせいで色々苦労したわ。転職先、聞いて驚いただろ。高学歴の俺だから大手に転職できたんだよ。あんたと俺じゃ格が違う。これから先、どこかで俺を見かけても、二度と話しかけるなよ」
これまでさんざん面倒を見てやった相手に、それはないだろう。心の中で呆れながらも、俺は笑顔で答えた。
「分かったよ。喜んで。転職先でも頑張ってね」
部下と喧嘩するために会社に来ているわけではない。俺には、完成間近のプロジェクトがある。高橋君のデスクを離れ、自分の持ち場に戻って仕事を再開した。その後、高橋君が去ってから、開発部の仕事のスピードは格段に上がった。どうやら、みんな彼に苦労させられていたらしい。2ヶ月後、俺は開発した新システムの商談のため、大手企業を訪れた。佐々木部長と共に、大きな会議室に案内され、相手の担当者が入ってきた。
「遅いぞ、高橋」
その言葉とともに扉を開けて入ってきたのは、1ヶ月前にうちを辞めた高橋君だった。俺たちも驚いたが、高橋君も同じ顔をしている。彼の転職先がこの会社だとは聞いていたが、こんな形で再会するとは思わなかった。
「な、なんでここにいるんだ?」
混乱しながら俺が問いかけると、高橋君は信じられない言葉を口にした。
「今日の商談相手はあんたたちの会社で合ってるけど、相手は課長じゃなかったのか? AIを使ったシステムの商談って聞いて、てっきり飯田課長が来ると思ってたんだけど」
商談の資料は事前に渡してあったはずだ。ちゃんと読んでいなかったのか。どうやら転職先でも、彼はやらかしているようだ。さらに、俺が今回の商談の開発責任者だと分かると、高橋君は驚きの表情を浮かべた。
「あんたのプロジェクトがそんなに重要だったの? 中卒がこんな大きな案件のリーダーをやってたなんて知らなかったわ」
この場で見なかったことにするには、あまりにも失礼な言いぐさだった。だが、相手の部長がいる手前、俺が感情的になるわけにはいかない。佐々木部長が取りなして、なんとか商談を始めることになった。すると高橋君は、体裁を取り戻そうとしたのか、急に積極的に質問をしてきた。しかし、その質問はどれも的外れで、失笑ものだった。さすがに俺も呆れて、丁寧に答えることをやめた。高橋君は無視され続け、口を閉ざした。そして商談が成立し、契約を交わした後、相手の大葉部長が高橋君に切り出した。
「高橋、一つ聞きたいことがある。履歴書に書いてあった内容は嘘だったのか? 前職でAI開発の中心メンバーだったって書いてあったから、採用して商談に参加させたんだ。だが、お前の質問は営業で働く俺でも知ってる基礎的な内容ばかりだったぞ」
俺と佐々木部長は顔を見合わせた。高橋君が履歴書にそんな嘘を書いていたのか。
「高橋君が在籍していた当時、うちの開発部で進めていたプロジェクトは足立のものだけでした。高橋君はそのメンバーですらありませんでしたよ」
佐々木部長が事実を告げると、高橋君の顔は見る見る青ざめた。大葉部長の表情は、怒りで固まっている。すると俺は、思わず余計な一言を口にしていた。
「大葉部長、気をつけてくださいね。高橋君はうちの顧客データを全部消したこともあるので」
「ちょ、おい、何言ってんだお前! 中卒のくせに俺を貶める気か!」
慌てて噛みついてくる高橋君に、俺は静かに返した。
「元上司、今は取引相手の俺にどういう口の聞き方をしてるの? 社会人として以前の問題だよ」
即座に言い返すと、高橋君は言葉に詰まった。大葉部長は、もう呆れて言葉が出ないといった様子だった。高橋君はようやく事態を理解したのか、すがりつくように俺に言った。
「そ、そうだ。またあんたのところで働かせてくれよ。短い間とはいえ、一緒に働いた仲間だろ?」
「言っただろう。君はうちでも使えない人材だって。仕事ができない上に、性格が最悪な部下なんて、絶対にお断りだよ」
俺がきっぱりと言い放つと、佐々木部長も頷いた。
「俺も部長として、お前みたいな人材を採用したいとは思わない。二度と俺たちに関わらないでくれ」
「待ってください! これからは心を入れ替えて真面目に働きますから!」
必死に叫ぶ高橋君に、俺は冷めた声で答えた。
「もう遅いよ。誰も君を必要としてない」
高橋君の顔に絶望の色が広がり、がっくりと肩を落とした。大葉部長は迅速に動いてくれた。その結果、高橋君は地方の工場へ異動となり、現場勤務となった。だが、そこでまたミスを連発しているそうだ。周りから煙たがられ、まともに仕事もできない状態が続いているらしい。
「あの調子では、近いうちに解雇になるでしょうね。世の中には信じられないくらい使えない人間がいますが、あそこまでの人は初めて見ましたよ。足立さんも苦労されたでしょう」
後日、外回りで我が社を訪れた大葉部長が、高橋君の状況を教えてくれた。俺が苦笑いを返すと、大葉部長は続けた。
「ええ、まあ。でも、足立さんが中心となって開発した新システムはとても好評ですよ。我が社としても、今後の展開が楽しみです」
開発した新システムは好評で、他社からも契約の話が舞い込んでいる。俺の仕事が認められるのは、素直に嬉しい。高橋君のことは、もう俺には関係ない話だ。これからも俺は、この会社で一生懸命働いていくつもりだ。



