「俺はもう限界なんだ。別れよう」—…

「俺はもう限界なんだ。別れよう」—...

窓の外はまだ薄暗かった。黒川竜平は台所の椅子に腰を下ろし、手帳に今月の数字を書き込んでいた。縁の擦り切れた手帳には、月々の収支が細かく記録されている。40年間、彼はこの手帳を信じて暮らしてきた。生活は決して楽ではなかったが、毎月の勘定はぴったり合っていた。それが、彼の人生を支える柱だった。

その日、一枚の封筒がすべてを変えた。日本年金機構からの通知書には、年金が年間6万円増額されると書かれていた。月にすれば5,000円。竜平は数字を三度読み返した。間違いではなかった。

「本当ですか」

妻の千世子が小さく呟いた。彼女は5年前に難病を発症し、治療のために月に何度も通院している。日中は薄いシルクのスカーフを頭に巻き、体調と向き合いながら静かに暮らしてきた。竜平はその顔を見て、少しだけ明るい気持ちになった。増えた5000円で、彼女に新しいスカーフを買ってやれるかもしれない。そんなことを考えていた。

4月の終わり、玄関のチャイムが鳴った。出た千世子の声が、驚きで一瞬高くなった。立っていたのは、5年間連絡を絶っていた息子の哲也だった。39歳の息子は、リストラされ、家賃も払えずにアパートを追い出されたと言った。そして、実家に住民票を移させてほしいと頭を下げた。2ヶ月だけでいい、と。

「住民票だけだ。ここで生活するなら家事は自分でやれ。迷惑はかけるな」

竜平はそう言い聞かせた。妻の目が、息子を助けてほしいと語っていたのだ。哲也は「わかりました」と深く頭を下げた。その速さが、竜平には少し引っかかったが、それ以上は追求しなかった。

翌月、区役所から届いた通知書に、竜平は手が止まった。住民税と国民健康保険料が、去年とは比べ物にならないほど増えていたのだ。区役所で説明を受けた。年金が6万円増えたことで非課税基準を超えたこと。そして、世帯に哲也が加わったことで高齢者世帯の認定が外れたこと。さらに、医療費の自己負担上限額が高くなったこと。

その夜、千世子が薬袋を持って帰ってきた。領収書には、先月まで24,000円だった薬代が、今月は148,300円になっていた。千世子は唇を結び、何も言わなかった。竜平も何も言えなかった。

「貯蓄を使うしかないかしら」

「今年度は、そうなる」

竜平は手帳を開いた。頭の中で計算が繰り返された。来年度に向けて、何か手を打つ必要がある。区役所で調べた知識を頼りに、図書館へ通い始めた。そして見つけた。基礎年金を任意停止すれば、所得が課税基準をわずかに下回る。だが、条件があった。世帯に生産年齢の者がいないこと。つまり、哲也の住民票を動かさなければ、この制度は使えない。

「哲也、今月中に住民票を出してくれ」

食卓で切り出すと、哲也はコップを置いた。「仕事が決まってないんだ。住所がないと受けられない会社があって。もう少し待ってほしい」

「最初から2ヶ月の約束だっただろう」

哲也は視線を斜め下に向けた。「2ヶ月ってのは目安だ。状況が変わったら伸ばせると思ってた」

「お前のタイミングの問題で、母さんの薬代が月14万を超えているんだぞ」

哲也は何も答えなかった。1週間後、竜平は再度確認した。「来週やる」と哲也は言った。しかし、手続きは行われなかった。

7月最後の日曜日。図書館から帰ると、玄関に見慣れない男の靴が二足あった。リビングから聞こえる声に、竜平は立ち止まった。知らない男が低い声で言った。「期限を過ぎてるのは分かってるな」

男は竜平が入ってくると、すぐに立ち上がって帰っていった。竜平は哲也を問い詰めた。「あの男は誰だ」

哲也は沈黙した。やがて、絞り出すように話し始めた。「仮想通貨に金を入れて、損した。早く取り返そうと思って、別のところから借りた。でも、それも損した。返せてない」

「いくらだ」

哲也は数字を言った。竜平は表情を変えず、手帳にその数字を書き留めた。「借りる時に、この住所を使ったのか」

哲也は頷いた。だから、住民票を動かせなかった。取り立てに追われるのが怖くて。

翌朝、哲也の部屋からキャリーケースが消えていた。食卓の上には財布だけが残っていた。中は空だった。さらに、来月の薬代のために引き出しておいた現金10万円が入った封筒は、空になっていた。哲也は逃げた。電話を何度かけても、繋がらなかった。

その夜、竜平は千世子にすべてを話した。彼女は黙って最後まで聞いていた。窓の外で夏の虫の音がしていた。「薬代はどうするの」と彼女が聞いた。「貯蓄から出す。来月も、どうにかする」と竜平は答えた。千世子は泣かなかった。ただ、口を結んで自分の手を見つめていた。

8月が始まると、取り立て屋が二度訪れた。最初は昼間、次は夜に二人連れで。竜平はドアを開けずに同じ言葉を繰り返した。「息子はいない。連絡先も知らない」

ある日、病院の帰り道。千世子が「今日は少し歩いてもいい」と言った。二人で並んで歩く中、彼女が小さく言った。「夏の花が咲いているわね」

竜平は、道端の剪定作業をしている男を見かけた。手入れの行き届いた植え込みから、花の咲きかけている枝をハサミで切っていく。「咲きかけているのに、切るのか」と尋ねると、男は言った。「この木は、今根がやられてるんです。根が弱ってると、水と養分が行き渡らなくなる。花を咲かせようとすると、木はそっちに力を全部使って根が持たず、枯れてしまいます。だから今は花を諦めて、根に養分を戻すんです。来年、根が回復したら咲きます」

竜平は、その言葉を頭の中で繰り返した。自分は、失ったものを取り戻す方法ばかり考えていた。非課税の認定を戻す。医療費の上限を元に戻す。しかし、それはどれも哲也の住民票を動かすことに依存していた。今、その前提は崩れた。ならば、別の方法があるはずだ。

竜平は区役所の戸籍担当窓口に向かった。棚から一枚の紙を手に取った。「離婚届」と書かれた用紙だった。二人が合意し、証人が二人いれば、紙一枚で完了する。

数日後。竜平は久しぶりに魚の煮付けを作った。千世子が「珍しいね」と言って、鍋を覗き込んだ。二人で食卓に着いた。夕食の途中、竜平は箸を置いた。

「別れよう」

千世子の手が止まった。竜平は言葉を続けた。「お前が嫌いになったわけじゃない。ただ、俺はもう限界なんだ。徹也のことも金のことも、全部が重くなった。お前の世話を続ける気力がない。俺一人では抱えきれない」

千世子が顔を上げた。「なぜ、薬代のことを知っているの? 市営住宅のことも、なぜそんなに詳しく知っているの? 私のために調べたの?」

竜平は視線を落とし、言った。「違う。俺のためだ。俺が楽になりたい。お前の病気の管理が、俺には重すぎる。正直に言う。もう無理なんだ」

千世子の目から涙が溢れた。「あなたはそういう人じゃない」と彼女は言った。声が割れていた。「40年一緒にいて、あなたがそういうことで逃げる人じゃないことくらい分かってる。なぜ本当のことを言わないの?」

彼女は竜平の胸を叩いた。力はなかったが、何度も叩いた。「なぜ一人で決めるの? なぜ言ってくれなかったの?」

竜平は何も言わなかった。彼女が手を掴む。「行かないで」。竜平は千世子の手を両手で包み、一度だけ優しく握った。それから、静かに立ち上がった。振り返らずに、ドアを開けた。

夜の空気が顔に当たった。竜平は、どこに向かうでもなく、ただ歩いた。家に戻ったのは、日付が変わった後だった。食卓の上に、離婚届が置いてあった。千世子の欄には、すでに印鑑が押されていた。隣には、彼女のスカーフが綺麗に畳んで置いてあった。

離婚届が受理されたのは、8月の最後の週だった。窓口の担当者は「問題ありません」と言った。「受理されました」という一言の後、控えが一枚渡された。40年間が、一枚の紙で終わった。竜平は区役所を出た。8月の強い日差しが、頭から降り注いでいた。

千世子は、離婚した翌日から弟の家に身を寄せていた。9月、市営住宅の申請が進み、10月には入居が決まった。11月から、彼女の医療費は最低区分に変わり、薬代は大幅に軽減された。弟から「先生も顔色がいいとおっしゃっていました」という短い報告が届いた。

竜平の状況は、何も変わらなかった。哲也の住民票はまだここにあった。住民税と保険料は、全額竜平が払い続けた。取り立て屋は、10月にも来た。ある夜は、男たちが2時間ほど廊下で待っていた。竜平は暗闇の中で、静かに時間が過ぎるのを待った。

11月、竜平はハローワークに行った。物流センターの夜間仕分け作業の求人を見つけた。深夜22時から翌朝6時まで。週4日から5日。竜平は応募し、面接を受けた。「体力的にきつい時期もある。大丈夫ですか」と聞かれ、竜平は答えた。「体は動きます。慣れれば問題ありません」

1週間後、採用の連絡が来た。夜間シフトでの仕事は、管理職時代とは違う肉体労働だった。初めの1週間は腕が重く、体に疲れが溜まった。しかし、物流の流れは体で覚えていた。どこにどう置けば次の作業者が楽になるか。どの順番で動けば無駄がないか。身体より先に、頭が動いた。

12月のある日曜日。シフトが空けて、竜平は大きなスーパーの前を通った。入り口の近くに、週末の朝に集まる高齢者のグループがいた。その中に、千世子の姿を見つけた。濃い緑がかった灰色のスカーフを巻いていた。以前の色とは違っていた。彼女は、同年代の女性たちと楽しそうに話し、笑っていた。

竜平は、駐車場の端に立ったまま、その姿を見ていた。千世子の足取りは、夏に病院で見た時とは違っていた。軽かった。彼女が笑っていた。それが何より、竜平の中に静かに落ちていった。

帰宅して、竜平は手帳を開いた。数字のページを確認し、今月の収入と支出を書き込んだ。それから、余白に一行だけ書いた。「千世子、元気そうだった」。それだけ書いて、手帳を閉じた。

年が明けて、2027年1月。年越しは一人だった。元日の朝、竜平は近くの神社まで歩いた。以前は千世子も同じ癖で、二人で毎年歩いていた。今年は一人だった。3月、来年度の住民税の通知を予想しながら、竜平は手帳で収支を試算した。徹也の住民票が動かない限り、税負担は高いままだ。夜間シフトの収入がなければ、今の生活は維持できない。しかし、毎月の収支は、ぎりぎり合う計算だった。

3月のある朝。シフトを終えた帰り道、竜平はコンビニに寄り、温かいコーヒーを買った。外の椅子に座って飲みながら、駅へ向かう人々の流れを見ていた。若い会社員、学生、子供を連れた親。それぞれの速さで、それぞれの方向へ歩いていく。

コーヒーを飲み終え、缶をゴミ箱に捨てた。立ち上がり、作業着のジャケットのジッパーを少し緩めた。歩き始めると、ポケットの中でボールペンが揺れた。今日も、手帳に数字を書く。明日も、シフトがある。千世子は、今月も薬を受け取りに行く。その薬を、自分で買いに行ける体になった。それで、十分だった。

竜平は歩き続けた。3月の朝の町が、少しずつ明るくなっていた。

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