土砂が崩れ落ちる。お冬は片手で松の根にしがみつき、もう片方の腕で幼い血松を抱え込んでいた。その指先には崖へ滑り落ちかけた姑の襟が食い込んでいた。指先の感覚はもうなかった。この手を離せば三人とも落ちる。そう思った瞬間、闇の中から誰かの手が伸びてきて、お冬の腕をしっかりと掴んだ。
「手を離すでないぞ。」
けれど、この幼い花嫁には命をかけてでも、今夜のうちにこの山を越えねばならぬ事情があった。
むかしむかし、品野の国の深い山に、大きな欅の古木が村の入口を守っていると伝えられる、欅沢村という里があった。この村にはかつて代々阪神を排出したという旧家があったが、今ではその面影もいたるところに朽ち落ちていた。それでも仏壇に備える前の腕の一つを取っても、相変わらず堅苦しいことに変わりはなかった。
週トのお冬は、若い頃の実家が山裾の田を抱えていた頃を覚えている人であった。それ故、今の暮らし向きの貧しさを他人に見せることだけは、死んでも嫌だと思っていた。
一家の長老・中門は、一族の寄り合いを取りし切る人で、代々受け継がれてきた家計図と消門を命よりも大事にする男であった。村の者たちは影でこう囁き合った。
「中身は塔に空なのに、格式だけは相変わらずだと。」
しかし、その家の中で、一人の幼い嫁の手によって再び立ち直ることになろうとは、その時は誰も知るよしもなかった。
お冬は村の裏山を越えた先で、焼き畑を営む貧しい家の娘であった。父は人の田を少しばかり借りて食いつぎ、母は仕事の張仕事でようやく口を乗りする暮らしであった。その年、ひどい教作に見舞われ、穀物を一粒もまともに納められなかった。金取に攻め立てられた父は、ついに欅沢村の旧家へ娘のお冬を言い付けとして差し出すことにした。口べらしのためでもあった。
縁の決まった日、父は庭先にしゃがみ込んだまま、ただ泣いていた。娘の顔をまともに見られぬ様子であった。お冬はそんな父の丸まった背中を見て、恨みよりも先に切なさが込み上げた。
旅立つ朝は下が白い夜明けであった。母は娘の手をしっかりと握り、しばらく言葉を告げずにいた。
「あの家に行けば苦労はするだろうが、辛い思いだけはさせぬはずだ。」
お冬は幼さながらも母の涙を見て、泣く代わりに歯を食い縛った。心のうちでこう誓った。
「私はきっとあの家で生き抜いて見せる。」
山道を辿って欅沢村へ向かう道。お冬はいく度も後ろを振り返った。突き添いの下男は終始無言で荷を背負ったまま先を急ぐばかりであった。
旧家の門をくぐった日、庭先には晩秋の乾いた風が吹き荒れていた。お冬を最初に迎えたのは、姑でも一族の長老たちでもなかった。庭の片隅で土いじりをしていた、四つになる千松であった。千松は見知らぬ顔を見るなり、立ちまち火がついたように泣き出した。女中が慌てて抱き上げても、泣き声は一向に収まらなかった。
「若様は生まれつき人見知りがひどくいらっしゃいます。どうしたものでしょう?」
女中が汗だらになりながらお冬に目配せした。するとお冬は我が知らず、幼子を背に追った。不思議なことに、千松はお冬の背に追われるとすぐに泣きやんだ。小さな手でお冬の襟をしっかりと握りしめ、息を整え始めた。
それを見ていた姑が妙な表情を浮かべた。
「この子はもう、己の連れ合いを分かっているのだね。」
お冬にはその言葉の意味がまだよくわからなかった。ただ、背に追われたこのぬくもりが、なぜか他人とは思えなかった。
その日の夕方、お冬は台所に呼ばれ下働きを言いつけられた。初めて味わう台所の広さに圧倒され、火を入れる作法もおぼつかず、鉄鍋を扱う手もいく度も滑った。古株の女中が下働きしながらもそばで一つ一つ教えてくれた。
「手先の力を抜くのだよ。そうすれば長く持つ。」
お冬はその言葉を胸に刻みながら同じ動作を繰り返した。手の甲が熱い湯気に焼けて赤く腫れ上がったが、そぶりにも出さず黙々と仕事をやり遂げた。
翌朝、お冬は仏間の方から聞こえてくる聞き慣れぬ声に足を止めた。一族の長老・中門が若い親族たちを前に、何やら説教をしているところであった。
「この仏具の一つにも、我らが先祖の手がこもっているのだぞ。粗末に扱うものは、わしが決して許さぬ。」
ところが、そう言い終えた中門は、弟の遺牌の前でふと足を止めた。指先は遺牌の縁ではなく、その脇に置かれた古い消門へと伸びかけたが、そこで不意に止まった。見慣れぬ沈黙であった。傍らにいた若い親族が声をかけても、中門はしばらく答えなかった。
「昔のことだ。」
そう呟いた顔には、悲しみよりも何かを失うことへの異様な恐れが浮かんでいた。お冬はその後ろ姿に、一瞬よぎる何かの影を見た気がしたが、それが何かを知る術はなかった。
その日から、千松はお冬のそばを離れようとしなくなった。お冬が台所に入れば、袖にぶら下がって覗き込み、庭に出れば短い足で追いかけてきた。
夜が更けると、女中がお冬に千松を寝かしつける方法を教えてくれた。この子は毎晩激しく泣き喚いても、誰かの背に追われれば嘘のように眠りにつくのだという。お冬は見知らぬ部屋で千松を抱き、子守歌の代わりに低く口ずさんだ。母が歌ってくれた節であった。
障子の隙間からしみる夜風に燭台の火が細く揺れていた。千松は目をぱちくりさせてお冬を見上げていたが、やがて小さな手でお冬の裾を引いた。
「ちって。」
お冬が撫でても、千松は裾を離さなかった。むしろより強く握りしめた。実の母と離れてまだ十日と経たぬ夜であった。お冬もまた、誰かのぬくもりが恋しかった頃であった。
「この子も、私と同じくらい寂しいのだ。」
お冬はその晩、初めてこの見知らぬ家の中に心の寄り所を見つけたような心地がした。
翌日から、姑はお冬にそれとなく嫁としての心構えを言い聞かせるようになった。
「今は幼子の世話であろうが、いずれはこの家の女主人にならねばならぬ。その心構えを今から定めておくのですよ。」
お冬は俯いたまま何も答えられなかった。ここにして巨婚の妻という言葉は、あまりにも見慣れず重く感じられた。千松はまだ乳離れもしていない子で、お冬にとってはただ守るべき幼い命であった。
けれども、その夜も千松はお冬の裾を握りしめてようやく眠りに落ちた。お冬は眠った幼子の顔をじっと見つめながら心を定めた。
「先々の縁は大人たちの決めたことと言え仕方ないとしても、今すぐは千松にとって必要な人になってやりたい。」
時が流れ、千松は五つを目前にしていた。言葉が回るようになり、一端の物言いができるようになっていた。ある日、庭の片隅で中門が一族の若者たちを呼び集め、また何やら説教をしていた。
「仏具の一つ、消しの一枚足りとも粗末に扱う手はならぬ。これらこそが我が家そのものなのだ。」
千松もその片隅で意味も分からぬまま、心妙な顔をしてその言葉を聞いていた。
その頃、村にはまた兵という山稼ぎを生業とする老いた男がいた。山菜や薬草を取っては売って一人暮らす男であったが、若い頃からこの山のことを手の平のごとく知り尽くしていると言われていた。腰は曲がり、片足を少し引きずって歩いたが、その足取りは山道でだけは誰よりも確かであった。村の者たちの間では、また兵が若い頃、大水で妻と幼い娘を一度に失い、それきり一人身になったという話が低い噂となって流れていた。それからというもの、また兵はこの山の危険な場所一つ一つに目印を刻み、通りかかる者に道を教えることを己の生業にしたのだという。
お冬は焚き木を取りに山へ入った時、また兵と出会った。また兵は足を引きずりながら荷を担いで山道を登り下りしていた。
「あの山はな、迂闊に登るものではないぞ。昼は大人しい顔をしておるが、夜になれば人の命など何とも思わぬ場所じゃ。」
冬が驚いて問い返すと、また兵は昔の話を語って聞かせた。数年前の男が夜中に山道を間違え、崖から大きな怪我を負ったという話であった。
「この山にはな、雨の日になると土が崩れる場所がいくつかある。大きな岩が三つ並んで立っているところを通ったなら、決して左の斜面へ行ってはならぬぞ。右へ回り松の根方に沿って行けば安全じゃ。それからな、あの上の崖の辺りは日暮れになると熊が水を飲みに降りてくる通り道じゃ。暗くなったら決してその近くを通ってはならぬぞ。」
お冬はその話を心して聞き、頷いた。その時はただ聞き流す一つの言い伝えとしか思わなかった。まさかその言葉が後に、己と千松の命を分けることになろうとは露ほども思わなかった。
その頃のある夜、突然雷が激しく鳴り響いた。稲光が部屋を白く照らし出しては、また闇に沈んだ。千松はその音に驚いて跳ね、泣き声をあげた。
「怖いよ。怖いよ。」
お冬は驚いて目を覚まし、千松をすぐに懐に抱いた。
「大丈夫でございます。私がそばにおります故。ご心配なさいますな。」
「空が。空が崩れるの。」
「いいえ。あれはただ雲同士がぶつかり合う音でございます。あの音が過ぎればまた静かになりましょう。」
お冬は千松の背をゆっくりと撫でながら低く歌を歌ってやった。雷鳴はいく度か響いたが、千松はお冬の懐に抱かれて、少しずつまた眠りに落ちていった。お冬はその晩、自分がこの子にとってどのような存在になりつつあるのかをうっすらと悟った。怖いと泣く時にそばにいてやるもの。それが今の自分の居場所なのだと。
その頃、姑は胸を押さえて乾いた咳をすることが多くなっていた。冬が近づくにつれ、咳の音は少しずつ深くなっていった。お冬はそんな姑を見かけたが、進んで口を挟める身の上ではなかった。その夏、お冬は藁草履を編む方法を覚えた。まだ拙い出来であったが、心を込めて小さな草履を編み上げ、千松に履かせてやった。
「若様のお足に合わせて編みましてございます。」
千松は新しい草履を履いて庭をよちよち歩き回り喜んだ。その草履がただの子供の履き物であったはずが、後に二人の縁を明かす品になろうとは誰も知らなかった。
その頃、千松はお冬の言葉遣いをよく真似るようになっていた。ある日、膳のそばで女中が汁椀をひっくり返すと、千松が出し抜けに大人びた口調でこう言った。
「用が足りれば済むこと。」
その様子に家中の者が笑い声をあげた。姑までもが久しぶりに声を立てて笑った。
「あの子は、いつの間にあんな口を覚えたのやら。」
お冬は恥ずかしさに顔を赤らめたが、心の片隅では妙な誇らしさが込み上げた。知らぬ間にこの子に何かを伝えているという事実が、不思議に思われた。
千松が五つになった秋、村に不穏な噂が流れ始めた。山向こうの里に野盗の一味が現れ、財を奪い火を放つという噂であった。通りがかりの田坊主が先で荷を解きながらその話を伝えた。
「あの向こうの里ではもう三軒もやられたそうにございます。夜更けに火を放ち、人が立ち塞がれば容赦しないと申します。」
姑はその話を聞いても差して気に留めなかった。
「わしらの村まで来るものか。昔からこの山里まで盗賊など入ってきたことはないわ。」
中門はといえば、村の無事よりもまず仏の供養を確かめに走った。しかし、お冬の胸の片隅には名状しがたい不安が根を張った。また兵から聞いた山道の話が、ふとした折りに頭をよぎるのであった。
その日の夕方、お冬は庭を横切る途中、ふと足を止めた。いつもなら聞こえるはずの山鳥の声が妙に途絶えていた。犬たちも夕方から低く唸り続け、門の方を向いて怯えていた。お冬はなぜか話に不安を覚え、千松をいつもより早く寝かしつけた。
「今宵は、やけに静かでございますね。」
姑もその気配を感じ取ったのか、縁側に出てしばらく暗い空を見上げていた。しかし、その不安が何を予告しているのか、その晩まで誰も気づかなかった。
その晩、お冬は誰にも知られぬ小さな包みを一つ作った。千松の着替えと火打ち石を包み、千松の眠る部屋の片隅、いつでも手が届く場所に置いた。万が一家を出ねばならぬことが起きたなら、片手だけでも持ち出せるようにしてのことだった。姑が知れば必ず叱られることであったが、お冬はその不安をどうしても見過ごすことができなかった。誰にも命じられたことではなかった。この冬がこの家で初めて、自分の判断だけで備えたことであった。
それから幾日と経たぬ夜であった。晩秋の夜風が肌寒く感じられたその夜、村の向こうで犬の吠え声がけたたましく響き始めた。ほどなく赤い炎が夜空を染めて立ち上った。
「火事だ。野盗が入った。」
誰かの叫び声が村中を揺るがせた。人々の悲鳴、荷物を運び出す足音、犬の声が入り混じり、当たり一面は騒然となった。
一方、奥の座敷では千松が一人布団の中で身を縮め、震えていた。門の外の騒ぎが近づくたび、幼心にも何か大変なことが起きていると感じ取っていた。
「怖いよ、母上。」
千松は幾度も戸口に向かって声をあげたが、その小さな声は誰にも届かなかった。姑もまた突然の騒動に驚き、身動きが取れぬままただ千松の手を握りしめているばかりであった。
一族の親族たちはそれぞれ手に手に荷物を持ち飛び出したが、向かった先は人のいる奥座敷ではなく仏間まであった。
「駆けずから運び出さねばならぬ。ご先祖様の遺牌を置いていくわけにはいかぬ。」
中門が叫ぶと、他の親族たちも先を争って仏壇と消門を運び出した。家の座を継ぐべき仏壇、代々受け継がれた仏具、先祖の遺牌まで。目に当たり次第、荷をまとめ騒ぎ立てた。お冬はその光景を見て、切羽詰まった声で叫んだ。
「お母様と若様が先でございます。奥座敷を助けに参らねば。」
お冬は荷物に追い縋る親族の一人、伊之助の腕にすがりついた。
「どうか手を一つお貸しくださいませ。お母様と若様がまだ奥にいらっしゃいます。」
しかし、伊之助は荷物を落とすまいとその腕を振り払った。
「今この消門を手放せば、我が家はそれこそ終わりだ。どけ。」
「消門は燃えても書き直せますけれど、人の命は戻りませぬ。」
お冬は思わず言い返した。伊之助はその言葉に一瞬言葉を止めたが、すぐに怒鳴った。
「小娘が家のことに口を出すな。」
お冬は他の者にも縋ったが、返る答えはどれも同じであった。誰もが己の手にしたものを守るのに必死で、人の命を顧みる者はいなかった。騒動の中、お冬の声はかき消されてしまった。
お冬はその瞬間、腹の底で悟った。この家が守ろうとしているのは人ではなく物であったのだと。
庭にはすでに煙が濃く立ち込めていた。火の粉は風に乗って屋根に燃え移り、火災の焼ける音がパチパチと響き渡った。女中の一人が足を滑らせて泥に転んだが、それさえも荷物を守るのに気を取られ、誰も顧みなかった。
「何をしておる。早くその長持ちを車に詰めろ。」
中門の切羽詰まった叫びが煙の間から響き渡った。車の輪が泥にはまり空回りするほどで、人々はその車を押すのに手いっぱいであった。誰一人、奥座敷の方を振り返ろうとしなかった。
お冬はその瞬間、不思議なほど心が静まり返るのを感じた。恐れよりも先に立ったのは、今この瞬間、奥座敷へ向かう者が自分しかいないという自覚であった。もはや猶予はないと悟ったお冬は、裾をからげてただ一人奥座敷へと駆け出した。
襖を破るようにして入ると、姑は驚きの衝撃に身を持て余したまま座り込み、苦しそうに息をついていた。千松は布団から飛び出し、部屋の隅にうずくまり身を震わせていた。
「お母様、しっかりなさいませ。ほどなく火の手がここまで回りましょう。」
お冬が姑を助け起こそうとしたが、驚愕に弱った体は思うように動かなかった。姑は力ない声でようやく口を開いた。
「わしはこのままで良い。お前たちだけでも先に逃げよう。」
「そのようなことを仰せますな。私が必ずお母様をお連れいたします。」
お冬はきっぱりと答えると、姑の肩を支え起こした。千松はその傍らで両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
「怖いよ、怖いよ。」
「大丈夫でございます。私がそばにおります故。ご心配なさいますな。」
お冬は部屋の隅にあらかじめ置いておいた包みを素早く取り上げた。こうした事態が来ようとは思っていなかったが、その小さな備えが今この瞬間、何よりの力となった。お冬は千松を背に負い紐でしっかりと縛り付けた。片方の肩で姑を支え、三人は共に表門へと歩を進めた。
しかし、村の入り口へたどり着いた時、目の前の光景に三人とも思わず足を止めた。村の入口の法面に、松明を掲げた影がいくつも揺らめいていた。野盗の一味がすでに村の道を塞いでいたのである。
「あちらへは参れませぬ。」
お冬は一瞬頭が真っ白になった。その時、ふとまた兵の言葉が思い出された。大岩が三つ並んで立つ場所。松の根方。あの山道であった。
「山へ参りましょう。この道より他にございませぬ。」
姑はその言葉に躊躇した。
「この夜更けにあの山を超えるというのか。獣にでも出くわしたらどうする?」
「ここに止まれば必ず何かに遭いまする。私をお信じくださいませ。」
お冬の声は震えていたが、その言葉だけは揺るぎなくはっきりとしていた。そうして三人は闇の中の山道へと足を踏み入れた。
山裾の小屋にいたまた兵も、夜空を染める赤い光を見た。欅沢村の方向であった。やがて遠くで鐘が鳴り、犬の吠える声が幾重にも重なった。また兵はしばらく戸口に立ったまま、じっと山を見上げていた。長年山を渡り歩いてきた体には、あの騒動が野盗に塞がれていることも火の勢いも、およその見当がついた。もしあの道を塞がれた者がいれば、逃げる先は山より他にあるまい。あの家の幼い嫁なら、きっとそうする。老人は黙って松明と縄を手に取ると、杖をつきながら夜更けの山道へと向かった。
山の入口に足を踏み入れると、背後で人々の叫び声がかすかに聞こえてくるようであった。お冬は足を止め息を殺した。野盗が追ってくるのではないかと、背筋を冷や汗が伝った。しかし、その声はほどなく村の方へと遠ざかっていった。お冬は胸を撫で下ろし、再び足を急がせた。
山道は初めから険しかった。木の根が足先に絡み、足を滑らせていく度に転びかけた。背中では千松の小さな心臓がドキドキと脈打つのがそのまま伝わってきた。
「若様、目を閉じて私の首だけをしっかりとお掴みくださいませ。」
千松は泣きじゃくりながらお冬の首にしっかりとしがみついた。
どれほど歩いただろうか。お冬はまた兵の言っていた三つの大岩を見つけた。左の斜面ではなく、右手の松の根方へ。お冬はその言葉を胸に刻みながら進む方向を定め、再び足を急がせた。
再び歩き始めると、今度は霧が突然山道を覆い尽くした。先も見分けがほどであった。お冬は方向を測ろうとしたが、どちらが来た道でどちらが行くべき道か、まるで見当がつかなかった。お冬はその場に立ち止まり、周囲を見回した。心臓が締めつけられるような不安が押し寄せた。このまま見当違いの方向へ進めば、帰ってより危険な場所へと向かいかねないという恐れであった。
その時、ふと木の根方に見慣れぬ跡が目に入った。樹皮の剥がれた場所に、刃物で刻んだような印が残っていた。
「これは、また兵様が通られる印だ。」
お冬はまた兵が何気なく漏らしていた話を思い出した。山を行き来する者は、道に迷わぬように目印を刻んでおくのだという話であった。お冬はその印を頼りに慎重に足を運んだ。行けども行けども、また別の印が現れ、そうして印を一つずつ辿りながら、三人は再び方向を取り戻すことができた。
しばらく登ると、姑の足取りが目に見えて遅くなった。
「もう、もう歩けぬ。わしはここに置いて、お前たちだけ先に行け。」
姑は木の幹に身を持たせかけ、力なく言った。お冬は足を止め、姑の前に膝をついた。
「そのようなことを仰せますな。私の背にお捕まりくださいませ。」
お冬は姑の腕を自分の肩に回し、片方で姑を支え、背にはもう千松を負ったまま、歯を食い縛って歩みを進めた。雨足はいよいよ強く、山道はたちまちぬかるみとかしていった。
しばらく登ると、狭い谷川が一つ三人の行手を阻んだ。元は小さな流れであったはずが、増水でいささか荒々しい激流と化していた。幸い、以前倒れたらしい大木が一本、谷を渡すようにかかっていた。
「あの木を伝って渡らねばなりませぬ。」
お冬は用心深く丸太の上に足をかけた。濡れた木の皮が滑りやすく、一歩ごとに全身の均衡を保たねばならなかった。一歩、また一歩、お冬は均衡を崩さぬよう務めながら進んだ。背に負われた千松は怯えて目をきつくつぶった。
「目を閉じずに、私の首だけをしっかりお掴みくださいませ。そうすれば怖くはございませぬ。」
中ほどまで来た時、足元の木の皮がめきりと音を立てて剥がれ落ちた。お冬の体が大きく傾いた。心臓が凍り付いたが、両腕を広げて辛うじて均衡を取り戻した。
「大丈夫でございます。もう少しでございます。」
お冬は己に言い聞かせるように呟きながら、残りの歩みを進めた。ついに無事に足がついた瞬間、両足の力がどっと抜けた。続いて姑もまた兵の教え通り、木を掴みながら慎重に渡り切った。三人はこうして、また一つの難所を超えた。
しばし大岩の影に身を寄せ、息を整える間があった。雨足がわずかに緩んだ隙であった。千松はしばらく黙ってお冬の首筋に顔を埋めていたが、やがて濡れた首筋へ顔を寄せ、小さく言った。
「俺、大きくなったら、俺が負ぶってやる。」
お冬は初めてほんの少し笑った。
「その日をお待ちいたしております。」
二人はすぐにまた歩き出した。そうしてどれほど歩いただろうか。ふと前方から低い息遣いが聞こえてきた。お冬はその場に凍り付いた。闇の中、岩の影で一つ、光る目が鈍く光っていた。熊であった。姑が息を飲んだ。千松はその気配を感じ取ったのか、お冬の首をより強く抱きしめた。
獣の目はしばらく動かぬまま、こちらをじっと見据えていた。その静けさが却って三人の息を詰まらせた。
「動いてはなりませぬ。目を合わせず、声も立てぬように。」
お冬はまた兵がいつか何気なく漏らしていた言葉をまた思い出した。山の獣は、火と大きな音を恐れるという話であった。お冬は懐から火打ち石を取り出そうとしたが、濡れた指先が幾度も滑った。最初の二度は火種に火が映る前に雨に消えてしまった。指先は凍えて感覚さえ鈍くなっていたが、お冬は諦めず再び火打ち石を打ち合わせた。ついに火種に小さな火を移すことができ、それを乾いた木屑と移すと、小さな炎が闇の中で揺らめいた。
「去れ。」
お冬は声を振り絞りながら、燃える切れ端を大きく振り回した。心臓が破裂しそうに脈打ったが、手先だけは震えぬよう歯を食い縛った。熊はしばらくその場に立ち尽くしたままこちらを睨んでいたが、やがて身を翻し、闇の中へと消えていった。
お冬はようやく足の力が抜け、その場に座り込みそうになった。しかし、すぐに気を取り直し、再び歩を進めた。
「若様、もう大丈夫でございます。あと少しで参ります。」
千松はなおもすすり泣きながらも、お冬の首を離さなかった。三人は再び山道を登り始めた。
ほどなく、千松の体が激しく震えているのが背を通して伝わってきた。唇が青白くなっていた。
「若様、寒うございますか?」
「うん。寒い。」
お冬は足を止め、自分の羽織りを脱いで千松の体をもう一枚包んでやった。刺すような夜風がそのまま肌を突き刺したが、お冬は歯を食い縛って耐えた。姑はその様子を見て静かに言った。
「わしの体も冷えておるはずだのに。」
「私は大丈夫でございます。若様が先でございます。」
しばらく登り続けるうち、お冬はふと自分の足が震えていることに気づいた。一日中何も口にしておらぬ上に、全身が雨に濡れ、寒さが骨の奥まで染み込んでいた。背に負われた千松の重みが次第に重く感じられた。
「もう少し。もう少しだけ。」
お冬は心のうちで幾度も繰り返した。しかし、心の片隅では恐れがじわじわと競り上がってきた。このまま本当にこの山を超えられるのだろうか。もしこのまま倒れてしまえば、千松と姑はどうなるのだろうか。ふと、実家を立つ日に母が手を握ってくれたぬくもりが思い出された。あの家に行けば辛い思いはさせぬという言葉。しかし、今この瞬間だけは、母のその言葉さえも遠く霞んで感じられた。
お冬はしばし木の幹に身を持たせかけたまま、涙を飲み込んだ。誰にも見せたくない涙であった。しかし、背後で眠ったと思っていた千松が、小さな声で訪ねた。
「泣いてるの?」
お冬ははっとして涙を拭った。
「いいえ。雨が顔にかかっただけでございます。」
その言葉に千松は何も言わなかったが、小さな手でお冬の首筋を静かに撫でた。その小さな手のぬくもりが、お冬にとって何よりの力となった。お冬は再び歯を食い縛り、体を起こした。
峠の一つをほとんど越えた頃であった。突然、雨足が滝のように激しく降り注ぎ始めた。また兵が警告していた、あの三つの大岩を過ぎて右手に進む、その地点であった。その時、足元から見慣れぬ気配が伝わってきた。地面がいつもより柔らかく、足がずぶりと沈んだ。お冬は歩みを緩め、用心深く足先を運んだ。しかし、すでに遅かった。
「うっ。」
という低い地響きと共に、足元の土が揺れ始めた。
「山が崩れる。土が崩れてくる。」
姑が悲鳴を上げた。たちまち足元の地面が滑り崩れ始め、三人は均衡を失いよろめいた。お冬はとっさに傍らに立っていた松の根を掴んだ。
「お母様、こちらへ。この松の根をお掴みくださいませ。」
姑は辛うじて根を掴んだ。しかし、足元の土は絶えず崩れ続け、三人の立つ場所はみるみる狭まっていった。千松は怯えて泣き叫んだ。
「怖いよ。怖いよ。」
その時、背に括り付けていた紐が土砂に飲まれて緩んだ。千松の草履が片方脱げ、そのまま崩れる土砂と共に山の下へと転がり落ちていった。お冬はそれを掴む間さえなかった。
お冬は片手で松の根を掴んだまま、もう一方の手で千松の体を懸命に抱え込んだ。腕が引き裂かれるほど痛んだが、背の子を離すわけにはいかなかった。足元の土は崩れ続け、お冬の足先が一瞬宙に浮いた。心臓が凍り付いた。
さらに悪いことに、姑が掴んでいた松の根の一本が、ついにぶつりと切れてしまった。姑の体が大きく傾いた。
「お母様!」
お冬は千松を抱えたまま、もう一方の腕を伸ばし、姑の襟を辛うじて掴んだ。姑と千松、二人分の重さが同時にその腕へ食い込んできた。指先の感覚が次第に失われ、掴んでいる松の根にも力が抜けていった。
「このままでは、三人ともあの土砂と共に流されるやもしれぬ。」
その思いがお冬の頭をよぎった瞬間であった。その時、暗闇の向こうから力強い手がぬっと現れ、お冬の二の腕をがっしりと掴んだ。
「放すでないぞ。しっかり掴んでおれ。」
また兵であった。火事の知らせを聞き、山道へ抜かれる者があるに違いないと見当をつけ、松明を手に山を登っていたところ、ちょうどこの近くを通りかかり、崩れる音を聞きつけて駆けつけたのであった。老いた体ではあったが、長年山を登り下りしてきた足腰は少しも揺るがなかった。一瞬、また兵の足元が滑り、大きくよろめいたが、傍らの岩を掴んで辛うじて均衡を取り戻した。老いた体で二人分の重みを支えるのは、決して容易なことではなかった。
お冬は最後の力を振り絞って足を伸ばした。足先が硬い岩に触れた瞬間、また兵がお冬と千松をまとめて引き寄せ、安全な場所へと移した。続いて姑も、松の根を掴んだまま無事に土砂を抜け出した。
三人はその場に座り込み、しばらく息を整えた。雨足は相変わらず激しく降り続いていたが、先ほどまで崩れ続けていた場所はすでに一面、泥に覆われていた。もう一歩遅ければ、三人ともあの土砂と共に流されていたであろう。姑は放心した顔でその泥水をしばらく見つめていた。やがて、震える手でお冬の手をそっと包み込んだ。
「わしが。わしがおらねば、わしとあの子はこの場で命を落としていただろう。」
お冬は何も答えられなかった。ただ首を振るばかりであった。
「若様、お怪我はございませぬか?」
お冬の声は震えていた。千松は相変わらず泣きじゃくったまま、お冬の懐に顔を埋めて泣き出した。お冬はその時、ようやく自分の手のひらが木の根に擦れて血が滲み、左の手首がおかしなほど腫れていることに気づいた。土砂に腕を押し潰された故であった。しかし、その痛みさえ感じる余裕はなかった。
また兵は濡れた着物の裾を絞りながら、静かにため息をついた。
「よくぞ持ち堪えたものよ。この山で人がこれほど持ち堪えたのを、わしは長年見たことがない。」
三人はまた兵に導かれ、慎重に残りの峠道を下っていった。足先は未だ凍りついたように感覚が鈍く、全身が泥水と雨に濡れていた。しかし、はるか山の向こうに、かすかに村の灯りが見え始めていた。その明かりを目指して、三人は最後に残った力を振り絞って歩を進めた。
霧ヶ谷の入口にたどり着いた頃には、すでに東の空が白み始めていた。一晩中山を彷徨った三人の様子は、見るも無惨であった。泥にまみれた着物の裾に、擦り傷が絶えなかった。ちょうど早朝、水を汲みに出てきた村の女がその光景を目にして驚いて声を上げた。
「これは一体何事でございますか?」
「早く人を呼んでください。」
ほどなく村の者たちが次々と駆けつけ、三人を助け起こした。ある者は乾いた着物を持ってきてくれ、ある者は温かい粥をくれた。幸い、村の外れの小さな寺がしばらく身を寄せる場所を快く貸してくれた。お冬はその時になって初めて安堵の息をつき、その場にへたり込んでしまった。張り詰めていた緊張が解けると、全身の力が一気に抜けていくようであった。
数日後、欅沢村の野盗騒ぎは大所の手勢の出動によって沈められたという知らせが届いた。しかし、旧家はすでに火でひどく痛められ、仏具の穀物も大半が使い物にならなくなっていた。
その頃、また兵は崩れた山道の様子を見回りに出かけた。泥に半ば埋もれた松の根の下から、子供用の小さな草履が一足だけ現れた。それはあの夜、松の足から脱げ落ちた草履であった。また兵はそれを懐に納め、霧ヶ谷へ戻ると何気ない様子で千松に差し出した。
「ほれ、お前のだろう。」
千松は両手でそれを受け取ると、しばらく黙ってじっと見つめ、やがて胸にそっと抱いた。
「これ、取っておく。」
その草履を、千松はそれから長く手放そうとしなかった。
一族の親族たちはそれぞれ守り抜いた掛け軸と仏具を抱えて自らの村へと帰っていったが、いざ暮らしを立て直す手立てもなく、めいめい散り散りになってしまった。お冬は姑と千松を連れ、霧ヶ谷に居を構えることにした。古びた一軒を借り、針仕事の張り仕事と山菜でどうにか日々の糧をつないでいった。左の手首は骨に異常こそなかったものの、あの夜強く潰されたせいで、冷える日には指先までしびれるようになっていた。張り仕事をしていても幾度も針を落としてしまったが、お冬はその痛みを表にも出さなかった。指先が割れ、背が曲がるほど働いて、ようやく粥を食べられる日々であった。
姑の咳の病はなかなか良くならなかった。お冬はまた兵を訪ねて、気休めの根の掘り方を教わった。霜が降りた後に掘った根であれば苦味が薄く効き目が良いことも、根を薄く刻んで水飴につけておけば長く保つことも、そうして身につけていった。お冬は冬の間、その気休めを朝夕姑に食べさせた。幸い、月日が経つにつれ、姑は徐々に力を取り戻していき、千松はそんなお冬の後をついて回りながら七つと育っていった。千松はいつしかしっかりとした言葉遣いでお冬を助けるようになった。
「今日は、お疲れ様の手伝いをしてあげる。」
お冬はそんな千松を見て微笑みながらも、胸が締めつけられることがあった。年頃からこれほどの苦労をさせていることが痛ましく思われたからであった。
歳月が流れるうち、三人は少しずつ暮らしを立て直していった。霧ヶ谷に小さな畑を耕し、また兵から薬草の見分け方を教わって商いも始めた。冬に痩せた土地でも育つ麦を選んで植えるのも、また兵から教わった知恵であった。お冬は山で身につけた薬草の知恵で、村の者たちの軽い病を診てやることもあり、葉の形と根の匂いだけで薬草を見分ける腕前は、いつしか村中で評判になっていった。
千松が十二歳になった頃のことである。お冬は今なおあの夜痛めた左の手首をかばいながら暮らしていた。天気の変わり目には、指の先まで鈍く痛むことがあった。ある日、薬草の入った籠を運ぶ途中、手首が不意に痛み、籠をぽとりと取り落としてしまった。乾いた薬草が地面に散らばった。千松がすさず駆け寄り、それを拾い集め籠ごと仕上げた。
「若様にはまだ思うございます。お返しくださいませ。」
お冬がそう言うと、千松は籠を渡そうとせず真顔で言い返した。
「いつになれば持たせてくださるのです。あの夜のお冬様より、私はもうずっと大きくなりました。」
お冬は思わず言葉に詰まり、その背丈を見上げた。いつの間にか自分よりも頭一つ高くなっていた。千松はなおも籠を抱えたまま、ぽつりと続けた。
「昔、お冬様が私を背負ってくださいました。今度は、私が少しずつお返しいたします。」
お冬はその言葉に何も返せず、ただ黙って頷いた。
千松もまた十二になると、また兵について山を登り下りしながら薬草の見極める術を身につけていった。どの薬草が豊作の年に根が上がるか、商人たちとの駆け合いの呼吸まで、身をもって覚えていった。ある時、南国から来た薬種商人が、千松の差し出した根を一目見て眉を潜めた。
「この根は色が薄うございますが。」
千松は慌てず答えた。
「この根は日陰で育ったもの。色は薄うございますが、薬効はむしろ勝っております。お疑いならば、お試しくださいませ。」
商人はその言葉通りに試し、驚いた顔で言い値通りに買い取っていった。あの家の薬草は間違いがない。商人たちの間でそう言われるほど、二人の暮らしは信用と共に少しずつ大きくなっていった。
そうして歳月が流れ、千松が十六になる頃には、霧ヶ谷や近辺での暮らしぶりは以前にも劣らぬほど落ち着いたものになっていた。お冬と千松の二人が、長年かけて築き上げた信頼であった。霧ヶ谷の人々はそんな二人を見るたび、いつも温かい顔で挨拶をかけてくれた。
「あの夫婦は誠に働き者よな。」
「幼い頃、二人で山を越えたという夫婦とは、あの人たちのことだそうな。」
二人の物語は、いつしか霧ヶ谷の野を静かに広まっていった。
その頃には、姑もまたお冬を身の娘のように扱うようになっていた。針仕事の合間、姑はぽつりぽつりと若い頃の話を語って聞かせることがあり、お冬もまた遠慮がちに故郷の父母の話をするようになった。二人の間に流れる時間は、いつしか主従のものではなく、家族のものへと変わっていた。
すると、久しく音信の絶えていた一族の親族たちが、一人また一人と姿を現し始めた。中門もまたその中の一人であった。彼らはまるで何事もなかったかのような笑顔で千松の元を訪れ、口を揃えてこう言った。
「我が家の総領も、これほど立派に育ったものよな。そろそろ家を再び起こさねばならぬのではないか。」
中門は近隣の由緒ある家の娘と千松を縁付けようとした。
「総領には、家格に見合う妻がいる。幼い頃の言いつけとの縁など、本当の縁とは言えぬ。」
姑は初め、きっぱりとその話を退けた。
「何を申される。あの子がおらなんだら、わしも千松も当にこの世におらぬ。あの娘のことを、そのような物言いでお語りくださるな。」
中門はその剣幕に一旦引き下がったが、後日一人で姑の元を訪れ、静かな声でこう続けた。
「冬を妻として残せば、千松は一生、貧しい家に縛られたと現れましょう。それでも良いと申されるか。」
姑は何も言い返せなかった。中門はさらに言葉を継いだ。
「家内が大きくなればなるほど、家柄を問う者も増えまする。いずれ千松様の足を引くのは、お冬どのかもしれませんぞ。」
これはすなわち、全ては千松のためであるという言い方であった。自分が耐えれば良い話なら、姑は決して首を縦には振らなかったであろう。だが、千松の将来という言葉だけが、少しずつ心を侵食していった。姑は繰り返し自問した。
「あの子のために、わしは何を選ぶべきなのか。」
諸国からの商人たちが千松の目利きを誉めそやす、由緒ある家からも縁談が舞い込んでいた。姑はその評判を耳にするたび、心のどこかでこう思うようになっていった。
「お冬なら、あの子のためなら分かってくれる。」
そして、ついにその最も卑怯な理屈で、姑は自分を納得させてしまった。それこそが姑の過ちであった。
ある夜、姑はお冬をそっと呼び寄せた。
「わしの恩は決して忘れはせぬ。そなたがおらねば、わしも千松も当に死んでおったであろう。しかし、千松は今や家を継がねばならぬ身の上だ。どうか、静かにこの家を去ってはくれぬか。」
姑が差し出した包みは、驚くほど軽かった。三年余りこの家へ来てから重ねた歳月も、千松を背負った夜、土砂の中で潰された手首も、その包みを受け取った瞬間、お冬の左手首だけがあの夜と同じように重く疼いた。お冬は何も言えなかった。
「千松を初めて背に負った日から、今この瞬間まで、私は間違って生きてきたのだろうか。」
お冬は心のうちで幾度も己に問うたが、たやすく答えは出てこなかった。ただ一つだけはっきりしていることがあった。悔いはないということであった。けれども、お冬は千松の行末を塞ぎたくはなかった。あの子が総領として堂々と生きていけるのならば、自分が退く方が良いのかもしれぬ。眠れぬ夜を重ねた末に、お冬はそう思い定めた。
お冬は無言のまま荷物をまとめ始めた。千松が遠方へ薬草を売りに出かけている間に、お冬は静かに霧ヶ谷を去ろうとした。ところが、村を抜ける山道の入り口に差しかかった時、ちょうどまた兵と行き合った。また兵は杖をつき、その場に立っていた。
「どこへ行こうというのだ。」
「私はもう、この家を去らねばなりませぬ。」
また兵はしばらく無言でお冬を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「お前が去れば、あの夜何があったかを知る者まで、黙ってしまうことになる。」
その時であった。遠くから千松が走ってくるのが見えた。背負っていた荷を道端に放り出したまま、息を切らして駆けつけてきたのであった。薬草を売りに出た帰り道。お冬が荷をまとめて去ったという知らせを聞き、すぐ後を追ってきたのであった。
「どちらへ参られるのでございますか?」
千松の声には、初めて切迫したものが滲んでいた。お冬は足を止めたが、振り返らなかった。
「若様はこれより家を継いで、堂々たる縁を求められませ。私ことには、そのような大役は不要でございます。」
千松がお冬の前に立ちはだかった。そして、懐から何かを取り出した。古びてすり切れた草履が片方であった。
「これが何か、お分かりでございますか?」
お冬はその草履を見た瞬間、息が止まる思いがした。それはあの夜、山が崩れた瞬間に足から脱げ、土砂へと転がり落ちていった、まさにあの草履であった。
「これはまた兵様があの崩れた山道から拾ってくださったものにございます。あの日以来、片時も懐から離さず持ち歩いておりました。」
千松の声は震えていた。
「あなた様が私を背負ったあの夜から、私はあなた様と共に生きてきたのです。一族はあれを恩と呼びます。ですが、私にとっては違います。」
お冬はその言葉に、堪えていた涙をついに溢れさせた。しかし、すぐに首を振って身を引いた。
「私ことの心も決して違いはございませぬ。されど、私一人が退き添えたところで、済むことではございませぬ。一族の方々の心はあまりに固く。このままでは、若様を一人でお困りになりましょう。」
千松はしばらく無言のまま考え込んでいたが、やがて目つきが変わった。
「策がないわけではございませぬ。」
千松はまた兵とお冬に向かって、低くしかしはっきりと己の思うところを語り始めた。
「長老様方は家の名誉を守るためと申します。ならば、その名誉が何によって成り立つのか、村の皆様の前で確かめていただきましょう。」
また兵はしばらく千松の顔を見つめていたが、やがて低く笑った。
「なるほど。陰で争えば、お前一人のわがままになる。公の前で問えば、家そのものの問題になるというわけか。」
お冬はしばらく黙って二人の顔を見比べていたが、やがて静かに頷いた。
「若様のお心のままに。ただし、私ことのことは、どうか事が済むまで表には出されませぬよう。」
翌日、千松は中門の元を訪ね、思いがけぬことを申し出た。
「長老様のご意向に従いましょう。ただし、どうせ取り行うであれば、先方のご一家と霧ヶ谷の村の者たち皆をお招きし、盛大に取り行うのはいかがでございましょうか。さすれば、我が家が再び立ち直ったことを世間に知らしめることができましょう。」
中門の目が輝いた。長年失っていた家の威信を取り戻す絶好の機会と見たのであった。
「よかろう。この祝言を粗末に取り行うわけにはいくまい。先方にはわしから話をつけよう。」
中門は張り切って、先方の家や霧ヶ谷の村中に触れを回らせた。祝言の日が近づくに連れ、中門の自負はますます大きくなっていった。
「見よう。この家がいかに再び立ち直ったかを。この総領がこれほど立派に育ったのも、全てこの家の底力があればこそよ。」
ついに祝言の日を迎えた。空は高く晴れ渡り、屋敷の門には紅白の幕が張られていた。先方の一家の者たちと霧ヶ谷の村人たちが、屋敷の庭に集まった。戦場に立つほどの家は隣国でも名の知れた旧家の当主で、娘可愛さにこの縁を渋々承知したという噂であった。伊之助をはじめとする一族の親族たちも、それぞれよそ行きの装いを整えてその場に並んだ。
中門は神座に腰を下ろし、満足げな顔で先方の主に向かい、家の由緒を語り始めた。
「我が家は昔より義と筋目を重んじてきた家柄でございます。総領の千松もその心を受け継ぎ……」
まさにその時、また兵が席から立ち上がり、前へと進み出た。
「わしから、一つ証言を申し上げたい。その義と筋目を守ったのが、果たして誰であったか。この場で明らかにいたそう。」
座はざわめいた。中門の顔から笑みが次第に消えていった。
「幾くか前、野盗が欅沢村を襲ったあの夜、一族の方々はめいめい掛け軸と仏具を運び出すのに忙しく、病に臥せったお母様と五つになる子を奥座敷にそのまま置き去りにいた。そのお二人をただ一人、命をかけて救い出し、険しい山を超えさせたのは、他でもないこの場に今はおらぬ、あの子の妻・お冬でございます。土砂が崩れ落ちるあの瞬間、あの娘は己の身よりも先に、幼い夫の体を抱きました。わしが手を伸ばさねば、あの娘は一人、あの土砂に飲まれていたでございましょう。このことは、わしがこの両目でしっかりと見たこと。決して作り話ではございませぬ。」
まさにその時、千松が静かに座を立った。庭に集まった人々の目が一斉にその姿へ向いた。千松は中門の前へと進み出ると、懐からあのすり切れた草履を取り出し、それを中門の膝先にそっと置いた。
「長老様。幼い頃、あなたは私に申しました。仏具こそ我が家の根である。消門こそ家を守るものだと。ですが、私は今日ここで申し上げます。」
千松はその草履を差し示しながら、静かにしかしはっきりと続けた。
「私の命をつないだこの草履こそ、私にとっての仏具にございます。消門には、人の命の重みも記されておりませぬ。人を捨てて守った家が、一体何の家を残すのでございましょう。」
庭は水を打ったように静まり返った。
「命の恩人を追い出し、その座に別の嫁を据えようとしていたと申すのか。」
戦場に立つ家の当主は、低く冷やかな声で問い詰めた。中門はその瞬間、言葉を失った。
「それは、しかし。縁談と家の格式は、別のものであろう。」
「己の子を恩を仇で返すような家に、娘をやれるわけには参らぬ。」
先方の当主は席を立ちながら、きっぱりと言い放った。あれほど心血を注いで整えた祝いの席で、中門が誇りたかったはずの家の威信は、またたく間に崩れ去った。伊之助は人々の間に身を隠すように俯いていた。あの夜、必死に仏具を背負った己の姿が、この場の皆の前にさらされたようで、顔が熱く火照った。中門はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
しばらくして、中門は力なく膝をついた。
「わしは、若い頃、弟が大水に流された時も同じであった。先に荷の消門を背負いに走り、弟を助け損ねた。その罪を一生背負いながら、今日また同じ過ちを繰り返そうとしていたのだ。だからこそ、家のものだけは失うまいと、なおさら執着してきた。だが、それこそが弟を死なせたあの日から、何も学んでおらなんだのだ。」
その言葉に、庭は重い沈黙に包まれた。
千松はすぐさま人をやり、村外れのまた兵の小屋で待っていたお冬を呼びに走らせた。ことの次第を知らぬまま、お冬は息を切らして庭先に現れた。集まった人々の視線が一斉にその小さな体へと向いた。中門はその場でお冬の前に進み出ると、頭を下げた。
「そなたに、大きな過ちを働いた。どうか、この頑な者の愚かさを許してくれぬか。」
お冬は思いがけぬこの成り行きに、身の置き所が分からなかった。
「旦那様がそのように仰せいますと、私事はただ恐れ多いばかりでございます。」
お冬の声は震えていたが、その目に浮かんだのは恨みではなく、長年張り詰めていた何かが解けていくような、静かな安堵であった。姑もまたその場に進み出て、これまでの非礼を詫び、お冬に向かって深く頭を下げた。
「家を取り戻したいという欲に囚われ、まさに我が家族を守り抜いてくれた者を追い出そうとしていた。わしが大きな過ちを犯した。わしはあの夜、人より物を選んだ者たちを責めた。それなのに、今度は千松の未来という名を借りて、人より家格を選ぼうとしていた。」
姑はその場で、一族から持ち込まれた縁談の書状を、自らの手で引き裂いた。中門もまたしばらく頭を上げられずにいたが、やがて濡れた目で口を開いた。
「わしは、長年、体面ばかりを先に立て、誠に大切なものを見失っておった。恥ずかしい限りよ。」
また兵もその傍らで、満ち足りた微笑みを浮かべて見守っていた。
「今日でようやく、この頑な者が長らく抱えてきた胸のつかえを下ろせるのだな。」
千松とお冬は、幼い日の縁をそのまま認められるだけでは終わらなかった。二人は村の人々の前で、今や大人となった自らの意思で、改めて祝言を取り行った。中門もまた、神座ではなく村人たちに混じって、その様子を静かに見守った。
祝言の日、千松はお冬を背に負い、霧ヶ谷の小さな坂道を登っていった。村の人々は道の両側に並び、花を撒きながら二人を祝福した。誰かが笛を吹き鳴らし、その音色に合わせて子供たちが手を叩いた。人々は笑いながら、今度は花嫁が歩く番であろうと囃したが、千松は最後までお冬を下ろそうとしなかった。
「あの夜、お冬様は四つの私事を背負い、険しい山を超えてくださいました。あの夜、『大きくなったら私事が負ぶって差し上げる』と誓いました。随分とお待たせいたしました。今日は、私事が負ぶる番でございます。」
お冬はその背の上で、こらえきれず涙を流しながら、それでも美しく笑った。
祝言が終わった後、姑はその夜、あの失われた草履を想い出し、新しい草履を自らの手で編み上げ、二人に送った。
「古い一足は命をつないだ証。この新しい草履は、これから二人で歩くためのものだ。」
千松はその草履を、長く大切に手元に取り置いたと伝えられている。
霧ヶ谷の人々は、後にその山道を「背負い峠」と呼ぶようになった。誰が呼び始めたともなく、いつしか村の誰もがその名で親しむようになっていた。
その後、二人は霧ヶ谷を離れず、旅人を助け、身寄りのない子を見れば手を差し伸べながら、穏やかに歳月を重ねていった。姑もまた、二人に見守られながら、静かな晩年を送った。
ある日、年を取った千松が、いたずらっぽくお冬に背を向けた。
「今日も、負ぶって差し上げましょうか。」
お冬は笑いながら、その背をそっと叩いた。
「あの約束なら、もう十分すぎるほど返していただいておりますよ。」
二人の前には、かつて命がけで超えた山が、昔と変わらぬ姿で静かに横たわっていた。



