全てを出し切った交渉の場で、五十年近く生きてきた中で最悪の侮辱を受けた夜のこと。長年連れ添った仲間も、私が実力を認めて育成してきた若手社員たちも、全員が一斉に退職届を突きつけてきた。彼らが口を揃えて言ったのは「俺たちをもっと認めてくれる人が見つかった」という一言だけ。だが、その裏にはもっと冷酷な罠が張り巡らされていた——次々と明かされる裏切り、そしてそれを仕組んだ人物は、かつて私をあそこまで…

全てを出し切った交渉の場で、五十年近く生きてきた中で最悪の侮辱を受けた夜のこと。長年連れ添った仲間も、私が実力を認めて育成してきた若手社員たちも、全員が一斉に退職届を突きつけてきた。彼らが口を揃えて言ったのは「俺たちをもっと認めてくれる人が見つかった」という一言だけ。だが、その裏にはもっと冷酷な罠が張り巡らされていた——次々と明かされる裏切り、そしてそれを仕組んだ人物は、かつて私をあそこまで...

退職届の束を見つめた瞬間、俺の脳裏にあったのは、最初の大きな仕事を取った夜、空き缶を掲げて笑った前木の顔だった。あの頃は、互いを信じ合える仲間だと思っていた。

俺は五十三歳の飯島。五年前まで大きな建設会社に所属していたが、学生時代からの友人である田中と前木と共に早期退職し、会社を立ち上げた。リフォームや修繕、設備関連の仕事を請け負う、いわゆる町の何でも屋だ。それぞれが異なる分野に強みを持ち、補い合いながらやってきた。

発端は、息子の何気ない一言だった。

「父さんの人生なんだから、好きなことしていいと思うよ」

当時二十五歳だった息子は、もう社会に出て働いていた。妻とは息子が中学生の頃に離婚し、以来、父子二人暮らしだった。

「俺のことは気にしないで、好きなことしてよ。俺は俺でしっかりやっていくからさ」

そう言って笑う息子の顔を見て、俺は決意した。

会社は想像以上に早く軌道に乗り、創立メンバー三人に加えて、少しずつ仲間が増え約二十名となった。そんな時、前木が高学歴の若手社員たちを紹介してきた。

「この子たちの学歴なら、大手企業の方があるんじゃないか?」

俺がそう言うと、前木は胸を張って答えた。

「大きな会社にはない、うちの職人気質なところに惹かれたんだとよ。うちでしかできない仕事があるって、そう感じたそうだ」

その言葉に胸を打たれ、俺は若手たちを雇うことを決めた。

最初の二ヶ月ほどは、悪い印象はなかった。気真面目で礼儀にも問題がない。しかし、その印象は長く続かなかった。

まず目立ち始めたのは遅刻だ。最初は電車の遅延や体調不良という理由があったが、それが日常的になり、注意すると、

「え、でも僕らまだ大した仕事に関わってないですし」

と言う始末。それだけではない。仕事上のミスも増えていった。確認不足による作業のやり直し、顧客への連絡漏れ、ずさんな道具管理。指摘するたびに、

「こんな細かいとこまで言われると思ってなかったです」

「自分の中では完璧だったんですけどね」

と、反省よりも先に言い訳が出てくる。厳しく接しようものなら、

「それはパワハラじゃないですか?」

と、ありえない発言まで飛び出す始末だ。

紹介した前木にも何度か相談した。

「前木、お前が紹介してくれた子たちだ。お前からもしっかり話をしてやってくれないか?」

だが前木はいつもヘラヘラと、

「まあまあ、まだ若いから勝手が分からないだけだろ。そのうち分かってくるって」

と受け流すばかり。まるで責任感というものが感じられなかった。

ある日、残業で会社に残っていた時、田中に尋ねられた。

「正直、どう考えてる?」

何についてかは聞かずとも分かった。前木の紹介で入社した若手たちのことだ。

「入社させた以上、簡単に切り捨てることはできない。根気強く接していけば、きっと分かってくれる。俺が雇うと決めた責任を果たすしかない」

田中は何か言いたげだったが、やがて重々しく頷いた。

ある仕事終わりの夜。俺は一人で居酒屋に立ち寄った。昔からこの店が好きで、一人でちびちび飲むのが癒しの時間だ。

「お前、もしかして飯島じゃないか」

声をかけてきたのは、前の職場で部長をしていた元上司の上野だった。とっさに笑顔で挨拶したが、内心は「嫌な人に会ってしまった」という感じだった。俺は元々、前の職場の上層部……その中でも特に上野のやり方に不満を抱いていたからだ。

「なんだよ、起業したって言ってたくせに、こんな安い居酒屋に来て。やっぱりうまくやれてないんじゃないのか?」

絡み酒だ。俺は冷や汗をかきながら、

「昔からこの店が好きで、料理も最高ですよ」

とフォローするが、上野は鼻で笑うだけだった。

上野は近況を執拗に尋ねてきた。俺は差し障りのない程度に、会社は安定してきたこと、知り合いの紹介で高学歴の若手たちを雇ったことを話した。上野は意味ありげな顔で酒を運び、別れ際には名刺を交換してきた。

あの意味ありげな表情が、どうにも頭から離れない。あの男がただの偶然で動く人間でないことは分かっている。何か企んでいる可能性を感じながらも、俺にできることは目の前の仕事に集中することだけだった。

あの男に「お前は終わりだ」と言われるとも知らずに。

事件は、上野と再会してからおよそ一ヶ月後に起きた。

出先から会社に戻った直後、前木に声をかけられた。

「飯島、ちょっといいか?」

何やら話があると言われ、事務所に通されると、そこには例の若手社員たちが全員揃っていた。田中も不機嫌そうな表情でいる。どうやら同じように連れてこられたらしい。

「話って一体……」

俺が言い切る前に、前木と若手たち全員が順番にあるものを手渡してきた。その正体を見て、俺と田中の目が見開かれた。

退職届。

「どういうことだ?」

田中が低い声で尋ねる。

「いや、俺たちをもっと認めてくれる人が見つかっただけだよ」

前木はどこか軽い口調で言った。若手の一人が続ける。

「僕らの学歴を妬んで、意地悪ばかりする会社なんてごめんですよ」

帰業したばかりの頃の記憶が蘇る。「俺たちでやってやろうぜ」と目を輝かせて乾杯したあの前木が、今は薄ら笑いを浮かべて俺を見ている。

俺は前に向き直り、真剣に言葉を紡いだ。

「前木、俺たちはお前に助けられてきた。俺たちだってお前を助けてきたつもりだ。互いに認め合っていたはずだ」

若手たちにも目を向ける。

「君たちも同じだ。期待しているからこそ、成長して欲しくて言ってきたんだ」

「大きなお世話ですよ」

若手の一人がピシャリと言った。前木も若手たちも、歪んだ笑みを浮かべている。

どれだけ真剣に向き合ってきたと思っている。言いたいことは山ほどあった。感情に任せて怒りたくもあった。しかし、この者たちには言葉が届かない。これ以上は無意味だ。

「わかった。退職届け、正式に受理しよう」

俺の発言に田中が頷いた、その直後。

「ちょっ、ちょっと困ります!」

という慌てた声と共に、事務所のドアが開く音がした。

「よう、お疲れさん。迎えに来たぞ」

聞き覚えのある声に振り返ると、上野が立っていた。得意げな笑みを浮かべ、腕を組んでいる。

「社長、すみません。止めたんですが、前木さんのお客様だと言って無理やり……」

と後ろから部下が顔を覗かせる。

「何?」

俺と田中が一斉に前木を見る。

「上野さんがこうして迎えに来てくれるなんて光栄です」

「未来ある君たちに我が社を案内するのは、使う側の私の役目だ」

前木と上野のやり取りに、俺と田中は呆然とするしかなかった。若手たちも「さすが上野さんです」などと持ち上げていて、耳障りだ。

「それじゃあ、退職届けを正式に受理してもらえたみたいだし」

前木が言うと、田中が拳を震わせて食ってかかった。

「まだ話は終わってないだろう! それにお前ら、飯島に何か言うことはないのか! 飯島がどれだけ心を砕いて……」

それを遮るように、上野が間に割り込んだ。そして、俺に向かってこう告げる。

「飯島、俺が説明してやろう」

上野曰く、俺が起業のために早期退職した時から、ずっと俺を恨んでいたという。

「お前が抜けてから、続け様に他にも何人かやめちまってな。俺の部長としての評価が大幅に傷ついたんだよ。上司に問題があるんじゃないかって問い詰められ、しまいには更迭の話まで出た。そのせいで家族も俺に冷たくなった。それなのにお前は順調。高学歴の社員にも恵まれて、ふざけるなよ」

居酒屋でやけに根掘り葉掘り聞いてきたのは、そういうことだったのか。俺が不幸そうなら笑ってやろうと思ったのだろう。

「飯島、お前の話を聞いた時、腹が立った。だが同時に、いいことを思いついた。だから別れ際に名刺交換したんだよ」

上野は俺の名刺から会社の住所や連絡先を入手し、仕事の話を持ちかけるふりをして連絡をしてきたらしい。

「俺はついてた。まさか連絡に対応してくれたのが、お前に不満を抱えていた社員だったなんてな」

前木がそれに応じたのだろう。これは本当に偶然だったようだ。

「こちらの前さんも、若手社員たち同様かなり優秀らしいじゃないか。それなのにお前が評価しなかったそうだな。だからこんなことになるんだよ」

ここまで、俺と田中は一切口を挟まなかった。心にあったのは呆れと失望だ。俺たちは、彼らと仲間のつもりでいたのか。

「それで、前木たち全員をスカウトしたわけですか? 俺に嫌がらせしたい、そんな気持ちだけで?」

俺の問いに、上野はふんと鼻で笑った。

「優秀な社員を使うと決めたからには、これでお前たちは終わりだな。特に若い社員たちは皆、かなりの高学歴だ。うちにとってかなり有益だよ。これで俺の評価も持ち直す。いや、お釣りが来るかもしれないな」

俺は大きなため息をついた。それから、上野たちに視線を向け、ニコリと微笑んだ。

「逆にありがとうございます」

「は? 強がりかよ」

「いいえ、事実です」

俺が言うと、田中が小さく息をついた。まるで「言うのか」と問いかけているような表情だった。

「若手の社員たちには、心を入れ替えて一緒に頑張って欲しかったんですけどね。だが、今の状況は実は俺にとっても、会社にとっても、ずっと悩みの種だったんですよ。雇用した以上、簡単に解雇はできない。でも、このままでいいのかとも考えていた。上野さん、あなたが引き受けてくれるというなら、前木たちも自分を認めてくれる場所に行ける。こちらも前に進める。悪い話ではないでしょう」

俺が告げた途端、上野の顔から笑みが消えた。

「飯島はオブラートに包んでましたが、まあ、問題ですね」

田中が苦笑しながら口を挟む。俺が退職届を受理した以上、もうどう言っても構わないと吹っ切れているのだろう。

「ちょっと待て。問題ってどういうことだ?」

「言葉の通りですよ」

田中が静かに告げる。

「遅刻の常習化、ミスと言い訳の繰り返し。注意すればパワハラと騒ぐ。うちでは手を焼いていました」

前木たちが騒ぎ始める。

「そんな言い方ないだろう! 俺たちはエースだって前木さんが……」

「そうですよ! 俺たちはそもそも、こんな小さな会社に収まっていい人間じゃない」

前木を見ると、視線を泳がせている。その前木を、上野が睨みつけた。

「前木さん、あんた言ったよな。『俺と若手たちはこの会社のエースだ』『この会社が早く安定したのは、あんたと若手の力だ』って。嘘だったのか?」

「それは、その……」

若手たちや上野に詰められ、前木はしどろもどろになっている。俺と田中は顔を見合わせ、「やれやれ」と首を横に振った。前木は昔から、調子のいいところがあったのだ。やる気がある時は頼りになるが、そうでない時は何事にも適当になる。起業した時はやる気が高まっていたから、あれだけ頼りになったのだろう。だが二年もすると、だんだんとやる気がなくなっていった。

「いやあ、だって。お前らが学歴高いのは事実だし、それに乗っかって転職した方が得だと思ったっていうか、だからつい……」

「ふざけるな! 学歴だけ高い役立たずを入れる余裕なんかない。俺の評価をこれ以上傷つけるわけには……」

「はあ? 役立たず? そっちこそふざけるなよ!」

室内は、罵り合いの言葉で満ちていた。完全に、前木と若手社員たち、そして上野の内輪もめだ。

「はい、ストップ」

俺はパンと手を打ち鳴らす。一瞬だけ騒ぎが静まったのをすかさず、告げた。

「退職届を正式に受理したことは、さっき言いましたね。では、これ以上ここにいても仕方ないんじゃないですか? 続きは、外でどうぞ」

「そうだな。上野さんがせっかく迎えに来てくれたんだし」

田中もそう続ける。

「飯島……」

何か言いたげに上野が俺に声をかけた。目は口ほどに物を言うが、俺はあえて笑顔で対応する。

「さよなら」

それだけを告げ、俺は上野たちを追い出した。

その後、上野たちがどうなったかは、前の職場で仲の良かった知人から聞いた。上野は前木たちを社に連れて行く際、学歴と「うちの会社での実績」を大きく誇張して報告したらしい。上層部はすっかり乗り気になり、問題点など何も伝えられないまま入社が決まったという。案の定、前木たちは転職後も問題を起こし続けた。ミスが重なり、最終的には会社に損失の出る失敗を連発。前木も若手たちも次々と解雇となり、スカウトした上野もその責任を問われ、同じ結末を迎えたそうだ。

しばらくして、息子から短いメッセージが届いた。

「最近どう?」

俺は少し考えてから、一言だけ返した。

「すっきりしたよ」

新たな社員の募集をかけると、何人かは即戦力として採用が決まった。今回は俺自身がじっくりと面接をした。履歴書だけでは人は分からない。経歴よりも、目を見て話してみることの方が大事だと、俺は身を持って学んでいた。前木たちのことを反面教師にしていこう。そう心に誓いながら、俺はまた忙しい日常へと戻っていった。

Thumbnail