「お前に1円も払う気はない。荷物だけまとめて、今日中にこの家を出ていけ」
夫の冷たい声がリビングに響いた。テーブルの上には、すでに夫の署名と印鑑が押された離婚届が置かれている。隣のソファでは、私より20歳以上若い女性が、勝ち誇ったように夫の腕に絡みついていた。
私は怒鳴らなかった。叫びもしなかった。ただ膝の上に置いた手で、バッグの持ち手を静かに握りしめた。
「聞こえたか? お前みたいな地味でつまらない女は、もう俺の隣にはふさわしくないんだよ」
夫は勝ち誇ったように言った。隣に座る女性は、最近夫の会社に社長秘書として入社した中村明美。もちろん、ただの秘書ではない。夫が会社の経費を使って毎晩のように連れ歩いている愛人だった。
「奥さん、もう諦めたらどうですか? 浩司さんはもうあなたに1ミリも情なんてないんですよ」
明美は真っ赤な口紅を塗った唇で、にっこりと笑った。
私は黙ってテーブルの上の離婚届に視線を落とした。慰謝料はゼロ。財産分与もなし。専業主婦として30年間、この家と夫の会社を裏から支え続けてきた私を、無一文で放り出すという内容だった。
夫は先代の社長だった義父の跡を継いだ。しかし5年前に義父が亡くなってからというもの、夫は会社を完全に私物化した。仕事もせずに夜の街で遊びを繰り返し、自分の言うことを聞く人間だけを周りに置いてきたのだ。
そしてとうとう、私を家から追い出し、愛人をこの家に住まわせようとしている。
私はペンを手に取り、ゆっくりと自分の名前を書いた。そして無言のまま拇印を押した。その瞬間、夫の口元が嬉しそうに歪むのが見えた。明美も小さな歓声をあげた。
「これで清々する。俺はこれから明美と新しい人生を歩むんだ。お前はホームレスにでもなって、のたれじぬがいい」
夫のその言葉を聞いても、私の心は不思議なほど冷め切っていた。悲しみも悔しさもない。あるのは、氷のように冷たくて静かな決意だけ。
なぜなら、私は膝の上のバッグの中に、2つのものを隠し持っていたから。
1つは、先週銀行の個室で受け取った宝くじの高額当選証明書。その額は7億円。
そしてもう1つは、夫の会社の経理部長である高橋さんから託された、夫の不正流用を記した極秘のUSBメモリ。
この時の夫は、まだ何も気づいていなかった。自分が今日切り捨てた無一文の妻が、後に自分の運命を全て握る存在になるということを。
「荷物は最小限にしなよ。この家にあるものは、全部俺の金で買ったものなんだからな」
夫の背中越しに飛んでくる冷たい言葉を背に、私は2階の寝室へと向かった。持ち出すものは、もう小さなスーツケース1つにまとめてあった。豪華な宝石もブランド物のバッグも、私には必要ない。義父が残してくれた古い万年筆と、少しの着替えだけを詰め込んだ。
1階に降りると、リビングからシャンパンを開ける音が聞こえてきた。
「浩司さん、これでこの家は私たちのものね」
「ああ、あの陰気な女がいなくなって、ようやく息ができる」
2人の笑い声は廊下まで響いてくる。私は振り返ることなく、玄関のドアを開けた。外はよく晴れた青空が広がっていた。30年間毎日掃除をした玄関のアプローチを歩きながら、私は1度だけ空を見上げた。
「お義父さん、いよいよ始まります。どうか見ていてください」
心の中でそう誓い、私は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで行かれますか?」
運転手さんの言葉に、私は市内で1番格の高いホテルの名前を告げた。無一文で追い出されたはずの私が、そんな高級ホテルに向かうことを、夫は想像すらしていないだろう。
ホテルの部屋に着くと、私はすぐにスマートフォンを取り出した。連絡先から高橋部長の名前を探して、電話をかける。呼び出し音は2回なっただけで、すぐに通話に切り替わった。
「奥様、本当に家を出られたのですか?」
高橋部長の声は低く、少し震えていた。
「ええ、たった今ホテルに着いたところです。高橋さん、これからが本番ですよ」
私の言葉に、電話の向こうで高橋部長が深く息を吐き出す音が聞こえた。高橋部長は義父の代から会社を支え続けてきた、真面目で誠実な人だ。夫が社長になってからも、文句1つ言わずに会社の屋台骨を守ってくれていた。
「社長の横領は、もうごまかしきれない金額に膨れ上がっています。愛人へのマンション購入費だけでなく、怪しい投資話にまで会社の金を注ぎ込んでいるんです。このままだと、あと数ヶ月で資金がショートします。先代が残した会社が、社員ごと倒産してしまいます」
高橋部長の声には、深い絶望が滲んでいた。私は窓の外に広がる町の景色を見下ろしながら、静かにしかしはっきりと答えた。
「分かっています。だからこそ、私が家を出たんです。あの時の資金を使って、私たちが会社を買い取ります」
電話の向こうで、高橋部長が息を飲む気配がした。
「7億円……奥様、本当にそのお金を会社のために使われるのですか? あれは奥様がご自身の運で当てた、奥様だけのものですのに」
「高橋さん、忘れないでください。私が宝くじを買うきっかけをくれたのは、亡くなった義父さんなんですよ。私はバッグから取り出した当選証明書をテーブルの上に置いた。ここには、間違いなく私の名前が記されています。あの会社は義父さんの命そのものです。そして、高橋さんたち真面目な社員の人生がかかっています。あんな夫の身勝手で潰させるわけにはいきません」
私は夫への復讐のためだけに動いているのではない。大切なものを守るため。ただそれだけのために、私は無一文のふりをして、夫の前から姿を消したのだ。
「手続きは、全て予定通りに進めてください。私たちは絶対に表には出ないように。夫が完全に追い詰められるその日まで」
「承知いたしました。奥様、どうかご無理だけはなさらないでください」
電話を切り、私は静かな部屋で1人、ソファに深く腰を下ろした。テーブルの上のUSBメモリには、夫が長年やってきた裏切りの証拠が全て詰まっている。これを弁護士に出せば、社会的に終わらせることは簡単でしょう。しかしそれでは会社に傷がつき、社員たちが路頭に迷ってしまう。だからこそ、私は時間をかけて、完全に合法的な方法で会社を奪い返す計画を立てたのだ。
その夜、私は窓辺で、明日から始まる戦いについて考えていた。
夫は今頃、愛人と新しい生活を祝って、高いワインでも飲んでいるのでしょう。自分がどれほど愚かな選択をしたのか、全く気づかないまま。
しかし翌朝、夫の会社に最初の小さな異変が起きた。それは誰も予想していなかった、静かな崩壊の始まりだった。
翌朝、夫の会社で小さな異変が起きた。いつものように昼過ぎに出社した夫と愛人の明美が、社長室にいた。夫は経理部長の高橋さんを呼びつけると、1枚の領収書を机の上に投げ出した。
「これ、昨日の接待交際費だ。すぐに処理しておけ」
それは明美のために買った、高級ブランドのバッグの領収書だった。金額は50万円を超えている。これまでなら、高橋さんは深くため息をつきながらも、黙って処理をしていた。逆らえば、その場で怒鳴られ、首にされる可能性があったからだ。
しかし今日、高橋さんは違った。机の上の領収書を手に取ると、静かに夫の前に戻したのだ。
「社長、申し訳ありませんが、これは処理できません」
「なんだと? 俺の命令が聞けないのか」
夫は眉を寄せ、声を荒げた。明美も不満そうに腕を組む。しかし高橋さんは、一切表情を変えずに答えた。
「来週、銀行の融資担当者が帳簿の確認に来ます。このような不自然な交際費があれば、追加融資は即座に止められます。それでもよろしいですか?」
その言葉に、夫は一瞬だけ言葉を失った。会社の資金が底を突きかけていることは、夫自身が一番よく知っていたからだ。
「し、分かったよ。今回は俺のポケットマネーから出しておく」
夫は不機嫌そうに舌打ちをして、領収書を引き出しに突っ込んだ。高橋さんは一礼して、社長室を後にした。
これが、私たちが仕掛けた最初の小さな反撃だった。
同じ頃、私はホテルの部屋で、1本の古い万年筆を静かに磨いていた。黒いボディに、少しだけ金色の装飾が入った年代物の万年筆。これは、亡くなった義父である先代社長・佐藤正雄の遺品だ。
私がこの30年間、夫の冷たい態度に耐え続けてきた理由。それは、この万年筆に込められた義父との約束があったから。
30年前、私は親のすすめで佐藤家に嫁いだ。夫は最初から私に愛情など持っていなかった。
「親父が選んだ女だから、仕方なく結婚してやったんだ」
それが、結婚式の夜に夫が私に放った言葉だった。私は孤立し、毎日泣きながら荷物をまとめようとした。そんな私を引き止めてくれたのが、義父だった。義父は不器用な人だったが、私を実の娘のように可愛がってくれた。
「浩司はバカ息子だが、お前がいればきっと会社は安泰だ。すまないが、どうか支えてやってほしい」
義父はそう言って、私をよく会社の工場へ連れて行ってくれた。機械の油の匂い、響き渡る金属の音。油まみれになって働く社員たちは、義父を見ると笑顔で挨拶をしてくれた。
「社長、おはようございます! ゆみさんも、よく来なさったね」
社員たちは、社長の嫁である私にも、とても温かく接してくれた。義父はいつも誇らしげに言っていた。
「ゆみさん、この会社は私の命だ。そして社員たちは私の家族なんだよ」
その言葉通り、義父は社員の生活を第一に考える素晴らしい経営者だった。私はいつしか、義父と社員たちが守ってきたこの会社を、心から愛するようになっていた。夫への愛情はとっくに冷め切っていたが、この会社を守るためなら、どんな我慢もできると思った。
5年前の冬、雪が降る夜の病室で、義父は静かに息を引き取った。最後の夜、病室には私しかいなかった。夫は「仕事の付き合いだ」と言って、夜の街へ遊びに行っていた。
酸素マスクをつけた義父は、震える手で私の手を握った。そして枕元にあった古い万年筆を、私の手に押し付けた。
「ゆみさん……ごめんね。お前に苦労ばかりかけて」
「義父さん、喋らないでください。苦しいでしょう」
私は涙をこらえながら、義父の冷たい手を両手で包み込んだ。義父はかすれる声で、はっきりとこう言った。
「浩司には会社を任せられない。いつかあいつが会社を壊そうとしたら……ゆみさん、お前が社員たちを守ってやってくれ」
それが義父の最後の言葉だった。私は万年筆を握りしめ、声を出して泣いた。誰よりも会社を愛していた義父が、実の息子ではなく、私に会社を託したのだ。
この約束が、私をこの家に縛りつけた。夫が愛人を連れ込んでも、私が黙って耐えていたのは、証拠を集め、完全に会社を守る準備が整うのを待っていたからだ。
午後2時、ホテルの部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、グレーのスーツを着た真面目そうな男性が立っていた。
「佐藤弓さんですね。弁護士の渡辺です」
渡辺弁護士は、私が以前から極秘に相談を重ねていた企業法務の専門家だ。私は彼を部屋に招き入れ、テーブルの上に1つのUSBメモリを置いた。
「高橋部長から託された、夫の横領と不正な資金流用の証拠データです」
渡辺弁護士はノートパソコンを開き、中身を確認し始めた。画面を見つめる彼の表情が、次第に険しくなっていく。
「ひどいものですね。会社の運転資金を、愛人のマンション購入や、実態のない怪しい投資ファンドにまで流しています。これは完全に背任行為です」
「それで、私たちの計画は進められそうですか?」
私が尋ねると、渡辺弁護士は顔を上げ、小さく頷いた。
「はい。奥様のご指示通り、すでに匿名の投資ファンド、つまりダミー会社の設立は完了しています。7億円の当選金も、そちらの口座へ無事に移されました」
私は静かに息を吐いた。宝くじが当たったのは、本当に偶然の奇跡だった。義父の墓参りの帰りに、ふと立ち寄った売り場で買ったものだった。まるで義父が私に、「これで会社を救え」と資金を与えてくれたように感じた。
「社長は現在、複数の銀行から融資を断られ、かなり焦っているはずです。あと少し資金繰りが悪化すれば、間違いなくどこかに会社の売却を持ちかけるでしょう」
渡辺弁護士の言葉に、私は深く頷いた。夫をただ横領で告発すれば、会社は信用を失い倒産する。だから私は、ダミー会社を使って、夫から合法的に会社を買い取るつもりだった。
「奥様、1つ良い知らせがあります」
渡辺弁護士がパソコンの画面を私に向けた。
「メインバンクの担当者が、すでに社長の口座の不審な動きに気づいています。来週の検査を待たずに、新規の融資は完全に凍結される見込みです」
それは私にとって、最初の確かな成果だった。夫の首を絞めるロープは、少しずつ確実に締まり始めている。私はテーブルの上の紅茶を一口飲み、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、渡辺先生。引き続きよろしくお願いします」
全ては順調に進んでいる。そう思っていた時だった。テーブルの上に置いていた私のスマートフォンが短く震えた。画面を見ると、高橋部長からの緊急のメッセージだった。
『奥様、大変です。社長が突然、急行工場の土地を怪しい不動産屋に売却すると言い出しました。強行に契約をまとめるつもりです』
その文字を見た瞬間、私の全身の血の気が引いた。急行工場は、義父が創業時代から大切にしてきた会社の心臓部だ。あの土地を手放せば、社員たちの働く場所が半分になってしまう。夫は私の想像以上に追い詰められ、暴走を始めていた。
私はすぐに立ち上がり、バッグを手に取った。ホテルの部屋を飛び出した私は、渡辺弁護士と共に急いでタクシーに乗り込んだ。向かう先は、市内の外れにある急行工場。義父が若い頃に小さな町工場として立ち上げた、この会社の原点とも言える場所だった。
今は最新の設備こそないが、熟練の職人たちが毎日汗を流して働いている。その土地を売るということは、彼らの居場所を奪うということだ。
「渡辺先生、何としても今日の契約を止めなければなりません」
「もちろんです。しかし、社長の単独決済となると、外部から止めるのは至難の業です。何か、こちらに有利な条件があれば良いのですが」
タクシーの中で、私は必死に記憶を辿った。義父が亡くなる直前、私に何かを言い残していなかったか。その時、私の手の中で強く握りしめていた、義父の形見の万年筆が冷たく光った気がした。
「あります。1つだけ、確実に止める方法が」
私は渡辺弁護士にある事実を伝えた。それを聞いた渡辺弁護士の目が、わずかに見開かれた。
私たちが急行工場の近くに到着した時、すでに正門の前には見慣れない黒い高級車が停まっていた。私はタクシーの窓から、工場の事務所の様子を静かに伺った。ガラス張りの建物には、焦ったように貧乏ゆすりをする夫と、その隣でスマートフォンをいじる愛人の明美がいた。そして向かい側には、派手なスーツを着たいかにも怪しげな不動産屋の男が座っている。
高橋部長が書類の束を抱えて、必死に抵抗しているのが見えた。
「社長、どうか考え直してください! ここを売ってしまえば、長年働いてきたベテランの職人たちはどうなるんですか?」
高橋部長の声が、開いた窓から漏れてきた。しかし夫は、うるさそうに手を振った。
「うるさい。会社が潰れそうなんだぞ。背に腹は変えられないだろう。お前はただ捺印を押す準備だけしていればいいんだよ」
夫の顔は脂汗で光り、異常なほど焦っていた。なぜ土地を売らなければならないのか。その理由は、高橋部長から密かに送られてきた1枚の写真で明らかになった。スマートフォンの画面には、不動産屋の男の名刺が映っていた。
『株式会社中村不動産。代表取締役 中村孝志』
私はその名前を見て、息を飲んだ。
「渡辺先生、この中村という名前……」
「ええ、愛人である中村明美と同姓ですね。すぐに裏を取ります」
渡辺弁護士がノートパソコンを開き、手早く調べ始めた。数分後、彼は静かにパソコンの画面を閉じた。
「奥様のご推察通りです。中村孝志は、中村明美の兄です。この不動産会社は、わずか2ヶ月前に設立されたペーパーカンパニーです」
その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。明美はただ夫の金で贅沢をしているだけの愛人ではなかった。会社の不動産を自分の親族の会社に二束三文で売却させ、利益を独占しようとしていたのだ。夫は明美の甘い言葉に乗せられているだけで、自分が騙されていることすら気づいていない。
建物の中では、いよいよ契約書にサインがされようとしていた。夫が万年筆を手に取り、書類に身を乗り出す。明美の口元が、勝利を確信したように歪んだ。
その時だった。夫のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。夫は舌打ちをして画面を見たが、知らない番号だったため、1度は無視しようとした。
しかし、高橋部長がすかさず言った。
「社長、出られた方がよろしいかと。メインバンクの担当者かもしれません」
資金繰りに焦っている夫にとって、銀行からの電話は無視できない。夫は慌てて電話に出た。
「はい、佐藤ですが」
電話をかけたのは、私の隣に座っている渡辺弁護士だった。
「突然のご連絡、失礼いたします。私は佐藤弓様の代理人を務めております、弁護士の渡辺と申します」
その名前を聞いた瞬間、夫の動きがピタリと止まった。
「は? 弓の代理人? あの女、無一文で追い出されたくせに、弁護士なんか雇ったのか」
夫の声には、苛立ちと軽蔑が混じっていた。しかし、渡辺弁護士の次の言葉が、夫の表情を一変させた。
「現在社長が売却を進められておる、急行工場の土地ですが、本日の契約は不可能です。直ちに中止してください」
「ふざけるな! 会社の土地をどうしようが、俺の勝手だ。あの女に何の関係もない!」
夫が怒鳴り声をあげた。同じ社長室にいる明美と不動産屋の男も、驚いて夫を見ている。渡辺弁護士は冷たく、淡々とした声で続けた。
「お忘れですか? 社長。15年前、社長であるお父様が、急行工場の土地の一部を弓様の名義に変更されています。つまり、あの土地は弓様との共有財産です。共有者である弓様の同意と実印がなければ、所有権の移転登記は絶対にできません」
その瞬間、夫の手から万年筆が滑り落ちた。カランと乾いた音が、社長室に響いた。夫は言葉を失い、口をパクパクとさせている。
そう、義父は万が一の事態に備えて、急行工場の土地の一部を、こっそりと私の名義にしてくれていたのだ。
『ゆみさんに何かあった時、これが最後のお守りになるからね』
義父のあの時の優しい声が、耳の奥に蘇った。昨日、夫は私に離婚届を書かせた。しかし、財産分与の手続きは一切言っていない。法律上、私の名義である土地の権利は、しっかりと残っていたのだ。
「な、なんだって……親父が、あんな女に……」
夫は顔面を蒼白にし、電話を持ったままへたり込んだ。その様子を見ていた不動産屋の男、つまり明美の兄が、舌打ちをして立ち上がった。
「おいおい、話が違うじゃねえか。権利関係が複雑な土地なんて、買えるわけないだろう」
男はそう吐き捨てると、契約書を乱暴に鞄に突っ込んだ。
「ちょっと、お兄ちゃん! 待ってよ!」
明美が慌てて声をかけたが、男は無視して社長室を出ていった。
「お兄ちゃん……?」
夫がハッとして、明美を見た。
「明美、お前、今あの男のことを何て呼んだ?」
「い、いえ、あの、違うの。浩司さん、今の言葉は……」
明美は慌てて取り繕おうとしたが、夫の目には、初めて明美に対する小さな疑惑が浮かんでいた。
これが、悪役たちの間に生まれた最初の亀裂だった。
私はタクシーの窓から、その騒動の様子を静かに見つめていた。怒鳴ることも泣き叫ぶこともせず、ただ1つの事実を突きつけるだけで、夫の計画は無惨に崩れ去ったのだ。
「渡辺先生、ありがとうございました。これで急行工場は、ひとまず安全ですね」
私が深く頭を下げると、渡辺弁護士は少しだけ微笑んで頷いた。義父との約束を、1つ守ることができた。しかし、私たちの反撃はまだ始まったばかりだ。
ホテルの部屋に戻った私の元に、再び高橋部長からメッセージが届いた。そこには、先ほどの契約が白紙になったことへの感謝の言葉が綴られていた。しかし、その文章の最後の一文を読んだ瞬間、私の手は止まった。そこには、私の想像をはるかに超える、恐ろしい事実が書かれていたのだ。
『奥様、本当にありがとうございました。ですが、先ほど社長が金庫を開けた際、とんでもないものを見てしまいました。社長は、奥様のご実家の土地を勝手に担保に入れようとしています』
私は手の中のスマートフォンを、強く握りしめた。実家は、市内から車で30分ほど離れた場所にある小さな平屋の家。3年前に母が亡くなってからは、誰も住んでおらず空き家になっている。しかし、両親が大切に手入れをしてきた庭には、父が好きだった梅の木が今も残っている。
私が佐藤家に嫁ぐ朝、両親はあの家の前で涙を流しながら私を送り出してくれた。
「弓、何か辛いことがあったら、いつでもこの家に帰ってきていいからね」
母のあの時の温かい手の温もりは、今でも私の心に深く残っている。私にとってあそこは、かけがえのない思い出の場所だった。
なぜ夫が勝手に担保にできるのか。私は隣に座る渡辺弁護士に、画面を見せた。
「先生、これはどういうことですか? 実家の名義は、間違いなく私になっています」
「おそらく社長は、奥様の実印と委任状を偽造したか、勝手に持ち出しているはずです。もしそうなら、有印私文書偽造という立派な犯罪になります」
その言葉を聞いて、私はハッとした。昨日無一文で家を出る時、私は自分の身の回りのものしか持ち出さなかった。実家の権利書や、私が昔使っていた古い印鑑は、まだあの家の箪笥の引き出しに入ったままのはずだ。
私はすぐに高橋部長に電話をかけた。
「高橋さん、今お電話は大丈夫ですか?」
「はい。社長は先ほど機嫌を損ねて、明美とどこかへ出かけていきました」
電話の向こうの高橋部長の声は、ひどく疲れていた。
「高橋さん、先ほどのメッセージは本当ですか?」
「ええ。社長が金庫を開けた隙に、中に入っていた書類の束が見えました。1番上に、奥様のご実家の住所が書かれた金銭消費貸借契約書がありました。借入先は、正規の銀行ではなく、法外な利息を取る町金のようでした」
町金。その言葉の響きに、私は目眩がした。夫は会社の資金繰りだけでなく、愛人との遊興費のために、私の両親の思い出まで抵当に入れようとしているのだ。
「高橋さん、お願いがあります。その書類の写真を、何とか撮れないでしょうか?」
それは、高橋部長に大きな危険を犯させるお願いだった。もし見つかれば、経理部長の立場を失うだけでは済まない。しかし高橋部長は、少しの沈黙の後、力強く答えてくれた。
「分かりました。何とかやってみます。奥様の大切なご実家まで奪われるなんて……先代が知ったら、どれほど悲しまれるか。私に任せてください」
その日の夕方、私は会社の近くにある古い喫茶店の奥の席に座っていた。ここは義父が生前、よく私と高橋部長を連れてきてくれた、思い出の場所だ。カランとドアのベルが鳴り、スーツ姿の高橋部長が入ってきた。彼は周りを警戒しながら、私の向かいの席に静かに腰を下ろした。
「奥様、これです」
テーブルの下で、こっそりと茶色い封筒が渡された。中には、スマートフォンの画面をカラー印刷した数枚の紙が入っていた。そこには間違いなく私の実家の住所と、見慣れた私の名前が書かれている。しかし、その横に押されている印影を見て、私は小さく息を吐いた。
「高橋さん、これは実印ではありません。私が昔、銀行印として使っていた古い印鑑です」
「そうでしたか。社長は焦りのあまり、印鑑の確認もせずに書類を作ったのでしょう。しかし、このまま市役所に持ち込まれれば、非常に厄介なことになります」
高橋部長の言葉に、私は深く頷いた。
「ええ。ですが、これで夫の犯罪を証明する決定的な証拠が1つ入りました。本当にありがとうございます」
私が頭を下げると、高橋部長は少しだけほっとしたような表情を見せた。
「実は、もう1つお伝えしたいことがあります」
高橋部長が声を潜めて言った。
「社長が明美さんを、会社の取締役にしようとしています」
「取締役に?」
「はい。明美さんが、もっと会社の経営に関わりたいと言い出したそうです。社長はすっかり彼女の言いなりで、来月の臨時株主総会で承認するつもりです」
愛人を会社の取締役に。義父が人生をかけて育てた会社を、夫はどこまで腐敗させれば気が済むのだろうか。私はテーブルの上にある湯呑を持つと、ギュッと力を込めた。熱いお茶が少し零れた。怒りたい気持ちを必死に抑えて、私は静かに笑った。
「高橋さん、それは私たちにとって、むしろ好都合かもしれません」
「へ? ええ?」
高橋部長は驚いた顔をした。
「彼女がただの愛人ではなく、会社の役員になるのなら、会社が傾いた時、彼女にも経営者としての重い責任を負ってもらうことができますから」
私は冷たく、静かな声で言った。相手が欲を出せば出すほど、落ちる底は深くなる。
その夜、ホテルの部屋に戻った私は、渡辺弁護士にある指示を出した。
「渡辺先生、ダミー会社からの買収提案を、明日の朝一で社長に送ってください。餌は、できるだけ大きく、甘く」
いよいよ、私たちが仕掛けた罠が本格的に動き出す。
私たちが作ったダミー会社、グローバルキャピタルからの提案。その内容は、現在の経営陣の続投を条件に、3億円の出資を行うという、資金繰りに苦しむ夫にとっては夢のような話だった。ただし、その契約書の隅には、ある厳しい条項が隠されている。経営陣に重大な虚偽報告や不正行為が発覚した場合、即座に株式を没収し、経営権を移行するという一文だ。
夫と愛人は、自分たちが勝者だと思い込んでいる。私の実家を売り飛ばし、会社を思い通りにできると信じている。しかし、彼らは大きな勘違いをしていた。私がただ黙って、大切なものを奪われるような、弱い女ではないということ。
翌朝、夫のパソコンに一通のメールが届いた。それは地獄への片道切符とも言える、甘い罠の始まりだった。この時の夫は、そのメールの送り主が、自分が無一文で追い出したはずの元妻であることなど、夢にも思っていなかった。そして、この3億円という数字が、夫と愛人の運命を大きく狂わせていくことになる。
翌朝、ホテルの部屋で身支度を整えていた私のスマートフォンが、突然鳴り出した。画面に表示されたのは、夫の名前だった。家を出てから、初めての着信だ。私は小さく深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「おい、弓。お前、実家の実印をどこに隠した?」
電話越しに聞こえてきたのは、ひどく苛立った夫の声だった。どうやら高橋部長の予想通り、古い銀行印では町金の審査が通らなかったようだ。
「実印なんて知りません。私は自分の着替えしか持ち出していませんから」
私が淡々と答えると、夫は舌打ちをした。そして、私の心を深くえぐるような言葉を放った。
「お前がこの家で過ごした30年は、あの実家のボロ家と同じで、何の価値もなかったんだよ。せめて死んだ親の土地くらい、俺の金のために役立てろ」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の呼吸は止まった。目の前が真っ暗になり、全身の血が冷たく引いていくのが分かった。両親が大切に守ってきた家。義父のために私が必死に耐え抜いてきた30年間。それを、何の価値もないだと、言い捨てたのだ。
私は怒鳴り返すことも、泣き叫ぶこともできなかった。ただ、スマートフォンを持つ手が小刻みに震えていた。爪が白くなるほど、強く強く握りしめた。
「印鑑は、絶対に渡しません」
「ふざけるな! お前なんかに拒否する権利が……」
私は夫の言葉を最後まで聞かず、静かに通話を切った。ホテルの窓から見える空はあんなに青いのに、私の心の中には冷たい雨が降っていた。悲しいというより、虚しさが胸を覆っていた。私が30年間尽くしてきた人は、ここまで心が貧しい人間だったのか。
しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。私には、守らなければならないものがあるのだ。
数分後、今度は高橋部長からメッセージが届いた。そこには、私にとって小さな、しかし確かな朗報が書かれていた。
『奥様、社長は町金の審査に落ちました。書類の不備を指摘され、融資は完全に白紙です。ご実家は無事です』
この文字を見た瞬間、私は張り詰めていた糸が切れ、ソファに深く座り込んだ。両親との思い出の家は、守られた。胸の奥に、少しだけ温かいものが戻ってくるのを感じた。
しかし、高橋部長の報告はそれだけではなかった。
『社長は審査に落ちて激怒していましたが、その直後、パソコンを見て態度が急変しました。どうやら奥様が仕掛けた、ダミー会社からのメールを読んだようです』
そう。渡辺弁護士が用意した、3億円の出資提案。資金繰りに困っていた夫にとって、それは砂漠で見つけたオアシスのように見えたはずだ。
『社長は狂喜乱舞しています。明美さんも大喜びで、自分を取締役にする手続きを急がせています。彼らは出資の条件書を隅々まで読まずに、すぐに同意の返信を送りました』
私はその報告を読んで、静かに立ち上がった。夫と愛人は、目の前にぶら下がった3億円という餌に、完全に食いついたのだ。契約書に隠された「不正発覚時は経営権を没収する」という恐ろしい罠に気づくこともなく。
これで、彼らが自ら首を絞める準備は整った。
ここから私は、ホテルを出て駅前の静かな喫茶店へと向かった。そこで待ち合わせていたのは、渡辺弁護士ともう1人の人物だった。
「弓さん、お久しぶりです」
私を見て、深く頭を下げたのは、メインバンクの融資担当をしている伊藤さんだった。伊藤さんは義父が社長だった頃から会社を担当してくれている、真面目で誠実な銀行員だ。義父の葬儀の時、誰よりも大粒の涙を流していたのを覚えている。
「伊藤さん、お忙しいところ申し訳ありません」
「とんでもない。先代の奥様からの頼みとあらば、駆けつけないわけにはいきません。それに、私も今の社長のやり方には、ずっと我慢ができなかったんです」
伊藤さんは少し悔しそうに顔を歪めた。夫は銀行からの融資を、会社の事業ではなく、愛人との遊興費や怪しい投資に使い込んでいる。それは銀行を騙す行為であり、伊藤さんにとっても許せないことだった。
「渡辺先生から伺った通り、社長の裏口座の動きを独自に調査しました」
伊藤さんは鞄から分厚いファイルの束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これが、会社から不正に引き出された資金の、最終的な流れを示す記録です。社長は愛人である中村明美さんの口座に、毎月数百万円単位で送金しています」
しかし、伊藤さんはそこで言葉を区切り、少しだけ声を潜めた。
「しかし、どういうわけか、明美さんの口座に振り込まれたお金は、その日のうちに全て別の口座に送金されているんです」
「別の口座ですか?」
「はい。奥様、社長は中村明美さんに、完全に騙されている可能性があります」
私は驚きで言葉を失った。愛人の明美は、ただ贅沢をするために夫の横領に加担しているのだと思っていた。しかし、彼女にはもっと別の、恐ろしい目的があったのだ。
伊藤さんが示した書類の束の、一番最後のページ。そこには、明美の口座から会社の資金が流れ込んでいる、最終的な着金先の名前が書かれていた。その名前を見た瞬間、私は思わず息を飲んだ。
「この名前……そんな、まさか」
そこにあったのは、私が全く予想もしていなかった人物の名前だった。
夫は自分が全てを支配しているつもりでいる。しかし、本当は夫自身が、一番深い罠にはまっていたのだ。
私はその書類の束を、震える手で強く握りしめた。
『株式会社中村不動産 代表取締役 中村孝志』
それは、昨日夫が急行工場の土地を売却しようとしていた、あの怪しげな不動産屋の名前だった。代表者は、明美の兄である中村孝志。
「伊藤さん、これはどういうことですか?」
「社長が会社の口座から横領した資金は、一度明美さんの口座に入り、そこから全てこの中村不動産の口座に流れています。総額は、すでに2億円を超えています」
伊藤さんの言葉に、渡辺弁護士が険しい表情で口を挟んだ。
「つまり、明美と兄の孝志は、最初からグルだったということです。彼らの目的は、佐藤社長から会社の資金を吸い尽くし、自分たちのペーパーカンパニーに資金を逃すこと。いわば、会社を食い物にしているのです」
私は膝の上で、両手を強く握りしめた。夫は私を家から追い出し、愛人と優雅な生活を送っていると思い込んでいた。しかし現実は違った。夫は明美たちにとって、ただの都合の良い金ヅルだったのだ。
「彼女が取締役に就任したがった理由も、役員の権限を利用して、さらに会社の資金を横領しやすくするためでしょう。社長は、これに気づいているのでしょうか?」
「おそらく、全く気づいていません。社長は明美さんに完全に惚れ込んでおり、彼女の言うことを疑うことすらしない状態です」
なんて愚かな人だろう。30年間この会社を支えてきた義父の思いも、真面目に働く社員たちの汗も、全てあの愛人たちの懐に入ってしまっていたのだ。しかし、この事実を知ったことで、私の心の中の迷いは完全に消え去った。夫をただ追い落とすだけでは済まされない。奪われたこの2億円を取り戻し、会社を再び社員たちの手に返さなければならない。
私の決意は、より冷たく、そして強固なものになった。
「渡辺先生、私たちの計画を次の段階へ進めましょう。グローバルキャピタルからの3億円の出資契約。これを、彼らが取締役に就任する明日の株主総会に合わせて、締結させます」
渡辺弁護士は、私の強い目を見て、深く頷いた。
「承知いたしました。罠の準備は、全て整っています」
その夜、ホテルの部屋で、私は義父の形見である万年筆を見つめていた。
「お義父さん、もうすぐです。もうすぐ、義父さんの会社を私が取り戻します」
心の中でそう誓うと、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。私が持っているのは、7億円という資金と、彼らの不正を示す決定的な証拠。対して夫と明美が持っているのは、嘘と欲だけで膨れ上がった、見せかけの優越感だけ。勝負の行方は、すでに決まっていた。
翌朝、夫の会社では臨時の株主総会が開かれた。と言っても、株式のほとんどは夫が保有しているため、形式的なものだ。高橋部長からの報告によれば、夫は満場一致で明美を取締役に任命する議案を可決したそうだ。
そしてその直後、渡辺弁護士が手配したダミー会社の代理人が会社を訪れた。
「本日はお日柄もよく、契約には最高の日ですね」
代理人がうやうやしく差し出した契約書に、夫は二つ返事でサインをした。3億円という大金が手に入る喜びに目がくらみ、契約書の隅に書かれた「重大な不正発覚時の経営権没収」という厳しい条項には、目もくれなかったそうだ。
午後3時、高橋部長から短いメッセージが届いた。
『3億円の着金を確認しました。社長と明美さんは、社長室で祝杯をあげています』
その報告を受けた私は、静かに立ち上がった。これで餌は、完全に食い込まれた。夫は私の7億円から出た3億円を、自分の手柄だと思い込んで喜んでいる。しかし、彼らがそのお金を自由に使える時間は、もう長くはない。
「奥様、準備が整いました」
ホテルの部屋を訪れた渡辺弁護士が、1枚の書類を私に手渡した。それは、明日の朝一で警察と国税局に同時に提出される、告発状の控え。そしてもう1つ、私たちが彼らに突きつける最後通告の書類。
「いよいよですね」
「ええ。彼らが一番油断している時に、全てを終わらせましょう」
翌日の昼下がり、私は30年間慣れ親しんだ夫の会社へと向かっていた。私が身につけているのは、安物の服ではない。義父が私の誕生日に買ってくれた、仕立ての良いスーツだ。無一文で追い出された見窄らしい妻の姿は、そこにはなかった。
私が会社の正面玄関に足を踏み入れると、受付の女性が驚いて立ち上がった。
「あ、弓奥様? どうしてこちらに……」
私は受付の女性に軽く微笑みかけ、そのまま社長室へと向かった。エレベーターの扉が閉まる瞬間、私の手の中の万年筆が静かに光った。これが、私からの最初で最後の反撃の始まりだ。
社長室の前の廊下には、誰もいなかった。私は重厚な木製のドアの前に立ち、小さく深呼吸をした。そして、ノックもせずに、そのドアをゆっくりと押し開けた。
ガチャリと、社長室の扉が開いた。
部屋の中には、余ったるい香水の匂いと、高級な葉巻の煙が充満していた。ソファには夫と愛人の明美が座り、グラスを片手にくつろいでいる。2人は突然入ってきた私を見て、目を丸くした。
「お前……なんでここにいるんだ?」
夫は手に持っていたグラスをテーブルに乱暴に置き、怒鳴り声をあげた。
「追い出された分際で、何の用だ? まさか、金を無心しに来たんじゃないだろうな」
明美も、私を鼻で笑うように見下した。
「本当に惨めですね。無一文になったからって、浩司さんにすがりつくなんて」
私は怒りもせず、泣き叫びもしなかった。ただ静かな足取りで部屋の中央まで進み、冷たい声で言った。
「勘違いしないでください。私は、義父さんの会社がどうなっているか、見に来ただけです」
「親父の会社だと?」
夫は不快そうに顔を歪めた。
「ここは俺の会社だ。お前にはもう指一本触れさせない。とっとと出ていけ」
私はテーブルの上に置かれた1枚の書類を見やった。それは、ダミー会社であるグローバルキャピタルとの出資契約書だ。
「随分、景気が良さそうですね」
私がそう言うと、夫は勝ち誇ったように胸を張った。
「ああ。最高に気分がいい。外資系のファンドが、3億円も出資してくれたんだ。お前のような貧乏人には、一生縁のない話だ」
夫の言葉に、明美も嬉しそうに夫の腕にすり寄った。
「浩司さんは、本当に天才経営者なんですよ。ねえ、浩司さん、あのさ、早くお兄ちゃんの会社に振り込みましょうよ」
明美が甘えた声で言った言葉に、私はピクリと眉を動かした。
「振り込む?」
「そうだ。俺たちはこの3億円を元に、新しい不動産事業を始めるんだ。明美の兄貴が社長をやっている会社に、資金を全額投資してな。こんな古臭い工場を動かすより、よっぽど儲かるんだよ」
なんと愚かな男だろう。出資されたばかりの3億円を、そのまま愛人の兄のダミー会社に横流ししようというのだ。夫は自分が明美たちに利用されていることに、まだ全く気づいていない。
「それは、横領ではありませんか?」
私が冷たく指摘すると、夫は鼻で笑った。
「バカか、お前は? 俺は社長だぞ。会社の金をどう使おうが、俺の自由だ。お前のような世間知らずの主婦に、経営の何が分かる?」
「そうよ。浩司さんはこれから私と一緒に、新しいビジネスを始めるの。あなたみたいな古い人間は、もう必要ないのよ」
明美も、勝ち誇った顔で私を見た。その時、社長室のドアが激しくノックされ、高橋部長が慌てた様子で飛び込んできた。
「社長、大変です!」
高橋部長は私の姿を見て一瞬驚いたが、すぐに夫の方に向き直った。
「銀行から、大量の融資の取引停止の連絡が来ました。今月の材料費も、まだ振り込まれていません」
「あ? それか」
夫は面倒くさそうに手を振った。
「支払いは止めておけ。もう急行工場は畳む。あんな古臭い工場に、これ以上金をかけるつもりはない」
「閉鎖って、本気ですか?! あそこには、先代の時代から会社を支えてきたベテランの職人たちが大勢います。彼らをどうするおつもりですか?」
「首に決まっているだろう」
夫は冷酷に言い放った。
「これからは不動産投資の時代だ。油まみれで働くような古臭い連中は、俺の会社にはもういらないんだよ。退職金も払う気はないから、適当に理由をつけて追い出しておけ」
「そんな無茶な! 彼らを見捨てるなんて、先代が許しませんよ!」
高橋部長が声を荒げた。しかし夫は机を強く叩いて、怒鳴り返した。
「親父はもう死んだんだ! 今の社長は、この俺だ! 俺の命令が聞けないなら、お前も今すぐ首にしてやるぞ」
高橋部長は言葉を失い、悔しそうに拳を握りしめた。私はその姿を見て、胸が締め付けられた。義父が愛した会社。真面目に働く社員たち。それを夫は、自分の欲と見栄のために、ゴミのように捨てようとしている。
私はポケットの中で、義父の万年筆を強く握りしめた。悲しみではない。静かで冷たい怒りが、私の心を満たしていった。
「分かりました。よく、分かりました」
私が静かに口を開くと、夫と明美がこちらを見た。
「浩司さん、あなたは本当に、何も分かっていないのですね」
「なんだと?」
夫が不機嫌そうに睨みつける。私は夫の目をまっすぐに見つめ返した。
「義父さんがこの会社に残したのは、お金ではありません。社員たちとの信頼です。それを自分から手放す人間が、どうなるか。すぐに分かりますよ」
「減らず口を叩くな! とっとと消えろ!」
夫の言葉を背に受けながら、私は社長室を後にした。追いかけてきた高橋部長が、廊下で深く頭を下げた。
「奥様、申し訳ありません。私には、社長を止める力がありませんでした」
高橋部長の声は、震えていた。私は彼に優しく微笑みかけた。
「謝らないでください、高橋さん。これでいいんです。彼らが自ら、急行工場の社員たちを切り捨てると宣言し、会社の資金を不正に流用すると宣言した。これで、私たちが彼らを追い詰める大義名分が、完全に揃いました」
高橋部長は、私の言葉の真意に気づいたのか、ハッと顔を上げた。
「高橋さん。急行工場の社員たちには、私から密かに手当てを出します。誰一人、路頭に迷わせません。もう少しだけ、待っていてください」
「奥様……ありがとうございます」
高橋部長は涙ぐみながら、深く頭を下げた。私はその背中を見送りながら、会社の外へと歩き出した。空は暗くなり始め、冷たい風が吹いていた。
会社を出て大通りに出た時、私のスマートフォンが鳴った。画面には、渡辺弁護士の名前が表示されている。
「はい、弓です」
私が電話に出ると、渡辺弁護士の緊張した声が飛び込んできた。
「奥様、先ほど動きがありました」
私は立ち止まり、息を飲んだ。
「明美さんが動いたのですね」
「ええ。社長が3億円を受け取った直後、明美さんが自分の役員権限を使って、会社のメイン口座から1億円を強引に引き出しました。送金先は、例の中村不動産です」
ついに彼女が本性を現した。夫が会社の未来だと信じていた3億円は、すでに愛人たちの手によって奪われ始めている。
「奥様、この送金記録があれば、出資契約の『不正発覚時の経営権没収』の条項を、即座に発動できます。いつでも社長の首を切れる状態です」
渡辺弁護士の言葉に、私は静かに頷いた。しかし、私はまだ彼らに引導を渡すつもりはなかった。
「先生、まだ止めてはいけません」
「どういうことですか?」
「あの2人がどこまで欲をかくか、完全に逃げ道がなくなるまで、泳がせてください」
明美の兄の会社に資金が流れている。しかし、その金がどこへ行くのか。私はその夜、もう1つの恐ろしい真実に近づくことになる。
明美が隠していた本当の顔。それは、夫にとっても私にとっても、想像を絶する裏切りだった。
翌日の午前中、私が止まっているホテルの部屋に、渡辺弁護士が分厚い封筒を持って訪ねてきた。その顔つきは、いつも以上に厳しいものだった。
「奥様、中村明美と、その兄を名乗る中村孝志について、戸籍の調査結果が出ました」
渡辺弁護士は1枚の写真をテーブルの上に置いた。そこに写っていたのは、高級マンションのエントランスで楽しげに腕を組んで歩く、明美と孝志の姿。2人の薬指には、お揃いの指輪が光っている。
「これは……どういうことですか?」
「中村孝志は、明美さんの兄ではありません。2人は3年前に籍を入れた、夫婦です」
「ふ、夫婦?」
私は、思わず聞き返してしまった。
「はい。彼らは、経営に行き詰まった中小企業の社長をターゲットにする、プロの詐欺師です」
渡辺弁護士の説明を聞いて、私は背筋が寒くなるのを感じた。明美が社長秘書として夫の会社に入り込んだのは、偶然ではなかったのだ。最初から夫の会社を食い物にするために、近づいてきた。
「愛人のふりをして社長に取り入り、会社の金を横領させる。そして夫である孝志のダミー会社に金を流し込む。これが、彼らの手口です。過去にも、2つの会社が同じ手口で、計画倒産に追い込まれています」
なんて愚かなのだろう。夫は自分より20歳も若い女性が、自分の魅力に惹かれてきたのだと信じきっていた。私を価値のない女だと罵り、得意げに愛人を社長室に引き入れていた。しかし本当は、夫自身が一番価値のない、都合の良い操り人形だったのだ。
私を無一文で追い出し、勝利の美酒に酔いしれていた夫。しかし、その背後では、もっと恐ろしい悪意が彼を嘲笑っていた。30年間連れ添った私をゴミのように捨てた、その結果がこれだ。
「これで、明美たちがすぐに1億円を引き出した理由も分かりました。彼らは3億円全てを奪って、逃げるつもりです」
その時、高橋部長からメッセージが届いた。
『奥様、会社で異変が起きています』
私はすぐに高橋部長に電話をかけた。
「高橋さん、何があったのですか?」
「先ほど、社長が顔面を蒼白にして銀行から帰ってきました。残りの2億円も、会社の口座から消えていたそうです」
ついに、歯車が狂い始めた。夫は明美が勝手に1億円を引き出したことには気づいていなかった。そこに残りの2億円も消え、会社のメイン口座は完全に空っぽになってしまったのだ。
「社長はすぐに明美さんを社長室に呼び出し、怒鳴り声をあげていました。しかし、明美さんは『お兄ちゃんがすごく有利な物件を見つけて、急いで契約しないと他の人に取られるから、全額振り込んだの』と言い訳をしています」
「それで、夫は信じたのですか?」
「はい。明美さんが泣き真似をするもんですから、社長はすぐに機嫌を直して、『それなら仕方ないな』と納得してしまいました。ですが、社長の顔には、隠しきれない焦りが見えます」
夫の頭の中は、今頃パニックになっているはずだ。会社の運転資金はゼロ。出資された3億円も、全て手元から消えた。不動産投資で儲かると信じ込もうとしているが、その金が戻ってくることは、永遠にない。なぜなら、明美と孝志は、すでに海外へ逃亡する準備を始めているはずだから。
ここから、私は帽子とサングラスで顔を隠し、急行工場の近くへ向かった。タクシーを降りて少し歩くと、懐かしい機械の音が聞こえてきた。しかし、いつもより活気がない。工場の裏口から、ベテランの職人である鈴木さんが、うつむき加減で出てくるのが見えた。材料の仕入れ先への支払いが止まり、仕事が回らなくなっているのだ。このままでは、今週末には工場が完全に停止してしまう。
私は手元のスマートフォンを操作し、銀行の伊藤さんに連絡を入れた。
「伊藤さん、以前お話ししていた、急行工場の仕入れ先への支払い手続きをお願いします。私の個人の口座から、匿名で全額振り込んでください」
「承知いたしました。弓様のお金で、会社を立て替えるのですね。これで工場は止まらずに済みます」
「はい。社員たちには、決して私の名前を出さないでください」
数十分後、工場の事務所から歓声が上がるのが聞こえた。
「おい、仕入れ先から連絡があったぞ! 匿名の投資家から、未払い分が全額振り込まれたって!」
「本当か? じゃあ、明日からまた材料が入ってくるんだな!」
職人たちの明るい声を聞いて、私の胸の奥が少しだけ温かくなった。私が守りたかったのは、この笑顔だ。夫や愛人に、これ以上彼らの人生をめちゃくちゃにさせるわけにはいかない。
私はホテルの部屋に戻り、渡辺弁護士に向き直った。
「渡辺先生、明美たちが逃げる前に、全ての扉を閉めましょう」
「分かりました。それでは、グローバルキャピタルから佐藤社長に、緊急の通達を出します。3億円の資金使途に重大な疑義があるため、即座に返金を求める。もしできない場合、契約通り、会社の経営権と株式を全て譲り渡してもらいます」
夫は今、会社の金を全て愛人に預け、自分は無敵の経営者だと思い込んでいる。しかし、明日彼の元に届く一通の通知が、その幻想を完全に打ち砕くことになる。自分を愛していると信じていた女が、実は他人の妻であり、詐欺師であること。そして自分が会社の全財産を失い、莫大な借金だけを背負わされたこと。それを知った時、夫はどんな顔をするのだろうか。
「奥様、いよいよ最終段階ですね」
渡辺弁護士の言葉に、私は静かに頷き、義父の万年筆を胸のポケットに差した。
「ええ。明日、全てを終わらせます」
その夜、夫のスマートフォンに、ダミー会社の弁護士から一通の恐ろしいメールが届いた。しかし、夫がそのメールを開くのは、翌朝のことだ。そして、その時、彼を救う人間は、もうこの世界には1人もいなくなっている。
翌朝、社長室には夫の怒鳴り声が響き渡っていた。
「どういうことだ?! なぜ、急に出資を引き上げるなんて言うんだ!」
夫の目の前のパソコンには、一通の恐ろしいメールが開かれている。送り主は、3億円を出資したグローバルキャピタルの代理人弁護士。
『資金使途に重大な契約違反の疑いがあるため、即座に3億円の返金を求めます。本日午後3時までに全額の着金が確認できない場合、契約に基づき、株式と経営権を没収します』
その冷酷な文面を前に、夫は脂汗を流して震えていた。昨日まで自分は選ばれた天才経営者だと思い込んでいた。しかし、今目の前にあるのは、会社を完全に乗っ取られるという現実だった。
夫は震える手でスマートフォンを手に取り、明美に電話をかけた。3億円は全て、彼女の兄の不動産会社に振り込んでしまったからだ。
「明美、早く電話に出ろ!」
しかし、何度かけても無機質な留守番電話の音声が流れるだけ。いつもなら甘い声で、すぐに電話に出るはずの明美が、今日に限って出社すらしていない。
同じ頃、私はホテルの部屋で、渡辺弁護士と向かい合っていた。
「奥様、社長は今頃、パニックに陥っているはずです」
渡辺弁護士は、手元のタブレット端末を見ながら静かに言った。私はテーブルの上に置いた義父の古い万年筆を、指でなぞった。
私がこの30年間、夫の冷たい仕打ちに耐えてきた理由。そして、家を追い出されても、すぐに反撃しなかった理由。それは、夫と明美を完全に油断させ、言い逃れのできない証拠を固めるためだった。もし私がすぐに宝くじの7億円を見せて、会社を買い戻そうとしていたら、夫は間違いなくそのお金まで奪い取り、愛人との遊興費に使っていただろう。会社を根本から立て直すためには、夫から経営権を完全に奪うしかなかった。
「明美たちは、もう逃げる準備をしている頃でしょうか」
私が尋ねると、渡辺弁護士は冷たく微苦笑した。
「ええ。彼女たちは昨日のうちに、会社の口座から3億円を海外の口座へ移そうとしました。『移そうとしました』というのがポイントです。銀行の伊藤さんと協力して、マネーロンダリングの疑いで口座を一時凍結させました」
その言葉を聞いて、私は小さく息を吐き出した。夫と愛人は、今頃引き出せない3億円を前に、青ざめているはずだ。彼らもまた、自分たちが仕掛けた罠の中で、もがき苦しんでいるのだ。
ここで、高橋部長から電話がかかってきた。
「奥様、社長が完全に錯乱しています。銀行に電話をかけて3億円の融資を頼み込んでいますが、相手にされていません」
「明美さんと、連絡は取れましたか?」
私が聞くと、高橋部長は低い声で答えた。
「いいえ。社長が何度電話しても、繋がらないそうです。先ほど社長は、『あいつ、俺の金を持って逃げたのか!』と叫んで、机の上の書類を投げつけました」
ついに、夫も気づき始めたようだ。自分が愛していた女が、ただの詐欺師だったということに。しかし、後悔するには遅すぎる。
「高橋さん、社長に、グローバルキャピタルの代理人から電話がかかってくると、伝えてください」
私がそう指示すると、高橋部長は力強く「承知いたしました」と答えた。電話を切った後、高橋部長から1枚の写真がメッセージで送られてきた。これは急行工場の事務所で撮られたものだった。私が昨日匿名で支払いを済ませたおかげで、今日から再び材料が搬入されている。写真には、油まみれの作業着を着たベテランの職人たちが、満面の涙を浮かべて笑い合っている姿が映っていた。
「義父さん、工場は今日も動いていますよ」
私はその写真を静かに見つめながら、小さくつぶやいた。この30年間、私が夫の暴言に耐えられたのは、彼らのこの笑顔があったからだ。夫はこの大切な場所を、キッチュな趣味のクズと呼び、愛人たちのために彼らの人生を売り飛ばそうとした。その罪の重さを、明日、思い知らせてやらなければならない。
その日の午後、渡辺弁護士が自分のスマートフォンから夫の会社に電話をかけた。丁寧に設定された電話からは、夫の焦った声が聞こえてきた。
「は、はい、佐藤です。グローバルキャピタル様ですね」
つい数日前まで、私を無一文で追い出した時の傲慢な態度は、微塵もない。すがるような情けない声だった。
「佐藤社長、3億円の返金は、いつになりますか?」
渡辺弁護士が、淡々と冷たい声で問い詰める。
「お、お待ちください! 資金は現在、別の投資に回しておりまして。必ず返しますから。あと数日、いや、1週間だけ待っていただけないでしょうか」
夫は必死に言い訳を並べ立てた。しかし、渡辺弁護士の答えは冷酷だった。
「契約違反は明白です。待つことはできません。本日午後3時までに返金がない場合、約束通り、会社を頂きます」
「そんな! それは! お願いします、直接お会いして説明させてください! 私の顔を見ていただければ、必ず分かっていただけます!」
直接会って説明する。それこそが、私が待っていた言葉だった。私は渡辺弁護士に無言で頷いた。渡辺弁護士は、少しの間を置いてから、静かに答えた。
「分かりました。我が社の社長も、あなたに直接お会いしたいと申しております」
「ほ、本当ですか?! ありがとうございます! いつでも、どこへでも伺います!」
電話の向こうで、夫が歓喜の声を上げるのが聞こえた。まだ自分にはチャンスがある。相手の社長に土下座でもして泣きつけば、何とかなると思い込んでいる。
「明日の午後1時、指定のホテルの会議室にお越しください。そこで、我が社の社長が直接、今後の会社の処遇を決定します」
渡辺弁護士がそう告げて電話を切ると、部屋には静寂が戻った。私は深く息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。長かった30年の我慢が、ついに終わろうとしている。義父が愛した会社を、再び取り戻す時が来たのだ。
クローゼットを開けると、そこには明日着るための服が用意されていた。それは、義父の葬儀の時に着た黒い喪服ではない。会社を新しく生まれ変わらせるための、真っ白なスーツだ。
夫はまだ知らない。明日、自分がすがりつき、土下座をする相手が誰なのかを。そして、自分がどれほど深い絶望の底に突き落とされるのかを。
翌日の午前中、私が止まっているホテルの部屋で、スマートフォンがけたたましく鳴った。画面には、またしても夫の名前が表示されている。昨日はファンドからの通達に青ざめていたはずの夫だ。私は少し警戒しながら、静かに通話ボタンを押した。
「弓、俺だ。今すぐ実家の権利書と実印を持ってこい」
電話に出るなり、夫は偉そうな声で命令してきた。その声には、昨日の焦りではなく、根拠のない自信が満ち溢れていた。まるで、自分が世界の王様であるかのような尊大な態度だ。
「どういうことですか? 昨日、もう私には関係ないとおっしゃったはずですが」
私が淡々と問い返すと、夫は鼻で笑った。
「状況が変わったんだよ。俺は今日の午後、3億円を出資したファンドの社長と、直接会うことになった。俺の経営手腕を直接話せば、相手は絶対に納得する。いや、俺の魅力に気づいて、さらに追加で5億円は引き出せるはずだ」
どうしてそこまで自分を過信できるのか。夫は自分が交渉に勝つと、完全に思い込んでいるようだった。
「だから、今日の話し合いがうまくいくまでの繋ぎとして、お前の実家を担保に少額を借りる。お前も俺の成功に貢献できるんだから、感謝しろよ」
私は、その身勝手な言い分に、怒りで体が震えそうになった。30年間、自分を奴隷のように扱い、最後は無一文で追い出した夫。それなのに、自分がピンチになれば、平気な顔で私の両親の家を奪おうとする。
「明美さんはどうしたのですか? 3億円は、彼女が持っているのでしょう?」
私がわざとそう尋ねると、夫は得意げに笑った。
「ああ、明美なら、今俺の隣にいるよ。昨日は少し連絡がすれ違っただけだ。彼女も、俺の交渉術を信じて、ついてきてくれている」
電話の向こうから、「浩司さん、すごいわ。さすが私の社長ね」という明美のわざとらしい甘え声が聞こえてきた。私は呆気にとられて、言葉を失いそうになった。明美たちが夫の元に戻ってきた理由は、ただ1つ。渡辺弁護士と銀行の伊藤さんが、彼女たちの口座を完全に凍結したからだ。海外へ逃げるための資金を引き出せなくなった明美と、詐欺師の夫は、再び夫を利用するしかなくなったのだ。夫がファンドの社長を丸め込んで、口座の凍結を解除させると信じて。
「明美は、お前の何百倍も賢くて、俺を愛してくれている。お前みたいな、何の役にも立たない女とは違うんだよ」
夫は、自分を騙そうとした詐欺師を隣に置きながら、勝ち誇ったように言った。まさに、滑稽としか言いようがない。
「明日、俺が大金を手にして大社長になっても、お前には1円も恵んでやらないからな。一生、底辺で這いつくばって生きろ」
夫はそう言い散らかし、一方的に電話を切った。私はスマートフォンをテーブルに置き、静かに息を吐いた。これが、悪役たちが勝ったつもりになっている、哀れな姿か。
午後になり、ホテルのロビーに高橋部長が訪ねてきた。彼は周りを気にしながら、分厚いファイルを私に手渡した。
「奥様、これが会社の全株主名簿と、役員変更の登記に必要な書類の全てです」
「ありがとうございます、高橋さん。危ない橋を渡らせてしまいましたね」
私がねぎらうと、高橋部長は力強く首を振った。
「とんでもありません。これでようやく、会社が先代の頃のように、健全な場所に戻るのですから。社員たちも皆、奥様が戻られる日を心待ちにしています」
高橋部長の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「社長は、今朝、一番高いオーダースーツをクリーニングから取り寄せて、着込んでいました。午後の会談に、明美さんも連れて行くつもりのようです」
「そうですか。2人揃って来るなら、こちらとしても好都合です。30年間私をゴミのように捨てた夫と、義父さんの会社を食い物にしようとした詐欺師の女。その2人に同時に真実を突きつけることができるのですから」
高橋部長は深く頭を下げ、会社へと戻っていった。私は部屋に戻り、窓から町の景色を見下ろした。手には、義父の古い万年筆が握られている。
「義父さん……とうとう、この日が来ました」
私は万年筆の冷たい感触を確かめながら、心の中で義父に語りかけた。30年前、この町に嫁いできた日のこと。夫の冷たい言葉に泣いていた私を、義父が工場に連れて行ってくれた日のこと。全てが、昨日のことのように思い出される。
私はただの専業主婦だった。経営のことなど、何も分からなかった。それでも、あの優しい社員たちと義父の思いが詰まった会社を守りたかった。その一心で、今日まで歯を食いしばって生きてきた。
夫は今日、自分が大勝利を収めると思い込んでいる。自分の交渉術でファンドの社長を丸め込み、さらに資金を引き出せると信じている。しかし、彼がこれから会う相手は、彼が一番見下し、無一文で追い出した、元妻の私なのだ。
時計の針が、正午を回った。私は静かに身支度を整えた。用意していた真っ白なスーツに袖を通す。鏡の前に立つと、そこには30年間の苦労を乗り越えた、1人の女性が立っていた。もう、夫の顔色を伺って下を向いていた、昨日までの私ではない。髪を綺麗にまとめ、落ち着いた色の口紅を引く。胸のポケットに、義父の万年筆を差す。
「よし」
私は鏡の中の自分に向かって、小さくつぶやいた。
午後0時半、渡辺弁護士がホテルの部屋に迎えに来てくれた。
「奥様、とてもよくお似合いです。先代の社長が見たら、きっと喜ばれますよ」
渡辺弁護士の温かい言葉に、私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。全ては、渡辺先生や皆さんのおかげです」
「いいえ。奥様の、決して諦めない強いお心が、皆を動かしたのです」
私たちは微笑み合い、そして静かに表情を引き締めた。
「社長と明美さんは、すでに下の階の特別会議室に入り、相手の到着を待っているそうです。かなり上機嫌で、勝利を確信している様子とのことです」
「そうですか。では、そろそろ行きましょうか」
私が向かうのは、このホテルの中にある一番格式の高い特別会議室。そこでは今、夫が自分の成功を夢見て、ふんぞり返って座っているはずだ。数分後、あの扉を開けた瞬間、彼らの見る夢は、永遠の悪夢へと変わる。
私は渡辺弁護士と共に、静かに部屋を出た。私の足音だけが、決戦の場へと向かう廊下に、コツコツと響いていた。
ホテルの最上階にある特別会議室。そこは、一流企業の重役だけが使うことを許された、重厚で静かな空間だった。部屋の中央には、磨き上げられた大きなマホガニーのテーブルが置かれている。床には分厚い絨毯が敷かれ、足音すら吸い込まれてしまいそうだ。
夫と愛人の明美は、上座に近い席にふんぞり返って座っていた。夫は一番高いオーダースーツに身を包み、足を組んで余裕の笑みを浮かべている。明美も、高級ブランドのワンピースを着て、真っ赤な爪を眺めていた。
「浩司さん、今日のスーツ、とっても似合ってるわ」
明美が甘い声で褒めると、夫はテーブルの上の高級なコーヒーカップを手に取った。
「今日こそ、俺の本当の実力をみせてやる。相手がどんな外資系のファンドだろうと、俺の交渉術を聞けば、絶対に納得するさ」
夫は、自分が勝つことを微塵も疑っていない。口座が凍結されたのも、何かの手違いか、ファンド側のごねい審査だと信じ込んでいる。
「弓みたいな、貧乏臭い女と別れて、本当に正解だったよ。今頃どこで、安いパートでもしながら泣いているだろうな」
「そうね。あの女に、こんなチャンスは一生縁がないわ。私たちは、これから新しいビジネスで、持って大金持ちになるの」
2人は、自分たちが世界の中心にいると勘違いしている。有能な職人たちを切り捨て、会社の財産を食い物にしておきながら、一片の罪悪感もない。
しかし、彼らがそうやって思い上がっている時間は、もう終わりだ。
午後1時ちょうど、会議室の重厚な扉が、重い音を立ててゆっくりと開いた。
「ほら、来たぞ、明美。ちゃんと挨拶しろよ」
夫は慌てて足を下ろし、ネクタイを締め直して立ち上がった。そして満面の作り笑顔を浮かべて、入り口を見つめた。
まず部屋に入ってきたのは、グレーのスーツを着た、渡辺弁護士だった。
「グローバルキャピタルの代理人弁護士、渡辺と申します」
渡辺弁護士が名乗ると、夫はもみ手をするように、ペコペコと頭を下げた。
「お待ちしておりました! 私が佐藤浩司です。本日はわざわざお運びいただき……」
夫が言葉を続けようとした、その時だった。渡辺弁護士の後ろから、真っ白なスーツを着た1人の女性が、静かに部屋に入ってきた。
私だ。義父の形見の万年筆を胸に差し、30年間の思いを背負った、私自身の姿だった。
私と目があった瞬間、夫の顔に張り付いていた作り笑いが、ピキッと凍りついた。夫の目は極限まで見開かれ、口が半開きになっている。
「ゆ、弓……? お前、なんでここにいるんだ?」
数秒の沈黙の後、夫の顔が一瞬で真っ赤になり、怒声が会議室に響き渡った。明美も、椅子から弾かれたように立ち上がって、私を睨みつけた。
「ちょっと、どうやってここに入ったのよ! ここは、あなたみたいな無一文の女が来る場所じゃないのよ!」
2人は、私が金に困って、夫の商談にすがりつきに来たのだと思ったのだろう。夫は大きな足音を立てて私に近づき、掴みかからんばかりの勢いで怒鳴った。
「お前、いい加減にしろ! 俺の商談を邪魔する気なら、今すぐ警察を呼んでつまみ出すぞ! とっとと出ていけ!」
夫の唾液が飛んでくるほどの距離。しかし、私は一歩も下がらなかった。怒鳴り散らす夫の顔を、ただ氷のように冷たい目で見つめ返した。手が震えることも、泣き出すこともない。
私の代わりに、渡辺弁護士がスッと夫の前に立ち塞がった。
「佐藤社長、言葉に気をつけてください」
渡辺弁護士の低く、血が凍るような冷たい声に、夫はピクリと動きを止めた。
「な、なんだよ、あんた。この女は俺の元妻だぞ? ストーカーみたいに俺を追いかけてきたんだ。早くつまみ出してくれ!」
夫が必死に弁護士に訴える。しかし、渡辺弁護士は表情を1つも変えない。そして、部屋の空気を完全に凍らせる、決定的な一言を放った。
「ご紹介いたします。こちらが、我がグローバルキャピタルの出資者であり、実質的な代表である、佐藤弓社長です」
その瞬間、会議室の時が完全に止まった。
「ふ、は?」
夫の口から、空気の抜けた風船のような、間の抜けた声が漏れた。明美も、信じられないものを見るような目で、私と弁護士を交互に見ている。
私は、呆然と立ち尽くす2人の横を、静かに通り抜けた。そして、会議室の一番奥にある、一番大きな上座の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。30年間、夫の後ろを歩き続けてきた私が、初めて夫を見下ろす席に座ったのだ。
「な、何の冗談だ! 弓が代表だと?!」
夫は、ガタガタと震え始める足を引きずりながら、私の前の席に戻った。
「冗談で、このような席を設けるはずがありません。昨日、あなたに返金の通達を出したのも、口座を凍結させたのも、全て弓社長のご指示です」
渡辺弁護士の言葉に、夫の顔色からサッと血の気が引いていくのが分かった。つい先ほどまで赤黒く染まっていた顔が、今度は死人のように青白くなっている。
「う、嘘だ……そんなことがあるはずがない。あいつは、無一文で家を追い出された専業主婦だぞ? 3億円なんて大金、持っているわけがないだろう!」
夫は激しく首を振り、現実を必死に否定しようと叫んだ。明美も、ヒステリックな声で叫ぶ。
「そうよ! この女は、ただの貧乏人よ! 私たちを騙そうとしているのよ、浩司さん! 騙されちゃだめ!」
私は黙ったまま、手元のバッグを開けた。そして、1枚の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせて、夫の目の前に置いた。
「これを見ても、嘘だと言えますか?」
それは、銀行が発行した、私の名前がはっきりと記載された、宝くじの高額当選証明書のコピーだった。夫の視線が、その書類の「7億円」という数字に、釘付けになる。
「な、7億……? 嘘だろ? なんだ、これは?」
夫の喉から「ヒッ」という、奇妙な音が漏れた。椅子に座ることもできず、テーブルに両手をついて、その書類を凝視している。
私はさらに、胸のポケットから義父の古い万年筆を取り出した。そして、静かにテーブルの上に置いた。カツンという、乾いた音が静まり返った部屋に響いた。夫は、その万年筆を見た瞬間、ハッと息を飲んだ。
「そ、それは……親父の?」
「ええ。義父さんが亡くなる夜、私に託してくれたものです」
私は、夫の目をまっすぐに見抜いた。
「『あなたが会社を壊そうとしたら、社員たちを守ってやってくれ』。それが、義父さんの最後の言葉でした」
夫の顔が、恐怖に歪んでいくのが見えた。私がただ偶然お金を手にしたのではなく、最初から会社を守るために、計画的に動いていたことに気づいたのだ。自分がサインした3億円の契約書。そこにあった「不正発覚時の経営権没収」という条項。全てが、私が仕掛けた完璧な罠だったのだと、夫の頭の中でようやく繋がったのだろう。
夫の額から、大粒の汗がボタボタとテーブルに落ちた。
「さて、佐藤社長。私が出資した3億円と、会社の資金の使い道について、ゆっくりと説明していただきましょうか」
私の、30年間で一番冷たく静かな声に、夫はビクッと肩を震わせた。その言葉を聞いた瞬間、夫の手がテーブルの縁に当たり、置いてあったコーヒーカップが床に落ちて、粉々に砕け散った。ガシャンという、鋭い音が静まり返った会議室に響いた。
床に落ちたコーヒーカップの破片が、無惨に散らばっている。しかし、夫はそれに気づく様子すらない。ただ、テーブルの上の当選証明書と、義父の万年筆を凝視している。
「3億円の使い道について、説明していただけますか?」
私の静かな声に、夫は「そ、それは俺が使ったんじゃない!」と、突然隣に立っている明美を指差した。
「こいつだ! こいつが、自分の兄貴の不動産会社に投資すると言って、勝手に振り込んだんだ! 俺は騙されたんだよ!」
つい先ほどまで「明美はお前より賢くて、俺を愛してくれている」と自慢していた口が、あっさりと愛人を売り飛ばした。明美は顔を真っ赤にして、夫を睨みつけた。
「ちょっと、浩司さん、何言ってるのよ! あなたが社長としてサインしたんでしょう? 私はただ、お兄ちゃんを紹介しただけよ!」
「ふざけるな! お前がその気にさせたんだろうが!」
みっともない言い争いが始まった。私はそれを、ただ穏やかに見つめていた。
「お兄ちゃん、ですか?」
私が静かに口を挟むと、2人の言い争いがピタリと止まった。
「明美さん、あなたは本当に、あの不動産会社の社長が、お兄さんだと主張するのですね?」
「あ、当たり前じゃない! 私の血の繋がった兄よ!」
明美は声を上ずらせて答えた。しかし、その目には明らかな焦りと怯えが浮かんでいた。私は渡辺弁護士に、軽く目配せをした。
「それでは、こちらからも詳しい説明をさせていただきましょう」
渡辺弁護士がそう言うと、会議室の重厚な扉が再び開いた。そこに入ってきたのは、見慣れたスーツ姿の男性だった。
「失礼いたします」
深く頭を下げたその人物を見て、夫はさらに顔を青ざめさせた。
「い、伊藤さん?! なぜ、メインバンクのあなたがここに!」
そこに入ってきたのは、義父の代から会社を担当してくれている、銀行の伊藤さんだった。伊藤さんは夫を一瞥しただけで、すぐに私の方を向き、もう一度丁重にお辞儀をした。この態度で、夫は完全に自分が見捨てられたことを悟ったようだ。
「佐藤社長、本行は、あなたの会社の口座から引き出された3億円の行方を、追跡しました」
伊藤さんの声は、普段の温厚な彼からは想像もつかないほど、冷たく厳しいものだった。
「資金は、株式会社中村不動産の口座に送金されていました。しかし、その会社には実態がありません。典型的なペーパーカンパニーです」
「だ、だから、それは明美の兄貴の会社で……」
夫が言い訳をしようとしたが、伊藤さんはそれを遮った。
「中村不動産の代表である中村孝志は、明美さんの兄ではありません」
伊藤さんはファイルから1枚の書類を取り出し、夫の前に突きつけた。
「これは、法務局の調査報告書と、公的な戸籍の写しです。中村明美と中村孝志は、3年前に婚姻届を提出している、法的な夫婦です」
その言葉が会議室に落ちた瞬間、夫の動きが完全に止まった。
「ふ、夫婦……?」
夫は、理解できない言葉を聞いたように、首をかしげた。そして、ゆっくりと隣にいる明美の方を振り向いた。
「お前……結婚してるのか? あの男と?」
明美は顔面を蒼白にし、後ずさった。
「ち、違うの! それはその、戸籍上のことで、本当は……」
明美の言い訳は、もはや誰の耳にも届いていなかった。伊藤さんは、さらに残酷な真実を突きつける。
「彼らは、経営の苦しい会社の社長に愛人として近づき、会社の資金を横領させる、プロの詐欺師です。過去にも2件、同じ手口で会社を計画倒産させています」
夫の顔から、全ての表情が抜け落ちた。自分が愛し、私を追い出してまで手に入れたかった、若くて美しい女。それが、自分から金を巻き上げるために近づいてきた、他人の妻だったのだ。
「お前……俺を騙していたのか」
夫の声は、もはや怒鳴り声ではなく、かれた絶望の音だった。明美は、もう言い逃れができないと悟ったのだろう。突然、バッグをひったくるように手に取り、出口に向かって走り出した。
「どいて!」
しかし、扉の前に立っていた渡辺弁護士が、その行手を完全に塞いだ。
「どこへ行くつもりですか、明美さん? いや、中村明美容疑者と言った方が、正しいでしょうか?」
渡辺弁護士の言葉に、明美の足が止まった。
「な、何言ってるのよ! 私を捕まえる権利なんて、ないわよ!」
「ええ、私にはありません。しかし、警察にはありますよ」
渡辺弁護士は、冷たく告げた。
「先ほど、あなたたちが海外の口座に3億円を移そうとした動きは、全て銀行側で監視していました」
伊藤さんが、渡辺弁護士の言葉を引き継いだ。
「現在、中村不動産の口座は、マネーロンダリング及び詐欺の疑いで、完全に凍結されています。1円たりとも、引き出すことはできません」
その言葉を聞いた瞬間、明美の膝から力が抜けた。彼女はその場にへたり込み、両手で顔を覆った。明美の夫である孝志も、今頃は警察の取り調べを受けているはずだ。彼らの逃げ道は、すでに全て塞がれていた。
私は、その無惨な光景を、静かに見つめていた。これが、30年間誠実に生きてきた義父の会社を、汚そうとした者たちの末路だ。
夫は、床に座り込む明美を見下ろしながら、両手で自分の頭を抱え込んだ。
「ああぁ……」
獣のようなくぐもった唸り声が、夫の口から漏れた。会社のお金は0。ファンドからの3億円も、詐欺師に奪われ凍結された。そして、ファンドの正体は、自分が無一文で追い出した元妻。夫に残されたのは、出資契約書に書かれた「不正発覚時の経営権没収」という、厳格な現実だけだ。
「佐藤社長」
私は静まり返った部屋の中で、穏やかに夫の名前を呼んだ。夫はビクッと肩を震わせて、私を見た。その目は、もはや完全に光を失っていた。
「3億円の返金ができない場合、契約通り、会社の株式と経営権を、私に譲渡していただきます」
私がそう告げると、夫の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。しかし、私には何の感情も湧かなかった。
「義父さん。これで、悪者たちは消えます」
私は胸の万年筆に手をやった。しかし、夫はまだ、最後の足掻きをしようとしていた。狡猾な人間が、究極の状況に立たされた時、最も卑劣な行動に出る。それは、私が絶対に許すことのできない、最低の振る舞いだった。
ズルッと、夫の体が椅子から滑り落ちる音がした。そして、そのまま高級な絨毯の上に両膝をつき、深く頭をすりつけた。
「弓、頼む! 俺が悪かった! どうか助けてくれ!」
それは、見事な土下座だった。額を床に擦りつけ、肩を震わせて泣き叫んでいる。つい先ほどまで、「お前には一生縁がない場所だ」と私を見下していた男の姿は、そこにはなかった。自分が全てを失うと分かった瞬間、プライドも何もなく、ただ地面に縋り付いたのだ。
私はその姿を見下ろしながら、氷のように冷たい視線を向けていた。
「弓、俺たち30年の夫婦じゃないか! お前だって、この会社を愛しているんだろう? お前には7億円があるんだ。その金で、ファンドに3億円を返してくれれば、全て丸く収まるんだ!」
夫は顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私にすがりつこうとした。私は無言のまま、一歩後ろに下がった。夫の手は空を切り、みっともなく床に倒れ込む。
「俺は騙されただけなんだ! この女が、明美が悪いんだよ! 俺は会社を守りたかっただけなんだ!」
自分の罪を全て愛人に押し付けようとする、その言葉に、私は静かな怒りを覚えた。しかし、夫が次に放った言葉は、私の心の奥底にあった、絶対に触れてはいけない地雷を踏み抜いた。
「それに! 親父だって、お前に言ったはずだ! 『俺を支えてやってくれ』って! 嫁のお前は、親父の遺言を守る義務があるだろう!」
その言葉が耳に入った瞬間、私の手は無意識のうちに、胸のポケットにある万年筆を強く握りしめていた。30年間、私がどれほどの思いで義父の言葉を守り、あなたに尽くしてきたか。それを、自分の保身のためだけに利用しようとするなんて。
私は静かに息を吸い込み、低く冷たい声で言った。
「あなたは、二度と義父さんの名前を口にしないでください」
私の声には、怒鳴り声よりも深い怒りが込められていた。夫はビクッと体を震わせ、私の顔を見上げた。
「義父さんは、あなたを支えろとは言いませんでした。『あなたが会社を壊そうとしたら、社員たちを守ってやってくれ』と言ったのです」
私はバッグから、茶色い封筒を取り出した。それは、高橋部長が密かに持ち出してくれた、1枚の書類のコピー。私はそれを、土下座をしたままの夫の目の前に、投げ捨てた。
「だ、なんだこれは?」
「私の実家の土地を担保に、あなたが町金からお金を借りようとした書類です。私の古い銀行印が、勝手に押されていますね」
夫の顔が、再びサッと青ざめた。
「私との30年を『価値がない』と言い捨て、私の両親が残した大切な家まで奪おうとした。それが、あなたの言う『夫婦』ですか?」
夫は言葉を失い、口をパクパクとさせている。
「これは立派な、有印私文書偽造罪です。もし私がこれを警察に持ち込めば、あなたは今すぐ逮捕されます」
横に立っていた渡辺弁護士が、静かに口を開いた。
「佐藤社長。あなたには、もう2つの道しか残されていません。このまま横領と文書偽造で警察に逮捕され、会社も倒産させるか。それとも……」
渡辺弁護士は鞄から分厚い契約書の束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「大人しく全ての株式と経営権を弓社長に譲渡し、この会社から出ていくか。どちらかを、選んでください」
それは、完全な幸福な猶予だ。夫は震える手で、テーブルの上の契約書を見つめた。
「嫌だ……俺が会社から出ていく? いやだ! ここは俺の会社だ! 俺が社長なんだ!」
夫は子供のように首を振り、現実を拒絶しようとした。その時、会議室の扉がノックされ、1人の男性が入ってきた。経理部長の、高橋さんだった。
「高橋! お前、ちょうどいいところに来た! この女と弁護士が、俺を脅しているんだ!」
夫は高橋部長の姿を見るなり、叫んだ。しかし、高橋部長は夫の言葉を完全に無視して、私の前に進み出た。そして、深くお辞儀をした後、自分の鞄から白い封筒の束を取り出した。
「弓社長。急行工場の職人たち、そして本社の全社員からの、署名です。もし今の社長がこのまま経営を続けるのであれば、全員が明日付けで退職届を提出する、という同意書です」
高橋部長は、その分厚い束をテーブルの上に置いた。夫は信じられないものを見るように、その封筒の束を見つめた。
「な、なんだと……お前ら、俺を裏切るのか!」
「裏切ったのは、あなたの方です」
高橋部長は、初めて夫に向かって強い口調で言った。
「あなたは社員を見捨てました。先代が残した大切な工場を、売り飛ばそうとしました。もう、あなたについて行く社員は、この会社には1人もいません」
その言葉は、夫の心に最後の一撃を与えた。誰も自分の味方ではない。愛人には騙され、社員には見限られ、元妻には完全に追い詰められた。自分がどれほど孤独で、無価値な人間になってしまったのかを、ようやく理解したのだろう。
夫は力なく立ち上がり、フラフラとテーブルに近づいた。そして、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「分かった……サインするよ。これで、俺の借金はなくなるんだな?」
夫はうつむいたままそうつぶやき、ペンを手に取った。私が持っている義父の万年筆ではない。渡辺弁護士が差し出した、冷たいプラスチックのボールペンだ。
夫は震える手で、株式譲渡契約書と、社長の辞任届に、自分の名前を書いた。そして、力なく拇印を押した。
その瞬間、30年間続いた、佐藤浩司の社長としての時代が完全に終わった。同時に、義父の愛した会社が、ついに私の手に戻ってきたのだ。私はその書類を静かに手に取り、高橋部長と目を合わせた。高橋部長の目には、淡い涙が光っていた。
「これで俺は……自由だ。会社は取られたが、3億円の返済義務もなくなった。あの女みたいに、警察に捕まることもない」
夫はへたり込んだまま、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。全てを失ったけれど、借金だけは免れた。そう思って、少しだけ安心した顔を見せた。
しかし、そんな都合の良い結末を、私が許すはずがない。
「何か、勘違いをしていませんか?」
私は書類をバッグにしまいながら、穏やかに言った。
「え?」
夫が、間の抜けた顔で私を見上げた。私は隣にいる銀行の伊藤さんに、視線を向けた。伊藤さんは冷たい声で、夫にとっての本当の地獄を宣告した。
「佐藤浩司さん。あなたが会社の口座から横領した資金は、元々弊行が会社に融資していたお金です。そして、その融資には、あなたが個人保証を入れています」
「こ、個人保証?」
「はい。会社が返済できない場合、連帯保証人であるあなたが、個人的に全額を返済しなければなりません。その額は、2億円です」
夫の顔から、一瞬にして全ての表情が消え去った。社長の座を追われ、会社という後ろ盾を失った彼に、2億円もの借金がのしかかったのだ。
無一文になったのは、私ではなかった。
「2億円……俺が……個人で……」
夫の口から漏れた声は、かすれてほとんど音になっていなかった。先ほどまで土下座をして命乞いをしていた熱気すら、完全に冷め切っている。夫は椅子に座ったまま、焦点の合わない目で宙を見つめていた。膝の上に置かれた両手が、まるで枯れ葉のように、小刻みに震えている。自分の人生が完全に終わったという事実を、彼の小さな脳が必死に理解しようとしているようだった。
「その通りです。社長個人の連帯保証ですから、会社を辞めて社長の座を降りても、この借金から逃れることは、絶対にできません」
銀行の伊藤さんは、感情を一切交えない、事務的で冷酷な声で告げた。
「まずは、あなたがお住まいの高級マンション。そして、海南で買った別荘。これらは全て、差し押さえの対象となります。それでも2億円には遠く及びませんから、残りは自己破産をするか、一生かけて働きながら返済していただくことになります」
その言葉が、夫の心に最後の一撃を与えた。夫の顔からは血の気が完全に引き、まるで死人のような土色に変わっていた。
「あ、あぁ……」
喉の奥から、言葉にならない音が漏れるだけ。30年間、会社のトップとしてふんぞり返り、専業主婦の私を見下してきた男。「お前のような価値のない女」と罵り、無一文で追い出した男。彼が今、全てを失い、莫大な借金だけを抱え、ただの哀れな初老の男へと転落した瞬間だった。
怒鳴ることも、泣き叫ぶ気力すら、今の彼には残されていなかった。
その時、部屋の隅でへたり込んでいた明美が、急に立ち上がった。彼女は青ざめた顔のまま、音を立てないように、そっと会議室の出口へ向かおうとした。自分だけは何とかこの場から逃げ出そうとしたのだろう。
しかし、その手がドアの取っ手に触れるより早く、重厚な扉が外から静かに開かれた。
「中村明美さんですね」
そこに立っていたのは、地味なスーツを着た2人の男性。警察の捜査員だ。彼らは大声を出すことも、ドラマのように手錠をちらつかせることもなかった。ただ静かに、しかし絶対に逃さないという眼光を持って、明美の前に立ち塞がった。
「詐欺及び横領の容疑で、お話を聞かせていただきます。ご主人の中村孝志容疑者は、先ほど別の場所で身柄を確保しました。同行をお願いします」
その静かな声を聞いた瞬間、明美の手から、夫のお金で買ったばかりの高級ブランドのバッグが滑り落ちた。ドサッという鈍い音が、絨毯に響いた。
「う、嘘……どうして? 完璧な計画だったのに……」
明美の口から、かすれた声が漏れた。彼女は、もはや言い訳をする気力もなく、その場に膝から崩れ落ちた。真っ赤な口紅を引いた唇は青ざめ、ガタガタと震えている。彼女もまた、自分が騙して奪ったお金よりも、ずっと大きな代償を払うことになった事実に気づいたのだ。
捜査員に両脇を抱えられ、明美は1度もこちらを振り返ることなく、引きずられるようにして部屋を出ていった。かつて、私の家で勝ち誇ったように笑っていた、若く美しい愛人の姿は、もはやどこにもなかった。
会議室には、再び重い静寂が戻った。床にこぼれたコーヒーの匂いだけが、空虚な部屋に漂っている。残されたのは、抜け殻のようになった夫と私、そして、3人の味方だけ。
夫は、焦点の合わない目で、明美が連行されていった扉を、ぼんやりと見つめていた。自分が愛し、全てをかけた女が、自分を騙した詐欺師として逮捕された。その現実は、夫のちっぽけな自尊心を、粉々に打ち砕いたのだろう。
やがて、夫は緩慢な動きでゆっくりと首を回し、私の方を見た。その目には、憎しみも悔しさもなかった。ただ、虚無と、底なしの絶望だけが浮かんでいた。
「弓……」
夫の乾いた唇が、かすかに動いた。何を言おうとしたのだろうか。謝罪だろうか。それとも、まだ何か救いがあると信じているのだろうか。しかし、私は夫が言葉を紡ぐ前に、静かに、そしてきっぱりと言い放った。
「浩司さん。あなたの時代は、今日で完全に終わりました」
私の冷たい声が、夫の胸に深く突き刺さるのが分かった。
「私を無一文で追い出した時、あなたは勝ったつもりだったのでしょう。でも、あなたが土下座をしてすがった買収先の社長は、あなたが捨てた元妻の私でした。これが、現実です」
その言葉を聞いて、夫の目からポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、私は一切の同情を感じなかった。
「これからは、自分の犯した罪と向き合い、自分の足で這いつくばって生きてください。義父さんの会社は、私が責任を持って守り抜きます」
私はゆっくりと立ち上がり、テーブルの上の義父の万年筆を胸のポケットにしまった。そして、夫に背を向けた。
「さようなら。二度と、私の前に現れないでください」
私がそう言うと、渡辺弁護士が静かに夫の方に手を向けた。
「佐藤浩司さん。お時間ですよ。このホテルから出たところで、借金返済の過酷な手続きが待っています」
夫は、もはや反論する言葉も持っていなかった。フラフラと幽霊のように立ち上がり、虚ろな足取りで会議室の扉へと向かう。1度だけ立ち止まり、すがるような目で振り返ろうとしたが、私の冷たい横顔を見て、諦めたのだろう。そのまま、深くうなだれて、重い足取りで部屋を出ていった。
パタンと、遠い扉が閉まる音が、1つの時代の終わりを告げていた。
部屋の中には、私と高橋部長、伊藤さん、そして戻ってきた渡辺弁護士だけが残った。私は深く、長い息を吐き出した。30年間の重い荷物が、ようやく肩から下りたような気がした。手先が、少しだけ温かくなっていくのを感じる。
「弓社長。本当に、お疲れ様でした」
高橋部長が、涙声で深く頭を下げた。伊藤さんも、渡辺弁護士も、温かい笑顔で私を見つめている。
「皆さん、本当にありがとうございました。私1人では、到底できないことでした」
私は3人に、心からの感謝を込めて、お辞儀をした。これで、全ての悪役たちは去った。会社を食い物にしようとした者たちは、それぞれの報いを受けることになる。
しかし、私の戦いは、これで終わりではない。義父が愛した会社と、社員たちを守るための本当の仕事は、ここから始まるのだ。
私はバッグから、もう1つの重要な書類を取り出した。それは、明日会社の全社員に向けて発表する、新しい体制の計画書だった。ここには、私がこの数日間で決断した、会社を立て直すための最初の一手が記されている。
「高橋さん。明日、本社の会議室に、全社員を集めてください。急行工場の職人たちも、全員です」
私の言葉に、高橋部長は力強く頷いた。窓の外には、美しい夕日が差し込み始めていた。私は真っ白なスーツの背筋を伸ばし、新たな決意を胸に秘めて、光指す窓辺へと歩み寄った。
そして翌朝、私は会社の新しい社長として、初めて社員たちの前に立つことになる。そこには、私の想像を超える、温かく涙溢れる光景が待っていた。
翌朝、空は雲1つない、澄み切った青空だった。私はホテルの部屋を綺麗に片付け、ルームキーをフロントに返した。数日間の短い滞在だったが、ここが私の反撃の拠点だった。
待たせていたタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
「佐藤製作所まで、お願いします」
30年間、毎日見送るだけで、私が社長として通うことになるとは、夢にも思わなかった場所だ。タクシーの窓から流れる町の景色は、昨日までとは全く違って見えた。胸の奥にあった重い鉛のような塊は、もうない。代わりに、新しい命を吹き込まれたような、静かな活力が全身を満たしていた。
会社に到着し、タクシーを降りると、そこにはすでに高橋部長が立って待っていた。
「弓社長、おはようございます」
高橋部長の、深く丁重なお辞儀に、私は少しだけ照れ臭く思いながらも、しっかりと頷き返した。
「おはようございます、高橋さん。さあ、行きましょうか」
私たちが正面玄関から社内に入ると、空気がピンと張り詰めた。無一文で追い出されたはずの私が、真っ白なスーツを着て、経理部長を従えて歩いているのだ。社員たちは驚きの目で足を止め、慌てて道を開けた。私は誰に対しても目をそらすことなく、1人1人に「おはようございます」と声をかけながら歩いた。受付の女性は、ハッと息を飲んだ後、目に涙を浮かべて、深くお辞儀をしてくれた。
本社の大会議室には、すでに全ての社員が集められていた。本社の営業や事務員、そして急行工場からは、作業着姿の職人たちも、全員駆けつけている。100人近い社員の視線が、部屋に入ってきた私に、一斉に注がれた。その目は、大きな不安と、ほんの少しの期待に揺れている。昨日まで社長だった男が突然姿を消し、会社が外資系のファンドに買収されたという噂だけが、広がっていたからだ。
私はゆっくりと歩みを進め、一番前にある演台の前に立った。マイクは使わなかった。1人1人の顔をしっかりと見渡し、静かに口を開いた。
「皆さん、おはようございます。突然のことで、大変驚かれたことでしょう。今日から、この会社の社長を務めることになった、佐藤弓です」
私の声は、静まり返った会議室に、クリアに響いた。社員たちの間に、小さなどよめきが起こった。先代社長の大人しい嫁。夫の言いなりになっていた、影の薄い女。彼らが知っている私は、そんな姿だったはずだ。
「前の社長の経営によって、会社は倒産寸前まで追い詰められました。会社の資金は流用され、皆さんが働く急行工場は、売却されそうになりました。皆さんがどれほど悔しく、不安な日々を過ごしてきたか、私には痛いほど分かります」
職人たちが、辛そうに下を向いた。私は胸のポケットから、義父の古い万年筆を取り出し、両手で包み込むように持った。
「この万年筆は、先代の社長である義父さんが、亡くなる夜に私に託してくれたものです」
その言葉に、社員たちが顔を上げた。
「義父さんは言いました。会社は自分の命であり、社員は家族だと。もし会社が壊されそうになったら、皆を守ってやってくれ、と」
私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、それは悲しみの涙ではない。
「昨日、この会社を買収したファンドの、実質的な代表は私です。私が個人的に得た資金で、会社を完全に買い取りました。急行工場の未払いの材料費を立て替えたのも、私です」
会議室が、大きくどよめいた。無一文で追い出されたはずの妻が、実は会社を丸ごと救った張本人だったのだから。
「前の社長が抱えた借金や不正な取引は、全て法的に切り離しました。会社は今、完全に無借金で、綺麗な状態です」
私は深く息を吸い込み、一番伝えたかった言葉を口にした。
「私は、皆さんが働く場所、そしてこの会社の誇りを、絶対に奪わせません。皆さんの生活は、私が必ず守り抜きます。どうか、私と一緒にもう一度、この会社を立て直してくれませんか?」
私は深く、頭を下げた。
会議室は、水を打ったように静まり返っていた。やがて、一番前に座っていた急行工場のベテラン職人である鈴木さんが、ゆっくりと立ち上がった。彼の作業着は長年の油で汚れ、その手はひび割れて、ゴツゴツとしている。義父が誰よりも信頼していた、職人の手だ。
「弓奥様……いや、弓社長」
鈴木さんの声は、震えていた。
「俺たちは、工場を売られると聞いて、もう人生が終わったと思っていました。でも、材料が届いた時、皆で泣いて喜んだんです。あれは、社長がやってくれたことだったんですね」
鈴木さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝った。
「先代が亡くなってから、ずっと苦しかった。誰も、俺たちの汗を見てくれなかった。でも、弓社長は、ずっと俺たちのことを見ていてくれたんだ!」
鈴木さんが深く頭を下げると、後ろにいた職人たちも、次々と立ち上がり、頭を下げた。スーツを着た本社の社員たちも、それに続いた。
「弓社長、ありがとうございます!」
「これからも、俺たちをよろしくお願いします!」
会議室の中に、温かい拍手と、嗚咽が広がっていった。その拍手に包まれながら、私は両手で顔を覆い、初めて声を上げて泣いた。30年間、冷たい家の中で1人耐え続けてきた私の心は、この瞬間、本当の意味で救われたのだ。
それから半年が過ぎた。
会社は、以前の活気を完全に取り戻していた。私は社長として毎日忙しく働いているが、高橋部長、渡辺弁護士、銀行の伊藤さんたちに支えられ、充実した日々を送っている。急行工場には新しい機械を導入し、若い職人も数名入社した。義父が愛した、金属の匂いと機械の音は、今も絶えることなく響き続けている。
元夫については、風の噂で少しだけ耳にした。2億円という莫大な個人保証の借金を返すため、自己破産も許されず、過酷な肉体労働に従事しているそうだ。家も別荘も高級時計も、全て没収され、今は窓もないような狭いアパートに住んでいるとのことだった。かつての傲慢な態度は見る影もなく、年齢以上に老け込んだ姿で、毎日泥だらけになって働いていると聞いた。
明美と、その夫である孝志は、詐欺と横領の罪で実刑判決を受け、冷たい塀の中で罪を償っている。
しかし、今の私にとって、彼らがどうなったかは、もう関係のないことだった。彼らはただ、自分の欲に溺れ、自ら選んだ破滅の道を歩いているだけ。私の心には、もう彼らを憎む気持ちすら、残っていなかった。
休日の午後、私は1人で、市外にある霊園を訪れていた。よく晴れた空の下、義父の墓の前に立ち、持ってきた新しい花を供える。墓石を丁寧に拭き上げ、線香に火を点け、静かに手を合わせた。
「義父さん。会社は、もう大丈夫です」
私は心の中で、義父に語りかけた。
「みんな、とても良い笑顔で働いています。鈴木さんも、まだまだ現役で頑張ってくれていますよ。私も、毎日がとても楽しいです」
吹き抜ける風が、私を優しく包み込んでくれたような気がした。義父が「よくやったね、弓さん」と笑ってくれているような、温かい風だった。
お墓参りを終えた後、私は自分の両親が残してくれた、実家へと車を走らせた。夫に奪われそうになった、大切な思い出の家。今は、休日の度にここへ通い、庭の梅の木を手入れしている。
縁側に座り、入れたての温かいお茶を一口飲んだ。30年間の我慢と、無一文での追放。全てを失ったと思っていたあの日は、今の本当の幸せを手に入れるための、大切な通過点だったのだ。
胸のポケットにある万年筆にそっと触れ、私は大きく深呼吸をした。庭の梅の木には、小さな蕾がつき始めていた。これからの私の人生は、もう誰にも奪われることのない、私だけのものだ。
明日もまた、大好きな社員たちの待つ会社へ行こう。そう思うと、私の心は、どこまでも澄み切った青空のように、晴れ渡っていくのだった。


