見合い相手の俺は「ニートです」と嘘をついた。本当は社員900人を抱える社長なのに、肩書きを外した素の自分を見てほしかったからだ。対する彼女は社長令嬢で、開口一番「住む世界が違う」と切り捨てた。当然の結果だと思った。ところが、仲居さんがお茶をこぼして俺が咄嗟に袖をまくり上げた瞬間、彼女の顔色が変わった。震える声で、彼女は言った。「その傷…。あなた、あの時の人ですよね?」…

見合い相手の俺は「ニートです」と嘘をついた。本当は社員900人を抱える社長なのに、肩書きを外した素の自分を見てほしかったからだ。対する彼女は社長令嬢で、開口一番「住む世界が違う」と切り捨てた。当然の結果だと思った。ところが、仲居さんがお茶をこぼして俺が咄嗟に袖をまくり上げた瞬間、彼女の顔色が変わった。震える声で、彼女は言った。「その傷…。あなた、あの時の人ですよね?」...

畳に両手をついて、上品なワンピース姿の女性が涙をこぼしながら頭を下げた。初めは氷のような目で俺を見ていた人だ。その人が今、震える声で言った。

「今すぐ私と結婚してください。あなたじゃなきゃダメなんです。」

隣では品のいい女性が口を押さえ、仲介役のばあちゃんは湯呑みを持ったまま固まっていた。俺の右の袖口はこぼれたお茶で濡れ、まくれた端から古い火傷の跡が覗いていた。人前ではずっと隠してきた跡だ。

俺はこの日、貧乏なふりをしてお見合いに来ていた。職業を聞かれて「ニートです」と答えた男に、社長令嬢が涙ながらに結婚を申し込む。誰が見てもおかしな光景だった。だが、彼女には確かに理由があった。そして俺にも、誰にも言えない訳があった。

俺の名前は篠田公平、33歳。職業は「無職」ということになっている。本当の俺は、社員900人余りを抱える3つの会社を持つ経営者だ。だが、世間には一切顔を出していない。名刺も持たず、取材も断り、現場で作業員として汗を流して暮らしてきた。なぜそこまで肩書きを隠すのか。それは15年前のあの冬の夜に遡る。

俺は下町の長屋で生まれ育った。9歳の時に両親を事故で失い、それからは父方の祖母に育てられた。清という名のその人は、内職の袋をしながら俺を食わせてくれた。口数の少ない人だったが、口癖が一つだけあった。俺の手をシだらけの手で包みながら、こう言うのだ。

「公平の手はあったかいね。この手は人のために使うんだよ。」

子供の俺には意味がよくわからなかった。ただ、ばあちゃんの手の方がずっとあったかいと思っていた。貧乏だったが、不幸だとは思わなかった。ばあちゃんの作る煮物は美味かったし、長屋の路地には夕方になると味噌汁の匂いが流れてきた。隣に住む田島豊さんがよくおかずを分けてくれた。とよさんはばあちゃんの一番の親友で、二人はよく縁側で茶を飲みながら笑っていた。

その暮らしが終わったのは、俺が18歳になった年の春だった。ばあちゃんが台所で倒れた。脳の血管が切れていた。3日目の朝、ばあちゃんは目を覚まさないまま亡くなった。俺は天涯孤独になった。長屋は取り壊しが決まっていて、俺は家賃18000円の風呂なしアパートに移り、解体現場の日雇いで食いつぐ毎日だった。生きている意味が正直よくわからなかった。死にたいとまでは思わない。ただ、俺がいてもいなくても世界は何も変わらないだろうな、ということばかり考えていた。

そんな冬の夜だった。あの火事が起きたのは。現場からの帰り道、夜の10時を過ぎていた。俺のアパートの近くには「水荘」という古い木造の安宿があった。日雇い労働者や訳ありの家族が長く逗留する、昭和のまま時間が止まったような2階建ての宿だ。角を曲がった瞬間、焦げ臭さが鼻をついた。2階の窓から黒い煙が吹き出し、窓の奥がオレンジ色に光っている。宿の前で女将さんが泣き崩れていた。

「2階の奥の部屋にまだ女の子がいるの。お母さんが夜の仕事に出てて、あの子1人なの。」

消防車のサイレンはまだ遠かった。気がついたら俺は駆け出していた。考えて動いたんじゃない。体が先に動いたのだ。煙で白くなった廊下を、腰を低くして進む。廊下の奥から火の音がした。生き物の唸り声みたいな音だった。

「どこだ?返事してくれ」

小さな声がした。咳込むような、泣いているような声だった。突き当たりの部屋の襖を開けると、部屋の隅の押入れの前に女の子がうずくまっていた。小学生くらいの痩せた女の子だった。煙を吸わないように必死で顔を布団に押し付けていた。俺はその子を布団ごと抱え上げた。信じられないくらい軽くて、腕の中で小さく震えていた。

廊下に出ると火はもう近くまで来ていた。俺は女の子を左腕に抱え直し、右腕で顔を庇いながら火の脇を強引に抜けた。右の手首に焼き鏝を押し付けられたような激痛が走った。それでも足は止めなかった。階段を転がるように駆け降り、玄関を抜けて夜の冷たい空気の中に飛び出した。

俺は宿から離れた電柱の下に女の子を下ろした。女の子は煤だらけの顔で目を見開き、ガタガタ震えていた。声も出せないみたいだった。小さな手が俺の作業服の袖を握って離さなかった。俺はその手を両手で包んだ。ばあちゃんがいつも俺にしてくれたみたいに。

「大丈夫。怖かったな。でももう1人じゃない。」

女の子の目から涙が溢れた。張り詰めていたものが切れたんだろう。声を上げて泣き出したその子の背中を、俺はずっとさすっていた。消防車と救急車が到着し、辺りは一気に騒がしくなった。女の子が毛布に包まれて救急隊員に抱き上げられる時、その子はよろめきながら俺の方に小さな手を伸ばした。

「お兄ちゃんの手、あったかい。お日様みたいだね。」

それがあの子の声を聞いた最後だった。俺は騒ぎに紛れてその場を離れた。名乗らなかったのには大した理由なんてない。手首の火傷は病院に行く金が惜しかったし、人に囲まれてお礼を言われるようなことをした覚えもなかった。当たり前のことをしただけだ。薬局で買った軟膏を塗ってタオルを巻いて、次の日も現場に出た。火傷はなかなか治らず、結局右手の外側に引き攣れたような跡が残った。

だが、不思議なことが起きた。あの夜から俺は変わったのだ。布団の中で、あの子の声が何度も蘇った。「お日様みたい」と言われた自分の手を天井にかざして眺めた。煤で荒れた、傷だらけの手だった。それでもあの夜、この手は確かに、人一人の命をこの世につなぎ止めた。ばあちゃんの言葉の意味が、初めて分かった気がした。

「この手は人のために使える。そのために生きればいい。」

そう思ったら、朝起きるのが苦ではなくなった。翌年、俺は日雇いをやめてビルの清掃会社に入った。誰よりも早く現場に入り、誰もやりたがらない仕事を引き受けた。数年後、独立して一人親方として清掃の仕事を受け始めた。バケツとモップと中古の一台からのスタートだった。汚れた床は磨けば必ず光る。俺はそれが好きだった。

24歳で法人にした。名前を決める時、俺は迷わなかった。株式会社日向。由来は誰にも話していない。あの夜のあの子の一言から取った、「お日様みたいだ」と告げてくれたあの声から。会社は伸びた。清掃から始めてビルの設備管理に広げ、27歳の時には防災設備の会社を作った。古い建物の配線点検と防災改修を専門にする会社だ。これは金勘定じゃなく始めた。水荘の火事の原因が古い配線の老朽化だったと後で知ったからだ。30歳で住宅リフォームの会社も加わり、気がつけば社員923人、年商は180億を超えた。

それでも俺は表に出なかった。なぜそこまで肩書きを隠すのか。29歳の時、結婚を考えた人がいた。明るくてよく笑う人だと思っていた。だが、ある日、式場の下見の帰りに彼女が友人と電話しているのを聞いてしまった。

「見た目は本当にニートみたいな人なんだけどね。でも会社をいくつも持ってる社長さんだから、私、勝ち組ってやつ。」

笑い声が廊下に響いていた。俺は式場をキャンセルして、その縁を終わらせた。金と肩書きは人の目を曇らせる。俺を見ているようで、誰も俺を見ていない。それなら最初から肩書きなんてない方がいい。以来、縁談の類いから逃げ続けて33歳になった。

そんな俺にあの縁談話を持ってきたのが、田島豊さんだった。幼い頃から俺を知るばあちゃんの親友で、俺にとってはたった一人残った身内みたいな人だ。とよさんは縁側でお茶を飲みながら、突然こう切り出した。

「公平、あんたお見合いしてみる気はないかい?」

相手は「木崎ホームズ」の社長令嬢、木崎綾乃さん、27歳。県内では名の通った住宅会社だ。俺は首を横に振った。

「社長令嬢なんて俺が一番苦手な人種だよ。どうせ向こうは俺の会社の釣りを見てくるんだろう。」

リサのことはとよさんも知っている。とよさんはしばらく黙って茶をすすると、ふっと笑った。

「せやから条件をつけたるわ。肩書きは全部伏せていく。釣り書には、名前と年と、あとは職業とだけな。あんたは丸腰で行くんや。」

「丸腰の見合いなんて聞いたことがない。」

「公平。あんたはな、会社を脱いだら自分には何も残っとらんと思い込んどる。せやから肩書きを隠して人から逃げ続けとるんや。ほんまにそうか。いっぺん確かめておいで。肩書き抜きのあんたを見てくれる人か、金の匂いに寄ってくる人か。」

痛いところを突かれたと思った。とよさんの言う通りだった。俺は肩書きを憎んでいるふりをして、本当は肩書きの影に隠れていたのだ。それでも断ろうとした俺に、とよさんは更に追い打ちをかけた。

「それにな、これはうちの頼みでもあるんや。綾乃さんのお母さんはな、ご商売の頃からの古いお客さんでな。娘に気の進まん縁談が持ち上がっとる。その前に、肩書きやのうて人柄で会える相手と引き合わせてやりたいちゅうて、うちに頭を下げに来たんや。気の進まん縁談ちゅうのは、取引先の御曹司さんや。同業者の都合の縁談らしいわ。窮屈な思いしとる娘さんと、あなたがずっと一人でおる男や。会うだけ会うてみい。きよちゃんも、公平に家族を持たせてやりたいって、よう言うとったで。」

ばあちゃんの名前を出されたら、俺はもう弱い。気がついたら頷いていた。

見合いの日は10月の日曜日だった。場所は「龍月」という料亭。俺は創業の頃に買った安物のスーツで行った。鏡の中の俺は、どこから見ても金のない男だった。それでいいと思った。駅で待ち合わせたとよさんは、上等な着物姿で俺の風体を眺めて満足げに頷いた。

個室に通されると、先方はもう座っていた。息を飲んだのはこっちの方だった。木崎綾乃さんは写真よりずっと綺麗な人だった。紺色のワンピースを着て背筋を伸ばし、意思の強そうな目をしていた。その隣に母親の早恵さん。柔らかい上品な人だ。

綾乃さんは俺を一目見た瞬間から、明らかに温度が下がっていた。くたびれたスーツの袖口、日に焼けた顔、ゴツゴツした手。彼女の視線が俺の全身を撫でて、お見合いが終わったのが分かった。形通りの挨拶と天気の話が少し続いた後、綾乃さんは事務的に聞いてきた。

「篠田さんは、お仕事は何してるの?」

敬語が半分外れていた。釣り書には「自営業」としか書いていない。どうせ丸腰で行くなら、一番底まで丸腰になってやろうと思った。俺は少し間を置いて答えた。

「ニートです。」

部屋の空気が凍った。綾乃さんの眉がぴくりと動いた。

「ニート?お仕事をされていないの?」

「はい。今は何も。」

振られたな、と俺は思った。これで先方から断りが来て、この話は綺麗に流れる。だが、綾乃さんの反応は俺の予想を少しだけ超えていた。綾乃さんは扇子を閉じて、まっすぐ俺を見た。

「お見合いというのは、人生を懸けてくる場だと私は思ってるの。お見合いに来る前に、お仕事くらい決めておくものじゃないかしら。」

「おっしゃる通りです。」

「うちの父が聞いたらきっと驚くわ。木崎の娘がニートの方とお見合いだなんて。」

「でしょうね。」

「悪いけれど、私とあなたでは住む世界が違うと思う。」

早恵さんが真っ青になって娘を窘めた。だが俺は不思議と腹が立たなかった。彼女の言っていることは何一つ間違っていないからだ。それに、これだけはっきり物を言う人は、少なくとも影で笑う人ではない。俺は頭を下げた。

「いえ、お母さん。綾乃さんのおっしゃる通りです。俺みたいなのが出てくる席じゃなかった。気を悪くされたなら、謝ります。」

綾乃さんは一瞬、虚を突かれたような顔をした。言い返されると思っていたんだろう。気まずい沈黙を、とよさんと早恵さんの世間話が埋めた。

その時だった。襖が開いて、若い仲居さんがお茶の乗った盆を運んできた。まだ10代にも見える新人らしい子で、緊張しているのが遠目にも分かった。その子が俺の脇に膝をついた瞬間、盆が傾いた。茶の入った湯呑みが倒れて、俺の袖と畳にバシャリと茶が広がった。仲居さんは真っ白な顔で畳に手をつき、身を縮めた。奥から年配の女将さんが飛んできて、仲居さんを叱ろうと息を吸ったのが分かった。俺はその前に口を開いた。

「大丈夫です。服にはほとんどかかってませんから。熱いものじゃなくてよかった。誰も怪我してませんから。」

自分のハンカチを出して畳の水を吸い取り、震えている仲居さんの盆を支えてやった。

「焦らなくていいですよ。」

「で、でも、お召し物が…」

「安物なんで、水くらいじゃ痛みません。」

俺が笑って見せると、仲居さんの目に見るみる涙が溜まった。女将さんが何度も腰を折って詫びながら、仲居さんを連れて下がっていった。昔の自分を思い出していた。日雇いの頃、弁当をひっくり返して現場監督にどやされた俺に、年配の職人が一人、黙って自分の弁当を半分くれたことがあった。ああいう時、人に必要なのは説教じゃない。「大丈夫だ」という一言だ。

やがて女将さんが、お詫びにと、頼んでもいない小鉢を一品つけてくれた。

「今時、ああいう風に介抱してくださるお客様は滅多にいらっしゃいませんので。」

「誰でもやりますよ。」

「いいえ。誰でもはやりません。」

新しいお茶が届いて騒動が落ち着いた頃、俺はふと視線を感じた。綾乃さんがじっと俺を見ていた。さっきまでの冷たい目とは何かが違った。まるで信じられないものでも見るような、それでいて何かを探すような目だった。目が合うと、彼女はすっと視線を落とした。

しばらくして、綾乃さんは皮肉の調子を取り戻すように言った。

「ニートなのに、随分落ち着いてるのね。普通、ああいう時ってもっと慌てるものじゃない。」

「何も持ってない時ほど、慌てても仕方ないですから。」

その瞬間だった。綾乃さんが固まった。グラスに伸ばしかけた手が、途中で止まっていた。目を見開き、唇が小さく震え、血の気が引いていくのが分かった。倒れるんじゃないかと思うくらいだった。

「綾乃、どうしたの?顔色が…」

「なんでもない。ごめんなさい。」

綾乃さんは水を一口飲んで、深く息をついた。それでも俺を見る目は元に戻らなかった。氷が溶けた後みたいな、揺れる目だった。俺には訳が分からなかった。何か変なことを言っただろうか。

それから会話の風向きが変わった。綾乃さんがぽつりぽつりと質問をするようになったのだ。それもさっきまでの尋問みたいな調子じゃない。

「篠田さんは、ご家族は?」

「いません。俺が9歳の時に両親を事故で亡くして、育ててくれた祖母も、俺が18の年に亡くなりました。天涯孤独ってやつです。」

綾乃さんの目がまた揺れた。

「18の年…」

「はい。それからは、まあ、その日暮らしで日雇いをやったり、色々です。」

「その日暮らし…」

彼女は俺の言葉を一つずつ、胸の中の何かと付き合わせるように繰り返した。料理が運ばれてきた時、俺は無意識に手を動かしていた。綾乃さんの前の皿を彼女の利き手側に少しずらし、湯気の立つ土瓶を彼女の袖が触れない位置に遠ざけた。現場で若い連中と飯を食う時、いつもやっている癖だ。綾乃さんは俺の手の動きをじっと見ていた。

「あなた、今…」

「あ、すみません。勝手に触って。」

「違うの。そうじゃなくて…」

彼女は何かを言いかけてやめた。代わりに少し咳をした。俺は水差しから新しい水を注いで、彼女の手元に置いた。綾乃さんはそのグラスを両手で包むように持って、長い間黙っていた。やがて、顔を上げずに聞いてきた。

「篠田さん。変なことを聞くけど。昔、どこかで人を助けたことはある?」

心臓が一つだけ跳ねた。脳裏を掠めたのは、冬の夜と、煙と炎の唸りと、腕の中の小さな重さだ。あの夜のことは誰にも話したことがない。俺は笑ってごまかした。

「そんな立派なことはしてませんよ。見ての通りのニートですから。」

綾乃さんは俺の右腕の辺りをじっと見ていた。俺は無意識に袖口を引っ張って直した。長年の癖だ。火傷の跡は引き攣れていて目立つから、人前では出さないことにしている。

その時、場の空気を破るように電子音が鳴った。綾乃さんのバッグの中でスマホが震えていた。彼女は画面を見て眉を潜め、断って廊下に出ていった。障子越しに、押し殺した声が漏れ聞こえた。盗み聞きする気はなかったが、狭い個室だ。切れ切れに耳に入ってしまった。

「…ですから、同じません。その件は、お受けるとは一言も…」
「会社のためと言われようと、私の人生です。」

戻ってきた綾乃さんの顔は硬かった。さっきまでの揺れる目が、また閉じてしまっていた。彼女はしばらく手元を見つめていたが、意を決したように顔を上げて頭を下げた。

「篠田さん。正直に言います。私、今日のお見合い、お断りするつもりで来たんです。今、会社の都合で私に別の縁談が進められています。取引先の御曹司の方と。私はお断りしたい。でも簡単には断れない事情がある。だから今日は…ごめんなさい。誰が相手でも、お断りするつもりだったんです。」

部屋が静まり返った。自分で言いながら、彼女自身が一番傷ついているのが分かった。俺はなんだかおかしくなってしまった。

「そうですか。実は俺も、断られるつもりで来ました。『ニートです』なんて答えたら、普通断られるでしょう?それで丸く収まると思ってたんです。だから、お互い様ですよ。気にしないでください。」

綾乃さんはぽかんと俺を見た。それから、ふっと吹き出した。初めて見る笑顔だった。作り物じゃない、年齢相応の、少し困ったような笑顔だった。釣られて早恵さんも笑って、張り詰めていた部屋の空気がようやく緩んだ。

とよさんがここぞとばかりに口を挟んだ。

「まあまあ、お断り同士なら気も楽やろ。ここの庭は紅葉が始まっとってな。綺麗なんよ。せっかくやから、二人で歩いといで。」

綾乃さんは少し迷ってから立ち上がった。龍月の庭には小さな池があって、鯉が泳いでいた。綾乃さんは池の縁で足を止めて、鯉を眺めていた。

「さっきは、ひどいことをたくさん言いました。『住む世界が違う』とか。ごめんなさい。」

「事実ですから。」

「事実でも、言っていいことと悪いことがあります。私、最低だった。私だって父の会社にいるだけ。木崎の娘だから、仕事をもらえてるだけです。私自身の力で立っているわけじゃない。相手の方も、私を見てるんじゃない。『木崎ホームズの娘』っていう看板を見てるの。この前なんて、顔合わせの席で、うちの会社の取引先との繋がりを延々と聞かれました。私の話は、一つも聞かれなかった。」

彼女は乾いた声で笑った。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。

「私の家ね。昔、一度潰れてるんです。私が12歳の時。父は連帯保証も背負ってて、家も土地も全部持っていかれました。母と私は親戚の家を転々として、最後は誰も頼れなくなって、安い宿を渡り歩きました。母は夜も働きに出てて、私は宿の部屋で一人で母の帰りを待ってた。」

「そうでしたか…」

「だから、さっきあなたが言ったでしょ。『何も持ってない時ほど慌てても仕方ない』って。あの言葉ね。昔、同じことを言ってくれた人がいたんです。私が一番どん底だった時に、命を助けてくれた人。名前も知らない人です。その人が、私にそういう意味のことを言ってくれた。『泣いてもいい。でも慌てなくていい』って。あの言葉がなかったら、今の私はいません。」

彼女の声が少しだけ震えた。俺は、その「15年」という数字が胸のどこかに引っかかるのを感じた。

「会えたら、伝えたいことが山ほどあるんです。でもきっと、その人は覚えてもいないと思う。恩を着せない人。何もなかったみたいな顔をしていなくなっちゃう人。」

その時、彼女が何かを確かめるように俺の顔をじっと見た。何かを言いたそうで言わない、そんな目だった。それから、急に話題を変えた。

「篠田さんは、もし明日、大金が手に入ったら、何に使います?」

「何ですか?急に。」

「いいから、例えばの話。」

俺は少し考えた。

「多分、今日と同じことをしますよ。飯を食って、寝て、朝起きて、手を動かす。金があってもなくても、やることは変わらないです。」

「変わらない…」

「ええ。金で変わるのは周りの方です。自分まで変わったら、おしまいでしょ。」

綾乃さんはふっと笑った。それから真顔になって、小さな声で言った。

「やっぱり、あなた、あの人に似てる。」

そして、席に戻ると、とよさんと早恵さんが揃ってニヤニヤしていた。年寄り二人は茶を飲みながら、障子の隙間から庭を見ていたらしい。悪趣味にもほどがある。それからの席は、見合いというより普通の食事会になった。綾乃さんはよく笑うようになっていた。俺の日雇い時代の失敗談には声を上げて笑った。

デザートが出た頃には、俺はほとんど忘れていた。自分が嘘つきのニートで、彼女が断るつもりで来た令嬢だということを。だから、その後に起きたことに、何の備えもなかった。

食事の締めに、ほうじ茶が運ばれてきた。運んできたのは、さっきの若い仲居さんだった。女将さんが後ろに付いて、やり直しの機会をくれたんだろう。仲居さんは「今度こそ」という顔で、震える手で盆を運んできた。だが、緊張というのは皮肉なものだ。綾乃さんの手元に湯呑みを置こうとした瞬間、仲居さんの指が滑った。湯気の立つ茶が、綾乃さんの方へ流れた。

考えるより先に、体が動いた。俺は身を乗り出して、右腕を綾乃さんの手の前に差し入れた。熱い茶が俺の袖にかかった。じわりと熱が染みたが、幸い、跡になるほどの熱さではなかった。俺は倒れた湯呑みを起こして、息をついた。

「危なかった。大丈夫ですか?」

返事がなかった。綾乃さんは俺の右腕を見ていた。茶で濡れた袖口がまくれ上がっていた。そこに、あの跡があった。手首の外側の、引き攣れた火傷の跡。ずっと長袖の下に隠し続けてきた跡が、露わになっていた。綾乃さんの顔から、見る間に血の気が引いた。

俺はとっさに袖を戻そうとした。だが、それより早く、綾乃さんの手が伸びた。細い指が俺の手首を掴んだ。強い力だった。彼女の手は氷みたいに冷たく、小さく震えていた。彼女は俺の袖口をそっとめくり、その傷を凝視した。それから、震える声で言った。

「右の手首。同じ場所。同じ形…」

「木崎さん?」

「…水荘。15年前の冬。下町の、古い宿の火事。あなた、あの時の人ですよね。」

言葉が出なかった。水荘。忘れるはずもない名前だ。あの夜の少女が、よりによって目の前の人だなんて。俺は何も言えなかった。その沈黙が、答えになってしまった。綾乃さんの目から涙が溢れた。ぼろぼろと、後から後からこぼれて落ちた。彼女は両手で口を抑えて、嗚咽をこらえた。

「やっぱり。やっぱり、あなただ。」

早恵さんが何事かと腰を浮かせた。

「綾乃、どうしたの?あなた?」

「お母さん、この人。この人なの。水荘のあの火事で、私を助けてくれた人。」

早恵さんの顔色が変わった。彼女はゆっくりと俺を見て、それから俺の手首の跡を見た。口元に当てた手が震え始め、その場で泣き崩れた。

とよさんだけが状況が飲み込めずに、おろおろしていた。当たり前だ。俺はとよさんにも、あの夜のことを話したことがない。綾乃さんは涙を拭おうともせずに、話し始めた。

「12歳の冬でした。母は夜、弁当工場で働いてて、私は水荘の2階の部屋で一人で母を待ってました。眠っちゃってたんです。気がついたら、部屋の外が真っ白で。煙で息ができなくて。怖くて動けなくて、押入れの前で布団に顔を押し付けてうずくまってました。ああ、私、死ぬんだって思った。その時、声がしたんです。『どこだ。返事してくれ』って。」

彼女は続けた。

「襖が開いて、誰かが私を布団ごと抱き上げてくれました。すごい熱で、火が天井を這ってて。その人は私を左腕に抱えて、右腕で火を遮りながら、階段を駆けてくれた。外に出た時、その人の右の手首、焼けてたんです。なのに、その人、自分の腕なんて構いもしないで、私の手を両手で包んで言ったんです。『大丈夫。怖かったな。でも、もう一人じゃない』って。」

彼女は言葉を詰まらせたが、それでも言った。

「私、その言葉で生き返ったんです。会社が潰れてからずっと、一人ぼっちだと思ってた。でも、名前も知らないその人が、命がけで私を抱えて、あの言葉をくれた。救急車に載せられて、気がついたらその人はいなくなってました。名乗りもしないで。」

綾乃さんはバッグから半紙に包んだ何かを取り出した。古く色褪せた新聞の切り抜きだった。折り目が白く擦り切れている。地方紙の小さな記事。『宿の火災。逃げ遅れた小学生の女児を、通行人の男性が救出。男性は名乗らず立ち去る』。それだけの記事だった。

「ずっと探してました。消防にも、警察にも、目撃した人にも。宿の女将さんには、お礼が言いたかったのに、火事の後、行方が分からなくなっていて。分かったのは、若い男の人で、右手に大きな火傷を負ったはずだ、ということだけ。」

「さっき、お庭で『声と手しか覚えてない』と言いました。ごめんなさい。手がかりは、本当はもう一つあったんです。右手の火傷。でも言えなかった。もし人違いだったらと思うと、怖くて。この傷が、あの人でなかったら…って。15年間、忘れた日はありません。どこかで元気でいてくれますようにって、毎晩祈ってた。手首の火傷、跡になってないといいなって。痛かっただろうなって。」

俺は自分の手首を見た。この跡を、恥だと思ったことはない。だが、誇りに思ったこともなかった。ただの古傷だと思って生きてきた。その古傷のために、毎晩祈ってくれていた人がいた。15年間も。喉の奥が熱くなった。

綾乃さんは涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでもまっすぐ俺を見た。そして、畳に両手をついて、深く頭を下げた。

「あの日は、私を助けてくださって、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、私は今日まで生きてこられました。」

畳に擦り付けるほど深い礼だった。社長令嬢の綾乃さんじゃなかった。12歳のあの子が、15年かけてやっと恩人に追いついて、精一杯の礼を尽くしていた。俺は何と言っていいか分からなかった。

「頭をあげてください。俺は大したことはしてません。ただ通りかかっただけです。助かってよかった。それだけです。」

綾乃さんは頭を上げて、泣き笑いの顔になった。

「本当に、言うんですね、それ。」

「え?」

「そういう人だろうなって思ってました。会えたら、絶対、そんな風に言うんだろうなって。恩を着せない人。何もなかったみたいな顔をする人。その通りすぎて、腹が立つくらい。」

彼女は笑いながら泣いていた。それから、すっと息を吸って、真顔になった。

「篠田さん。私、さっき、あなたにひどいことを言いました。『仕事くらい決めておくものだ』とか、『住む世界が違う』とか。あの火事の後、私、誓ったんです。人を肩書きやお金で見る人間には絶対にならないって。あの人は、私が誰かなんて聞かなかった。貧乏な宿の子供だから助けたんじゃない。ただ、助けてくれた。私もそういう人間になるんだって誓ったのに…いつの間にか、忘れてました。木崎の娘に戻って、いい暮らしをして、肩書きで人を図る人間になってた。今日の、あなたへの態度がその証拠です。一番なりたくなかった人間になってました。」

彼女はもう一度、深くお辞儀をした。

「ごめんなさい。あなたのことを何も知らないで、最低なことを言いました。でも、言わせてください。言わないと、私、前に進めない。」

部屋は静まり返っていた。綾乃さんは顔を上げた。その目にもう迷いはなかった。

「あの日のお兄ちゃん。私、決めました。」

彼女は大きく息を吸って、言った。

「今すぐ、結婚してください。」

時間が止まった。早恵さんが「えっ」と声を漏らした。とよさんは湯呑みを持ったまま固まっていた。綾乃さん自身も、自分の口から飛び出した言葉に驚いたらしい。頬を赤くして、それでも引かなかった。彼女は畳に両手をついて、深く頭を下げた。

「失礼しました。言い直します。今すぐ、私と結婚してください。」

一番驚いていたのは、間違いなく俺だった。

「いや、待ってください。俺は、その、ニートで…。」

「関係ありません。」

彼女はきっぱりと言い切った。

「あなたがニートだからじゃない。お仕事があるとかないとか、そういう話でもない。私が世界で一番苦しかった時に、何も聞かないで命を懸けて私を守ってくれた人だから。この15年、あなたのおかげで生きてこられたから。あの日あなたが助けてくれたから、私は今ここにいるんです。だから今度は、私があなたの隣に立ちたい。何があっても、あなたのそばにいたい。お願いします。あなたじゃなきゃ、ダメなんです。」

まっすぐな目だった。嘘も計算も何もない目だった。金の匂いに寄ってくるリサの目とは、まるで違う。この人は、ニートの篠田公平に、人生を懸けると言っている。胸の奥が震えた。嬉しかった。嬉しくて、苦しかった。なぜなら、俺はこの瞬間もまだ、この人に嘘をついているからだ。綾乃さんはニートの俺を選んでくれた。それなのに、当の俺はニートのふりをした嘘つきだった。このまま頷いたら、彼女の一番綺麗な部分を、嘘の上に立たせることになる。それだけはできなかった。

「木崎さん。ありがとうございます。本当に嬉しいです。こんなことを言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。でも、少しだけ時間をください。」

綾乃さんの顔が曇った。

「私じゃ、ダメですか?」

「違う。そうじゃないんです。あなたは何も悪くない。ただ、俺の方に、ちゃんとしなきゃいけないことがある。それを済ませてから、きちんと返事をさせてください。逃げも隠れもしません。約束します。」

綾乃さんはしばらく俺の目を見ていた。それから小さく頷いた。

「わかりました。待ちます。15年待ったんだもの。少しくらい、平気です。」

帰り道、とよさんは玄関先でぽつりと言った。

「何や、あんたらは。けどな、公平。一つだけ言うとくで。あの子の涙は本物やったで。うちは60年、人の顔を見て商売してきたんや。あれは、嘘の泣き方やない。」

分かってると、俺は思った。分かってるから、苦しいのだ。夜のアパートに帰って、俺は電気もつけずにしばらく座り込んでいた。右手の痕にそっと触れた。あの冬の夜が、こんな形で追いついてくるなんて。あの子があんなに綺麗になって、俺を探し続けてくれていたなんて。そして俺は、その子に嘘をついたまま、好きになられてしまったなんて。

それから、俺と綾乃さんの奇妙な時間が始まった。結婚の返事は保留のまま、俺たちは会うようになった。最初に連絡をくれたのは綾乃さんの方だった。見合いの3日後、スマホに短いメッセージが届いた。

『返事は待ちます。でも、会うのは待ちません。今度の日曜日、開いてますか?』

押しの強さに、思わず笑ってしまった。日曜日、俺たちは下町の商店街を歩いた。綾乃さんは楽しそうだった。コロッケ屋の前で足を止めて、一つ90円のコロッケを一つだけ買って、半分に割って俺にくれた。揚げたてを頬張って、熱さに目を白黒させて、それでも「美味しい」と笑った。八百屋のおやじに冷やかされて、耳まで赤くなった。

川沿いの土手に並んで座って、夕日が沈むのをただ眺めた。

「ねえ、篠田さん。私、今日みたいな日が、人生で一番贅沢だと思う。」

「コロッケ一つで贅沢なら、安いもんですね。」

「コロッケの話じゃありません。」

彼女は膨れて、それから笑った。デートというのは金がかかるものだと思っていたが、彼女と歩く時間に、金の出番はほとんどなかった。綾乃さんは、500円の定食を美味いと言い、100円の缶コーヒーを両手で包んで温まる人だった。育ちのいいお嬢さんの気まぐれというのとも違った。彼女は本当に、こういう時間に飢えていたのだ。

会うたびに、俺は彼女に惹かれていった。そして会うたびに、胸の奥の嘘が重くなった。言おうと何度も思った。『実は俺はニートじゃない。会社をやっている。騙していて悪かった』と。だが、彼女が「ニートでも関係ない」と笑うたび、言葉は喉の奥に引っ込んだ。言えば、何かが変わってしまう気がした。この時間の、何かが壊れてしまう気がした。俺は33年になって初めて、失うのが怖いものができてしまったのだ。

一ヶ月ほど経った頃、綾乃さんが言った。

「父に、会ってほしいんです。」

木崎家は市の外れの高台にあった。立派な門構えの日本家だ。緊張しながら通された客間で、俺は木崎道雄社長と向き合った。58歳。日に焼けた、がっしりした人だった。手を見れば分かる。ささくれだった、道具を握ってきたものの手だ。道雄さんは俺の顔をじっと見た。値踏みされるのかと思った。だが、違った。彼の視線は俺の右の手首に落ちた。その日は、隠さずに来ていた。綾乃さんに「もう隠さないで欲しい」と言われたからだ。

道雄さんの目が、みるみる赤くなった。そして、この大きな体の社長は、畳に両手をついて、深く頭を下げたのだ。

「娘を助けてくださった方に、お礼も言えないまま、15年が経ちました。あなたを探し出せなかったのは、私の一生の悔いでした。ありがとうございました。この通りです。」

「社長、やめてください。頭を上げてください。」

「いいや。言わせてもらう。あの頃の私は、最低の父親だった。会社を潰して、妻と娘を路頭に迷わせて。挙げ句の果てに、火事で娘を死なせかけた。私が守れなかった娘の命を、あなたが守ってくれた。この恩は、木崎道雄、死ぬまで忘れません。」

その夜、木崎家の食卓に俺の席が用意された。早恵さんの手料理が並んだ。肉じゃがと出し巻きと、具沢山の豚汁。豪華なもてなし料理じゃない、普段の飯だった。それが、たまらなく嬉しかった。道雄さんは酒が入るとよく笑う人だった。大工時代の失敗談を豪快に話し、綾乃さんの子供の頃の話を暴露しては、綾乃さんに睨まれていた。笑い声の絶えない食卓だった。天涯孤独になって15年。俺は、家族の食卓というものをほとんど忘れかけていた。誰かの声を聞きながら食う飯が、こんなに美味いものだということも。

だが、その温かさは長くは続かなかった。

数日後の夜だった。アパートのドアがノックされた。開けると、スーツを着た白髪交じりの男が立っていた。50代半ば。銀縁のメガネの奥の目が、値踏みするように俺と俺の部屋を眺め回した。

「やあ、失礼。木崎ホームズ専務の岡島と申します。」

見合いの日、綾乃さんに電話をかけてきた男だ。岡島は、勧めてもいないのに部屋に上がり込んで、蛍光灯と裸電球を見て鼻で笑った。

「なるほど。噂通りの暮らしぶりだ。」

「何のご用ですか?」

「話が早くて助かる。単刀直入に言いましょう。お嬢さんから、手を引いていただきたい。」

彼は茶封筒を出して、テーブルの上に置いた。分厚い筒だった。

「300万あります。足りなければ、500万では、この場で書きましょう。あなたのような身の上なら、悪い話ではないはずだ。」

俺は封筒を見た。それから、岡島の顔を見た。

「お引き取りください。」

「強気ですな。では、あなた、お嬢さんをどうするおつもりか?無職の男が、社長令嬢と釣り合うとでも?」

「釣り合いというのは、肩書きの話ですか?」

「世間では、それを現実と呼ぶんですよ。いいですか?木崎ホームズは今、大事な時期です。坂田建設さんとの提携に、会社の未来がかかっている。お嬢さんと坂田の御曹司の縁談は、その楔なんです。300人の社員の生活が、かかってるんですよ。それをあなたは、コロッケ一個のデートで壊すおつもりか?」

俺は静かに怒りを覚えたが、顔には出さなかった。

「縁談を決めるのは、綾乃さんです。俺でも、あなたでもない。」

「話にならんな。」

彼は封筒をしまって立ち上がった。ドアの前で振り返って、吐き捨てるように言った。

「まあいい。あなたのような人は、そのうち現実を知る。社長も『恩人だなんだ』と甘いことを言っていられるのは、今のうちだ。身の程というものを、お考えになることですな。」

ドアが閉まった。俺は一人、テーブルの前に座り込んだ。悔しさはなかった。あるのは、もっと厄介な問いだった。俺がここで『日向グループの篠田です』と名乗れば、岡島は手のひらを返しただろう。だが、それでいいのか?肩書きで黙らせたら、俺も岡島と同じ穴の狢じゃないのか。綾乃さんは、ニートの俺に結婚してと言ってくれた。その気持ちに、看板を被せて上書きしていいのか?

答えの出ないまま、俺はサトルに電話をかけた。サトルは日向創業の社長だ。俺が21の頃、清掃の現場で出会った。派遣切りに遭ってネットカフェで寝泊まりしていた、5歳上の口の悪い男だ。バケツとモップの時代からずっと一緒にやってきた。事情を話すと、サトルは電話の向こうでしばらく黙った。

「お前らしいよ。本当に。」

「笑えよ。」

「笑わねえよ。なあ、公平。俺はお前が社名を『日向』にした時から、なんとなく察してたよ。お前には何か、大事な原点があるんだろうなって。一つだけ言わせろ。肩書きっていうのはな、鎧なんだよ。鎧を脱いで素の自分で人と向き合うのは立派だ。お前のそういうとこ、俺は好きだよ。でもな、公平。守りたい人がいる時にまで鎧を置いていくのは、そりゃ潔さじゃねえ。ただの意地だ。」

「意地、か。」

「そうだよ。お前の923人の社員はな、お前の看板で飯を食って家族を養ってんだ。看板ってのは、そういうもんだ。汚いもんでも、恥ずかしいもんでもねえ。使いどきの話だろ。」

その言葉は深く刺さった。だが、俺はまだ決めきれなかった。決めきれないまま、日々だけが過ぎていった。そして、事態の方が先に動いたのだ。

その前に、話しておきたい人たちがいる。この頃、俺は綾乃さんをとある店に連れて行った。商店街の外れの、小さな定食屋だ。暖簾には「はる」とある。

「可愛いお店。篠田さんの行きつけ?」

「まあ、そんなとこです。ちょっと、合わせたい人がいて。」

暖簾をくぐると、カウンターの奥から小柄なばあちゃんが顔を出した。はるさん、76歳になる。この店の主だ。はるさんは俺を見て破顔して、それから俺の隣の綾乃さんを見た。その顔から笑みがすっと消えた。はるさんは前掛けで手を拭きながら、ゆっくりとカウンターを回って出てきた。綾乃さんの前に立って、じっと顔を見上げる。綾乃さんが戸惑って会釈した。はるさんの目に、涙が盛り上がった。

「あんた…。あんた、もしかして。水荘の、あの時のお嬢ちゃんかい?」

綾乃さんが息を飲んだ。

「どうして、それを?」

「ああ…ああ、やっぱり。おかげさんがある。あの晩の、あの子だ。」

はるさんは綾乃さんの手を取って、ぼろぼろ泣いた。はるさんこそ、水荘の女将さんだったのだ。落ち着いてから、はるさんはぽつりぽつりと話してくれた。

「あの火事はね、うちの古い配線が原因だったの。ぼや騒ぎなら前にもあってね、電気屋に見てもらわなきゃとは思ってたんだよ。でも、宿は貧乏でね。後回しにしちまった。そのせいで、あんたを死なせかけた。お母さんから預かってた、大事な娘さんを。私はあの晩からずっと、あんたに謝りたかった。宿は丸焼けで、私は何もかもなくしたけど、そんなのは自業自得さ。ただ、あんたが煙を吸って運ばれていくのを見て、この子に何かあったら、私は生きていけないって思った。」

「女将さん…」

「無事で良かった。こんなに綺麗になって。」

綾乃さんは首を横に振って、はるさんの手を握り返した。

「私、女将さんのこと、覚えてます。お母さんが帰りが遅い夜、よく部屋にミカンを持ってきてくれました。あの宿、私、嫌いじゃなかった。女将さんがいたから。」

「お嬢ちゃん…」

二人はしばらく手を取り合って泣いていた。それから、はるさんは俺の方を見て、綾乃さんに言った。

「この人にはね、私は二度、助けられてるんだよ。」

「はるさん。」

「この人に言っときなさい。私は15年、誰かに話したくて仕方なかったんだから。一度目は、あの晩さ。私が『2階に女の子がいる』って叫んだら、この人、何も言わずに火の中に飛び込んでいった。まだ18かそこらの、ひょろっとした兄ちゃんだったよ。あんたを抱えて出てきた時、右腕がひどい火傷でね。なのに、救急車にも乗らないで、いつの間にかいなくなってた。それから2、3日した朝だよ。焼け跡の前で呆然としていたら、あの兄ちゃんがまた来てね。黙って、片付けを手伝い始めたんだ。名前を聞いても、『近所の者です』としか言わない。二度目はね、それから10年も経った頃さ。私は宿をなくした後、弁当屋の住み込みやらなんやらで食いついでてね。年も年だし、もう店なんて一生持てないと諦めてた。そしたらある日、この人がひょっこり訪ねてきたんだよ。大人になってたけど、すぐ分かったよ。名乗る代わりに、袖をまくって右手の痕を見せてくれたからね。この人、なんて言ったと思う?『あの晩、あなたが叫んでくれたおかげで、俺はあの子を助けられた。あなたは命の恩人の恩人です』って。それでね、この店を持たせてくれたんだ。開店の金を、全部。黙って。」

綾乃さんが目を見開いた。開店のお金を全部、篠田さんが?ニートに、店を一軒持たせる金があるはずがない。綾乃さんの頭の上に、疑問符が浮かんでいるのが見えるようだった。はるさんは俺の事情を知らないから、不思議そうにしている。

「はるさん。その話は、また今度な。」

帰り道、川沿いを歩きながら、綾乃さんがぽつりと言った。

「篠田さんって、不思議な人。ニートなのに、時々、ニートじゃない顔をする。」

「どんな顔ですか?」

「うーん…。大勢の人の暮らしを背負っている人の顔。」

どきりとした。彼女は続けた。

「冗談です。でもね、私、決めてます。あなたが本当は何者でも、私の気持ちは変わらない。だって、私、あなたの中身の方を先に好きになっちゃったから。15年前にね。」

彼女は夕日に目を細めて笑った。その横顔に、俺はまた惹かれた。

とよさんの家にも、二人で行った。仏壇のばあちゃんの写真に、綾乃さんは長い間手を合わせてくれた。とよさんは俺たちに茶を出しながら、しみじみと言った。

「不思議な話やなあ。うちはただ、早恵さんに頼まれて、着心の知れた子を引き合わせただけや。あんたが綾乃さんの探しとった恩人やなんて、これっぽっちも知らんかった。公平。これはもう、きよちゃんの引き合わせやで。きよちゃんはな、死ぬ前の年やったか、うちに来て言ったんや。『公平の手はあったかい。あの手を、一人で終わらせるのはもったいないよ。とよちゃん、あの子にいつか家族を持たせてやってな』って。うちはその約束を、15年もかけて果たしたんやな。」

綾乃さんが、俺の右手をそっと両手で包んだ。

「本当に、あったかい。」

俺は仏壇の写真に、心の中で報告した。ばあちゃん、あんたの言った通りの人が、見つかったよ。

木崎家に呼ばれた日、綾乃さんが席を外した時、早恵さんと二人きりになる機会があった。早恵さんは俺に深く頭を下げてから、静かに話し始めた。

「あの時の私は、夜の弁当工場で働いていました。娘を宿に残して。12歳の子を、夜、一人にしてたんです。火事の知らせを聞いて駆けつけた時には、水荘は火の海でした。私、その場に崩れ落ちました。ああ、私は、貧乏で娘を殺したんだって。その時です。人垣の向こうに、娘が見えたんです。煤だらけの、若い男の方の腕の中で、わんわん泣いていました。生きて、泣いていたんです。あなたの右の腕がひどく焼けているのも見えました。なのに、人を掻き分けてたどり着いた時には、あなたはもういらっしゃらなかった。」

早恵さんは目元を抑えた。

「あれから15年。私たちは、あなたに会えたら、まずお礼を。それから償いを、と言い続けてきました。娘があなたを探し続けるのを、私たちは一度も止めませんでした。あの子の執着は、あなたに恩を返すための執着だったんですよ。」

「償いなんて。俺は勝手に飛び込んだだけです。どうか、そんな風に思わないでください。」

「綾乃の言った通りだわ。」

早恵さんは涙を拭いて笑った。

「篠田さん。あの子ね、火事の後、変わったんです。人の痛みが分かる子になりました。学校で一人ぼっちの子がいると、放っておけない子に。でも、木崎の暮らしに戻って、いつの間にか少しずつ、あの頃の目を忘れていって。私、心配だったんです。あのお見合いの日、あなたにひどい口を利いた娘を見て、『ああ、やっぱり』って。でも、あなたに会って、あの子は戻ってきました。12歳の、あの優しい目に。あなたは娘の命だけじゃなく、心まで二度も助けてくださったんですね。」

返す言葉が見つからなかった。俺はただ、頭を下げた。

運命という奴は、人が一番大事なものを抱えた時を狙って牙を向く。11月の半ば、その電話は鳴った。夜の11時過ぎだった。画面には綾乃さんの名前。出ると、彼女の声は震えていた。

「篠田さん、ごめんなさい。こんな時間に。父の会社が、大変なことになってるんです。」

翌日の昼、俺は綾乃さんと喫茶店で会った。一晩で、彼女はやつれていた。事情はこうだった。取引先の坂田建設が、突然、取引の打ち切りを通告してきたのだ。資材の供給は来月で停止、大型プロジェクト『青葉台』からは撤退し、契約に基づく違約金を請求するという内容だった。

「理由は、はっきりしてます。私が、坂田さんとの縁談を、正式にお断りしたから。縁談を断ったから取引を切るなんて。御曹司の覇斗さんっていう人は、昔からそういう人なんです。プライドの塊で。『社長に恥をかかされた』って、周りに言い回ってるらしいです。それで、先方の会社が態度を硬化させて。それだけじゃないんです。おかしいんです。坂田さんの動きが、うちの内情を知りすぎてる。どの現場の資材がいつ切れるか、どの支払いがいつ来るか。全部分かってるみたいに、一番痛いところばかり突いてくる。それに、銀行まで。メインバンクの融資の話が、急に白紙になりました。誰かが、悪い噂を流してるとしか思えない。『木崎は危ない』って。」

住宅会社の資金繰りはドミノ倒しだ。一つ倒れれば、全部倒れる。

「お父さん、ここ数日、家に帰ってきません。会社に泊まり込んでます。お母さんは何も言わないけど、夜中に台所で一人で座り込んでて。怖いんです、私。あの頃と同じ匂いがする。12歳の時と同じ。電話が鳴るたびにお父さんの顔色が変わって、家の中がしんとして。ある日、突然全部なくなるの。家も、学校も、友達も。またあれが来るかと思ったら、怖くて怖くて。社員のみんなには、家族がいるんです。300人の。どうしよう。どうしたらいいの?」

俺はテーブル越しに、彼女の手を取った。氷みたいに冷たかった。あの夜の電柱の下で震えていた、あの小さな手と同じだった。

「大丈夫。怖かったな。でも、もう一人じゃない。」

綾乃さんが、はっと顔を上げた。あの夜と同じ言葉。今度は、意識して言った。12歳の彼女を支えた言葉が、27歳の彼女にも届くように。彼女の目から涙がこぼれた。

「ずるい。その言葉は、ずるいです。」

「綾乃さん。一つだけ約束してください。何があっても、一人で抱え込まないこと。大丈夫。悪いようにはならない。俺が、させない。」

「ニートさんが、どうやって?」

涙のまま、彼女は少し笑った。冗談にして、自分を保とうとしたんだろう。俺は笑わなかった。

「そのことなんですが。近いうちに、ちゃんと話します。俺の話を。だから今日は、これだけ覚えて帰ってください。あなたの後ろには、もう俺がいる。12歳のあの夜とは、違う。」

綾乃さんは俺の顔をじっと見て、頷いた。彼女と別れたその足で、俺は決めていた。迷いは消えていた。あれほどこねくり回した理屈が、彼女の震える手一つで、綺麗に吹き飛んでいた。好きな人の家族が潰されようとしている。あの冬の夜、俺に生きる意味をくれた女の子が、また同じ地獄に落とされようとしている。今の俺には、それを止める力がある。なら、使う。全部使う。それだけの話だった。

夜、サトルのマンションに押しかけた。ドアを開けたサトルに、俺は言った。

「サトル。鎧、切るわ。」

サトルは一瞬ぽかんとして、それからにやりと笑った。

「よし、来た。上がれ。飯、まだだろう。」

サトルの部屋のテーブルに、俺たちは資料を広げた。株式会社日向。通称『日向創業』。ビルの清掃と設備管理の会社だ。社員412人。県内の主要なオフィスビルと商業施設の管理を受託している。日向防災設備。古い建物の電気配線の点検と防災改修の専門。社員187人。水荘の火事の原因が古い配線の老朽化だったと知ってから、俺はこの分野に金と人を注ぎ込んできた。今では県内一の会社になった。日向住宅サービス。リフォームと資材調達の会社。社員324人。工務店への資材供給網を持っている。グループ3社、社員923人、年商180億。無借金経営。それが、ニートの篠田公平の、もう一つの顔だ。

「で、どう動く?三つだ。まず資材。木崎ホームズが坂田から止められる資材を、うちの調達網で全部埋める。次に金。うちから木崎ホームズに出資する。青葉台を完成させるまでの運転資金も含めて、必要な額を全部。」

「全部って、お前?まあいい。うちの財務なら屁でもねえな。」

「三つ目は、岡島だ。」

俺は、見合いの日からずっと引っかかっていたことを話した。坂田建設の攻め方は、内情を知る者の攻め方だ。資材の切れ目、支払いの日付、銀行の融資判断。外からは見えない急所についてくる。内者がいる。そして、綾乃さんの縁談を強引に進め、破談の責任を彼女に着せ、危機を煽って坂田の資本受け入れに誘導しようとしている男。どう考えても、答えは一つしかなかった。

「岡島、銀行出身だったな。調べさせよう。うちの顧問に、元捜査畑のプロがいる。」

サトルは電話を二本かけて、それから俺に向き直った。

「なあ、公平。一つ聞いていいか?その令嬢さんには、もう話したのか。お前のこと。」

「いや、まだだ。」

「おいおい。」

「順番を決めてるんだ。まず、木崎の社長に話す。会社を助けるってのは、綺麗事じゃない。金と経営の話だ。それを娘への気持ちと混ぜたら、社長に断る自由がなくなる。筋だけは、通したい。」

サトルはため息をついて、それから笑った。

「不器用な男だよ、お前は。出会った頃から、何も変わってねえ。」

三日後、調査の中間報告が届いた。予想は、最悪の形で当たっていた。岡島は半年前から、坂田建設の専務と会合を重ねていた。木崎ホームズの内部資料、資金繰り表、担保の評価資料、顧客名簿までが、坂田側に渡った形跡があった。見返りを窺わせる金の流れの痕跡も、三度分。そして決定的なのは、岡島が役員会に図る準備を進めている再建案だった。坂田建設による資本参加。実質は乗っ取りだ。木崎ホームズは坂田の子会社になり、道雄さんは会長職に祭り上げられて退任。数年で吸収されて、会社の名前ごと消える筋書きだった。その筋書きの報酬として、岡島は新会社の社長の椅子を約束されているらしい。自分で会社を危機に陥れて、火事場泥棒をやる気なのだ。

「胸くそ悪い話だ。」

「で、いつ?」

「役員会が、来週の月曜日にある。岡島はそこで、再建案を通す気だ。」

「その席に、乗り込む。」

土曜の夜、俺は木崎家を尋ねた。道雄さんはげっそりと痩せていた。それでも俺の前では、背筋を伸ばして笑顔まで作ってみせた。この人は、ニートの俺に恥をかかせまいとしているのだ。

「社長。今夜は、お願いがあってきました。月曜の役員会に、私を同席させてください。」

「役員会に?なぜだ。」

「その席で、お話ししたいことがあります。木崎ホームズを助ける手立ての話です。それともう一つ。私が綾乃さんと、ご家族に、ずっと隠し続けてきた嘘の話です。」

道雄さんの目が、鋭くなった。経営者の目だった。

「嘘、と言ったな。それは聞き捨てならん。君は、うちの娘を騙しとったのか?」

「騙してました。名乗るべきものを、名乗らずにいました。ですが、誓って言います。綾乃さんへの気持ちに、嘘は一つもありません。全部、お話しします。その上で、殴るなり、出入り禁止にするなり、好きにしてやってください。ただ、会社を助ける話だけは、それとは別に聞いてください。300人の社員さんに、罪はありませんから。」

長い、長い沈黙だった。やがて、道雄さんは腕組みを解いた。

「わかった。月曜の9時だ。来なさい。」

そして、ふっと口元を緩めた。

「どうせわしは、君がどこの誰だろうと、もう驚かんぞ。娘の命の恩人が、15年後にお見合いの席に座っとった時点で、わしの人生の驚きは使い果たしとる。」

その言葉に、俺は救われた。

月曜の朝。木崎ホームズ本社の会議室には、重い空気が満ちていた。長机に役員が8人。道雄さんは議長席に。そして、この日はオブザーバーとして、異例の顔触れが並んでいた。坂田建設の坂田合造社長と、息子の専務。それに、メインバンクの支店長だ。岡島が、再建案の関係者として呼んだのだという。外堀を埋めて、その場で決めさせる腹だ。俺は約束通り9時前に受付に着いた。だが、会議室に案内される前に、廊下で岡島に捕まった。

「あなた。何のつもりで…?」

「不審者は、わしが呼んだ。」

背後から、道雄さんの声がした。

「篠田君はわしの招きで、同席してもらう。文句があるか、岡島。」

岡島は眼鏡の奥の目を細めたが、社長にそう言われては引き下がるしかない。俺は会議室の末席にパイプ椅子を置いて座った。綾乃さんも後方で、壁際の席にいた。俺を見て、目を丸くしていた。彼女にはこの日のことを、何も話していなかった。

会議が始まった。口火を切ったのは、岡島だった。

「ご存知の通り、当社の資金繰りは危機的状況にあります。坂田建設さんとの取引停止、青葉台の停滞、融資の白紙化。このままでは、年内に手形の決済が不能になります。そこで本日は、唯一の再建案をご提案したい。坂田建設さんによる、資本参加です。」

スクリーンに、例の筋書きが映し出された。坂田建設が株式の過半数を取得。経営体制の刷新。道雄さんは代表権のない会長へ。役員たちが俯いた。誰の目にも、それが乗っ取りだと分かっていた。分かっていて、誰も声を上げられない。

「なお、坂田さんサイドのご意向としては、両家の信頼関係の再構築。すなわち、お嬢様と御曹司のご縁談の再開も、条件の一つと伺っております。」

綾乃さんが立ち上がった。

「専務、それは経営の議題ではありません。私は何度も申し上げています。あの縁談は、お受けしません。」

坂田の専務、覇斗が鼻で笑った。椅子の背に凭れたまま、綾乃さんを眺め回した。

「強気だね、綾乃さん。でもさ、その意地っ張りのせいで、会社がこうなってるって自覚ある?300人の社員より、あの噂の男が大事なんだ。」

会議室が騒ついた。

「知ってますよ、皆さん。お嬢さんの新しいお相手。無職なんですよ。無職。風呂なしアパート住まいの、自称ニート。木崎ホームズのお嬢様がですよ。笑っちゃうでしょう?」

「あなたに、あの人の何が分かるの?」

「分かるよ。金目当てだろ、どうせ。ああ、そうだ。そこにいるじゃないか。ご本人が。」

覇斗は俺に気づいて、声を大きくした。

「あれ、誰かと思えば、ご本人じゃないですか。へえ、来てたんだ。ちょうどいいや。皆さんに紹介しますよ。こちら、噂のニートさんです。」

嘲笑が会議室に薄く広がった。俺は立ち上がった。

「ご紹介に預かりました。篠田公平です。ご指摘の通り、風呂なしアパートに住んでおります。本日は、木崎ホームズさんの再建について、岡島専務の案とは別の選択肢を、皆さんにお諮りしたく参りました。」

「ニートがか?」

その時だった。ガタッと、椅子の鳴る音がした。メインバンクの支店長が立ち上がっていた。真っ青な顔で、俺を凝視していた。

「し、篠田…代表?」

会議室の空気が、変わった。

「日向グループの、篠田公平代表でいらっしゃいますよね?私、共和銀行の小柳と申します。本店の法人部に勤めておりました頃、御社の担当をさせていただいて。ええ、一度だけ、ご挨拶だけ…。」

「小柳さん、お久しぶりです。」

場の全員が固まった。覇斗の笑いが顔に張り付いたまま、凍った。岡島のメガネがずり落ちかけた。坂田の合造社長が、ゆっくりと身を乗り出した。

「日向…。日向と言うと、あの日向か?ビルメンテナンスと防災設備の。うちが防災部門の代理店契約をお願いして、5年も断られ続けとる、あの日向グループの。」

小柳支店長が頷いた。

「坂田社長。日向グループは3社、社員900人。年商は180億を超えます。県内無借金経営では、間違いなく筆頭の企業グループです。ただ、代表の篠田さんは一切表に出られない方でして。私も、お顔を存じ上げている数少ない人間です。」

俺は綾乃さんを見た。彼女は壁際の席で、両手で口を覆っていた。大きく見開かれた目が、俺を見ていた。ごめん、と俺は心の中で言った。皆さん、改めまして。日向グループ代表の篠田公平と申します。職業を偽っていたことを、まずこの場をお借りして、お詫びします。

俺は頭を下げた。それから、サトルが徹夜でまとめてくれた資料を、役員たちに配った。

「お手元の資料が、当グループからのご提案です。第一に、坂田建設さんの撤退で停止する資材の手当てを、日向住宅サービスの調達網から供給します。現行契約と同条件で。納期は来月の頭から、間に合わせます。第二に、当社は木崎ホームズさんの第三者割当て増資を引き受けます。青葉台の完成と、完工後2年の運転資金に必要な額を、全額。ただし、株式の取得は3割まで。過半数は取りません。木崎ホームズは、木崎の看板のまま残っていただく。それが、条件です。」

役員の一人が、掠れた声を上げた。

「そんな…。条件があるわけが。御社に、何の得があるんですか?」

「得なら、あります。青葉台を、日向防災設備との共同で、県内初の防災住宅の街にしたい。古い配線で火事を出さない家。逃げ遅れを出さない街。うちはこの6年、その技術に金も人も注いできました。ですが、住宅そのものを立てる腕がない。木崎ホームズさんの腕と、うちの技術。これは慈善事業じゃありません。事業提案です。」

「待ってください!待ってください!」

岡島が声を裏返らせた。

「社長、騙されてはいけません!どこの馬の骨とも知れん男の、口約束ですぞ!坂田さんとの案は、すでに詰まった話で…。」

「詰まった話ですか?では、こちらも詰まった話をしましょう。」

俺はもう一部の資料を、道雄さんの前に置いた。

「岡島さん。あなたが半年間、坂田建設の専務と重ねてきた会合の記録です。当社の顧問弁護士と調査会社がまとめました。木崎ホームズの資金繰り表、担保の評価資料、顧客名簿。社外秘の資料が坂田さんに渡った経路と、あなたの親族名義の口座に振り込まれた、三度の金の記録も、添えてあります。」

会議室が凍りついた。岡島の顔から、表情が抜け落ちた。

「な、なんだそれは!言いがかりだ!捏造だ!」

「捏造かどうかは、そこにおられる坂田社長が、一番よくご存知のはずです。」

全員の視線が、合造に集まった。合造は資料を手に取り、老眼鏡をかけてしばらく黙読していた。やがて、深い、深いため息をついた。

「うちの専務が、独断でやったことだとは言わん。わしの監督不行き届きだ。」

「社長!」

「岡島さん。あんたが持ち込んだ話に、わしは乗った。木崎さんの娘の縁談話も、資本参加の筋書きも、全部あんたの絵だ。わしも、焼きが回った。恥を知るべきは、こっちだった。」

合造は立ち上がり、道雄さんに向かって頭を下げた。

「木崎さん。この度のことは、全面的に詫びる。取引打ち切りは撤回する。違約金の請求も、取り下げる。その上で、わしと息子は、この場を去るのが筋やろう。覇斗、来い。」

「お、おやじ!俺まで…!」

「舅と言うのが分からんか!」

合造は息子の襟首を掴むようにして、立たせた。そして、退出の際、俺の前で足を止めた。

「篠田さん、と言ったか。あんた、ようやった芝居やったな。無職のふりをして、人の本性を見とったんか。」

「芝居のつもりはありませんでした。ただ、肩書きを外した俺を見てくれる人に、会いたかっただけです。」

「耳が痛いわ。肩書きで人を測っとったんは、うちの息子と、わしの方やった。」

親子が退出していき、岡島が力なくその場に崩れ落ちた。会議室は、嵐の後のようになった。道雄さんが静かに宣言した。

「岡島専務の処分は、監査と顧問弁護士を交えて、改めて図る。篠田さんのご提案は、わしは受けたいと思う。異議のあるものは、挙手を。」

誰も、手を挙げなかった。役員たちの顔に、血の気が戻っていた。年を越せる。社員を守れる。その安堵が、部屋中に広がっていた。道雄さんは深く息をつくと、俺の前で深々と頭を下げた。

「篠田さん。会社を、社員を、救っていただいた。それに、みなにも聞いてくれ。実はこの人はな。15年前の火事で、わしの娘の命を救ってくれた恩人でもあるんだ。名乗りもせず、恩も受け取らず、15年も黙っとった。娘を助けてくださった方に、わしはようやく、人前で恩が言えた。ありがとうございました。」

役員たちがどよめいた。俺は慌てて、恩を返した。

「頭を上げてください、社長。恩を言われるほどのことは、していません。」

壁際で、綾乃さんが泣き笑いの顔になった。

「ほら、また言った。」

会議室に、柔らかい笑いが広がった。だが、俺の話はまだ終わっていなかった。一番大事な話が、残っていた。

「最後に、一つだけ。仕事の話ではないことを、この場で言わせてください。本当は二人きりの時に言うべきことですが、俺はこの部屋で『嘘つきのニート』として紹介されました。だから、訂正もこの部屋でさせてください。」

俺は綾乃さんの方を向いた。

「俺の会社の名前は、日向と言います。綾乃さん。あなたは、この名前の由来を知らない。誰も知りません。これだけは、誰にも話さずに来たからです。15年前のあの夜。火の中から連れ出した女の子を、俺は電柱の下に下ろしました。その子は救急車に乗せられる時、よろめきながら俺に言ったんです。『お兄ちゃんの手、あったかい。お日様みたいだね』って。」

綾乃さんの目から、涙が一筋こぼれた。

「あの頃の俺は、天涯孤独のどん底で、自分が生きてる意味なんて一つも見つけられずにいました。その俺に、あの一言が、生きる理由をくれたんです。この手は、人のために使える。そう思えたから、俺は今日まで働いてこられた。会社を作る時、名前は迷いませんでした。日向。あなたがくれた言葉です。」

綾乃さんは両手で顔を覆った。指の隙間から、嗚咽が漏れた。

「綾乃さん。あなたはずっと、『命を助けられたお礼を言いたかった』と言ってくれました。でも、それは逆なんです。助けられたのは、俺の方だった。あなたの一言が、俺の15年を作ってくれた。俺の会社も、923人の社員の暮らしも、元を辿れば、全部、12歳のあなたの一言から始まってるんです。あのお見合いの日、あなたは言ってくれました。『私が一番苦しかった時、何も聞かないで命を守ってくれた人だから、隣に立ちたい』と。今度は、俺の番です。木崎綾乃さん。あなたが一番苦しかった時も、これから先のどんな時も、この手はあなたのために使うと約束します。俺と、結婚してください。」

綾乃さんは顔を上げた。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、それでもまっすぐ俺を見て、彼女は言った。

「はい。今すぐ。」

会議室が、拍手に包まれた。誰が始めたのか分からない。気がつけば、役員も、支店長も、廊下から覗いていた社員たちまで、みんな立ち上がって手を叩いていた。道雄さんは握った拳を、目に押し当てていた。案と一緒に、娘の結婚まで満場一致で可決された役員会など、後にも先にもあの日だけだと思う。

役員会の後、俺と綾乃さんは会社の屋上に逃げ出した。11月の風は冷たかったが、空は抜けるように晴れていた。

「日向グループ代表、篠田公平さん。」

「はい。」

「社員923人。」

「はい。」

「年商180億。」

「はい。」

「風呂なしアパート在住。」

「それは、その。家賃がもったいなくて。」

綾乃さんはぷっと吹き出した。それから、笑いながら怒った。

「もう、ずるい。ずるいですよ。あなた、どこまでずるいの?『ニートです』って嘘ついて、私に散々ひどいこと言わせて。あんな、あんな席で社名の由来なんて聞かされたら、私…。」

「すみません。騙すつもりじゃ…。あ、いや。騙してました。すみません。」

「怒ってるんじゃないんです。」

彼女は首を横に振った。

「嬉しかったんです。私の言葉が、あなたのどこかに残ってたなんて。私、あの夜のこと、助けられたことしか覚えてなくて。自分が何を言ったかなんて、全然覚えてないの。私みたいな子供の一言が、誰かの15年を支えてたなんて。そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか。」

夕方の風が、彼女の髪を揺らした。

「ねえ、篠田さん。一つだけ、確認させてください。あなたが日向の代表だって知らないまま、私が結婚してくださいって言いました。あれ、取り消しませんから。私が好きになったのは、コロッケを半分こしてくれる、あなたです。会社は、おまけ。」

「923人が、おまけですか?」

「おまけです。断然、おまけ。」

彼女はきっぱりと言い切って、それから俺の右手を取った。手首の痕の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。

「この痕ごと、あなたの15年ごと、全部もらいます。私にください。」

「はい。もらってください。」

それが、俺たちの婚約だった。指輪もなければ、夜景のレストランもない。会社の屋上で、ビル風に吹かれながらの婚約だった。だが、俺は世界中のどんな婚約より上等だったと思っている。

結婚式は、翌年の4月に決まった。それまでの日々は、目まぐるしく過ぎた。木崎ホームズと日向グループの提携は正式に契約が結ばれ、資材は予定通り供給が始まり、止まりかけていた青葉台の現場に、職人たちの音が戻った。岡島は、臨時株主総会で解任された。坂田建設からは、後日正式な詫び状が届いた。合造社長は約束通り違約金の請求を取り下げ、それどころか、青葉台の防災住宅の話を聞きつけて、「うちも一枚噛ませてくれませんか」と頭を下げてきた。道雄さんは苦笑いしながら、握手に応じた。憎み合って得るものは、この業界には何もない。それが二人の経営者の結論だった。覇斗は、父親の命令で現場の見習いからやり直しているらしい。ヘルメット姿で生コンを運ぶ御曹司の写真が、業界の語り草になったと聞いた。

俺はといえば、人生で初めて、少しだけ表に出た。提携の記者会見で、壇上に座ったのだ。これまで一切顔を出さなかった日向の代表が現れたというので、地方紙の経済面が騒がしくなった。会見で、記者に聞かれた。

「社名の『日向』の由来を、教えてください。」

俺は少し考えて、答えた。

「秘密です。ただ、由来をくれた人と、春に結婚します。」

会場が、どっと湧いた。翌日の新聞の見出しは、経済面らしからぬ、温かいものになっていた。

そして4月。桜の散り際の日曜日に、俺たちは式を挙げた。場所は、町の小さな式場だ。派手なことは、二人ともやめようと決めていた。呼んだのは、本当に世話になった人たちだけ。木崎の親族と会社の人たち。うちの会社の古株たち。商店街の顔馴染み。とよさんは朝から着物で来て、ずっと泣いていた。胸には、ばあちゃんの写真を抱いていた。

「きよちゃん、見とるか?あんたの公平が、今日、家族を持つんやで。」

はるさんは、定食屋を一日休んで来てくれた。綾乃さんがはるさんの姿を見つけて、駆け寄って、二人でまた泣いていた。はるさんは前掛けじゃなく、着物を着ていた。

式の前の控え室で、俺は早恵さんに呼ばれた。早恵さんは小さな包みを差し出した。開けると、白いポケットチーフだった。隅に、小さな刺繍がある。太陽の意匠だった。

「綾乃とね、二人で選んだんです。『お日様』の模様。あの子ったら、刺繍だけは私にやらせるんですよ。自分は不器用だからって。」

「一生、大事にします。」

「どうか、娘をよろしくお願いしますね。お兄ちゃん。」

最後の一言は、いたずらっぽい小声だった。俺は胸のポケットに、そのチーフを挿した。

チャペルの扉が開いて、道雄さんに手を引かれた綾乃さんが入ってきた時のことを、俺は一生忘れない。白いドレスの彼女は、眩しくて直視できないくらいだった。道雄さんは俺の前で足を止めて、娘の手を俺の手に渡した。何か言おうとして、言葉にならず、ただ深く頷いた。俺も頷き返した。男同士、それで全部通じた。

誓いの場面で、綾乃さんは用意された言葉の後に、小さな声で付け足した。

「15年前から、あなたのことが好きでした。世界で一番遅い初恋です。一生かけて、追いつきます。」

指輪の交換の時、彼女は俺の左手に指輪をはめた後、右の手首の痕に、そっと唇を寄せた。参列席から、すすり泣きが聞こえた。

その後の披露宴で、サトルはスピーチに立った。俺の下積み時代の失敗談を暴露して会場を沸かせた後、最後だけ真顔になっていった。

「公平。バケツとモップから始めて、お前はよくここまで来た。でもな、お前の一番の出世は、会社じゃねえ。今日、隣にいる人だ。幸せになれよ、相棒。」

俺は、天井の向こうのばあちゃんに、心の中で報告した。ばあちゃん、あんたの言った通りだったよ。この手は人のために使ってきた。そうしたら、いつの間にか、この手を握ってくれる人ができたよ。

あれから2年が経った。青葉台の街は去年の秋に完成した。木崎ホームズと日向の共同開発ブランド。その名も、『日向の家』。古い配線も、剥き出しのストーブもない。火事に強い家が112軒。中央の公園には、日輪を模した小さな時計台が立っている。分譲は、抽選になるほどの人気だった。町開きの日、俺と綾乃は出来上がったばかりの街を、二人で歩いた。新しい家々の間を、引っ越してきたばかりの子供たちが駆け回っていた。どの家の軒下にも、消火器と避難はしごの収納がさりげなく設置してある。設計会議で、俺が一番こだわった部分だ。

時計台の前で、綾乃が足を止めた。

「ねえ、篠田さん。この街ね、消防署の人に言われたんですって。『ここまでやってる分譲地は県内で初めてです』って。」

「やりすぎだって、設計士には怒られたけどな。」

「やりすぎで、いいんです。この街ではきっと、12歳の女の子が煙の中で震えなくて済む。それって、あの夜のあなたが、ここまで届いたってことでしょう。やりすぎなもんですか?」

夕方のチャイムが鳴って、子供たちが家へと散っていった。どの窓にも、明かりが灯り始めた。綾乃はその明かりを、いつまでも眺めていた。

道雄さんは相変わらず現場に出ては、若い大工に混じってノミを振るっている。俺と将棋を指すのが習慣になった。俺が勝つと機嫌が悪くなるので、勝率は5分に調整している。義理の息子というのも、なかなか気を遣う商売だ。早恵さんはとよさんとすっかり茶飲み友達になって、しょっちゅう二人ではるさんの店に現れる。はるさんの店は、うちの社員の間で『本社より大事な拠点』と呼ばれていて、昼時はいつも満員だ。サトルは去年、日向グループの副代表になった。相変わらず口は悪いが、うちの披露宴の後、柄にもなく涙ぐんでいたことを、俺は一生、握っておくつもりでいる。

俺と綾乃は、あの風呂なしアパートを引き払って、下町の小さな一軒家に住んでいる。綾乃は木崎ホームズの広報を続けながら、防災住宅の勉強を始めた。夕飯の席で、避難経路の話を目を輝かせてする。社長令嬢のお嬢さんは、もうどこにもいない。コロッケを半分こした、あの日のままの人が、毎晩、隣で笑っている。

今年の春には、二人でばあちゃんの墓参りに行った。綾乃は墓石の前にしゃがんで、長い間手を合わせていた。何を話してるんだと聞いたら、彼女は笑って教えてくれなかった。帰り道になって、ようやく白状した。

「お礼を言ってたの。『あなたの手を、あったかく育ててくれて、ありがとうございます』って。それから、報告。『おばあちゃんの口癖、今はうちの旦那さんです』って。」

俺の家の口癖になったのか。だが、悪い気はしなかった。ばあちゃんもきっと、墓の下で困ったように笑っているだろう。

今夜のことだ。縁側で二人で月を見ていた。綾乃がふと、俺の右手を取った。手首の痕を、指先でなぞる。もう、何百回もそうしてきたように。

「ねえ。今でも、時々、考えるんです。もし、あの夜、あなたが通りかからなかったら。もし、あなたが火の中に入るのを、ためらってたら。この痕、痛かったよね。15年もずっと、隠して。私のせいで。」

「綾乃。」

俺は彼女の手を握り返した。

「前にも言ったけど、もう一度だけ言っとく。俺は君を助けたことを、一度も後悔していない。この痕は、俺の人生で一番上等な勲章だ。これがあったから、君は、俺を見つけてくれたんだしな。」

綾乃は月を見上げて、少し黙っていた。それから、俺の肩に頭を預けて言った。

「私はね。あなたに出会えた人生で、良かった。それだけで、十分だった。」

夜風が、庭の若い桜の木を揺らした。式の記念に植えた木だ。花が咲くのは、まだ先になる。綾乃は俺の手を、自分のお腹にそっと導いた。

「ねえ。来年の春には、この家、もう一人増えるから。」

「え?」

「この子にも、教えてあげてね。お父さんの手が、どうしてこんなにあったかいのか。」

俺は言葉に詰まって、ただ頷いた。ばあちゃんの声が、耳の奥で蘇った。公平の手はあったかいね。この手は、人のために使うんだよ。ばあちゃん。この手の使い道が、また増えるよ。今度は、守る番だ。この人と、この子と、この手の届く限りの人たちを。「お日様みたいだ」と言ってくれた、あの言葉に恥じないように。

月が、静かに俺たちを照らしていた。それは、あの夜も空のどこかにあったはずの月だった。だが、今夜の月は、どこまでも優しかった。

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