皆が見捨てた、骨と皮ばかりの歩く屍のような下人を、私はたった一両で買い取った。そして皆の前で宣言した。「この人と夫婦になります」と。笑い声が湧き、軍奉行は嘲るように言った。「あの男が生き返る日が来たら、私が自ら祝いの酒を届けよう」。しかし、死にかけの男の手当てをしながら、私は彼の背中の古い傷を見つめ、思った。これは下人として受けた傷ではない。そして彼がうなされる声を聞いた。「父上、証文を焼い…

皆が見捨てた、骨と皮ばかりの歩く屍のような下人を、私はたった一両で買い取った。そして皆の前で宣言した。「この人と夫婦になります」と。笑い声が湧き、軍奉行は嘲るように言った。「あの男が生き返る日が来たら、私が自ら祝いの酒を届けよう」。しかし、死にかけの男の手当てをしながら、私は彼の背中の古い傷を見つめ、思った。これは下人として受けた傷ではない。そして彼がうなされる声を聞いた。「父上、証文を焼い...

「父上、私はあの死にかけた下人と夫婦になります。」

人だかりが凍りついた。道端に打ち捨てられた、骨と皮ばかりの男。歩く屍のように見えたその男を、人海の天才娘と呼ばれる雪野はたった一両で買い取り、皆の前でそう言い放った。

物語は、雪野が父・早瀬現場とともに新しい軍奉行の着任の列を眺めていた日のことから始まる。

雪野は五つの頃から、人の嘘を見抜くことに天才的な能力を発揮してきた。笑いながら物を売る商人が盗人だと見抜き、病弱な馬を偽って売りつけようとした男の企みも暴いた。人々はいつしか彼女を「人海の天才娘」と呼ぶようになっていた。

雪野が見ているのは、額の広さや鼻の高さではない。笑う時に口元と目が一緒に動くかどうか。人の話を聞く時に指先に力が入るかどうか。人の肌の下に隠れた真実を、雪野は見逃さなかった。

大通りの両側には、新しい軍奉行が若くて良い男だという噂を聞きつけた人々がずらりと並んでいた。やがて土埃を上げて白馬に乗った若い男が現れた。人見兵庫、二十四歳。きちんとした装束で背筋を正し、口元には柔らかな笑みを浮かべていた。道端の老人には自ら下馬して言葉をかけ、見物に出た子供には小銭を握らせた。人々の口からは感嘆の声が次々と漏れた。

しかし、雪野の目は違った。人見兵庫は口では笑っていたが、目は一度も笑っていなかった。老人に言葉をかける時、その瞳はわずかに上を向いていた。子供に小銭を渡す時も、視線はすでに周囲の反応を確かめていた。褒め言葉が浴びせられるたびに、顎の下の筋がわずかに強張った。

行列の脇を体格の良い武士が通り過ぎると、人々の視線がふとそちらへ流れた。その一瞬、人見兵庫の目の下に刃物のような光が閃いた。誰も気づかぬほどの深い場所から漏れ出たのは、嫉妬でも怒りでもなく、殺意であった。

雪野の指先が冷たくなった。

「父上、あの方は人の皮を被っておられますが、人を人として見る目を持っておられません」

現場は娘の袖を強く掴んだ。

「雪野、お前の読みが外れたことがないのは分かっておる。だが、表立って口にすれば我が家には災いが及ぶ。頼むから静かにしてくれ」

行列の後ろには、付け届けられた罪人たちが続いていた。最後に一人、縄につながれてよろめきながら歩く者がいた。無次郎と呼ばれる者である。乱れた髪が顔の半分を覆い、傷跡がぼろ布に染みついていた。片足を引きずり、骨が浮くほど痩せた体は、風にでも倒れそうだった。

「あれは人間か幽霊か。歩く屍が歩いておるぞ」

しかし不思議なことに、あれほど見すぼらしい姿でありながら、髪の隙間から覗く無次郎の顔の中で、鼻と顎の線だけははっきりとしていた。大きく据わった目は、血の気のない顔の中でなお光を宿していた。

哀れに思った下人の一人が、柄杓に水を汲んで無次郎に差し出した。

「ほら、これをお飲み。いくら下人と言えども、人は人だ」

その瞬間、人見兵庫が馬を巡らせた。笑みを崩さぬ顔のまま、指先だけが正確に柄杓を払いのけた。水が土に散った。

「この下人は性根が曲がっておってな。今、躾けているところだ。むやみに物を与えれば癖がつく」

口調は穏やかであったが、無次郎を見下ろす目には剥き出しの憎しみと歪んだ快楽が絡み合っていた。

雪野は息を飲んだ。あれは憎しみではない。あの下人に苦しみを与えること自体を楽しんでいる。

雪野の視線は無次郎の顔の上にとまった。見すぼらしい髪を取り除いてみれば、無次郎の骨格は下人のものではなかった。広く、くっきりと通った美骨。大きく厚みのある耳。田畑を耕して死ぬ者の骨ではなかった。何より目だ。血の気を失った顔の中で、無次郎の目だけはまだ死んでいなかった。深い井戸の底の残り火のように、世に向けた怒りが黒く焼け焦げながらも消えずに残っていた。

雪野の胸が大きく鳴った。この人は下人として死ぬような人間ではない。

行列を見物していた陶芸の師匠の娘・与田美が、無次郎と目が合うと頬をほのかに染めた。それを見た人見兵庫の顎に石のような力が入るのを、雪野は見逃さなかった。

人見兵庫は何事もなかったかのように、随身の武士に命じた。

「あの芸人に、明日から陣屋の大岩を一人で運ばせよう」

屈強な男が三人がかりで扱う岩を、あの骨だけの下人が一人で運ぶなど、武士は首をかしげたが、人見兵庫は答えを待たずに作り物めいた笑みで馬を進めた。

着任の翌日から、無次郎の食事は一日一回、他の下人たちの食べ残した冷えた粥一杯にまで減らされた。数日後にはそれさえ二日に一度となり、「この者に食べ物を与える者は無打ちとするぞ」と触れが出された。若い下人たちは無次郎が水を汲みに行くたびに押しのけ、粥を取ろうとすれば足をかけて転ばせた。

無次郎は彼らを押し返す力がないわけではなかった。拳を握ると手の甲に筋が浮き上がった。それでも、一度も手を上げなかった。

数日後、足の悪い老いた下人の常吉が、水瓶を運ぶ途中で壺を割った。人見兵庫が鞭打ちを命じた。老いて痩せた体に鞭打ちは、骨が折れることもあり得た。

無次郎が前に進み出た。

「私が割りました」

庭にいた者たちが顔を上げた。誰もが常吉が壺を割ったところを見ていたからである。常吉は震えながら無次郎を見上げた。無次郎は常吉を見ず、ただ一歩前に出て、老人の体を庇うように立った。

「嘘までつくとはな。鞭打ちに処す」

人見兵庫の口元に、ゆっくりとした笑みが広がった。

無次郎は背中を露わにして地面に伏した。すでに幾重にも重なった古い傷跡が刻まれた背中に鞭が振り下ろされるたび、肉の裂ける音が庭に響いた。無次郎は歯を食いしばり地面を掴んだ。悲鳴の一つも上げなかった。指先からだけ血が滲み出た。

その様子を、陣屋の近くで見ていた者があった。与田美である。父の使いで陣屋に立ち寄った美は、血まみれになった無次郎が引きずり出されるのを目にしたのである。美はどうしても見て見ぬふりができず、辺りを確かめてから水と傷薬を持ち出し、無次郎の脇に膝をついた。

無次郎が顔を上げると、美の頬がほのかに染まった。その瞬間、人見兵庫の視線が飛んできた。薬を当てる美の手が止まり、人見兵庫の顎に石のような力が入った。

「怪我をした下人の哀れを催すとはな。明日から運ばせる岩を倍にせよ」

二日目のことであった。無次郎は三日間、関水以外何も口にしていない体で、屈強な男三人がかりの岩を抱えた。背中の傷からは血が滲み始めていた。一歩目で膝が折れ、歯を食いしばって再び立ち上がった。二歩、三歩。腕の血管が浮き上がり、口の中で生臭いものが込み上げた。

五歩目で無次郎の口から赤黒い血が吹き出し、岩が地面に落ち、無次郎はその傍らに崩れ落ちた。指先が土を掻いたが、もう体を起こすことはできなかった。

人見兵庫は倒れた無次郎の脇腹を、鞭の先で軽くつついた。道端に倒れた獣が生きているか死んでいるかを確かめるように。

「もう使い物にならなくなったな。陣屋の外に捨てておけ。野犬の餌になるがよかろう」

下人たちが無次郎の腕を掴んでずるずると引きずり、大通りの脇に放り出した。

日暮れ時、貧しい者たちに薬を配って帰る途中の雪野が、無次郎を見つけた。侍女のお国が震え上がって止めたが、雪野は聞かず、裾が土にまみれるのも構わず膝をついた。無次郎の手首を掴むと、指先に細く弱い脈が伝わった。

無次郎の目がわずかに開いた。死にかけた瞳の中に、雪野は着任の日に見たのと同じ光を見つけた。黒く焼け焦げても消えぬ、残り火。

この人は死んでいない。

「この人を、私が引き取ります」

見回りに出ていた人見兵庫が馬を止め、嘲るように笑った。

「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」

現場が慌てて割って入ったが、雪野は腰の小判箱を解いて、お国に渡した。

「これを質に持っていき、一両に変えて参れ。急いで。人の命を買うなら、一銭でも安いものです」

雪野は金だけを渡さなかった。陣屋の奉行所と村の名主を証人に立て、正式な証文を作らせた。無次郎に対するあらゆる所有権と処分権が雪野に移り、一度限りの証文であり、元の主がいかなる理由でも再び連れ戻すことはできないという一文まで加えさせた。人見兵庫は、どうせ三日と持たずに死ぬものだと思い、気にも留めず証書に判を押した。

嫁入り前の娘が男の下人を屋敷に置くことなどできぬと父が言うと、雪野は父と見物人たちを順に見回し、はっきりとした声で言った。

「それならば、私はあの歩く屍の下人に嫁ぎましょう。死にかけの命一つを我が家で生かすことを、誰が恥と申せましょうか」

辺りが一瞬静まり返り、それから笑いが起きた。人見兵庫も大きく笑った。

「面白い。あの男が息を吹き返して婚礼の衣をまとう日が来たら、私が自ら祝いの酒を届けよう」

雪野は笑い声に眉も動かさず、お国に板を持ってこさせ、無次郎をそっと乗せた。

輿の上で無次郎はかすかに目を開け、告げた。

「私を助けたことを、必ず後悔することになりますよ」

雪野は歩みを止めなかった。馬上から雪野の背を見つめる人見兵庫の目からは、すでに笑みが一滴も残っていなかった。

雪野は無次郎を、母屋から離れた離れに寝かせ、村で最も医術に長けると言われる石田源兵衛を呼んだ。石田源兵衛は無次郎の着物を脱がせながら、言葉を失った。

背中には何年にも渡って繰り返し打たれた鞭の跡が幾重にも重なり、古い傷跡の上に新しい傷が増え、その上にまた硬い皮膚が育ち、背中全体がでこぼこの畑のようであった。左の肋骨の一本は折れたまま、おかしな向きにくっついていた。

「これは一年や二年で打たれた体ではない。生きていること自体が不思議なくらいです。足は完全には戻らぬかもしれません。内臓も傷んでおりますので、当分は粥を一さじずつ飲ませる必要があります」

雪野は頷き、薬の処方を受け取った。その日から雪野は眠りを削った。夜明けに薬を煎じ、朝に粥を炊き、昼には傷を洗った。お国はお嬢様が倒れてしまうと止めたが、雪野は無次郎の傷の血が引くまで手を休めなかった。

三日目の夜のこと。雪野はぬるま湯に浸した手拭いで、無次郎の体に滲んだ血を拭っていた。無次郎は意識を取り戻していながら、しばらく目を閉じたまま動かなかった。雪野の手が胸元の傷に伸びた瞬間、無次郎がその手首を強く掴んだ。骨が浮くほど痩せた手であったが、恐ろしいほどの力であった。

無次郎がゆっくりと目を開けた。濁っていた瞳に、冷たく鋭い光が浮かんだ。

「高尚なお嬢様が、汚い者の体を自らお拭きになる理由は何でしょうか? 」

雪野が答えずにいると、無次郎の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。

「よく洗って磨いておけば、それなりに見られる顔になるゆえ、夜のお相手にでもお使いになるおつもりで? 」

お国が飛び出して叫んだ。

「この不届き者! お嬢様がお前を助けようと、行く晩も眠らずに看病なさったのに、何という物言いか!

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無次郎は雪野から目を離さなかった。

「そうでなければ、力のある下人が一人必要だったのでしょうか。助けた恩を体で返せとおっしゃるおつもりで? お家様が落ちぶれた命をお拾いになる時は、必ず理由がありますからな。遊女か、体か、時には命そのものを取るためです。お嬢様は、私から何を取るおつもりで? 」

雪野は手首を掴まれたままでも、顔一つしかめなかった。

「私はお前の何かを奪うために助けたのではない」

「そのお言葉を、信じよとおっしゃるのですか? 」

「信じよとは強いはしない。ただ、私が生きている間は、傷が腐らぬよう手当てをするつもりだ。死にたければ我が家の外へ出て好きにすれば良い。だが、私の目の前で死なせはしない」

無次郎の目がわずかに揺らいた。

雪野はしばらく彼を見つめてから、静かに付け加えた。

「それと、夜の相手など不要だ。今のお前では、私の腰まで手が届くことすらできない」

お国が口を開けたまま固まり、無次郎は初めて言葉を失った。雪野は何事もなかったかのように手拭いを再び湯に浸した。

「くだらぬ心配はやめて、おとなしく寝ておれ」

無次郎は再び冷笑を浮かべようとしたが、なかなか口元が上がらなかった。

それから後も、無次郎は心を開かなかった。雪野が尋ねると顔を背け、「死にかけの下人になど、何の意味がありましょう。無次郎とお呼びください」と答えるだけであった。

数日後の夜、雪野は離れの前を通りかかり、中から漏れるうめき声を聞いた。無次郎が悪夢にうなされていた。布団を蹴り飛ばし、冷汗に濡れた額を振りながら、途切れる声でつぶやいていた。

「父上、証文を焼いてはなりません。お許しください」

声が枯れ、眠りの中でも手が宙をまさぐっていた。何かを掴もうとするような、あるいは何かを止めようとするような、必死な仕草であった。

雪野は戸の前で足を止めた。「父上」という呼びかけと「証文」という言葉が耳に残った。ただの下人が眠りの中でうなされるにしては、あまりに重い言葉であった。雪野は中に入らなかった。無次郎が自ら語る時を待つことにした。

昼間、無次郎は横になったまま雪野の家の様子を眺めていた。武家の善意には必ず隠れた見返りがあると信じていたからである。しかし奇妙であった。

不作で年貢を納められなかった百姓が訪ねて来た日、雪野は返済の期限を大幅に伸ばし、幼い子に使うようにと粥と薬代まで届けさせた。女中の沖野が奥の財布を盗んだと濡れ衣を着せられた日には、他の奉行人たちが「下働きに違いない」と決めつけて鞭を求める中、雪野は人相だけで判断せず、財布が消えた時刻に誰が奥に出入りしたかを一つ一つ確かめ、庭の隅に捨てられた包みから本物の下手人の手がかりを見つけ出した。

無次郎はそれらの様子を黙って見ていた。褒められるためではなかった。粥を届ける時、雪野の周りには誰もいなかった。誰も見ていないところでも、同じ振る舞いをする人であった。

無次郎は知っていた。自分が経験してきた世の中では、善意には必ず見返りがついた。忠義を誓った主家は父を守らなかったし、恩を受けたと言っていた者たちは家が潰れると一斉に背を向けた。だから、この世に無償で施す者などいないと信じていた。

しかし、このお嬢様はなぜ見返りを求めないのか。無次郎の心の奥で、久しく閉ざされていた何かがわずかに軋んだ。

十日ほど経ち、無次郎が初めて自ら体を起こした。

「私が借りた薬代と粥代を全てお返しします。返し終えたら、お暇を出してください」

雪野は無次郎をじっと見つめた。

「借りを返すと言いながら、また死に出ようというのか。お前がどこへ行くべき人間かは、後で決めても遅くはない。今出れば三日と経たずに倒れる。借りを返すと言い張ることは、自らの命を捨てるのと変わらぬ」

無次郎は言葉を返せなかった。

数日後、お国が薬屋から受け取った処方箋を手に台所で困り果てていた。漢字でびっしり書かれた薬の名と分量を逆さに持ち、なかなか読めずにいた。

縁側に座っていた無次郎が、何気なく言った。

「それは逆さだ。一行目は大木草、五文。二行目は遠志に、三文半。三行目の薬の名は逆木だから、逆さと間違えるな」

お国が目を丸くした。

「お前、字が読めるのか」

無次郎はそこで初めて自分の口にした言葉に気づき、口をつぐんだ。しかしすでに遅かった。台所の戸の影から、雪野が見ていた。

雪野の視線は無次郎の顔ではなく、指先に向けられていた。右手の人差し指と中指の内側に、長く固く育った蛹。筆を長く握らねば生じない蛹であった。

雪野は口を開かなかった。ただ台所に戻り、薬を煎じながら心の中で静かに繰り返した。

下人の手ではない。この人は、一体何者だったのか。

二月が経った。雪野の心を尽くした看病と地道な養生のおかげで、無次郎は杖なしで短い距離を歩けるようになった。足の引きずりは完全には消えなかったが、曲がっていた腰は伸び、青白かった頬に血の気が戻ると、無次郎の姿は、歩く屍だった頃とはまるで別人であった。

ある日、雪野は無次郎を連れて市に出た。市に入るなり、女たちの目が無次郎に集まった。若い男衆は何度も振り返って見つめ、ある女は息を呑むように近づいて声をかけた。

「若いの、どちらから来た人じゃ。この村では見ない顔だけれど、そこの茶屋で一杯どうじゃ」

無次郎が顔を伏せて通り過ぎると、女は名残惜しそうに溜め息をついた。茶屋の前ではもっと露骨な言葉が飛んだ。

「あの顔なら、花町に出しても大金を取れるだろうよ」

「ああ、もったいない。下人でなければ、縁談が引く手数多な顔じゃのに」

脇にいた男たちも笑い声をあげた。

「早瀬様が一両で買われたのも、頷けるよ。よほど使い勝手が良さそうだ」

「はっはっは」

笑い声が市に広がった。無次郎は歩みを止めなかった。口元には無心な笑みが浮かんでいたが、握った拳の甲には青い血管が浮き上がっていた。

市を出て家へ帰る道。雪野が先に口を開いた。

「人々に、物を売る者かのように扱われて、悔しくはないのか」

無次郎は淡々と答えた。

「下人の体は、元より主が価を定めるものです。今更のことでもありません」

「今更だからと言って、恥ずかしめを受けなくて良いわけではない。恥ずかしめを受けるにふさわしい身分の者が、受けているだけのことです」

雪野は足を止めた。

「身分が低ければ、人の体に勝手に価をつけて良いということか」

「世の中が、そういうものだということです」

「世の中が間違っているという勇気はなく、そういうものだと諦める方が楽なのだろうな」

無次郎の目が冷たく細まった。

「恵まれたお嬢様には、お分かりになりません。声を上げれば鞭を一つ余分に受け、頭を上げれば首が飛ぶだけです」

「お前は、初めから人であることを諦めたのか」

無次郎の目が怖ばった。

「人々がお前を物のように言うのに、お前自身が下人であることを当然だと受け入れているのではないか。それは彼らの恥ずかしめを耐えているのではない。彼らの言葉を、自ら認めているのだ」

無次郎の顎がぐっと硬くなった。

「私はお前の心の中に、人に身を売って生きる心を見たことがない。身分が人を変えるのではない。お前自身が変わるのだ。ただいまのお前は、再び裏切られるのが怖くて、世よりも先に自分自身を踏みにじっているだけだ」

無次郎の顔から、初めて皮肉げな笑みが消えた。雪野は先に体を返して歩き出した。

「次に、誰かがお前の価を勝手に口にしたら、黙っていないことだ」

「が両腕に拳を震えとおっしゃるのですか?

「言葉で勝てる相手がいて、まなざし一つで口を閉ざさせる者もいながら、なぜ先に拳を使おうとするのか」

無次郎はしばらくその場に立ち尽くし、そっと笑った。今度の笑みは、人を嘲る笑みではなかった。遠い昔に忘れていた自分の姿を、ふと思い出した者の笑みであった。

その日を境に、無次郎は雪野を世間知らずのお嬢様として見なくなった。

数日後、市で無次郎を見かけた人見兵庫の顔が強張った。歩く屍の面影はどこにもなく、市を通り過ぎるだけで女たちの首が回っていた。人見兵庫の口の中が乾き、指先が冷たくなった。

あの顔を知っていた。自分が生涯をかけて妬み続けてきた顔であった。

人見兵庫は、雪野が薬屋に入った隙に無次郎の前に馬を止めた。

「市に出るとは、ずいぶんと人並みの顔を取り戻したものだな」

「その名の男は、すでに死にました。軍奉行様ご自身が、死んだ者の死亡届をお作りになったでしょう」

人見兵庫の笑みが一瞬強張ったが、すぐに余裕を取り戻した。

「女に拾われたからと言って、自由になったつもりか。私の手を離れたからと言って、自由になったと思うな。私が息をする場所なら、どこであろうとそこは私の陣だ」

馬蹄が土を蹴って遠ざかった。荷を担ぐ無次郎の手が、わずかに震えていた。

同じ頃、藩から奉行所の見廻り検分が来るという知らせが届いた。人見兵庫は、母方の叔父・相模の殿様が集める私兵に送る兵粮を区別するための暗証を、長らく横流ししてきたのである。帳簿には米千俵とあったが、実際に倉にあるのは三百俵にも満たなかった。

人見兵庫は手代の吉兵衛を呼び、命じた。

「今夜、倉に火を放て。火が出れば、米がどれほどあったか誰にも確かめようがない」

「裏番と使い走りの子供たちが、中で夜鍋仕事をしております」

吉兵衛がためらうと、人見兵庫は「戸締まりをして外から閉めておけ」と言い放った。

ちょうど同じ頃、早瀬家の前には誰も気づかぬ小さな変化が忍び込み始めていた。現場が日々服む養生薬に、人見兵庫の手が伸びていたのである。

その夜、倉に火が放たれた。

「助けてくれ。戸が開かない」

閉じ込められた裏番の声が、炎の向こうで裏返った。子供たちの泣き声が、それに続いた。

無次郎は、早瀬家の門前から夜空を焦がす炎を見て飛び出した。倉から立ち上る煙は、普通の火とは違っていた。人々は井戸から水を汲んで火の中に浴びせたが、油を伝ってさらに大きく燃え広がった。

「水をかけるな! 」

無次郎の声が響いた。普段の低く沈んだ声ではなかった。

「これは油の火だ。水をかければ油が跳ねて、火がもっと広がる」

無次郎は倉の造りと火の広がる方向を見て、瞬く間に頭の中で計算を回した。

「正面から入れば屋根が落ちる。東側の土壁を崩すのだ。壊すまで突き崩せ。一番手は井戸水を隣り合う建物にかけろ。火の燃え移りを防ぐことが先だ。二番手は柱で東の壁を崩せ。三番手は莚を水に浸して持ってこい」

人々は自分でも気づかぬうちに、無次郎の指図に従っていた。柱が二度東の土壁にぶつかると壁が崩れ、黒い煙が吹き出した。無次郎は濡れた莚をかぶり、崩れた壁の隙間から飛び込んだ。倒れていた裏番を見つけて外へ押し出し、柱の影にうずくまっていた子供二人を抱えて出た。

しかし、まだ一人残っていた。無次郎は再び中に入り、米俵の影に隠れて咳き込む子供を見つけ、胸に抱いた。外へ出る瞬間、燃え落ちた梁が崩れかかった。無次郎は子供を庇い、自らの背でそれを受け止めた。手の中で肉の焼ける匂いがしたが、それでも子供を離さなかった。

よろめきながら壁の外に出た無次郎の前に、雪野がいた。無次郎は膝を折り、雪野の胸に倒れ込んだ。

「戸は、外から閉められていた。中からは開けられぬ造りであった」

そう言い残し、意識を失った。

火が消え、夜が明けた。ただ煙の匂いの残る倉の前に、百姓たちが集まる中、人見兵庫が現れた。

「痛ましいことだ。必ず、恨みを抱く者の仕業であろう。聞けば、早瀬殿の下人の無次郎が、陣屋を追われた後、恨みを抱いていたという話がある。倉の近くで油の染みた布切れが見つかったゆえ、調べねばなるまい」

雪野が前に出た。

「無次郎は、私の所有する下人にございます。軍奉行様ご自身がお買い上げになった正式な譲渡証がございます。明白な証拠もなく、私の下人を連れ去ることはできません」

百姓たちがざわめいた。その時、背に火傷を負いながら体を起こした無次郎が、焼け跡の中に入っていった。

無次郎は黒く焦げた床を歩きながら、辺りを検めた。床の広さを歩幅で測り、米俵が置かれていた場所に残る痕と床に押された痕跡を確かめた。

「この倉の床は、真幅十二間、奥行き二十間。米俵を四十に積んでも、四百俵を超えることは難しい広さだ」

無次郎は焦げた跡が数個並ぶ場所を検証した。

「九百俵あったならば、床一面に痕跡があるはずだ。しかし、実際に俵が置かれていた跡は、片側の壁際にしか残っていない。この倉には、帳簿に記された九百俵など、そもそも入っていたことがない」

者たちの顔つきが変わった。無次郎は続けて、正面の戸を指した。

「この戸は、内側からではなく外側からかかる造りだ。中に閉じ込められた者が、どうして自分のいる場所に火をつけられよう。しかも油は、壁の下から燃え上がっていた。中から火を放ったのではない。外から油を巻いたのだ」

ざわめきが大きくなった。人見兵庫の顔から笑みが消えた。その時、無次郎が焼け残った帳簿の切れ端を一枚拾い上げた。数字と、その端に小さな点が残っていた。無次郎の目がわずかに細くなった。その点に見覚えがあった。かつての軍立ての際、相模の殿様と人見兵庫が兵粮と武具と兵の数を区別するために用いていた符丁であった。

無次郎は、人々が散っていくのを待ち、人見兵庫の脇を通り過ぎながら、彼にだけ聞こえるほど低く言った。

「軍奉行様は、今も兵粮を数える時に、あの符丁をお使いになるのですが」

人見兵庫の足が止まった。顔から血の気が引き、唇がわずかに震えた。無次郎は振り返らずに歩き去った。

人見兵庫は悟った。この者は記憶を失っていない。毒と鞭で正気まで曇らせたと信じていたが、彼は全てを覚えている。

その夜、人見兵庫は密書を書いた。

「叔父上に申し上げます。あの者は記憶を取り戻しております。口を開く前に始末する他ございません」

数日後、相模の殿様から返事が届いた。

「生きて陣屋に戻れば人々が疑いを持つであろう。口も証言も残さぬようにせよ」

それから数日後のことであった。焼き物を担いだ中年の男が、早瀬家の門前に現れた。お国が台所で使う器を選んでいる間に、焼き物売りは庭の隅で休んでいた無次郎にそっと近づいた。

「もしや、お心当たりがおありではございませんか? 」

男が差し出したのは、竹を縦に割った符の片方であった。使い道のなさそうな欠片であったが、無次郎の目は立ち口にとまった。刻まれた紋様の半分が見えた。それは、かつて身につけていた、ある家の紋。無次郎の指先がわずかに震えた。

焼き物売りは辺りを見回した後、懐から残りの半分の符を取り出した。無次郎は指先で立ち口をなぞった。三年間、身から離さなかったものであった。鞭を受ける時も、櫛にされる時も、溝に打ち捨てられた時も、最後まで奪われなかった一片である。

無次郎は、着物の裏の縫い目に縫い込んでいた自分の半分を取り出した。二つが合わさり、紋様が一つにつながった。

焼き物売りが膝をついた。

「若様、ご無事でおられましたか」

「松浦か」

「はい。大殿様に長らくお仕えした家来、松浦介助にございます」

離れで向かい合うと、松浦介助は無次郎の過去を語り始めた。

無次郎の父、高田裕は、かつてこの藩の家老を務めた名門の当主であった。一人息子の聡一郎は、幼い頃から学問と武芸に秀で、二十歳で家督を継いだ。同じ年に、人見兵庫は落第した。人々は人見兵庫の前でも構わず、「高田様の聡一郎様は、誠に天より授かった逸材だ」と言った。その言葉が積もるほどに、人見兵庫の劣等感は憎しみへと育っていった。

三年前、この藩内の一派が兵を上げ、正当な藩主を追い落とし、幼い一族の者を新たな藩主に据えるという軍立てを起こした。人見兵庫の母方の叔父・相模の殿が、その中心であった。高田裕は新たに立てられた者への忠誠を求められたが、これを拒否した。軍立てに加担せずとも罪に問われて処刑され、家は没収され、聡一郎は身分を落とされ、下人にされた。

人見兵庫はこの機を逃さなかった。役人に金を渡して聡一郎が病で死んだという死亡届を作らせ、「無次郎」という名を与え、自らの私物の下人とした。

軍立ての直前、相模の殿は、正当な藩主の命令のように見せかけた偽の書状を作り、城の守備を移動させ、城門を開けさせていた。人見兵庫は聡一郎に「陣屋の書類を清書する仕事だ」と偽り、その卓越した筆跡を利用して、その偽の書状の下書きを書き写させた。聡一郎は自分が何を書き写しているのか知らなかった。後になってようやく、それが父を死に至らしめた軍立てに使われた偽の書状であったことを知った。

自らの手が、父の死に利用されたという事実。それが聡一郎を最も深く踏みにじった真実であった。

偽の書状と加担者たちの書状、兵粮の帳簿は、清瀬藩や浦の裏川の下の隠し部屋に隠された。聡一郎はその作業にも動員されていた。この秘密を知る唯一の生き残りを見張るために、人見兵庫は聡一郎を遠くへ送らず、生涯手元に置こうとしたのであった。

高田裕という名を耳にした瞬間、聡一郎の顔から表情が抜け落ちた。幼い日、庭先で弓の稽古をつけてくれた父の声が、ほんの一瞬耳の奥に蘇った気がした。しかし聡一郎はすぐにその記憶を胸の奥深くへ押し戻し、顔を伏せた。

「藩主様を裏切った者たちは皆死んだ。父上もお亡くなりになった。義を語った者たちは、家が潰れると一斉に背を向けた。今更、何を得るというのか」

松浦が涙を流しながら去った後、雪野が静かに言った。

「裏切る者がいるからと言って、皆を信じなければ、人見のような者たちがこの世の思いのままにするだけです。高田裕という名が無実の者として残り、藩主様が無次郎という下人の名のまま死ぬのを、そのままにするおつもりですか? 」

聡一郎の指先がわずかに震えた。

「世は変わらぬかもしれません。命をかけても何も変わらぬかもしれません。それでも、父上の名を正すという機会があるのに、死んだ人間のふりをして隠れ続けることができますか?

聡一郎は長い沈黙の後、ゆっくりと体を返した。

「無次郎は、人見兵庫がつけた名です。私の本当の名は、高田聡一郎と申します」

雪野は頷いた。驚きはしなかった。初めて無次郎の顔を見た時から、この人は下人として死ぬべき人ではないと感じていたのである。

聡一郎が自らの名を取り戻す決意をした日、人見兵庫の歯もまた動いた。手代の吉兵衛は、焼け跡で見つかったという油染みの布切れを聡一郎の部屋に密かに忍ばせた。同時に、早瀬家には相模の殿と現場が密かに書状を交わしていたかのように偽装した偽の密書が仕込まれた。現場の薬にも手が加わっていた。毎日服む養生薬に、少しずつ毒草が混ぜられ、記憶を曇らせ体を震わせていた。現場が正気を失って、家老としての記録を誤って書いたと言い立てるつもりであった。

雪野のお国は拉致され、雪野と聡一郎が何かを企んでいたと自白させようとされたが、口を割らなかった。与田美には、父の妻を人質にすると脅しがかかり、聡一郎の死亡届を見なかったと証言せよと迫られた。

全ての準備が整った人見兵庫の手先が、早瀬家に押し入った。武士たちが屋敷を改めると、あらかじめ仕込んでおいた偽の密書が出てきた。

「早瀬殿。これは何でございますか? 相模の殿様への書状が、屋敷から出てまいりましたぞ」

雪野が前に出た。

「この書状の筆跡は、陣屋で使うものではございません。我が家には、このような紙はございません」

人見兵庫は今度は、正式な詔書を持ち出した。雪野はそれを丹念に読み、顔を上げた。

「この詔書に記された作成の時刻は、牛の刻です。しかし、倉に火が出たのは、虎の刻でした。火が出る前に詔書王をお作りになったということでございましょうか」

周りの百姓たちがざわめいた。証拠も詔書も雪野の前で崩れると、人見兵庫は家全体を謀反に絡める策に出た。

「早瀬現場とその娘、無次郎を、謀反の疑いにて召し取る」

聡一郎は懐にしまってあった証文の端に、一瞬だけ目をやった。皆が自分を見捨てた時、この一枚だけが自分を人として買い取ってくれた証であった。

「書状は、私が隠しました。早瀬様、お嬢様は関わっておられません。私だけをお連れください」

雪野が腕を掴んだ。

「何を言っているのですか? それは嘘です」

聡一郎は静かに雪野の手を外し、小さな声で言った。

「お嬢様まで謀反にされてしまえば、真実を探す者がいなくなります。外にいてください」

聡一郎は、自ら両手を差し出した。三年前と同じ縄であったが、今度は自ら差し出した手であった。

陣屋の牢で、人見兵庫は鞭を打たせながら尋ねた。

「裏川の下に何が隠されているか、言え。それから、高田裕の密書がどこにあるかもだ」

聡一郎は沈黙した。

「お前の父も、こうして耐え抜いて死んだ。最後まで藩主を守ると意地を張って、結局何を得たというのだ。謀反人という名と、一人も守れなかった無能な父という評判であろう」

聡一郎の目つきが変わった。死人のように沈んでいた瞳に、火が灯った。曲がっていた背がまっすぐに立ち、頭が上がった。無次郎の体から、家老・高田裕の子、高田聡一郎が立ち上がっていた。

「私が奪われたのは、私の名です。私自身ではない」

人見兵庫の笑みが強張った。彼は一歩後ずさったことに、自らも気づいていなかった。牢を出ながら、役人に命じた。

「明日、あの者を護送する。山道を使え。山道で野党に殺されたと見せかけ、護送の途中で始末してしまうのだ」

護送に立った四人の役人のうち、一人が道順に首をかしげていた。

「港へならば大通りの方が早いのに、なぜ山道を回るのか」

谷に差しかかったところで、あらかじめ待ち伏せていた松浦が、矢次を道に押し出し、行く手を遮った。後方では、雪野の奉行人たちが松明を掲げて現れた。

松浦介助は、震える役人たちに静かに尋ねた。

「あなた方は、吉兵衛の指示で、谷を過ぎたら荷を軽くせよと命じられてはいなかったか」

役人の一人が顔色を変えた。

「確かにそう言われた。馬が保たぬゆえ、谷を過ぎたら荷を軽くせよと」

「それは、この方を山中で始末せよという符丁ではなかったのか。あなた方は、知らぬ間に人殺しの片棒を担がされていたのだ」

二人は顔を見合わせ、震える手で刀を捨てた。残る一人は納得せず刀を構えて詰め寄ったが、松浦介助がとっさに体当たりしてその腕を押さえ、地に組み伏せた。最初に道順の不審を口にしていたもう一人だけは、その場に立ち尽くしたまま動かず、やがて自ら進み出て、後に真実を証言する者となった。

雪野は縄を手に取り、震える指で聡一郎の戒めを解いた。聡一郎はしばらく地に膝をついたまま動かず、やがてゆっくりと自らの足で立ち上がった。

聡一郎は声を荒げた。

「何ということをなさるのですか? 私が自ら捕えられた意味を、お分かりにならないのか。お嬢様まで謀反の一味とされてしまう」

「すでに謀反に絡められた家です。これ以上、悪くなりようもございません。これは、お嬢様が出るべきことではない」

雪野は聡一郎の目をまっすぐに見た。

「歩く屍に嫁ぐと申した者にございます。生きるも死ぬも、共にすべきことでございましょう」

聡一郎は口をつぐんだ。言い返す言葉がなかったからではない。雪野の目に、一瞬の揺らぎも見い出せなかったからであった。

この頃、与田美は自ら動いていた。父の妻を松浦の手の者に預けて安全な場所へ隠し回わせた後、人見兵庫の手下たちが聡一郎の行方を追って山へ向かう支度をしているのを、物陰から聞き取った。誰かに命じられたわけではなかった。見たこと、聞いたことを語ると自ら決めたのは、美自身であった。美は音を立てぬよう足音を殺し、後を追った。

雪野は父・現場の様子を確かめた。現場の手の震えと記憶の濁りは、日を追って悪化していた。しかし妙なことがあった。症状が悪くなる日は、決まって新しい薬を煎じて飲んだ翌日であった。雪野は薬を煎じた器の底に残る搦めかすをかき集め、医者の元へ持っていった。医者はかすを見て顔を強張らせた。

「これは、石投げの実です。養生薬にこれが混ぜられていたとすれば、飲むほどに正気が曇り、体が震えるようになります」

薬剤を納めていた薬屋は人見兵庫を恐れて口を割らなかったが、松浦介助が薬屋の家族を安全な場所へ移してからようやく、吉兵衛の指図で毒を入れたと自白した。

その夜も、現場はもうろうとしながら同じ言葉を繰り返していた。

「星の見えぬ場所に、星の軸を埋めた」

雪野は、幼い頃父と二人きりで山の奥深くに登った日を思い出した。今は使われぬ古い星見台があった場所であった。

雪野と聡一郎、松浦介助、お国の四人は、山道を半日歩いて廃れた星見台へたどり着いた。かつて星を見るために建てられたその場所は、今では蔦に覆われ、光を取り入れるための窓は崩れ落ちかかり、天体観測に使う道具は持ち去られていた。見るために建てられた場所でありながら、今はもう見ることのできぬ場所となっていた。

雪野は石壁を指先でなぞりながら検めた。壁の一角に、星座の記号と数字が刻まれていた。

「これは、高田裕様がお残しになった印にございます」

雪野は、家老として学んだ天文の知識と、幼い頃父から聞いた星座の話を思い起こした。北斗七星の絵が指す方向、その端に刻まれた数字は、三十三番目の石を示していた。聡一郎がその石を押すと、壁の内側に小さな空間が開いた。中にあった観天儀の中心軸を回すと、油紙に包まれた密書が現れた。

父の筆跡を見た瞬間、聡一郎の手が震え、目元が赤くなった。密書には、軍の日付と加担者たちの記録を改ざんした経緯、偽造された書状の存在、そして聡一郎の筆跡が用いられた偽の書状を本物と突き合わせて明らかにすることのできる記録が記されていた。そして最後に、一文が加えられていた。

「この密書を守る者は、家老の早瀬現場である。彼はこの一件に関与しておらず、罪を問わぬことを切に願う」

雪野の目から涙がこぼれた。

「これだけでは足りない。裏川の下に、偽の書状と原本の帳簿が揃って初めて、軍を完全に明かすことができる」

聴一郎がそう言った時、与田美が息を切らせて駆け込んできた。

「人見様たちが、すぐそこまで来ております」

松浦が窓の外を見ると、人見兵庫と吉兵衛、率いる武士が十名ほどが、廃れた星見台を取り囲んでいた。

「密書と共に出てくれば、命だけは助けてやろう」

聴一郎が答えずにいると、人見兵庫は待たなかった。

「火を放て。証拠も人も、一気に始末せよ」

武士たちが星見台に油を巻いた。乾いた茅と草が、瞬く間に火を吸い込んだ。熱気が石壁を伝って登ってきた。

「奥の石壁の方へ行け」

聴一郎が言った。松浦介助と美がお国の手を取って裏手へ向かう間、燃え落ちた梁が軋みながら崩れ落ちた。雪野は松浦介助を押し退けたが、自らは避けきれず、崩れた柱が雪野の足の上に落ちた。

「密書を、先にお持ちになって。これがなければ、何もありません」

聴一郎は、ほんの一瞬立ち尽くした。命か、真実か。しかし、三年間死んだふりをして生きてきた男が、初めて自分の意思で答えを選んだ瞬間であった。聡一郎は密書を懐に押し込むと、雪野の元へ駆け戻った。毒と拷問の後遺症が残る体で、崩れた柱を両手で掴み、歯を食いしばって持ち上げた。雪野が足を抜くと、聴一郎は雪野の腰を抱えて、崩れた壁の方へ走った。燃える梁が背後で音を立てて崩れ落ち、熱風が背を焦がした。

二人は石壁の隙間から抜け出し、草むらに倒れ込んだ。夜空が見えた。

「傷は、大丈夫か」

雪野は頷きながら、聡一郎の腕を掴んだ。

「あなたの手は、何ともない」

何ともないはずがないことは明らかであったが、雪野はそれ以上尋ねなかった。

廃れた星見台から抜け出した二人の前方を、人見兵庫が塞いでいた。刀を抜いた人見兵庫の顔は、松明の中で歪んでいた。

「よくも、生き延びるものだな」

声が震えていた。

「幼い頃からそうであった。学問をすればお前が先じ、弓を引けばお前が勝ち。道を歩けば人々は私に道を譲り、お前を見た。お前が謀反人の子として下人に落ちた時、私は初めて息ができた。人々がようやく、私を見始めたからだ。しかし、下人に落ちてもなお、女たちはお前を見た。鞭打っても、飢えさせても、歩く屍にしても、人々がお前を見ることをやめなかった。家老の娘までが、一両を出してお前を買っていった」

人見兵庫の声が裏返った。

「どれほど壊しても、終わりがなかった。なぜ、お前は死なぬのだ」

聡一郎は人見兵庫を見つめた。怒りでも、軽蔑でもない。哀れなものを見つめる目であった。

「それ故に、陣の文書を清書する仕事だと偽って、偽の書状を書き移させたのか。自らの手で、父を死に至らしめた軍立てに使う書を作らせておいて、その事実を握って、生涯口を封じようとしたのか」

人見兵庫の刀が止まった。雪野は人見兵庫の顔を見つめていた。刀を握る手は震え、目は聡一郎ではなく、仕切りに山の下、相模の下屋敷の方へ向いていた。この人が最も恐れているのは、聡一郎の刀ではない。母方の叔父に見捨てられることだ。

雪野が、落ち着いた声で言った。

「もう一つ、申し上げます。相模の殿様は、すでに動かれました。全ての罪を軍奉行に着せて、逃げられたという知らせです。隠せと命じたのは相模、聡一郎様を下人に落としたのも相模、兵粮を横流ししたのも相模であると」

人見兵庫の顔が真っ白になった。

「嘘だ。叔父上が、私を見捨てるはずがない」

「そうでしょうか。ならば、裏川の証拠を隠せと命じられたのは、どなたでしょう?

軍奉行様お一人でなさったことでしょうか? 」

人見兵庫の口から言葉が溢れ出た。

「裏川の件は、叔父上がしばしばお命じになったものだ。偽の書状も、兵粮の帳簿も、加担者の名簿も、全てを叔父上が隠せとおっしゃったのだ。私一人が成したことではない」

石壁の影に隠れていた松浦介助と、そして追ってきていた美が、その一部始終を聞いていた。

聡一郎は人見兵庫に近づいた。人見兵庫が刀を振ったが、聴一郎は手首を掴んで捻り、刀を落とさせた。人見兵庫は、地に崩れ落ちた。

「殺せ」

嘲るように言う人見兵庫に、聡一郎は落ちた刀を足で押しやりながら答えた。

「私の命は、私一人で決めるものではない。法と藩主様の御前で、裁かせていただく」

一行は清瀬藩の裏川へ向かった。ここの石板を取り除くと、小さな隠し部屋が現れ、偽の書状、偽造された書状の原本、兵粮の配分の帳簿、軍立てに加担した者たちの書状が見つかった。陣屋からは、一両の証文と聡一郎の偽の死亡届も確保された。

松浦介助は、その夜のうちに証文を写し取った。聡一郎の行方を三年探し続けた道中で知己を得た、軍立てで追い落とされた藩主を擁する中心人物の一人、重臣の元へ、自ら証拠を届けたのである。高田裕の密書と本物の記録を目にした重臣は、旧藩主派の中にすでに迷いを見せる者たちがいることを知っており、その夜のうちに動いた。翌朝には、陣屋の守備の一部が、相模の殿の命令に従うことを拒み始めていた。

追い詰められた人見兵庫は、夜のうちに清瀬藩家老、与田分の元へ逃げ込んだが、与田分はすでに松浦介助の手の者に囲まれた後であった。船をまとめて半島の外へ抜かれようとした人見兵庫の前に、聡一郎が立っていた。最後の力で雪野の腕を掴もうとした人見兵庫の手首を、聡一郎は疎かに捻り上げた。その瞬間、藩の城門が開き、松明を掲げた軍勢がなだれ込んできた。

「清瀬軍奉行、人見。謀反並びに殺人、文書偽造、殺人の罪により、召し取れ」

人見兵庫の顔から、最後の血の気が抜けた。彼が鞭打ち、飢えさせ、溝の中に打ち捨ててきた下人たちが並ぶ中、誰も頭を下げなかった。今度は、人見兵庫の方んが顔を上げられなかった。

藩主様は高田裕の密書と偽の書状、聡一郎が騙されて書き移した偽の書状の経緯を、逐一確かめられた。高田裕が最後まで忠誠を貫き、謀反の濡れ衣を着せられたことが明白に明らかにされ、謀反人という汚名は正式に除かれた。高田家は再興され、不当に没収された旧領地と屋敷のうち正当な分が返され、高田の忠誠は藩の記録に長く残されることとなった。

藩主様は、聡一郎を御前に呼ばれた。下人として生きてきた癖が抜けず、三年間曲げてきた腰は、すぐには伸びなかった。

「顔を上げよ」

聡一郎が顔を上げると、藩主様は自ら座を降り、その肩を掴んだ。

「我が父が命をかけて守った座に、今再び後継ぎがついた。高田裕に受けた恩を、せめてその子に返したいと思う」

聴一郎は、父の後を継ぎ、家老として藩政に加わることを命じられた。

「ご恩は、身に余ることにございます。ただ、旧藩主派より没収された領地までは、頂戴いたしません。父の遺領として、旧領の境界の確認のみを取り戻したく存じます」

早瀬現場は、証拠を守り抜いた功績を認められ、家老の高い地位についた。雪野は、謀反の証拠を探し、数多くの命を救った功により、藩から表彰を受けた。松浦は高田家の家老に戻り、お国は命をかけて真実を明らかにした功を認められた。

相模の殿と人見兵庫は、それぞれの罪に応じて裁かれた。

処刑を待つある日、聡一郎は雪野の前で跪き、深く頭を下げた。

「お嬢様は、歩く屍の無次郎に嫁ぐとお決めになりました。今、高田聡一郎の名で、改めてお願い申し上げます。私と、夫婦になっていただけますか? 」

雪野は聡一郎を見下ろして、微笑んだ。

「私が助けた人は無次郎であり、私が待っていた人は高田聡一郎でした。どちらもあなたである以上、私の答えが変わることはございません」

軍が終わった後、聡一郎は丁寧に折り畳んだ一枚の紙を広げた。一両で下人を買い取った証文であった。

「なぜ、それを捨てずに大切になさっておられるのですか?

聡一郎は証文を折り畳んで懐に入れながら、答えた。

「これは、下人であった証ではございません。皆が私を見捨てた時、お嬢様だけが人として買い取ってくださった証にございます」

雪野の目が熱くなった。

人の値打ちとは、一体どこにあるのだろうか。良い家に生まれれば尊い人であり、落ちぶれた境遇に落ちれば値打ちのない人になるのだろうか。立派な着物をまとえば丁重に扱われ、ぼろをまとえば畜生のように扱われて良いのだろうか。

馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、と古くから言われる。順風の時は、誰もが笑顔を作れる。しかし、人の真の値打ちは、全てが崩れ落ちた時にこそ現れるものだ。持てるものを奪われ、名を消され、それでも折れずに残るものがあるならば、それこそがその人の真の力であり、その力を見抜く目もまた、同じだけの節義を要する。

輝く外見に惑わされて称えることは易しい。しかし、見すぼらしく壊れた人の中に、まだ消えぬ火を見い出すことは、真心を持って人を見つめる者だけができることである。

一両という値が、その人の全てではなかった。歩く屍という異名が、その人の終わりではなかった。

誰かがこの世で最も低い場所にいる時、その中にいる人を見つめてやれるかどうか。それこそが、人を人らしくする、最も尊い力なのかもしれない。

今日の物語が心に残られた方は、身の周りで今一番苦しい時を過ごしている人を思い浮かべてみて欲しい。その人の見た目ではなく、心を一度だけ覗いてみて欲しい。あなたのその一度が、誰かにとってはもう一度生きていく理由になるかもしれないから。

絵巻でございました。