「場所取りご苦労様。あみさん、もう帰っていいわよ」…

「場所取りご苦労様。あみさん、もう帰っていいわよ」...

「あかりさん、9年間介護してくれてありがとう。でも遺産は全部、長男に残すから。嫁は他人だしね」

義母はそう言って、涼しい顔で茶を啜った。私は静かに頷いた。

「はい、問題ありませんよ。もう新居に引っ越しますので」

「え?新居?」

義母の眉がピクリと動く。私は立ち上がりながら、穏やかに答えた。

「別に遺産が欲しくて介護してきたわけじゃありません。亡き夫が大切にしてきた方だから、支えたかっただけです。でも、私が他人なら、もう用はないでしょう」

義母は慌てたように「ちょ、ちょっと待ちなさい」と声を上げた。その声は裏返り、壊れた楽器のように震えていた。私は思わず、ほんの少しだけ口元を緩めてしまった。義母はそれを嘲られたと受け取ったらしく、眉間に深い皺を刻んだ。

「何ヘラヘラしているのよ。まだ話は終わっていないわ」

「もう話すことはありません。どうせ何を言っても、あなたは聞く耳を持たないでしょうから」

義母はヒステリックに捲し立てた。

「つまり私を捨てるって意味でしょ?それを理解しているわけ?それでも出ていくなら、あなたは人の心がない悪魔よ」

私は1ミリも動じなかった。自分のことを大切にしてくれない相手に、何を言われようが心は揺れない。むしろ呆れが倍増するだけだった。

「あかりさんがいなくなったら、は斗のご飯はどうするのよ!あの子が可哀想だと思わないの?もし体調を崩したら、どう責任を取るつもり?」

私は思わず笑いそうになった。は斗というのは義母の長男、つまり義兄だ。成人している息子の食事を心配するなんて、彼が幼稚園児にでも見えているのだろうか。

「自分で作るか、スーパーやコンビニで買えばいいでしょう」

「それにあかりさんは専業主婦でしょ。そんなあなたが1人で生活していけるとは思えないわ。どうせ新居に引っ越すなんて、私たちを捨てるための嘘でしょ」

義母は私が亡き夫の遺産で生活していると思い込んでいる。だが、残念ながらそれは全くの間違いだ。彼女は私のことを何も知らない。

「くだらない嘘をついていないで、早く食事の準備をしなさい。は斗がハンバーグを食べたいって言っていたから」

「私は1人でも十分生活していけますよ」

「は?あなた、まだそんなことを言うの?」

義母は目を三角に吊り上げた。私は無表情のまま、淡々と口にした。

「1人で生きていくことができないのは、私ではなくは斗さんの方ですよね」

義母の顔から表情が抜け落ちた。現在、は斗は無職で引きこもりだ。夜遅くに寝て昼過ぎに起き、私が作った食事を取った後はまた部屋に戻っていく。仕事を探している様子はない。

義母は下唇を噛み、目を合わせないようにしながら反論した。

「あ、あの子には私の遺産があるから大丈夫なのよ。30代なんてまだ若いんだから、いつだってやり直せるに決まっているわ」

私は首をかしげた。遺産があるから大丈夫というなら、なぜ同じように遺産がある私のことだけを「1人で生きていけるはずがない」と攻めるのだろう。それに、30代でやり直せるなら、私の方がまだ若いではないか。

私はそれ以上詰め寄らず、ある人物に電話をかけた。義母には現実を知ってもらう必要がある。

数分後、やってきた人物を見て義母が目を見開いた。

「ど、どうしてあなたがここに……」

「あかりさんに呼ばれたからに決まっているでしょう。そうじゃなきゃ、自分から足を運んだりしないわ」

その人物とは、義母の実の娘であるユナだ。2人は絶縁状態にあった。ユナは嫌悪感を隠そうともせず、義母に封筒を差し出した。

「何よ、これ?」

義母は受け取ろうとしない。ユナはしびれを切らし、ほとんど叩きつけるようにして封筒を握らせた。義母がようやく開封する。中に入っていたのは、びっしりと細かな文字が並んだ書類。彼女はそれを読むうちに、目を大きく見開き、顔色が真っ白になっていった。

それは、は斗に関する調査報告書だった。ユナは金融関係の知識を生かし、彼の資産状況を調べていたのだ。その結果、彼が義母の資産を担保に多額の借金を抱えていることが判明した。

「な、なんて……」

義母は現実から目を背けるように、書類を乱暴に封筒へ戻した。

「嘘よ!あの子が私に隠れて借金をするなんて!」

「1人で生きていくことができないのはは斗さんです。これは紛れもない事実ですよ」

「どうせこれも私を騙すための嘘でしょ!あなたたち2人で結託して、こんな書類まででっち上げて!」

義母は顔を真っ赤にして怒鳴った。書類という証拠があるのに、自分の息子を盲目的に信じるとは。私はユナと顔を見合わせ、ほぼ同時に首を振った。話が通じない相手に、これ以上説明する意味はない。

「お母さん、は斗さんとちゃんと話し合ってください。他人の私は首を突っ込みませんから」

「他人」という部分を強調したのは、意趣返しだ。義母は青筋を浮かべ、「出ていけ!」と叫びながら私たちを追い出した。

「2度とうちの敷居をまたがないでちょうだい!」

バタンと扉が閉められた。私は心の中で呟いた。必ず後悔する日が来るぞ、と。

それから数日後、テーブルに置いたスマートフォンが振動した。画面に表示されていたのは、予想通りの義母の名前だった。私は冷めた目で画面を見つめ、応答ボタンを押した。

「もしもし」

「お願い!あかりさん、助けてちょうだい!」

叫び声が鼓膜を震わせた。義母は畳みかけるように語り始めた。

「このままだと私もは斗も生活できなくなってしまうわ!生活費が底をついて、光熱費も払えなくなって、電気も水道も止まってしまったのよ!」

掃除も洗濯もできず、家は悲惨な状態らしい。食費に回すお金もなく、冷蔵庫に残っていた食材でどうにか凌いでいるという。

「は斗が毎日お腹が空いたって騒いでいるの。可哀想で可哀想で。あかりさん、何か食べ物を持ってきてくれない?」

私は淡々と、彼女が気づいていなかったであろう真実を伝えた。

「お母さん、知っていますか?実は私が生活費のほとんどを出していたんですよ」

「え?」

私は介護だけでなく、義実家の全てを支えていた。生活費の支払い、料理や掃除などの家事、車での送迎。自分なりに尽くしてきたからこそ、「嫁は他人」という発言に痛く失望したのだ。

「家計の管理は私がしていたから、生活費の出所について知らなかったんですよね。は斗さんが借金していたことを知らなかったから、てっきり私の貯金から出していると思い込んでいたんでしょう」

「本当なの?あかりさんが生活費を出していたって?」

「本当ですよ。実はお母さんの介護をしながら、在宅ワークもしていました。亡き夫から引き継いだ仕事です。彼は自分がいなくなっても生活していけるようにと、用意してくれたんです。だから、1人で生きていけると宣言したんです」

「待ってちょうだい!私たちのことを助けてくれないの?」

「はい。私は他人ですから。人様の家庭の問題に介入する筋合いはありません」

「ごめんなさい!あなたは私たちのために色々してくれていたのに!お願い、許して!」

義母が心の底から反省していることは伝わってきたが、私は許せなかった。

「私はお母さんたちをもう助けられません」

そう言い放ち、返答を待たずに電話を切った。

その翌日、再びスマートフォンが震えた。今度は義母ではなく、は斗からだった。私は顔を歪めつつ、応答ボタンをタップした。

「もしもし」

数秒の沈黙の後、弱々しい声が聞こえてきた。

「ああ、よかった。着信拒否でもされてるんじゃないかって焦ったよ。出てくれてありがとう」

「何のご用ですか?」

「どうしても直接会って話がしたいんだ。本当にあかりさんには申し訳ないことをしてしまったから、せめて直接顔を見て謝りたくて」

私は眉をひそめた。彼がこんなことを言う人間だっただろうか。どうせ何を言われたって許せないのだから、会う意味などない。

「直接謝罪などはしなくていい。だから連絡してくるのも、もうこれきりにしてもらえないか」

「お願いだ!どうしても話がしたいんだよ!」

「私は話したくない」

押し問答が続き、私は折れてしまった。会って話した方が早いと判断したのだ。ユナと共に待ち合わせのカフェへ向かったが、着くなり先に来ていたは斗がギロリと睨みつけてきた。

「どうしてそいつも一緒なんだ」

ユナへの嫌悪感を隠そうともしない。電話での弱々しい態度はどこへやら。どうやら、電話では反省したように見せかけて、直接会ったら上から目線で従わせようという魂胆だったようだ。

「お前のせいで母さんが寝込んでしまったんだぞ!お前が新居に引っ越すだとか、今後助けないとか言ったせいで、見捨てられたってショックを受けて可哀想だとは思わないのか?」

「今の状況を招いたのは誰だと思っているんですか?」

「俺のせいじゃない!」

彼はギャーギャーと喚き続ける。まるで駄々をこねる子供のようだ。

「俺たち家族だろ。家族は支え合うものだろうが」

「家族じゃありませんよ。お母さんが『嫁は他人』だって私に言ってきたんですから」

は斗は言葉に詰まり、口をパクパクとさせた。そこにユナが追撃した。

「お兄ちゃんこそ家族と支え合う気がないくせに、あかりさんにばかり求めるのはどうかと思うんだけど。家族だからとか理由をつけて理不尽な要求を通そうとするなんて間違ってる。いい加減、自分本位な考え方はやめた方がいいんじゃない?」

すると、は斗は突然、床に体を擦りつけて土下座し始めた。

「頼む!見捨てないでくれ!どうか助けてほしい!お願いだよ!」

周囲の客がざわめく中、彼は借金をした理由を語り始めた。無職で引きこもりの状況から抜け出したいと思い、義母の資金を担保に再出発のためのお金を増やそうとした、と。

私はため息をついた。演技が上手だな、と悪い意味で感心してしまう。

「違うでしょ。そんな理由なんかじゃないはずだけど」

そう言うなり、私は鞄から取り出した写真を彼の前にばらまいた。そこには、は斗が女性と遊び呆けている様子が写っていた。

「お兄ちゃんが借金をしたのは、ただ単に遊ぶお金が欲しかっただけでしょう」

ユナの言葉に、彼は痛いところを突かれたように顔を歪めた。

「家族は支え合うものだっていうのであれば、お母さんと支え合って生きていってくださいね」

私は彼が私に突きつけてきた言葉を、そっくりそのまま返した。は斗は目と口を大きく開けて固まった。魂が抜けてしまったかのように、もうすがってくることも反論してくることもない。

私はユナと一緒にその場を去った。

その後、義母は福祉施設へ入居することとなった。ユナが彼女を説得し、行政の介入を促したからだ。は斗は家を手放さざるを得なくなり、安くて古いアパートに移り込み、アルバイトを始めたそうだ。しかし、まだまだ借金は返せておらず、借金取りに追われながら苦しい生活を強いられているらしい。

私はこの騒動から色々なことを学んだ。他人に依存するのではなく、自分で人生を選び取れば必ず道は開けるということ。そして、自分を傷つけてくるような人からは離れて、自分を本当に尊重してくれる人と生きるのが大切だということ。

今の暮らしがあるのも、亡き夫のおかげだ。常に感謝を忘れず、これからも幸せを噛みしめながら過ごしていきたいと思っている。

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