サイレンの音が夜の街を切り裂いて近づいてくる。時刻は午前2時を回ったところだ。都心の総合病院、救命救急センター。救急隊員の声が廊下に響いた。
「40代男性、自己血圧低下しています。」
俺は短く頷き、ストレッチャーにかけ寄った。水島看護師長がすでに受け入れの準備を済ませている。
「エコーを入れる。ラインもう1本。」
「はい、準備できています。」
彼女の声はいつも通り低く落ち着いている。俺の名前は佐藤浩司。45歳。この病院の救命救急センターに務めてもう7年になる。表向きはただの救急医だ。白衣はいつもシワだらけで髪も伸ばしっぱなしにしている。廊下ですれ違っても誰の記憶にも残らないような男だろう。それでいいと俺は思っている。
エコーのプローブを腹部に当てると、画面に黒い影が広がっていた。出血量はかなりのものだ。
「肝損傷グレード4。手術室、今すぐ抑えてくれ。」
「当直の外科は黒川先生ですが。」
俺は一瞬手を止めた。
「呼んでくれ。俺は応急処置だけ進めておく。」
水島は何か言いたげな目で俺を見た。だが口には出さなかった。彼女はそういう女だ。
10分後、手術室の扉が開いた。入ってきたのは外科部長の黒川慎吾だ。42歳、整った顔立ちに真っ白な白衣。病院のパンフレットにも医療雑誌のインタビューにも顔を出している。いわば看板医師である。
「ああ、また佐藤先生か。応急処置ありがとう。あとは私が引き継ぐよ。」
「肝損傷グレード4です。出血量は推定2リットルを超えています。」
「分かってる、分かってる。救急の先生はここまでで結構。ご苦労様。」
彼は手袋をはめながら軽く笑った。柔らかい言い方だったが、言葉の端々に棘があった。俺は無言で一歩下がる。水島が小さく息を吐いたのがマスクの上からでも分かった。
「しかし佐藤先生ももう45だろう。いつまで救急の下働きを続けるつもりかね。たまには論文の1本でも書いたらどうだ?」
「自分にはここが合っていますので。」
「謙虚なのは結構だが、向上心がないのは困るな。まあ、人には器というものがある。」
彼はそう言ってメスを受け取った。手の動きは速い。だが肝臓の裏側に回り込む血管の処理が雑だ。俺は目だけでそれを追っていた。口は出さない。出せば面倒なことになる。水島がそっと俺の隣に並んだ。
「佐藤先生、もう休まれてもいいんですよ。」
彼女はこの救命救急に20年以上いる。俺が時々見せる手元の動きや判断の速さに何かを感じているのだろう。だが彼女は決して詮索しない。それが俺がこの現場にい続けられる理由の1つでもある。
手術は2時間半かかった。途中、血圧が再び落ちた場面で黒川の手が止まった瞬間があった。俺は何も言わず、糸を渡す位置だけ少しずらした。それで止血の手順が1つ進んだ。黒川は気づいていない。気づかれなくていい。患者は一命を取り留めた。
手術室を出る時、俺は壁の時計を見上げた。午前4時40分。窓の外はまだ暗いが、もうじき夜明けが来る。控室に戻り、椅子に腰を下ろした時、携帯が震えた。画面に表示された名前を見て、俺はわずかに表情を緩めた。
立花サクラ。俺の婚約者だ。
「もしもし。」
「浩司さん、今ちょうど夜勤明けですか?」
「ああ、ついさっき手術が終わったところだ。」
「お疲れ様です。声、少し疲れていますね。」
「いつも通りだよ。」
サクラの声はいつ聞いてもしっとりとしている。立花ホールディングスの令嬢として育ったとは思えないほど、彼女は飾らない。出会ったのは3年前。ある医療プロジェクトの席だった。俺が誰なのかを彼女は最初から知っていた。それでも彼女は何も言わずに隣に座っていた。そういう女性なのだ。
「実は今日お電話したのは、少しお願いがあって。」
「お願い?」
「父が一度きちんと浩司さんに会いたいと言っているんです。」
俺は受話器を耳に当てたまま天井を見上げた。立花龍一会長。名前だけは何度も聞かされてきた。だが今まで彼の前に出ることを俺は避け続けてきた。理由はいくつもある。
「今回は私からもお願いしたいんです。」
「会長は俺のことをどう聞いているんだ?」
「都内の病院に務める救急の医師と。それ以上は父には言っていません。」
「そうか。」
「父は多分、浩司さんを試そうとしています。気の悪い言い方をするかもしれません。それでも来ていただけませんか?」
俺は少し黙った。窓の外で空がうっすらと白み始めていた。
「分かった。日を決めてくれれば行くよ。」
「ありがとうございます。」
彼女の声にほっとした響きが混じった。
「来週の土曜日、夕方7時から本邸でお食事を。父と、それから兄も同席します。」
「了解した。スーツは1着しかないが。」
「それで十分です。浩司さんはそのままの浩司さんで来てください。」
電話を切った後、俺はしばらく窓の外を眺めていた。廊下を1台のストレッチャーが通り過ぎる音がする。誰かが泣いている声も遠くで聞こえた。救命救急センターの朝はこうして始まる。
控室の扉が開いて水島が顔を出した。
「佐藤先生、コーヒー入れましたけど。」
「あ、ありがとうございます。」
「さっきの手術、黒川先生、最後の止血で手こずってましたね。」
「そうでしたか。」
「先生が糸の位置を少しずらした時、私見ていましたよ。」
水島はかすかに笑った。
「何も言いませんから、ご安心を。」
「助かります。」
彼女は黙ってコーヒーを置き、控室を出ていった。窓の外がいよいよ明るくなってきた。新しい1日が始まる。
その日は思ったよりも早く訪れた。俺は午後の勤務を早めに切り上げ、一旦アパートに戻ってスーツに着替えた。地味なスーツ。5年前に1度だけ親戚の葬儀で袖を通したきりのものだった。鏡の前で襟を整えながら自分の顔を見つめた。無精髭は剃った。髪もいつもよりは整えたつもりだ。それでも鏡の中の男はどこにでもいる中年医師にしか見えなかった。それでもいいと俺は思う。今日もそのつもりで行く。
タクシーを拾い、運転手に住所を告げた。
「お客さん、これ立花さんのお屋敷ですよ。本当にここでいいんですか?」
「ええ、そこで結構です。」
「いや、なんていうか、こんな立派なところ、テレビで見たことしかなくてね。」
俺は窓の外を見ながら薄く笑っただけだった。都心から車で30分。門の前で車を降りた。鉄の門扉の向こうに石畳の道がまっすぐ伸びている。その奥に洋風とも和風ともつかない大きな邸宅が淡い照明に浮かび上がっていた。
門の脇に立っていた執事らしき男が静かに頭を下げた。
「佐藤様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。」
「お世話になります。」
門が音もなく開いた。石畳を歩きながら俺は1度だけ深く息を吸った。緊張といえば緊張だ。玄関の前にサクラが立っていた。淡い藤色の着物に控えめな帯。彼女は俺を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。
「来てくださってありがとうございます。」
「遅れなくてよかった。」
「父は大広間でお待ちです。兄ももう来てます。」
彼女は一歩近づき、俺のネクタイを指先でそっと直した。
「大丈夫です。浩司さんはそのままで。」
俺は小さく頷いた。大広間は想像していたよりも質素だった。壁には水墨画が1枚、床の間には季節の花が一輪。派手な装飾は何ひとつない。深い欅張りのソファに白髪を綺麗に撫でつけた男性が腰かけていた。立花龍一会長。その隣に40代とおぼしき男が1人。サクラの兄、立花一郎だろう。
「父さん、佐藤浩司さんです。」
俺は一礼した。
「初めてお目にかかります。佐藤浩司と申します。」
「立花だ。まあ、座りなさい。」
低くよく通る声だった。俺はソファに腰を下ろした。龍一は俺を上から下まで眺めると、ふっと鼻で笑った。
「さっきから救急の医者だと聞いている。失礼だが、勤めて何年になる?」
「今の病院で7年です。」
「7年か。それで肩書きは?」
「特にありません。一般の救急医です。」
すると兄が声を出した。
「父さん、そう詰めないでください。」
「詰めとらん。確認しとるだけだ。」
彼は湯呑みを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「佐藤さん、私はね、人間というのは立場で決まると思っとる。何をしてきたか、何を持っているか。それがその人の信用になる。」
「おっしゃることは分かります。」
「サクラは私の1人娘だ。私の代わりにこの家を守っていく娘でもある。その婿になるというのは、相応の覚悟がいるということだ。分かるかね?」
「はい、分かっています。」
短く答えた俺を龍一はじっと見た。俺は目をそらさなかった。
「君はもっと上を目指そうとは思わんのかね。論文を書く、地位を上げる、名を売る。医者ならいくらでも道はあるだろう。」
「目の前の患者を見ることが自分の仕事だと思っています。」
「立派なことを言うが、それは逃げの言葉でもある。」
柔らかい口調だったが言葉は鋭かった。俺は黙って湯呑みに目を落とした。逃げと言われればそうかもしれない。俺は確かに長い間、何かから逃げてきた。
その時だった。廊下の方で何かが倒れる大きな音が響いた。続いて女中らしき女性の悲鳴。
「会長!奥様が、奥様が急に倒れられて!」
龍一の顔色が変わった。
「なんだと!」
俺は反射的に立ち上がっていた。頭で考えるよりも先に体が動いていた。廊下に駆け出すと、奥の和室の前で品のいい着物の女性が床に倒れていた。サクラの母親だ。
「奥様!聞こえますか?奥様!」
返事はない。唇が紫色になっている。俺は脈を確かめた。ない。呼吸も止まっている。
「心臓マッサージを始めます!サクラさん、救急車を!一郎さん、AEDはありますか?」
「あ、ああ、玄関に。確か玄関の脇に。」
「すぐに持ってきてください!サクラさん、急いで!」
俺はその場で奥様を仰向けにし、襟元を緩めた。胸の中央に手を組み、体重をかけて圧迫を始めた。1回、2回、3回。正確なリズムで、深く強く。サクラの声が震えながら119番にかけているのが聞こえた。龍一が廊下に立ち尽くしていた。
「君、何を?」
「会長、奥様の持病はありますか?」
「心臓の…不整脈で、薬を飲んでおる。」
「分かりました。続けます。」
俺の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。ここは俺の現場だ。一郎がAEDを持って戻ってきた。
「胸を開けます。失礼します。」
パッドを正しい位置に貼り、機械の指示を待つ。電気ショックの適用ありと音声が告げた。
「離れてください。」
全員が1歩下がる。ボタンを押す。奥様の体がわずかに跳ねた。俺はすぐに胸骨圧迫を再開した。1分、2分。汗が額を伝い、腕の感覚が鈍くなってくる。それでもリズムは崩さない。3分が過ぎた頃、奥様の喉がわずかに動いた。息を吹き返す前触れのあの動きだ。
「戻ります。会長、戻ります!」
奥様が小さく咳をした。脈が指先に触れた。弱いが確かにある。俺は大きく息を吐いた。遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。
「搬送先はうちの病院でお願いします。連絡を入れておきます。CCUに直接入れる手配をします。」
俺は携帯を取り出し、当直に電話を入れた。短く的確に状況を伝える。
「VFからの蘇生後、意識まだ戻らず。冠動脈の評価、すぐに入れてくれ。」
電話を切って顔を上げると、龍一が俺をじっと見ていた。さっきまでの威圧的な目ではなかった。何か別のものを見るような目だった。
救急隊が到着し、奥様は手際よく運ばれていった。サクラが母に付き添うために車に乗り込んだ。玄関先で龍一が1人立ち尽くしていた。俺はネクタイを少し緩め、彼に向き直った。
「会長、すぐに病院へ向かいましょう。私が同行します。」
「君は一体…」
言いかけて龍一は口を閉じた。夜の空気は冷たかった。門の向こうでサイレンの音が遠ざかっていく。俺はシワの寄ったスーツのまま、もう一度タクシーを呼んだ。龍一は黙ったまま俺の隣に乗り込んだ。車の中で彼は1度だけ口を開いた。
「佐藤さん、君は本当に救急の医者か?」
「はい。そうですが。」
龍一はそれ以上何も聞かなかった。車は夜の町を病院へと走っていった。彼の横顔には年相応の不安が浮かんでいた。俺はあえて何も話さなかった。今彼に必要なのは励ましの言葉ではない。妻の容態についての正確な見通しだ。だがそれを口にできるのは、病院について検査結果を見てからだ。
携帯がもう1度震えた。水島看護師長からだった。
「先生、奥様、CCUに入りました。冠動脈造影、これから入る準備をしています。」
「ありがとうございます。担当は誰ですか?」
「循環器の福原先生で、外科の応援に黒川先生が呼ばれています。」
俺は一瞬、眉を潜めた。
「分かりました。10分で着きます。」
電話を切ると龍一が尋ねた。
「妻は助かるのかね?」
「奥様は一度心臓が止まりましたが、発見は早かった。脳への影響はこれから検査で分かります。冠動脈に詰まりがあればそれを開けます。そこまでは私が責任を持ちます。」
「君が責任を。」
「はい。」
龍一は黙った。窓の外を街灯がいくつも流れていった。病院の正面玄関に車が滑り込むと、俺はスーツの上着を脱ぎ捨て、白衣を借りるために医局へ走った。一郎は息子の龍一と合流するためロビーで足を止めた。彼の視線が走り去る俺の背中を追っていた。
CCUに入ると福原医師が険しい顔で振り向いた。
「佐藤先生、来てくれて助かった。左冠動脈主幹部、ほぼ閉塞しています。薬だけじゃ持たない。」
画面に映る血管の影を俺は一目見て理解した。出口の見えない狭窄が3箇所。カテーテルでステントを入れてもすぐに再閉塞する可能性が高い。バイパス手術が必要だ。それもすぐに。
その時、廊下から声がした。
「ああ、佐藤先生もいらしたのか。ご家族のお知り合いだそうで。ご苦労様。ここは私が引き継ぎますよ。」
黒川は白衣の襟を整えながら画像を覗き込んだ。だが、その表情がすぐに固まった。
「これは難しいな。左冠動脈主幹部にこれだけの石灰化があると、オフポンプは厳しい。人工心肺を回しても、心室細動からの蘇生後では持たないかもしれん。」
「黒川先生、行けますか?」
黒川は答えなかった。彼の額に薄く汗が浮いていた。水島がそっと俺の隣に立った。彼女は何も言わない。ただ俺の手元を見ていた。俺は画面を指でなぞり、もう1度状況を確認した。
「黒川先生。」
「なんだ?」
「私にやらせていただけませんか?」
「は?何のことだ?」
「冠動脈主幹部のバイパスは過去にかなりの数を経験しています。石灰化の強い症例もいくつかあります。」
「君は何を言っている?救急の医者が心臓を触れるわけがないだろう。」
「黒川先生、今議論している時間はありません。」
俺の声は自分でも驚くほど静かだった。だが室内の空気が変わったのをその場の全員が感じ取った。水島が初めて口を開いた。
「黒川先生、佐藤先生にお任せください。私が保証します。」
「水島さん、君まで何を?」
「20年この現場にいます。先生の手は分かります。」
彼女の声は迷いがなかった。その時、廊下の向こうから高杉病院長が駆け込んできた。
「立花会長の奥様がうちに運ばれたと聞いたが…佐藤先生、なぜ君がここに?」
「会長のお宅で心停止に遭遇しました。蘇生してここまで運びました。」
「心臓手術を私にやらせてください。」
「君が心臓手術を?」
院長の顔が戸惑いに歪んだ。その時、彼の背後にいた龍一が静かに前に出た。
「病院長、佐藤先生にお願いしたい。」
「会長、しかし佐藤先生は救急の…」
「私が頼んでいるのだ。この方に妻を見ていただきたい。」
院長はしばらく俺と龍一の顔を交互に見ていた。やがてゆっくりと頷いた。
「佐藤先生、お願いします。」
黒川は何か言いかけて口を閉じた。俺は白衣を脱ぎ、手術着に袖を通した。
手術室の蛍光灯の下、俺は奥様の胸の前に立った。隣には水島、向かいには福原、第二助手に黒川が入った。
「お願いします。メス。」
水島が手のひらにメスを置いた。冷たい鋼の感触が指先に伝わる。7年ぶりの感触だった。
胸骨を開き、心膜を切る。人工心肺の回路がつながれ、心臓が静かに止まる。そこから先はただひたすら血管をつなぐ作業だった。針の運びは自分でも不思議なほど滑らかだった。体が覚えていた。
黒川は最初、俺の手元を疑うように見ていた。だが10分も経たないうちに、その目の色が変わった。彼は静かに息を飲み、糸を渡すタイミングを俺の動きに合わせ始めた。
水島は後にこの夜のことをこう語った。「あの時の佐藤先生の手は、見たことがない速さと正確さでした。血管の吻合はまるで糸が自分から針に吸い込まれていくようだったんです。誰もがその手元に見入っていました。」
3時間後、人工心肺が外された。心臓が1つ大きく脈を打ち、それから規則正しいリズムを刻み始めた。バイパスは4本全てが開通していた。モニターの波形が安定した山を描いていく。
「すごい…ありえない。」
福原は呟いたきり、言葉を続けられなかった。
手術室の扉が開いた時、廊下で待っていた龍一がふらりと立ち上がった。俺はマスクを下ろし、彼に向かって一礼した。
「無事に終わりました。奥様はICUで経過を見ます。命に別状はありません。」
龍一はその場で深々と頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう。」
彼の声は震えていた。サクラが廊下の向こうから走ってきた。
「浩司さん!」
「お母さんは大丈夫だ。落ち着いたら顔を見せてあげてくれ。」
彼女の頬を涙が一筋伝った。
控室に戻ると、黒川が1人で立っていた。彼は俺を見ると、しばらく言葉を探していた。
「佐藤先生、あなたは一体何者なんですか?」
「ただの救急の医者です。」
「いや、そんなはずがない。あの手は世界で数人しか持っていない手だ。私は論文で見たことがある。ボストンの心臓外科で若くして主任を務めていた日本人医師の名前を。」
俺は答えなかった。
「今夜、あなたに会えてよかった。本当にそう思います。」
彼は深く頭を下げ、室を出ていった。水島がコーヒーを入れて俺の前に置いた。
「先生、お疲れ様でした。」
「ありがとうございます。」
「これからも救急にいてくださいますか?」
「ええ。ここが私の現場です。」
水島は笑った。
廊下に出ると、龍一が1人、長い椅子に腰かけていた。
「佐藤さん。いや、佐藤先生。」
「はい。」
「私はね、人間は立場で決まると言った。今夜、それを取り消す。」
「会長…」
「人間は何をしてきたかではなく、目の前で何ができるかだ。それを君に教わった。」
俺は黙って軽く頭を下げた。
「これからもよろしく頼む。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
彼はゆっくりと立ち上がり、俺の肩を1度だけ強く叩いた。シワだらけのスーツの肩を、ためらいなく。
窓の外が白み始めていた。俺は廊下の窓から夜明けの空を見上げた。長く伏せてきた俺の名前は、今夜もう一度誰かの記憶に刻まれた。だが明日からも俺はシワの寄った白衣で救急の片隅に立つ。それでいい。助かる命なら助ける。俺の仕事はただそれだけだ。



