「お前は俺たちから卒業しろ」――高校の卒業式で、夫と息子からそう言われた。私は仕事で遅れて会場に着いたのに、2人は私を「他人」と切り捨てた。何年も家族のために働いてきたのに、その報いがこれ?私は何も言わずにその場を去った。そして2週間後、夫から電話がかかってきた。「生活費は?蒼太の学費は?」と。私は淡々と答えた。「あなたが『他人』って言ったんでしょ。だから援助もしないわ。離婚届も出しておいた…

「お前は俺たちから卒業しろ」――高校の卒業式で、夫と息子からそう言われた。私は仕事で遅れて会場に着いたのに、2人は私を「他人」と切り捨てた。何年も家族のために働いてきたのに、その報いがこれ?私は何も言わずにその場を去った。そして2週間後、夫から電話がかかってきた。「生活費は?蒼太の学費は?」と。私は淡々と答えた。「あなたが『他人』って言ったんでしょ。だから援助もしないわ。離婚届も出しておいた...

卒業式の会場に駆け込んだ瞬間、息子の蒼太と夫の正一が、まるで私を追い払うかのように言った。

「え、なんで卒業式に来たの?他人のくせに。せっかくだし、お前も卒業しろよ。俺たちから」

私は仕事の都合で少し遅れて到着したのに、待っていたのはこれだった。忙しく働く私を、彼らはもう家族として見ていなかった。私にも落ち度はある。そう思いながらずっと我慢してきたが、もう限界だった。

「わかった。お望み通り、今日で卒業する」

蒼太は呆れ顔で、正一はクスクスと笑った。私は何も言わずに車に乗り込み、実家へ向かった。きっと彼らは後悔する。そう思いながら、息子と夫とあっけなく別れた。

それから2週間後、私は実家に避難していた。両親はもう年老いて足腰が弱っている。介護まではいかないが、家のことがスムーズにできる状態ではない。離婚して戻ってきた身として、これからはここで親を支えていこうと決めていた。

今日からしばらく夜勤が続く。夕方までゆっくり寝ておこうと布団に入った途端、電話が鳴った。職場からかと思って画面を見ると、別れた夫の正一だった。

「そっちが俺たちから卒業しろって言ったくせに」

睡眠を邪魔されたのもあって少しイラッとしたが、こんな日が来るのは予想済みだった。ただ離婚しただけで終わらせるわけにはいかない。反撃ののろしは、この着信音によって上げられた。

「もしもし。間違い電話かと思ったわ。どう?私が卒業した後は、蒼太と幸せにやってる?」

私が皮肉を込めて出ると、正一は怒りと焦りが混ざった声で遮った。

「お前、ふざけてんのか?俺たちの生活費は?それに蒼太の大学費が全然入っていないってどういうことだ?」

「何言ってるの?あなたが『俺たちから卒業しろ』って言ったでしょ。だから援助ももうしないわよ」

「は?」

私が淡々と答えると、正一は間抜けな声を出した。自分が巻いた種なのに状況が飲み込めていないなんて、アホすぎる。吹き出しそうになったが、ぐっと我慢した。

「念のため報告しておくわ。私はもう正一や蒼太とは赤の他人なんだから、養う義務なんてない。離婚届は出しておいたわ」

数秒の沈黙。電話越しに正一の顔に驚きが広がるのが伝わる。同時に、蒼太が「俺の学費が!」と怒っている声も聞こえる。

「お前、何勝手なことしてんだ?俺は離婚届を出すことに納得してないぞ。確かに3年前に書いておいたが、夫である俺に一言言うのが常識だろうが。今すぐ取り下げてこい。その前にすぐ金を入れろ」

「そんなに怒ってまくし立てられてもね。私は3年前の約束を守ったまでよ」

正一は取り乱しているが、私は冷静だった。第一、こんな人に頭を下げる価値もない。

「蒼太が中学生になった途端に、私への嫌がらせがひどくなったわね。蒼太が高校に合格した時、あなたは蒼太のいる真横で言ったわよね。『お前が何もしなかったおかげで大変だったんだ。この役立たず』って。蒼太も否定しなかった」

「それは当たり前だろ。お前は仕事で、俺が蒼太の受験を1から10まで世話したんだ。塾や学校、受験の送り迎えまでしたんだよ。その恩を忘れて欲しくなかったんだ」

でも、あんな嫌がらせをされて、私はもう限界だった。だから離婚を要求したが、正一は突っぱねた。「蒼太が成人するまで面倒を見ろ。母親としての責任を果たせ」と。納得できなかったが、それもそうだと思い直して、なんとか頑張ってきた。

そして法律が改正され、成人が18歳に引き下げられた。蒼太も立派な成人だ。私は当時の約束を守っただけだから、文句を言われる筋合いはない。

仕事が多忙で蒼太のそばにいられなかったのは事実だ。私は学校を卒業してからずっと看護師として働いている。蒼太が中学に入った頃から、国内ではこれまでにない感染症が流行し、毎日のように患者が殺到した。同僚にも長期休みが続出して、1日も休めない日が続いた。蒼太が多感な時期に向き合ってあげられなかったのは事実だったが、それ以上に、ある理由でこの人たちとはやっていけないと思ったのだ。

ただ、正一が3年前に言った言葉も的を得ている。そばにいられなくても、金銭的な面は助けるべきだと気持ちを持ち直した。あと3年、あと2年と自分に言い聞かせて一生懸命働いて、ようやくその時が来た。あの卒業式でされた仕打ちは、あくまで最後の一撃だったのだ。

「蒼太も言っているぞ。お前は最後まで母親として失格だって。せめて俺たちのことを内がしにしたお詫びをしろって。息子を何もせずに捨てるなんて非常識にも程があるだろう」

「何を言ってるの?確かに蒼太は私の息子だったけど、法律上は立派な大人よ。私を引き止める理由なんてないはず」

「大変だったわ。3年も署名済みの離婚届を保管しておくの。分かったら生活費も入学金も自分たちでなんとかすることね。蒼太もアルバイトぐらいできるでしょ」

正一はどう私を引き止めようか考えているようだったが、私は引き返す気持ちはさらさらない。

実のところ、私は正一よりもずっと稼いでいた。結婚した当時、私は新人看護師の時期が終わった後で、研修や教育を任される立場になった。新人の時に他の看護師よりもたくさん叱られてきたせいもあり、多くのアドバイスができるまでになっていた。その後も上司からの信頼を得て、担当する患者もどんどん増えていった。

一方、正一は正社員だったものの会社の業績はまずまずで、30歳前半にしてリストラに遭ってしまった。その後同じ条件で仕事は見つからず、結局契約社員として中小企業に勤めている。早い話、生活費のほぼ全てを私が賄ってきたし、蒼太の高校生活にかかった費用も全部私が出した。正一はせいぜい自分たちが遊びに行ったり食べたりする費用を出していただけだった。

もちろん私の文句はなし。あれでも私のことを認めてくれるかもしれないと思って、大学の入学金を貯めていたのだが、必要なくなったため実家のリフォーム費用にでも当てようかとまとめて預金した。

私が電話を切ろうかとボタンに手をやると、正一がまた声を荒げた。

「お前はさっきから本気で言ってるのか?結局、俺にも蒼太にも何もしなかったくせに、俺と蒼太を見捨てようって。女の勝手が許されるわけないだろ」

離婚届が出されたこと。私が本気で2人から卒業したことを身を持って感じたのか、正一は急に早口になった。怒っているというよりは、どうにもならなくなって慌てているようだ。自分から「他人」とか言って私を突き離したくせに、随分な言い草だと思う。

バカバカしいので、そのまま何も言わずに切ってしまいたかった。だけど私はあえて冷静に返してみることにした。この人は大事なことを忘れている。

「さっきから何かおかしいわよ。そんなに慌ててどうしたの?私は正一と蒼太があそこで言った通り、他人になっただけよ。何か困ることあるの?それとも、私が本当に去ってしまうと思わなかったわけ?」

するとまた正一は不機嫌になった。どうやら図星を突かれたらしい。

「別に慌ててなんかいない。俺や蒼太がお前を他人扱いしたのは、全部お前に原因があるんだ。家庭を一切顧みなかったから、あえてそう言ったまでだ」

「確かに忙しくてそばにいてあげることはできなかったけどね。分かっているんなら、もっと俺や蒼太を思いやればいいだけのことだろ。難しいことじゃない。それなのにお前は何の努力もしなかった。3日も弁当も作らずに、いつも『仕事に行ってくる』とだけ言って、それを何年も続けてきた。それなのに高校の卒業式だけ出て母親ぶるなんて虫が良すぎる。俺はそれを言っただけだ」

「でも、それは…」

「言い訳はもういいよ。とにかくお前は母親失格だ。蒼太がどれだけ我慢していたか、お前分かってないだろ。3日にお前が来てなかったばっかりに、クラスメイトから『お前は母さんがいないのか』とからかわれていたんだ。俺がなんとか説明していたんだ。それでも蒼太は頑張って学校に行っていた。俺がずっと蒼太のそばで支えてきたんだ。反抗期もあったから大変だったんだぞ」

さっきまで慌てていたのに、急に生き生きとする元夫。いかにも「お前が仕事に逃げている間に俺が支えてやったんだから感謝しろ」と言った態度だ。ますますうんざりする。

「だからね、あなた。忘れたの?」

「忘れているのはお前の方だろ。蒼太が徐々にお前から離れていったのが分からなかったのか。お前が蒼太のことを何もしないから、俺が支えてやらなかったから、あいつはお前のことも話題に出さなくなった。それどころか『あのババアはいついなくなるの』って言ってた。まあ、ここに入ってから何も言わなくなったけど、これも俺が気を使っていたわけだ。蒼太が嫌がるならお前を遠ざけるのが一番だろう。何もしない母親なんて、多感な子供にとってストレスでしかないんだから。俺が蒼太をお前から避難させていただけだ。だからわざとお前を『他人』とあえて呼んだんだよ。本心じゃない」

その主張を聞いて、さすがの私も切れた。

「何でもかんでも自分が蒼太のことを一任していたように言うけど、私だって何もしなかったわけじゃない。さっきから『私は何もしていない』って言うけど、じゃあ、あなたたちが毎日ご飯を食べていられたのは誰のおかげ?」

「そんなに急に怒鳴るなよ。お前が悪いんだから」

「ああ、失礼。あの時は世界的な感染症流行で仕事をなかなか休めなかった。その時にゆっくり蒼太と向き合えなかったって、今でも反省している。だけど、あなたたちのことを忘れたことは1度もない」

「それで俺たちの気持ちを無視していたくせに、金だけ稼いできて自己満足していただけだろう」

「自己満足ですって?」

私の中で再び怒りの炎が燃えてきた。やはりこの人は何も覚えていないようだ。

「あなたがそう言うなら、私からも同じように言わせてもらうわ。まず、あなたたちのご飯を準備していたのは私よね。それも、あなたたちは一切家事をしないから。掃除も料理の作り置きも、仕事の合間を縫ってやっていた。2人で好きなもの食べていたこともあるみたいだけど、野菜は一切食べなかった。もし私が料理を準備しなかったら、あなたたちは不健康になって仕事や受験どころじゃなくなってたかもね」

「母親なんだから家事は当たり前だろ。それで母親をしたなんて言わせないぞ。蒼太のことはまるで放棄して」

よほど私が反撃したのが気に入らないのか、次第に声が荒くなっていく。ここで私も声を荒げたら同じ土俵だ。私はゆっくりと続けた。

「私が正一や蒼太のことを無視していたんじゃない。むしろ、あなたがその原因を作ったんでしょ。すっかり記憶から消えているみたいだけど」

「なんだと?」

「どんなに仕事が忙しくても、蒼太の母親なんだから将来や学校の様子ぐらい心配するわよ。だから、あなたを見つけては蒼太について聞いていたでしょ。その時、私に何を言ったと思う?『余計な口出しするな』とか『蒼太のことは俺が一番分かっている』とか。そういう言い方されたら、何も聞いちゃいけないって思うわよ」

「そういう時はお前が直接蒼太に歩み寄るべきだろうが。俺がそう言ったとしても、言い間違いってことがあるだろう。俺もいっぱいいっぱいだったんだから」

「あら、直接蒼太と話そうとしたこともあるわ。それもほとんどあなたが一緒にいる時にね。だけど蒼太もあなたと同じように言ったの。『俺に構うな、他人。うざいから消えろ』って。反抗期なんだからとしばらく目をつぶっていたけど、毎回のように言われたらさすがに嫌になるわ。正一も横で追い払うように手を振っていたし」

自分のしてきたことを私の説明で思い出してきているらしい。そしてついに何も言い返せなくなった。電話の向こうで頭を抱えているのだろう。「父さん、大丈夫?」という蒼太の声が聞こえる。正一は見て見ぬふりをしているようだ。

「けど、蒼太にかかった塾代や学費、それに生活費は私がほとんど出していたのよ。その辺、理解しているのかしら?正一が支払ってきたのは、2人で遊ぶお金や自分の趣味代だけ。それにも関わらず、蒼太が反抗期であることを利用して私のことを敵に仕立て上げたんでしょ。何年家族やっていたと思っているの?あなたたちが何を考えていたかなんて、とっくに分かっていたわ。あなたが少しでも私のことを理解していたら、私と蒼太の関係もここまで崩れることなかったのよ。家族のバランスが歪んだのは、あなたのせい。いつか気づいてくれると思ったけど、私は期待しすぎていたのよね」

「いい?家族っていうのは、ただそばにいるだけじゃない。生きていくためにはお金だって必要。正一がなかなか就職活動がうまくいかないのは知っていたし、時代の流れだから無理もないって思っていたの。だから私が金銭的に支えなきゃって頑張った。決して自己満足で仕事をしていたんじゃないわ」

長々と喋ってしまったせいか、少し喉が乾いた。ペットボトルのお茶の蓋を開けて飲むと、正一の重い声が響いてきた。こんな論争をしなくても通じる家族なら、どんなに良かっただろうと悲しくなる。

ようやく私の気持ちが通じたのだろう。正一はゆっくりと言葉を話した。

「よくわかった。お前がこんなに苦しんでいたのに気づかなかった。お前の言う通り、本当は大黒柱として俺が支えなきゃいけないのに、うまくいかなくて八つ当たりしていたのかもしれない。確かに、そんな俺はもうお前の夫である資格はないよな。分かった。離婚は認めるよ。その代わり、援助は続けて欲しいんだ」

「は?全然わかってない。私はもうあなたとは他人なのよ。私の話、聞いてた?」

「そんなのは百も承知だ。でも俺は、商売もできなくて給料も正直1人で生活するのにカツカツなぐらいなんだ。これじゃ2人で生活するのには苦しいし、蒼太もせっかく受かった大学を諦めなくちゃいけなくなる」

「知らないわよ。『触らぬ神に祟りなし』って言葉知ってる?進学費用がないなら、大学進学は断念して2人で働いたらいいじゃない。さっきも言ったけど、蒼太はアルバイトもできる年齢。あなたも今の時代なら副業だってできるでしょ」

そう言いながら、私はそのまま電話を切った。そしてそのままブロックした。「でもでもだって」という声が聞こえたが、もう聞く価値もない。あまりの情けなさに、また一つ大きなため息が出る。言いたいことを全て言えた安心感なのか、そのまま仕事が始まるまで私はゆっくり眠れたのだった。

翌日の朝、午前8時。私は夜勤を終えて帰宅した。優秀な後輩がいるため、今は定時に上がれることが多い。それでも夜勤は年齢のせいか少しずつ体に応える。とりあえずご飯でも買って帰って食べて寝よう。そう思いながらコンビニに向かおうとすると、いきなりスマホが鳴った。職場からかと思って出ると、聞こえてきたのは息子・蒼太の声だった。なんだか目が一瞬で覚めるような罵声だ。

「はい。もしもし?」

「おい、ふざけんな。クソババア。お前は泥棒までするのか?」

「私が泥棒だって?何のことかしら?」

「知らばっくれんじゃねえ。お前、俺の金を盗んだんだろ。さっさと返せ」

ふと思い出したが、長いこと蒼太は私のことを「母さん」と呼んでくれたことがない。反抗期の延長線上と言えばそれまでなのだが、職場で高校生の息子と出かけたプレゼントをもらったという話も何度か耳にした。自分で言うのもなんだが、私は細かいことに関しては気にしないタイプだ。他人と比べることにも昔からまるで興味がない。でも子供のことになるとそれは別だ。何もしてくれなくてもいいから、家族らしくいろんなことを話してみたかった。しかしそれはもう叶うことがない。正一が蒼太をコントロールしたことで、私は彼に近づくことさえできなかったのだ。でも、それを選んだのも蒼太自身である。

「あなたが先日言った通り、私は他人よ。お金なんて盗む理由はないわ」

「嘘をついても無駄だ。父さんから全部聞いているんだよ。お前が金を盗んで逃げたってな」

これには開いた口が塞がらなかった。入学金のことだろうか。正一の言い分では、私が家を出ていった時に大学の入学金を持ち逃げしたと解釈しているのだろう。まさか息子にそんな嘘を吹き込むなんて。

「盗むなんて人聞きの悪い。何を言われても、私がお金を盗んだっていう事実はないから」

「まだ言うのか。この他人が。血が繋がっていないくせに偉そうにすんな」

私は思わず息を飲んだ。最後の言葉に妙に違和感を覚えたからだ。蒼太が私のことを他人扱いしていたのは確かだ。それは私が仕事で忙しくあまり家にいなかったせいだと思っていた。肝心の正一でさえ同じように私のことを「母親失格」と何度も言っていたので、蒼太も私のことをそう呼んでいた。しかし「血が繋がっていない」という言葉はこれまで聞いたことがなかった。父親である正一が何か新しい嘘を吹き込んだに違いない。

「ねえ、その『血が繋がっていない』ってどういうことかしら?」

私がおずおずと尋ねると、蒼太は嘲笑いながら教えてくれた。

「こういうことも何も、そのまんまの意味だけど。俺の実の母さんは、俺が生まれる前に亡くなったんだってさ。つまり、俺の本当の母さんはお前じゃないんだって教えてもらったんだよ。だからお前は他人だ。そういうことだろう」

「何よそれ。本当にそんなこと言われていたの?」

「そうだよ。だから最初から母さんなんて思ってないよ」

私は思わず体が震えた。長年の間、とんでもない嘘を蒼太に教えていたなんて。もはや怒りなのか悔しさなのか分からないが、思わず涙が込み上げてくる。私がどんなに蒼太のことを心配しても、正一は取り合ってすらくれなかった。全部鵜呑みにして蒼太のことをあの人に任せた私がバカだったわ。

思わず私は叫んだ。冷静さがこれ以上保てそうになかった。

「お願い、蒼太。それは違うのよ。蒼太は私が産んだ子供なの。母子手帳だってあるんだから。覚えているわよ、蒼太が生まれた時のことだって。夜ずっと横で泣いてたもの。好きだった食べ物や遊びもね」

一瞬驚いた様子で黙った蒼太。普段何も言わずに正一や蒼太の言葉を聞いていた私がここまで叫ぶとは思わなかったので、少しビビってしまったのかもしれない。しかしそれは一瞬だったようだ。

「そうやって情に訴えようったって騙されない。ここまで俺や父さんのことを内がしにしておいて、今更母親を名乗るなんて意味が分からないよ。父さんが嘘をついているっていうのか?」

「そうよ。私は生まれてからずっとあなたの母親よ」

「でも俺は信じない。俺のことを常に見ていた父さんが、そんな大掛かりな嘘をつく理由なんかない」

蒼太の言葉にショックを受けながらも、私は首をかしげた。もし今言われたことが事実なら、どうして正一がそんな嘘をつく必要があったのだろうか。この2人と縁を切ったのは事実だ。だけど蒼太の母親として、この事実を放っておくことはできない。

「そう。正一は今家にいるかしら?近いうち、そっちに向かうわ」

動揺を隠せない様子の蒼太の返事を聞く前に、私は電話を切った。コンビニで朝食と栄養ドリンクを買って、私は駅に向かった。今日は出かける家族が多いのか、電車のホームは込み合っている。

そして3日後、電車で1時間かけて、私は元住んでいた家にやってきた。玄関のドアを開けると、蒼太がひょっこりと顔を出して、無言でリビングに案内してくれた。そこには、今にも睨みつけるように私を見つめる正一がどっしりと座っている。

「何しに来たんだよ」とぶつくさ言いながら、タバコの火をつけた。問答無用で私は本題に入る。

「蒼太から聞いたわよ。私のことを『血の繋がっていない母』やって言っていたそうね。そして『本当の親が亡くなった』だなんて。一体なんでそんな大嘘ついたのよ」

正一に詰め寄る私を見て、蒼太はますます頭を悩ませているようだ。「ここにわざわざ来るなんて一体どういうことなのだろう」そんな言葉が見て取れる。一方の正一は汗を大量に流しながら蒼太の方を見ている。そして苦し紛れの言い訳を始めた。

「お、俺は本当のことしか言っていないぞ。本当の母さんはお前の三にずっといたんだ。仕事もやめてな。なあ、蒼太。お前と違って父さんはずっとお前のことを気にかけてきただろう。だから、俺の言ったことを信じて」

すると蒼太は正一の方を申し訳なさそうに見つめた。同時に「やっぱり嘘つきはお前だ」と私を睨みつけてきた。長年すり込まれてきた「母さんは他人」という言葉。言葉だけで簡単に信じてもらえるなんて思ってないから、このことは予想の範囲内だ。だけど私はここで屈しない。ここに今私がいるのは、あるものを見せる目的もあるのだ。

「正一。残念だけど、証拠はあるのよ。そう、これを見ても私はあなたの母親じゃないって言えるかしら」

そう言いながら、私は鞄からそれを出した。目を丸くした蒼太は、ゆっくりとそれを受け取ったのだ。私が蒼太に渡したもの。それは先日言っていた蒼太の母子手帳だ。

「中身、見てごらん。正一、そして蒼太。俺の名前も誕生日だって血液型だって、全部同じだ。それに、俺、覚えているよ。保育園の時、俺が自転車に乗れるようになった時のことまで。俺が好きだった遊びとか食べ物、なんとなく記憶にあるよ」

母子手帳のページを1枚ずつめくり、蒼太は丁寧に読んでいる。その目はどことなくキラキラしており、一緒に暮らしていた時には決して見れなかった顔だ。「大きくなったら家を建てたい」こんなことも言ってたな。私は仕事が忙しいながらも、蒼太のことを細かに母子手帳に書いていた。今思い出しても、蒼太は紛れもなく私の可愛い息子。本当ならばずっと一緒にいるはずだった。

その時だった。いきなりドンという音が響き渡った。その方向に目をやると、真っ赤な顔をした蒼太がテーブルを叩いていた。次の瞬間、蒼太はいきなり正一の胸ぐらを掴んだ。

「父さん、お前、何年も俺を騙していたのか。ここに俺の母子手帳があるってどういうことだよ。ずっと信じてたのに。ふざけるな」

目にはたっぷりの涙が浮かんでいる。私に言い逃れのできない証拠を出されては、もう抵抗することは無理だ。蒼太の細い腕に何度も打ちけられながら、正一はただただ耐えていた。

「痛い、やめてくれ」

「うるさい。俺は今、母さんに何て言ったらいいんだよ。俺はなんでこんなに長く嘘をつき続けなきゃいけなかったんだ。お前を信じていた俺がバカだったよ」

そう言いながら、今度は正一を床に打ち付けた。正一はしばらくそのまま動かなかったが、ゆっくりと起き上がった。ここで「大丈夫」と言ってあげられない私は冷たい人なのかもしれない。だけど、何年にもわたって私だけではなく息子の蒼太までも騙していたのだ。同情的になる余地もない。

「改めて私からも聞かせてもらうわ。どうして私と血が繋がってないとか、そんな大掛かりな嘘をついていたの?この際だから、私や蒼太に分かるように教えて欲しいんだけど」

「悔しかったんだよ。大黒柱は俺であるはずだったのに」

下を向きながら、正一は情けなく声を震わせた。表情をよく見ると、素直で優しい目をしている。それはここ何年かでは決して見ることのなかった正一の顔だった。結婚したばかりの正一が少し見えた気がした。それは25年ぐらい前のことだろうか。

正一とは仕事終わりに行っていた居酒屋で出会い、数年の交際を経て結婚した。平凡ではあったが穏やかで、一緒にいて安心できる人。「初めで努力家な君が好きだ」と言ってくれていた。お互い仕事が忙しく家のことはままならなかったが、結婚した当初はそれは協力してできていた。どうしても私が何もできなかった時は、嫌な顔を1つせずに家のことをやってくれていたし、この人なら安心できると思って数年後に蒼太を産んだ。

「何でも協力しながらやっていこうって約束したでしょ」

「お前、蒼太を妊娠してからも一向に仕事をやめる気配がなかっただろ。俺は転職に失敗して給料も下がったって時に」

「知ってた。でも、今からキャリアアップできるように頑張るって言っていたし、その頃は遅くまで仕事していた。だからそれを信じていたのよ」

「俺も仕事を一生懸命頑張る蒼太が好きだから、結婚してからも看護師の仕事を続けて欲しいって。本当はそうして欲しくなかったの?」

緊張の意図が溶けたように、初めて正一は本音を明かしてくれた。今までずっと抱いていた感情は、どうやら劣等感でいっぱいだったようだ。

「会社で言われていたんだ。『女は子供ができたら仕事はやめてしまうもんだ。だからお前が頑張らないといけない』って。膨大な量の仕事を与えられた。でも蒼太は仕事をやめなかった。それどころかどんどん評価されていって、蒼太を産んでからたった半年で職場復帰した。俺は不安で仕方なかったんだ。蒼太に稼ぎで負けてしまうのが」

「そんな風に思っていたの?」

「ああ、口では言えなかったけど。蒼太は保育園に入ってから何度も体を壊していただろう。だからそのうち仕事はセーブするんじゃないかって思っていたんだ。だけどそれは蒼太が小学校に上がってからも変わることはなかった。忙しいながらも家事や育児を頑張っていた蒼太を見て、楽ができるって感謝はしていた。だけど反面、寂しかった。なんで稼ぎ頭であるべき俺よりバリバリ働いているんだって」

「そんな中、俺は出世しないまま蒼太は中学校に上がり、お前は仕事でリーダーになった。蒼太が俺やお前に反抗するようになっただろう」

「思い出したわ。その頃から蒼太は私のことを『他人』呼ばわりしたわね」

「そう。まさに俺が家に帰ってくるのが遅くなった時、家には父さんしかいなかった。そこで『母さんは?』って聞いたら、『あいつは他人だから家には帰ってこない』って言われたんだ」

「そっか。どういうことだったのか。劣等感を逆手にとって、反抗期の蒼太を支配しようとしたのか。そして蒼太は正一の思い通りに私を攻撃するようになったってわけか」

「蒼太は何もわからないだろう。バレなければ自分にとって都合の良い家庭が維持できる。そう思ったってことでいいのかしら?」

「ああ、そうなんだ。そこで俺は考えたんだ。蒼太が俺に味方をしてくれているうちに、蒼太を追い出してしまおうって」

蒼太は何とも言えない顔で私から顔を背らせている。騙し続けてきた正一はもちろん憎いが、同時になぜ信じ込んでしまったんだと自分で呆れ返っているようだ。

「で、卒業式に来た私にあんな言葉を吐いたわけね。はあ。正一、あんたってバカね。というか、そんなに悪知恵が働く人だったかしら。だったらそれをどうしてもっと仕事にぶつけなかったの?蒼太はもう1人で家にいられる年だったじゃない。なのに有給もギリギリまで取って遊んでいたし、何かを勉強する姿も見なかったわ。それに仕事が忙しい私が邪魔なら、どうしてもっと早く離婚しなかったの?」

「だって、そんなことしたら会社で色々言われてしまうじゃないか。『何があったの?』って。そうなったらめんどくさいじゃないか」

「うわあ、そう来たか。そういえばこの人、何かと世間を気にするタイプだったな。だったらますます仕事を頑張ればよかったのに」

これ以上聞くのがめんどくさくなるぐらい、正一は自分本意な本音、いや、言い訳を次々に述べてきた。

「蒼太はいつも完璧な妻だった。俺のだらしなさに文句を言いながらも、ご飯は毎日準備してくれていたし、きちんと生活費を稼いで帰ってきてくれた。だからいなくなられるのも困るんだよ。俺にはお前を捨てる理由がなかったんだよ。それにお前がいなくなってしまったら、俺が家族の主導権を握るっていう構図はなくなる。離婚後の責任を押し付けられるのは嫌だったんだよ。でも、母親であるお前ではなく、俺のことを蒼太は尊敬している。その感覚が心地よかったんだ」

「何なのそれ?つまり、正一にとって私は都合のいい家政婦であり財布。離婚したくないのは生活が回らないからでも、感謝するつもりはないってこと。あなたの自尊心を保つための道具でしかなかったってことなのね」

私がそう言うと、蒼太は分かりやすく目を背らせた。何か言いたそうだったが、なかなか言葉を発することができないでいる。それはそうと、改めて正一の言い分を聞くと、脱力感というか呆れる気持ちでいっぱいだ。仕事でいっぱいいっぱいになって2人のことを顧みることができない私の方が悪いと思っていたが、どうやらそれは無駄な心配だったようだ。こんな自分本意な人、これからの人生にはもういらない。私にも、そして蒼太にも、これから何があろうと私はもう手を打っているので心配はない。離婚するだけでなく、私は今後、正一とは接触はしない。私だけではなく、蒼太のことを盾にして嘘までつき続けていたことは絶対許さないから。今まで私を脅してきたことも、弁護士に相談してあるのよ。

ここまで言ってやると、正一は今までの態度とは一変、床に手をついて深々と頭を下げてきた。

「本当に、本当に済まなかった。俺には感謝が足りなかったし、蒼太まで傷つけてしまって申し訳ない。頼む。もう1度チャンスをくれ。蒼太を大学に行かせてやりたいし、仕事もこれまで以上に頑張るから」

「残念だけど、もう遅いの。失った時間が長すぎるのよ。はあ。私の方があの時点で押し切って離婚しておけばよかったわ」

正一は蒼太にも頭を下げているが、蒼太は冷たい目でじっと見ているだけだった。今必死に謝罪しているようにも見えるが、もう蒼太も味方ではなくなった。1人になるのを恐れているに違いない。

さて、そろそろ帰ろう。そう思って玄関のドアを開けて出た。もうここに来ることはないだろうと思うと、安心感で思わず笑みがこぼれた。その時だった。後ろから「母さん、待って」という声が聞こえる。振り返ると、蒼太が今までつぐんでいた口を開いた。そこで語られたのは、今まで正一の言ってきた言葉を信じていた理由だった。

「母さん、ごめん。俺は何も知らなかったんだ」

「そう。どうしたの?」

「3日前、母さんが来てなかったこと。同級生に色々言われてさ。『お前の母さんなんで来ないの?嫌われてない?』って毎日のように言われて。それを父さんに相談したら、霊のように『他人だからお前に興味はない』ってさ。だから、気がついたら『本物の母さんじゃないから俺に冷たくするんだ』って思い込むようになってしまった」

涙を浮かべながら話す蒼太。それは私の前で初めて見せる悲しみの表情だ。やっぱりもっと一緒にいてあげたかったな。少し思いが揺らぐ。

「そして学校で嫌がらせを受けるようになったんだ。それでも父さんはずっとそばに行ってくれた。どんなに俺が嫌な言葉を吐いても『お前は悪くない。蒼太が全部悪いんだ』って俺を慰めてくれたんだ。だから俺には父さんがいるって安心したのと同時に、母さんを敵として見るようになった。親戚も父さんとは付き合いづらいって言っていたから、結局父さんは俺だけを頼りにしていたんだと思う」

つまり家族の中には正一の嘘を否定する人がいなかった。だから蒼太も嘘を嘘と知らないまま、正一と偽の信頼関係を築き上げてしまったということだ。

「母さんが本当の母親じゃないなら、別に傷つけても構わないんだって思ってた。そばにいる父さんの言うことが全てだと思っていたからさ。自分が悪いことをしているって気持ちを持ちたくなかったのかな。他人なら何しても構わないって。でも、母さんが証明してくれたことで分かった。父さんの言っていたことは全部嘘で、母さんは本当に俺のことを産んでくれたんだって。今まで信じてなくてごめん。本当にごめん」

「言いたいことはよくわかったわ。反抗期ってのはね、すごく多感で、色々なことに傷つきやすい時期。私も経験があるからよくわかるわ。こうやって謝ってきてくれて、本当に安心した」

淡々と言いながら、私は迷った。こうやって謝罪に気づき、心から謝罪してくれている蒼太を許すべきなのだろうか。私が考え込んでいると、蒼太は目を見開いて私の方に向いた。

「こんな時にするお願いじゃないのは分かってる。でも俺は本当に大学に行きたいんだ。でも父さんは当てにできないし、このままじゃ入学できない。お願い、母さん。俺のことは援助して」

「そうね。ちょ、じゃあいいの?俺、大学に行けるんだ。として必ず返すからね」

「それとこれとは別よ、蒼太」

私の返事に蒼太はポカンと口を開けた。私が全て許したと思ったのだろうが、やはりダメだ。私の決断は逆だ。

「残念だけど、学費を出すことはできない。蒼太は大きな勘違いをしているからよ。他人だろうが、親だろうが、人を傷つけてはいけないって当たり前のことよ。それを反省したからって、今までされてきたことがチャラになるわけじゃないわ。私のことを『ババア』や『他人』って呼んだことは、自分で意図してしたことよね。それも何年も」

「でも、それは父さんに騙されていたんだよ。俺だって本当は母さんの子供なんじゃないかって思ったことあったよ。だからさ」

「あんたはやっぱり甘いわね。そう思うなら、なんで調べようとしなかったの?私が他人だって間違った言葉を信じ込むのも、あんた自身よ。それと逆の立場で考えたら分かるわよね。長年そんな風に言われていて、自分が困った時だけ頼るっていうのは都合が良すぎるんじゃない?私はあなたのATMじゃないの。もう大人なんだから、あなたも仕事をして稼げるわよ。大変だと思うけど、自分のためにお金を稼ぐって本当に大変なことなんだから、それを学びなさい」

「私に申し訳ないって思うなら、大学の費用は自分で出しなさい。私はあなたには十分お金をかけてきたのよ。だから今後の人生は自分でなんとかしなさい」

そう言いながら、私はさっさとその場を去った。蒼太はもう私を追いかけてこない。きっと立ち尽くしているのだろうと思うと心が痛いが、これが私が出した決断だ。ここであっさりと許してしまっては、蒼太のためにはならない。そう思ったのだ。

それから2年が経った。もう50手前になるが、相変わらず私はバリバリ仕事している。両親は相変わらず元気にやっているが、いずれは世話が必要になる時が来るかもしれない。働ける今のうちに貯金をしておこう。でも私には他に気にかけている人がいた。そう、蒼太だ。父とも母とも離れて、あれからうまくやっているのだろうか。

ふとこれを考えていると、郵便受けに何かが届く音が聞こえた。何だろうと見に行くと、一通の手紙がある。差出人を見て私は驚いた。なんと蒼太だ。そういえば、メールで蒼太にだけは住所を教えていたのだ。早速開けてみると、不器用ながらもきちんとした文章が並んでいる。

「母さんへ。元気にしていますか?いきなりの手紙でごめんなさい。父さんと母さんと離れてから、必死でアルバイトをし、予備校にも通って、この度大学生になることができました。父さんからは自分みたいに就職で失敗しないようにと安定した公務員になるように言われて勉強していましたが、本当にやりたいことは違ってたことに気づきました。今からその夢を叶えるために勉強を頑張ります。今までずっと嫌な態度を取ってしまってごめんなさい。自分の足で自分で考えて動くことを教えてくれた母さんには本当に感謝しています。体に気をつけて、これからもお互い頑張っていこうね。蒼太より」

私は気づいたら大粒の涙を流していた。正一がどうしているか、今の私には分からないが、少なくとも蒼太はもう1人で歩いていける。いつか蒼太の夢が叶ったら、精一杯のお祝いをしようと心に誓うのだった。

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