「靴を脱げ。畳を濡らすな。」68歳の叔父が、母の死を知らせに来たばかりの姪に最初に放った言葉は、これだった。雨の夜、行き場を失った26歳の私は、20年ぶりに会う叔父の団地の扉を叩いた。年金6万5000円だけで暮らす彼の食卓に、塩鮭は一切れしかない。それでも彼は、それを黙って半分に割って、私に出した。「迷惑はかけないようにします」と私が言えば、彼は何も言わなかった。ただ、仕事が7社も落ちた私に…

「靴を脱げ。畳を濡らすな。」68歳の叔父が、母の死を知らせに来たばかりの姪に最初に放った言葉は、これだった。雨の夜、行き場を失った26歳の私は、20年ぶりに会う叔父の団地の扉を叩いた。年金6万5000円だけで暮らす彼の食卓に、塩鮭は一切れしかない。それでも彼は、それを黙って半分に割って、私に出した。「迷惑はかけないようにします」と私が言えば、彼は何も言わなかった。ただ、仕事が7社も落ちた私に...

雨の夜、玄関の引き戸を叩く音が聞こえた。松崎秀夫は68歳。埼玉県外の古びた団地で、年金6万5000円の暮らしを守っていた。この12年、夜に来客があったことは一度もない。彼はこたつの天板の上に並べた一円玉と十円玉を手帳に書き込むのをやめ、立ち上がった。梅雨の湿気が部屋中に満ちていた。ドアを開けると、傘も持たない若い女が立っていた。髪は濡れて額に張り付き、右手のプラスチック製キャリーケースは角が割れてガムテープで補修されていた。女は90度に頭を下げ、「突然の訪問、本当に申し訳ありません」と、震える声で言った。

記憶の中で、その顔が輪郭を取り戻していく。もっと幼い顔で、膝の上で虫の本を読んでいた顔。20年近く会っていなかった妹の娘、白川ナツキだった。彼女は顔を上げ、目を赤くしたまま言った。「お母さんが…2ヶ月前に亡くなりました。水像の癌でした。」秀夫の体の中で何かが静止した。感じる場所そのものが、長い年月で塞がれていた。ナツキは続けた。派遣の仕事を先月切られ、アパートを追い出され、保証人も見つからない。母の遺品に、叔父の住所が書かれたメモが一枚だけあった。それだけが頼りだったという。秀夫は無言で彼女の後ろの雨を見つめた。数字が頭の中で動く。家賃3万2000円。光熱費1万2000円。食費に回せるのは数千円。そこに一人分の口が増えれば、計算は成り立たない。しかし、雨の夜に行き場のない娘を追い返した自分が、その後どう生きていくのか。それが先だった。「靴を脱げ。畳を濡らすな。」秀夫はそう言って、先に廊下を歩き始めた。

夕食は、秀夫が自分のために用意していた塩鮭の切り身と豆腐を半分に分け、麦入りのご飯を茶碗に半分ずつよそった。2人は無言で向かい合って食べた。ナツキは丁寧に少しずつ食べ、食べ終わると「明日からすぐに仕事を探します。迷惑はできるだけかけないようにします」と言った。秀夫は何も返さなかった。返す言葉を持っていなかったし、実際に余裕もなかった。ただ、この部屋に入れたという事実だけが全てだった。

その夜、秀夫はベランダに出てタバコに火をつけた。1日3本と決めている内の、夜の1本。彼は道路を見下ろしながら、妹が死んだという事実を頭の中で転がした。知らせがなかったのか、知らせる方法がなかったのか、知らせようとしなかったのか。連絡を絶ったのは自分の方だ。文句を言える資格はない。分かっていた。それでも、2ヶ月という時間の重さが喉の辺りに引っかかっていた。

2週間が経った。手帳に書き込まれる数字は変わった。食費、電気代、水道代。一人で使っていた時とは別の箇所が消えていく。ナツキは毎朝スーツを着て出かけた。7回の面接受け、6回は書類で落ちた。7回目は面接まで進み、手応えがあったと言った。だが3日後、メールが届き、彼女は夕食を半分残した。「今日は食欲がなくて。」初めてのことだった。秀夫は「そうか」と言い、残りを丁寧に食べた。

6月24日、木曜日の夜。秀夫は駅前のスーパーにいた。半額シールが貼られる7時を待つため、乳製品コーナーの棚で牛乳の賞味期限を確認しながら時間を潰していた。そして7時、眼鏡のパート従業員がシールの箱を抱えて総菜コーナーに現れた。秀夫は揚げ物の棚に手を伸ばし、豚カツのトレーを先に取った。隣にいた70代の女性が諦めたように別のトレーを探す。それが常だった。カゴにトレーを入れ、顔を上げた瞬間、通路の向こうにナツキが立っていた。彼女はこちらに気づいていた。秀夫は体が止まるのを感じた。無言でカゴを元の場所に戻し、とんかつもそのまま戻して、スーパーを出た。半額の130円は必要なはずだった。しかし、ナツキの目を見た後では、そのままレジに並ぶことができなかった。

団地に戻ると、台所から出汁の匂いがした。自分では使わない、昆布か何かの匂い。ナツキが立っていた。「おかえりなさい。うどんを買ってきました。半額のやつ。」秀夫は何も言わなかった。うどんは柔らかく煮えていた。白菜ともやし、さえ揚げが一枚入っていた。秀夫の分にはさえ揚げが全部入っていた。食べながら、ナツキは一言だけ言った。「今日、返事が来て。7社目もダメでした。」秀夫は「そうか」とだけ言った。それ以外に言えることがなかった。その夜、ベランダでタバコを吸いながら、彼は思った。26歳で仕事を失い、住む場所を失い、頼る人間が自分しかいない。感情を外に出す場所を持っていないのか、出せないと思っているのか。どちらにしても、それは窮屈だろうと。

翌朝、ナツキはスーパーの件を口にした。「気にしないでください。当たり前のことだと思います。賢い買い物の仕方だと思います。私も慣れてきたらそうしようと思っています。」秀夫は背を向けたまま「そうしろ」とだけ言った。その話はそれで終わった。

その日の昼過ぎ、秀夫は郵便受けに一通の封筒を見つけた。クリーム色の厚みのある封筒。差出人は市の紋章。開けると、「市営住宅建替事業に伴う退去のお願いについて」と書かれた紙が入っていた。調査の結果、耐震基準を大幅に下回る構造的問題が判明。12月31日までに退去すること。建物は解体され、新たな市営住宅は別の場所に建設される。入居を希望する場合は申請が必要。今日は6月25日。残りは6ヶ月と1週間ほどだった。秀夫は紙を折り直し、ポケットに入れた。エレベーターの中で壁に背をつけた。この部屋に12年いた。ここが最後だと思っていた。それが崩れた。

その夜、ナツキに話した。彼女は紙を読み、「12月に出ないといけないんですね」と言った。落ち着いていた。「申し込めるか確認しないといけない。収入の条件がある。」ナツキは「私のことは私が考えます。迷惑はかけません」と言った。秀夫は返事をしなかった。翌週、市役所に行き、確認を取った。担当者の答えは明確だった。年金6万5000円は、市営住宅の入居資格の月収基準12万円を下回る。生活保護を受給していない限り、申し込み資格は得られない可能性が高い。ナツキに関しても、収入がない状態での単身申し込みは審査が非常に厳しいと言われた。帰り道、2人はほとんど口を開かなかった。秀夫は「別の方法を探す」と一言だけ言った。

7月に入り、梅雨が明けた。気温は32度を超えた。冷蔵庫の製氷機能が壊れたままだということを、秀夫は思い出した。去年も一昨年も氷なしで過ごした。今年も同じだ。2人はそれぞれ別の方法を探した。ナツキはスマートフォンで保証人不要の物件を調べたが、2人分の収入が合算できなければ審査が通らない。秀夫は昔馴染みの不動産屋を3軒回った。どれも「年金収入のみの高齢者への貸し出しは難しい」という言葉で終わった。3軒目は、入り口で立ったまま5分で終わった。

7月の第2週が終わる頃、ナツキがようやく就職先を見つけた。ホテルの客室清掃のパート。時給1050円、週5日、1日5時間。正社員ではなかったが、手取りで月10万円に届かない程度。ナツキはその数字を報告し、秀夫は「よかった」と言った。それが精一杯だった。ナツキは小さく笑った。本物の笑いだった。しかし、その翌週、郵便受けに一枚の紙が入っていた。ピンク色の縁取りがされた薄い紙。「高齢者生活困窮者向け住宅支援。保証人不要、初期費用なし、入居可能。相談は無料です。」下に、支援コーディネーターという肩書きの名前と電話番号。黒田とあった。秀夫はその紙をしばらく見て、ポケットに入れた。夕食の後、ナツキに見せると、彼女は「1度話を聞いてみるだけ聞いてみたらどうですか」と言った。

翌週の水曜日、黒田が団地の前に車で来た。40代半ばの男で、薄い灰色のスーツを着ていた。スーツのラペルは少し光沢があり、両販転のものだと秀夫は思った。笑顔が最初から最後まで崩れない種類の人間だった。車で40分ほど走り、千葉県内の工業地帯に近いエリアに着いた。2階建てのアパートで、外壁は薄茶色のモルタル塗り。所々に亀裂が走り、2階の外廊下の鉄骨に錆が浮いていた。プレス機の音が絶え間なく聞こえてくる。部屋は6畳一間で、以前の団地の半分以下の広さだった。窓は北向きで光が入らない。エアコンはスイッチを入れると異音がした。黒田は「静かな環境です」と言った。ちょうどその時、プレス機の音が大きくなった。

近くのファミリーレストランで書類の説明を受けた。家賃は月3万5000円。ただし、管理費と生活支援費が別にかかり、合わせると月々6万円程度になる。「お手元の年金とほぼ同額ですが、緊急時の対応や支払い管理も代行します。通帳とキャッシュカードをお預けいただければ、全部こちらでやりますので面倒な手続きが一切なくなります。残ったお金はその都度お渡しします。」秀夫は聞いた。「残ったお金とはどれくらいですか。」黒田は「月によって変わりますが、5000円から1万円ほどになることが多いです」と答えた。ナツキが食費や日用品はどうするのかと聞くと、黒田は笑顔のまま「白川さんの方は別のお仕事をされているとのことですから、そちらの収入でカバーしていただく形になります。お2人で助け合う形が1番無理がないかと思います」と答えた。

秀夫は契約書を見せてほしいと言った。A4で3枚の書類。文字が細かくびっしりと書かれていた。秀夫は老眼鏡を持っていなかった。文字が滲んで読めない。持ち帰って読むことはできないかと聞くと、黒田の表情がわずかに変わった。笑顔は崩れなかったが、目の形が少し変わった。一瞬のことですぐに戻った。「もちろんです。ただ、今週中にご返答をいただけると助かります。今、この物件を希望されている方もいらっしゃいまして。」ナツキがテーブルの下で秀夫の袖を引いた。秀夫はそれに気づいた上で、黒田を見た。12月には今の部屋を出なければならない。不動産屋はどこも断った。市営住宅は収入が足りなかった。手元の時間はどんどん短くなっていた。そして今、目の前に書類がある。いくつかの条件がパズルのように頭の中で嵌まっていく感覚があった。嵌まり方がどこか早すぎた。しかし、それを確かめる時間が自分にどれだけ残っているか。秀夫は言った。「今日判断する。ただし、1つ確認したい。通帳とキャッシュカードを預けるのは、家賃の引き落としのためだけですね。」黒田は「はい、もちろんです。それ以外の用途には使いません。契約書にも明記されています」と答えた。秀夫は契約書を手に取り、3枚目の下の方の細かい字の段落を見た。読もうとして読めなかった。ナツキが「おじさん、もう少し…」と言いかけた。秀夫はナツキの方を向き、首をほんのわずかに横に振った。そして、黒田が差し出す署名欄に名前を書き、印鑑を押した。黒田がにこりと笑った。来週の引き渡しで通帳とキャッシュカードを預かるという。

駐車場で黒田の車が走り去った後、2人は並んで立っていた。ナツキが口を開いた。「本当に良かったんですか。あの契約書、全部読めましたか。」秀夫は空を見た。「読めなかった。」「じゃあ、なぜ…」ナツキは言いかけて、止めた。秀夫も遮らなかった。しばらく2人は黙っていた。「帰るぞ。」秀夫は言った。

引っ越しはあっけなく終わった。荷物が少ないせいだった。布団一式、衣類のダンボール3箱、台所用品のダンボール1箱、それと手帳とタバコ。レンタカーの軽トラックに全部乗った。新居は、あの日黒田が見せた物件だった。千葉県内の工業地帯に近い2階建てアパートの1階。外壁は薄茶色のモルタル塗りで、所々亀裂が走り、2階の外廊下の鉄骨には錆が浮いていた。部屋は6畳一間で、エアコンは異音がする。壁は薄く、隣の人間の動く音が聞こえる。窓は結露がひどく、枠の周りが常に湿めっていた。しかし秀夫は文句を言わなかった。言う相手がいなかった。ナツキは秀夫の部屋から歩いて15分ほどの場所に、同じ会社の物件を借りていた。一緒に住むのではなく、別々だった。それが黒田の提示した選択肢の中にあり、ナツキが選んだ。秀夫は反対しなかった。

引っ越して1週間後、ナツキが顔を出した。コンビニの袋にはカステラとペットボトルのお茶が入っていた。秀夫はカステラは食べない習慣だったが、受け取った。彼女は30分ほどいて帰った。ホテルの客室清掃の仕事を始めたこと、週5日で1日4時間、時給は1100円だということを話した。秀夫は頭の中で計算していた。週5日4時間1100円、週あたり2万2000円、月に換算すると8万8000円程度。そこから税金や社会保険料を引いた手取りがいくらになるか。彼女が手取りをまだ把握していなければ、計算が狂う可能性がある。しかし、それを聞くタイミングは見つからなかった。

そして月末が来た。10月31日の朝、秀夫は6時に目を覚まし、手帳を開いた。今日は口座に年金が振り込まれる日だった。近くのコンビニATMで残高を確認した。画面に表示された数字を見て、秀夫は一度ATMから離れた。もう一度ATMに戻り、明細を印刷した。明細には引き落としの項目が並んでいた。家賃3万5000円。管理費特別徴収1万円。これは契約書に記載があった。しかし、その次に見慣れない項目があった。生活支援サービス利用料1万5000円。設備保全協力金5000円。合計は6万5000円を超えていた。つまり、年金が全額引き落とされた上に、口座残高からさらに5000円が出ていた。手元に戻る現金は0だった。

秀夫はその場で黒田に電話をかけた。黒田の声は明るかった。「松崎さん、どうかされましたか。」秀夫は明細の数字を読み上げ、契約時に説明を受けていないと言った。黒田はすぐに答えた。「ああ、それはですね、入居後に自動的に適用されるサービスでして。契約書の別紙3枚目の下段に記載がありますので、もう1度ご確認いただけますか。設備保全は建物の維持管理費用で、生活支援は緊急時の対応費用です。どちらも入居者の方全員に適用されるもので、特別に請求しているわけではないんです。松崎さんのような高齢の方が安心してお住まいいただくための費用ですので。」声は最初から最後まで丁寧だった。電話を切った後、秀夫はコンビニのベンチに腰を下ろした。頭の中で計算した。家賃3万5000円。管理費1万円。生活支援1万5000円。設備保全5000円。合計6万5000円。年金と完全に一致する。1円も手元に残らない設計になっていた。契約書に書いてあった。黒田の言う通りだった。読めなかった。老眼鏡を持っていなかった。読んだつもりで印を押した。それが全てだった。

部屋に戻り、台所の棚を開けた。半額のそばが半袋。インスタントの味噌汁が3袋。缶詰のサンマが1缶。米が少し。これだけあれば1週間は食べられる。問題はこれが尽きた後だった。ガスと電気の明細を確認すると、どちらも来月順の引き落とし予定だった。しかし、口座残高は今後1000円に満たない。手帳に書いた。黒田の件、契約書3枚目確認。ガス電気の引き落とし。食料残高分。ナツキに連絡。と書いてから、手が止まった。ナツキの物件も同じ会社のものだ。同じ構造になっている可能性が高い。彼女に電話をかけた。「今月の口座は確認したか。」少し間があり、「しました。今月分の給料が昨日入って、デモけみたら引き落としで全部消えていて。私も今、黒田さんに電話しようと思っていたところでした。」秀夫は言った。「電話するな。あの男は全部契約書通りだと言う。電話で時間を使うより、別のことをする方がいい。今日こっちに来られるか。」

昼前にナツキが来た。顔色が悪かった。自分の引き落とし明細を見せた。構造は秀夫のものとほぼ同じだった。家賃の額が違うだけで、管理費、生活支援、設備保全という3つの項目は同じだった。ナツキの給与は手取りで約7万2000円だったが、家賃と3つの費用を合わせた引き落としが7万円を超えていた。手元に残ったのは1000円台だった。秀夫は言った。「食料はあるか。」「インスタント麺と缶詰を買い置きしていたので、1週間くらいは大丈夫だと思います。」「では、来週まで食料がつきそうになったらこっちに来い。うちにも余分はないが分けることはできる。来週の月曜日、市の相談窓口に行く。場所と時間を調べておいてくれ。」ナツキは秀夫の顔をしばらく見て、「はい」と答えた。その日の昼食は2人で缶詰のサバを分けて食べた。秀夫が茹でたそばに、醤油を水で薄めたものをかけた。ナツキは一口食べて「美味しいですね」と言った。お世辞ではない声だった。

翌週が最初の試練だった。市の相談窓口に行ったが、担当者は週に2回しか在籍しておらず、その日は不在だった。木曜日の午後、秀夫は1時間かけてバスと徒歩で市役所へ行った。相談担当者は40代の男性で、書類を丁寧に読んだ後、「民事契約の範疇に入るため、行政が直接介入することは難しい」と言った。弁護士の無料相談を紹介できると言う。次の無料相談は3週間後だった。秀夫は「3週間後に行きます」と言って立ち上がった。担当者が「それまでの生活費はどうされる予定ですか」と声をかけたが、秀夫は「自分で何とかします」と言って歩き出した。帰り道、バスに乗らなかった。バス代を節約するためだった。11月の午後、日差しは弱かった。

その週から食事が変わった。朝は麦茶と食パン1枚か納豆を少し。夜はご飯と何か一品。昼は食べない。昼を食べない生活は以前にもやったことがあったので慣れていた。ナツキには1日3食食べろと言った。「お前は働いているから体力を落としちゃいけない。」ナツキは「おじさんはどうするんですか」と聞いた。秀夫は「自分は年寄りだから2食で足りる」と答えた。半分は本当で、半分は言い訳だった。

11月も半ばになった頃、ナツキの様子が変わり始めた。仕事に行く日は相変わらず出かけていったが、顔色が日に追うに白くなっていった。首の細さで体重が落ちているのが分かった。ある夜、ナツキが秀夫の部屋に来た。特に要件はなく、「なんとなく来ました」と言った。秀夫は麦茶を出し、2人でテーブルに向かった。ナツキが今日の仕事でどの部屋が1番大変だったかを話した。チェックアウト後のシーツを交換する話。バスルームの排水溝の清掃の話。帰り際、ナツキが靴を履きながら聞いた。「黒田さんの件、どうなりそうですか。」「3週間後に弁護士の無料相談がある。それまでは待つしかない。」ナツキは頷いた。それから「ごめんなさい」と言った。「何が。」ナツキは少し考えて、「何でもないです」と言って出ていった。

その翌週の木曜日のことだった。秀夫が夕食の準備をしていた夜の7時過ぎ、玄関先で「何かが倒れるような音」がした。秀夫は火を止め、玄関を開けた。ナツキが玄関先の三和土に膝をついていた。顔が蒼白で、額に薄く汗が浮いていた。「ひでおさん…」声が小さかった。「仕事から帰る途中で、急に足に力が入らなくなって…」秀夫は彼女の腕を掴んだ。腕が軽かった。以前に比べて明らかに細くなっていた。「食ったか。」ナツキは少し考えて「昨日の朝」と言った。「昨日の朝から何も食べていないのか。」「お金がもうなくて。缶詰が切れて、買いに行けなくて。インスタント麺は残ってるんですけど、お湯を沸かす気力が出なくて。」

秀夫は台所に行き、炊飯器を開けた。昨夜のご飯が半分残っていた。小さな鍋に水を貼り、火にかけた。乾燥わかめと味噌汁の素が1袋残っていた。それを使った。ご飯を茶碗によそい、味噌汁を注いだ。おかずはなかった。廊下に座り込んだままのナツキを起こし、テーブルに向かわせた。ナツキは最初、茶碗を両手で持ったまま動かなかった。少しして一口飲んだ。それから少し食べた。ゆっくりだった。彼女が半分ほど食べた頃、少し顔色が戻ってきた。食べながら、ナツキが口を開いた。声が小さかった。「もう疲れました。お母さんが死んで、仕事も全然うまくいかなくて、こんなところに引っ越して、お金も全部持って行かれて。全部自分のせいなのに、おじさんに頼ってばっかりで。もう疲れました。本当に疲れました。」秀夫は何も言わなかった。ナツキが茶碗を置いた。テーブルの上で両手を重ね、その上に額をつけた。肩が小さく動いていた。秀夫はテーブルの向こう側から、ナツキの重なった手の上に自分の手を置いた。何も言わなかった。「大丈夫だ」とも「頑張れ」とも言えなかった。大丈夫ではないし、頑張ってきたことは分かっていた。ただ、自分の手がナツキの手の上にある。それだけだった。ナツキの手は冷たかった。秀夫の手は、何十年も足場の鉄骨を握り続けた結果、分厚く節くれだった。ナツキの細い手の上に置くと、隠れるほどの大きさがあった。しばらく2人はその格好でいた。

やがてナツキが顔を上げた。目が赤かったが、表情はさっきより落ち着いていた。「ごめんなさい」と小さく言った。秀夫は手を引き、立ち上がって台所に戻った。水をコップに持ってきて、ナツキの前に置いた。「飲め。」ナツキは水を少しずつ、全部飲んだ。「今夜はここにいろ。うちに布団がある。お前の部屋まで戻るな。1人でいるとろなことを考える。」ナツキは小さく頷いた。

その夜、秀夫はナツキが洋室で眠るのを待った。それから手帳を開いた。今日の日付のページに、鉛筆で1行書いた。「これ以上待てない。」弁護士の無料相談まで3週間。それまでにナツキをこの状態に置いておくことはできない。やり方を変える必要がある。エコーを1本取り出しかけて、やめた。ナツキが眠っている。今夜は吸わないと決めた。秀夫はそのままこたつの前で眠った。

翌朝、ナツキが起きてきた時、秀夫はもう湯を沸かして待っていた。「今日、市役所に行く。弁護士の相談は3週間後だが、それを待たずに福祉の窓口に直接行って話をする。お前も来い。」ナツキは少し間を置いて「わかりました」と言った。

市役所に着いたのは7時50分。開館は8時半。入り口の前にはすでに4人が並んでいた。8時半に扉が開き、秀夫は迷わず総合案内のカウンターへ向かった。「福祉に行きたい。住宅の問題で相談したい。」3階の待合いで40分待ち、名前を呼ばれた。担当者は50代の女性、田中という名札をつけていた。眼鏡をかけ、表情は穏やかだが疲れている感じがした。秀夫はカバンから契約書と銀行の引き落とし明細のコピーを取り出し、田中の前に置いた。「説明します。」秀夫は順番に話した。団地の退去通知から始まり、黒田の会社に連絡したこと、物件を見に行ったこと、契約書に印鑑を押したこと、引き落としの内訳が契約時の説明と異なること、年金全額が毎月消えること、手元に現金がないこと。ナツキのことも話した。26歳の姪が同じ会社の物件に入居しており、同様の状況にあること。昨夜、食事が取れずに体調を崩したこと。話しながら、秀夫は感情を出さないように気をつけた。怒りや情けなさが話の途中で顔に出そうになる瞬間が何度かあった。しかし、事実は感情なしでも伝わる。田中は聞きながら書類を確認した。眉間に少し縦線が入った。話が終わると、田中は「確認させてください」と言って席を外した。5分ほどして戻ってきた。「今おっしゃった携帯の業者については、こちらでも把握しているものがいくつかあります。ただし、契約そのものが民事になりますので、行政が直接介入するには限界があります。ただ、今日お持ちいただいた書類の中に気になる点がいくつかあります。預金通帳と印鑑を業者が管理しているという点については、場合によっては別の問題になり得ます。弁護士の先生に見ていただく価値は十分あります。」秀夫は言った。「以前に弁護士の無料相談の案内をもらいましたが、次回は3週間後でした。」田中はパソコンの画面を確認した。「今週の金曜日に、別のルートで法律相談の枠があります。市と連携している司法書士の方が来てくださいます。そちらに入れることができるかもしれません。少しお待ちいただけますか。」田中が再び席を外し、今度は10分ほどかかった。戻ってきた時、手に小さなメモを持っていた。「金曜日の午後2時から予約を入れておきました。司法書士の中村先生です。今日お持ちいただいた書類を全部お持ちください。通帳の管理に関する点を中心にお話しになることをお勧めします。」それと田中は続けた。「お2人の当面の生活についてですが、緊急小口資金の制度があります。貸し付けになりますが、今日申し込めば来週中に入金される可能性があります。よろしければご案内します。」秀夫は一瞬間を置いた。「借りたものは返す必要がある。」田中は頷いた。「無利子ですし、返済は状況が安定してからで構いません。申し込むかどうかはご判断いただく形になります。」秀夫はナツキを見た。ナツキはわずかに頷いた。「申し込み書をください。」

書類の記入に時間がかかった。字が小さい欄を1つずつ確認しながら書いた。老眼鏡は持っていなかったが、近づけて呼んだ。ナツキが隣で補助した。分からない欄は田中に聞いた。提出したのは11時を少し過ぎた頃だった。最後に田中が言った。「金曜日の相談で何か動きがあれば、また10日にも知らせてください。引き続き対応できることは対応します。」秀夫は「分かりました」と言って立ち上がった。外に出ると薄い日差しが出ていた。秀夫はしばらく市役所の外の階段の前に立っていた。「おじさん。」ナツキの目が赤くなっていた。泣くのをこらえている顔だった。「ありがとうございます。」声が固かった。秀夫はナツキの顔を1秒見て、それから視線を前に戻した。「帰るぞ。腹が減った。」ナツキが息が少し漏れただけのような笑い方をした。「はい」と言って歩き始めた。

金曜日の司法書士との面談は予定通り行われた。中村という司法書士は60代の白髪混じりの穏やかな男だった。書類を順に確認しながら、秀夫の話を遮らずに最後まで聞いた。全部聞き終えてから、少し考えて「これは記録として残すべき案件だと思います」と言った。「通帳と印鑑の管理については、どうお考えですか。」秀夫が聞くと、中村は答えた。「委任契約の範囲内であれば問題ないとも解釈できますが、委任の範囲を超えた運用があるかどうか。まず内容証明郵便で業者に照会をかけることが先決です。照会した上で、返答の内容によっては返還請求の根拠になります。こちらで文書を作成しますので、相手先の住所と会社名を教えてください。費用はかかりません。」秀夫は手帳から黒田の会社の情報を読み上げた。中村がパソコンに入力した。「1週間から10日で、返答が来るか来ないかです。返答があれば次の手を考えます。返答がなければ、それもまた記録になります。焦らず、でも動き続けることが大事です。」秀夫はナツキのことも話した。別の物件に入居している姪が同じ構造の契約に縛られていること。給与が手元にほとんど残らない状態であること。中村は「姪御さんも同じ対応ができます。ただし、本人から依頼の意思表示が必要です」と言った。ナツキはすぐに「お願いします」と言った。面談が終わったのは3時過ぎだった。

それから3週間が過ぎた。黒田の会社から内容証明への返答は来なかった。しかし中村が動いた。返答がないこと自体が記録になり、中村は市の消費生活センターとの連携で、黒田の会社が過去にも同様の苦情を受けていることを確認した。これが材料になり、市の福祉担当課が介入する根拠が生まれた。田中が連絡してきたのは11月の終わりだった。「業者側が通帳と印鑑を返還することに同意した。全額ではないが、今後の引き落としについては本人管理に戻すことで合意した。既払金については免除する方向で話が進んでいる。最終的な書類は来週中にできる。」秀夫は電話を持ったまま、少し間があった。「分かりました」と言った。それだけだった。電話を切ってから、秀夫はしばらく台所の前に立っていた。窓の外は曇っていた。工場の煙突から白い煙が上がっていた。いつもと同じ景色だった。しかし、変わっていないこととは別に、何かが終わった感触があった。その夜、ナツキに電話で伝えた。ナツキは電話口で一瞬黙った。「そうですか…良かったです。おじさんが動いてくれなかったら…」言いかけて止まった。秀夫は「寝ろ。明日も仕事だろう」と言った。

12月になった。通帳と印鑑が戻ってきた日、秀夫は郵便局に行って通帳の記帳をした。数字を確認した。来月からは、引き落とし後にいくらか手元に残る計算になる。多くはない。しかし、今まで1円も残らなかったのと、数千円でも残るのとでは生活が違う。ナツキの方も同じ週に通帳が戻った。ナツキはその翌日、人材派遣会社に応募した。正社員募集で、経験は問わず、週5日、8時から5時、保険完備。時給は下がるが、社員であること、雇用が安定していることを選んだ。面接の結果は2日後に出た。「採用でした」とナツキが電話で言った。声が少し震えていた。震え方が、あの夜テーブルに額をつけていた時とは違う種類の震えだった。「そうか。」「来月の15日からです。それと…来月の給料が入ったら、都内の物件に引っ越します。会社の近くに家賃の安い物件を見つけました。今度はちゃんとした不動産屋で契約します。」声が話しながら少し落ち着いていった。「それでいい。」ナツキは少し間を置いて「おじさんは、このまま今の部屋にいるんですか。」「当分はここにいる。来年以降のことはまだ分からんが、とにかく今はここだ。」「わかりました。」それで電話は終わった。

12月の中旬、ナツキが引っ越して最初の週末、秀夫は1人で夕食を食べた。スーパーの閉店近くに行き、半額シールの貼られたコロッケを1個120円で買った。ためらわなかった。シールが貼られた時間に棚の前に立ち、他の客と並んで待ち、貼られた瞬間に手を伸ばした。それだけのことだった。誰かに見られていたかどうかは関係なかった。部屋に戻り、ご飯と味噌汁とコロッケ1個を静かに食べた。コロッケは少し油が滲んでいたが、揚げたてよりも衣が落ち着いていて、中のじゃがいもがよく踊れていた。秀夫はゆっくり食べた。テレビはつけなかった。食べ終わって、茶碗を洗い、ベランダに出た。夜の工業地帯は、平日ほど音がなかった。空は雲が多く、星は見えなかった。しかし、遠くの街明かりが雲の裏側に反射して、暗すぎるということもなかった。タバコを1本取り出し、火をつけた。寒い空気の中で煙が白く広がって、すぐに消えた。静かだった。タバコを半分ほど吸ったところで、ポケットの中の携帯電話が振動した。画面を見ると、ナツキからのメッセージだった。短い文章だった。「おじさん、ちゃんと温かくしてね。来月初給料入ったら焼肉食べに行こう。奢ります。」秀夫は画面を見た。しばらくそのまま見ていた。返信はしなかった。返し方が分からなかった。しかし、携帯を閉じる前に、もう1度だけ文章を読んだ。タバコを灰皿で消した。部屋に戻り、携帯をテーブルの上に置いた。明かりをつけたまま、こたつの前に座った。こたつ布団はまだ出していなかった。10月に出すと決めていたが、今年はそのまま忘れていた。来週出そうと思った。外の街明かりがカーテン越しに薄く差し込んでいた。部屋は変わっていなかった。6畳一間、薄い壁、隣の物音が時々聞こえる部屋。年金は戻ってきたが、多くはない。来月も再来月も、この部屋で同じ計算を続ける。それは変わらない。しかし、今夜の部屋は以前と少し違う感触があった。何が違うのかは、うまく言えなかった。静かさは同じだ。1人であることも同じだ。テーブルの上の携帯の画面はもう消えている。しかし、テーブルの上に携帯がある。その事実が、今夜はなんとなく違った。秀夫は手帳を取り出した。今日の日付のページを開き、支出を書いた。「コロッケ 120円。以上。」今日の支出はそれだけだった。手帳を閉じた。引き出しにしまわずに、テーブルの上に置いたままにした。明かりを消すと、部屋はカーテン越しの薄明かりだけになった。秀夫は布団を敷き、横になった。天井を見た。シミはなかった。以前の団地の天井には12年間ずっと同じシミがあったが、この部屋の天井には何もない。最初来た時は白すぎて落ち着かなかったが、2ヶ月経った今はそれも慣れていた。来月、ナツキは初給料で焼肉を奢ると言っていた。焼肉が好きか嫌いか。それ以前に、外で食事をするという習慣がもう何年もなかった。いくらかかるか分からない。自分で払う分も持っていく必要があるかもしれない。事前に確認しておく必要がある。そう考えながら、秀夫は目を閉じた。眠るまでの間、工場の方で一度、低い機械音がした。それからまた静かになった。松崎秀夫は、静かな部屋の中で眠りに着いた。

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