「お前はもう、いらない子だ」…

「お前はもう、いらない子だ」...

母の葬儀が終わってまだ3日しか経っていない朝、親戚の一人が冷たい声で言い放った。

「もう面倒は見られん。この家も売ることにした。母親もいないんだ。自分で何とかしろ」

その言葉に温かさのかけらもなかった。17歳の冬、俺は生まれ育った家を追い出された。手に持たされたのは、母の遺品と着替えを詰めた古い鞄一つだけ。母を亡くし、父は写真でしか知らない。味方はこの世に一人もいなくなってしまった。

行く当てもなく歩いた山道で、差し出された一切れの林檎。それが、凍りついた俺の時間をもう一度動かすことになるとは、この時の俺は思ってもいなかった。

俺の名前は宮原ユウト。32歳。食品会社で、市場に出回らない傷ついた果物や形の不揃いな野菜を使った商品開発をしている。普通なら捨てられてしまうものを、もう一度美味しいものに変えて世に送り出す仕事だ。傷物にもちゃんと価値がある。捨てられるはずのものにも、まだ生きる道は残されている。俺が本気でそう信じているのには、理由がある。

話は15年前に遡る。

俺は母と二人きりで育った。父は俺が物心つく前に病気で亡くなった。母は昼も夜も働いた。朝はスーパーのレジに立ち、夕方からは小さな居酒屋の厨房を手伝った。それでも暮らしはいつもギリギリで、月末になると母はため息をついていた。それでも母は俺の前で弱音を吐いたことが一度もなかった。

母はいつも俺の話を聞いてくれた。「ユウトの話を聞くのが、母さんの一日で一番の楽しみなんだよ」と、目を細めて言うのだった。母は口癖のように言っていた。「世の中には辛い思いをしている人がたくさんいる。もしお前がそういう人を見かけたら、見て見ぬふりだけはしちゃいけないよ。手を差し伸べられる人になりなさい。それが母さんのたった一つの願いだからね」

母が倒れたのは、俺が高校2年の秋のことだった。台所で牛乳の支度をしている最中に、音もなく崩れ落ちた。医者からは「もう手の施しようがない」と告げられた。

母はそれから半年ほど、病院のベッドで少しずつ痩せていった。俺は毎日学校が終わるとまっすぐ病院へ通い、母が眠りに着くのを見届けてから、深夜まで近くのコンビニでアルバイトをした。母はよく俺の手を握って言った。「あんたは優しい子だよ。人の痛みがちゃんと分かる子だ。だからきっと大丈夫。母さんがいなくなっても、お前は一人でちゃんと生きていける」

母が息を引き取ったのは、冬の初めの雪の散らつく夜だった。最後に母は俺の名前を一度だけか細い声で呼んだ。それきり、二度と目を覚まさなかった。

葬儀は遠い親戚たちが集まって仕切ってくれた。俺はそれを心の底からありがたいと思っていた。しかし、通夜の番から親戚たちの態度は変わっていった。俺のいないところで、金の話ばかりが漏れ聞こえてきた。母がわずかに残したお金のこと。この古い家を売ればいくらになるか。俺を引き取れば、これから何年いくらかかるか。母の遺体がまだ冷たくなったばかりだというのに。

そして葬儀が終わって3日目の朝、あの言葉が投げつけられた。

俺は母の遺影を胸に抱え、着替えの詰まった鞄を持って家の玄関を出た。誰一人、引き留めなかった。冷たい冬の空の下で、俺はたった一人になった。

その日から、行く当てもなく歩き続けた。財布の中には、母の枕元に残されていた僅かな小銭しか入っていなかった。気がつくと、名前も知らない山合いの町にたどり着いていた。十一月の終わりの風は刺すように冷たかった。喪服のジャケット一枚では、体の熱がどんどん奪われていく。それでも俺は、当てもない道をひたすら歩いた。

どれくらい歩いただろう。西の空に陽が傾き始めた頃だった。ふと、視界がぐらりと大きく揺れた。足に全く力が入らない。膝から崩れ落ちるように、その場に倒れ込んだ。体は鉛のように重く、もう指一本動かせなかった。

ああ、ここで終わるのか。不思議と怖くはなかった。むしろ、少しほっとしていた。ここで力尽きれば、母のところへ行ける。そう思うと、心は静かだった。意識が遠のいていく。

どれくらいそうしていただろう。遠くの方で、車のエンジンの音が聞こえた気がした。それから、砂利を踏む慌てたような足音。そして、しわがれているけれど驚くほど温かい声が、俺の耳のすぐそばで響いた。

「あんた、大丈夫かい?しっかりしな。おい、じいさん、早く来とくれ。子供が道で倒れてる」

霞んだ視界の端に、小柄な老女の顔が見えた。白髪の、よく日に焼けた顔。心配そうに眉を寄せて、俺の顔をじっと覗き込んでいる。続いて、ゴツゴツとした大きな手が俺の背中を支えて、静かに起こしてくれた。白髪頭のがっしりした体つきの老人だった。

「おい、坊主、意識はあるか?喋れるか?どっか痛いところはあるか?」

俺は答えようとしたが、口がうまく動かなかった。ただ、背中を支えるじいさんの手が驚くほど硬くて、そしてじんわりと温かかったことだけを覚えている。どうしてこの人たちは、見ず知らずの俺を助けようとするんだろう。放っておけばいいのに。何の得にもならないのに。

ばあさんが自分の羽織っていた綿入れを脱いで、俺の方にかけてくれた。ふわりと、日向のような匂いがした。誰かにこんな風に触れられたのは、母が倒れて以来初めてのことだった。

次に目を覚ました時、俺は知らない天井を見上げていた。体には、ずっしりと重いけれど心地よい布団と毛布が何枚も重ねてかけられていた。頬に触れる畳の匂い。そして、どこか近くから味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。生きている。俺はまだ生きているんだ。

ばあさんが障子を開けて顔を覗かせた。俺と目が合うと、シワだらけの顔をパッと明るくさせた。

「おや、目が覚めたかい?よかった。あんた、丸一日も眠ってたんだよ。どこも痛くないかい?」

そう言いながら、ばあさんは俺の枕元にお盆を置いた。白い皿の上には、皮を向いた林檎がウサギの形に綺麗に切り揃えられて並んでいた。よく見ると、その一つ一つに茶色い傷や小さなへこみがあった。

「これ、うちで作ってる林檎でね。傷がついちまって店には出せないやつなんだけど、味だけは一等品なんだよ。ほら、遠慮しないで。まずは食べな。話はそれからだ」

俺はためらった。この親切に報いる金など、一円もない。

「あの…、俺、お金がないんです。何も払えません。だから、こんなによくしてもらっても、何もお返しできなくて…」

すると、ばあさんは吹き出すように笑った。

「お金?あんた、何を言ってるんだい?誰がお金が欲しいなんて言ったのさ。道で倒れてる子を助けるのに、お礼をもらってどうするんだい?そんなもの、いるわけないだろう。いいから、つべこべ言わずにお食べ」

俺は恐る恐る一切れを手に取り、口に運んだ。次の瞬間、冷たくて甘い果汁が口いっぱいに広がった。瑞々しくて驚くほど甘い。その瞬間だった。俺の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。自分でもどうしてなのか分からなかった。ただ、一度溢れ出した涙は止まらなかった。名前も知らないこの人たちは、俺が何者かも聞かずに、林檎を剥いて布団を敷いて、味噌汁を温めて、俺が目を覚ますのを待っていてくれた。何の見返りも求めずに。その優しさが、氷のように凍りついていた俺の心をじわりと溶かしていった。

俺は声を上げて泣いた。ばあさんは何も聞かなかった。ただ、俺の背中にそっと手を当てて、ゆっくりと何度もさすってくれた。

「いいんだよ。泣きたいだけお泣き。我慢なんかしなくていい。腹が減ってるとね、人は余計に悲しくなるもんなんだよ。だからね、まずは食べる。腹が膨れりゃ、少しは元気も出る」

俺はしゃくり上げながら、それでも名前だけは告げた。

「宮原ユウトです」

ばあさんは「ユウトかい。いい名前だね」と目を細めた。そこへ、あの白髪の老人が部屋に入ってきた。俺が泣いているのを見ても、驚いた顔一つしなかった。ただどっかりと俺のそばに腰を下ろすと、皿の上の林檎を一切れ自分の口に放り込み、うまそうに噛んだ。

「うまいだろう。うちの林檎は日本一だ。傷はついてるがな」

その日の夜、俺は生まれて初めて他人の家で夕飯をご馳走になった。焼きたての白い飯、熱々の味噌汁、ぬか漬けとこんがり焼いた魚。どれも涙が出るほど美味かった。ばあさんは俺の茶碗が空になるたびに、黙って飯をよそってくれた。三杯、四杯。俺は夢中でかき込んだ。じいさんはそれを見て、嬉しそうに笑っていた。

「いい食いっぷりだ。若いってのはいいなあ。言うと、まだまだあるからね。遠慮しないでお代わりしな」

俺が少し恥ずかしくなって箸を止めると、じいさんが急に真面目な顔になった。

「遠慮なんかするもんじゃない。飯を食うってのはな、生きてるものの特権だ。腹いっぱい、うまいもんを食え。うまいと思って食えば、それだけで人はまた明日を生きていける」

その言葉に、また目の奥が熱くなった。食事の後、ばあさんは俺の擦り切れた喪服の袖のほつれを見つけると、「ちょっと貸してごらん」とその場で針と糸を持ってきて繕ってくれた。俺のために誰かが針を動かしてくれる。ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。じいさんが風呂を沸かしてくれた。久しぶりに湯舟に体を沈めると、怖がっていた体の芯がじんわりと解けていった。

湯の向こうで、じいさんとばあさんが台所で小さな声で話しているのが聞こえた。

「あの子、よっぽど辛い目に遭ってきたんだね。ご飯を食べてる間も、ずっと怯えた目をしてた」

「ああ、まるで捨てられた子犬みたいな目だ。まあ、事情は聞くまい。話したくなったら、そのうち自分から話すだろう」

「そうだね。今はただ、あったかいご飯とあったかい布団があればいい。それだけで人は生き返るもんだからね」

その夜、俺は久しぶりに夢を見た。母が出てくる夢だった。母は優しい笑顔で俺の頭を撫でてくれた。

「良かったね。優しい人たちに会えて」

「母さん、行かないで」

「大丈夫、ユウトはもう一人じゃないから」

目が覚めると、枕が少し濡れていた。悲しい涙ではなかった。久しぶりに流した、温かい涙だった。

翌朝、俺は黙って出ていこうと思った。こんなに良くしてもらって、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。しかし、玄関の引き戸に手をかけたその時だった。

「おい、坊主。こんな朝っぱらから、どこへ行くつもりだ?」

背後から、低い声がした。振り返ると、腕を組んだじいさんがじっと俺を見ていた。

「お世話になりました。本当にありがとうございました。俺、そろそろ行きます。これ以上、ご迷惑はかけられませんから」

「行くって、どこへ行くんだ?当てはあるのか?」

俺は答えられなかった。当てなど、あるわけがなかった。じいさんは大きくため息をついて、台所の方へ声を張り上げた。

「おい、ばあさん。この坊主、黙って出てこうとしてるぞ」

奥から、ばあさんがバタバタと出てきた。俺が抱えた鞄を見るなり、腰に両手を当てて本気で怒ってみせた。

「全く、水臭い子だね。朝ご飯も食べずにどこへ行くつもりだ。当てもないくせに。だめだめ、そんなのばあちゃんが許さないよ。いいから荷物を置きな。話はそれからだ」

俺はその場に立ち尽くした。優しくされることが、辛かった。俺なんかに、そんな価値はない。喉の奥からこらえていたものが競り上がってきて、俺は俯いたまま絞り出すように言った。

「どうして…。どうして、そんなによくしてくれるんですか?俺は…、血の繋がった親戚にさえ『いらない』って捨てられたんです。何の寝打ちもない、傷物なんです。だから、俺なんかに優しくしたって…」

すると、じいさんは何も言わずに台所へ歩いていった。そして、籠の中から一つ、大きな傷のついた真っ赤な林檎を手に取って戻ってきた。じいさんはそれを、俺の目の前にぐいっと差し出した。

「坊主、この林檎をよく見てみろ。ここにでかい傷があるだろう。木から落ちて、枝にぶつかった後だ。こういうのはな、店には出せん。世間ってやつは、傷がついてるってだけでこいつを弾いて捨てちまう。値打ちなしだと決めつけてな」

俺はその林檎をじっと見つめた。

「だがな、かじってみりゃ分かる。中身は傷のないやつと何にも変わりません。いや、こういうやつの方が枝の先で太陽をたっぷり浴びて育ってな、よっぽど甘かったりするもんだ。傷があっても、甘さは変わらん。人も同じだ。表の傷を見て値打ちを決める奴の方が、よっぽど間違ってるのさ。覚えとけ、坊主」

俺はその言葉を胸の奥で何度も繰り返した。傷があっても、甘さは変わらない。人も同じだ。誰かにそんな風に言ってもらえたのは、生まれて初めてだった。俺の頬を、涙が伝った。今度は、悲しみの涙ではなかった。張り詰めていたものが緩んで溢れ出す、そういう涙だった。俺は、生まれて初めてありのままの自分を丸ごと受け止めてもらえた気がした。傷があってもいい。うまく笑えなくてもいい。ここにいていいんだ。

俺は鞄を床に置き、二人に向かって深く頭を下げた。

「もう少しだけ…、ここにいさせてください。お願いします」

それだけ言うのが精一杯だった。ばあさんは「よし、それでいい」と大きく頷いて、俺の背中をポンと叩いた。じいさんは「飯だ、飯。冷めちまう」と言って、さっさと座敷へ戻っていった。その背中が、なんだか少し照れ臭そうに見えた。

その日から、俺は大庭さん夫婦の家にしばらくの間置いてもらうことになった。じいさんの名は大庭幸吉、ばあさんの名は大庭千代。二人はこの山合いで代々林檎園を営んできた夫婦だった。子供はいなかった。若い頃に一度授かったが、生まれてすぐになくしてしまったのだと、ずっと後になって近所の人から聞いた。

俺はただ食べさせてもらって寝させてもらうだけというのが、どうにも落ち着かなかった。せめて何か手伝いをさせてほしいと頼むと、じいちゃんは「なら、ついてこい」と俺を果樹園へ連れ出した。家の裏手の斜面いっぱいに、林檎の木がずらりと並んでいた。ちょうどその年の収穫の終わりかけの時期だった。

じいちゃんは、林檎の採り方を一つ一つ丁寧に教えてくれた。

「いいか、坊主。林檎はな、ぎゅっと握って力任せに引っ張るんじゃない。手のひらで下から上に持ち上げてな、こう、くるっと手首を返すんだ。そうすりゃ、枝を痛めずに実だけがもげる。枝を大事にしてやりゃ、木は来年またいい実をつけて返してくれる」

俺はひどく不器用で、最初は何度も枝を折りかけた。それでもじいちゃんは決して怒ったりしなかった。ただ「違う違う、そうじゃない」と言いながら、根気よく何度でも教えてくれた。地面に落として傷をつけてしまった林檎も、じいちゃんは決して捨てなかった。

「これはジュースにする。これはばあさんがジャムにしてくれる。傷がついたって、うまいもんはうまい。捨てるところなんか一つもありゃせん」

ある日、俺は大きな失敗をした。収穫した林檎を詰めた木箱を運ぶ途中で足を滑らせて、ひっくり返してしまったのだ。せっかくの林檎が坂道を転がり落ちていく。俺は真っ青になった。弁償なんてできるわけがない。また追い出される。そう思うと、体が震えた。

ところが、じいちゃんは転がった林檎を拾いながら大声で笑い出した。

「わっはっは、派手にやったな。気にするな。傷がついたらジュースにすりゃいい」

二人は顔を見合わせて笑った。俺は力が抜けて、それから釣られて笑った。失敗しても怒られない。笑って許してもらえる。そんな当たり前のことが、涙が出るほどありがたかった。

昼になると、ばあちゃんが大きなおにぎりを竹の皮に山ほど詰めて、果樹園まで運んでくれた。塩のよく効いた、握りたてのおにぎりだった。それを切り株に腰かけて三人で並んで食べた。山の空気は冷たかったが、日向はぽかぽかと温かかった。

「男の子はね、たくさん食べなきゃだめだよ。遠慮しないで、ほら、もう一つお食べ」

俺はこの数日で、母をなくしてから初めて腹の底から笑えるようになっていた。

ある日の昼下がり、隣の畑の方から一人の女の人が野菜の籠を抱えてやってきた。田辺静さんという、大庭さん夫婦の古い友人だった。静さんは俺の姿を見て目を丸くした。

「あら、千代さん。この子はどなた?」

「うちでちょいと預かってる子でね。ユウトって言うんだ。よく働く、いい子だろう」

静さんは何か事情があるのだと察したのか、それ以上は何も聞かなかった。ただにっこりと笑って、籠の中から大きな大根を一本、俺に差し出した。

「はい、これ、うちの畑のだよ。よかったら食べてくれ」

俺はこの山合いの人たちの温かさに、また少し驚いた。ここでは誰もが当たり前のように人に手を差し伸べる。困っている人がいたら、黙って野菜を分け合う。それがこの土地の当たり前の暮らしなのだった。ふと、母の口癖が頭をよぎった。母が願っていた「そういう人」というのは、きっとじいちゃんやばあちゃんや静さんのような人のことなんだろう。

夕方、作業を終えて家に帰ると、じいちゃんは囲炉裏の前で晩酌を始めるのが日課だった。俺はばあちゃんが作ってくれた甘い林檎のジュースを飲んだ。じいちゃんは赤い顔で、若い頃の話をぽつりぽつりと語ってくれた。この果樹園を親の代から受け継いで、二人で少しずつ広げて育ててきたこと。大きな台風で木が全部だめになってしまった年もあったこと。それでも諦めずに、また一から植え直してここまでやってきたこと。

「木ってのはな、正直なもんだ。手をかけて可愛がってやりゃ、ちゃんと答えて甘い実をつけてくれる。だが、おったらかしにすりゃ、実をつけなくなる。枯れちまうこともある。人も同じかもしれんな」

俺はじいちゃんに、いろんなことを教わった。林檎の木は一本一本性格が違うこと。日当たりのいい場所を好む木もあれば、水気を気にする木もあること。同じように育てても、甘い実をつける木もあれば、酸っぱい実をつける木もあること。

「人間と同じだな。みんな違って、それでいいんだ。無理に同じにしようとするから、おかしくなる」

俺は林檎をもぐ手を止めて、その言葉を聞いていた。学校では教えてくれない話だったけれど、生きていく上で何より大切なことのように、俺には思えた。

夜、ばあちゃんの作る夕飯はいつも品数が多かった。煮物に焼き魚に漬け物に汁物。「たくさんお食べ」がばあちゃんの口癖だった。俺が遠慮していると、次々に俺の茶碗におかずを乗せた。温かい灯りの中で笑い合う二人の顔。それは俺がずっと欲しくてたまらなかった、温かい食卓の時間だった。

俺が大庭さんの家に来て一週間ほどが過ぎた頃だった。ある晩、夕飯の後でじいちゃんが湯呑みを置いて、静かに切り出した。

「お前のことを、役場に相談してきた」

俺の胸が、どくんと大きく跳ねた。

「お前はまだ17だ。本当なら、ちゃんとした大人の元で守られて暮らす権利がある。学校にも行かにゃならん。このままうちにいちゃ、お前の将来がだめになっちまう。町に、身寄りのない子供を預かって育ててくれる施設がある。役場の人がそこでちゃんと面倒を見てくれるそうだ。飯も腹いっぱい食える。高校にもちゃんと通える。お前の未来のためには、その方がずっといい」

分かっていた。頭では痛いほど分かっていた。俺のような子供を、この年になった老夫婦がいつまでも面倒を見られるわけがない。それでも、込み上げてくるものをどうしても抑えられなかった。

「俺、ここにいちゃだめですか?じいちゃんとばあちゃんのそばにいたいんです。邪魔はしません。何でも手伝います。だから、お願いします。ここに置いてください」

言いながら、俺は自分がみっともなく泣いているのに気づいた。ここを離れたら、俺はまたたった一人になる。それが、怖くてたまらなかった。

ばあちゃんが、静かに俺の手を握った。ばあちゃんの目にも、涙がいっぱいに溜まっていた。

「ばあちゃんもね、本当はずっとお前とここにいられたら、どんなにいいかと思うよ。毎日賑やかで楽しくて。でもね、それはお前のためにならないんだよ。ばあちゃんたちはもうこんな年寄りだ。あと何年、お前のそばにいてやれるか分からない。お前には、これから長い長い人生があるんだ。この大事な人生を、こんな山の中だけで終わらせちゃいけないよ。広い世界へ出て、いろんな人に会って、いっぱい傷ついて、それでも大きくおなり。それが…、ばあちゃんたちの願いだよ」

言葉がなかった。二人が俺のことを本気で思ってくれているのが、痛いほど伝わってきたからだ。ここで俺がわがままを言えば、二人を困らせるだけだ。俺は袖で涙を拭って、小さく頷いた。

それからの数日は、あっという間に過ぎた。最後の日、ばあちゃんは俺のために一晩で毛糸の手袋を編んでくれた。「町はここよりずっと寒いだろうから」と言って。少し不格好だけれど、温かそうな手袋だった。じいちゃんは俺を果樹園へ連れ出して、斜面の一番上に立つ一本の大きな林檎の木の前で足を止めた。

「この木はな、わしがちょうど今のお前くらいの年の頃に、死んだ親父と一緒に植えた木だ。もう50年以上も、毎年欠かさず実をつけとる。この果樹園で一番古くて、一番甘い実をつける木だ。木ってのは大したもんだよ。人よりずっと長く生きて、文句一つ言わずに、ずっと実りを分け与え続ける」

「お前も、こういう木みたいな人間になれよ。自分が苦しくても、誰かに甘い実を分けてやれる。そういう人間にな」

その夜、俺たちは三人で最後の食卓を囲んだ。誰も別れの話はしなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、その食卓を囲んでいた。

そして、別れの朝が来た。その朝は皮肉なほど、よく晴れていた。ばあちゃんは朝早くから台所に立って、俺のために握り飯をたくさん握ってくれていた。じいちゃんはいつもよりずっと口数が少なく、黙々と俺の少ない荷物を車まで運ぶのを手伝ってくれた。

旅立ちの支度をした俺は、玄関の土間で二人に向かって深く、深く頭を下げた。

「じいちゃん、ばあちゃん、本当に本当にお世話になりました。俺、この恩は一生忘れません。いつか必ず立派になって、恩返しに来ます。約束します。だからそれまで、二人とも元気でいてください」

すると、ばあちゃんが、あの傷のついた林檎をいくつもいくつも俺の鞄に詰め始めた。鞄が膨らんで閉まらなくなるほど、たくさん持たせてくれた。

「これ、持っておいき。お腹が空いたら食べな。辛くて苦しくなったら、この林檎を一口かじって、ここのことを思い出せばいい。お前には、帰って来られる場所がちゃんとあるんだ。それだけは、何があっても忘れるんじゃないよ」

俺は林檎の詰まった鞄を胸にぎゅっと抱きしめた。その鞄はずっしりと重かったけれど、その重さが二人の優しさの重さのように感じられた。じいちゃんは少し離れたところで腕を組んで立っていた。そして、俺と目を合わせないまま、ぶっきらぼうに言った。

「恩返しなんぞ、しなくていい。そんなもの、これっぽっちも期待しとらん。ただな、ちゃんと生きてくれ。腹いっぱい飯を食って、たまには笑って、達者で生きてくれ。それだけでわしらは十分なんだ。ちゃんと生きてくれたら、それでいい。それがわしらへの一番の恩返しだ」

俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も頷いた。ちゃんと生きる。腹いっぱい飯を食って、笑って、達者で生きる。それが二人への恩返しになるのなら、俺は絶対に生き抜いてみせる。

俺を乗せた車がゆっくりと動き出した。振り返ると、二人は果樹園を背にしていつまでも、いつまでも手を振っていた。その二つの姿が山の坂道のカーブの向こうに消えて見えなくなるまで、俺はずっと後ろの窓ガラスに顔を押し付けていた。

あれから15年。施設に引き取られた俺は、そこで高校を卒業した。神谷先生という施設の職員の人が、俺を真っ直ぐに支えてくれた。神谷先生はいつも俺にこう言っていた。

「お前は、ちゃんと人に大事にされてきた子だ。その顔を見れば分かる。だから、自分を安売りするんじゃないぞ」

高校を出た俺は、就職先を探す時迷わず食品会社を選んだ。それも、地方の農作物を扱う小さな会社だった。あの日の傷ついた林檎が忘れられなかったからだ。捨てられるはずのものにもう一度光を当てたい。捨てられかけていた俺をあの老夫婦が拾ってくれたように、俺も捨てられかけたものを拾い上げたかった。

上司には「お前は変わったやつだな」とよく言われた。効率も儲けも二の次で、とにかくそのものが持っているいいところを引き出したい。それが俺の仕事のやり方だった。形の悪いトマトを使ったソース。傷のついた桃を使ったシロップ漬け。規格外の人参を混ぜ込んだ焼き菓子。どれも地味な商品だったが、俺はその一つ一つに心を込めた。傷があっても、うまいものはうまい。じいちゃんのその言葉を、俺は仕事の中でずっと証明し続けようとしていた。

忘れられない出会いもあった。ある年、東北の山合の村で年配の林檎農家に会った。その年、大きな台風が来て実の半分に傷がつき、出荷できずに途方に暮れていた人だった。俺はその傷だらけの林檎を全部買い取らせて欲しいと申し出た。その人は最初、信じられないという顔をした。それから、林檎を引き取る俺の手を両手でぎゅっと握って、涙をこぼした。

「こんな傷物に値打ちを見てくれる人がいたなんてなあ…」

ゴツゴツとしたその手の感触は、あの日の幸吉じいちゃんの硬くて温かい手にどこか似ていた。

しかし、俺にはずっと心に引っかかっていることがあった。あの大庭さん夫婦への恩返しだ。いつか必ず立派になって恩返しに来ます。俺はあの別れの日にそう約束した。それなのに、俺はあれから一度もあの果樹園を訪れていなかった。理由を並べればいくらでもあった。就職して数年は毎日が必死で余裕がなかった。少し落ち着いてからは、まだ胸を張って会えるほど立派になっていないという気持ちが足を止めた。そして仕事が忙しくなり、気づけばあっという間に15年が過ぎていた。

本当は分かっていた。立派になんてならなくて良かったのだ。じいちゃんは言っていた。恩返しなんぞしなくていい。ちゃんと生きてくれたら、それでいいと。ただ、元気な顔を見せに行けば、それで二人は喜んでくれたはずだった。それなのに俺は「もっと立派になってから」と、会いに行くのを先延ばしにし続けた。今思えば、怖かったのだ。二人がもういないかもしれない。その現実を突きつけられるのが。

そんなある日、会社で新しい商品開発の企画会議があった。その席で、開発部の先輩の寺田さんが俺にこう訪ねた。

「宮原、お前、どうしてそんなに傷物とか企画外にこだわるんだ?お前の作るものには、なんていうか、妙な熱があるよな。その熱はどこから来てるんだ?」

俺はうまく答えられなかった。ただ、その問いは俺の心の一番奥の蓋をそっと開けた。俺の熱の源。それは間違いなく、あの山合いの果樹園と、傷のついた林檎と、二人の老夫婦だった。その夜、俺は久しぶりにあの日のことを夢に見た。目が覚めた時、俺の頬は涙で濡れていた。

もう、これ以上先延ばしにしてはいけない。俺はそう思った。机の引き出しの奥に、古い毛糸の手袋がしまってあった。15年前、旅立ちの日にばあちゃんが一晩で編んでくれたあの手袋だ。俺はこの15年、辛いことがあるたびにこの手袋をそっと握りしめてきた。この手袋がある限り、俺は一人じゃない。そう思えたからだ。それなのに、これをくれた人に一度も会いに行っていなかった。

ちょうど次の週、俺はあの果樹園の近くの地域へ出張で行く予定が入っていた。これは何かの導きかもしれない。俺は15年ぶりにあの場所を訪れる決心をした。出張の仕事を終えた俺は、二人への土産に東京の菓子を買った。それから、自分が開発に関わった傷物の林檎のジュースも鞄に詰めた。

レンタカーを借りて山合いの町へ車を走らせた。記憶を頼りに、細い山道を上へ上へと登っていく。地図はいらなかった。目をつむっても道が浮かぶほど、俺はこの道を覚えていた。もうすぐだ。あの坂を登り切れば、斜面いっぱいに赤い林檎の実ったあの果樹園が見えるはずだった。俺の胸は期待で高鳴っていた。

坂を登り切った。その瞬間、俺は思わずブレーキを踏んだ。そして車から降りた俺の足は、その場に凍りついたように動かなくなった。声も出なかった。

目の前に広がっていたのは、俺の記憶の中のあの景色ではなかった。斜面いっぱいに実っていたはずの林檎の木は、見る影もなかった。枝は伸び放題に伸び絡み合い、幹には蔓草がびっしりと巻きついていた。畑には腰の高さまで枯れた雑草が生い茂り、かつて甘い香りに満ちていたはずの果樹園は、見渡す限り荒れ果てていた。あの木の香りのする温かい家も、今は雨戸が硬く閉ざされ、屋根の一部が朽ちて落ちかけていた。庭先の表札は文字がかすれて、ほとんど読めなくなっていた。

あまりの変わりように、俺はしばらく言葉を失っていた。まさか、二人に何かあったのか?いや、そんなはずはない。きっと体を悪くして、しばらく畑を休んでいるだけだ。そう自分に言い聞かせようとしたけれど、この荒れ果てようは1年や2年でできるものではなかった。

その時、背後から声がした。

「あんた、もしかしてユウトちゃんかい?」

振り返ると、そこに一人の老女が立っていた。腰の曲がった、白髪の女の人。田辺静さんだった。15年の歳月が静さんをすっかり小さくしていたが、その優しい目はあの頃のままだった。

「静さん、お久しぶりです。宮原ユウトです。覚えていてくださったんですか?」

「覚えてるよ。忘れるもんかね。千代さんがいつもあんたの話をしてたんだから。よく、帰ってきてくれたね」

静さんの目に、みるみる涙が溜まっていった。俺は嫌な予感がした。

「静さん…、あの、幸吉じいちゃんと千代ばあちゃんは…。お二人は今、どこに?」

静さんはしばらく何も言わなかった。ただ悲しそうに俺を見つめて、それから静かに首を横に振った。

「ユウトちゃん、落ち着いて聞いておくれ。幸吉さんはね、4年前に亡くなったんだよ。畑仕事の途中に、ぽっくりとね。眠るように行ったよ。そして、千代さんもその後を追うように、3年前に…。ユウトちゃん、二人とももう、この世にはいないんだよ」

俺はその言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。頭が真っ白になった。亡くなった。二人とも、もういない。会って頭を下げて「ありがとうございました」と言うことも、あのウサギの林檎をもう一度食べさせてもらうこともできない。俺はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。荒れ果てた果樹園の前で、俺は両手で顔を覆った。

間に合わなかった。会いに行くのが遅すぎた。もっと早く来ればよかった。立派になんてならなくて良かったのに。ただ顔を見せに来れば、それで良かったのに。15年間、俺がぐずぐずと先延ばしにしている間に、二人は静かにこの世を去っていた。取り返しのつかない後悔が、冷たい波のように俺を飲み込んでいった。

静さんはしゃがみ込んだ俺の隣にゆっくりと腰を下ろすと、ぽつりぽつりと二人の晩年のことを話してくれた。幸吉さんは亡くなるその日まで果樹園に立ち、林檎の木の世話を続けていたこと。千代さんは一人になってからも、体が動くうちは畑に出て木に話しかけていたこと。そして、二人が口を開くたびに俺の話をしていたこと。

「ユウトは元気にしとるかな。いつか、ひょっこり帰ってくるかもしれんね」

静さんの話を聞きながら、俺は胸を何度もえぐられるようだった。俺が「忙しい」を言い訳にして来なかったその日々。二人は一日も欠かさず、俺のことを思ってくれていた。

静さんは、そんな俺を見て静かに首を振った。

「ユウトちゃん、自分を責めるんじゃないよ。あんたが来なかったこと、二人は一度も恨んじゃいなかった。それどころか、あんたが元気でいてくれること。ただそれだけを祈ってたんだから。ただね…、一度でいいから、大きくなったあんたの顔を見たかったろうね。それだけは、叶えてやれなくて、私も悔しいよ」

その言葉に、俺はまた俯いた。荒れた果樹園に、冷たい風が吹き抜けていった。やがて俺が少し落ち着くと、静さんは静かに言った。

「ユウトちゃん、少しうちに寄っていきなさい。あんたに渡さなきゃいけないものがあるんだよ」

静さんに連れられて隣の家へ向かった。静さんは仏壇のある部屋に俺を通すと、古い桐の箱を大切そうに持ってきた。そして、その中から一冊の古びたノートを取り出した。表紙がすっかり色褪せて、角が擦り切れた、分厚いノートだった。俺にはそれに見覚えがあった。あの夜、縁側で千代ばあちゃんが鉛筆で何かを書きつけていた、あの日記だった。

「これは、千代さんがずっと書いていた日記だよ。千代さんが亡くなる前にね、私にこう言って預けていったんだ。『いつかユウトが訪ねてくることがあったら、これを渡して欲しい』って。『あの子は律儀な子だから、きっといつか来てくれる』って。千代さんは、最後まであんたが来るのを信じてたんだよ。さあ、開いてご覧。あんたのことが、何度も書いてあるから」

俺は震える手でその日記を受け取り、ページをめくった。ばあちゃんの、あの少し右上がりの素朴な字がそこにあった。最初に俺のことが綴られていたのは、俺がこの家を出ていったあの年の暮れのことだった。

「今日、ユウトが施設へ行った。寂しくなった。あの子はいい子だった。よく食べて、よく笑うようになった。どうか、あの子の人生にこれから先、たくさんのいいことがありますように」

俺の目から、また涙が溢れた。ページをめくると、次の年の同じ季節にこうあった。

「ユウトは元気にしているだろうか?ちゃんとご飯を食べているだろうか?あの子が、どこかで辛い思いをしていませんように」

その次の年も、またその次の年も、ばあちゃんは毎年俺のことを書いていた。

「ユウトが、自分のことを誰かに捨てられた子だなんて思っていませんように。あの子は捨てられたんじゃない。ちゃんと愛されているんだと。いつか気づいてくれますように」

「今日、林檎をウサギの形に切った。ユウトは元気だろうか。あの子はウサギの林檎を美味しそうに食べてくれた。あの顔を思い出すと、今でも胸が温かくなる」

「じいさんがまたユウトの話をした。『あいつ、今頃何をしとるかな』って。口では『恩返しなんかいらない』と言っておきながら、本当はあの子に会いたいんだ。私も会いたい。もう一度あの子に、うちの林檎を食べさせてやりたい」

ページをめくるたびに、季節が、年が移り変わっていった。ばあちゃんの拙い字は、そこに俺の見ていない長い歳月を静かに映し出していた。ページの所々に押し花が挟んであった。白い小さな花びらが、セロハンテープで丁寧に止めてある。林檎の花だろうか。ある年の記述には、こうあった。

「今日はユウトの誕生日だ。あの子は、いくつになっただろう。どこかで、うちの林檎みたいにまっすぐ育っていてくれたら」

その一節の日付は、確かに俺の誕生日だった。ばあちゃんは、俺の誕生日まで覚えていてくれたのだ。その日付を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。こんなにも深く、長く、俺は誰かに思われていたのだ。血の繋がりもない、ほんの短い間一緒にいただけの俺のことを。

ページをめくる指が、一つの記述で止まった。それは俺が施設を出て働き始めた頃の日付だった。ばあちゃんがそれを知るはずもなかった。それなのに、そこにはこう書いてあった。

「ユウトも、そろそろ働き出す頃だろうか。慣れない仕事で、無理をしていないといいけれど。ご飯だけは、ちゃんと食べるんだよ、ユウト」

まるで、俺の毎日を隣の部屋から見守っているような言葉だった。会えなくても、便りがなくても、ばあちゃんはずっと俺と一緒に生きてくれていた。俺の知らないところで。

日記の終わりの方には、こんな一節があった。じいちゃんが亡くなった後、ばあちゃんが一人で書いたものだった。

「じいさんが逝ってしまった。一人になった。畑も、もう私一人では手が回らない。荒れていくのを見ているのは辛い。でもいいんだ。ユウトがどこかで幸せに生きていてくれたら、それだけで私は十分だ。もしいつか、あの子がこの林檎を食べに帰ってきてくれたら。そんな日が来たら、どんなにか嬉しいだろうね」

その最後の一行を読んだ時、俺の中で何かが大きく動いた。俺は日記をぎゅっと胸に抱きしめた。

「ばあちゃん、じいちゃん、ごめんなさい。遅くなって、本当にごめんなさい。でも…、俺、帰ってきたよ。約束を守りに、帰ってきたよ」

ばあちゃん、俺は帰ってきたよ。それなら、俺にできることはたった一つだ。俺は涙を袖でぐいっと拭った。そして、荒れ果てた斜面をまっすぐに見つめ直した。

その夜、俺は静さんの家に泊めてもらったが、一睡もできなかった。後悔が胸の中で渦を巻いた。しかし、夜が明ける頃、俺はそっと家を出て、もう一度あの荒れ果てた果樹園の前に立っていた。そして気づいた。悲しんで、後悔しているだけでは、何も変わらない。二人にはもう恩返しできない。でも、二人が生涯をかけて守ってきたこの場所なら、この果樹園なら、まだ救えるかもしれない。荒れ果て腐りかけているけれど、この土の下には、まだ二人の思いが生きているはずだ。

俺は荒れた斜面へ足を踏み入れた。腰の高さまで伸びた枯草をかき分けて奥へと進む。ほとんどの木は枝が枯れて幹が朽ちていた。もうダメかもしれない。そう思いかけた、その時だった。斜面の一番上、俺の目に一本の大きな木が飛び込んできた。それは、あの50年の古木だった。幸吉じいちゃんが親父さんと一緒に植えたという、あの木。他の木が枯れていく中で、その古木だけはまだしっかりと立っていた。近づいて、枝に触れてみる。指先に、かすかな命の鼓動が伝わってきた。根元の土を手で掘ってみると、太い根がまだしっかりと大地を掴んでいた。枝の先をよく見ると、硬い冬芽がいくつもしっかりと結ばれていた。春を待つ、確かな命の証だった。この木は、まだ諦めていなかった。

俺は決めた。俺がやる。この果樹園をもう一度蘇らせる。それが、俺にできるたった一つの恩返しだ。できるかどうかは分からなかった。農業の経験なんてろくにない。それでも、やらずにはいられなかった。

東京へ戻った俺は、会社で一つの企画を立ち上げた。あの果樹園を、会社の正式な事業として再生させる。荒れた土地を借り受け、木を手入れし、実った林檎で商品を作る。無謀な計画だと周りは言った。採算が合わないと。けれど、俺の話を最後まで黙って聞いていた寺田さんが、静かに言った。

「宮原、お前の熱の源がやっと分かったよ。やってみろ。俺も手伝う。うちの会社は、そういう捨てられそうなものにもう一度命を吹き込むのが仕事だろう。木も、果樹園も、同じだ。会社を、俺が説得してやる」

土地のことは、静さんが力を貸してくれた。大庭さん夫婦には身寄りがなく、後を継ぐ者もいなかった。空いた果樹園は、町が管理する行場のない土地になっていた。俺は町の役場に何度も足を運び、頭を下げた。二人の思いを絶やしたくない。ここをもう一度、林檎の実る場所にしたい。その一心だった。俺の熱意が伝わったのか、町も協力してくれることになった。

道のりは平坦ではなかった。冬の山の作業は、想像を絶する寒さだった。かじかむ手で凍った土を掘り返し、雪の重みで折れた枝を切り落とす。春が来ても生き返るかどうか分からない木を、俺はただ信じて世話をし続けた。不安で眠れない夜もあった。そんな時、俺は決まってばあちゃんの日記を開いた。そこにある言葉が、俺を何度も立ち上がらせてくれた。

俺は休みの度に山合いの町へ通った。まず、あの腰の高さまで伸びた枯草を刈るところから始めた。慣れない鎌を握り、汗をかき、半日もすると手のひらは豆だらけになり、潰れて血が滲んだ。それでも俺は手を止めなかった。少しずつ、少しずつ、荒れた斜面の下から埋もれていた林檎の木が姿を現していく。生きている木も、少しずつ見つかった。あの古木を筆頭に、古い木の中にはまだ命を繋いでいるものが何本かあったのだ。俺はじいちゃんに教わったやり方を思い出しながら、絡まった蔓草を取り、枯れた枝を切り落とし、根元に肥料を入れてやった。作業は遅々として進まなかったが、手をかけた木が春に小さな芽を吹いた時のあの喜びは、何者にも代えがたかった。

ある日、草を刈っていると、一人の若者が恐る恐る俺に声をかけてきた。20歳そこそこの、痩せた青年だった。名前は渡辺と言った。

「あの…、ここ、林檎畑にするんですか?俺、俺…、農業がやりたくて。でも、家は継げなくて、行場がなくて…。手伝わせてもらえませんか?給料なんかいりません。ただ、ここにいさせて欲しいんです」

その思い詰めたような目を見て、俺ははっとした。それは、15年前の俺自身の目だった。行場をなくし、居場所を求めて彷徨っていた、あの日の俺の目と同じだった。俺は、じいちゃんが俺にしてくれたように、渡辺の肩をぽんと叩いた。

「給料はちゃんと出す。行場がないなら、ここにいろ。一緒に、この果樹園を蘇らせよう。腹は減ってないか?まずは飯だ。話はそれからだ」

その言葉が自分の口から自然に出てきたことに、俺は自分で驚いた。ああ、そうか。二人が俺にくれたものは、こうやって俺の中で生き続けていたんだ。そして今、また次の誰かへと渡されようとしている。

静さんも、毎日のように畑に出てくれた。「私も、千代さんの果樹園がもう一度青くなるのを見たいからね」と言って。手入れを始めて1年が過ぎ、2年の歳月が巡ってくる頃には、生き残った木々がぽつりぽつりと赤い実をつけ始めた。もちろん、傷だらけの不揃いな林檎ばかりだったけれど、かじってみると、驚くほど甘かった。あの日の、あの味だった。

俺はその林檎を使って商品を作ることにした。傷物の林檎を丸ごと絞ったジュース。不揃いの林檎で作った素朴なジャム。そして、俺はその商品に名前をつけた。千代ばあちゃんの、あの言葉から取った名前だ。

「まずは食べな」

小さな、地味な商品だった。けれど、そのラベルの裏には、あの日の物語が静かに息づいていた。道端で倒れていた一人の子供を救った老夫婦のこと。あの日、じいちゃんが俺にかけてくれた忘れられない言葉のこと。

その小さな物語は、口コミで少しずつ、少しずつ広がっていった。道の駅に置かれ、地元の店に並び、やがて遠くの人たちも「まずは食べな」を買い求めるようになった。初めて道の駅でその商品が売られた日のことを、俺は忘れられない。棚に並べたたった10本のジュースが、夕方には全部なくなっていた。道の駅で、一人の若い母親が「まずは食べな」のジュースをじっと見つめていた。聞けば、その人も幼い頃に親をなくし、施設で育ったのだという。ラベルの裏の物語を読んで、涙が止まらなくなったのだと。

「私も、いつか誰かに優しくできる人になりたい」

その言葉を聞いた時、俺はあの日の母の口癖を思い出した。母が願っていたことが、そして、あの老夫婦がしてくれたことが、今、俺の作った小さな一本のジュースに乗って、こうしてまた誰かの手に届いていく。それが、たまらなく嬉しかった。

ある日、一通の手紙が会社に届いた。差出人は、遠い町に住む一人の高校生だった。

「僕も両親がいなくて、施設で育ちました。でも、このジュースのラベルの物語を読んで、僕にも生きる道があるって思えました。ありがとうございます」

俺はその手紙を何度も読み返した。あの山合いの老夫婦の優しさが、会ったこともない遠くの誰かの心にまで、こうして届いている。じいちゃん、ばあちゃん、あなたたちが道端で拾った一人の子供は、今こうしてあなたたちのくれたものを、たくさんの人に手渡していますよ。俺はその手紙を、ばあちゃんの日記の間にそっと挟んだ。

それから数年。渡辺はすっかり一人前の農家になっていた。最初は林檎と雑草の区別もつかなかった青年が、今では俺よりも木の扱いが上手になっている。地元の女性と結婚し、去年の秋には赤ん坊が生まれた。小さな女の子だ。渡辺はその子を大事そうに抱いて、果樹園に見せに来た。俺はそのふにゃふにゃの小さな手に触れた。この子も、いつかこの林檎を食べて大きくなるのだろう。そして、この果樹園の物語を聞いて育つのだろう。

先日、施設の神谷先生がこの果樹園を訪ねてくれた。先生は、たわわに実った林檎を見上げて目を細めた。

「お前は、ちゃんとあの日の約束を果たしたんだな。『立派になった』とは言わないでおくよ。お前は昔から、ちゃんと優しい子だったからな」

俺は照れ臭くて俯いた。それから、収穫したばかりの傷のある林檎を一つ、ウサギの形に切って先生に差し出した。あの日、母が、そして千代ばあちゃんがしてくれたように。神谷先生は、そのウサギの林檎をしみじみと味わってくれた。

「うまいな」

その一言に、俺はなんだか幸吉じいちゃんに褒められたような気がして、また目の奥が熱くなった。

俺はもう、一人ではなかった。この果樹園で過ごす日々は、俺にとって、いつか失った家族を少しずつ取り戻していくような時間だった。血の繋がりはなくても、この場所には俺の帰るべき家族のようなものが、確かにできていた。

再生した果樹園の斜面の一番上、あの50年の古木のそばに、俺は小さな木の札を立てた。手作りの、素朴な木札だった。そこには、こう彫ってあった。

「まずは食べな果樹園」

その名前を見上げるたびに、俺の胸は温かくなる。この名前がある限り、幸吉じいちゃんと千代ばあちゃんの優しさは、この場所に生き続ける。

ある秋の夕暮れ、収穫を終えた俺は、斜面の一番上のあの古木の前に一人で立っていた。夕日が、たわわに実った赤い林檎を金色に照らしていた。俺は胸のポケットからばあちゃんの日記を取り出して、静かに胸に抱いた。

「じいちゃん、ばあちゃん、見ていますか?あなたたちの果樹園は、こうしてもう一度実をつけましたよ。あの日、あなたたちが俺に食べさせてくれたあの林檎の味を、今度は俺が誰かに繋いでいきます。だから、どうか安心してください」

その時、一陣の風が枝をさらさらと揺らした。それはまるで、二人が天国で「よし」と頷いてくれたような、そんな優しい風だった。見上げると、空はどこまでも高く晴れていた。17歳のあの日、道端に倒れた俺には、この空を見上げる力さえなかった。それが今は、こうして眩しいほどの青空を見上げている。

人生というのは、本当に分からないものだ。道端で差し伸べられたたった一つの手が、その先の全てを変えてしまうことがある。だから、今度は俺がその手を差し伸べる番なのだ。世の中には、あの頃の俺のように居場所をなくしてうずくまっている人が、きっとたくさんいる。傷物だと自分を責めて、俯いている人が。そういう人に、俺は言いたい。傷があっても、あなたの甘さは変わらない。だから、まずは食べてほしい。温かいものがお腹に入れば、また明日を生きていける。あの山合いの老夫婦が俺に教えてくれた、たった一つのけれど何より大切な真実を、俺はこの小さな一本のジュースに込めて、これからも届け続けていく。

「まずは食べな。話はそれからだ」

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