夫が突然、離婚を突きつけてきた。久しぶりに義実家へ帰ってきたかと思えば、夫の大輝が開口一番、離婚届にサインをしろと言い放ったのだ。隣には義母、そして若い女性も一緒にいる。大輝はその女性の肩を抱きながら、幸せそうに笑っている。
「この人は柚月。お前と別れた後、彼女と結婚するんだ。柚月は俺の子を妊娠している。検査の結果、男の子だということが分かった。この息子が俺たちの会社を担ってくれるんだ」
馬鹿げた話を真顔で語る大輝。私は呆れ果てて、何も言えなくなっていた。
「しず子さんはもういらないんですって。これからは私が大輝さんを幸せにするわ」
「あなたがこの家に住んでいることが我慢ならなかったのよ。跡取りも産めない役立たずがいつまでも私たちの家にいる。今のこの時だって耐えられない。早く出ていってちょうだい」
まともな人間が一人もいない。普通なら取り乱すところかもしれないが、私は至って冷静だった。手に持っていたスマホを机に置き、ため息混じりに告げた。
「私のことなら気にしなくて結構。一週間前から独身なので、今日は娘と家を出る準備をしていたところよ」
私の発言に、面を食らったような大輝だったが、やがて大声で笑い始めた。
「お前、頭がおかしくなったのか。結婚していた事実をなかったことにするつもりかよ」
直後、騒ぎを聞きつけた娘の朋花がリビングに現れた。
「もう、昼間から何? あ、お父さん帰ってたんだ」
「ああ、そうなんだ。あ、それで朋花、お父さんな」
「ああ、いいよ。お父さんはもう私とお母さん、今日には家を出るんだ。もう引っ越し終わっててね。これから最後の荷物を持っていくところ。これからはお母さんと二人で生活するから、お父さんはもういらない」
「いやいやいや、朋花まで何言ってんだ? 引っ越しとか嘘つくな」
そうやってバカ笑いができるのも今のうちだ。腹が煮えくり返るのを必死に抑え、表情には出さずに内心で思う。この夫を私は一生許さない。娘を、私たちを傷つけたことを徹底的に後悔させてやるんだから。
「いつまで汚い笑い声をあげるつもり? 頭が悪くて理解できないのはあなたの方でしょ。こんな離婚届けは要らないわ。さっきも言ったけど、もう私は独身、離婚済みなの。私と朋花はもう家を出ていくから、この義実家にも帰ってくることはないわ。あとはあなたたちで好きに男の子を生むなり、会社の後継ぎにするなりすればいい」
突き放すように言い放つと、大輝はぴたりと笑い声を止めた。
「いつまでもわけのわからないこと言ってるんじゃねえぞ。俺はお前の離婚届けなんて署名していない。それなのにどうやって離婚できるって言うんだよ」
「いちいちこんなことまで説明されないと分からないのか。どこまでバカなんだよ。本当に覚えてないわけ? いつもあなたは離婚届けを見せて私を脅していたのに。私はそれに自分の署名をしてもう何日も前に役所に提出しているの」
私と大輝の確執は、昨日今日に始まったことではない。私が娘を妊娠したその時からだ。
「女の子を妊娠したと知ったあなたは、喜ぶどころか私を徹底的にけなしたよね。跡取りが欲しいと言っていたのに、娘を産むなんてありえないって。生まれてきた朋花の面倒を見るどころか、育児そのものを放棄。私の復職を許そうともせず、夫婦仲なんて最悪以外の何者でもなかったでしょう」
「それも全部お前のせいだろう。次期社長である俺には、どうしても男の後継ぎが必要だったんだよ。朋花が会社を継げるか。会社ってのは男が担っていくものなんだよ」
「だからって、署名済みの離婚届けを突きつけて脅してくるなんて普通じゃないでしょ。ましてや、私を殴ろうとしたり、朋花にまで怒鳴り散らして。同じ人間として恥ずかしいわ。そればかりか、あなたは浮気までしていた。いい加減、我慢の限界だったの。だから私はあなたが脅しに使ってきた離婚届けを全部取っておいたのよ。全部に署名をして、役所に持っていったわ。『離婚するには何枚の離婚届けが必要ですか』ってね。役所にはドン引きされてしまったが、離婚届けが何枚もある経緯を説明すると、さすがに同情されたわ。柚月さんのことも興信所に依頼して、全部調査は終わってる。今更あなたが柚月さんと再婚するって聞いたからって、驚きもしないわ」
話を聞き終わった大輝は、悔しそうに私を睨みつけていた。
「これまでの離婚届けを全部取っておいたとは驚きだよ。そういうネチネチしたところが昔から大嫌いだったんだよな」
「ネチネチ離婚を迫ってくるあなたよりマシでしょ。でも感謝して欲しいものね。離婚届けを出す手間を省いてあげたんだから」
スマホに載せた離婚届を指で弾く。イラつく大輝をフォローするように、義母が割り込んできた。
「そうよ。これですぐに柚月さんと再婚できるじゃない。ずっと役立たずだったしず子さんだったけど、最後にこうして役に立ってくれたのよ。これでようやく念願の後継ぎが私たちのところに来てくれるわ。こんな嬉しいことってあるかしら」
朋花は義母を睨みつける。義母も朋花を家族として扱ってこなかった。社長夫人であることを最大の誇りと考えている義母にとって、義父が起こした会社が全て。嫁は後継ぎの男子を産むことが義務という偏った認識なのだ。娘として生まれたというだけでそんな扱いを受けてきた朋花は、当然義母のことも心よく思っていない。しかし、私が言い含めてあるので、特に口を挟もうとはしなかった。私たちがやらなければいけないことは、このバカどもと縁を切ることだけ。
私は静かに一枚の小さな紙を取り出し、テーブルの上に置いた。それは一枚の名刺だ。大輝と義母は軽蔑的な表情で名刺を覗き込んでいる。しかし柚月さんだけは表情を凍りつかせていた。
「青葉商事の鈴木さゆき。常務。なんでさゆきがこんなものを持っているの? どこで名刺を拾ってきたの? あなたみたいな役立たずが会える人ではないわよ」
私は大輝と義母をスルーし、すっかり青ざめてしまった柚月さんに目を向ける。
「これは私が直接会っていただいたものよ。信じたくないことかもしれないけどね、柚月さん。で、あなたはどうして隠しているんですか? 自分が鈴木常務の娘である事実を」
「何? 柚月が鈴木常務の娘? いやいや、嘘に決まっているでしょ。簡単に信じるんじゃないわよ」
「柚月さんが鈴木常務の娘だなんて、そんなことあるわけないでしょ」
二人にとっては受け入れられないほど衝撃的なものだったのだ。青葉商事は夫の会社の大口取引先なのだ。頭が上がらないほどのお得意様。鈴木常務の娘が柚月さんともなれば、腰が引けるほどの存在なのだ。
「残念ながら本当のことよ。柚月さんは両親を早くになくしているの。鈴木常務はそんな柚月さんを引き取って、親代わりとして大切に育ててきたのよ。そんな子であるとは知らずに浮気をしていたなんて、あなたたちは本当におめでたいわよね」
「勝手なことばかり言わないでくれるかしら。鈴木常務? 私はそんな人知らないわ。しず子さんが言ってるのはただの出まかせよ。私に旦那を取られるのが悔しくて、苦し紛れのデマを言っているだけよ」
「誰がこんな男を取られて悔しく思うってのよ」
さらっと毒づく。柚月さんは私を睨みつけるが、私は堪えない。ただ静かに、後ろに持っていたものを机に広げた。
「これはお母さんに頼まれて探してきた新聞よ。小学校の友達も協力して探してくれたの。図書館を駆けずり回って探すのには苦労したわ。数年前の新聞で、会社初の女性役員となった鈴木さんの談話が載っているんだよ。彼女は独身で、仕事をしながら事故で亡くなった妹夫婦の子を育てていると書かれている。ここの写真に映っている制服を着た女子高生は、あなたなんじゃないの? お父さんの浮気相手さん」
新聞に載っている写真の女の子は、間違いなく柚月さんだと言える人物だった。
「鈴木常務は全て知っていますよ。今回の件も、私から連絡を取って、必要なことは話し合っている」
「バカバカしい。その記事が本物だって証拠はどこにあるんだ? パソコンで捏造したんじゃないか」
「そうよ。しず子さん、あなたはパソコンに詳しいんだから。こんな記事簡単に作れるでしょう」
「あなたたちにそんな手間をかけたりしないわ。ま、別に信じなくても構わないわよ。私は事実を言っているだけだから」
私の落ち着き払った態度に、大輝と義母は顔を見合わせていた。柚月さんは明らかに落ち着きをなくしており、さすがの大輝たちも疑心暗鬼になっていく。二人の視線が揃って柚月さんの方に向かう。
「柚月さん、本当に鈴木常務の娘なのか? なんでそんな重要なこと今まで隠していたんだ? 鈴木常務なんて、私たちが関わるだけでも恐れ多い方なのに」
「もしそうだとしても、私の家族のことなんてあなたたちに関係ないでしょう。わざわざ言う必要もないし、あなたたちにとやかく言われることではないわよ」
「お前、いい加減にしろよ」
その時、言い合いに割って入るようにインターホンが鳴った。
「朋花、出てきてくれる?」
「はい」
朋花は友達でも来たかのように玄関に向かう。しばらくして朋花は訪れた人を伴ってリビングに戻ってきた。招かれた来客に、私以外の三人は目を向けた。私は立ち上がって、わざわざ来てくれたその人を迎える。
「今日はありがとうございます。鈴木さん」
「お邪魔します」
来客は鈴木常務だ。仕事の合間を縫ってきてくれたのか、しっかり着込んだタイトスーツ姿で現れた。その鋭い表情に、部屋の温度が数度下がったように感じる。鈴木常務の姿を見るなり、柚月さんはもちろん大輝たちも慌て始める。
「鈴木常務、どうしてここに」
「しず子さんに呼ばれてきたんです。私も関係しているややこしいことが起きていると聞いてね」
鈴木さんに睨まれた柚月さんは口をつぐんで視線をそらした。大輝は立ちまち卑屈な態度になり、下手に出るようになる。
「いやいや、鈴木常務が関係していることなんて何も。これはちょっとした家族の問題でして」
「どんな話をしていたのか気になるわね。話してもらっていいかしら?」
「えっと、どんな話だったかな?」
私は机に置いていたスマホを手に取った。そして音声データを流し始めた。それは今日ここで会話が始まってからの全ての会話を録音したものだった。
「しず子、お前、全部録音していたのか?」
「ええ、最初からね。鈴木さん、これが現状です。これが私の元夫とあなたのめい子さんがやっていたことです」
「鈴木常務、違うんです! それは…」
「少し静かにしてもらえるかしら」
鈴木さんは部下に言うようにピシャリと告げる。大輝は何も言えなくなって黙り込んでしまう。鈴木さんはこれまでのやり取りを静かに聞き入っていた。全ての録音データを聞いた後、鈴木さんは怒りに震え出してしまう。
「大輝さん、それと大輝さんのお母さん。男の子が産めないからとお嫁さんをいびるなんて、あってはならないことです。それに朋花ちゃんのことを考えたことはあるんですか? 愛されて生まれてきたはずなのに、こんな仕打ち…あんまりですよ」
鈴木さんの厳しい言葉に、大輝と義母は一瞬で勢いを失った。
「そうだ。さっき言ってたこともう一度言えばいいじゃない。『会社ってのは男が担っていくもの』だったかしら。鈴木さん相手にそんなことが言えるかしら?」
「しず子、お前は黙ってろ。俺と鈴木常務の会社では訳が違うだろう。朋花に社長なんて任せられるはずがない」
「もう、これだからお父さんは大嫌い。大して仕事もできないくせに、男だからってばっかり。こないだだって、酔っ払って家まで送ってくれた人も愚痴をこぼしていたよ」
「だ、誰がそんなこと言っていたんだ! 朋花、俺を馬鹿にすると…」
怒鳴り声をあげようとしていた大輝だが、鈴木さんがいることを思い出して口をつぐんだ。
「あなた方の考えは非常識で時代錯誤です。子供を産めない人だっている。人としてやってはいけないことをしているのだと、よく理解してください」
人としても会社としても敵わない人からの言葉。大輝はもちろん義母も何も言えずに並行する。しかし鈴木さんのめいである柚月さんだけは黙っていなかった。
「立派なことを言っているところ悪いけどね、おばさん。おばさんは仕事にばかり夢中で結婚もできなかった。私を引き取ったなんて大げさに言うけど、結局は仕事が優先で私には何もしてくれなかったじゃない。家ではほとんど一人ぼっちで寂しかったんだから」
鈴木さんは柚月さんの言葉を黙って聞いていた。柚月さんは鈴木さんの実の子供ではない。だから柚月さんはどこか遠慮があり、気持ちを打ち明けることはあまりなかったそうだ。おそらく今初めて聞く柚月さんの本心。それは鈴木さんを鋭くえぐったようだった。
「確かにそうね、柚月。私はあなたの気持ちを聞かずに価値観を押し付けてしまっていたかもしれない。こんな形になってしまったけど、あなたの本心が聞けたことは嬉しく思うわ」
事前に鈴木さんと柚月さんの間柄は聞いていた。学生時代の柚月さんは素直でいい子だったらしい。当たり前の家族のようにそれなりに親しく、決して悪くない関係。しかし成人してからは歯が外れたように遊び回るようになり、鈴木さんの悩みの種になっていたようだ。そして、行きつけの飲み屋で出会った男が私の元夫である大輝だったのだ。
柚月さんは大輝に寄り添うと、その手を取った。
「これから大輝さんと暮らすから。しず子さんが家を出ていく準備ができているように、私もおばさんの家を出ていく準備もできているの。もうおばさんの家には帰らないから。そのつもりでいて」
大輝は柚月さんの手を握り返すと、先ほどまでの自信を取り戻したようだ。
「そうなんです、鈴木常務。確かに俺と柚月さんの出会いは初めてではなかったかもしれません。しず子や朋花のことも、俺に多くの責任があったことでしょう。それでも今は絶対柚月さんを幸せにしたいと考えているんです。これは嘘じゃない。俺の本心なんです」
まるで営業先にプレゼンをするように熱を持って鈴木さんに向かう大輝。私からしたら何とも白々しい光景だが、大輝や柚月さんは高揚した表情だった。
「いやいや、それはおかしいでしょう。いくら寂しかったからって、浮気をしていい理由にはならない。私はともかく、娘の気持ちを考えたことがありますか? 大輝やお母さんから散々な扱いを受けて、どんな気持ちになったと思いますか?」
「そんなこと私の知ったことではないわね。自分は朋花のことを考えてるなんて言っておいて、本当は大輝さんを取られることが悔しいんでしょ。男の子が産めなかったことは事実だもんね。負け犬の遠吠えよ。何を言っても哀れなだけね」
隠す必要もなくなったことで、柚月さんも容赦なく私を攻め立ててくる。見かねた鈴木さんや朋花が割って入ろうとするが、私はそれを手で制した。この人たちに今更何を言っても、それは意味のないこと。
「そういえば、しず子がもう離婚届けを出してくれていたんだったな。だったら今日この場に集まったことも無駄だったな。俺たちはこれから三人で食事をすることになっているんだ。ちょうど出ていく準備をしていたんだろう。俺たちが帰ってくるまでにきちんと荷物をまとめて出て行ってくれ。この家はこれから母さんと柚月と三人で暮らすんだ」
「そうよ。早く出ていってちょうだい」
「じゃあね、おばさん。一応これまで育ててくれたお礼は言っておくわ。どうもありがとうございました」
三人は好き放題言うと、私たちを馬鹿にしながら部屋を出ていった。静かになった部屋で、ようやく落ち着いて私はほうっと肩を落とした。すると娘の朋花がケラケラと笑って私の肩を叩いた。
「もう、あの人たちむちゃくちゃで一周回って面白くなってきちゃうね」
「とんでもなさすぎて、逆に笑っちゃう」
「まあ、お母さん、気を落とさずに」
一番心配していた娘が全くへこんでなさそうで、そこだけは本当に安心した。鈴木さんは私と朋花の前に来ると、深々と頭を下げた。
「しず子さん、朋花ちゃん、今回はとんでもないご迷惑をかけて本当にごめんなさい。柚月の言う通り、私は仕事ばかりしていたせいで、育て方を間違ってしまったのかもしれないわ」
「気にしないでください、鈴木さん。女手一つで育てたのは立派だと思います」
「お母さんの言う通りだと思う。それに悪いのは絶対あの二人だよ」
「しず子さんも朋花ちゃんもありがとう。そう言ってもらえると、少しは気が楽になるわ」
「本当はこの場で全部追い詰めてしまうのも良かったのかもしれないけれど、そこまでの情けをかけなくて大丈夫ですよ。悪いことをしていれば、どうやってもいつかは自分たちに帰ってくるものです。彼らは私たちの話をちゃんと聞くべきだったのだ」
大輝たちは知る由もないことだが、私たちは知っている。大輝と柚月さんはいずれ間違いなく破局することを。しかし、わざわざそれを教えてあげる義理はない。私たちは私たちのこれからのために、まだやることが山々なのだ。
平穏な暮らしを取り戻した私は、朋花と共に新しい生活を楽しんでいた。引っ越しも無事に終わり、大輝たちと生活していた時とは比べられないくらい充実していた。家にいるだけで罵倒しかしてこない夫はいないし、会うたびに嫌みを言ってくる義母もいない。朋花も勉強に集中できるし、私も復職するための準備を続けていた。
そんなある日のことだ。大輝から電話がかかってきた。
「頼む。助けてくれ」
「何よ、いきなり。私とあなたはもう関係ないはずだけど。あなたは柚月さんとよろしくやってればいいじゃない」
私は突き放すが、それでも大輝は泣きついてくる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話だけでも、話だけでも聞いてくれ」
「私も暇じゃないんだから、さっさとしてくれる?」
「柚月が姿を消したんだ。俺の財産を持ってどこかに行ってしまったんだ。結婚式や新婚旅行の手付金、もういろんなものの支払いができなくて困っているんだ」
私たちが家から出ていった後、大輝は柚月さんと共に様々な準備を進めていたようだ。しかし準備も大詰めというところで、柚月さんは忽然と姿を消したそうだ。家の貴重品はあらかた持ち逃げをされているようで、かつて私たちが住んでいた義実家はほとんど何も残っていないそうだ。
「大輝、残念だけど、あなたは柚月さんに捨てられたのよ。最後まで彼女の心を引き止めることはできなかったようね」
「違う。柚月がそんなことをするわけがないんだ。きっとこれは何か事情があって」
「事情ならあるわよ。柚月さんには元々あなたとは別の本命の人がいたのよ。お腹の子の父親も、あなたじゃなくてその本命の男の子供だったんでしょうね。だからあなたのところから逃げたんでしょうね」
「いい加減なことを言うな。そういうのはいいから。柚月が今どこにいるのか教えてくれ」
「いい加減なことじゃないわよ。それに残念ね。柚月さんが今どこで何をしているかなんて、私は知らないわよ」
「じゃあ、その本命の男っていうのは誰なんだよ。お前はなんでそんなことを知っているんだ?」
「言ったでしょ。あなたの浮気が分かった時点で、私は興信所に調査を依頼していたのよ。そこで、あなたの他に本命の男がいると分かっていたのよ。しかも相手はたちの悪い男だったのだ。世間知らずの柚月さんは、その男に惚れ込んでいた。興信所の人が言うには、柚月さんが大輝に近づいたのも、その男の指示だったのではないかという話よ。つまり、これまでのことが全て柚月さんたちの計画だったのだろう。それで旨味のあるところで財産を奪って逃げていったってわけね」
「どうして鈴木常務に教えなかったんだ? そんなことになっていたら、鈴木常務は止めたはずだろう」
「全部知っているわよ。でも鈴木さんがどれだけ説得しても、柚月さんは聞く耳を持たなかったのよ。鈴木さんが何度言っても、柚月さんは話し合いのテーブルにすら乗ろうとしなかった。そのまま連絡がつかなくなり、鈴木さん自身でもどうにもならなくなってしまったのだ。深く後悔している鈴木さんには、私たちだって何もできず、悔しい思いをしていたのだ。というわけで、柚月さんはもうあなたのところに戻ってくることはないと思うわよ。私たちが止めてあげたのに言うことを聞かないから、こういうことになるのよ」
「お前、もしかして最初から知っていたのか?」
「もちろんよ。だけど私にはあなたとやり直す気なんて最初からないからね。鈴木さんを家に呼んだ日、本当は話し合いの場を持とうとしていたのよ。一度は結婚した仲だからね。結局、それもぶち壊した。全てあなたの責任よ」
電話の向こうで大輝は茫然としているようで、何も言わなくなった。困惑や後悔、許しを請うような感情が通話越しに伝わってくるようだった。
「俺は騙されていたのか?」
「騙されていたと考えるかは、あなた次第じゃないかしら。あなたも好き放題して、柚月さんも好き放題していた。興信所の調べでは、柚月さんの相手はかなり世間知らずを利用する質の悪い人間よ。結局はまともな結末にはならないでしょうね。あなたも柚月さんも、『自業自得』って言葉がよく似合うんじゃないかしら」
願わくば、鈴木さんに変なとばっちりがいかないことを祈るばかりである。しかし、大輝たちに関してはどうなろうが知ったことではない。
「ようやく俺は目が覚めたよ。俺は悪い女に騙されていたんだな。しず子、やり直そう。朋花の父親として、心を入れ替えるから」
まさか。そんなバカな提案をしてくるとは、さすがに思ってなかったわ。
「俺が悪かった。反省しているんだ。もう一度、一からやり直そう。俺は本気なんだ。会社の後継ぎなんてもうどうでもいい。お前と朋花といられればそれでいいんだ」
「正直、私のことなんてどうでもいいのよ。私があなたにされたことは呆れてはいるけど、別に怒ったりしてないわ。じゃあ、でもね、あなたが朋花にしたことに関しては、何ひとつ許さないし許せない。あなたは朋花に一番父親が必要だった時期に、あの子を傷つけた。あなたは知らないだろうけど、いじめられたり、家で泣いていたことだってあるのよ。そんなことさえ、あなたは知らないでしょ」
「それも全部、これからちゃんとやるから」
「朋花のこれからに、永遠にあなたはいらないの。私はあなたを未来永劫許すことはない。父親としての責任を放棄した人間に、私と朋花の家族としての居場所はないわ」
ちょうどその時、玄関の扉が開いた。
「ただいま。お母さん、帰ったよ」
学校に行っていた朋花が帰ってきたようだ。電話の向こうでは大輝が叫び続けている。
「頼む、しず子、もう一度、もう一度だけチャンスをくれ」
夫だけでなく、父親にもなれなかった役立たずに用はないの。私はこれ以上朋花を大輝に関わらせたくない。大輝は未だに喚いていたが、私は構わず通話を切った。
リビングに現れた朋花は、スマホを持っている私を見て首をかしげていた。
「あ、ごめん。誰かと電話してた?」
「うん。なんでもないの。ただちょっとしつこい勧誘電話があっただけよ。さあ、より、ご飯の準備できてるわよ。お風呂とご飯、どっちにする?」
「お母さんのご飯は美味しいから、ご飯で」
「分かったわよ。とりあえず手を洗ってきなさい」
私たちは二人でやり直している。今更、大輝など必要ないのだ。
それからさらにしばらくした後、大輝の父親である義父から連絡があった。長きに渡り入院していたが、ようやく回復し退院することができたというものだった。しかし退院してみれば、私は離婚していなくなっている。大輝は財産をほとんど持ち逃げされて破綻状態。義母は夫の前で毎日叫び回っているとか。義父にしてみれば、何事だという話である。義父は大輝たちとは違い常識人だ。入院する以前は大変お世話になっていた。退院したお祝いを言うために、朋花を連れて会いに行った。そして何があったかを丁寧に説明する。義父は静かに私の話を聞いてくれていたが、その表情には怒りと失望が浮かんでいた。
「そうか。あいつらがそこまでのことをしていたとは」
全てを説明したことで、義父も腹を決めたようだった。それからの義父の行動は早かった。小さな会社にも関わらず、これまで社長夫人として贅沢の限りを尽くしていた義母に、しびれを切らし離縁を告げた。義父が入院している間もほとんど見舞いにも来ず、慰謝料を使い込んでいたそうだ。大輝も順調にいけば次期社長であったはずだが、これまでの役職から外され、外部の会社で平社員として修行に飛ばされることに。義父のこれからの仕事関係は一変してしまうが、義父は力があり余っていると、むしろ乗り気だった。
さらに柚月さんに関しても、その後の話を鈴木さんから聞いている。柚月さんの本命の男はついに悪業がバレたそうで、詐欺容疑で指名手配を受けていた。柚月さんも共犯として警察に追われていた。しかし、逃亡生活に疲れて帰ってきた柚月さんを鈴木さんが説得。「あなたは私の娘だから、絶対に見捨てることはしない」と。罪を償ってまた一緒に暮らそうと、ようやく折れて柚月さんを出頭させたのだ。子供も生まれており、その子は玥月さんが引き取ると言い、柚月さんが戻ってくるまで待つという。鈴木さんに迷惑がかからないといい、なんて考えていた私とは器が違うと感じさせられた。
数年後、縁があって再婚。過去のゴタゴタがあるので問題はまだまだあるが、今度の夫は真剣に私たちに向き合ってくれる。私と朋花と新しい夫で、同じ未来を見据えている。過去の苦しみを乗り越え、今度こそ幸せな家庭を築くことを心に誓って。



