「離婚する」と叫んだ私に、淳は怒鳴り返した。
「離婚なんかしたら、また上司に評価を下げられるだろうが。絶対に離れないからな」
そう言い放って、彼は部屋を出て行った。
その夜、私は一睡もできなかった。
淳と出会ったのは、私が26歳の頃。高校からの親友・恵の家に遊びに行った時のことだ。恵の兄で、大手企業に勤める淳は、高身長でハッキリした顔立ちの、いわゆるイケメンだった。彼も恵の母も、私にとても優しくて、楽しそうに話しかけてくれた。恵が「母さんも兄も私に冷たい」と不満をこぼしていたのが信じられないくらいだった。
後日、そのことを恵に伝えると、彼女は顔を赤くして「あいつら、他人の前ではいい顔するんだから」と怒ってしまい、それ以来この話はできなくなった。
それからしばらくして、恵が海外勤務になることになった。空港まで見送りに行った私は、そこで淳と再会し、帰りに喫茶店へ誘われた。そして、突然「付き合ってほしい」と告白されたのだ。
たった一度しか会っていないのに、と驚いたが、「あの時、楽しそうに話してくれただろう。明るくて素直ないい子だと思ったんだ」と言われ、淳に少し惹かれていた私は、すぐに承諾した。
それから3年後、私たちは結婚した。結婚前に不安だったことと言えば、淳が外食を嫌い、デート中にファストフードのポテトしか食べさせてもらえなかったことくらいだ。最初は驚いたが、結婚したら何とかなるだろうと思っていた。
しかし、新婚旅行で違和感を覚えた。食事付きのツアーだったのに、淳はだんだん食事を残すようになり、最後にはビュッフェの和食コーナーの前で立ち尽くし、ご飯と海苔、それに義母が漬けた梅干しだけを食べるようになってしまった。
「体調が悪いの?」と心配すると、淳は吐き捨てるように言った。
「まずいものばっかりじゃないか。あんなもん食えるか」
「え、朝も晩も普通に美味しかったよ」
そう返すと、淳はため息をついた。
「あれが美味しいだと?さやかの料理が心配になってきたな。俺がまずいと思うものを、さやかは美味いと感じている。つまり、さやかが美味いと思って俺に出す料理は、俺にはまずいってことだろう」
とてもショックだった。私は料理教室に通っていたし、料理が下手と言われたこともなかった。しかし、淳の疑いの目は変わらなかった。
新居で私の料理を数日食べた淳は、うんざりした顔で言った。
「さやかの料理ってさ、なんでこんなに甘いんだ?砂糖入れすぎじゃない?俺、嫌いなんだけど」
「大量には入れてないよ。味をまろやかにしたり、照りを出したりするために必要なんだから」
そう説明すると、彼は怒り出した。
「砂糖の取りすぎが体に悪いって知らないの?俺は血圧が高いって健康診断でいつも指摘されてるのに、俺の健康なんてどうでもいいのか」
呆然とする私を置いて、淳はテーブルを立っていった。大さじ1杯も入れているわけじゃない。有名なレシピ本にも砂糖はよく登場する。好みに合わないというのなら分かるが、健康被害のことまで言われるとは思わなかった。
翌日から砂糖を減らして試してみたが、淳の反応はいつも「まずい」の一言だった。味見だけして、あとはスナック菓子で済ませる淳に、だんだん腹が立ってきた。
「変色の子供みたいじゃない?ちゃんと栄養や健康を考えて作ってるんだから、私の味付けに慣れてよ」
そう言うと、淳は逆切れした。
「なんでまずい味に慣れなきゃいけないんだ。料理が下手なのをごまかすな」
「もうどうしたらいいか分かんないよ」と泣きそうになりながら訴えると、淳はため息をついて言った。
「じゃあ、母さんに聞けよ。すごく料理上手だから、しっかり習って同じ味を作れよ。母さんには説明しておくから」
結婚前に「料理が好き」と言っていた手前、恥ずかしかったが、こうなったら仕方ない。そう思い、義母に教えを請うことにした。
数日後、義実家を訪れた私に、義母は冷たい目を向けた。
「恵から聞いたわよ。あなた、私の大事な息子を病気にしようとしてるんですって?」
「とんでもない!ただ料理を気に入ってもらえないだけです」
必死に説明したが、義母は私が持参したお惣菜を口に入れると、すぐに吐き出した。
「何この味の抜けた味。本当にまずいわね。料理できるって自慢していた割には、この程度なの?」
あんなに優しかった義母の豹変に驚いた。ここまで料理をけなされたのは初めてで、屈辱感を覚えたが、淳に気に入ってもらうためには耐えるしかない。頭を下げて教えてもらえるようお願いすると、義母は腹立たしそうに言った。
「すぐに人に頼ろうとするなんて、なんて嫁かしら。だから私は結婚に反対したのよ」
「え?結婚を喜んでくれたんじゃ…」
「とにかく自分でしっかり研究して、恵の好みの味を作りなさい」
そのまま家を追い出されてしまった。
「結婚を反対していたってどういうこと?」
淳が帰宅すると、私はすぐに問い詰めた。すると淳は、さらっと答えた。
「お前が恵の友達だったからだよ。母さんも俺も、出来損ないの恵が大嫌いだったからさ」
「じゃあ、なんで私と結婚したの?」
「タイミングだな。ちょうど俺が結婚したいと思った時にお前がいたんだ。俺の会社は上層部が古い考えでな、男は結婚して守る人ができて初めて一人前とされるらしい。独身だという理由で出世のチャンスを奪われたことがあって、お前と出会った頃、また昇進の話が出ていたんだ。ちょうどその頃に出会って、料理も好きだって言うから結婚してやったんだ。おかげで昇進できたよ」
頭の中が真っ白になった。しかし淳は私のショックなどお構いなしに、こう続けた。
「もうお前の料理には耐えられないから、今後は実家で食うよ。お前はまずい飯を作って自分で食ってろ」
そこまで言われ、私は叫んだ。
「それじゃ、結婚してる意味ないじゃない!もう離婚する!」
しかし淳は、私を睨みつけて部屋を出ていった。
自分は全く愛されていなかった。淳にとって、私は単なる出世のための道具だった。そう思うと悔しくて、その夜は一睡もできなかった。
それ以降、淳は本当に家で食事を食べなくなった。半年後には、義母から電話があった。
「やっぱり淳ちゃんは実家が一番だって言ってるから、今後はこっちに戻らせるわ。そっちの家賃は淳ちゃんが払うから、心配しないで住んでていいわよ」
勝ち誇ったようにそう言われた。
ここまで来て、私はようやく恵が言っていたことが本当だったと分かった。実は淳と結婚することが決まった時、恵に連絡したのだが、彼女は大反対した。
「絶対だめ。兄さんはさやかのこと、好きなんかじゃないから」
あの時の私は淳に盲目だったから、腹が立って恵と絶縁してしまった。それ以降、恵からの連絡を全て無視していたのだ。恵を傷つけたと思うと、どうしても直接話す勇気が出ず、まずはメールを送った。
すると、ほんの10分後に恵から電話がかかってきて、私は嬉しくて、申し訳なくて、泣き出してしまった。
全てのことを話すと、恵が言った。
「今度一時帰国するから、実家で会おうよ。あの2人にも痛い目に合わせたいからさ」
その日、私たちは二人で計画を練った。
恵の帰国翌日、私は手料理を何点か持って義実家を訪れた。リビングに入ると、義母が用意したと思われる料理が何種類も並び、義母が妙にニコニコしている。
「恵ったら、あちらのセレブに見初められて結婚するんですって。プール付きの豪邸だなんて、さすが我が娘だわ」
まるで自分のことのように自慢している。恵を「出来損ない」と扱っていたくせに、この手のひら返しには呆れた。
しかし恵は気にしない様子で言った。
「久しぶりにお母さんとさやかの料理が食べたくて、リクエストしちゃった。楽しみ」
すると義母が私の料理をつまんで、ぷっと笑った。
「本当にいつまで経っても下手なままね。料理できるって言っておいて、この程度なの?」
むっとしながらも無視し、私は初めて義母の料理を口に入れた。
うわ、すごくしょっぱい。
思わず吐き出してしまうほど、その料理は塩まみれだった。
そんな私を見て、淳が怒鳴った。
「こんな美味い母さんの料理に、何てことするんだ!この味チ!」
すると恵がぶっと吹き出し、
「あれ?味オンチが偉そうにさやかに味チューだって!」
と大爆笑した。最後には笑いすぎて声が出なくなり、ヒーヒーと息を切らしていた。
「何がおかしいんだ!味チを味チューと言って何が悪い!」
顔を真っ赤にして淳が怒鳴ると、恵は突然真顔になり、怒鳴り返した。
「味チューなのはどっちよ?お父さんが血圧200超えで脳梗塞で倒れたの、お母さんの塩まみれ料理のせいじゃない?」
恵も、医師に指摘されるまで義母の料理が異常だと分からなかったらしい。
「お父さんも私も塩分控えめの食事になったら、血圧が正常になったんだから。味チューのおかしなのはそっちだよ」
淳は知らなかったが、義両親が離婚したのは、後遺症が残った義父を義母が見捨てたからだった。その後、恵は一人暮らしを始めた父親のアパートに足しげく通い、海外に行くまでずっと減塩料理を作って一緒に食べていたのだ。
そう聞かされ、ショックを受けている淳に、今度は私が話しかけた。
「淳、会社の検診でずっと血圧のこと注意されてたんでしょ?確かこの前の結果、上が180超えてなかったっけ?それって、棺桶に片足突っ込んでる状態なんだって」
言ってやると、今度は淳がヒートアップして、その場にへたり込んだ。
「でね、私もお母さんと同じで、そんな人の面倒を見たくないから、離婚しようと思うの。お母さん、いいですよね?」
義母に向かってにっこり微笑んでそう言うと、義母は無言のまま震えていた。
「離婚なんてダメだ」と淳は声を絞り出したが、私がこれまでのことをずっと自分のSNSで発信していたこと、その内容を会社に送ることも考えていると言うと、淳は目を見開き、それからがっくりと膝をついた。
その後、離婚をSNSなどで公表しないこと、これまでのSNSも全て削除することを条件に、私たちは離婚し、慰謝料ももらうことができた。
半年後、義母も高血圧で脳梗塞を起こしたらしい。海外の豪邸で生活を始めた恵の助けも得られず、淳がボロボロになりながら世話しているらしい。いずれ淳も倒れるかもしれないが、もう私には関係ないことだ。
私は恵に誘われ、随分健康を取り戻した元義父と一緒に、今度彼女の結婚式に出席する予定だ。
「素敵な男性を紹介するよ」と言われ、その日を指折り数えて楽しみに待っている。



