「女将、1週間以内に土地の契約書にサインしろ。断れば、店を更地にして埋めてやる」…

「女将、1週間以内に土地の契約書にサインしろ。断れば、店を更地にして埋めてやる」...

「女将、出てこい。1週間以内に土地の売買契約書にサインしろ。今日から毎月18万円、みかじめ料を納めてもらう。断れば、店を更地にして埋めてやる」

令和8年1月2日、新年最初の営業日の午後。47年間続いてきた銭湯「橘湯」に、5人の男が押し入った。番台にいた女将の田代あかり(23)は、くちびるを噛みしめながら、指先で入浴券の端を押さえていた。

河浪会の若頭補佐、春日功(37)は白いコートの襟を立て、土地の買収覚書を掲げた。

「おい、女将はお前か。1週間以内に契約書にサインしろ。今日から毎月18万円の払いだ。断るなら、店を潰して埋めてやる」

「この銭湯は、祖父の代から家族で守ってきた場所です。売りません。そんなお金もありません」

あかりは膝が震えていたが、声は震えさせなかった。

「ガキがでかい口を利くな。従わなかったらどうなるか分かってるんだろうな」

常連客たちは逃げるように脱衣所を出て行き、木戸の鐘が間遠に鳴った。その時、浴場の片隅で、一人の老人が静かに髭を剃っていた。

「騒がしいぞ」

78歳の常連客、岩松忠蔵だった。濡れたタオルを腰に巻き、湯気で湿った布が暗く色づいている。岩松は春日を一瞥すると、また無言で髭剃りに戻った。

「おい、くたばりかけのじじい、お前も出て行け!」

老人は答えず、手だけを動かして剃り続けた。構成員の関口が老人を蹴ろうとした瞬間、岩松は振り返り、眉をひそめて関口を睨みつけた。関口は足を止め、春日も岩松の肩から手を引いた。

この時点で、春日の一味はまだ気づいていなかった。この黙った老人が、かつて関東の裏社会で恐れられた存在だったとは。

数日後、この細い路地の前で、若頭補佐は逃げ場を失い、列の先頭に押し出されて頭を下げることになる。

「おじいちゃん、見ていてください。私、ちゃんとやりますから」

あかりは3年前、祖父の源一郎から橘湯を引き継いだ。学費も休みも捨てて、銭湯を守るために。橘湯の釜場には錆びた鉄の階段があり、毎晩、祖父はデジタルとアナログの温度計を比べていた。0. 1度の狂いでも、客の信頼を失うことになる。

「夜は火を落として、温度を記録しておけ」

小学校の卒業アルバムの修学旅行の欄は空白で、あかりは欄外に「店番」とだけ書いていた。あかりが10歳の冬、父が配達中に心臓発作で倒れた。救急車は銭湯の前を通り過ぎた。母は看病と銭湯の手伝いで身を削り、翌年の春に心不全で亡くなった。あかりは一人残され、源一郎が引き取った。

源一郎は、父の位牌と母の写真の前に無料入浴券を置き、言った。「母さん、父さん、頑張るよ。あかり、これからはじいちゃんが養う。銭湯もお前も守るからな」笑顔を作ったが、目の端は赤かった。

月の売り上げが18万円を下回ることも珍しくなかった。あかりは袖を繕い、古い筆箱を使い続けた。「田代のとこ? 銭湯だろ。いつも貧乏そうだな」と言われても、あかりは言い返せず、うつむくだけだった。

家に帰ると、源一郎は番台の温度計を眺めていた。「ただいま。学校も今日は楽しかったよ」あかりは作り笑いだけを返した。冬の朝、排水溝に白い湯気が立ち、あかりの指先はひび割れて乾いた。痛くても、祖父には見せなかった。

中学に入ると、あかりは新聞配達とスーパーのレジの仕事を掛け持ちした。「田代さん、成績はいいのに。進学を考えたことは?」「先生、私は銭湯を継ぎます。じいちゃんを一人にしたくないんです」「分かった。でも、無理はしないで」高校では清掃と深夜のコンビニ勤務を増やし、休みはすべて捨てた。制服の肘は補修テープで塞がれ、雨の日は靴下まで濡れた。終電を逃した夜は、釜場の椅子で毛布にくるまり、ボイラーの音を子守唄にして眠った。

「大学に行きたかったけど、銭湯が先だ」大学の学費は紙の上にしか存在しなかったが、あかりは諦めると口にしなかった。

卒業後、あかりは朝5時に起きてボイラーを焚き、床を磨き、番台に座った。浴槽の縁を磨くたび、祖父が同じことをしていた夜を思い出した。「水は嘘をつかない。背中に仕事が染みつく」

源一郎が入院した夜、彼は廊下の自販機の前の硬い椅子に座り、銭湯の鍵を握りしめていた。「ここで休まれますか?」「家に銭湯があってな。孫娘が待っているんだ」源一郎は病院を抜け出し、真夜中に釜場に戻ってきた。湯気の匂いを確かめるためだけに。「じいちゃん? なんで病院に……」「大丈夫だ。お前は寝てなさい。明け方の火は私が焚く」

そして3年前、79歳の源一郎は倒れ、短い入院の後、介護施設に移った。「じいちゃん、約束は忘れません。銭湯とお客さんを守ります」葬儀の控え室には常連客が並び、煙の向こうであかりは祖父の口癖を唱えた。

葬儀の後、見知らぬ老人が一人、立っていた。端の擦り切れた古いタオルを腰に巻いて。「昔、世話になった。これからも来させてもらう」あかりは老人の袖を見つめた。祖父が銭湯に掛けていた布と同じ色だった。「じいちゃんの知り合いなのかな」老人は何も言わず、列に戻った。それが岩松忠蔵との最初の出会いだった。

それから3年間、岩松は毎日午後4時に湯に来た。「岩松さん、いつもありがとうございます」「ただ湯が好きなだけだ」客が減り、融資も断られ、あかりは法定検査の見積書と銀行の整理番号を握りしめた。「売上予測が立てば、またご相談ください」事務員は書類の角を揃え、金利の表に指を滑らせた。「分かりました」あかりは頭を下げ、帰り道で拳を握った。「まだ諦めない」

1月2日の乱入の後も、春日の圧力は激しくなった。1月3日、春日は初めてカウンターに肘をつき、笑みを浮かべて値段を言った。「聞け、女将。18万円、今日からだ」あかりが首を振ると、春日は舌打ちして去った。1月4日からは、池田たちが銭湯の入り口の前に椅子を置いた。「客が来ないみたいだな。噂は早いな」買い物客が集まる方を見て、構成員がスマホを弄った。

1月4日の夜、あかりは相談窓口のパンフレットを開き、警察の番号を丸で囲んだ。電話しようと思ったが、指が近藤さんの名前に触れた時、丸は鉛筆で濃くなった。「女将、明日までにサインしろ。印鑑は俺が持ってくる」翌朝、春日は空の印鑑ケースを番台に置き、蓋を開けたまま去った。「これは使わない」あかりはケースを入り口の外に出した。

「見ろ、女将。客は一人もいないだろ?」「そんな金はありません」「じゃあ、客をゼロのままにしておけ。簡単だろ?」春日は池田たちの肩を叩き、入り口の看板を激しく揺らした。「聞け、じじい。この辺りの銭湯は、今度から俺たちが見張ってるんだ」常連客は来なくなり、商店街には「橘湯はヤクザの支配下だ」という噂が広がった。入浴者は一桁まで減り、午後の帳簿は真っ白なままだった。あかりは鉛筆を研いだ。

新聞配達の少年は、入り口の前で足を止め、ビラを抱え直して引き返した。「あかりちゃん、この卵持ってきなよ。返さなくていいから」「近藤さん、ありがとうございます」「でも、店は……」「怖いけど、一人で抱え込ませるわけにはいかない」近藤は箱を番台の下に押し込み、自転車で急ぎ去った。「まだ一人じゃない。いらっしゃいませ」呼び鈴は鳴らなかったが、午後4時、岩松はいつものように現れた。

「岩松さん、危ないです。来ないでください」「ただ湯に入りに来ただけだ。心配するな」岩松は浴槽の縁に座って小銭を数えた。あかりはお釣りを出さずに受け取り、台帳に記入した。池田が嘲笑した。「毎日来るなよ、くたびれたじじい」岩松は答えず、浴場へ向かった。「じいちゃん、ごめん。私、弱いかもしれない」あかりは家の前で肩を震わせ、涙を拭うとボイラーのスイッチに手を伸ばした。「地域の人を大事にしなさい。銭湯は人と人をつなぐ場所だから」

夜、あかりは売上台帳に線を引き、電卓の電池を替えた。「明日も開く」ボイラーが唸り、ガラスが湯気で曇り、あかりは袖で拭いて笑顔のマークを描いた。「じいちゃん、怖いけど逃げないよ」1月5日、あかりはまた銀行に行き、同じ答えを聞いた。その夜、春日たちは番台に肘をついた。「考える時間はやったぞ、女将。答えは決まったか?」「売りません。何度聞かれても同じです」「頑固な女だ。後悔するぞ」その日、売り上げは二人分だけだった。

1月6日、常連客もついに来なくなった。あかりは一人で番台に座り、木戸の鐘は一度も鳴らなかった。「今日も入らせてもらうぞ」「ありがとうございます、岩松さん」岩松は、隅の湯を沸かす蛇口で剃刀の刃を浸した。夕方、春日が再び手下を連れて現れた。「諦めたか、女将? サインしろ」「しません」「なら今夜で終わりだ。まずはドアを壊す。覚悟しろ」「待ってください」「待たないよ。弱い者を待つ者はいない」

春日たちが去ると、あかりは膝をついた。「足が動かない。でも、水は止めない。止めたら負けだ」あかりは壁に寄りかかり、深呼吸を三回だけした。ボイラーの火は点いたままだった。脱衣所で岩松が着替えを整えた。「女将、今夜も湯を焚くのか?」「はい」商店街の灯りは遠く、路地の地面だけが暗かった。「あかりちゃん、俺も警察に言うよ」「近藤さん、大丈夫です。今夜も水を回します」近藤はくちびるを噛み、店のシャッターを下ろす音が路地に響いた。

午後10時、春日が道具袋を持って戻ってきた。あかりは番台の下にしゃがみ込み、祖父が彫った木の札を握りしめた。「壊されるなら、最後まで見届ける」春日がドアを破ろうとしたその時、脱衣所のドアが静かに開いた。岩松が、薄い寝間着に羽織を羽織っただけで立っていた。「騒ぐのはもうやめろ」「関係ないじじいだ。邪魔をするな」春日が襟を掴もうとした。「俺の名前を知っているか?」「知るか、そんなもの」「岩松忠蔵だ」

その名を聞いた瞬間、村井は膝をついた。「若頭、まさか……『鬼』の岩松さん?」春日の喉が引きつり、覚書が指から滑り落ちた。「まさか。あの伝説がまだ生きているのか?」春日は後ずさりし、白いコートの襟が湯気で暗くなった。「湯気に紛れて俺たちを騙したのか?」春日は村井を振り返り、拳を震わせた。「調べろと言っただろ! 本当に何もないのか?」「若頭の経歴は、本当に……」「黙れ! 言い訳か!」春日は岩松と天井を交互に見て、喉を乾いた音をたてた。「岩松が店先で髭を剃っている——そんな冗談があるか」岩松の表情は変わらず、春日の膝はわずかに震えた。「本気か? 聞いたことがない。これは……冗談じゃない。契約と違う。これは裏切りだ」

40年以上前、源一郎はヤクザだと知っていながら、銭湯で誰にでも平等に手当てをし、傷を洗った。警察の手から逃がすため、湯気で「イチゴ」の匂いを隠したこともあった。「恩を売るつもりはないが、孫娘を捨てるわけにはいかない」あかりは膝の上で拳を握り、爪が食い込む痛みで現実を確かめた。祖父が守った人が、今、私を守ってくれている。あかりは言葉を失い、家の方を見つめた。

その時、引き戸が開き、黒いコートの男たちが入ってきた。先頭は堂島修(59)。12人の男が後ろに並んだ。「親分、街は確保済みです」「声を抑えろ。ヤクザがいるなら先に名乗れ」「岩松兄、若頭補佐がとんでもない真似をしました」堂島は畳に額を押し付けた。「言い訳はありません。ここで決着をつけます」春日は何か言おうとしたが、舌が上顎に張り付いて声が出なかった。

「親分、盲点だったんです! 俺一人のせいじゃない……」「盲目だったのはお前の欲だ。床を見て黙れ」春日は手のひらを壁に押し付け、肩で息をした。堂島の後ろから、黒いコートの男が進み出た。佐伯剛(54)、河浪会の若頭補佐だった。佐伯は畳に額を押し付けた。「岩松兄、報告を遅らせ、若頭補佐の暴挙を見逃したのは私です」「佐伯、何をやってるんだ」「ためらいが欲望を止めなかった。組に損害を与えたのは私です」「佐伯、お前は若頭を焚きつけた。見て見ぬふりは、親分の責任を奪う行為だ」佐伯は声明を述べた。「言い訳はありません。処分を受け入れます」「お前は補佐を解任、3ヶ月の停職、給与の30%を没収する。処分状は今日出る」「承知しました」「田代さん、商店街の皆さん、本当に申し訳ありません」佐伯は深く頭を下げ、春日は肩を慰めようとした。「俺は無職になるから、もう用済みか? 放せ、春日」「佐伯は罰を受けた。お前はまだだ」「親分、お願いします。知らなかったんです」「『知らなかった』では済まない。組の名を泥に塗った。俺が前線の副官だ。ここで潰れれば、組全体が笑いものになる」「お前一人だけじゃない。だから、この者たちを集めた」堂島は春日を見下ろし、電話に短く指示した。「今夜は引き上げる。明日の朝、全員ここに集めろ」「全員ですか?」「お前が侮辱した連中全員の前で、お前が始末をつけろ」堂島は春日の腕を掴み、門の外へ引きずった。「明日ここに来い。一人でも欠ければ、お前の担当が増える」

「もう終わりだ。本当に終わった」春日は立ち上がれず、路面に覚書の切れ端が張り付いたままだった。「副官、俺たちはどうすれば?」「お前も列に並べ。一人逃げるごとに、借りが増える」春日は歯を食いしばり、手下を連れて立ち去った。あかりは震える手で銭箱を拾い上げ、岩松に頭を下げた。「岩松さん、あなたは一体……」「柚木の堂島親分だ。頭を下げて、面倒ごとを避けろ」岩松はそれだけ言って、路地に消えた。

その夜、あかりは岩松に銭湯の台帳を見せ、数字の列を指で辿った。「昨夜と同じ量で止めろ。超えるな」「はい。じいちゃんも、毎晩同じ列を見ていました」「そうだ。銭湯だからな」岩松は台帳の端を折り、行の高さを目で測った。

1月7日の朝、堂島は一人で橘湯を訪れ、下駄を揃えて門前に並べた。「組の者は、この湯に近づけるな。お前たちの仕事は、この紙の数字だけだ」「ありがとうございます。何だか重いです」「重いのは金じゃない。償いの重さだ」堂島は両手で封筒を押し出し、深く頭を下げた。

同日午前10時、路地で詫びが始まった。橘湯の前の狭い路地に、黒いスーツの男たちが一列に並んだ。河浪会とその関連組織、約150人が黙って並んだ。商店街の店主たちが首を出し、近藤は胸の前で腕を組んだ。堂島は春日を蹴って前の列に押し出した。「全員、頭を下げろ」150人のヤクザが一斉にひざまずき、息を殺す音が路地に満ちた。列は郵便局の角まで続き、警察官が遠くから交通監視だけをしていた。

「全員が俺を見ているのか。ここまでやる必要が?」「終わらせるのはお前だ。ひざまずいて、全部吐き出せ」春日は歯を食いしばったが、すぐに額を地面に押し付けた。鋭い小石が皮膚を切り、声が割れた。「すみませんでした。近所の皆さん、私のせいです。全部私のせいです。組をここに連れてきたのは私です」前の列のスーツの男が膝をつき、手を地面に置いた。「脅したことも、すみませんでした」高木剛(50)、関連組織の高木組若頭がくちびるを噛み、額を地面に押し付けた。「私が手を出しました。止めの命令を遅らせたのも私の誤算です」「高木、お前は数に乗せられて、遊郭を商売の道具にして目を逸らした。件は凍結だ」「承知しました。帳簿は明日、総務に提出します。抜けはありません」関口と村井も手を地面に置き、肩を震わせた。佐伯は昨夜の罰を受けた身で、春日の隣で何も言わず額だけを地面に押し付けた。

堂島は自分の胸を一度押さえ、声を低くした。「俺の監督も甘かった。河浪会の名を、ここで埋める」堂島は春日に覚書の写しを突きつけた。「この文書にはお前の筆跡がある。三通ともだ。丸めて消せるものじゃない」「俺が勝手に持っただけだ。関係ない」「商店街の防犯カメラに映ってる。脅迫電話はお前の端末に残ってる」「親分、罠を張ったな」「罠に掛かったのはお前だ。春日功、お前は今日をもって、組長解任、破門とする」「待ってくれ! 親分のためにやったんだ!」「お前の上昇欲と、手柄への欲望が組全体に火をつけた」「俺は知らなかっただけだ。あのじいさんが悪いんだ」「また人のせいか。岩松兄に逆らった時点で、お前は終わってたんだ」「佐伯も黙ってたじゃないか。俺一人のせいじゃない」「ああ、だから俺は自分の首を差し出した。お前はまだ差し出していない」「皆、冷たいな」「冷たいのは地面だ。お前が他人をひざまずかせた場所だ」春日は言い返せず、床の覚書を睨んでいた。「理屈ばかりで、何一つ反論できない」

「やめてくれ、それだけは」春日はスマホとカードケースを没収され、写真を撮られた。「関東の事務所に通知を出す。春日という名前を見かけたら、関係を持つな」「親分、それだけは!」堂島は春日の車のローンの書類の写しを見せ、保証人の欄を指で叩いた。「通知は保証人に行く。お前の職歴と戸籍が一致しないと言ってたな」「事務のミスです。俺はやってない——」「ミスで済むなら、破門にはしなかった」「俺の人生は終わったのか?」「終わったのはお前の肩書きだ。名前を使うな。肩書きだけなら、まだやり直す余地はある」春日は床を叩き、爪が割れた。構成員が印鑑ケースを奪い、春日が隠し持っていた封筒の束を取り上げた。「俺の父さんも、事実を伝えてる。『息子は勘当だ。銭湯は湯船だ。二度と俺の息子と名乗るな』」春日は泥と埃で汚れた袖で目を覆った。「女将、常連、俺の親父……俺は何を考えてたんだ」「後悔はもう遅い」「それなら、働け」「すみません。言葉だけじゃ足りないと分かってます」春日は泣き崩れ、高価なコートの肩を泥で染めた。路地の向こうで、スマホを構えた男が録画を止めた。店主の一人がシャッターを開け、子供の肩を抱きながら無言で見ていた。

「いいだろう。ただし、関口と村井も連れて来い。ただし、兄貴の言うことを聞け」岩松が列の脇から進み出た。「銭湯でヤクザを働かせる気か?」「俺が責任を持つ」「なら、働きたいなら雇ってやる」「ありがとうございます、兄貴」岩松は頷き、腰の擦り切れたタオルを直した。

その日の午後、ようやく客が戻り始めた。「橘湯 再開」と地元のポスターに書かれ、近藤がビラを配った。「再開の経緯と、立て直しのきっかけを教えてください」「祖父の銭湯は、誰も拒まない場所です。それを守りたかった」取材のライトが番台を照らし、あかりは入浴券の束を胸の高さに抱えて話した。「怖かったですか?」「怖かったです。でも、銭湯を閉めたら、嘘になると思いました」取材陣が去った後、あかりは裏の流しで水を飲み、震える手を止めようとした。「お母さん、怖かったけど、言うべきことは言ったよ」あかりは母の写真に手を合わせた。放送はその夜、地元ケーブルテレビで流れ、翌日から店の鐘は鳴り続けた。商店街の会議室では、割引券の山が積み上がり、近藤が番号を振っていた。「橘湯は、迷子のお年寄りにも優しい場所だ」

数日後、池田と他の二人が作業服で頭を下げた。「田代さん、一生かけて償います」「ボイラーを管理し、制御を修理し、番台を学びます」「顔を上げなさい。銭湯の主人は背中で語るものです」三人はタオルで顔を隠して声を上げて泣いた。修理は進み、湯気が再び路地に白く立った。新しいチェックリストが壁に掛けられ、池田は日付を二重丸で囲んだ。「あかりさん、圧力は安定してます」「ありがとう。午後は女性専用の札を増やしましょう」関口は配管の保温材を交換し、床下から声を上げた。「漏れはゼロです」村井は番台で銭を数え、自分のミスを自罰として記録した。「すみません、10円足りません。次は20回数えます」「顔を上げなさい」夕方、あかりは家の前で線香を上げた。「じいちゃん、守りました」岩松が言った。「みんながいたから、源一郎には辛い顔を見せるな」岩松はいつもの時間に髭を剃り続けた。「岩松さん、ありがとうございます」「礼はいい。湯が熱ければ、それで十分だ」あかりは温度計を確認し、針が42度で止まっているのを確かめた。「あなたがいてくれたから、番台に立てます」「そこに立っているのは、お前自身の足だ」

一方、春日は日雇いの現場で黙って土嚢を運んでいた。名刺も車のローンもなくなり、父の電話は不通になった。「俺は何様だったんだ。肩書きもカードも、今は全部ゴミだ」物流倉庫では、バーコードの読み取り音が響く中、春日は配送ラベルを貼った。給与袋は薄く、角に赤い仮印が押されていた。誰も背中を叩いてくれず、春日は別名義のリストで黙って次のシフトを確認した。現場監督は名前を使わず、番号で手を振った。昼のパンを半分残し、水筒のキャップは机の上で閉じたままにした。仮住まいのシフト表で、春日だけが休みの少ない狭い列だった。彼は危うく失敗しかけ、周りの作業員が一歩引いた。「すみません。何でもないです」バス停では、かつての仲間の噂がスマホの画面にちらつくだけで、誰も顔を上げなかった。翌月、春日は市の職業支援センターで申込書に名前を書き、鉛筆を折った。「フォークリフトの学科講習を受けられますか? 時間は守ります。やります。規則も守ります」講習会場の最前列に座り、春日はマニュアルの端を指で押さえ、旧姓と呼ばれても返事をしなかった。春日は学科試験を一発で合格したが、実技では何度も指導員に止められた。「急ぐな。この荷物は命に関わる」「すみません。もう一度やらせてください」春日はマストを握り、タイヤだけを見つめた。訓練修了証を受け取った夜、春日は公園のベンチで缶コーヒーを温めた。「肩書きはいらない。今日の仕事をやるだけだ」

春日は週末の河川清掃ボランティアに加わり、ゴム長靴の中に砂が溜まった。「黙って仕事をするね。ありがとう」「礼はいいです。俺が汚した場所を掃除してるだけです」主婦は一瞬眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。地域の夜回りの参加表が掲示板に貼られ、春日は反射ベストを借りた。商店街の角で空き缶を拾っていると、近藤が自転車を止めた。「お前」「近藤さん、勝手に掃除してました。邪魔ならやめます」「邪魔じゃない。ただ、あかりの前では黙ってろ」「分かってます。まだ顔をまともに見られない」春日は缶を袋に入れ、帽子を深く被った。

ある夜、まだ作業服のまま、春日は路地の端で頭を下げ、手を地面に押し付けた。「田代さん、俺にはあなたに話す資格がありません。言い訳はしません」「顔を上げなさい」「いえ、あの日、俺は人間じゃなかった」「一枚だけなら、湯に入って黙ってろ」あかりは春日に番台の前で入浴券を置き、カウンターに戻った。春日は券を握りしめ、肩をわずかに震わせた。「ありがとうございます。必ず返します」「料金はカウンターで。髭は脱衣所で剃るのが規則です」春日は何度も頷き、靴を揃えて帰った。湯の中では、浴槽の縁に額を置き、湯気の音だけを聞いていた。「温かい。こんなものを、ずっと捨ててきた」岩松は湯桶の陰から見守っていたが、春日ではなく、ただ水面だけを見ていた。

翌週、春日は市営霊園の石段を登り、父の墓前に線香を一本だけ立てた。「父さん、息子は人を脅すクズでした。謝る資格はまだありません」春日は額を石に押し付け、土の匂いを吸い込んだ。数夜後、春日は橘湯のポストに無記名の封筒を入れた。封筒には謝罪文と、入浴料の未納分を補う薄く折った小切手が入っていた。「岩松さん、これはどうすれば?」「奴なりの精算だ。受け取りなさい。水は嘘をつかない」あかりは手紙を読み、静かに封筒を閉じた。文字は震えていたが、謝罪は真摯だった。あかりは封筒を番台の引き出しにしまい、鍵を少し回した。

同じ頃、佐伯は停職を終え、事務所で若い男たちの外回りの申し出を一件ずつ止め、再開発の設計図をゴミ箱に投げた。「縄張りを得るために手を汚す仕事を、二度と持ち込むな」若い男たちは黙って頷き、佐伯は窓の外の路地に目を落とした。高木組の凍結された案件には、総務の机の上で「20」の判が押され、担当者は毎朝帳簿を点検した。

半年後、橘湯の番台に再び笑い声が戻り、入浴券の束は厚くなった。その間、春日は月に二回、作業服のまま児童館に通い、テーブルと椅子の脚の修理を手伝った。「また来たの?」「釘はあるか?」「あるよ」「今日は黙って仕事をさせてほしい」春日は墨壺で基準線を引き、水平を確かめて締め付けた。「おじさん、もうガタガタしないよ! ありがとう!」「どういたしまして」「壊さないでね」春日は笑えず、子供の肩に手を伸ばしかけて、指先を袖の奥に引っ込めた。月に一度、春日は番台で入浴料を払い、小銭を手のひらで温めてから袖に隠した。橘湯を通るたび、春日は足を速め、湯気の匂いから目を逸らした。

開店前、あかりは湯管の音を聞き、外気温を黒板に書いた。「おはようございます。今日の外は2度です」「了解です。出力を一段上げます」近藤が商店街のニュースレターを何部か番台に届けた。そこには橘湯の写真が載っていた。「あかり、夏は観光客が増えるよ」「忙しいのはありがたいです。いらっしゃいませ! 今日の炭酸泉は少し強めですよ」池田が釜場から親指を立て、関口が道具箱を持って走っていった。午後4時、岩松が入り口を開けた。「今日も熱く頼むぞ」「はい、お待ちしてました」あかりは番台から浴場を見渡し、祖父の言葉を心の中で繰り返した。「この湯が、いつも人をつなぎますように」閉店後、池田は床の溝を磨き、関口は防錆剤を塗り、村井はカウンターの銭を洗って拭いた。「明日の開店の札を出しておきます」「ありがとうございます。でも、無理はしないでください」岩松は湯上がりに鏡の前で髭を剃り、剃刀の音が規則正しく響いた。「また明日来る。湯が良ければ、それでいい」

橘湯の木戸から湯気が路地へ立ち上り、カウンターの温度計は、いつものように42度を指していた。

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