引っ越しまで5日だな、りえ。両親も同居させるから、そのつもりで。ちなみに引っ越し準備はお前が全部やれよ。俺は仕事で忙しいからな。
夫のヒカルは楽しそうにケラケラ笑っていた。今まで同居の話なんて一度もなかった。彼の目的は、私をこき使って楽しむこと。最初から私に選択肢なんてないのだ。
「心配しないで。私が責任を持って準備しておくから」
何年も作り笑いを続けてきた私は、淡々とそう返した。心の中では、目の前の勘違い野郎を必ず後悔させてやると誓いながら。
5日後、引っ越し当日。言われた通り、私は一人で荷物を整理し、不用品を処分し、引っ越し業者の手配もすべて済ませた。夫からの感謝の言葉はもちろんない。
新居の前に義両親が先に到着した。夫は後から来るという。
「りえさん、今回の同居の件、本当にありがとう。私たちも年だから、一緒に住んでくれるって聞いて心強かったわ」
何も知らない義両親は満面の笑顔だ。夫は彼らに、私が同居を提案したと嘘をついているらしい。義両親は本当に良い人たちで、もし同居するならこの人たちとはうまくやっていけるだろう。だが、それは叶わない。
玄関で夫を待っていると、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべた夫が現れた。
「お、出迎えか。気が利くようになったじゃないか。どうだ?新居はいい家だろう。感謝しろよ」
「本当に素敵な家ね。でも、ちょっと広すぎる気もするけど」
「4人で暮らすんだから、これぐらいしないとな。まあ、それはともかく、今日からよろしくな。これからはお前に休む暇なんてないからな。家のことは全部お前がやるんだ。分かったな」
こっちが黙っていれば、好き勝手に言い放題だ。夫は私を「火政府」呼ばわりし、今まで見たことのないくらい満面の笑みを浮かべている。これまでもずっと私が家のことをすべてやってきたのに、今さら何も変わらない。そんなの、まっぴらごめんだ。
「早速だけど、家の掃除も今日全部やっておけよ。こういうのは初日にさっさと終わらせるのがいいんだ」
その言葉を聞いて、私は夫に重要なことを告げた。
「私、できないわ。あなたの荷物はここにはないから。悪いけど、後で取りに行ってね」
「は?荷物がないだと?どういうことだ?そもそも亭主に向かってその態度は何なんだ?お前は俺に言われたことだけやってればいいんだよ」
夫は意味が分からないといった顔で、私の反抗的な態度に声を大きくしていく。その声を聞いて、義両親が家の中から出てきてしまった。
「おいおい、2人ともどうしたんだ。家の中まで騒ぎ声が聞こえてくるぞ。引っ越し当日に喧嘩はやめなさい」
「ああ、ごめんごめん。なんかりえが急に変なことを言い始めてさ。俺の荷物がここにはないだとか」
肩をすくめて呆れたような仕草を見せる夫。私は深呼吸をして、確信に迫る一言を放った。
「ヒカルの荷物は別の場所に送りました。その場所は、ヒカルの愛人の家です」
3人同時に「え?」という声が漏れる。義両親は理解が追いつかない様子だったが、夫だけはギクリとした表情を浮かべ、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「ヒカル?愛人ってどういうことなの?まさかお前、浮気してるのか?」
「え?いや、俺も何のことだか。りえが急に変なこと言い出しただけだよ。受け付けないでくれ」
当然、夫は愛人の存在を否定して義両親を丸め込もうとする。焦っていても、それを感じさせないほど平然としている。大した役者だ。
「その様子じゃ、私が愛人に荷物を送ったことを信じていないようね。でも本当のことよ。あなたは私に引っ越し準備を全部やれって命令した。全部丸投げだったし、私がどこに送ろうが自由でしょう」
私も夫と同じように、あえて平然とした態度で対応する。すると、夫の顔色がさらに悪くなっていった。
「お父さん、お母さん、私たちの結婚生活はうまくいっていなかったんです。今話したこともすべて本当で、ヒカルには愛人がいます。あと、今回の新居への引っ越しや同居の件も、ヒカルは私に何の相談もなく独断で決めてしまいました」
「にわかには信じられないが、りえさんが嘘をつくとも思えない。2人で話し合って決めたと俺たちは聞いていたが、全部嘘なのか?もし本当なら、りえさんはどうして黙ってたんだい?」
「実はヒカルに脅されていたんです。逆らったら離婚すると」
今までにないくらい義両親は困惑していた。いつも夫は義両親の前では私に優しいそぶりを見せていたからだ。そんな夫に愛人がいて嫁を脅しているなんて、想像もしていなかっただろう。
「いいや、急に何言い出すんだよ。俺たちはうまくやってきただろう。何か勘違いしてるだけだ。冷静に話し合おう」
「何を言ってるの?そんなことは無意味でしょ。お父さん、お母さん、これを聞いていただけますか?」
私はスマホを取り出し、ある音声データを再生した。直後、夫と義両親の表情が凍りつく。
「引っ越しまで5日だな、りえ。両親も同居させるからそのつもりで。ちなみに引っ越し準備はお前が全部やれよ。俺は仕事で忙しいからな」
「心配しないで。私が責任を持って準備しておくから」
「さすがりえ。お前は何年経っても俺の言いなりだな。分かってると思うが、両親の介護もお前がやるんだぞ。嫁として、いや、火政府として俺のために働け」
あの日、私はスマホをテーブルに置きながら、ずっと録音していたのだ。誰が聞いても夫が嫁いびりをしていることは明白だ。
「な、なんだこれ?こ、これは俺じゃないぞ」
「あら、まだ認めようとしないのね。情けなさすぎるんじゃない?じゃあ、これならどう?」
そこで私は別の音声データも再生する。それは夫が普段から私のことを「火政府」と呼んでいる内容だった。私は夫との離婚を決意した日から、コツコツと録音をためてきたのだ。この日のために。
夫はしぶしぶ嫁いびりをしていたことを認めたが、浮気については否定する。
「はあ。素直に認めてくれたら、これを見せるまでもなかったんだけど」
私は封筒を取り出し、夫と義両親に見せる。そこには、夫と浮気相手が写っている写真の数々。ざっと300枚以上ある。どこからどう見ても、夫が浮気しているのは間違いない。
夫が私を「火政府」扱いし始めたのは約1年前から。それと同時に、夫は仕事と称して家に帰ることが少なくなっていた。友人たちに相談すると、みんな口を揃えて浮気しているんじゃないかと言った。
「ヒカルが浮気してるんじゃないかって思い始めたのは、あなたが必要以上に見た目を気にし始めたからよ。以前は大して服にお金を使わなかったのに、今では下着にまでお金をかけてるものね。それに、携帯をどこにでも持っていって、リビングに放置することもなくなったわ。パスワード設定なんて面倒くさいって言ってたのに、今ではしっかり設定してるしね」
そして私は夫の出張日に行動を開始した。そこで見たのは、愛人とイチャイチャする夫の姿。夫は出張ではなく浮気旅行に行っていたのだ。その場面を見た瞬間、夫に対して少し残っていた愛情が消えていくのを実感した。そして決意した。この男に絶対に後悔させてやると。
さらに興信所に依頼して調べると、相手は同じ会社の女子社員だということも判明した。
「もうあなたの浮気についてはすべて分かってるから、言い訳なんてしても見苦しいだけよ」
「お前ってやつは、こんな裏切り、絶対に許されないぞ」
義両親は夫に大激怒。私の気持ちを考えての怒りだ。本当に優しい人たち。
ここまでは私の想定通りだった。だが、夫はとんでもない行動に出てしまう。
「ああ、めんどくせえ。せっかく今までうまくやってたのによ。りえの言う通り、俺は愛人を作って嫁いびりをしていたよ。めちゃくちゃ楽しかったなあ。父さんも母さんも全然気づかないし」
もう夫に焦りはなく、完全に開き直ってしまった。義両親は口を開けたまま固まっている。それを見た夫はさらに笑みを深めた。
直後、義父が夫の胸ぐらを掴んだ。
「ヒカル。その態度は何だ?お前は自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「おい、なんだよ、そんなに怒って。たかが浮気や嫁いびりぐらいで熱くなるなよ。もう年なんだから体に響くぞ」
「どうしてなの?ヒカル。どうして浮気なんてしてたの?りえさんはあなたに尽くしてきてくれたでしょ」
「ああ、そうだな。りえはよくやってくれたよ。俺の言うこと何でも聞いてくれてな。浮気や嫁いびりに深い意味はないよ。俺はりえの口から『離婚したい』って言わせたかっただけ。俺の浮気が原因で離婚すれば、わざわざ慰謝料を払わなきゃいけないだろう。そんなのもったいないしな。それにしてもりえ、お前、なかなかやるじゃん。ちょっとは見直したぞ」
夫の計画には気づいていたものの、改めて夫の口から聞くと、とんでもないクズ男だということがよく分かる。怒りを通り越して、呆れや哀れみが強くなる一方だ。
「ヒカルは私をずっと見下していたから、調査がしやすかっただけよ。愛人さんの名前は、ナさんよね。あなたとナさんには、できるだけ高額の慰謝料を請求するわ。絶対に払ってもらうからね」
「バレてしまってるなら、もうごまかしても仕方ないな。もったいないけど、慰謝料は払ってやるよ。俺はナと再婚できればそれでいいからな。お前は俺と離婚して、この家から出ていけ」
「あなたに言われなくても、喜んでそうするわ。もう謝罪もいらない。心からの謝罪なんて聞けないと分かったから」
「何言ってんだ?元から謝罪する気なんてない。別に俺は悪いことしてないからな。そもそも浮気される方が悪い。騙される方が悪いんだよ。むしろお前が謝罪しろよ。『余計なことしてすみません』ってな」
何を言っても返ってくるのは嫌味だけ。しかも心底楽しそうだ。やはり夫の目的は嫁いびりを楽しむことであり、私が苦しめば何でもいいのだろう。私と結婚したのも、火政府にするためだけのものだ。
「ヒカル、私もあなたに謝罪する気なんてないわ。もう言いなりにならないって決めたの」
「へえ、そう。お前のくだらない決意とかどうでもいいわ。俺に捨てられて、惨めな人生歩めよ」
義両親も夫に騙されてしまっていたのに、2人は私の味方をしてくれる。今にも殴りかかりそうな義両親を、私が止めた。
「お父さん、お母さん、ありがとうございます。でも、私なら大丈夫ですよ。それに、こんな人を殴る価値もありません。殴る労力が無駄です」
「じゃあ、私たちは離婚するってことで、異論はないわね。慰謝料もきっちり払ってもらうからね」
「はいはい。分かったよ。じゃあ、これ、さっさと書いて」
私は夫の前に記入済みの離婚届を差し出した。この日のために、すでに用意していたのだ。
「なんだよ、もう準備していたのかよ。準備良すぎないか?まあ、俺も早く離婚したいし助かるわ」
夫は喜んで離婚届にサインをした。これでようやく、夫婦生活を終わらせることができる。
「じゃあ、明日出しに行くから」
「ああ、頼むわ。火政府としての最後の仕事だな」
「お前は最後の最後まで人をバカにしよって。もうお前とは絶縁する」
「絶縁?どうぞご勝手に。後で頼まれても、老後の面倒なんて見ないからな。ああ、やっとこれで自由だ。この新居でナと人生を再スタートさせるよ。さあ、とっとと全員家から出て行ってくれ」
私は義両親とその日のうちに新居から出ていくことになった。
「こんなことになって、本当にすみません。お2人に絶縁までさせてしまって。でも、まさかヒカルがお父さんたちにもあんな態度を取るだなんて」
「りえさんが謝る必要は全くないわ。謝らなきゃいけないのはこっちの方よ。うちのバカ息子が迷惑をかけて、本当にごめんなさい。もう息子でもないけどね。りえさん、本当にすまなかった」
義両親は夫の代わりに私に深く頭を下げて謝罪してくれる。でも、2人が謝罪をする必要は全くない。悪いのはすべて夫だ。
「お2人とも顔をあげてください。悪いのはすべてヒカルです。でも、私も悪かったんです。こうなる前にお2人にも相談するべきでしたよね」
「いいえ。こんなこと、なかなか他人には相談しづらいわよ。気にしないで。よく1人で頑張ったわね。私たちは親子ではなくなってしまうけど、いつまでもりえさんの味方だから、何かあれば遠慮なく頼ってちょうだい」
義母の優しい言葉に、思わず涙腺が緩みそうになる。こんな素敵な義両親から、どうして夫のような人間が生まれたのだろう。
「ありがとうございます。ただ、あいつがこのまま謝罪もせず幸せになるのは、許せないわね」
「ああ、それなら大丈夫です。あの人は今回の件で必ず後悔することになりますから。必ず」
これは強がりなんかではなく、自信を持って言えることだ。私はこれから起こるであろうことを想像し、不敵な笑みを浮かべるのだった。
数日後、私のスマホに大量の着信が入った。ディスプレイに表示されているのは、元夫の名前だ。
「あ、りえ、やっと繋がったなあ。俺、あいつに騙されていたんだよ」
ひどく焦った様子のヒカル。私は至って冷静だ。こうなることは想定していた。
「彼女の家に行ったんだ。荷物もあるし、今後のことを話したいと思って。そしたら、マンションのゴミ捨て場に俺の荷物が捨てられてたんだ。どういうことかと思って慌てて部屋に行ったら、彼女の男が待ち構えていて、『俺の女に手出すんじゃねえ』って言うんだ。慌てて逃げ出して帰ったよ。彼女に男がいたなんて知らなかったんだ」
「ふうん。そうなんだ。ご愁傷様。まあ、私は知っていたけどね。だって、彼女さん本人に話を聞いていたから」
「え?彼女本人に?一体どういうことだ?」
「彼女さん曰く、あなたが既婚者だとは本当に知らなかったらしいわ。だから、あなたは彼女にとって遊ぶのにちょうどいい相手だったという。ただ、最近になってあなたが結婚の話をすようにくなったから、彼女はどうやって別れようか悩んでいたらしいの。彼女さんは、妻である私が接触してきたことに怖くなったのか、素直に認めて謝罪して、本命の男がいることも打ち明けたわ。私は彼女さんと約束したの。あなたとの関係を清算することで、今後もうこちらから干渉しないってね」
「元から知っていただと?あいつの本性を知っていたなら、なんでその時言ってくれなかったんだよ。言ってくれていれば、あいつとは別れて、お前と離婚することもなく、みんなであの家に住んで丸く収まったじゃないか」
「何言ってるの?あなたに言う必要なんてないわ。だって、私はあなたに後悔させたかったから。それに、言ったところで、あなたはそれを信じなかったでしょう?」
「いや、でもそれは……」
もごもごと口ごもるヒカルに、私は呆れと怒りが込み上げてくる。自分が浮気をしたら言い訳ばかりで、挙句の果てに平然と開き直った。その上で、今度は自分が浮気されたと知ると、被害者ヅラをする。世の中が自分を中心に回っているとでも言いたいのだろうか。
「あなた、言ってたじゃない。浮気される方が悪い。騙される方が悪いって。その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「そんな、俺、1人になっちまうじゃねえか。助けてくれよ。そうだ。離婚届はまだ……」
「もう提出したに決まってるでしょ。だから、私たちはもう赤の他人よ。他人を助ける義理なんてないわ。全部、自業自得ね。あ、そうそう。彼女さんの本命って、ヤクザと繋がってるんだって。あなたのこと、しつこく探しているらしいわよ」
「おい、嘘だろ?それはヤバいって。頼む。りえから彼女に言って止めてくれよ」
「残念だけど、彼女さんには干渉しない約束なの。大人しく捕まって、ボコボコにされて、惨めな人生を歩めばいいわ」
その言葉にヒカルは発狂していた。それでもお構いなく、私は電話を切った。きっとヒカルは私が想像できないくらい悲惨な目に遭うだろう。だけど、それが原因で彼の人生が惨めになるわけではない。自分の都合だけで人を傷つけて笑う。そこに罪悪感も持たずに平然としている。そんな彼の生き方自体が、人生を惨めにするのだ。
その後、ヒカルは新居で1人寂しく暮らしているらしい。彼女の本命から追われることになり、ろくに家にも帰れず、ビクビクしながら過ごしているそうだ。ヒカルからは、義両親を騙したことへの謝罪と後悔のメッセージが毎日のように届いているが、返信は一切していない。ようやく慰謝料も振り込まれたので、もう今後関わることはないだろう。
私は前を向いた。いつかどこかで再会した時、本当の笑顔を見せられるように。



