「お前の左遷が決まったぞ。意味、分かるな。」
100億の商談を明日に控えた前日の夜。最終確認のために残業していた俺に、部長はニヤニヤしながらそう言い放った。
俺は自分が何もミスを犯していないのに、なぜ左遷されなければならないのか理解できず、部長に食い下がった。部長は自分では何もしないくせに、人の手柄を横取りしようとしている。あまりにも自分勝手すぎる。
しかし、何を言っても聞く耳を持たない部長に、俺は決意を固めて言った。
「では、首でいいですよ」
こんな人間がいる会社で、これ以上自分を犠牲にしたくはない。俺は自分の荷物をまとめて、会社を飛び出した。
俺の名前は津田正幸。29歳の会社員だ。
地方の田舎生まれで、周りには山と畑と田んぼしかない。幼い頃に両親を事故で失い、それからは祖父母に育てられた。祖父母は優しかったが、周りの友達には両親がいるのに自分にはいないことが、幼い俺にはとても寂しかった。
俺が隠れて泣いていると、祖父母は必ず俺を見つけて畑に連れ出した。そして、いろんな野菜の育て方を教えてくれたり、虫や野生の動物を見せてくれたりした。きっと、寂しがる暇を与えないようにと、祖父母なりに考えてくれたのだろう。
中学に上がる頃には、年を取っている祖父母だけでは農作業が大変だろうと、自然と手伝うようになった。祖父母と一緒に早起きして作業をしてから学校に行き、部活を終えて帰ってきて、一緒に食卓を囲む。そんな何気ない日常を送れるのは、祖父母のおかげだ。
俺が祖父母の後を継ぐと言うと、2人はこう言った。
「気持ちは嬉しいんだけどね。こんな田舎じゃ正幸が本当にやりたいことを見つけられないと思うの。いろんな選択肢がある栄えたところで色々経験して、それでも農家になりたいと思えたら戻ってきたらいいさ。若いうちは冒険しなきゃな」
俺は祖父母の言葉通り、地元の専門学校を卒業後、都内の会社へ就職し、地元を離れた。
就職したのはIT関係の大きな会社だった。高校生の頃に見たテレビのドキュメンタリーで、田舎で暮らす人たちのために便利な技術を開発する技術者たちを見て、興味を持ったからだ。
入社したての頃は分からないことばかりで、田舎出身の俺は馬鹿にされたこともあったが、前向きに努力した。その甲斐あって、今では色々な仕事を任せてもらえるようになり、同僚たちとも打ち解けてきた。
ITの世界の成長は目覚ましく、少しでも気を緩めたら周りに置いていかれてしまう。俺は毎日ネット記事を検索したり、雑誌を読んだりして努力を続けている。
だが、今の俺を悩ませているのは、新しい部長の佐田新太郎の存在だ。佐田部長は都内のエリート大学卒であることを自慢に思っているようで、何かにつけて俺たちを見下した態度を取ってくる。
前任の部長は現場経験の豊富な叩き上げの人だったから、俺たちのことを尊重してくれた。だが佐田部長は俺たちを自分の思い通りに動く駒か何かと勘違いしているようで、無茶ぶりをしてきたり、反抗すると別部署へと移動させたりする。だから最近、うちの部の従業員はみんな部長の顔色を伺いながら先々強としている。
「おい、津田」
自分のデスクから大声で俺を呼びつける部長。俺はバレないようにため息をつきながら、部長のデスクへと向かった。
「何でしょうか?」
「何でもクソもない。なんだこの仕様書は。こことここも無駄でしかない。わざわざ組み込む必要なんてないじゃないか。本当に仕事のできない奴だから困るんだ」
突きつけられた仕様書は確かに俺が作ったものだった。俺は部長が指差した部分に目を通してから、苛立ちを抑えて答えた。
「お言葉ですが部長。ここはクライアントの要望部分だから、このままにするようにと先日部長から指示されたので、手をつけなかった部分なのですが」
「なんだって?」
部長は俺から仕様書を奪い取り、見返し始めた。そして、自分が指示したことを思い出した様子を見せたが、俺を睨みつけて言い放った。
「お前はエリート大卒の俺が、自分が指示したことを忘れたとでも言いたいのか?」
「いえ、そうではありませんけど」
「だったらちびちび口答えしてないで、言われたことをさっさとやれ。俺が直せと言ったらそうするんだよ」
「分かりました」
ここで反抗しても部長がヒートアップして、さらに面倒なことになると思った俺は、大人しく引き下がり、言われた通りに仕様書を直し始めた。こんなことは日常茶飯事だ。理不尽な指示が続くせいで業務はどんどん後回しになり、その日の業務が終わらずに残業する羽目になる。
だが、俺たちが残業して必死に仕事をしていても、部長は定時になるとさっさと上がってしまうのだ。皆不満に思っていたが、部長に反抗して更に辛い目に遭うのはごめんだから、皆渋々従っている。
ある日、俺は社長から社長室に呼ばれた。社長からの呼び出しなんて初めてのことで、戸惑った。記憶にはないが、何か大きなミスをしてしまったのだろうか。
不安そうな顔をしている俺に、社長は笑顔で話しかけてきた。
「忙しいところわざわざ呼び出して悪いね」
「いえ、僕は何かしてしまったのでしょうか?」
社長は一瞬きょとんとした顔をしてから、声を上げて笑い始めた。
「違うよ。そんなことはない。まあ、急に社長室に呼び出されたらそう思ってしまうかもしれないが」
そう言いながら、社長は俺に分厚い書類を手渡してきた。
「君に頼みたい仕事があってね。クライアントからのご指名なんだ」
「俺ですか?」
「私も君が今まで頑張っていることは知っているし、評価もしている。だから君さえよければ、この案件のプロジェクトリーダーを任せたいんだ」
俺は社長の言葉に胸が熱くなるのを感じた。社長は俺の努力をちゃんと見ていてくれたのだ。
「はい。自分でよければ、全力で取り組ませていただきます」
俺の返事を聞いて、社長は満足そうに頷いた。
「よかった。この案件は業界では最大の会社と100億の取引になる予定だからね。我が社でもこれだけ大きな案件は初めてだから、会社としても全力でサポートさせてもらうよ」
まさかの大型案件に俺は驚きを隠せず、緊張が走ったが、その緊張をやる気に変えて、全力で取り組むことを再度誓った。しかし、一つ気になることがあった。
「でも、そんな案件に俺を指名だなんて、相手の担当はどなたなんでしょう?」
「資料の最後の方のページに書いてあるよ」
俺は資料をめくり、目的のページを見つけ、そこに書かれている人物の名前に目を丸くした。
その日から、俺はクライアントへのプレゼン日に向けて慌ただしい毎日を送った。プロジェクトメンバーを選び、何度も会議を繰り返した。皆、過去最高の案件に携わるだけあって、やる気に満ち溢れている。
話し合い、仕様書を作り、手直しを繰り返す。そんな毎日を続け、とうとう全員が納得できる仕様書が完成し、明日クライアントにプレゼンすることとなった。
連日残業が続いていたため、俺はメンバーを先に帰らせて、1人で最終確認をすることにした。初めて任されたプロジェクトリーダーの仕事を成功させて、会社に貢献したい。細部までしっかりと確認しておかなければ。
俺が1人でデスクに張り付き作業をしていると、いつもは定時で上がってしまう部長が、珍しく俺のデスクへと歩み寄ってきた。また無茶ぶりをされたら堪らないと思った俺は、作業に集中し気がつかないふりをしてやり過ごそうとした。
しかし、そんな俺に部長はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「おい、津田。お前に話がある」
「なんでしょうか。今、手が離せないのですが」
「先ほどお前の左遷が決まったぞ。意味、分かるな」
「は?」
俺は部長の言っていることが理解できず、固まってしまう。明日は100億の商談が控えているのに、担当に指名されている俺が急に左遷?
「無能なお前には100億の商談なんて無理だから、エリートの俺が指揮を取ることになったんだ。だからお前は全てを俺に引き継いで、明日から窓際部署でせいぜい頑張るんだな」
「社長はこのことをご存知なのですか? 俺は社長と取引先の担当者に指名されて、この案件を任されたはずですが」
俺が当然の疑問を投げかけると、部長はふんといった様子で鼻を鳴らして、子供じみた物言いをした。
「社長は今出張中で不在だから、事後報告になるが、エリートの俺が担当する方がいいに決まっている。クライアントも、お前のような無能よりも部長の俺が堂々と担当する方が、会社のやる気が伝わっていいだろう」
「でも、それはクライアントの意向に背くことになるんじゃ」
俺が食い下がると、部長は居丈高に顔を歪めた。
「下っ端で無能なお前が、エリートの俺に歯向かうのか。お前のような奴は俺の言うことに従っておけばいいんだ。早く資料を引き継いで、荷物をまとめろ」
俺は部長のあまりにも見下した物言いに、もう限界だった。今まではどうにか我慢してきたが、今回ばかりは許すことができない。連日チームメンバーと全力で取り組んで、会社と自分を指名してくれたクライアントのために努力してきたのに、部長はそれを横取りしようというのだ。しかも、俺は何もミスを犯していないのに左遷だなんて、到底受け入れられない。
この人の下にいては、俺は今後も自分の手柄を奪われて成長することはできないだろう。そんな人のいる会社にこれ以上いることは、自分の今後のためにはならない。
俺は深呼吸をして決意を固め、部長の目をまっすぐ見返して言い放った。
「では、首でいいですよ」
「いや、俺は左遷と言ったんだ。やめろとまでは言っていないだろう」
部長は少し焦った様子を見せたが、俺は自分の決意を覆すつもりはなかった。
「これ以上、あなたのいるこの会社で一緒に働くことは自分のためにならないとよく分かりました。資料はチームのサブリーダーに渡しておきます」
俺はそれだけ言って、後ろで何か喚く部長を無視して、デスクの私物をまとめて部屋を後にした。俺が選んだサブリーダーは優秀な人間だから、俺がいなくてもきっとチームをうまくまとめてくれるだろう。
言いたいことを部長に言えてすっきりした気持ちで、今までお世話になった会社を出た。自分が任された仕事を最後まで見届けられないことは心残りだったが、これ以上部長には耐えられなかった。
とりあえずしばらくゆっくりして、気持ちをリフレッシュさせてから次の仕事を探すことにしよう。そう思い、俺は家へと向かった。
翌日、クライアントと顔を合わせての商談当日。久しぶりに俺は朝寝坊をして、ゆっくりとした時間を過ごしていた。今までは早起きして職場に向かい、遅くまで残業する日々だったから、たまにはこんな時間があってもいい。
そう思いながらゴロゴロとしていると、突然テーブルに置いてあったスマホが鳴り始めた。画面を見ると、部長からの着信を示している。俺は嫌な気分で着信を無視した。しばらく無視を続けたが、部長からの着信はひっきりなしに続いて、やむ気配がない。
俺は仕方なく通話ボタンを押した。
「はい、津田です」
「お前、俺からの電話に出ないとはいい度胸をしているな」
部長は挨拶もなしに俺を怒鳴りつけてきた。俺は努めて冷静に部長に告げる。
「何でしょうか? もう俺は昨日で会社を辞めたので、あなたからの電話に出る義務はないんですが」
「言い訳するな。今から会社に来い」
部長は怒りに任せて怒鳴っていたが、その声にはどことなく焦りが滲んでいるような気がする。
「だから、俺はもう会社の人間じゃないんで、行くことはありません」
「お前のチームがお前と同じく無能で使い物にならないんだから、お前が責任を取るのは当たり前だろう。いいからさっさと来い」
俺が選んだチームメンバーはみんな優秀だ。無能で使い物にならないなんて、そんなはずはない。どうせ部長が上から目線で物を言って、うまくまとめられないだけだろう。
俺は怒鳴り続ける部長に呆れて言い放った。
「エリートな部長ができないことを、無能な俺にできるとは到底思えませんので、これ以上電話をかけてくるのはやめてください」
それだけ言って俺は電話を切り、部長の電話番号を着信拒否した。その後、電話が繋がらなくなったため、部長から鬼のようにメールが来たが、俺は全てを未読無視した。
すると今度は、会社の番号から電話がかかってきた。また部長かと思ったが、もし違う人間だったらと俺はしばらく迷い、一旦電話に出ることにした。
電話に出ると、相手は社長だった。
「津田君、今日はプレゼン当日だぞ。一体どうしたって言うんだ」
急に辞めた俺に怒っていると思ったが、社長の声色がとても優しく俺を気遣うものだったので、俺は胸の内に溜まっていたプロジェクトを奪われた悔しさが涙となって込み上げてきて、社長にぶちまけてしまった。
俺の話を社長は相槌を打ちながら、最後まで静かに聞いてくれた。俺が話し終えて少し落ち着きを取り戻すと、社長は変わらず優しい声で俺に話しかけてくる。
「とりあえず状況は理解できたよ。僕は今日出張から帰ってきたばかりだから、君の退職届の受理はまだしていないんだ。だから、一旦会社に来てくれないかな」
社長の言葉に俺は頷いて返事をし、支度を整えて会社へと向かった。
会社に着いた俺を、プロジェクトのチームメンバーが待ち構えていた。サブリーダーには昨日のことを説明してあったから、皆が俺を責めることはなかったが、口々に部長の文句を俺に言ってくる。やはり俺の予想通り、部長は大して資料に目も通していないのに上から目線の物言いをして、チームが混乱状態になっていたようだ。
チームメンバーと話していると、奥の方から部長が肩を怒らせながらこっちに歩いてくるのが目に入った。
「俺からの電話を拒否するとは、いい度胸だな」
部長は開口一番俺を怒鳴ると、俺の腕を掴み、隅の方へと連れ出した。
「痛いです。離してください」
俺が部長の手を振り払うと、部長は俺に顔を寄せて小声で話し始めた。
「クライアントがお前がいないことに怒って、この商談をなかったことにすると言ってきたんだ。100億の商談をなかったことになんてできない。どうにか収拾をつけろ」
自分が担当した方がクライアントにとってもいいなどと言っていたのは一体誰だったのか。
「俺を左遷したのは、部長ですよね」
「うるさい。俺が関わった案件で100億も損失を出すなんてあってはならないんだよ。さっさとクライアントのところに行って、遅れたことを謝罪してこい」
部長のあまりの身勝手さに、俺は心底呆れた。俺を左遷しておいて、自分の立場が危なくなると呼び出して俺のせいにしようなど、都合が良すぎる。
すると、俺と部長の後ろから懐かしい声が聞こえてきた。
「正幸、こんなところにいたのか」
「じいちゃん? え?」
そこには、昔よりも少し年は取っていたが、背筋をピンと伸ばして、祖父が笑顔で立っていた。
実は今回の案件は、俺の故郷の農家である祖父たちが企画し、農作業にITを組み込んでもっと便利にして若者たちを誘致しようと言ったものだったのだ。祖父たちはIT業界最大手の会社へと作業を依頼し、そこの会社が仲介役となり、俺のいるこの会社へと話が来たというわけだ。
俺がこの会社にいることは祖父母には伝えてあった。きっと祖父が、俺のいる会社に話を持っていくと決まった時点で、俺を担当にと指名してくれたのだろう。祖父は周りの農家たちのリーダーのような立場で、皆の意見をまとめて今回の件も企画したらしい。
「せっかく正幸に会えると思っていたのに、来たのはそこのなんだか偉そうな男だったから、帰ろうかと思っていたところだったんだよ。いや、私は」
「偉そうに部下の人たちを顎で使って命令していたように見えましたがね。こっちの質問にはまともに答えられないし」
祖父は俺との会話に割り込んできた部長を、一睨みで黙らせると、部長に向かって言い放った。
部長は冷や汗をかきながら、この場をどうにか乗り切ろうと必死だ。そこに社長が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
「この度はこちらの不手際で不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
そう言って社長は祖父の前まで来ると、深く頭を下げた。
「社長さんに頭を下げられてもね。今回の案件は、お孫さんでもあるこちらの津田君が毎日努力して作り上げてきたのです。どうか、もう一度チャンスを与えてはくれないでしょうか」
「では、やはり担当は正幸ということですね」
社長は俺の顔を見て、頷いて見せてくれた。俺は一度退職を申し出ていることを後ろめたく思いながら、後ろに控えているチームメンバーの顔を一人一人確認した。皆から俺に向けられる視線の強さに、俺は迷いを断ち切り、祖父へと向き直った。
「俺が、この件の担当です」
「そうか。では、もう一度話を聞こうかな。孫だからって手加減はしないからな」
「うん。もちろん」
俺と祖父、社長のやり取りを見ながら、部長はがっくりと肩を落とした。
その後、俺はチームメンバーの力を借りて、見事に100億の商談を成功させたのだ。
そして部長は、社長と役員に呼び出され、事情聴取を受けることとなった。そこで今回のように人の手柄を横取りしながら自分の実績にして、今の地位に着いたことが発覚した。それに加えて日頃からパワハラまがいの言動を繰り返していたことも問題視され、降格して平社員になることになったようだ。
しかし、平社員になることに耐えられなかった部長は、すぐに会社を辞めてしまった。今から転職先を探すのは楽なことではないだろうが、俺が心配する必要もない。全て彼の自業自得なのだから。
俺はと言うと、100億の商談を成功させたことがきっかけとなり、昇格することが決まった。自分一人の力ではないからチームメンバーに申し訳なく思ったが、誰も不満を言うことはなく、祝福してくれた。
今度、祖父母の顔を見に帰省して、自分が担当したプロジェクトの成果をこの目で見てくるつもりだ。役職も上がり、今後は部下も増えて今まで以上に忙しくなるだろうが、俺は自分の部下たちが伸び伸びと仕事ができる環境を作っていこうと思っている。そして、自分自身も知識やスキルに磨きをかけて、もっといろんな人の役に立てる仕事をしていくつもりだ。



