私たちの店に、本社から新しい店長がやってきた。最初は「いいおじさん」だと思った。でも蓋を開けてみれば、店の顧客サービスをことごとく否定し、私が反論すると「うっせえわ」と一蹴。ついに彼は信じられない要求を突きつけてきた。「お前らにノルマを課すからな。頭悪いな。客を1,200人呼べって言ってるんだよ」-…

私たちの店に、本社から新しい店長がやってきた。最初は「いいおじさん」だと思った。でも蓋を開けてみれば、店の顧客サービスをことごとく否定し、私が反論すると「うっせえわ」と一蹴。ついに彼は信じられない要求を突きつけてきた。「お前らにノルマを課すからな。頭悪いな。客を1,200人呼べって言ってるんだよ」-...

「なんだその目つきは。お前、店長に盾突く気か」

そう言い放った井上店長に、俺は静かに答えた。

「別にこの店で美容師を続けることにこだわってるわけでもないので、俺やめます」

「おお、やめろ。やめろ。やめたい奴はやめろ。美容師なんて五万といるんだ。逆木原グループで働きたい奴だってたくさんいる。お前らの代わりはいくらでもいるからな。やめろ。ほら、帰っていいぞ」

井上店長が得意げにそう言った瞬間だった。

朝礼で並んでいた社員たちが、全員姿勢を崩した。

「じゃあ、俺もやめます」

「チーフがやめるなら、私もやめますね」

次々に辞意が表明され、ついに全員が退職の意思を示した。

俺は三十歳のヘアスタイリストで、この地域では大手のヘアサロンチェーン「逆木原グループ」に勤めている。中でも俺が勤務する「ルリアン」は雑誌にも取り上げられる人気店だ。見合わせカットやフェミニンなショートヘアが得意なスタイリストが多く、ビフォーアフターの工程動画はネット記事にもなった。地方からわざわざ「ルリアンならなりたい自分になれる」と来てくれるお客様もいるほどだった。

だが、つい最近、ちょっとした事件があった。引き抜きにあって、トップスタイリストとジュニアスタイリストが二人、ライバル店へ移籍してしまったのだ。看板スタイリストだったから、顧客は激減した。おかげでルリアンは、隣のファッションビルに入っている「ルシエル」に売上一位の座を譲ることになった。

前の店長だった佐野浩司さんは、キャンペーンを打ち出したり、来店のない顧客に手書きのダイレクトメールを送ったりと必死に挽回してくれた。だが、定期の人事移動で他店へ移ることになった。佐野さんは、会社で言う課長職にあたる中間管理職で、「中間管理職は辛いよな」が口癖の人だった。俺たちもSNSの発信を強化したり、佐野さんを見習って顧客に手紙を送ったりと、挽回に徹した。

佐野さんは、逆木原グループが運営するエステサロン「ルシクレ」の地方店舗の店長に異動になった。新規展開する店長に抜擢された、というのが正しい表現だが、地方のエステ部門は正直厳しい状況にあった。決して栄転とは言えない人事だった。

「この店は駅前の路面店で立地もいい。顧客や売上は挽回できると思う。今まで通り、お客様が満足していただけるサービスを忘れずにな」

佐野さんは美容師の資格を持っていないからこそ、店の予約管理や資材発注、アシスタントさんとの環境整備などを丁寧にやってくれた。フロントで朗らかに顧客対応する佐野さんのファンもいたほどだ。本社はそれを分かっていて、佐野さんを地方に追い出したのだろうか。だとしたら、俺は本社の人事が許せないと思った。

佐野さんの代わりにやってきたのは、本社にいた井上義雄という男だった。年齢は佐野さんより少し上で、フロントでは客にいい感じの、いわゆる「いいおじさん」だった。これが第一印象だったが、蓋を開けてみれば、その印象は大きく崩れ去ってしまった。

「おい、お前らもっと早く来て環境を整えろよ。資材の発注してねえってどういうことだよ」

「おい、なんだよ。まだレジ閉めてないのかよ」

佐野さんの店長時代は、アシスタント、ジュニアスタイリスト、トップスタイリスト、フロントと、全て住み分けを行っていた。フロント担当の社員がオープン前の環境を整え、レジを占め、シャンプーやカラー剤などの資材の在庫を確認し、発注するのが仕事だった。フロントの子はきちんと仕事をしていたのだが、井上店長はアシスタントたちが別の仕事をしていることに腹を立てているようだった。

俺はチーフとして、井上店長に伝えた。

「レジ締めはこれまで店長が行っていました。資材の発注などはフロントを担当する社員が行い、全て店長が確認する流れがあります。バックヤードの店長のデスクの上には発注の書類が置かれています。お目通しいただかないと、フロントの子が発注できないんですよ。アシスタントの子たちはシャンプー台や酸素ボンベの点検、タオルの補充などをしています。きちんとデイリーの仕事をしているので、目くじらを立てないでください」

「うっせえわ」

ほうほう。そうきますか。「いいおじさん」という俺の評価は、すぐさま撤回された。

やがて井上店長は、レジの現金が合わないと言い出した。

「レジの現金が合わねえんだ」

「レジの現金扱いは慎重にって、昨日フロントの子に言っていましたよね」

「俺の不在の時間があっただろうが」

「その時間はキャッシュレス決済のお客様のみでした。私が担当するお客様ですので、会計に立ち合っております。レジのジャーナルレポートをご覧になりますか? それに釣り銭は自動で出てくるので、レジの入力間違いが原因かと」

俺はスタイリストが作成した売上伝票とレジのジャーナルレポートを照合し、レジの現金が合わない理由を突き止めた。

「ああ、太田様のご来店の時ですね。3,970円と入力するところを3,790円って入力しています。店長の社員コードで入力されていますね。これでレジの誤差が合致しますよ」

お客様にはお釣りを多く渡している形だったので、そこは問わなかった。もちろん売上は減ったわけだが、レジで返金手続きを行い、正しいレジ登録を行った。本当はいけないことなのだが、俺はレジで不足したお金をポケットマネーで補った。

「店長、今回だけですよ。次からは気をつけていただかないと」

「あ? ああ、あってなんだよ」

「いえ、なんでもないんです」

俺は気づいてしまった。レジが合わないことを、フロントで会計をする社員のせいにしてのぼせるつもりだったのかもしれない、と。どのレジのレポートと売上伝票を照合すれば、間違いはすぐに炙り出される。だから、こんな陰湿な因縁のつけ方はお門違いなのだ。

新しい店長は、本社からなぜ送り込まれたのか、自分の使命を話し出した。

「この店舗は顧客数が落ちている上、売上だって落ちていることは分かるよな」

朝礼で偉そうに話し出す。スタイリストが辞めたことでファンの顧客がごっそり移籍先へ持っていかれたので、顧客が減り売上が落ちたのは言うまでもない。それに、このしばらくの居心地の悪い雰囲気を、お客様も感じ取っている。ただ、駅前の路面店であるため新規の顧客も多いのが特徴だ。リピーターを生み出すための努力も怠らない。

ただ、この店長は違った。

「店のコストダウンを目指すため、顧客への郵送によるダイレクトメールを禁止する」

これには店内がざわついた。季節の挨拶やキャンペーンのお知らせをお届けするからこそ、顧客がついてきてくれたのだ。

「LINEやメールがあるだろう。SNSのDMを送るってこともできるだろう」

「店長、SNSアカウントのDM発信と、郵送によるお客様へのお伺いは、気持ちの受け取り方が違うんですよ。これをやめるとなったら、ますますお客様が遠いてしまいます」

俺がみんなの気持ちを代弁すると、社員たちはみんな同調した。

「私たちはお手紙を出すことは絶対に譲れません」

これで俺たち社員側と店長の間に、深い溝ができてしまった。フロントの子たちが朝に店長を避けるようになると、店長は顧客からの予約の電話を無視したり、途中で切ってしまうという暴挙に出た。もちろん店内の雰囲気はどこかギスギスしていて、お客様にも迷惑をかけることがあった。

どんなに店長と対立しようとも、この空気の中で仕事をすることは誰だっていいことだとは思っていない。少しでも店長へ歩み寄りたいとは思っていても、井上店長側がどうにも暴走しているので、どうしようもなくなっていた。もちろんお客様は減る一方で、売上だって井上店長が就任した時よりも減っていた。俺は人知れず本社に相談に出向き、話を聞いてもらったりもした。でも、そんな俺の苦労をよそに、事件は起こる。

「このままじゃ店の賃料はもちろん、お前ら社員の給料だって払えんぞ。アシスタントやスタイリストのインセンティブもほとんどゼロの状態だろうが」

予約のお客様も減っていて、ヘッドスパやトリートメントの施術で得られるアシスタントたちのインセンティブも減っている。確かにそれは事実だ。

「ってことで、俺の経歴に傷がついてしまうから、お前らにノルマを課すからな。これまでの月間ノルマの場合」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。月間ノルマの場合って、うちの店には1ヶ月に600人ものお客様が来るんです。その場合、どれだけのお客様を呼ばなければいけないのか分かってますか?」

「ヘッドスパやカラーなど単価が高い施術を押せばいいだけのことだ。物販だって対象にすればいい。ほら、そうだ。うちで扱っている商品を1. 2倍に値上げすればいいじゃねえか。これなら5個売れば6個分の売上になる。12,000円でヘアアイロン600個売れば、それなりの売上が確保できるじゃんか」

「それって、来るお客様全員に品物を売れってことじゃないですか?」

「頭悪いな。お前だから客を1,200人呼べって言ってるんだよ」

「店長、あなた自分が何を言っているのか分かっていますか? それじゃうちの社員全員、過労で倒れてしまいますよ。それに店のキャパシティだって完全無視じゃないですか?」

「頭が硬い。硬すぎる。シャンプーの時間を半分にする。仕上げのマッサージは省略。ブローなんてそんなに時間をかける必要はねえだろう。ほら、それだけでも施術時間は半分になるぞ」

井上店長の演説に、大きなため息が漏れた。俺だけではない。社員たち全員が「分かってねえな」と息をついたのだ。お客様はリラックスしたいからここに来る。イメージチェンジを叶えたくてここに来る。中には家族以外の人間との接点がこの店だけという人もいるかもしれない。なのに、サービスを割愛すれば生きがいを奪うことになる。それを分かってくれていない。

俺はまた、大きくため息をついた。

「なんだその目つきは。お前、店長に盾突く気か」

「別にこの店で美容師を続けることにこだわってるわけでもないので、俺やめます」

「おお、やめろ。やめろ。やめたい奴はやめろ。美容師なんて五万といるんだ。逆木原グループで働きたい奴だってたくさんいる。お前らの代わりはいくらでもいるからな。やめろ。ほら、帰っていいぞ」

そう、井上店長が放かに言い放った時だった。朝礼で並んでいた社員たちが全員姿勢を崩して、「じゃあ俺もやめます」とか「チーフがやめるんなら私もやめますね」とか言い出した。ついに全員が退職の意思を示したのだ。

「ああ、今日の予約のお客様に、店長からきちんと丁寧な説明をしてくださいね」

「ちょっと待て。もう30分後にはオープンだぞ。そんな、今すぐやめる必要はないだろう」

「まだ分かんないんですか? 俺たちはあんたの下で働くことにケリをつけたんですよ。ノルマだの何だの押し付けて、そのくせお客様からの大事な予約の電話を面倒だからと途中で切ったりする、あんたの考えにはついていけないんですよ」

みんなが「うんうん」と俺に同調するように頷いた。

「ちょっと待て。考え直せ。話し合おう。今日はこれから会長と社長が視察に来るんだ」

「だから何ですか? この空気の対立図を視察しにいらっしゃるんでしょ? 俺から視察を依頼したんですから」

「貴様、嵌めたな」

「いいえ。あなたは今の今まで、会長と社長が視察に来るなんて一言も言わなかったじゃないですか。私は現状視察をお願いしましたが、今日来てくださいなんて、そんな質のお願いはしていません」

「はい。そこまで」

逆木原グループの会長と社長の沢田がやってきた。俺たち社員は全員、姿勢を正してお辞儀をした。井上店長の顔が青ざめている。こんな早朝から社長と会長が来るとは思っていなかったのだろう。多忙な重役の視察とはこんなもんだ。

「いいよ、チーフ。君の訴えはよく分かったよ。井上店長がまさかここまでとは思わなかったな」

沢田社長は井上店長を睨みつけながら話し出した。井上店長は小さくなって座り込んでいる。

「井上君は、逆木原グループ全体の品格を落としたも同然だからね。君はエステサロンの経営で失敗したから本社預かりにしたことを忘れているようだね」

井上店長がエステサロンでも同様のことをして、店の信用を失わせた過去があったことに驚いた。ほぞが緩んだ。更生したと判断し、店長として再任用させたけれど、全く変わらなかったとみなしたようだ。

「申し訳ないが、今日は店を開けてもらえるかな? 退職に関しては店を閉めた後で、改めて話し合おう」

逆木原会長と沢田社長が井上店長を本社へ連れて行ったので、俺たちは開店準備を行い、普段通りに店を開けることにした。気持ちを切り替えて、お客様へいつも通りの施術を行う。毎月来てくれるお客様には丁寧にお詫びをし、次回の予約につなげていくことに念を入れた。

「これで私たち、ルリアンをやめられなくなっちゃいましたね」

フロントの女性社員がにっこり笑って言ってくれた。

「本当だね。嫌な気持ちにさせちゃってごめんね」

前の店長だった佐野さんも、きっと笑って仕事を終えることができたはずだ。

その後、改めて沢田社長や人事担当者と話をした結果、店長交代を条件に、俺たち社員は全員が退職の意向を取り下げるに至った。

「店長の件なのだが、飯野君を任命したい。君に、逆木原グループで一番の規模を誇るこの店を任せたい」

「え、俺ですか?」

「人望も厚いし、周りのことをよく見ている。君に任せたい」

大抜擢だった。一斉に拍手で俺を迎えてくれたため、社員全員が賛成してくれたようだ。俺は頭を深く下げ、みんなに感謝の気持ちを伝えるしかなかった。

落ちてしまった売上や顧客の挽回は、プロジェクトを立ち上げ、無理なく少しずつ回復させられるように頑張ろうと決めた。SNSを頻繁に更新して、逆木原グループオリジナルのヘアオイルの使用方法やヘアアレンジの仕方を提案するなど工夫をした。おかげで少しずつ客足が回復しつつある。

そんな中、他店に引き抜かれて移籍した美容師が二人、復帰を願い出た。移籍したのはいいけれど、一緒に連れて行った顧客が「なんか違う」とリスト担当から全員戻ってしまったと考えたようだ。移籍先の店舗で使っていた品やカラー剤などの資材の質が段違いに違った。それに逆木原グループでは、美容機器メーカーと共同開発したオリジナルのドライヤーやヘアアイロンなどを使っている。美容師が移籍先でルリアンと同じクオリティでの施術ができなかったというのが、大きな理由だった。

「この店での復帰は、社員の士気に関わるから、両手を広げてウェルカムというわけにはいかないな。人事に預けるよ」

本当は喉から手が出るほど欲しかった人材だけど、会社を裏切って出ていった美容師なので、同じ店舗で働いて欲しいとは思えなかったのだ。

広告費などの経費はあまりかけられないが、お友達紹介でささやかなプレゼントをつけたり、ショップカードを作ったりと地道な努力をした。1年ちょっとの時間はかかったが、一時期予約客が減少したルリアンの顧客も、元の状態へ回復した。系列に抜かれた売上も、また不動の一位の状態をキープできるまでになった。

一方、井上元店長はまた本社預かりの身になったようだが、社長や会長の前で失態をやらかしてしまったので、自主退職をしたようだ。退職金の支給だけは主張したようだが、残念なことに井上さんは転職組。退職金の支給案件を満たすほど逆木原グループに在籍していなかったので、退職金はもらえなかったらしい。「それなら解雇された方が良かった。30日分の解雇予告手当てをもらった方がお得だった」と文句を言ったようだが、解雇のレッテルを貼られてしまうと転職が難しくなることを、井上さんは知らなかったようだ。その後のことは、俺の知ったことではない。

一方、地方で新規オープンしたエステサロンの店長として赴任したため、事実上の左遷だと思っていた佐野さんだが、その地域では大当たりしたようだ。夕刊マダムのアンチエイジングケアやブライダルエステの空白地帯だったため、事業拡大も視野に入っているらしい。会社の人事の見る目は正しかったと言えるだろう。

俺はトップスタイリストとしてお客様と向き合いながら、店長としてルリアンを守っている。これからもまっすぐ、お店を盛り上げていけるよう努力する所存だ。

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