「おい、あの爺さん、いったい何の仕事をしてるんだ?いつも掃除してるだけじゃないか」
「さあな。掃除係みたいなもんじゃないか」
中学しか出ていない老人と、高校も中退した若造。工場では「無学コンビ」と陰で呼ばれていた。だが、その「無学」の手が、この会社の命運を握っていることを、誰も知らなかった。
七十歳になる木村は、十五歳でこの町にやってきた。家が貧しくて中学を出たばかりの少年に、高校進学の道はなかった。職を探して町中の店を回っても、学歴がないというだけで門前払いだった。
たどり着いたのが、この東洋精機だった。当時の社長だった森田が、汚れた作業着の少年の手を見て言った。
「お前、いい手をしてるな。ここで働け」
それが、すべての始まりだった。森田は少年に手回しのマイクロメーターを渡し、こう言い遺した。
「その手は、会社の宝になるぞ」
木村はその言葉を胸に、五十年間、朝一番に工場の鍵を開け続けた。学歴はなくても、磨き上げた技術は誰にも負けなかった。やがて彼の表面処理の技術は特許となり、この会社の製品を支える屋台骨になった。
ある朝、本社から新しい開発部長がやってきた。白髪交じりの職人たちが整列する朝礼に、伊達男が立っていた。イタリア製のスーツに、高級腕時計。四十三歳の白石という男だった。
「本社から来た白石だ。一つだけ言っておく。俺が話すのはステークホルダーだけだ。つまり、決定権のある人間だけだ。現場でネジを締めている連中と雑談するつもりはない」
その言葉に、現場の空気が凍りついた。さらに白石の後ろにいた小野という男が追い打ちをかけた。
「部長は優秀なお方だ。現場の連中は黙ってネジを締めていればいいんだよ」
白石が現場を見て回ったとき、木村と翼の作業台の前で足を止めた。しかし、二人に話しかける気はないようだった。
「小野、こいつらは何だ?」
「ああ、無学コンビですよ。中卒の爺さんと、高校中退のガキです。爺さんは何をしてるのかさっぱり分からない。掃除係みたいなもんです」
「なるほどな。こんなのがいて、意味があるのか?」
「さあ、俺には分かりませんね」
目の前で見下されても、木村は手を止めなかった。ただ、隣で悔しさに顔を赤らめる翼の袖を引いた。冷静でいろ、という合図だった。
「おはようございます。木村と申します」
木村の挨拶を無視して、白石は作業台に目をやった。そこには、擦り切れた手帳があった。木村が長年の経験を、びっしりと書き込んだノートだった。紙は手の油で黒ずんでいた。
「これは何だ?手書きか?」
「表面処理の……」
「ああ、説明はいい。見れば分かる。根拠もデータもない。完全に時代遅れだ。こういうのが生産性を下げるんだよ」
白石はページを適当にめくり、一行も読まずに放り投げた。ノートは床を滑り、白石が立ち去ろうとしたとき、その革靴がしっかりとノートを踏みつけた。
「おっと、踏んじゃったか。まあ、ただのノートだろ」
木村は黙ってノートを拾い上げ、親指でカバーの靴跡を拭い、曲がったページを直して胸ポケットにしまった。
数日後、大きな案件が舞い込んだ。海外の医療機器メーカーからの大型受注。表面処理の技術で世界的に知られる東洋精機にとって、会社の命運を賭けた一大プロジェクトだった。契約額は、今までの比ではなかった。
進捗会議で、プロジェクト責任者に任命された白石がホワイトボードの前で得意げに企業用語を並べていた。説明がひと段落したとき、翼がおずおずと手を挙げた。
「あの、部長。この納期では表面処理が間に合いません。あの工程は機械じゃなくて、手作業で一つずつやるので、どうしても時間がかかります」
「止めろ。手作業?この時代に、それ自体が非効率だ」
「で、ですが、仕上げをするのが誰であろうと関係ありません。データで裏付けてください。以上だ」
小野が横から口を挟んだ。
「いや、部長、このガキに話しても無駄ですよ。こいつは田村って言うんですが、高校も卒業してないんです。いつもあの中卒の爺さんにべったりで、有名な無学コンビでして」
白石の視線が、一瞬、木村に向いた。まるで値踏みするような、冷たい目だった。この男は、木村の名前すら覚えようとしなかった。
「皆さんに聞きたい。中学しか出ていない人間の直感と、しっかりしたデータ。どちらを信じますか?論理的に考えてください」
誰も答えなかった。社員たちは資料に視線を落とし、この場が過ぎ去るのを待つしかなかった。
「その通りだ。正規の教育を受けず、手が覚えているから仕事ができると?それはもう通用しない。令和の時代だぞ。このご時世、データこそが全てだ」
翼は油で汚れた手袋の中で指を強く握りしめた。だが、木村は眉一つ動かさなかった。ただ静かに、弟子の腕に手を置いた。
そのとき、会議室に深く響く声が聞こえた。
「白石部長」
振り返ると、ドアのところに西村社長が立っていた。話の一部を聞いていたようだ。穏やかな男だが、その目は笑っていなかった。
「あの仕上げの工程は、この会社の心臓部だ。効率という名のもとに軽んじられたら、私は困る」
その言葉に、白石の態度が百八十度変わった。
「あっ、社長。いやいや、とんでもない。軽んじるなんて、そんな。いや、むしろ現場の技術には最大限の敬意を払っております。ただ、会社の未来を考えて、スケールできない連中に苦言を呈したまででして」
ついさっきまで現場を馬鹿にしていた男が、社長の前では媚びへつらっていた。社員たちは冷たい目でその様子を見ていた。
「まあいい。来週、会社の運命を決める大事な契約がある。その中核文書を、私は今、自筆で書いている。これが仕上がって初めて、契約が動く。皆さんには、この書類を最大限に慎重に扱ってもらいたい」
「はい、もちろんです、社長。おい、聞いたか。社長の大切な書類だぞ。お前ら、粗末に扱ったら許さないからな」
白石がへつらうのを残して、社長は会議室を去った。背中が見えなくなった瞬間、白石は嘲笑した。
「まったく、一枚の書類に大げさな。またアレか、手書きの。手書きだぞ。この会社は古すぎるんだよ。社長は現場優先主義で、頭が固い」
会議が終わり、社員たちが散っていく。翼は顔を上げられなかった。
「すみません、師匠。余計なことを言ったばっかりに」
「いいや、違う。お前は正しいことを言った。仕上げの仕事にごまかしは利かない。それでいいんだ。だが、ああいう言葉に揺れるな。お前の手は嘘をつかない」
木村は胸ポケットから古い手帳を取り出し、今日気づいたことを細かい字で書き留めた。
数日後の夜、現場に残っていたのは木村と翼だけだった。そこへ西村社長が一人でやってきた。手に分厚い茶封筒を持っていた。
「木村さん、契約書類がようやく仕上がった。仕上げの契約の数字に間違いがないか、確認してもらえないか。君は毎日工程を見ているからね。君の目が一番信頼できるんだ」
封筒を渡しながら、社長の声が柔らかくなった。
「それと、この契約のとりまとめは白石部長に任せた。本社から来たばかりでまだ青いが、ここで大きな成功を収めさせたいんだ。彼に花を持たせてやってほしい。明日の朝で構わない。頼んだよ」
社長が去った後、翼が頬を膨らませた。
「師匠、どうしてあんな部長のために手を貸すんですか。あんなに馬鹿にされたのに、手柄を取らせるなんて嫌です」
木村は封筒を作業台に置き、低い声で言った。
「つまらないことにこだわるな。俺たちが向き合っているのは、部長や手柄じゃない。この手が仕上げた物が、海の向こうの機械を動かすんだ。誰かの役に立つ。それだけだ」
封筒の中には、一晩中かけて書かれたのだろう、貴重な手書きの契約書があった。社長が三週間かけて、あらゆる関係者に頭を下げてまとめ上げた、唯一の原本だった。
翌朝、木村は紙を作業台に広げ、翼と一緒に仕上げの数字を一つずつ照合した。
「この数字は、現場を分かっている者にしか書けない。社長はそれを俺たちに託してくれたんだ」
「はい、肝に銘じます」
二人が身を寄せて確認していると、音もなく白石が作業場に入ってきた。彼は効率化と称して、すべての紙文書のデジタル化を推し進めていた。たちまち、作業台に広がった手書きの書類が目に入った。
「また手書きか?勘弁してくれ」
白石は脇から書類をひったくると、振り回した。
「おい、皆、見ろ。これだよ。この会社をダメにしているのは。ちょうどいい。皆、よく見ておけ」
「あの、部長……」
「見ろよ、この無学な爺さんが書いた立派な提案書を。こういうのはこうやって処分するんだよ」
白石の唇が歪んだ。
「無学な人間の提案書なんて、シュレッダー行きだ」
誰も止める間もなく、白石は書類をシュレッダーに突っ込んだ。
「やめてください!」
翼が飛び出そうとしたが、小野が素早く立ちはだかった。
「おいおい、騒ぐなよ。部長が処分してるんだ」
無情な裁断音が部屋に響いた。社長が一文字一文字、書き上げた文章が、細い帯状の紙になって下のゴミ箱に落ちていった。丁寧な筆跡は紙吹雪となり、最後の一枚が吸い込まれたところで、機械が止まった。
我に返った翼が叫んだ。
「な、何てことを!あれは!会議の、あの大事な——」
翼の言葉は支離滅裂だった。白石は本気で困惑していた。何がそんなに大ごとなのか、理解できなかった。未来を左右する書類が、あの作業台にあったとは想像もできなかった。
「おいおい、落ち着け。何だ?無学な爺さんたちのメモみたいなもんだろ?どうせ役に立たなかったんだろ?」
「違います!来週の契約の合意書が全部入ってたんです。百億円の取引です!」
「百億?ああ、あれか。俺が担当してるプロジェクトだろ?」
書類がなければ書き直せばいい。白石には、そんな大騒ぎする価値があるとは思えなかった。
「書き直す?あれは部長の仕事を支える唯一の書類だったんです!」
「黙れ。何だ?支える?そんな話は聞いてないぞ。俺は頼んでないし、必要もない。これは社長が作った書類だ」
そこで、木村が低い、感情のない声で言った。
「社長は三週間かけて、関係者全員に頭を下げ、自分の立場を賭けて、この原本をまとめ上げたんです。白石部長、社長はあなたにこの大きな功績の手柄を取らせてやりたいと言っていました」
その言葉は、現場の全員の耳に、はっきりと届いた。白石の顔が、みるみる青ざめていった。足がわずかに震えていた。
「う、嘘だ。そんなはずはない。なぜ、そんな重要なものを……」
白石は視線を泳がせながら、小野を見た。
「そ、そうだ。大事な書類をこんな分かりにくい場所に置いた現場が悪いんだ。重要な書類を、こんな汚い作業台に置くはずがない。これは完全に現場の管理不行き届きだ」
「そ、そうだ。俺のせいじゃない。中卒の爺さんの机にある書類がゴミだと思うのは当然だろ。むしろ俺が被害者だ。俺はプロジェクトマネージャーだ。こんな紙切れの管理なんて雑務みたいなもんだ。一つ一つ確認するわけがないだろ。マネージャーの仕事は大局を見ることだ。こんな細かいことで責任を取らされるのは、たまらないな」
その嫌味な言葉を残して、白石は現場を逃げ出した。小野もニヤニヤしながら後に続いた。残されたのは、ゴミ箱に埋もれた細かい紙片だけだった。
木村は何も言わなかった。ただ黙って、社長の丁寧な筆跡の破片を、一枚一枚拾い始めた。翼はその背中を見守ることしかできなかった。現場は、しんと静まり返っていた。木村の胸の奥に、消えることのない熱が根付いていた。
シュレッダーにかけられたという知らせは、すぐに社長室に届いた。西村社長が現場に降りてきたとき、いつもの穏やかさは顔から消えていた。ゴミ箱に残された細い紙片を見て、社長はしばらく立ち尽くしていた。
「これが全てか」
「申し訳ございません。私の机の上に置いたままにしておいた私の責任です」
「君が焦ることはない」
社長は紙片の一つを指でつまんだ。三週間、頭を下げ続けた日々が、指の間で乾いた音を立てた。すぐに白石が呼び出され、社長の前で深々と頭を下げた。
「社長、誠に申し訳ございませんでした」
「白石部長、問題は、それを分かりにくい場所に置いた現場の管理にある」
低い声が、白石の言い訳を遮った。
「来週の契約は、あの合意書なしには成立しない。先方の承諾も、署名の調整も、全てあの一枚が中心だった。分かっているか?会社が傾くかもしれない。あの一枚のために」
「は、はい。一枚、来週までに……」
「コンピューターで作れば、間に合うかもしれません」
「三週間かかったものを、どうやって来週までに作り直すんだ?」
社長はそれ以上、白石を叱らなかった。深い疲れのこもった目で、しばらく白石を見つめただけだった。
「君に任せたのは、私の決定だ。その責任は私が取る」
その言葉を残して、社長は重い足取りで現場を出ていった。木村は黙って、その背中を見送った。
あの方は、森田さんの一人息子だ。自分を認めてくれた人の、唯一の息子だ。あの背中に、こんな思いをさせてはならない。
胸の奥の熱が、はっきりとした形になった。木村は社長の後を追って、廊下に出た。
「社長、あの合意書を、もう一度集めましょう」
「木村さん、君の気持ちはありがたい。だが、三週間かかったものを来週までに……」
「翼が内容を組み立て直します。彼は最終的な数字を知っています。私は、頭を下げて回ります。間に合わせます」
社長はしばらく木村の顔を見つめていた。そして、深くうなずいた。
「分かった。頼んだ。君がそう言うなら、信じよう」
その日から、翼は走り回った。言われた通り、翼は現場と客先を往復し、失われた内容をゼロから組み立て直した。最終数字を再計算し、まとめ上げ、客先に確認に行った。朝から夜まで、靴の底が薄くなるまで歩き続けた。
一方、木村は現場の片隅で、古い手帳を手に、電話をかけ続けた。何十年も、この手で付き合ってきた人々だった。
「お久しぶりです。木村です」
電話の向こうの声が、突然変わった。
「木村さんか。おお、東洋精機か。久しぶりだな。直接電話をもらうのは珍しいじゃないか」
その声は、さっきまでの厳しい口調とはまったく違っていた。古い知人にだけ見せる、柔らかさだった。無防備な、温かさだった。あんなに冷たい人が、師匠の名前を出しただけで、こんなに変わるのか。翼はそれが不思議でならなかった。
「無理を承知でお願いします。あの合意書、もう一度だけ力を貸してください。若い者が全て書き直しました。準備はできています。後はあなたの署名だけです」
それでも、答えはすぐには返ってこなかった。一度つぶれた話だ。簡単に息を吹き返すものではなかった。木村は何度も頭を下げ、慎重に言葉を紡いだ。翼はその背中を見つめ、成功を祈った。会社の運命を決める来週の契約まで、時間はもう残っていなかった。
数日後、白石が現場の前を通りかかり、まだ電話をしている木村に顎で指し示した。
「見ろよ、小野。まだやってるぜ。あの爺さん。だが、本当に大丈夫なのか?放っておいて」
「いや、俺が責任を取る。社長がそう言った。俺には痛くも痒くもない。それに、中卒の爺さんが電話一通で、三週間かけた話をひっくり返せるわけがない。どうせ失敗するさ。そしたら、現場が勝手に突っ走って失敗した、ということで片付ける」
「ああ、なるほど。さすが部長。うまくやってますね」
白石は木村に聞こえるように、大声で言い放った。
「無駄だ、無駄だ。中卒の爺さんが頭を下げたところで、何が変わるんだ」
木村はペンを置き、ゆっくりと白石を見上げた。そこに怒りはなかった。底知れない静寂だった。
「部長、一つだけ言わせてください。壊すのは一瞬です。ですが、人間の信頼は、そんなに安くありません。いずれ気づくでしょう。好むと好まざるとに関わらず、今日あなたが捨てたものの、本当の価値に」
「はっ、何だそれは。脅しのつもりか?」
白石は笑い飛ばそうとしたが、木村の目には、消えない光があった。
その後、翼の汗と木村の信用によって、契約書類は一枚ずつ蘇っていった。だが、白石は喜ばなかった。謝罪をするどころか、彼らの手柄を横取りしようとしていた。
その夜、白石は部長室に小野だけを呼んだ。
「小野、あの契約——木村たちが今、回収中だな?俺があの契約を再構築した、ということにしたいんだ」
「ですが、実際に動いているのは木村たちですよ」
「本社は、誰が何をしているか知らないんだ。報告書を書くのは俺だ。俺が『現場の失態で潰れかけた契約を、俺が再構築した』と書けばいい。そう書けば、俺はゼロからヒーローになれる」
「さすが部長。うますぎますね」
「いいか、絶対に木村たちには知られるなよ。彼らが流した汗は、全て俺の手柄になる」
その夜、白石は本社に虚偽の中間報告を送った。木村も翼も、まだ何も知らなかった。
約一週間後、契約締結の日がやってきた。本社の幹部が集まる報告会議だった。白石が先頭に立ち、小野がその後ろに続いた。
「皆さん、お疲れ様です。現場の失態で潰れかけたこのプロジェクトを、私、プロジェクトマネージャーが先頭に立って、立て直しました」
「白石君、君のその『白石流』とやら……具体的に、顧客とはどのような協議をしたのかな?」
「ええ、まあ、プロジェクト全体を見渡す立場として、方針を全戦線で徹底いたしました」
そのとき、客先代表の工藤が口を開いた。
「失礼ですが、私はあなたに一度も会ったことがありません。頭を下げて協力を仰ぎに来たのは、木村さんと、あの若い人でした」
「は?ああ、もちろん、彼らが赴きました。私は彼らを指揮した司令塔です。現場を動かすのも、リーダーシップの一つでしょう?」
工藤は書類をテーブルに置いた。
「司令塔?では、一つ教えて差し上げましょうか、司令塔さん。この会社の独自の表面処理技術。その特許は、たった一人の名前で登録されています。木村さん。あなたが『無学コンビ』と嘲り、こき下ろした、あの人です」
白石はその場で固まった。
「は?本当ですか?あの掃除係が、この会社に特許を提供して、製品を作らせているんですよ。彼が嫌と言えば、この会社の中核製品は、一つも世に出ません。あなたが見下した人物こそ、この会社を支える、まさに生命線なんです」
白石は青ざめ、冷や汗が吹き出した。
「嘘だ。中卒の掃除係が特許を持っているなんて、聞いたことがない。そんな話、聞いたことがない!」
「では、これを見てください」
工藤はもう一枚の書類をテーブルに滑らせた。
「あなたが本社に送った中間報告書に、しっかり書いてありますよ。『現場の失態で潰れかけた案件を、私、白石が救った』と」
「あ、あれは!あれは私の知らないところで、部下が私の名前を使って提出したものです。そうだろう、小野!」
白石はすぐに小野に責任を押し付けようとした。
「な、何言ってるんですか?俺が書いたんじゃない。部長が書けって言ったんです。『俺を救世主にしろ』って」
「わ、私も見てただけです。小野もいました。あなたは、上司を売るようなことを言いながら、全部記録されてますよ」
小野は顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちた。彼は頭を下げておきながら、いざとなれば上司を踏み台にする男だった。残った事実は、白石が自ら報告書を送ったことだけだった。
「白石部長、一つ聞いていいですか?もし現場のミスなら、なぜ『私が直した』と本社に報告したんですか?最初から、直す必要があると分かっていたからでしょう?あなた自身が、原本をシュレッダーにかけて、消えたと思ったからじゃないですか?」
「ち、違う、そうじゃない」
言えば言うほど、自分を深く掘り下げていた。会議室には、冷たい視線が注がれるだけだった。
「白石部長、法的に整理しましょう。第一に、社長が会社の命運を賭けた契約書を、読んでもいないのに破棄するという、会社への重大な背信行為。第二に、本社への虚偽報告。損失を隠すために、部下の手柄を自分のものだと偽った。これは管理職としての重大な信頼失墜行為です。第三に、この会社を支える特許所有者である木村さんの仕事を、踏みにじった。第四に、木村さんの名誉を汚した。会社としても、損害賠償を請求します。即日解雇、これ以上の理由はありません」
「私は、あなたに手柄を取らせてやりたかったんですよ。本社から来たばかりのあなたに、ここでいい仕事をさせてやりたかった。だから、私自身の手で、あの書類を書いた。あなたはそれを、一行も読まずに踏みにじった。最後まで他人のせいにして、嘘で塗り固めた。この会社で一番大切な人を踏みにじって」
「と、とにかく社長!契約は最終的に取れたんだろ?それに、元々は現場が分かりにくい場所に置いたのが悪いんだ——」
「もういい!」
机を叩く音が響き、社員たちは初めて社長の怒りを見た。
「白石君。この会社は君を懲戒解雇とする。本社も異論はないだろうな?」
「はい。我々も存在しない報告書に騙されていました。君の処分に異議はありません」
「君の名前は、この業界では、もうどの扉も開かなくなるだろう」
「な、不当解雇だ!受け入れない!訴えてやる!退職金も慰謝料も、たっぷり払ってもらうぞ!」
「どうぞご自由に。だが、二つ言っておく。第一に、懲戒解雇に退職金は出ない。これは当社の規定だ。第二に、君が訴える前に、会社が君を訴える。口座は差し押さえ、隠し資産の開示も要求する。刑事告訴も検討している。契約書の破棄は、業務上横領に当たる。百億。無理だ!私に払えるはずがない!」
白石はその場に崩れ落ち、高級腕時計が床を転がった。助けてくれる者は、誰もいなかった。白石は木村と目が合った。
「木村さん!あなたが『許す』と言ってくれれば、それで……お願いします!」
木村は、踏みつけられたあの手帳を、白石の目の前に掲げた。
「覚えていますか?これは、あなたが踏んだものです。壊すのは一瞬だったでしょう?だが、ここに書かれているのは、私がこの手で五十年間、学んできた全てです。あなたには、この一行を最後まで読むことすらできないでしょう。学歴や肩書きで人を測るのは、やめなさい。この世界には、あなたが見たこともないものが、まだまだたくさんある」
木村は手帳を胸ポケットにしまい、彼らに背を向けた。
契約は、その日に成立した。白石と小野は、警備員に連れ出された。
その夜、木村はいつものように作業台を拭いていた。
「どうして黙っていたんですか?特許を持っていること、会社の生命線だって言えば、あの部長も最初から黙ったでしょうに」
木村は手を止めずに、小さく笑った。
「肩書きを見せびらかして、偉くなった気になるのは、一番みっともない生き方だ。私はただ、いい仕事がしたかっただけだ。誰も見ていなくても、この手は覚えている。それで十分だった」
「人の価値は、学歴でも、肩書きでも、金でもない。どれだけ一つのことを突き詰めてきたか、それだけだ」
木村は胸ポケットのマイクロメーターに指を置いた。
「森田さんに教わった通りにな。さあ、仕事に戻るぞ。仕上げは誤魔化せないからな」
「はい、師匠。準備できてます」
夕日が、二人の作業台を赤く照らしていた。
五年後、業界では長期契約社員や虚偽報告の噂が広がり、白石を雇う者は誰もいなかった。彼は今、狭いワンルームに籠もっている。小野は共犯として解雇され、コンビニで夜勤をしている。二人は業界から追い出され、小さな下請け会社に拾われていた。注文も見積もりも、すべて手書きとファックスだった。
ある日、客先に謝罪に行ったとき、受付に東洋精機の表面処理の認定証が飾ってあるのを見た。その横に、「現代の名工」木村修氏の記事が掲示されていた。
「ど、どうか、この処理で部品を分けてもらえませんか?」
白石は震える手で手書きの依頼書を差し出した。受付の若い女性が名刺を見て、表情を曇らせた。
「白石様。あなたはブラックリストに載っています。無理です」
「お、お願いします。何とかならないでしょうか。本当に必要なんです。同じ内容でいいんです。何でもいいので、お願いします」
「ああ、すみません。こちらも手書きの注文は受け付けていません。データで作り直してください。手書きのものは破棄してください。データだけで結構です」
かつて白石が老人に向けた、冷たい指示が、今、白石自身に返ってきていた。
一方、東洋精機では、表面処理の技術は、世界中の医療機器を支えるものになっていた。木村は今も、毎朝一番に鍵を開ける。翼は、全ての表面処理を任される、立派な技術者になっていた。その後ろに、新人が続いていた。
「田村さん、ここがどうしても曇ってしまいます。何度やってもダメで」
翼は新人の手を眺め、かつて木村が自分にしたように、微笑んだ。
「力を入れるな。金属の声を聞くんだ。金属が何を望んでいるか、聞け」
「こうですか?」
「そう、その調子だ。手が覚えるまで、やり続けろ」
遠くから、木村が目を細めてそれを見ていた。自分の弟子が、守る側に立っていた。終業時刻、木村は翼を呼び止めた。
「翼」
翼に、森田から受け継いだ手回しのマイクロメーターを手渡した。
「師匠?でも、あなたがいつも磨いている。そんな大切なもの、受け取れません」
「これは、仙台の親方からもらったものだ。今度は、お前の番だ。お前の手も、もう立派な宝物だ」
翼の目に涙が溢れた。それは、森田が木村に言ったのと同じ言葉だった。
やがて木村は、森田の墓前に座っていた。
「親方、久しぶりです」
木村は手帳の表紙を指で撫でた。
「いろいろありました。腹が立つこともありました。ですが、全部守り抜きました。会社も、あなたの息子さんも。この、あなたにいただいた手で」
風が、草を揺らした。
「あなたの手は、会社の宝になる。あの日の約束は、守れましたかね?」
その背中は、どこにでもいる初老の男のものだった。しかし、その手は、五十年の重みを湛えていた。明日もまた、一番に鍵を開けるだろう。
CONTENT:
CONTENT:



