営業部の電話が鳴ったのは、午後も遅い時間だった。受話器を取ると、担当先の林だった。用件を聞けば、何でも明日、超人気ゲーム機が発売されるらしく、取引の契約は明日まで待ってくれと言うのだ。
「並ばなくても、買えるんじゃないですか?」と、思わず口にした。すると林は鼻で笑い、「甘いことを言っているんだ。そんなことをしたら、売り切れてしまうだろう」と一蹴した。
「でも、今は業務時間ですよね。会社にバレたらまずいのでは?」と問いかけると、彼は平然と「バレなきゃいいんだ」と返してきた。その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「それなら、契約期間切れで取引終了いたします」
そう言って、電話を切った。俺は松野優馬、42歳。鉄道会社に勤める父親と専業主婦の母親の間に生まれた次男だ。幼い頃から電車や新幹線が大好きで、いつか鉄道会社で働きたいと思っていた。高校卒業後、その夢を叶えようと鉄道会社を受験したが、叶わなかった。それでも他に進路はなく、見つけたのが機械部品を製造する会社だった。覚悟を決めて応募したところ、ありがたいことに採用された。高卒だし、配属されるのは工場だと思っていたのだが、蓋を開けてみれば営業部だった。
当時は分からないことだらけだったが、根が真面目なのが幸いし、先輩たちから学びながら営業のコツを掴んでいった。気がつけば、営業成績のトップを取れるようにもなり、40代に入った頃には課長昇進の話も持ちかけられるようになっていた。
そんな頃、俺の会社は機械を製造する大手企業と取引を始めることになり、俺がその担当になった。相手方の担当が、林だった。初めはごく普通の人物に見えた。だが、付き合いを重ねるうちに、その印象は覆された。
林はとにかく電話をかけてくる。メールを送ったという連絡さえも電話でしてくるのだ。急ぎの用かもしれないと思い、手を止めて出るのだが、話の内容は些細なことばかり。次第に煩わしさを感じるようになった。しかも、電話で伝えたはずのことを「聞いていない」と言われることもあった。結局、メモを後から見つけて一件落着したが、疑心暗鬼になる時間は無駄だった。
彼の態度は徐々に横柄になっていった。ある時の企画の相談では、自信を持って提案した内容に対し、林は「うちが発注しているから仕事ができてるんだろ」と言い放ち、「俺の言う通りにしろ」と一方的に決めつけてきた。こちらも顧客の要望に答えることは重要だと理解している。だが、彼の物言いはあまりにも上から目線だった。仕事をさせてやっている、というスタンスが丸見えだった。林からは、挨拶の一つにしても、取引先への気遣いや敬意を感じたことがない。彼は会社を代表して交渉をしているという自覚が、まるで欠けているのだ。
そして、運命の日が訪れる。林との四度目の契約交渉。前回の打ち合わせの時、ふと彼が「ゲームは好きか?俺、ゲームに凝ってるんだよ」と雑談を振ってきた。あまりに珍しい話題だったので、「学生の頃まではしていましたが、今は時間がなくて」と答えた。すると彼は鼻で笑い、「つまらないやつだな。面白いからやってみろよ」と言った。ゲームをしていなくても、別に人生はつまらないと思うのだが。
契約の日、時間通りに林の会社を訪れた。しかし、受付で名前を告げると、彼は外回りに出ているという。「約束していたはずですが」と確認するが、社員は「まだ戻っておりません」と答えるだけ。出発前に連絡を入れるべきだったかと後悔したが、今さらどうしようもない。仕方なく、携帯電話に連絡を入れる。
「林さん、今から契約をする予定でしたよね。どうされました?」
「ああ、そういえばそうだったな」
電話の向こうの声は、実に呑気だった。「もう御社に来ているのですが、何をされているんですか?」と問うと、驚くべき答えが返ってきた。
「ゲーム機を買う列に並んでるんだ」
前回の雑談で、彼が「もうすぐ新しいゲーム機が出るんだよな」と楽しそうに話していたのを思い出す。まさか、契約の日に発売するとは。いや、そんなに欲しいなら、契約日を別の日に変えてくれればよかったのに。何より、業務時間中に買い物をするという感覚が信じられなかった。
「え、何をしているんですか?仕事中ですよね?」
そう問いかけた後だ。彼があの言葉を放ったのは。
「超人気ゲーム機の発売日だから、下受けは明日まで待て」
「並ばなくても帰れるんじゃないですか?」
「何を甘いことを言っているんだ。そんなことをしたら売り切れてしまうだろう」
もちろん、過去にゲーム機の販売日には行列ができたという話は知っている。しかし、それはあくまで私的な用事の話だ。業務時間に何をやっているのか。会社にバレることを心配する俺に、彼は平然と言い放った。
「バレなきゃいいんだ」
バレていないのは、今の話だ。俺は既に知ってしまっている。それに、いつか必ずバレるだろう。いくら何でも、林がここまで非常識な人間だとは思わなかった。もはや、これ以上話を続ける価値もない。俺は静かに、しかし明確に告げた。
「それなら、契約期間切れで取引終了いたします」
そう言って、電話を切った。翌日が契約の期限だった。前日に延長の手続きをしようとしていた矢先の出来事だ。我が社としても、取引が終われば部品の販売先を失うことになる。にもかかわらず、取引終了を選んだのは、他ならぬ林の態度に原因があった。加えて、幸いなことに、別の大手企業から大きな注文が入っていた。林の会社は、我が社独自の製法で作られた部品が手に入らなければ、機械の製造ができなくなる。その重要性は、何度も説明していたはずだ。彼はその事実を忘れてしまったのだろうか。
その後、林の会社からは、彼の行方を尋ねる電話があったらしいが、林は「今忙しい」と言って取り合わなかったようだ。彼は結局、ゲーム機を無事に購入し、夕方5時頃になって会社に戻った。当然、ゲーム機を社内に持ち込むわけにもいかず、車の中に置いたのだろう。彼の会社では、我が社との交渉ができなかったことで騒動になっていた。直属の上司に「今までどこで何をしていたんだ」と問い詰められた林は、「外回りで忙しかったんです」と嘘をついた。
「こんなに時間がかかるものか。それに、今日は交渉があったんだろう?」と上司が問い詰めると、林は「ちょっと用事で手が離せなかったんです」と弱々しく答えた。「用事だと?業務時間中に何をしていたんだ!」と畳み掛けられた彼は、ついに白状した。
「ゲーム機を購入するために並んでいました」
上司は雷を落とした。林は平謝りするが、「交渉はどうしたんだ!」と問われると、「それが、俺が明日まで待てと言ったんですけど、契約期間切れで取引終了と言われました」と報告した。
上司は慌てふためいた。その様子に、林はなぜ自分が怒られているのか分かっていない顔をしていたらしい。「え、部品なんて他に作ってもらえばいいじゃないですか」と、彼は気楽に口にしたという。
「バカかね、君は!あの会社の部品は特殊な製法で製造されているんだ。どこでも作れるわけじゃないんだぞ!」
その瞬間、林は自分が大きな過ちを犯したことに気づいたらしく、顔面蒼白になった。
「そ、そうでした。本当にすみません」
その後、林は自社の社長に呼び出され、こってり絞られたらしい。社長は、我が社に対してきちんと謝罪するようきつく言い渡した。
翌日、林は平山社長と共に、我が社へ謝罪に訪れた。会議室で、平山社長が「この度は弊社の林が申し訳ございませんでした」と頭を下げた。「いえ、頭をお上げください」と我が社の安斎社長が恐縮する。平山社長は「君のことだろ。ちゃんと自分で謝らんか」と、縮こまっている林を促した。
「申し訳ありませんでした」
林は涙声で謝罪した。反省しているのか、それともただ状況が耐えられないだけなのか。どちらにせよ、彼の行動が招いた結果だ。
平山社長が「本日で契約が切れるとのことですが、是非とも取引を続行していただけないでしょうか。御社の部品は弊社にとって重要だと承知しております」と懇願してきた。俺は、担当を変更してもらえるなら、と条件を伝えた。
「私としましては、担当を変更していただきたいと思います」
平山社長は「わかりました。そのようにいたします」と即座に承諾した。それを聞いた林は、信じられないといった様子で「ちょっと待ってください。どうしてですか」と抗議した。
「どうしてですかじゃないだろう。君は自分のしたことを分かっていないのか!」
平山社長に一喝され、林は黙った。契約の継続が決まり、安斎社長が「これからもよろしくお願いいたします」と言えば、平山社長も「こちらこそ」と応じた。そして林に向かって、こう言い放ったのだ。
「君には厳しい処分が待っている。心しておきなさい」
「え、処分ですか?」と、林は脂汗をかきながら尋ねた。「当たり前だ。これで済むと思うんじゃないぞ」と平山社長。林は、その言葉を聞いて絶望したのか、すっかり元気をなくしていた。後日、林は会社を解雇されたという。平山社長は工場への異動も検討したらしいが、信用できないとして解雇を決めたらしい。実は林は、これまでもサボり癖があると噂になっていた。上司は注意していたようだが、上には口止めしていたらしい。今回の出来事がきっかけで、内部調査が入り、これまでの素行の悪さが明るみに出たのだ。
林に代わって我が社の担当になったのは、久保という社員だった。穏やかで、俺に対しても丁寧に接してくれる良い人物だ。「あいつのせいでひどい目に遭いましたね」と久保さんが言うので、「ええ、まあ」とだけ返しておいた。久保さんは、林の生い立ちについて教えてくれた。彼は貧しい家庭に育ち、幼い頃から苦労してきたらしい。中学時代には、家庭の貧しさからクラスメートに嫌がらせを受けていたこともあったという。そんな境遇に劣等感を持っていた彼は、それを知られたくないがために、横柄な態度を取る人間になったのだ。懸命に勉強してレベルの高い大学に進学し、奨学金を受けて通ったという話も聞いた。
彼の過去に同情する気持ちは、分からないでもない。だが、だからといって、人に横柄な態度を取ることが赦されるわけではない。仕事をサボることも、決して許される行為ではない。久保さんも「過去には同情するけれど、今の状況は自業自得ですね」と言っていた。俺も、全くその通りだと思った。
ある日曜日、俺は評判の激安スーパーに買い物に行った。家からは少し遠いが、品揃えも良く、確かに安い。満足して店を出ようとした時、見覚えのある人物と鉢合わせした。林だった。
「な、なんでお前がここに!」
彼は驚いた様子で声を上げた。
「たまたま買い物に来たんですよ。安いって聞いたので」
「ふーん。お前もこういうところに来るんだな」
鼻で笑われた。自分だって来ているくせに、と思う。それでも、気になって聞いてみた。
「今はどうされてるんですか?会社は辞められたと聞きましたが」
「警備の仕事の合間待ちをしてるところだ」
解雇されてから二週間後だった。新しい仕事は、まだ見つかっていないようだ。
「へえ。まあ、頑張ってください」
そう言うと、林はまた機嫌を損ねた。
「なんだよ。哀れだなとか、バカにしてるんだろ」
「そんなことありませんよ。それでは」
そう言って、俺はその場を離れた。林とは、もう二度と関わりたくないと思っていたし、長居は無用だった。
その後、我が社は林の会社との契約が継続されたことに加え、他からも大きな注文が入り、大忙しだった。社員たちの士気も高く、俺自身も楽しく仕事ができている。そして、翌年度からは待望の課長に昇進することができた。役職がついた以上、これからはより責任を持って、仕事に励んでいきたいと思う。



