「あなた様が私を背負ったあの夜から、私はあなた様と共に生きてきたのです。一族はあれを恩と呼びます。ですが私にとっては違います」 幼い命を背負って崩れる山を越えた女と、その背で育った男の子。十六年後、彼は一族の反対を押し切って、たった一言だけを伝えるために立ち上がった。 「私の命をつないだこの人足こそ、私にとっての家柄です」 #背負坂 #恩返しの物語 #これが愛の形

「あなた様が私を背負ったあの夜から、私はあなた様と共に生きてきたのです。一族はあれを恩と呼びます。ですが私にとっては違います」 幼い命を背負って崩れる山を越えた女と、その背で育った男の子。十六年後、彼は一族の反対を押し切って、たった一言だけを伝えるために立ち上がった。 「私の命をつないだこの人足こそ、私にとっての家柄です」 #背負坂 #恩返しの物語 #これが愛の形

「若様にはまだ思いございます。お返しくださいませ」
お冬がそう言うと、千松は籠を渡そうとせず真顔で言い返した。
「いつになれば持たせてくださるのです。あの夜のお冬様より、私はもうずっと応急になりました」

お冬は思わず言葉に詰まり、その背丈を見上げた。いつの間にか自分よりも頭一つ高くなっていた。
千松はなおも籠を抱えたまま、ぽつりと続けた。
「昔、お冬様が私を背負ってくださいました。今度は私が少しずつお返しいたします」

お冬はその言葉に何も返せず、ただ黙って頷いた。

千松が十二になると、また兵について山を登り下りしながら薬草の見極める術を身につけていった。どの薬草が豊作の年に根が上がるか、証人たちとの駆け合いの呼吸まで身似で覚えていった。

ある時、他国から来た薬問屋が千松の差し出した根を一目見て眉を潜めた。
「この根は色が薄いですが」
千松は慌てず答えた。
「この根は日陰で育ったもの。色は薄いですが、効き目はむしろ勝っております。お疑いなら先にお試しくださいませ」

薬問屋はその言葉通りに試し、驚いた顔で言い値の通りに買い取っていった。
「あの家の薬草は間違いがない」
証人たちの間でそう言われるほど、二人の暮らしは信用を得て少しずつ大きくなっていった。

そうして歳が流れ、千松が十六になる頃には、霧ヶ谷や近辺での暮らしぶりは以前にも劣らぬほど落ち着いたものになっていた。お冬と千松が二人で築き上げた信頼であった。

霧ヶ谷の人々はそんな二人を見るたび、いつも温かい顔で挨拶をかけてくれた。
「あの夫婦は誠に働き者だな」
「幼い頃二人で山を超えたという夫婦とはあの人たちのことだそうな」
二人の物語はいつしか霧ヶ谷の里に静かに広まっていた。

その頃にはおりんもまた、お冬を実の娘のように扱うようになっていた。戸棚仕事の合間、おりんはぽつりぽつりと若い頃の話を語って聞かせることがあり、お冬もまた遠慮がちに故郷の父母の話をするようになった。二人の間に流れる時間は、いつしか主従のものではなく家族のものへと変わっていた。

すると、久しく音信の絶えていた一族の親族たちが、一人また一人と姿を現し始めた。中衛門もまたその中の一人であった。彼らはまるで何事もなかったかのような笑顔で千松の元を訪れ、口を揃えてこう言った。
「我が家の総領もこれほど立派に育ったものだな。そろそろ家を再び起こさねばならぬのではないか」

中衛門は近隣の由緒ある家の娘と千松を縁付けようとした。
「総領には家柄に見合う妻がいる。幼い頃の言いつけとの縁など、本当の縁とは言えぬ」

おりんは初め、きっぱりとその話を拒み解けた。
「何を申される。あの子がおらなんだら、わしも千松も当にこの世におらぬ。あの娘のことをそのような物言いでお語りくださるな」

中衛門はその剣幕にひとまず引き下がったが、後日一人でおりんの元を訪れ、静かな声でこう続けた。
「お冬を妻として残せば、千松は一生、百姓に拾われたと現れましょう。それでも良いと申されるか」

おりんは何も言い返せなかった。中衛門はさらに言葉を継いだ。
「家が大きくなればなるほど、家柄を問う者も増えまする。いずれ千松様の足を引くのは、お冬どのの生まれかもしれませぬぞ」

これはすなわち、全ては千松のためであるという言い方であった。自分が耐えれば良い話なら、おりんは決して首を縦には振らなかったであろう。だが千松の将来という言葉だけが、少しずつ心を侵していった。

夜ごとおりんは繰り返し自問した。
「あの子のために、わしは何を選ぶべきなのか」

もはや市場の証人たちが千松の目利きを認め、由緒ある家からも縁談が舞い込んでいた。おりんはその評判を耳にするたび、心のどこかでこう思うようになっていった。
「お冬なら、あの子のためなら分かってくれる」

そしてついに、その最も卑怯な理屈で、おりんは自分を納得させてしまった。それこそがおりんの過ちであった。

ある夜、おりんはお冬をそっと呼び寄せた。
「わしの恩は決して忘れはせぬ。そなたがおらねば、わしも千松も当に死んでおったであろう。しかし千松は今や、家を背負ねばならぬ身の上だ。どうか静かにこの家を去ってはくれぬか」

おりんが差し出した包みは、驚くほど軽かった。三年余りこの家へ来てから重ねた月も、千松を背負った夜道の中で潰された手首も、その包みを受け取った瞬間、お冬の左手首だけがあの夜と同じように重く痛んだ。

お冬は何も言えなかった。
「千松を初めて追った日から今この瞬間まで、私は間違って生きてきたのだろうか」

お冬は心のうちで幾度も自問したが、たやすく答えは出てこなかった。ただ一つだけはっきりしていることがあった。悔いはない、ということだった。

けれども、お冬は千松の行末を塞ぎたくはなかった。
「あの子が総領として堂々と生きていけるのならば、自分が退く方が良いのかもしれぬ」

幾晩も眠れぬ夜を重ねた末、お冬はそう思い定めた。お冬は無言のまま荷物をまとめ始めた。千松が遠方へ薬草を売りに出かけている間に、お冬は静かに霧ヶ谷を去ろうとした。

ところが村を抜ける山道の入り口に差しかかった時、ちょうどまた兵衛と行き合った。また兵衛は杖をつき、その場に立っていた。
「どこへ行こうというのだ」
「私はもうこの家を去らねばなりませぬ」

また兵衛はしばらく無言でお冬を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「お前が去れば、あの夜何があったかを知る者まで黙ってしまうことになる」

その時であった。遠くから千松が走ってくるのが見えた。背負っていた籠を道端に放り出したまま、息を切らして駆けけてきたのであった。薬草を売りに出た帰り道、お冬が荷をまとめて去ったという知らせを聞き、すぐ後を追ってきたのであった。

「どちらへ参られるのでございますか」
千松の声には初めて切迫したものが滲んでいた。お冬は足を止めたが、振り返らなかった。
「若様はこれより、家を背負って堂々たる縁を求められませ。私めにそのような役目は御座いませぬ」

千松がお冬の前に立ち塞がった。そして懐から何かを取り出した。古びてすり切れたわらじが片方であった。
「これが何かお分かりでございますか」

お冬はそのわらじを見た瞬間、息が止まる思いがした。それはあの夜、山が崩れた瞬間に足から脱げ、谷底へと転がり落ちていった、まさにあのわらじであった。

「これはまた兵衛様があの崩れた山道から拾ってくださったものにございます。あの日以来、片時も懐から離さず持ち歩いておりました」

千松の声は震えていた。
「あなた様が私を背負ったあの夜から、私はあなた様と共に生きてきたのです。一族はあれを恩と呼びます。ですが私にとっては違います」

お冬はその言葉に、こらえていた涙をついに溢れさせた。しかしすぐに首を振って身を引いた。
「私めの心も決して違いはございませぬ。されど私め一人が思い添えたところで、叶うことではございませぬ。一族の方々の心はあまりに固い。このままでは若様の足を引くことになりましょう」

千松はしばらく無言のまま考え込んでいたが、やがて目差しが変わった。
「策がないわけではございませぬ」

千松はまた兵衛に向かって、低くしかしはっきりと己の思うところを語り始めた。
「長老様方は家の名誉を守るためと申します。ならばその名誉が何によって成り立つのか、村の皆様の前で確かめていただきましょう」

また兵衛はしばらく千松の顔を見つめていたが、やがて低く笑った。
「なるほど。隠して争えば、お前一人のわがままになる。皆の前で問えば、家そのものの問題になるというわけか」

お冬はしばらく黙って二人の顔を見比べていたが、やがて静かに頷いた。
「若様のお心のままに。ただし私めのことは、どうか事が済むまで表には出されませぬよう」

翌日、千松は中衛門の元を訪れ、思いがけぬことを申し出た。
「長老様のご遺向に従いましょう。ただしどうせ取り行うのであれば、先方のご一家と霧ヶ谷の村の者たち皆をお招きし、盛大に取り行うのはいかがでございましょうか。さすれば我が家が再び立ち直ったことを、世間に知らしめることができましょう」

中衛門の目が輝いた。長年失っていた家の威信を取り戻す絶好の機会と見たのであった。
「よかろう。家の再興を粗末に取り行うわけにはいくまい。先方にはわしから話をつけよう。きっと大祝いにして見せよう」

中衛門は意気揚々と、先方の家や霧ヶ谷の村中に触れを回らせた。祝言の日が近づくにつれ、中衛門の自慢はますます大きくなっていった。
「見よう、この家がいかに再び立ち直ったかを。この総領がこれほど立派に育ったのも、全てこの家の血筋があればこそよ」

ついに祝言の日を迎えた。空は高く晴れ渡り、屋敷の門には紅白の幕が張られていた。先方の一家の者たちと霧ヶ谷の村人たちが屋敷の庭に集まった。先方のあるじは隣国でも名の知れた旧家の当主で、娘可愛さにこの縁を渋々承知したという噂であった。伊之助をはじめとする一族の親族たちも、それぞれ身なりを整えてその場に並んだ。

中衛門は神座に腰を下ろし、満足げな顔で先方の主に向かい、家の由緒を語り始めた。
「我が家は昔より義と筋目を重んじてきた家柄でございます。総領の千松もその心を受け継ぎ…」

まさにその時、また兵衛が座から立ち上がり、前へと進み出た。
「わしから一つ、証言を申し上げたい。その義理と筋目を守ったのが、果たして誰であったか。この場で明らかにいたそう」

座がざわめいた。中衛門の顔から笑みが次第に消えていった。

「幾つか前、野党が欅沢村を襲ったあの夜、一族の方々は銘々家財と仏具を運び出すのに忙しく、病に臥せったお母様と五つになる子供を奥座敷にそのまま置き去りにした。そのお二人をただ一人、命をかけて救い出し、険しい山を超えさせたのは、他でもないこの場に今おらぬ、あの子の妻、お冬でございます。土砂が崩れ落ちるあの瞬間、あの娘は己の身よりも先に幼い夫の体を覆いました。わしが手を伸ばさねば、あの娘は一人あの土砂に飲まれていたでございましょう。このことはわしがこの両目でしかと見たこと。決して偽りではございませぬ」

まさにその時、千松が静かに座を立った。庭に集まった人々の目が一斉にその姿へ向いた。

千松は中衛門の前へと進み出ると、懐からあのすり切れたわらじを取り出し、それを中衛門の膝元にそっと置いた。
「長老様、幼い頃あなたは私に申しました。『家柄こそ我が家の根である。家柄こそ家を守るものだ』と。ですが私は今日、ここでこう申し上げます」

千松はそのわらじを差し示しながら、静かにしかしはっきりと続けた。
「私の命をつないだこの人足こそ、私にとっての家柄にございます。家柄には人の命の重みも記されておりませぬ。人を捨てて守った家柄が、一体何の家を残すのでございましょう」

庭は水を打ったように静まり返った。

「命の恩人を追い出し、その座に別の嫁を据えようとしていたと申すのか」
先方のあるじは低く冷ややかな声で問い詰めた。中衛門はその瞬間、言葉を失った。

「婿どのの家柄と家格は別のものであろう」
先方のあるじは席を立ちながら、きっぱりと言い放った。
「己の子の恩人を追い返すような家に、娘をやるわけには参らぬ」

あれほど趣向を凝らして整えた祝いの席で、中衛門が誇りたかったはずの家の再興は、またたく間に崩れ去った。伊之助は人々の間に身を隠すようにうつむいていた。あの夜、荷にすがった自分の姿がこの場の皆の前にさらされたようで、顔が熱くほてった。

中衛門はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。しばらくして、中衛門は力なく膝をついた。
「わしは若い頃、弟が大水に流された時も同じであった。先に家の荷を担ぎ、弟を助け損ねた。その罪を一生背負いながら、今日また同じ過ちを繰り返そうとしていたのだ。だからこそ、家のものだけは失うまいと、なおさら執着してきた。だが、それこそが弟を死なせたあの日から何も変わっておらなんだのだ」

その言葉に、庭は重い沈黙に包まれた。

千松はすぐさま人をやり、村外れのまた兵衛の小屋で待っていたお冬を呼びに走らせた。ことの次第を知らぬまま、お冬は息を切らして屋敷に現れた。集まった人々の視線が一斉にその小さな体へと向いた。

「この方こそ、私の妻でございます」
千松の言葉に、座は一斉に息を飲んだ。中衛門の目の縁が赤く滲んでいった。

おりんもまたその場に進み出て、これまでの非を詫び、お冬に向かって深く頭を下げた。
「家を取り戻したいという欲に囚われ、まさに我が家族を守り抜いてくれた者を追い出そうとしていた。わしが大きな過ちを犯した。わしはあの夜、人より物を選んだ者たちを責めた。それなのに今度は、千松の未来という名を借りて、人より家格を選ぼうとしていた」

おりんはその場で、一族から持ち込まれた縁談の文書を自らの手で引き裂いた。

中衛門もまた、しばらく頭を上げられずにいたが、やがて涙ぐみながら口を開いた。
「わしは長年、罪と体面ばかりを先に立て、誠に大切なものを見失っていた。恥ずかしい限りよ」

中衛門はその場でお冬の前に進み出て、頭を下げた。
「そなたに大きな無礼を働いた。どうかこの老いぼれの愚かさを許してくれぬか」

お冬は思いがけぬこのなりゆきに、身の置き所が分からなかった。
「旦那様がそのように仰いますと、私めはただ恐れ多いばかりでございます」

お冬の声は震えていたが、その目に浮かんだのは恨みではなく、長年張り詰めていた何かが解けていくような静かな安らぎであった。

おりんはお冬の手を取り、しわだらけの両手で包み込むように握りしめた。二人の間に言葉はもういらなかった。また兵衛もその傍らで、満ち足りた微笑みを浮かべて見守っていた。
「今日でようやく、この老いぼれが長らく抱えてきた胸のつかえを下ろせるのだな」

千松とお冬は、幼い日の契りをそのまま認められるだけでは終わらなかった。二人は村の人々の前で、今や大人となった自らの意志で、改めて祝言を取り行った。おりんも中衛門もまた、神座ではなく村人たちに混じって、その様子を静かに見守った。

祝言の日、千松はお冬を背に負い、霧ヶ谷の小さな坂道を登っていった。村の人々は道の両側に並び、花びらを撒きながら二人を祝福した。誰かが笛を吹き鳴らし、その音色に合わせて子供たちが手を叩いた。人々は笑いながら、今度は花嫁が歩く番であろうと囃したが、千松は最後までお冬を下ろそうとしなかった。

「ここの坂で、お冬様は四つの私めを背に負い、険しい山を超えてくださいました。あの夜、大きくなったら私めが背負って差し上げると誓いました。随分とお待たせいたしました。今日は私めが背負う番でございます」

お冬はその背の上でこらえきれず涙を流しながら、それでも微笑んだ。

祝言が終わった後、おりんはその夜、あの失われたわらじを模して、新しいわらじを自らの手で編み上げ、二人に送った。
「古い一足は命をつないだ証。この新しい一足は、これから二人で歩くためのものだ」

千松はそのわらじを長く大切に手元に置きおいたと伝えられている。

霧ヶ谷の人々は後に、その坂道を「背負坂」と呼ぶようになった。誰が呼び始めたともなく、いつしか村の誰もがその名で親しむようになっていた。

その後、二人は霧ヶ谷を離れず、旅人を助け、身寄りのない子を見れば手を差し伸べながら、穏やかに歳月を重ねていった。おりんもまた二人に見守られながら、静かな晩年を送った。

ある日、年を取った千松がいたずらっぽくお冬に背を向けた。
「今日も背負って差し上げましょうか」

お冬は笑いながら、その背をそっと叩いた。
「あの約束なら、もう十分に果たしていただいておりますよ」

二人の前には、かつて命がけで超えた山が、昔と変わらぬ姿で静かに横たわっていた。

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