インターホンを押したのは、私だった。白山家の3人が、古びたアパートの前に立っていた。高級車から降りた後も、誰も口を開かなかった。秋の夜風が、住宅街に吹き抜けていく。
ドアが開いた。作業服姿のまま、父が立っていた。私はその瞬間、膝が崩れ落ちそうになった。それでも、必死に言葉を絞り出した。
「長瀬さん、本当に申し訳ございませんでした。妻の言動は、全て私の責任です」
深く頭を下げた。夫も、息子も、隣で同じように頭を下げた。息子の蒼太が震える声で言った。
「マリさんに、本当に申し訳ありませんでした。もう一度だけ、お話しさせていただけませんか?」
だが、玄関の奥で、マリが静かに首を横に振るのが見えた。父はその視線を受け止め、淡々と告げた。
「娘はそう申しております。婚約のお話は結構です。今後は、お互い無関係にいきましょう」
私は顔を上げた。涙が滲んでいた。
「ですが、近郊の件はどうか…」
「それは純粋なビジネスの判断です。別で考えてください」
父は静かにドアを閉めた。私たち3人は、その場に立ち尽くした。夜の住宅街に、風だけが吹いていた。私の膝には、床の汚れが白く残っていた。あの夜、私はこの男を「底辺家族」と見下した。今夜は、その男の玄関の前で頭を下げている。これが、自分の結果だと、信は思った。
あの夜のことだ。遡ること数ヶ月。私は、息子の蒼太の婚約者を紹介されることになった。相手は長瀬マリ。作業服で工場勤めの男の娘だ。最初から、ろくな家柄ではないと思っていた。
「もう今日は、ご挨拶の席ですから」
私は上座に座り、マリを一瞥した。1万円台の安っぽいバッグ。作業服姿のままの父親。私は、その全てが気に入らなかった。
「長瀬さんのご家庭は、お母様はいらっしゃらないのですよね?」
マリは小さく頷いた。
「はい。10歳の時に亡くなりました」
「やはり。でしたら、環境的にも、措置が終わるかどうか、少し心配でして」
私は遠回しに、彼女の家柄をけなした。片親。作業服。工場。それが全て、私の判断の根拠だった。マリの指先が、わずかに震えているのに気づいた。それでも、私は畳み掛けた。
「蒼太には、相応しい家の娘をと考えておりました。マリさんも素敵な方なのでしょうが。家柄が…」
その時、マリの父、俊蔵が静かに口を開いた。
「お気持ちは分かります。質素な格好で参りましたことは、申し訳ありませんでした。しかし、マリは誰よりも誠実に育ちました」
私はその言葉を遮った。
「誠実さだけでは、家柄は保てませんのよ、長瀬さん」
場の空気が固まった。私は、蒼太に向かって言った。
「蒼太、あなたからも、きちんと話しなさい」
蒼太はうつむいたまま、絞り出すように言った。
「マリさん、ごめん。俺には無理だ。なかったことにさせてほしい」
その瞬間、マリの目から涙が溢れた。私は、心の中で、これで終わったと確信した。帰り際、マリの父が静かに頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。失礼いたします」
彼らが去った後、私は夫の信に言った。
「やっぱり、あの程度の家柄では、無理だったのよ」
信は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめていただけだった。
その日の夜、マリは父の胸で泣いた。作業服姿の父は、ただ静かに娘の背中を撫でていた。マリは思った。なぜ、父は何も反論しなかったのか、と。しかし、翌朝、マリの職場に1本の電話が入る。
「長瀬様、お客様がいらっしゃっています。長瀬ホールディングスの西田だと名乗っておられます」
マリは首をかしげた。聞いたこともない会社名だった。会議室に通されたのは、品のある中年男性だった。
「長瀬さんでいらっしゃいますか? 私は長瀬ホールディングス専務取締役の西田浩司と申します。会長・長瀬俊蔵のご息女を探しておりました」
マリは目を見開いた。
「会長? 私の父は、ただの工場の…」
「長瀬俊蔵会長のご息女様で間違いないですね」
西田は名刺を差し出した。裏面には、グループ会社の一覧が細かく並んでいた。製造、不動産、物流、金融、テクノロジー。社数は、75社。マリの手が震え始めた。
「これ、うちの父が本当に?」
「はい。会長から連絡をいただきました。娘が大変な思いをしたと。そして、対応の指示をいただきました」
西田は続けた。
「長瀬ホールディングスは現在、国内75社を傘下に持ちます。年商は4. 5兆円。グループ総預金残高は約3兆1400億円です」
マリは、その言葉を飲み込めずにいた。あの作業服の父が、3兆円を動かす人間? 毎朝、崩れた卵焼きを弁当箱に詰めて、謝っていた父が? マリは、その日の仕事が終わると、急いでアパートへ戻った。台所から出汁の匂いがする。父が、エプロン姿で夕食の準備をしていた。
「お父さん、教えて。長瀬ホールディングスって、何?」
俊蔵は手を止め、静かに振り返った。
「知ってしまったか」
「どういうこと? なんで言ってくれなかったの?」
父は火を止め、椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、口を開いた。
「俺は、お前が生まれた頃から会社を持っていた。最初は小さかったが、少しずつ大きくなった。だが、お前にとって俺は、作業服の父親だった。違うか?」
マリは黙って聞いていた。
「お前には、お金持ちの娘として見られるのではなく、お前という人間を愛してくれる人に出会ってほしかったんだ。だから、会社のことは誰にも言わなかった」
マリは俯き、涙をこらえた。あの優しい手が、何千人もの社員を束ねる会長の手だったとは。でも、蒼太のことは、ちゃんと見て選んだつもりだった。父は続けた。
「お前を責めているわけではない。ただ、お前が傷ついた。それだけは許せない。俺はお前を守るために動く。それだけだ」
その夜、俊蔵は1本の電話をかけた。西田に、銀行への対応を指示した。
「手続きは、今週中に方針を決める。任せる」
翌朝、朝銀行本店に1本の電話が入った。
「長瀬ホールディングス会長、長瀬俊蔵と申します」
受付担当者の手が止まった。その電話は、すぐに取締役会長・白山信の元へ回された。信は、役員会の最中に報告を受け、顔色を変えた。長瀬グループは、朝銀行の預金残高で最上位に位置する取引先だ。法人口座だけで、3000億円を超える預金がある。
「今すぐ時間を作れ。午後2時で調整しろ」
信は急いでグループ全体の取引残高を調べさせた。総預金残高8兆2000億円のうち、3兆円以上が動けば、自己資本比率は4%を割り込み、金融庁の監督対象になる。信の背中に、冷たい汗が滲んだ。
午後2時、信は大会議室で待った。入ってきたのは、作業服姿の男だった。信は一瞬、間違いかと思った。しかし、横には専務の西田が続き、背後に社員が数人いた。作業服の男が信の前に立った。
「長瀬俊蔵です。お時間をいただき、ありがとうございます」
信は立ち上がって握手をした。その手が、わずかに震えていた。俊蔵は着席し、静かに口を開いた。
「取締役会長に申し上げます。全グループの全口座、3兆円を他行へ移させていただきます」
会議室が完全に静まり返った。信は耳を疑った。3兆円。朝銀行の総預金残高の、約38%に相当する額だ。
「もう一度、おっしゃっていただけますか?」
「ご存知のはずです。あの夜、何があったか、お忘れですか?」
信の口が動かなかった。俊蔵は続けた。
「我々も、大変残念に思っております。ですが、あの夜、会長のご息女が、ご家族に侮辱されました。私は、娘を守りたい。ただ、それだけです。手続きは来週に完了させます。よろしくお願いします」
俊蔵は静かに立ち上がり、出口へ向かった。信は呼び止める言葉を失っていた。西田が、最後に振り返って言った。
「残念ですが、会長の意思は固いです」
会議室の空気が、ゆっくりと冷えていった。その日の午後3時、朝銀行の株価が急落し始めた。大口預金引き上げの情報が、市場関係者の間に流れていた。夕方のニュースには、経営不安説の報道が流れた。
翌朝、緊急取締役会が招集された。
「長瀬ホールディングス様から、正式に解約通知が届きました。グループ全口座、3兆1400億円分です」
役員たちの顔から、血の気が引いた。株価はすでに前日比で18%下落していた。信は、全てを悟った。全部、あの夜が原因だったのか。妻がしたことの、本当の重さを。あの夜、「底辺家族」と吐き捨てた妻の言葉が、朝銀行を奈落に突き落としたのだ。
その日の夕方、信は自宅に戻ると、妻を呼んだ。
「あのな、お前は昨夜、あの人に何を言ったのか、分かっているか?」
信は、長瀬俊蔵の名刺をテーブルに置いた。
「それが、どういうことなの?」
「長瀬ホールディングスの創業者会長だ。グループ年商、4. 5兆円だ」
あのの顔が、みるみる青ざめていった。
「お前が『底辺』と言った男が、うちの最大取引先の会長だ。お前のせいで、銀行が傾くかもしれない」
「そ、そんな、知らなかったのよ!」
「知らなかったでは、済まない。お前がしたことの結果だ」
蒼太も、壁に手をつき、震えていた。
「俺も、マリさんに酷いことをした」
3人は、沈黙した。リビングに、重い空気が漂った。信は、コートを手に取った。
「謝りに行く。今夜のうちに」
その夜、白山家の3人は、長瀬家のアパートへ向かった。そして、冒頭の場面に戻る。ドアが閉まり、3人は立ち尽くした。1週間後、信は取締役を辞任した。記者会見では「一身上の都合」と述べた。金融関係者は、全員理由を知っていた。蒼太は、銀行で部署移動の内示を受けた。事実上の左遷だった。蒼太は1ヶ月後、自ら退職した。数ヶ月後、小さな会社の総務職に就いた。華やかな銀行員の日々とは、全く違う環境だった。しかし、蒼太はそこで、普通の社会人になれた気がした。
「俺は、今まで何も見えていなかったんだな」
あの野は、夫の辞任後、友人からの連絡が途絶えていった。「底辺家族とはお付き合いできません」と言った女が、孤立していった。
一方、長瀬ホールディングスは健在だった。移転先の各行は、長瀬グループを最優遇顧客に位置づけた。マリは、会社に出勤し続けた。父が会長だと知っても、日常は何も変わらなかった。
それから半年が経った、ある穏やかな朝。マリと俊蔵は、食卓でお茶を飲んでいた。マリには、最近、付き合っている人がいた。職場の同僚が紹介してくれた男性で、誠実で温かな人だった。
「お父さんが作業服で育ててくれたんですね。かっこいいな」
蒼太には、一度も言ってもらえなかった言葉だった。マリは少しずつ、前を向き始めていた。
「お父さん、どうしてずっと作業服なの?」
「会社が大きくなっても、俺は現場が1番好きだったから。社長だろうと会長だろうと、物づくりの現場は同じだ」
マリは、温かいお茶を両手で包みながら、父を見た。
「かっこいいね、お父さん」
「そう言ってくれるのは、お前だけだよ」
2人は笑った。朝の光が、食卓を柔らかく照らしていた。その日も、長瀬俊蔵は作業服で工場へ向かった。家の前には、父を見送る娘の笑顔があった。



