「ねえ、高とさん、変なことを聞くけど、あなたお姉さんの婚約者を横取りしたなんてことないわよね」
職場の隣の席の先輩が、コーヒーカップを置きながら小声でそう言った。先輩は実はサロンの常連客で、姉のサラが撒いた噂をそのまま私にぶつけてきたのだ。
私は黙って携帯の画面を開いた。保存しておいたあの家族トークの画像。日付ごと全部見てもらった。私からは何も言わない。ただ残っているものが全部です。
画面には、姉の書いた言葉があった。「無職なんて絶対無理。みおにはああいう貧乏男がお似合いよ。代わりにトモがせれば岩佐さんに角も立たないじゃない」
先輩は画面と私を三度見比べて、それから長い息を吐いた。「ごめん。聞いた私がバカだったわ」
噂の流れが変わるのに時間はかからなかった。作り話は記録の前では長持ちできない。後で聞けば、先輩はサロンの常連仲間にも見たままを話してくれたらしい。悲劇の主役の座を下ろされた姉は、予約表の空白でそれを思い知ったはずだ。
そんな九月の初め、母から一通のメッセージが届いた。「最後に一度だけ家族で話がしたい。お母さんたちも反省しているの」
島本先生に相談の上、私は一度だけ応じることにした。終わらせるためには終わりの場所がいる。
「行かなくてもいいんだぞ」と、レンジさんは私のブラウスの襟を直しながら言った。
「行くわ。逃げるためじゃなくて、閉めるために行くの。決算と同じよ」
「なるほど。じゃあうちの経理は無敵だ」
約束の場所は駅前の喫茶店にした。実家の茶室はあの人たちの土俵になる。人の目のある場所で、記録の残る昼間に。それも島本先生の助言だった。
店の前までレンジさんが送ってくれた。「終わったら電話をくれ。三十分で来られる場所にいる」
「大丈夫。でもありがとう。それだけで百人力だわ」
店に入ると両親はもう来ていた。父はよそ行きの上着を着て、母は手土産の紙袋まで下げてきたらしい。テーブルの上にはカステラが一つ置かれていた。
「みよ、よく来てくれたわね」と母が目じりを下げた。父は咳払いをして、頭を下げる真似のように顎を引いた。
「その、なんた。今回のことは悪かった。父さんたちもやり方がまずかったと思っとる」
やり方がまずかった。中身ではなく、やり方が。最初の一言でこの謝罪の底が見えた。
「ばあちゃんの金のことも、保証のことも、悪気があったわけじゃないんだ。家族だから、つい甘えが出た。そうだろ、母さん」
「そうよ。水に流しましょうね。親子じゃないの。昔のことをいつまでも言ってたら前に進めないわ」
昔のこと。数ヶ月前まで続いていた流用が、あの人たちの中ではもう昔のことになっていた。私が黙っていると、父は身を乗り出した。本題が来るのだと、背中の丸め方で分かった。
「それでな、みよ。会社のことなんだが、東王さんの取引の件、あれをもう一度レンジ君に考え直してもらえんか。このままだと銀行の融資も止まる。白石建設はお前の生まれた家の会社だぞ」
横から母が口を挟んだ。「お願いよ。頼むわ。それからサラのこともね、どこかのグループ会社で雇ってもらえないかしら。ほら、あの子、サロンが大変な時期でしょ。受付でも何でもいいのよ。逃亡の名刺が持てれば」
謝罪の席は三分で要求の席になった。母は思い出したように手を叩いた。「それとね、お正月に親戚の集まりがあるでしょ。今度はレンジさんと二人で顔を出してちょうだいな。みんなに紹介したいのよ。うちの娘婿は東王の会長ですって。おばさんたち、腰を抜かすわよ」
うっと語る横顔は本気で楽しそうだった。娘を身代わりに差し出した円談が、いつの間にか自慢の種になっている。私は運ばれてきたコーヒーに口をつけずに言った。
「お父さん、お母さん。今日は謝ってくれるんじゃなかったの?」
「謝るだろう。だからこうして」
「ながら、お金の話しかしてないのよ。さっきから、二人が同時に口を突くんだもの。私に会いたかったんじゃなくて、東王の会長夫人に会いたかったのね。私を娘として必要としているんじゃなくて、便利な口として利用したいだけ。今日、それがよくわかりました」
「何を生意気な」
「千五百万円は、おばあちゃんが私にくれたお金です。返してもらえます。保証も、私は判を押していません。争います。全部、弁護士の島本先生を通してください。私に直接連絡するのは、もう終わりです」
「みよ、あなた、親に向かって」
母の声が裏返った。私は一度だけ深く息を吸った。三十二年分の言葉の、最後の一つを言うために。
「お母さん。私はもう、我慢できる子をやめます」
「え?」
「『我慢できる子』って、褒め言葉じゃなかった。文句を言わない子、都合のいい子、何をしても怒らない子。そういう意味だったのよね。長く務めました。今日でやめます」
母は口を半開きにしたまま、何も言わなかった。
「これからは姉さんだけを家族として大切にしてください。得意でしょ? それは。私は、私を大切にしてくれる人と行きます」
伝票を取って席を立った。カステラはテーブルに残したままにした。
「待ちなさい、みよ」
呼び止める声に、もう足は止まらなかった。レジで支払いを済ませて店を出ると、外で姉が待っていた。腕を組んで、ヒールの先で地面を叩いていた。両親から聞いて駆けつけたらしい。
「ちょっとあんた、本当に訴える気? 家族を訴えるかどうかは、これからの行動次第よ。返すものを返してくれれば、裁判まではいらない」
「その言い方が偉そうだっていうのよ」
姉は一歩詰め寄って、それから急に声を猫撫で声に変えた。昔からこの切り替えだけは天才的だった。
「ねえ、みよ。あんたがレンジさんと離婚すれば、全部元に戻るのよ。そうすれば私が改めてあの人と一緒になって、お父さんの会社も私のサロンも、全部丸く収まるじゃない。昔から言ってるでしょ。あの人と釣り合うのは私の方だって」
本気で言っているのだった。この期に及んで、本気で。私は笑いも怒りもせずに、ただ事実を置いた。
「姉さん。あの人はね、『代わりならいらない』って言った人よ。私だから結婚したの。私が消えても、姉さんの番は来ない」
「あ、う。嘘よ。あんたが泣いて頼んだんでしょ」
「どうせ信じたくなければそれでもいいわ。事実は変わらないから」
姉の唇が動きかけて止まった。
「それにね、姉さんが失ったのは、私が奪ったものじゃない。自分で価値がないと決めて、自分で捨てたものよ。『無職なんて絶対無理』ってあの日書いたのは、姉さんでしょ」
姉の顔から猫撫で声の続きが消えた。
「私、あんたの真似した顔が昔から大嫌いだったのよ」
「知ってる。私も姉さんのその顔は苦手だった。でもね、姉さん。嫌いな人の持ち物を欲しがるのは、もうやめた方がいい。三度目はないから」
言い返せない姉に、私は最後の一つを足した。
「レジだと思って捨てたクジが、当たりだった。悔しかったわね。でも、もう戻らない。当たりも外れも」
私はそれだけ言って、向かいの車に乗った。窓の外で何か叫んでいる姉が、街の雑踏に小さくなっていく。振り返らなかった。振り返る理由が、もう一つもなかった。
車の中からレンジさんに電話をかけると、ワンコールで出た。
「終わったわ。全部言えた」
「そうか。よく頑張った。今夜は好きなものを作る。リクエストは?」
「肉じゃが、味の保証付きで」
電話の向こうであの人が笑う気配がした。それだけで、目の縁が赤くなった。
数週間後、島本先生から報告があった。鑑定の結果と刑事告訴の可能性を弁護士名義で示したところ、銀行は保証について私への請求を撤回する方向で調整に入り、父は千五百万円の返還に応じる意向を示したという。返す原資を作るために、ご自宅を売却するそうです。先生は書類をめくりながら付け加えた。
「あなたが生まれ育った家ですが、構いません」
「即決できた。あの家に、私のものはもう何ひとつ残っていない」
それから一年が経った。白石の家のその後は、風の噂と弁護士だよりで聞いた。父の会社は架空請求と書類の偽造が取引先や金融機関にも知られ、新規の融資を断られるようになったという。抜かれた金の行き先は、結局姉のサロンの穴埋めとあの家の暮らしだったと聞く。事業を縮小した末に同業の会社へ安価で譲られ、父は社長の椅子を失ったそうだ。自宅は売却され、千五百万円は約束通り返還された。祖母と私名義の通帳も、島本先生を通して手元に戻った。保証についても、銀行は私への請求を取り下げる形で決着したと聞いている。
父と母は古い賃貸アパートで暮らしているらしい。母からは何度か「生活費だけでも送って欲しい」という手紙が来たが、全て島本先生を通して、同じ返事だけを返している。姉のサロンは資金の流れが止まった半年後に閉店した。ブランドの鞄も手放したが、店の借金は残ったという。今は隣町の美容室で、雇われの美容師として一から働いているそうだ。「いずれ自分が会長夫人になる」という姉の話を当て込んで近づいていた交際相手は、閉店と同時に消えたと聞いた。
毒だとは思わない。姉は今、生まれて初めて自分の稼ぎだけで立っている。それは姉の人生で一番健全な日々かもしれなかった。
そして私はといえば、会社を円満に退職して小さな事務所を開いた。個人商店や町工場の帳簿を支える、経理代行の事務所だ。元手は祖母が残してくれた千五百万円。あの金は今度こそ、祖母の願い通りの場所で働いている。レンジさんは開業資金を出すと言ったけれど、断った。代わりに紹介してもらったのは、税理士の先生と中古の事務机。
「会長夫人だから成功するんじゃない。みよだから、自分の力で成功できる。俺はそれを知っているだけだ」
その言葉の方が、どんな小切手より効いた。夜ごと机で試算の計画を書き直す私に、あの人は茶だけ入れて口は出さなかった。開業の日には、岩佐さんが胡蝶蘭を抱えて現れた。私を会社から送り出してくれた元部長は、今も取引先を紹介してくれる。
「ちさとも喜んどるよ。あんたのばあ様は、ちゃんと見る目があった」
岩佐さんの一言に、返事の代わりに目頭を抑えた。事務所の棚には、祖母の小さな写真を飾ってある。仕事に迷った日は、しわだらけの笑顔と目を合わせてから帳簿を開く。「あんたは働き者だね」。あの声は今も、私の帳簿の一行目にいる。
顧客は少しずつ増えている。レンジさんは相変わらず忙しく、それでも週の半分は家で夕食を取る。会長の椅子より縁側の座布団が似合うのも、相変わらずだ。帳簿をつける暇もなかった豆腐屋のご主人が、初めての決算書を眺めて「うちの数字は綺麗だな」と笑ってくれた。あの家で否定され続けた私の努力が、今は誰かの役に立っている。
ある夜、仕事を終えて事務所の鍵を閉めると、通りの向こうに見慣れた黒塗りの車が止まっていた。運転手さんが降りてきて、あの夜と同じように深く頭を下げる。
「奥様、お迎えに上がりました」
「ありがとう」と、私は笑って小さく首を振った。「奥様」という呼び方への、ささやかな抗議だ。「今日はね、会長夫人じゃなくて、みよとして帰ります」
後部座席にはレンジさんがいて、法蓮の包みを掲げてみせた。
「今夜は肉じゃがにした。味は保証しない」
いつものセリフに、いつものように笑う。
「お疲れ様。今日はどんな一日だった?」
「忙しかった。でも、自分で選んだ仕事だから、楽しいわ」
姉の代わりにと決められた時、私はまた家族の犠牲になるのだと思っていた。けれど、あの結婚は、私が生まれて初めて自分で選び直した人生だった。レジだと思って捨てられた私も、無職だと見下された夫も、その本当の姿をあの家族は誰ひとり見ていなかった。
「無職の男と地味な妹はお似合いだ」と姉は言った。ええ。本当にお似合いだったみたい。姉さんの見立てで唯一当たっていたのは、そこだけよ。
幸せは肩書きや高級品の中にはなかった。私を大切にしてくれる人と、自分で選んだ人生を歩いていくこと。それが私が手に入れた一番の財産だ。これからもこの人の隣で、私の帳簿に、自分で選んだ日々を一行ずつ書き足していきたい。



