マイクを通して響いた侮辱的な一言が、結婚式の華やかな会場を一瞬で凍りつかせた。
「中卒の英語聞かせろ。」
高志が口元を歪めて笑う。姉の年子の新しい夫だ。ざわめく列席者たちの視線が私に集中するのを感じた。居心地は最悪だった。しかし私は決して席を立たなかった。ここで感情のまま動けば、思う壺になる。今日は年子の結婚式。私が守るべきは自分自身の面目ではない。
アメリカの大学教授だけど、今は黙っておくか。
心の中でそう呟き、呼吸を整えた。私の名前は須藤法子。45歳。病気を乗り越え、養子を迎え、やっと掴んだ穏やかな日々だった。姉の再婚相手は、私の過去を知った上で、こうやって目の前で笑っている。何が目的だ。
そして1時間後、事態は思いもよらない展開を迎えるのだった。
—
披露宴が終わり、控え室で一息ついた時だった。年子が青ざめた顔で私の元へ駆け寄ってきた。
「法子、ちょっと来て。」
通された部屋には、高志が腕を組んで立っていた。私を見る目は、さっきまでの嘲笑とはまるで違う。冷たく、値踏みするような目だった。
「単刀直入に言う。法子さんの弁護士資格、本当なのか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「どういう意味です?」
「調べたんだ。君が高校に行っていないことくらい、調べればすぐに分かる。弁護士になるには大学とロースクールを出て、司法試験に受からなきゃいけない。中卒の君にそれができるはずがないだろう?」
高志は勝ち誇ったように笑った。隣で年子が唇を噛んでいる。私が弁護士として働き始めてから、もう20年近い。その事実を疑う人間は、これまで誰一人いなかった。
「それは…」
言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。ここで真実を明かせば、最悪の事態になる。しかし黙っていても、この男は引かないだろう。年子が間に割って入った。
「高志さん、それは言い過ぎよ。法子はちゃんと…」
「黙れ。お前は妹をかばいたいのかもしれないが、これは大事な話だ。もし嘘だったら、これは詐欺罪になるんだぞ?」
高志の言葉に、部屋の空気がさらに重くなった。私は深く息を吸い、彼の目をまっすぐに見返した。
「高志さん。あなたは私の何を知っていますか?」
「知っているさ。15歳でガンになって、高校にも行けなかった。可哀想な妹だな。だが、それは弁護士になるための言い訳にはならん。」
私は静かに笑った。彼は何も分かっていない。
「ええ、確かに私は15歳で病気になり、高校には通えませんでした。でも、だからこそ、私は必死で勉強しました。入院中も、治療の合間も。そして、通信制で高校を卒業し、独学で大学卒業の資格を取り、司法試験に挑み続けたんです。合格するまでに、7年かかりました。」
高志の顔から笑みが消えた。
「何…だと?」
「私は中卒ではありません。ちゃんと教育を受け、弁護士として認められています。それを、あなたの思い込みと偏見で否定される筋合いはありません。」
私の口調は静かだったが、部屋の中に重く響いた。高志は言葉を失い、年子は安心したように涙を浮かべた。しかし、それで終わらないのがこの男だ。
「…ふん。仮にそうだとしても、だ。お前の姉は、俺が弁護士の仕事を継ぐにあたって、全面的に協力すると約束したんだ。お前が邪魔をするなら、俺は遠慮しないぞ。」
高志が年子を盾にするように言い放つ。年子は血の気が引いたように青ざめた。この男は、何か企んでいる。それを確信した瞬間、私の中で何かが固まった。
「年子、本当なの?」
年子はうつむき、小さく頷いた。彼女が高志の言葉に従っていたのは、娘のためだったのかもしれない。しかし、その決断が姉を苦しめていることは明白だった。私は高志を見据え、低い声で言った。
「あなたの企み、見抜いていますよ。私を貶めれば、姉の立場が弱まり、思い通りに動かせると思っているのでしょう?」
高志の顔が引きつる。
「…何を言う。証拠でもあるのか?」
「証拠なら、これからいくらでも集めます。あなたは今日、私に対して侮辱的な発言をしました。それは新郎であるあなたの立場をむしろ危うくする。私が黙っていれば済む問題だと、お思いですか?」
私はバッグからスマートフォンを取り出した。録音アプリの画面が光っている。高志の顔色が変わる。
「今の会話、全部記録しました。このデータをどう使うかは、あなた次第です。」
高志は歯を食いしばり、何か言いかけたが、言葉にならなかった。年子はただ呆然と私たちを見つめている。私はスマートフォンをしまい、立ち上がった。
「年子、今日は本当におめでとう。でも、姉さん。あなたはこの男と、ちゃんと話し合うべきよ。娘さんのために、幸せになれる相手を選んで。」
私は部屋を出ようとした。すると、後ろから高志の声が聞こえた。
「…待て。法子。お前、後悔することになるぞ。」
振り返らずに、私は一言だけ返した。
「その言葉、そっくりそのまま返しますよ。」
そして、私は控え室を後にした。高志の怒鳴り声がかすかに聞こえたが、私は振り返らなかった。この男が何を仕掛けてくるのかは分からない。しかし、私はもう15歳の頃の弱い自分ではない。守るべき家族のために、私は戦う。その決意を胸に、私は披露宴会場へと向かった。



