「今日からこの営業部に配属になった西条しのぶです。中卒で入社したので、気付けばもう20年が経ちました。よろしくお願いします。」
俺が軽く頭を下げると、パラパラと拍手が起こる。そんな中、一人の女性が声を上げた。
「私、T代で営業部長をやっている営業部長の祝いよ。中卒の部下を持つのは初めてだわ。」
俺は記憶を辿る。ああ、確か自称エリートで高飛車な女部長だと書かれていたっけ。俺は彼女を見つめ、小さく頭を下げた。
「祝い部長、ご指導のほどよろしくお願いします。」
「ふん。うちの会社の本社営業が中卒だなんて知れたら、会社の恥よ。まず高卒認定でも取ってから出直してきなさい。」
「高卒認定なんて取れるくらいなら、最初から高校へ行っていたよ。」
俺は心の中で毒づいた。とりあえず挨拶が終わると、自称エリートの祝いがまた話しかけてきた。
「中卒で本社勤務だなんて、誰にどう取り入ったのかしら?」
「別に誰にも取り入ってませんが。中卒の何がそんなに悪いんでしょう?」
「まず頭が悪いわ。どうせ論文の一つも書けないバカなんでしょう?」
そう言われると返す言葉がない。俺は確かに論文を書いた経験が一度もない。さらに言えば、論文って一体何なのかすらよく分かっていない状態である。
「西城君、こちらへ。」
滝本が小さな手招きをしながら俺を呼んでいる。俺は祝いに背を向けて滝本のところへ向かおうとすると、祝いの言葉が追いかけてきた。
「中卒の分際でいい気にならないことね。」
俺は中学を卒業して以来、自分の学歴について深く考えたことはなかった。愛着すらある。中卒のどこが悪いのか、全くもって分からなかった。T代って意味が分からないな、とまで考えていた。
滝本の向かいに落ち着くと、滝本がすみませんと言っていきなり頭を下げてきた。
「ちょっと滝本部長、どうして頭を下げてるんですか?」
俺には彼が何に対して申し訳ないと思っているのかが意味不明だった。
「先ほどの祝い君の発言です。まさか西城さんに向かってあんな暴言を吐くなんて。申し訳ありません。」
「俺、すごく気になっていることが一つあるんですが、聞いてもいいですか?」
滝本は頭を上げると「何でしょう」と俺の疑問に答えようとしてくれた。
「えっと、T大卒ってそんなにすごいんですかね?俺、中卒なんで大学の事情に詳しくないんですよ。」
「大卒にも色々います。本当に賢くて世間を騒がせている研究者などもいますし、卒業しただけで何の役にも立たない人もいます。」
「じゃあ、祝い部長はいわゆる頭でっかちというやつなんでしょうか。」
俺がそう言うと、滝本はパンと手を叩いて「そう、それです!」と我が意を得たりとばかりに顔を綻ばせた。
「それで、祝い部長は全社か校舎、どちらのT大卒業生なんでしょうか?」
「放射です。」
小声でそう言ったのは、祝いがどこで聞き耳を立てているか分からないからだろう。ふうん、と俺は思った。せっかくの高学歴なのに、その能力を発揮できずにいるのは実にもったいない。
「彼女は管理職ですよね。俺、今日一日だけ彼女の部下として働いてみてもいいですか?」
「正気ですか?学歴でけなされ続けますよ。」
「別に構いません。では、今日一日そういうことで。」
俺は与えられたデスクに落ち着くと、会社支給のラップトップを起動させ始めた。大半の営業部員が出払ってしまった部署内で、俺の存在は少しばかり目立つだろう。それこそ願ったり叶ったりだ。
「西城君、あなたここで何をしているの?」
「何って、メールチェックですが。」
「外に出なさい。営業は足を使って数字を取ってくるものよ。いくら本社所属の営業部員でも、営業の基本は変わらないのよ。」
「まだ名刺をもらってないんですよね。総務から明日になるってメールが入っています。確かうちの会社って、名刺なしでの外出は禁止でしたよね?」
「総務って使えないわね。ちょっとクレームをつけないといけないわ。」
祝いはそう言って、俺のデスクの電話を取り上げ、総務への内線番号を押した。
「はい、総務でございます。」
「営業部長の祝いです。付けで本社勤務になったの名刺、用意が遅くないかしら。」
「それは申し訳ございません。西城さんの本社勤務は急に決まったことでして、対応が遅れました。」
普通の移動であれば勤務初日に間に合うよう発注するのだが、今回はイレギュラーだったので遅くなっているということだった。だが、そこで祝いがまた切れる。
「人事部長につなぎなさい。全て人事が悪いんだわ。早くして。」
総務の女性は「少々お待ちください」と言って人事部につないでくれたが、俺はすでに呆れ始めていた。高が名刺のことで、総務どころか人事にまでクレームをつけようとするその神経が信じられない。はっきり言って時間の無駄だとも思う。
「人事部長です。」
「あなた、西条しのぶの人事移動の件、いつ知ったのかしら?」
「昨日ですよ。」
「嘘をついても無駄よ。彼の名刺が明日にならないとできてこないの。正直困っているのよ。あなたなんとかできない?」
この女、一体何を言っているのだろう。俺はT大の残念な一面をまざまざと見せつけられていた。名刺を何とかしろと総務に言うのはまだ分かる。しかし、人事に言うのは少々違うのではないだろうか。
「昨日知らせがあったと同時に、総務に名刺の手配を依頼しましたよ。昨日の今日で名刺ができるとでも思っているんですか?」
「あなたたちバックオフィスが機能していないから、西城は営業に出られないの。もしかしたら彼が今日、大口の契約を取るかもしれないのよ。これでは販売機会の損失だわ。」
祝いが怒鳴ると、ツーツーという音が聞こえてきた。おそらく相手にするのが馬鹿らしいと、人事部長がさっさと電話を切ったのだろう。
「人の話を最後まで聞かずに電話を切るなんて、バックオフィスの風紀もおけないわね。これも上への報告事項とするわ。」
「ちなみに、誰に報告するんですか?」
「決まっているわ。滝本部長よ。」
俺は本部長という仕事がいかに大変であるかの一端を見たような気がした。営業部員たちの日報をチェックするだけでも大仕事なのに、祝いのこんなつまらない記録を読まされるなんて気の毒すぎる。
それからも祝いの迷惑行為は続いた。俺のパソコンがプリンターに接続されていないと知るなり、ITにクレームをつけた。ITは急いで営業部に人を寄越し、俺のパソコンをプリンターにつないでくれた。筆記用具がないといえば、今度は庶務に連絡をし、筆記用具一式を運ばせる。俺としては大助かりなのだが、この祝いというエリート女部長、営業に関しての業務は何一つやっていなかった。
それから昼になり、俺は滝本に誘われて定食屋に入っていた。
「ドム人事、IT、庶務へのクレームを滝本部長にレポートするって、祝い部長が言ってましたよ。いつもこんな感じなんですか?」
俺がそう聞くと、滝本は頷いた。彼はとても沈鬱な表情を見せていた。
それから午後の業務が始まった。午前中に各部署へのクレームをまとめ上げたという祝いは、今度は俺の席へやってきた。
「あなた、今日の夜の予定は?」
まさか「社長と飲みに行きます」とも言えず、口ごもっていると、また自己中なことを言ってきた。
「歓迎会をやりますので、予定を開けておきなさい。これは部長命令よ。いいわね。」
それから午後の仕事を終え、俺は歓迎会を仕切ってくれる部長の顔を潰さないよう、午後6時に指定された居酒屋へ行った。ただし、一人ではない。俺には今日、戦友がいた。木下を連れて飲み会にやってきたのだ。居酒屋に入ったところで祝いの名を告げると、店員が個室に連れて行ってくれる。俺たちは大広間に通された。
会はすでに始まっているようで、室内から社員たちの喋り声が響いてきている。
「盛り上がっているようだね。」
木下はとても嬉しそうだ。普段、社員との飲み会には誘われないので、今日は美味しい酒が飲めそうだとニコニコしている。
俺が戸を開けると、シンと静まり返った。
「あ、どうも。えっと、一人飛び入りいいですかね?」
すると、上座に座っていた祝いが文句をつけてきた。
「予定外の人数の増員なのだ。文句を言われても、こればかりは仕方がない。」
すると、俺の合図を待たずして木下が宴会場に顔を出した。
「木下社長!」
これには本部長である滝本もびっくりしている。
「やあ、お邪魔するよ。今日はね、皆さんにお話があったのと、僕が西城君と約束していたので、同席させてもらうことになったんだ。」
木下はまず、みんなに話しておきたいことについて話すことにした。
「今日から営業部に配属になった西城君だがね、彼はずっと我が社のアメリカ支部で営業をやっていたんだよ。」
祝いの手から酒を注いでいたマドラーが落ちた。
「実は滝本部長が、取り締まり役に就任することになったので、公認の本部長として西城君を呼んだというわけだ。」
だが、そこで待ったをかけたのが祝いだった。
「先本部長の席が開くのであれば、私が本部長に昇進すべきでは?どうしてこんな中卒なんかに?」
すると、それまで黙っていた滝本がようやく言葉を発した。
「祝い君の気持ちが分からないでもない。高学歴の君のことだ。人一倍出世欲が強いことも知っている。だがね、私から言わせてもらえば、君は他部署へのクレームばかりを私にレポートし、肝心な営業に関しては何一つ報告されていない。そんな君に、私の公認を任せることはできないんだよ。」
祝いはそこで泣き崩れた。
「いつ、俺がお前の部下だと言った?」
俺は涙にくれる祝いの前に立ち、お絞りで顔を拭いて化粧がぐちゃぐちゃになった彼女を見下ろした。
「う、嘘よ。中卒なのにアメリカで働いていたですって。あなた、どこで英語を学んだというの?」
「英語なら、中学で習ったもので十分通じますよ。」
「適当なことは言わないで。どうせ大した営業成績じゃなかったんでしょう。」
この質問には木下が答えてくれた。
「心配には及びませんよ。祝井さん。彼はアメリカで常に営業成績はトップでしたから。」
「信じない。信じないわ。中卒の分際で生意気な。」
今日一日を通して、どうして新規契約が取れないかについてネックになっているのは、祝いの存在だということが分かった。彼女が他部署にばかり目を光らせているから、営業部員たちが商談に行き詰まってもアドバイスを与えられず、契約成立までこぎつけられないのだ。これは滝本が指摘していたことで、俺も今日一日、祝いに張り付いてみて分かったことだった。
「明日から、俺もみんなの営業に同行させてもらいます。」
そうして縁もゆかりもなくなった頃、祝いが俺の席に来て、「飲みませんか」とビールを進めてきた。だが、その瞬間、頭からジョッキに入ったビールがかけられ、俺は何が起きているのか分からずに目をパチクリさせることしかできなかった。
「中卒の本部長ですって?ばらしくてついていけないわ。」
祝いはそう言い捨てて、一人で宴会場を出ていった。
翌日、午前10時。すでに始業時刻を過ぎているのに、祝いはどころか出社してこない。
「困りましたね。」
「ええ、本当に。無断で遅刻などをする人じゃないはずなんですが。」
俺と滝本は今、業務の引き継ぎを行っている。長きに渡って部長職についていた祝いには、部長を降りてもらうことにした。代わりに誰かを部長にすることはせず、当分の間、俺が本部長と部長を兼任することにした。
「酒や二日酔いになるほど飲んではいなかったようですが。」
俺は、どうせ中卒の俺が上司になることが気に入らないのだろうと思った。それならそれで構わない。学歴ばかりを振りかざしてエリート面される方が、よっぽど迷惑だ。
俺たちが再び引き継ぎを行おうとすると、バイク便の業者が到着した。営業社員が応対して、祝い宛ての書類を持ってきてくれる。書類の中身は、なんと祝いからの退職届だった。白い封筒の封を開けると、分厚い便箋が入っている。外から見ただけでは何が書いてあるのかまでは分からないが、長々とした文章が書かれているであろうことは理解できた。
滝本は中身を読まずに封をした。
「どうするんですか?それ。」
「人事に回しますよ。我々は彼女の茶番に付き合うほど暇ではありませんから。」
滝本は社内便の箱を取り出すと、「人事部長殿」と宛先を書き、退職届を封筒に入れて社内便のボックスへと放り込んだ。
それから三ヶ月が経過した。俺は営業本部長兼部長として、時に営業社員に同行し、時に新規契約を求めて飛び込み営業をしながら、なんとか数字を作りつつあった。やはり、数字が伸びない原因は祝いにあった。皆と親しくなるにつれ、彼女のボロが後から後から湧いて出てきた。
営業社員が相談してもアドバイスをもらえず、契約がまとまりそうな時に同行してくれることもなく、営業社員は深刻なモチベーションの低下に見舞われていたという。これ以上、祝いに縛られていてはこの営業部は本当に潰れてしまうとまで思い詰めている社員もいたらしい。
不を醸し出していた祝いといえば、なんとT代の大学院に通うようになったとか。今度はどこの会社であの高学歴自慢をするのか見物だな、と俺は思った。
それからしばらく経った、ある日の夜のこと。俺は木下と二週間に一度ぐらいの頻度で飲みに行くようになっていた。よりによって滝本が合流することもある。
「祝い君がいなくなってから、数字が伸び始めるなんて、面白いことだね。」
新規契約の数字がここ数ヶ月のうちに少しずつ伸びてきている。俺が何かをしたというよりは、営業社員それぞれが頑張っている証拠だ。これは謙遜でも何でもなく、少し風通しを良くすれば、数字は面白いように変化することがある。
「それでも、君が営業部を率いるようになった効果は大きい。二十年前、君を入社させた私の目は間違っていなかったようだ。」
「社長あっての社員ですよ。」
俺がそう言えば、木下は笑って「君は上手だね」と杯を傾けるのだった。



