ベッドの下で、私は息子の声を聞いた。
「母さんの財産を全部奪うんだ」
剣一の声だった。信じられなかった。暗闇の中で息を殺し、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
「でも、お母さん気づかないかしら」ユナの不安そうな声。
「大丈夫だって。母さんは信用組合の給料なんて大したことないと思ってるから」剣一が笑いながら言う。その言葉に、全身の血が凍るようだった。
「37年も働いてるのよ。退職金だけでも相当あるはずよ」
「だからこそだよ。全部俺たちが管理するって言って、少しずつ名義変更していけばいい」
ベッドの下から見える2人の足。その間で交わされる会話が、私の人生を一瞬で壊していく。
震える手を必死に抑えながら、私はただ身を潜めることしかできなかった。
これが、私が37年間心を込めて育てた息子の本心なのか。
涙が頬を伝い、暗闇に溶けていく。なぜこんなことに? 私は何を間違えたのだろう?
思い返せば、剣一のために私は全てを捧げてきた。夫・高弘の給料だけでは不安で、25歳で信用組合に就職した。幼い剣一が「母さん、僕のために仕事頑張ってるんだね」と言ってくれた日のことを覚えている。大学までの教育費1200万円。マイホーム購入時の頭金800万円。毎日朝5時に起きて、8時間の家事をこなしながら、仕事も休まず続けてきた。
3年前、剣一が結婚した時、私は心から喜んだ。一緒に暮らそうと言ってくれた時も、ユナが最初は優しかった時も、私は幸せだった。でも、いつからだろう? ユナの態度が変わり始めたのは、通帳の場所を聞かれたり、給料を尋ねられたりするようになってから。違和感を覚えながらも、私は若い人の考え方だと思い込もうとしていた。
「あの家も売れば軽く3000万は超えるわね」
「父さんの年金も入るし、完璧だろ」
「母さん、最近もの忘れも多いし、ちょうどいいタイミングだ」
「認知症のふりをさせて、成年後見人になればいいのよね」
その瞬間、私の全てが止まった。認知症のふりをさせて、後見人になる。つまり、私を利用して合法的に財産を奪おうというのだ。
37年間、休むことなく働いてきた私を。息子の幸せだけを願って生きてきた私を。
ベッドの下で、私は声を殺して泣いた。こんなに苦しい思いをしたのは人生で初めてだった。でも、泣いている場合じゃない。冷静にならなければ。
2人の足音が遠ざかるのを確認して、ようやくベッドの下から這い出した。時計は深夜2時を指していた。震える手でリビングに向かうと、高弘がまだ起きていた。
「みさ子、どうした? 顔色が悪いぞ」
「あなたに話があるの。静かに、誰にも聞こえないように」
ソファに座り、私は全てを話した。ベッドの下で聞いた剣一とユナの計画。認知症のふりをさせるという、あまりにも卑劣な手口。
高弘の顔がみるみる青ざめ、怒りに震え始めた。
「あいつ…俺の息子が…みさ子をそんな風に…」
握りしめた拳が白くなっている。
「怒鳴っても仕方ないの」私は夫の手を取った。「冷静に対処しましょう。感情的になったら負けてしまうわ」
37年間、信用組合で働いてきた経験が、今ばかりは役に立つかもしれない。
翌朝、私は銀行に向かった。窓口で係員に伝票を渡す。
「この通帳を解約したいのですが」
係員が驚いた顔をする。
「こちら、ご本人名義の定期預金ですが…」
「はい。全て下ろします」
震える手で記入した金額は、私が37年間積み上げてきた退職金の全額。そして私は、ある人物に電話をかけた。
「もしもし、司法書士の先生ですか? 遺言書の作成をお願いしたいのですが」
剣一がこの知らせを聞いたのは、数日後のことだった。
「母さん、何をしたんだ? 通帳から金が下ろされてるって、ユナが…」
「あなたたち、昨夜ベッドの下で話してたでしょ」
剣一の顔色が一瞬で変わった。ユナも青ざめて、言葉を失っている。
「私はね、剣一。あなたのために37年間働いてきた。でも、それはあなたに裏切られるために働いてきたんじゃない」
机の上に、遺言書の控えを置いた。
「この家も、私の財産も、全てあなたのものになると思ってたんでしょ? 残念だったわね。あなたたちが私を『認知症のふりをさせて』奪おうとしたように、私も合法的にあなたたちから全てを取り上げることにしたの」
剣一が悲鳴を上げるように叫ぶ。
「そんなの間違ってる! 親の財産は子供のものだろ!」
「間違ってるのはあなたの方よ。私はあなたに、人を騙すような人間に育てた覚えはない」
その日の夕方、剣一とユナは家を出ていった。私はソファに座り、高弘が淹れてくれたお茶を飲んでいた。
「辛かったろう。みさ子」
「ええ。でも…ちょっとすっきりしたわ」
涙が一粒、頬を伝った。でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
こうして私は、38歳で独り立ちをやり直すことになった。息子との縁を切り、17年かけて築いた家を売り、身軽になって小さなマンションに移り住んだ。ある日、新しい部屋の掃除をしていた時、段ボールの奥から古いアルバムを見つけた。剣一の小さな頃の写真だ。運動会で一等賞になった時の笑顔。中学の卒業式の写真。結婚式で、私が泣きながら祝福した日の写真。
私はアルバムを閉じ、目を閉じた。
そして、そのアルバムをゴミ袋に入れた。
「さようなら、剣一」
小さく呟いて、袋を捨てに出た。私はもう、涙は流さなかった。



