高級料亭の静寂を、あの言葉が引き裂いた。
「貧乏人がいると食事がまずくなるのよ。帰って。」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。目の前で笑っているのは、ママ友であり、元村組のヤクザの娘でもある霧谷直子さん。普段からママ友たちに高圧的な態度で接し、誰も逆らえない存在だ。
今日は久しぶりに父と二人で過ごす貴重な夜だった。夫が娘を家で見てくれている。父はいつも忙しいけれど、今日だけは穏やかな笑顔を見せてくれて、柔らかな照明の下で特別な時間が流れていた。
そこへ突然、酔った直子さん夫妻が現れた。
「あら、ゆいさん、久しぶり。こんな場所で会うなんて。」
彼女の声には嫌な棘があった。私はできるだけ平静を装い、短く会話を済ませようとした。
「直子さん、こんばんは。こちらこそ偶然ですね。」
すると直子さんはわざとらしく店内を見回し、嫌味な笑みを浮かべた。
「ここ、結構お高いんじゃない?あんたみたいな身分で来る場所かしら?」
私が言葉を失っていると、彼女はさらに続けた。
「こういうお店はね、お客さんの品格で決まるのよ。貧乏人がいると料理までまずくなるの。だから帰ってちょうだい。」
周りの視線が一斉にこちらを向いた。恥ずかしさと怒りで顔が熱くなる。でも何より父の隣で、この場を穏便に終わらせたかった。
「直子さん、さすがに言い過ぎです…」
ところが、それまで黙って聞いていた父がゆっくりと口を開いた。
「直子さん、でしたか。」
その声は静かだが、妙に重みがあった。直子さんが鼻で笑う。
「何よ、おじさん。娘の教育がなってないんじゃない?」
父は表情を変えず、そっと言った。
「わたくしは日渡り組の早朝と申します。そしてこちらは私の娘、ゆいです。」
その瞬間、空気が凍りついた。
直子さんの顔から血の気が引いていくのを見た。彼女の夫も同じように青ざめ、膝が震えている。
「日渡り組…って、あの…」
直子さんは何か言葉を絞り出そうとするが、上手く声にならない。
「お前は何をしてくれたんだ?」
彼女の夫が必死に父に謝罪を始めた。
「申し訳ありません!妻が大変失礼を…!本当に申し訳ありません!」
直子さんもようやく動き出し、必死に頭を下げた。
「わ、私が悪かったです。お許しください…!」
私は呆然とその光景を見ていた。私を侮辱した高飛車な直子さんが、今や恐怖で震えている。
父は静かに立ち上がり、直子さんに視線を向けた。
「私の娘に謝られたのは、今ので十分です。ただし、この言葉は忘れませんよ。」
直子さんは何度も何度も頭を下げ続けた。
「本当に申し訳ありませんでした…!」
父は何も言わず、私の手を取って立ち上がった。
「ゆい、もう行こう。」
私は頷き、彼女に一瞥もくれずに料亭を後にした。外に出ると、冷たい夜風が火照った頬に心地よかった。
「父さん…」
「何も言わなくていい。ああいう人間は、どこにでもいる。」
父の声は穏やかだったが、その瞳には鋭い光があった。
その夜、帰宅すると夫と娘が待っていてくれた。娘は「じいじ、また会える?」と無邪気に聞いた。父は優しく笑って「ああ、いつでも」と答えた。
しかし、その笑顔の裏で何かが動き始めたことを、私はすぐには知らなかった。数日後、父が直子さんの家に何らかの処遇を下したと噂を聞いた。
それ以来、直子さんはママ友の輪から姿を消した。
父はただ言った。
「ゆいを悲しませる者は、誰であろうと許せない。」
私はその言葉を胸に、今日も普通の日々を大切に生きている。
たとえ、気づかないところで誰かの人生がそっと変わっていたとしても。



