失礼ですが、お仕事は何をされているんですか?
ホテルの最上階にある料亭の個室。目の前に座る女性は背筋を伸ばしたまま、まっすぐに俺を見ていた。育ちの良さが滲む、静かで綺麗な声だった。俺は湯呑みを置いて答えた。
「清掃員です。日雇いの。貯金もありません。」
部屋の空気が止まった。仲人が席を外した直後のことだ。俺は畳みかけるように続けた。
「家も持っていません。将来を約束できるものは何もないです。」
これで終わる。この手の話をすれば、どんな縁談も必ず終わる。やっと解放される。俺は内心でそうつぶやきながら、頭を下げる支度をしていた。だが、顔を上げた時、彼女は困った顔をしていなかった。それどころか、席の終わりにはどこか嬉しそうに微笑んで、こう言ったのだ。
「次はいつ会えますか?」
壊すつもりで座ったお見合いの席。この日の出来事が、止まっていた俺の時間を動かすことになるなんて。この時の俺はまだ思ってもいなかった。
俺の名前は真野ハルト。35歳。清掃と設備管理の会社を経営している。社名は株式会社真野総合メンテナンス。社員とパートを合わせて400人余り。契約先は首都圏を中心に病院やホテル、商業施設などおよそ90か所ある。人からは社長と呼ばれる身分だ。それでも俺は今も週の半分は作業服を着て現場で床を磨いている。住まいは会社の近くのマンションに1人。家族はいない。恋人もいない。趣味を聞かれると答えに困る。強いて言えば床磨きだが、それはもう仕事だ。つまり俺はこの4年、仕事だけをして生きてきた。
そんな俺がなぜ日雇いと名乗ってお見合いの席に座っていたのか。それを話すにはまず、俺という人間のこれまでを話さなければならない。
俺の朝は早い。5時半に起きて6時には現場に入る。開店前のショッピングモール、始業前のオフィスビル、外来が始まる前の病院の廊下。世の中がまだ眠っている時間に、俺たちの仕事は静かに動いている。夜明け前のオフィスビルには独特の匂いがある。ワックスと乾いたモップと、換気の止まった空気の匂いだ。俺はこの匂いの中で機械の音を聞いていると、一番気持ちが落ち着く。役員室の椅子より、現場の脚立の上の方がよほど座り心地がいい。
専務の関口にはよく言われる。
「社長、あんたはもう現場に出なくていいんですよ。決済の書類が机に山になってます。」
関口は俺より12歳上の47歳。創業の頃からの相棒だ。無骨な体に厳つい顔。口は悪いが、この男ほど汚れに正直な人間を俺は知らない。
「午前だけだ。午後は帰る。」
「そう言って先週は夕方までポリッシャーを回してたでしょうが。」
「あれは若手の研修だ。」
「はいはい。」
それでも俺は現場を離れない。取材や新入りの社員に理由を聞かれる度、俺は決まってこう答えてきた。
「汚れた場所を綺麗にする仕事は、人の心を守る仕事でもあるんです。」
綺麗に聞こえるかもしれない。だが、俺にとってこれは綺麗事ではなく、体で覚えた実感だった。
俺は母子家庭で育った。父は俺が4歳の時に病気で死んだというが、顔もよく覚えていない。母は学校とオフィスビルの清掃パートを掛け持ちして、女手一つで俺を育ててくれた。母の1日は長かった。朝は小学校の廊下を磨き、昼から夕方まではビルの清掃に回り、夜は近所の飲食店の閉店後の掃除まで請け負っていた。帰ってくると、いつも指の関節が赤く割れていた。冬になると絆創膏の数が増えた。それでも母は俺の弁当だけは毎朝欠かさなかった。卵焼きの端が少し焦げた、四角い弁当箱の味。俺は今でも覚えている。
母はいつも古いタオルを腰に巻いていた。埃を拭くためのものだ。そのタオルは擦り切れて、色が薄くなって、でも母は決して新しいものに替えなかった。
「まだ使えるからね。」
そう言って笑う母の顔を、俺は何度も見てきた。貧しかった。けど、悲しくはなかった。母が隣にいてくれたから。
高校を卒業する時、俺は進学を諦めた。母にこれ以上負担をかけたくなかったからだ。俺がそう言うと、母は泣いた。初めて、母の泣き顔を見た。
「ごめんね。ごめんね、ハルト。」
母は何度も謝った。高校を出させてやれなかったことを、自分が不甲斐ないことを。俺は母に言った。
「大丈夫。俺、ちゃんと働くから。母ちゃんを楽させてやるから。」
それから俺は、設備管理の会社に就職した。最初は掃除と雑務ばかりだったが、ここで俺は思い知った。汚れた場所が綺麗になると、人が笑顔になる。病院の廊下が光れば、患者さんが「ありがとう」と言ってくれる。駅のトイレを磨けば、通りかかった人が足を止めて頭を下げる。掃除は仕事ではない。誰かの心を守る仕事だった。
母は俺が24の時に亡くなった。急な病気だった。最後に会った時、母はベッドの上で俺の顔を見て、弱々しく笑って言った。
「ハルト、お前はええ子に育った。母ちゃん、幸せやった。」
それが母の最期の言葉だった。
葬式を終えた後、俺は泣いた。誰もいない自宅で、声を上げて泣いた。それから、泣くのをやめた。もう誰も俺のことを待ってくれる人はいない。そう思ったら、何のために生きているのか分からなくなった。仕事だけが、俺を生かしていた。
24歳で会社を辞めて、小さな清掃会社を立ち上げた。同業者の人に叱られたこともある。先輩からは「掃除で食っていくのは無理だ」と言われた。でも俺は信じていた。誰もやらない仕事を、誰よりも上手くやれば、必ず仕事になる。そう信じて、朝から晩まで床を磨いた。
最初は1人だった。それが2人になり、10人になり、今では400人を超えている。会社は大きくなった。でも、俺の中にはいつも母の姿があった。擦り切れたタオルを巻いて、指を割りながら、それでも笑っていた母の姿が。
だから俺は今も現場に立つ。これは俺の生き方であり、母からの遺産だ。
そんな俺が、なぜ日雇いと名乗ってお見合いの席に座っていたのか。それは、もういっそ誰かと人生を共有することを諦めていたからだ。寂しかった。4年間、1人で帰るマンションの夜が、心をすり減らしていた。でも、会社を継いでくれる人もいない。家族を作る時間も作れずに、気づけば35歳。仲人が持ってきた相手を、最初から断ってもよかった。でも、少しだけ迷った末に、俺はこんな手段を取った。相手に最初から「価値がない」と思わせて、向こうから断らせる。そうすれば、傷つくのは俺だけで済む。
そう思って、俺は日雇いの清掃員だと嘘をついた。貯金もないと言った。家もないと言った。それで終わらせるつもりだった。
なのに、あの女性は笑ってこう言った。
「私、清掃のお仕事に憧れてるんです。世の中の誰も気づかない場所を綺麗にしている人がいるからこそ、みんなが気持ちよく過ごせる。素敵な仕事だと思います。」
俺は何も言えなかった。喉の奥が塞がったみたいに。
「それに、お金も家もなくたって、いいじゃないですか。私にはあるので。一緒になれば問題ないですよね?」
彼女はそう言って、くすっと笑った。屈託のない笑顔だった。俺はこの何年かで初めて、誰かとご飯を食べたいと思った。
お見合いの帰り道、俺は彼女からLINEが来ていた。
「また会えますように。おやすみなさい。」
その日から、俺たちは会うようになった。仕事終わりの遅い時間に、コンビニの前で待ち合わせて、缶コーヒーを飲みながら少し話す。高級な店には行けない。でも、それでよかった。彼女はいつも楽しそうに笑った。俺の話を聞いて、目を輝かせた。
「ハルトさんの仕事の話、もっと聞きたいです。」
彼女はそう言う。俺は現場で起きたことだけを話した。誰も気づかないような汚れを落とした話。床が光って、店長さんに泣かれた話。そういう話をすると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「私が好きなのは、そういうハルトさんのところです。」
初めて言われた。自分の存在をまるごと肯定してもらえた気がした。
だが、ある日、彼女の父が俺の会社に来た。突然だった。応接室に通された彼女の父は、表情を変えずに言った。
「あなたの会社を調べさせてもらった。資本金、取引先、従業員数。全部知っている。まさか、あの嘘の中に真実が混ざっているとはな。日雇いではなく社長さんか。言ってしまえば、詐欺だな。」
俺は言葉を失った。確かに、俺は嘘をついた。日雇いだと言った。だが、真実を伝える瞬間をずっと探していたのも事実だった。彼女に嫌われるのが怖かった。会社を継ぐ者としてのあるべき姿を、自分で捨ててしまったのが怖かった。
「娘とは会わせられない。もし会いたいなら、会社をたたむことだ。そして、二度と娘に近づくな。」
そう言い残して、彼女の父は去った。
俺はその晩、一晩中考えた。会社をたたむ? 400人の従業員とその家族を路頭に迷わせるのか? 母が残してくれた、この大切なものを捨てろと? それは俺にはできなかった。でも、彼女とももう会えないかと思うと、胸が引き裂かれるようだった。
結局、俺は何も決められないまま、日々をやり過ごした。返信できないLINEが積もっていく。彼女からの「会えませんか?」というメッセージにも、既読を付けないまま放置していた。
そうして、1か月が過ぎたある日。会社の受付に、1人の女性が立っていた。
「ハルトさん。」
俺は顔を上げた。そこにいたのは、いつものスーツ姿の彼女ではなく、俺の会社のパートの制服を着た彼女だった。
「父に言われて、反対されたわ。でも、会社を辞めて、ここで働こうと思った。」
俺は呆然とした。
「何を言ってるんだ。お前がそんなことをする必要は…。」
「必要あるんです。」
彼女はまっすぐに俺を見て言った。
「私、あなたの会社は、あなたの仕事は、誰よりも素敵だと思う。あなたの人柄も。何も見えないふりして、捨てるなんてできない。」
俺はその場で立ち尽くした。彼女がここにいる意味。それがどれほどの重みを持っているのか。考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
「私が会社を継ぐ家柄だから、あなたの会社を潰せば丸く収まると思ったみたい。でも、それは間違い。」
彼女はそう言って笑った。あの日、お見合いの席で見せた、あの屈託のない笑顔だった。
「私、あなたの人生を諦めない。あなたがいくら私を遠ざけても、絶対にこんなところで折れない。」
俺は何も言えなかった。ただ、目の前の彼女が、こんなにも強い人だったことに、ただただ驚いていた。
「もう、嘘はやめにしよう。」
俺は言った。
「本当のことを話す。全部。これまでのことも、会社のことも。ただ、お前が望むなら、この会社を守るために、俺はどんなことでもする。」
彼女は頷いた。
「なら、私の父にも、ちゃんと話してほしい。あなたの言葉で。あなたの仕事が、どんなに大切なものか。私は、あなたと一緒にそれを伝えたい。」
その言葉に、俺の中の何かがほどけていくのを感じた。
そして、翌週。俺は初めて彼女の実家を訪れた。挨拶をして、応接室に通された。彼女の父は、無言で俺を見つめていた。
「会社をたたむ話は、断らせてもらいます。俺の社員を路頭に迷わせるわけにはいかない。」
そう言った時、彼女の父は何も言わなかった。ただ、俺の目をじっと見つめていた。
「そして、俺はあなたの娘さんと結婚したい。」
彼女の父は、しばらく沈黙した後、低い声で言った。
「娘が決めたことなら、反対はしない。」
そう言ったのだ。
もう一度言う。
娘が決めたことなら、反対はしない。
俺は、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。その横で、彼女が泣きながら笑っていた。
今、俺たちは結婚した。
彼女は今、俺の会社の総務部で働いている。俺はこれからも現場に立つ。彼女が言った言葉を、忘れないからだ。
「汚れた場所を綺麗にする人がいるから、世界はちゃんと回っているんです。」
俺は、母から受け継いだこの仕事を、これからも続けていく。今度は1人じゃない。隣に、彼女がいる。
あのお見合いの席で、日雇いだと嘘をついたことを、俺は一度も後悔していない。あの嘘があったからこそ、俺は本当の自分を見せずに愛されることの意味を知った。
そして、今度は嘘を全部やめて、ありのままの自分で生きていく。それが、俺が彼女にできる、唯一の恩返しだと思っている。



