地下3階の廊下の蛍光灯は、いつも2本ほど切れている。誰も交換を急がない。ここまで降りてくる人間が、ほとんどいないからだ。俺はカルテの束を抱え、肩で扉を押した。診断支援室と書かれたプレートは、5年前から少し傾いたまま。部屋の中はコーヒーと古い紙の匂いが混ざり、窓はない。あるのは換気口から漏れる、地上のわずかな気配だけだ。俺はデスクに腰を下ろし、最初のカルテを開いた。
40代男性。吐き気。不快感。心電図の波形に、ほんのわずかな歪みを見つけた。普通なら見逃す。俺は赤ペンで印をつけ、「精査を推奨」と書いた。電話をかけ、担当医に直接伝える。
「相馬です。さっきの症例ですが、念のため検査を入れた方がいい。安静にしていても落ちる可能性があります」
向こうは少し黙ってから「分かりました」と答えた。受話器を置くと、自分の指先がかすかに冷たいことに気づく。この部屋にいると、季節が分からなくなる。
俺の名前は相馬。45歳。診断支援室の室長だ。立派に聞こえるが、室員は俺一人しかいない。要するに、地下に追いやられた医者ということだ。10年前、俺は日本最年少で心臓外科部長になった。新聞にも載った。病院の玄関には、俺の手術成績を誇らしげに書いたパンフレットが置かれていた。
それが消えたのは5年前の冬。ある製薬会社との契約書に、俺はサインをしなかった。データの一部に目をつぶれと言われたからだ。たった1行の数字。だがその1行で死ぬ患者がいる。俺は左遷された。表向きは「研究に専念するため」。実際は、誰の目にも触れない場所に放り込まれたということだ。
机の上の電話がまた鳴った。受話器の向こうで、若い女の声がした。
「あの……診断支援室の相馬先生でしょうか。研修医の一之瀬と申します」
「はい」
「先生にお願いがあって。今、お時間よろしいですか?」
声には迷いがあった。
「私の担当患者で、判断に迷っている症例があります。心電図の所見が教科書通りに当てはまらなくて。先輩方に相談したのですが、『よくある所見だから心配ない』と言われて。でも、私はどうしても気になっていて……」
「データを持ってきてください」
「いいんですか? 地下まで」
「ここしか、俺の仕事場はないので」
10分後、扉が控えめにノックされた。入ってきたのは、白い襟をきちんと立てた、背の小さな女性だった。年は20代後半か。胸の名札には「研修医 一之瀬」とある。彼女は両手でUSBメモリを持ち、深く頭を下げた。
「お忙しいところ、すみません」
「忙しくはないですよ。座ってください」
俺は彼女の持ってきたデータをモニターに映した。62歳女性。軽度の心雑音を指摘されて受診。心電図、血液検査、どれもパッと見は問題ない範囲に収まっている。だが1分、2分と画像を送るうちに、俺の指が止まった。左心室の動きが、ほんのわずかに非対称だ。そして僧帽弁の後ろに、数秒の遅れがある。
「この患者さん、最近、階段で少しだけ息切れがあった。それと1度、台所で立ちくらみがあったそうです。本人は貧血だろうと」
俺はカーソルを心電図に戻し、1点を指した。
「ここ。ほんの少しだけ波形の形が違う日がある。古いカルテはありますか?」
「3年前のものなら……」
彼女が慌ててタブレットを操作する。俺は2枚を並べ、しばらく見比べた。
「左室心筋症の初期だと思います。それも、閉塞性に進む可能性が高いタイプ。ホルター心電図と、できれば心臓MRIをかけてください。突然死のリスクもあるかもしれない」
一之瀬の顔が強張った。
「突然死……ですか?」
「ただの心雑音として見過ごされていたかもしれない。だが、この波形の歪みは、教科書には載っていない形で現れている。あなたが見逃さなかったのは、正しい」
彼女は少しの間、モニターを見つめていた。そして、小さな声で言った。
「……先生は、どうしてあの部屋にいるんですか?」
俺は、コーヒーの冷めたカップを見下ろした。答えは決まっている。だが口にするたびに、同じ痛みが蘇る。
「サインをしなかっただけだ」
その言葉に、一之瀬は何も言わなかった。ただ、机の上に置かれたカルテが、風もないのに、かすかに揺れた気がした。



