離婚届を出した翌日、私のスマホが震え続けていた。画面には元義父からの不在着信が58件、元義母からが42件。合計100件の着信が、昨日までの夫だった男の土を伝えていた。
時間を少しだけ巻き戻す。
「離婚しましょう。今すぐに」
私はそう言い放った。夫は自分の裏切りをどれだけ私に責められても、一度だけの謝罪を繰り返し、泣きながら私の足元にすがりついた。その姿に最後の情も消え、私は最終通告を突きつけた。
「分かったわ。慰謝料も財産分与も全部放棄する。だから今すぐサインして」
その言葉を聞いた瞬間、夫の動きが止まった。まだ涙で濡れた顔のまま、彼は離婚届をひったくると、震える手で自分の名前を書き殴った。金銭的な負担がなくなると知るや、あっさりと関係を捨て去ったのだ。
こうして私たちの結婚生活は、あっけなく終わった。
そう、終わったはずだったのに。なぜ元義家からこんなに連絡が来るのだろうか。
私の名前は小笠原萌子。元夫の塔のひ夢と出会ったのは、私が30歳を過ぎた頃だった。結婚相談所の紹介、いわゆるお見合いという形で私たちは結婚した。当時、外資系コンサルティングファームで管理職として働く私は、仕事に追われる毎日を送っていた。プライベートを充実させたいという思いが強くなり、結婚に踏み切ったのである。
仲介人から紹介されたひ夢のプロフィールは輝かしいものだった。国立大学を卒業後、大手企業に務めるエリート会社員だと。しかし、その経歴が真っ赤な嘘だと知ったのは、入籍してしばらく経ってからのことだ。実際にはひ夢は高校卒業後、定職につかず、アルバイトを点々としていた。仲介人も彼の両親も、完全に私を騙していたのである。
「ごめん、萌子。ずっと言い出せなくて」
「そう。まあ、今更言われても困るけど」
ひ夢の収入は当然ながらスズメの涙ほどであった。そのため、新居の家賃や光熱費、食費といった生活費の全てを私の収入で担うことになった。それだけではない。ひ夢の両親への仕送り。その額は家賃として月々25万円にも及んだ。これも全て私が負担するしかなかった。
私たちの結婚生活は、名ばかりのものだった。ひ夢は昼間から家でゴロゴロし、夜になると友達と飲みに行く。私が疲れ果てて帰宅すると、彼はソファでスマホをいじりながら、こう言うのだ。
「今日は何のご飯? 外で適当に買ってきてくれない?」
私は何も言わず、コンビニでお弁当を買って帰った。何度も言い合いになった。でも、ひ夢は自分の非を認めようとしなかった。
「お前が働けばいいだろう。俺は働く気がないんだ」
ある日、私は彼のスマホの画面を見てしまった。女性とのやり取り。それは紛れもない浮気の証拠だった。私は震える手でその画面をスクリーンショットし、彼の前に突きつけた。
「これは何?」
ひ夢は一瞬固まったが、すぐに開き直った。
「ただの友達だよ。仕事の相談をしてたんだ」
「仕事? あなた、仕事してないでしょ」
その言葉に、彼は逆上した。
「お前には関係ないだろ! 俺の人生だ!」
私はその場で何も言えなかった。涙が出てきた。自分の選んだ道が間違っていたのかも。そう思いながらも、私は離婚する勇気を持てなかった。
でも、ある日。私は決定的な出来事を目の当たりにした。ひ夢が、私が働いている間に、他の女性とこの家で会っていたのだ。私の服のクローゼットを開けて、自分のもののように見せびらかしていた。その光景を見た瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。
「出て行って」
私は静かに言った。
「何言ってるんだよ。ここは俺の家だろ」
「私が払ってるんだ。出て行って」
その日、私は離婚届を準備した。そして、翌日。彼にその紙を突きつけた。彼は泣きわめいて謝ったけど、私はもう信じられなかった。
「慰謝料も財産分与もいらない。だから、サインして」
そう言った瞬間、彼の態度が変わった。涙も止まり、彼はスムーズにサインした。そして、何の未練もなく家を出ていった。
離婚は成立した。私は自由になった。そう思ってた。
でも、その直後から知らない電話番号からの着信が増えた。最初は無視していた。でも、件数が異常だった。元義父から58件、元義母から42件。何度もかけてくる。留守電には、こう入っていた。
「萌子ちゃん、出てくれ。今すぐ連絡してくれ。大事な話があるんだ」
何の用だろう。もう全て終わったはずなのに。
私は留守電を聞きながら、嫌な予感がした。彼らの何か、金銭に関わる話に違いない。ひ夢の借金や迷惑な話、そういうものが今頃になって舞い込んでくるんだろう。
思い切って、私は折り返し電話をかけた。
「もしもし」
「ああ、萌子ちゃん! ようやく出てくれた!」
元義父の声は、意外なほど明るかった。
「何の用ですか? もう離婚したんですけど」
「いや、だからさ。お前、息子の借金、全部知ってるだろ? 俺たちはてっきりお前が払ってくれると思ってたんだがな」
その言葉に、私は凍りついた。借金? 私は全く知らない。
「何の借金ですか? 私は何も聞いてない」
「何だって? ひ夢が言ってたぞ。お前が全部払うって。約束したって」
「そんな約束、してません」
「じゃあ、誰が払うんだ? 俺たちには払えないぞ。50万もあるんだ。今すぐなんとかしろ」
私は受話器を握る手が震えた。
「もう離婚した身です。関係ありません」
「関係ない? ふざけるな! お前の名字だったんだろ! 責任を取れ!」
その言葉に、私は何も言えなかった。ただ、怒りと悔しさでいっぱいだった。私は理不尽な思いをしながら、電話を切った。
でも、これで終わらないことは分かっていた。元義家は、きっとまた連絡してくる。もしかしたら、直接来るかもしれない。私は警察に相談するべきか、弁護士を雇うべきか。
そう考えていると、また電話が鳴った。画面には、また元義父の名前。
私は深く息を吸って、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「おい、お前。今すぐ来い。離婚した事を考えるな。こっちは困ってるんだ」
「あなたとは関係ありません。もう電話しないでください」
「お前が来なければ、こっちにも考えがあるぞ」
その言葉に、私は戦慄した。何をされるのか分からない。でも、もう逃げたくない。私は自分の人生を、自分で守る覚悟を決めた。
「どうぞご自由に。私はあなたたちの言いなりにはなりません」
そう言って、私は電話を切った。
その夜、私は隣の部屋に住む友人に頼んで、しばらく家に入れてもらうことにした。そして、次の日。私は弁護士のオフィスを訪れた。
「元夫家族からの執拗な連絡と、金銭要求について相談したいんです」
私は、全てを話した。弁護士は、冷静に耳を傾けてくれた。
「法的には、あなたに支払義務はありません。相手がストーカー行為を続けるなら、警告書を送付することもできます」
私は安堵した。そして、決意を新たにした。
「もう、誰にも支配されない」
私はそう心の中で誓った。これから先、何が起ころうとも、私は二度と彼らに負けない。その思いで、新しい一歩を踏み出す準備を始めた。
結局、元義家は私に何もできなかった。弁護士からの警告書が届いた後、彼らからの連絡はぱったりと止んだ。私はこれから、自分のためだけに生きる。そう決めた。



