「マリナさん、いつも本当にありがとうね。感謝しているわ。」
そう言う義母の声は、どこまでも穏やかだった。けれど、その直後、私は顔面蒼白になり、パジャマを放り出して逃げ出していた。まるで、そのパジャマが何かを隠していたかのように。
その日は、いつもと変わらぬ介護の一日だった。ネタ切れの義母、あ子さんの部屋へ入り、床に脱ぎ捨てられたパジャマを拾い上げた私は、淡々と洗濯の準備を進めていた。
「咲夜は汗をかいたから、新しいのに着替えたんだよ。」
そう言う義母の声には、少しだけ力がなかったけれど、確かにいつもの日常の一部だった。
しかし、次の瞬間、あまりにも異常な何かが私の手を襲う。ちくりという痛み、血がにじむ指先。恐怖で手を止めた私は、パジャマを慎重に広げた。
そこにあったものを見た瞬間、全身の血が逆流するような錯覚に襲われた。そして、私は無意識のうちに洗面所から逃げ出していたのだ。あのパジャマの中には、一体何が仕込まれていたのか。
私の名前は沼たマリナ。夫のミルと出会ったのは、今から4年ほど前のことである。友人が開いてくれた食事会で、彼は熱っぽく自身の夢を語っていた。
「俺の料理で、たくさんの人を幸せにしたい。いつか自分の店を持つのが夢なんだ。」
料理人としての成功を夢見る彼の瞳は希望に満ち溢れていて、とても魅力的だった。その純粋な情熱に強く引かれた私は、彼との交際を始め、1年後に結婚したのだ。
結婚してすぐ、ミルは長年勤めていた会社をやめるという大きな決断を下す。彼の夢であるイタリアンレストランを開業するためだった。
しかし、自己資金だけでは到底足りず、私も自分の貯金を全て切り崩した。さらには、私の両親も老後の資金を貸してくれることになったのである。
「マリナが信じた男だ。家族みんなで応援しよう。」
父はそう言って、ミルの手を固く握ってくれた。たくさんの人の思いを背負い、ミルの店は町の一角にオープンした。
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。レストランの経営がようやく軌道に乗り始めた頃、義母のあ子さんが脳梗塞で倒れたのである。
幸いにも命だけは助かったが、体には後遺症が残り、寝たきりの生活を強いられることになった。
「面倒を見てくれないか。」
ミルにそう頼まれた時、私は迷わず「もちろん」と答えた。病気の義母を放っておくなんて、考えられなかった。
しかし、その決断が、私の人生を少しずつ蝕んでいくことになるとは、その時は全く気づいていなかった。
介護生活が始まってから、私はレストランの手伝いをやめ、義母の世話に専念することになった。毎日、食事の準備、入浴の介助、着替えの手伝い、その繰り返し。
「マリナさん、本当にありがとうね。」
義母はいつもそう言って感謝してくれた。その言葉が、私の支えだった。
ところがある日、私は義母の部屋で見てはいけないものを見てしまう。
「それ、私の古いパジャマよ。咲夜が着替えて、床に置きっぱなしにしていたの。」
そう言って義母は笑った。けれど、私はそのパジャマの中に、見覚えのないものを見つけてしまった。
それは、夫のミルが使っているはずの香水の香りがする、女性の下着だった。
「これ、何? 」
私がそれを手に取ると、義母の顔色が一瞬で変わった。
「それは私のよ。間違えて洗濯物に混ぜたのかしら。」
そう言って、あわてて下着を取り上げた。でも、その言い訳は明らかにおかしかった。義母は動けなくて、自分で洗濯物をいじることなんてできないはずだから。
その日から、私はミルの行動が気になり始めた。レストランの仕事が忙しいと言って、帰りが遅くなる日が増えた。スマホを手離さず、メッセージのやり取りをしていることもあった。
「最近、遅いね。何かあったの? 」
私がそう聞くと、ミルは「仕事の準備でね。大丈夫だよ」と、にこやかに答えた。けれど、その目は少し泳いでいた。
疑念は募るばかりだった。ある夜、私はミルのスマホを見てしまった。そこには、見知らぬ女性との甘いメッセージが並んでいた。
「俺の店で働いてくれないか? 一緒にやろう。」
「あこ、君に会えて本当に良かった。ずっと君を探してたんだ。」
そのメッセージの主は、あこさん… 義母の介護のために私が雇った女性だった。
私はその場で全てを理解した。ミルは私を裏切っていた。しかも、自分の母親の介護をしている私の目の前で、あこさんを店に連れ込み、私をないがしろにしていたのだ。
「あんた、何やってるの!?

」
怒りに震える私に、ミルは言った。
「あこはお前と違って、俺の夢を理解してくれる。お前は母親の世話ばかりして、俺のことに興味を失ってたじゃないか。」
その言葉は、刃のように私の胸を刺した。私はこれまで、義母を介護しながら、ミルの店を支えるために尽くしてきたのに。
そして、事件は起きた。あの日、私は義母の部屋で、あのパジャマを見つけた。それは、あこさんのものだった。なぜなら、私があこさんに貸したものだったから。
「マリナさん、あのパジャマ… 実はあこさんが、ここに来た時に着替えたのよ。あの子、汗をかきやすいみたいでね。」
義母の声は穏やかだったが、私は言葉を失った。義母は、知っていたのだ。そして、あのパジャマの中には、あこさんの下着が隠されていた。
「どうやら、あなたも気づいたみたいね。」
義母は、ただ淡々と言った。彼女は私の苦しみを知りながら、何も言わなかった。むしろ、私は全てを暴かれるのを恐れて逃げ出してしまった。
それから数日、私は考えるのをやめた。悲しみと怒りが、心を支配していた。ミルとの間に、まだ何か取り戻せるものがあると思いたくなかった。
そして、ある夜、私は決意を固めた。
「ミル、話し合いをしたいの。」
「何だよ、今は忙しいんだ。」
「あなたが本当に私と続けていくつもりがあるのか、決めてほしい。」
私の言葉に、ミルは無言だった。そして、私が手に持っていたあこさんの下着を見せると、彼は顔色を変えた。
「それ… どこで? 」
「義母のパジャマからよ。あこさんとやり合ったんなら、きちんと認めなさい。」
ミルはしばらく沈黙した後、ようやく口を開いた。
「…認めるよ。あこさんとは、確かにそういう関係だ。」
その瞬間、長年の思いが、ぷつんと切れた。私は目に涙を浮かべながらも、はっきりと言った。
「それなら、離婚しましょう。店はあなたが手にするといいわ。私は悔いを残さない。」
ミルは驚いた表情を浮かべ、何か言おうとしたが、私は背を向けた。
数日後、私は離婚届を提出した。両親はショックを受けたが、私の決断を尊重してくれた。義母も、電話越しに謝ってきたが、私は何も返さなかった。
私は新しい部屋で、新たな一歩を踏み出そうとしていた。あの日、恐れて逃げ出したパジャマのことは、もう思い出さないようにした。
何もかもを失ったけれど、私はようやく、自分自身を取り戻せた気がした。


