母の声がラウンジに響いた。お見合い相手が泥だらけの作業着姿で現れた瞬間、母は「今すぐ帰りなさい。貧乏臭いわ」と叫んだ。28年間、母の決めたことだけをやってきた私。でも、その時、なぜか私は椅子から立ち上がれなかった。I said, 「もう少し、話してみたいです。」…

母の声がラウンジに響いた。お見合い相手が泥だらけの作業着姿で現れた瞬間、母は「今すぐ帰りなさい。貧乏臭いわ」と叫んだ。28年間、母の決めたことだけをやってきた私。でも、その時、なぜか私は椅子から立ち上がれなかった。I said, 「もう少し、話してみたいです。」...

ラウンジのテーブルで、母の声が響いた。

「今すぐ帰りなさい。貧乏臭いわ。」

隣の席の人が振り返った。私の正面に立っていたのは、作業着姿の男性だった。膝から下は乾いた泥で茶色くなり、長靴の縁にも土がこびりついていた。袖口は汚れ、髪は雨に濡れたあと乾いたのか、右の跳ねっ毛が少し浮いていた。

お見合いの席だった。窓の外は雨上がりの曇り空。テーブルの紅茶はすっかり冷めていた。私と母は約束の時間から47分、その人を待っていた。

写真で見た顔とはまるで違う姿だったけれど、ラウンジの入り口で腰を折ったその人が今日の相手なのだと、名乗られる前から何となく分かった。

「遅れてしまい、本当に申し訳ありません。」

その人は深く頭を下げた。言い訳はしなかった。

母がハンドバッグの持ち手を掴んで立ち上がった。

「しおり、行きますよ。」

いつもの私なら、「はい」と答えて立っていた。28年間、ずっとそうだった。母の言うことはいつも正しかったし、母の選んだ道で私が困ったことはなかった。

でも、その日は椅子から腰が離れなかった。

この日に私が口にした一言が、自分の人生を変えることになるとは、その時の私は思ってもいなかった。

私の名前は美藤しおり、28歳。父が経営する未正という会社で総務の仕事をしている。未正は工作機械の部品を作る会社で、従業員は120人。父は社長で、私は入社して6年になる。

就職活動というものを、私はしたことがない。大学4年の秋に母が言った。「よそへ行く必要はないでしょう。うちの会社ならお父様の目が届くもの。」

私は「はい」と答えた。それだけだった。

私の人生は、大体こういう形で決まってきた。通う学校も、習い事も、着る服も、付き合う友達も、全部母が決めた。そして、母の選んだものはいつも間違っていなかった。だから、私は自分のことを幸せな人間だと思っていた。実際、そうだったのだと思う。困ったことがあれば母が先に気づいてくれたし、私が迷う前に答えが用意されていた。

友達からは「しおりちゃんはお嬢様だからね」と笑われた。悪気のない言い方だったので、私も笑って返していた。

そして、28歳になった年の6月。母が私の腕に手をかけた。

その時、私は自分でも驚くくらい小さな声で言った。

「もう少し、話してみたいです。」

周りの席の物音まで消えたような気がした。

母が私を見た。目を丸くしていた。母がその顔をするのを見たのは、初めてだった。

「あなた、何を言っているの?」

「私にですか?」

ーーそう言った母の声は、怒っているというより、驚きに震えていた。

私は、母の反応を見て、初めて自分がどれほど母に従ってきたかを、はっきりと意識した。この一言が、母との関係をどう変えるのか、私には想像もつかなかった。

その男性は、ゆっくりと顔を上げた。汚れた作業着のままで、でも、恥ずかしそうに笑った。

「いえ……本当に、すみません。仕事のトラブルで遅れてしまって。」

「どんなお仕事を?」

私が尋ねると、母が鋭く「しおり!」と遮った。

でも、私はもう止まらなかった。

「未正の部品を使っていただけるなら、一度、話を聞かせてください。」

相手の目が、少しだけ輝いた。

「それは……ありがたいですが、今日はお見合いですから。」

「お見合いも、仕事の話も、どちらでもいいじゃないですか。」

母は、立ち上がったまま、使い捨てのスプーンを握りしめていた。その手を見て、私は言った。「母様、私はもう子供じゃありません。自分の人生を一度、自分で決めてみたいんです。」

冗談でも、反抗でもなかった。ただ、28年ぶりに、自分の声で言いたいことが言えた気がした。

その場の空気は、凍りついていた。でも、なぜか、悪い気はしなかった。

私は、その後のことがどうなるのか、まだ何も分かっていなかった。

ただ、胸の奥で、何かが静かに動き始めたのを感じていた。

その日の夜、母は何も言わなかった。父も、何も言わなかった。でも、翌朝、母は私の部屋の前に、新しいスーツのカタログを置いていた。

私は、それを見て、少しだけ笑った。それから、カタログを閉じた。私は、もう母の選んだものを着るつもりはなかった。

一週間後、私はその男性と、もう一度会った。それは、お見合いではなく、ただの食事だった。

相手の名前は、高橋正一。32歳。小さな工場を一人で営んでいた。作業着の下には、洗い古したシャツを着ていた。

「こんな格好で申し訳ない。」

「いいえ、それが、あなたらしくて。」

私は、自然にそう言えていた。

それからの数ヶ月、私は母の決めた道から、少しずつ外れていった。会社では、父が与えてくれた総務の仕事に加えて、自分から営業に回りたいと申し出た。父は驚いたが、何も言わなかった。

初めて、自分の力で何かを成し遂げてみたかった。

高橋さんとの関係がどうなるかは、まだ分からない。でも、私はもう、母のいうままに「はい」とだけ言う女ではない。

ある夜、母が泣いていた。私は、その姿を見るのは、生まれて初めてだった。

「しおり……私、何か間違ってた?」

「間違ってないよ。でも、私は私の道を行く。」

母は、何も言わなかった。私は、母の手を握った。

それから、また一歩、前に進んだ。

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