玄関で萌花が拾った黒いスマホ。見覚えのない機種で、画面はついたままだった。履歴には知らない女の名前が並び、やり取りはどれも親密で、ただの仕事仲間とは思えなかった。
「ママ、これパパのかな?」
萌花が画面を何度も素早く押す。吹き出しの並んだ画面が次々と開き、同じ文章が送られていく。慌てて取り上げたが、もう遅かった。
「だっていっぱいメッセージ溜まってたよ。早く返信しなくちゃ」
萌花は覚えたてのフリック入力を使いたくて仕方がないのだろう。どうしたものかと考えていると、スマホが震えた。早速相手から返信が来たらしい。恐る恐る開いたメッセージには、短い文が表示されていた。
「既婚で子持ちは」
その瞬間、私は全てを理解した。秋人は浮気をしている。しかも相手は一人ではない。似たようなメッセージが他2人からも立て続けに送られてきた。片手にスマホを持ち、私は静かに決意を固めた。萌花のためにも、もう見て見ぬふりはできないと。
私は新井舞子、34歳。法律事務所の事務として働いている。実家は両親と妹の4人家族。小さい頃から私は目立たない子だった。人前に出たい、目立ちたいという願望は一切なく、自分の意見を言うことすら苦手だった。ただし、与えられた役目はきちんと果たす方だった。忘れ物をしない、期限を守る。そうした当たり前のことを積み重ねていくと、先生や周囲の大人たちはどこか安心したような顔をした。彼らの反応を見るたびに、私はますます真面目な人間になっていった気がする。
大学に入っても真面目な性格は変わらなかった。華やかな学生生活とは遠く、ひたすら講義に出て課題を提出し、時間があれば図書館で過ごした。卒業後は法律事務所に就職。難しい判断をするのは弁護士だが、その前に必要な準備はいくらでもある。書類を整え、日程を管理し、抜けがないよう確認する。そういう裏方の仕事は自分の性に合っていた。
2つ年上の夫と知り合ったのは24歳の頃。きっかけは友人に誘われてしぶしぶ参加した飲み会だった。秋人はよく笑い、誰にでも気さくに話しかける人だった。その手の社交場が得意ではない私とは正反対に見えたけれど、だからこそ気楽に話せたのかもしれない。何度か会ううちに自然と付き合うようになり、26歳で結婚した。
当時の私は、愚直に積み上げてきた自分の人生があんなに簡単に崩れるものだとは夢にも思っていなかった。
結婚して1ヶ月、新婚時代の私は秋人となら落ち着いた家庭を築いていけると思っていた。新しく借りたマンションは広くはなかったけれど、2人で暮らすには十分だ。家具の置き場所、入浴剤は何を使うか。そんな些細なことを相談する時間さえも嬉しくて仕方がなかった。大きな幸せでなくても、ささやかな毎日を丁寧に積み重ねていければいい。あの頃は秋人も私と同じ方向を見ているように思えた。
「家事はきちんと分担しよう。どっちか片方に負担が偏ると絶対続かないし」
「うん。その方が気が楽だね。平日は料理を任せる日が多いかもだけど、片付けは俺がやるよ。休みの日は俺がご飯作る。洗濯も」
秋人のその言葉を、私は何の疑いもなく受け取った。彼を信じていたからだ。
最初の数ヶ月は実際に宣言通りだったけれど、結婚して1年ほど経ち、秋人が保険会社に転職してから家の空気は少しずつ変わっていった。日に日に帰宅が遅くなり、夕飯の時間に間に合わないことが増えたのだ。新しい職場になれるまでは仕方ないだろう。そう思って、私はあまり強くは言えずにいた。
「ごめん。今日も遅くなった」
「うん。それはいいよ。でもさ、事前に連絡がないと夕食準備していいのか分からないんだよね。大体でいいから帰る時間メッセージくれない?」
「そう言われてもな。営業は付き合いが大事なんだよ。急に流れが変わることもあるし、帰宅時間は読みにくいんだ」
「うん。分かるけど、毎日だとちょっと困るの。秋人が食べないのに作るのはもったいないし」
遠慮がちに返した途端、秋人は舌打ちをしてネクタイを乱暴に緩めた。どこか面倒くさそうな仕草だった。決して私は彼を責めたかったわけではない。ただ一緒に生活する夫婦として予定のすり合わせをしたかったのだ。
「俺だって好きで遅くなってるわけじゃないって」
「そうだね。でも先に一言もらえると助かるかな」
「無理無理。仕事中にそこまで細かく気を回せないから」
「じゃあせめて食べた後の片付けはお願いしたいな。平日の料理は私、片付けは秋人がするって約束だったでしょ」
秋人はしぶしぶ皿洗いを始めたが、その日を境に食後の流し台に食器が残ることが増えていった。夕飯を作るのも温め直すのも片付けるのも、全てが少しずつ私の役目として定着していく。
「お皿洗う時こっちのスポンジ使ってね。新しいの買っといたから」
「今日は本当に疲れてるから無理。舞子お願い」
「最近ずっとそう言ってるよね」
「舞子みたいにお気楽な内勤とは違うんだよ。外で動く仕事は気も使うし、付き合いもあるから」
大学卒業以来、私は法律事務所で働いている。来客対応、電話対応、書類作成の補助、裁判所への提出物の取り寄せ。座っている時間が長いからと言って楽な仕事ではないと思う。内心腹が立ったが、その場では何も言わず、私は黙ってスポンジを握った。
結婚して1年、萌花が生まれてからは家の中の負担はさらに偏った。数時間おきにミルクを飲ませ、おむつを替え、昼夜関係なく泣き出すたびに抱き上げてあやし、寝かしつける。育休で事務所を休んでいるとはいえ、私は心身共に疲弊していった。
「秋人、ちょっと萌花を見ててくれる?私ミルク作ってくるから」
「え、俺明日朝早いんだよ。寝不足になるって」
「私だって寝不足だから。それにもうすぐ育休も開けるんだよ。共働きなんだから、たまには萌花の面倒も見てくれないと困るんだけど」
「いや、でも俺外回りだし、寝不足で運転したら危ないだろ。もし事故ったら舞子責任取れるの?取れないでしょ」
そう言われると、私が1人でやるしかない。萌花にミルクを飲ませながら、私の寝不足は危なくないのかとぼんやり思った。だが、いくら考えても疲れきった頭では答えは出なかった。
育休明け1ヶ月半、結局職場復帰してからも大変なのは同じだった。朝、保育園の着替えを袋に入れ、連絡帳を書き、萌花の体温を測っている私の横で、秋人は鏡を見ながら髪型を整えている。こちらを気遣う気配はなく、彼が気にしているのは出発の時刻のみだ。
「じゃあ俺先に出るから」
「ちょっとゴミ持っていってよ」
「あー、もう時間ないわ」
秋人は腕時計に目をやり、それから靴に手を伸ばした。動きに迷いはなく、最初から手伝うつもりがないのだと嫌でも分かってしまう。
「今日ゴミの日だって分かってたよね」
「ゴミ出しするつもりで早めに準備してくれたら良かったんじゃないの?」
「俺は外で稼いでるから、朝まで家のこと全部は無理だって」
家事を分担するという新婚当初の約束はどこへ行ったのか。両手いっぱいの荷物と萌花を抱えた私は玄関に立ち尽くした。
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってきます」
振り返らずに出ていった秋人。ドアが閉まろうとした時、反射的に大きなため息が漏れた。
結婚して3年、秋人が家を開ける日が増えていた。私は仕事を終えると保育園に寄り、萌花を連れて帰る。帰宅後は夕飯を作って食べさせ、風呂に入れ、寝かしつける。そんな毎日の営みの中に、父親である秋人はいないことが多かった。
ある金曜の夜、萌花を寝かせた後にメッセージを送る。
「今日は何時くらいになりそう?」
「客との流れ次第だけど、多分日付はまたぐと思う」
「明日は大丈夫?保育園の用品を買いに行くって話してたの覚えてる?」
「ああ、悪いけど朝起きるのは無理かも」
ひどくあっさりした返事だった。時計は23時半を回っていて、食卓には手つかずの秋人の夕食のみが残っている。
「何度も言ってるよね。せめて遅くなるなら早めに教えて欲しいって」
「急に決まることも多いんだって。こっちにも予定があるんだから、何も分からないのは困るよ」
「だから営業はそういう仕事なんだよ。分かってないなあ」
それきり返信は帰ってこない。スマホをテーブルの上に伏せ、私は冷めた料理にラップをかけて冷蔵庫に入れた。予定を組み直すのも、仕事を終える時間を考えて料理を作るのも、片付けるのも、結局はいつも私だ。
翌朝、秋人が帰ってきたのは午前7時前。
「まさか今帰ってきたの?」
「いや、昨日の客が長くてさ。その後先輩に付き合ってもう1件」
「もう朝だよ。何考えてるの?」
「仕方ないだろ。これも仕事のうちなんだから」
私は萌花の朝食を用意しながら、今日の予定をどうするか考え直していた。
「買い物はどうするつもり?歩いて少し寝る。今日行けないと困るの。萌花だってパパとお出かけするのを楽しみにしてたのに」
「じゃあ2人で行ってきてよ」
気だるそうにそう言うと、秋人は上着を脱ぎながら寝室へ向かった。フラフラと歩く背中を見て分かった。妻との約束も、娘との外出も、彼の中では優先順位の低いことなのだと。
また別の週末。
「また明日も出かけるの?」
「会社のコンペ。その後懇親会」
「この前もゴルフだったよね」
「人脈が命なんだよ、この仕事は」
飲み会もゴルフも休日の地域イベントも、全部仕事につながると秋人は言う。最初はそういうものかもしれないと思っていたが、月に何度も続くと家庭の予定が後回しにされているのがはっきり見えてしまう。
「日曜くらい家にいてほしいよ。萌花も待ってるし」
「家にいたって意味ないだろう。営業は外に出ないと客は増えないから」
「家族で出かける約束はもう何回も流れてなくなってるよ」
「そこを理解して支えるのが家族なんじゃないの」
思わず私は洗濯物を畳む手を止めた。床では萌花が積み木を並べていて、その横で秋人はスマホを見ながら次の予定に返事をしている。
「人脈が大事なのは分かる。でも毎週みたいに家を開けるのは控えてよ」
「だから仕事だって言ってるだろう」
「仕事なら何でも仕方ないって話にはならないと思うんだけど」
「内勤には営業の大変さなんてわからないよ」
冷めたその言い方は、私の仕事や生活スタイルを全部まとめて軽く扱っているように聞こえた。法律事務所の事務だって、1人抜ければ迷惑がかかる。
「私だって仕事してるし、家に帰れば育児もあるよ」
「外で頭下げて数字を作るのがどれほどきついかわかんないだろう。想像で文句を言われても困る」
「文句を言いたいんじゃなくて、少しでいいから家のことを分担して欲しいの」
「俺は外で稼いでるんだよ。そこを同じにされてもな」
それ以上私は何も言えなかった。畳んだ洗濯物を棚にしまいながら、私は自分の中に冷たいものが広がっていくのを感じていた。秋人にとって家は休むための場所でしかなくなっているのだろう。帰ってくるのは着替えと睡眠が目的で、私たちのためではない。それでも積み木を崩して笑う萌花を見ていると、どんなことでも耐えられる気がした。この子にとっては世界でたった1人の父親だ。
結婚4年目。3歳になった萌花は保育園での出来事を以前より詳しく話すようになっていた。今日は誰と遊んだか、先生に褒められたこと。帰り道の短い時間でもよく喋った。私は話に耳を傾けながら、秋人にも萌花の成長の喜びを共有したいと思った。
保育参観の1ヶ月前のこと。夕飯の後、私は案内のプリントを食卓に置いた。
「来月の木曜日、萌花の保育参観があるの。午前中なんだけど、どうにか都合をつけられないかな」
「木曜か。その日は多分顧客が入る」
「まだ確定じゃないなら調整してみて欲しい。周りのママ友に聞いたら、パパも結構参加するんだって」
「無理。営業って急に動くんだよ。事務みたいに予定通りには行かないから」
結局それ以上は強く言えなかった。私は案内を畳みながら、萌花にはまだ何も言わないでおこうと思った。わざわざがっかりさせることもないだろう。けれど当日の朝、萌花は自分から聞いてきた。
「今日パパも来る?」
「お仕事があるから、今日はママ1人かな?」
「そっか」
萌花はそう言って笑ったが、保育園についてから門の前で何度か後ろを振り返った。そのいじらしい様子に気づかないふりをしながらも、私は胸が痛んで仕方がなかったのを覚えている。
保育参観の後、私は教室の後ろから撮った写真を何枚か秋人に送った。歌の時間に口を大きく開けている顔も、工作でのりを指につけて困っている様子も、どれも可愛らしい。だが昼休みに帰ってきたメッセージは予想外のものだった。
「萌花さ、もっと髪型考えてあげなよ。ツインテール似合ってないよ。かわいそう」
「朝、萌花本人にこれがいいって言われたの。すごく喜んでたし、頑張ってたよ」
「そうじゃなくて、写真に残るんだからさ。もっと萌花に似合う髪型にしてあげた方がいいだろう。母親ならそのくらい当たり前だと思わない?」
数ヶ月後に行われた運動会の時も似たようなことが起こった。ダンスの順番や親子競技の時間を、私は何日も前からカレンダーに書き込んでいた。萌花も毎日のようにかけっこで絶対1位になるつもりだと話している。
「土曜の運動会、本当に無理?」
「その日は顧客対応で動けない」
「午前中でも顔を出せないかな。萌花はずっと楽しみにしてるんだよ」
「無理。後で写真見せてよ」
当日は晴れて、運動場には朝から子供たちや保護者の歓声が広がっていた。私は実家の両親にも協力してもらい、応援の場所取りをし、ビデオを回し、競技の合間には水筒を持って走った。かけっこの順位は惜しくも2位。萌花は少し悔しそうな顔をしながらも、こちらに大きく手を振ってくれた。親子競技には私が一緒に出たが、周りで父親と並んで走る子を見るたびに、萌花が何を思っているのか気になった。
夜中に帰宅した秋人に写真を見せると、彼はソファーに座った状態で画面に視線を移した。しばらく眺めた後、低くつぶやく。
「この八巻、左右ずれてない?ちゃんと結んであげなよ」
「あ、本当だね。動いてるうちに崩れたんだと思う」
「写真の撮り方も下手だよね。この角度だと目が小さく見える。もっとちゃんとしてあげたらいいのに」
ため息混じりに写真を評価する秋人に、私はどこか虚しい気持ちになった。共有したかったのは八巻きや見た目ではなく、萌花が頑張ったという事実。
「かけっこは2番目だったけど、十分早かったよ。ダンスも上手だった」
「そういうことじゃないって。女の子は見た目も大事だって話」
私は返事ができなかった。保育園の行事は全て不参加。準備も送り迎えも手伝わないにも関わらず、写真越しに表面的なことのみを批評する。父親とは一体何だろう?
「パパ見て、萌花メダルもらったの」
翌朝、嬉しそうに秋人にかけ寄っていく萌花。その様子を眺めながら、私は自分に言い聞かせた。萌花の中にある優しい父親像を壊してはいけないと。
結婚して5年を過ぎた私は、以前より自分の体型を気にするようになっていた。出産してから時間は経っていたが、妊娠前に着ていた服が入らないことがある。仕事と家事と育児に追われ、運動の時間をゆっくり取れるわけでもない。どうしようもないと思いつつも、ふと洗面台の前に立った時や昔の服を手に取った時に、前とは違うと分かってしまう。
その日も私は季節の衣替えをしながら、椅子の背にかけたスカートを黙って見つめていた。
「舞子、何やってるの?」
「衣替えの服入るか見てたんだけど、少しきつくて」
「そりゃそうだろう。もう若い頃みたいには戻れないよな」
半開きの寝室の扉から覗き込んだ秋人は、薄く笑った。軽い調子だったが、その一言は思っていた以上に強く私の心をえぐる。
「別に若い子みたいになりたいわけじゃないよ」
「いや、そうじゃなくてさ、年あるじゃん。そんな若い時の服、潔く捨てちゃえよな」
「そうだとしても、わざわざ言わなくていいでしょ。そんなこと」
「冗談だって」
そう言われると、それ以上攻める方が面倒な人間になる。私は答えずスカートを畳み直してハンガーにかけた。
「でもさ、気にしてるならたまには歩いたりしたら?ジム行くとか」
「そういう時間があればしてるよ。朝とか休日とか、いくらでもやりようあるだろう」
「その夜も休日も、家事と萌花のことで終わってるよ」
自分でも強い言い方になってしまったと思うけれど、黙って受け流す気にはなれなかった。
「じゃあ食べる量を減らすとか」
「そういう話じゃないの。もうやめて」
「気にしてるからアドバイスしてやってるんだろう」
「気にしてるからこそ、そういう言い方をされるのが嫌なのよ」
秋人は小さく肩をすくめた。私が何に傷ついたのかより、自分が責められたことの方が気になっているらしい。
また別の日。夕飯の後、私はキッチンで食器を洗っていた。一方、秋人はダイニングの椅子に座り、スマホを見ながら営業先の話を続けている。
「今日営業先の奥さんと話したんだけど、やっぱりみんな綺麗なんだよな」
「何それ?」
「別に深い意味はないよ。ただ子供がいてもちゃんとしてる人が多いなって」
「それをわざわざ私に言う必要はある?」
蛇口の水音の中でも、秋人のセリフははっきり聞こえた。思わず私は皿を持ったまま振り向いたが、秋人は悪びれもせず、いつも通りの平気な顔をしている。
「気にしすぎだって」
「そういう家は余裕ある感じするじゃん」
「私には余裕なんてないよ。朝から仕事して、迎えに行って、ご飯作って、萌花のことしてるんだから」
「分かってるよ。でも多少は身だしなみに気を使ったらって話」
「気を使う時間を誰が作ってくれるの?」
言い終えた後、腹の底が怒りでじわじわと熱くなった。鏡の前でため息をつくことはあっても、美容院や買い物にゆっくり行く余裕なんてない。みんな同じように忙しくても、なんとかしてるんだろう。私は誰かの奥さんと比べられるためにあなたと暮らしてるわけじゃない。
「意外と妄想だって。俺は比べてるんじゃなくて、そういう人もいるって話をしてるだけ」
「その話をいちいち私に向けてする時点で、比べてるのと同じでしょう」
夜になると体が重く、自分の体調を整える前に眠気の方が先に来る。そんな生活を知っているにも関わらず、秋人は私の見た目のことを口にした。
「悪かったよ。そんなつもりじゃなかったって」
「終わりにするくらいなら、最初から言わないで」
「はいはい。分かったよ。もう綺麗な奥さんの話はしません。でもさ、嫉妬は見苦しいからやめた方がいいよ。怒るとシワが増えるし」
「そういう一言が余計だって分からない?本当に全然反省してないんだね。もういい」
舌打ちしながら洗った皿を水切りかごに置く。指先が少し震えていたが、秋人はそこまで見ていないようだ。
「全く舞子は大げさだな」
「秋人が気にしなさすぎるんだよ」
「へ、そうかな。俺結構気使ってるけどな。会社でも評判いいし、後輩からもよく相談受けるんだよね」
「そう」
それ以上は言わなかった。言葉を重ねても、また冗談だとか気にしすぎだとか言われると思ったからだ。食器を拭き終えた私は、黙って布巾を畳んだ。リビングでは萌花が塗り絵を広げ、机の上には色鉛筆が散らばっている。私はその横に座り、ピンク色の蓋を閉めながら、体型のことそのものよりも、こうして自分の意見を軽く扱われることの方がずっと辛いのだと知った。傷ついた理由を説明しても相手に届かない現状に、私の心は次第にすり減っていった。
結婚して7年、秋人の様子に変化が現れ始めていた。最初に気づいた異変は、彼が家の中でもスマホをずっと手放さなくなったことだ。食卓に置く時も画面は下向きで、ソファーに座っていても指先は休まず動いている。やがて風呂やトイレにまで持ち込むようになった。
「最近ずっとスマホ見てるね」
「仕事の連絡が多いんだよ。お風呂にも持っていくくらい。営業だからさ、時間に関係なく連絡来ることもあるし」
仕事だと言い張られた以上、それ以上は踏み込みにくかったけれど、通知が鳴るたびに彼の口元が緩むのを見ると複雑な気分になる。
「今のも仕事だよ。見込み客」
「なんだか嬉しそうだったけど」
「俺のそんなとこまで見てるのやばくない?」
夕食後、萌花が宿題をしている横で秋人のスマホが短く震えた。私が味噌汁の器を下げようと近づいた瞬間、秋人は画面を素早く裏返す。
「ねえ、なんでいつも画面隠すの?」
「癖だよ。会社で個人情報の管理うるさく言われてるから」
軽い返事がなぜか妙に引っかかる。やましいことがないなら、隠すような動きをする必要はないはずだ。
「でも前まではそんなことしてなかったよね。見られて困る内容なの?」
「細かいなあ。だから仕事の内容だって」
「そういう言い方、本当感じ悪いよ」
その一言で、疑う私の方が悪いという空気にされた。心の中で罪悪感が芽える。でも休みの日までそんなに急ぎの連絡なの?
「今捕まえておかないと逃げるんだよ。客が」
「だからってちょっとやりすぎじゃない?さっき萌花が話しかけても上の空だったよ」
「今は仕事中みたいなもんなんだから仕方ないだろう」
別の休日。朝、私が洗濯物を干している間も、秋人は新聞より先にスマホへ手を伸ばしていた。萌花が塗り絵を持っていっても生返事のまま、視線は画面に落ちたままだ。
「ねえ、せめてご飯の時くらい置いたら?」
「無理。返信のタイミングを逃したくないし」
「そんなにずっと張り付いてなきゃいけないの?」
「営業はそういうもんだって前にも言っただろう」
言い訳は同じだった。仕事、営業、人脈。そんな単語が飛び出すたび、自分が感じている違和感をまとめて否定された気がした。
ある平日の夜、私は喉が乾いて目を覚ました。時計は深夜1時を少し過ぎていて、隣の布団は空だった。リビングへ出ると、ベランダのカーテンの向こうに細い明かりが見える。窓の外には片手にスマホを持った秋人の背中があり、低い声で何かを話していた。
「こんな時間に誰と話してるの?」
ベランダの戸を開けた瞬間、秋人は肩を揺らして振り返った。
「うわ、びっくりした。仕事の連絡だよ」
「夜中の1時に?相手の都合もあるだろう」
「いちいち気にしすぎなんだよ」
驚いた後、すぐに不機嫌そうな顔になり、そのまま通話を切る。昼間の電話と雰囲気が違ったけど、仕事の時そんな話し方しないよね。
「本当は誰と話してたの?」
「変な絡み方するなよ。眠いなら寝れば」
そう言って秋人は私の横をすり抜けて部屋に戻った。春先の夜風が寝起きの腕に触れ、妙に冷たい。仕事だと言われてしまえば、それ以上問い詰める術を当時の私はまだ持っていなかった。
結婚して8年目に入った頃には、秋人への違和感がますます募り始めていた。スマホの件だけでも十分怪しかったのに、その日は別のところから気になるものが出てきたのだ。平日の夜、私はいつものように洗濯かごを寝室から運び、色物と白物に分けていた。秋人の脱いだシャツを手に取った瞬間、鼻先に甘い匂いが触れた。柔軟剤とも制汗剤とも違う。
「このシャツ、何の匂い?」
「え、甘い匂いがする?香水みたいな」
「ああ、それ、客先でもらったサンプルの柔軟剤じゃない?」
答えるまでの間がほんの少し長い。洗濯かごの前にしゃがんだまま、私は秋人の顔を見た。
「柔軟剤のサンプルって、Yシャツにつくものかな?」
「説明の時に触ったんだよ。営業してると色々あるから」
「前はそんなことなかったよね」
「いちいち細かいな。ただの匂いだろ」
秋人はネクタイを外しながら目を合わせようとせず、やけに早口だ。その不自然さの方が、匂いそのものより気になってしまう。
「そのサンプル、今あるの?」
「もう配っちゃったよ」
「どこの会社のだった?」
「さすがにそこまで覚えてないって」
本当に仕事でついた匂いなら、もう少し自然に答えてくれるはずだと思ったけれど、ここで追求しても秋人は知らん顔をするだろう。
別の夜のこと。いつも通り洗濯機を回そうとしたが、脱衣所に置いてあるはずの秋人のシャツと靴下が見当たらなかった。浴室の前でごそごそと音がするのに気づいて覗いたところ、秋人が自分の洗濯物を手洗いしている。
「何してるの?」
「自分の分、洗ってる」
「急になんで?」
「たまには自分でやるよ。文句ある?」
今まで一切気にしなかった身の回りのことを、突然自分でやり始めたのだ。誰がどう考えても不自然に決まっている。新婚当初から洗濯を含めた家事全般はずっと私がやってきたし、秋人もそれを当然のこととして受け入れていた。それなのに、まるで人が変わったかのように衣類を洗い始めたのだ。
次の日からその変化はさらに露骨になった。帰宅すると上着のポケットを先に確かめ、脱いだシャツを洗濯かごに入れず、寝室の隅のバッグへ押し込む。ズボンのポケットに入っていたレシートもなくなった。
「最近、自分の洗濯物ばかり気にしてるね」
「別にいいだろ。自分のものなんだから」
「今まで任せきりだったのに」
「家事の負担が減ってるんだから、素直に喜べばいいだろう。本当可愛げがないよな」
そう言われた瞬間、全身が凍りついた。怪しい行動をしているのは秋人の方なのに、どうして私が責められるのか。
「じゃあ答えて。なんで急に全部自分でやろうとするの?」
「気分だよ。たまには自分のことくらい自分でやる」
だとしても不審な点は残る。しかも秋人が自分で管理するようになったのは、自分の身の回りのもののみだった。
「だったら他のこともやってよ。食器洗いもゴミ捨ても、私に任せっぱなしだよね」
「なんでそういう話になるんだよ」
「正直、洗濯は一気に済ませた方が楽だし、手伝うなら他の家事にして欲しい。それとも洗濯だけは自分でやりたい特別な理由があるの?」
「めんどくさいなあ。考えすぎなんだよ」
そこで会話は終わり、私は黙って洗濯機の蓋に手を置いたまま立ち尽くしていた。シャツについていた甘い匂いを思い出すたび、心に細い棘が刺さるようだ。
1ヶ月後、日曜の朝、秋人は珍しく早い時間に起床した。休日出勤になったと言って、そわそわと落ち着かない様子でネクタイを結んでいる。
「急ぎの案件だから、今日は朝飯もいらない」
「日曜なのに大変だね」
「夕方には帰れると思う」
「パパ行ってらっしゃい」
玄関のドアが閉まってすぐ、萌花が靴箱の前で何かを拾った。黒いスマホだ。見覚えのない機種で、しかもついたままだった。秋人が直前で触っていたのだろうが、開かれている。
「ママ、これパパのかな?」
「え、ちょっと見せて」
履歴にはいくつも知らない女の名前が並んでいた。佳奈、洋子、さつき。ちらりと見えたやり取りはどれも親密で、とてもただの仕事仲間や顧客とは思えない。
「この人たち誰だろう?全員に返信しちゃおう」
「あ、だめ。勝手に触っちゃう」
萌花は私が手を伸ばすより先に画面を何度も素早く押した。吹き出しの並んだ遠くの画面が次々と開き、同じ文章が送られていくのが見える。慌てて取り上げたが、もう遅かった。
「だっていっぱいメッセージ溜まってたよ。早く返信しなくちゃ」
「そうだね」
最近スマホに興味津々の萌花。覚えたてのフリック入力を使いたくて仕方がないのだろう。
「ママ、どうしたの?」
うろたえながらどうしたものかと考えていたその時、スマホが震えた。早速相手から返信が来たらしい。恐る恐る開いたメッセージには、短い文が表示されている。
「既婚で子持ちは」
その瞬間、私は全てを理解した。秋人は浮気をしている。しかも相手は1人ではない。似たようなメッセージが他2人からも立て続けに送られてきた。片手にスマホを持ち、私は静かに決意を固めた。萌花のためにも、もう見て見ぬふりはできないと。
リビングに戻った後も、秋人の見慣れないスマホには止まる間もなく通知が届いた。萌花がテレビに夢中になり始めたのを確認すると、私は深く息を吸った。怒鳴ったり泣いたりしたところで、何も先に進まない。今自分がやるべきことは、相手の女性たちの情報収集だ。
「秋人の妻です。先ほどのメッセージは小学生の娘が送ってしまいました。突然のことで私も戸惑っています。一旦落ち着いて、直接お電話でお話ししませんか?」
同じ文面を3人に送信すると、意外にも全員から了承の返事が来た。まず最初に電話で話したのは佳奈。年齢は23歳で、秋人と同じ保険会社の新入社員だと名乗った。電話口の声にはまだ幼さが残り、明らかに動揺している。
「すみません。あの、秋人さんの奥さんって本当ですか?」
「本当です。私は新井舞子と言います。7歳の娘もいます」
「そんな、秋人さん独身だってずっと1人暮らしだって言ってたのに。本当にごめんなさい」
「佳奈さん、泣かないで。私はあなたを責めたいわけではなくて、事実を確認したいんです」
次に話したさつきは25歳の美容師。気の強い性格らしく、初めこそ喧嘩腰だったが、私が感情的にならず、努めて穏やかに話していると、次第に態度が軟化していった。
「さっきは失礼なメッセージを送ってすみませんでした。ついカッとなっちゃって」
「いえ、普通は混乱しますよね」
「はい。マジで頭真っ白になりました。だって秋人さん、私にはバツイチだって言ってたんです。元奥さんとは円満離婚で、子供はいないって」
「そうだったんですか」
最後の木原洋子は28歳で出版社の編集者。落ち着いた話し方をする人で、状況を飲み込むのも早かった。電話越しにでも誠実な人物であることが伝わってくる。
「秋人さんからは独身だと聞いていましたし、私もそう信じていました。土日や祝日に会ったりすることも多かったので、まさか家庭があるとは思いませんでした」
「そうだったんですね」
「奥様とお嬢様には何とお詫びしていいか」
「済むことではありませんが、申し訳ありません」
「いえ、洋子さんが謝ることではありませんよ。あなたは秋人が既婚者だと知らなかったんですから」
3人ともどこか私を警戒している様子だったけれど、結婚生活の実情や他の浮気相手の存在を淡々と伝えていくうちに、徐々に空気は変わっていった気がする。
「被害者同士、みんなで会いませんか?電話だと言い違いが出るかもしれないので、直接話したいんです」
そんな提案をすると、やや間があったものの、最終的に3人とも会うことを承諾してくれた。私たちは全員、秋人に騙されていた側の人間だ。どこかで同じ境遇の仲間を求めていたのかもしれない。
翌日の午後、私は駅前の喫茶店に向かった。店のガラス扉を開けると、コーヒーの香りが流れてきた。佳奈は会社員らしい地味なスーツ姿で、明らかに顔色が悪かった。落ち着いたジャケット姿の洋子も、せわしなく手帳を閉じたり開いたりしている。数分遅れてきたさつきは明るい色のブラウスに細身のパンツを合わせていたが、表情は硬い。私は彼女たちを見て、この場にいる全員が不安を感じていることを知った。
「本当に何も知らなくて」
簡単な自己紹介を終えると、佳奈が消えそうな声でそう言った。目が合うたびに申し訳なさそうにまぶたを伏せる。
「昨日も言いましたけど、私は別に皆さんを責めたくて呼んだわけじゃないんです。まずは秋人についての情報を共有したいと思っています」
「秋人さん、自分は独身だって言ってました。過去に結婚しようと思ったこともないって」
「大嘘ですね。8年前に私と結婚していて、娘もいます。というか、会社に家族構成が登録されてるはずなんですけどね」
「すみません。秋人さん、結婚指輪はしてなかったし。私、普段会社の先輩とあんまり喋らないから、誰が既婚者とか知らなくて」
佳奈は今にも泣き出しそうな様子で、やっとそれだけ言うと口を閉じた。膝の上で握った拳が小刻みに震えている。
「電話でも話したけど、私にはバツイチだって言ってましたよ」
「バツイチですか?それっていつ離婚したとか聞きました?」
「うーん。確か20代の頃に3年足らずで別れた、子供はいないって話だったかな。元妻とはもう一切関わりがないって。今思えば、こっちが聞いてもないことをペラペラ喋ってた気がする」
さつきはにこにこと説明しつつも、途中で視線をテーブルに落とした。本来責めを負うべき秋人がこの場にいないので、怒りの矛先をどこへ向ければいいのか迷っているようだ。
「佳奈さんと同じで、私も独身だと聞いていました。仕事が忙しくて休日も不規則だから、頻繁には会えないと。私自身も仕事の予定が詰まっているので、特に不審に思わず信じてしまったんです」
「全員、適当なことを言っていたってことか」
「そのようですね」
感情を抑えた相槌だったが、洋子も内心穏やかではないだろう。既婚者で子持ち。秋人は自分に都合の悪い事実を綺麗さっぱり消していたのだ。
「それにしても、まさか3人もいるなんて思わなかったです」
「私もだよ。正直まだ頭が追いついてない。でも今日こうしてお会いして、事実を整理できて良かったと思います」
冷めかけたコーヒーを見下ろしながら、私は静かに息をついた。目の前の3人は年齢や立場は違っても、秋人に都合よく扱われた人間だ。いつしか私たちの間には奇妙な連帯感のようなものが芽生えていた。
「あの、もう1つ言っておきたいことがあります」
洋子が口を開いたのはその時だった。常に礼儀正しく丁寧だった彼女の口調が、わずかに低くなる。私はカップに手を添えたまま、自然と背筋を伸ばした。重要な話なのだと、表情を一目見て分かった。
「何ですか?」
「秋人さん、私の両親にも会ってるんです」
その一言で喫茶店の空気が変わる。佳奈が小さく息を飲み、さつきも目を見開いた。私もすぐには返事ができなかった。3人とも遊びの関係だと思っていたからだ。
「両親って、洋子さんの実家に挨拶に行ったってこと?」
「会ったのは実家ではなく地元のレストランですが、きちんとした交際相手のように振る舞っていました。真剣に交際してるって」
「そんなこと?」
洋子は膝の上で指を組み直し、言葉を選ぶように続けた。出版社勤務らしく話し方は落ち着いているけれど、その仮面の下に怒りがあるのがはっきりと分かった。
「両親には独身で仕事熱心な人だと紹介しました。実際、秋人さんは受け答えがうまくて、2人にとても気に入られて」
「そうですか」
私は思わず頭を抱えた。軽い気持ちで複数の相手に手を出していたという単純な話ではない。相手ごとに別の設定を作り、時には家族まで巻き込んで嘘を重ねる。そこまでして彼は自分に都合のいい関係を維持していたのだ。
「少し前から、秋人さんの実家に挨拶に行く話も出ています」
「え、それ、秋人が自分から行ったんですか?」
「はい。私がせかしたわけではありません。仕事が落ち着いたら俺の実家に来て欲しいって。そんなこと言っておきながら、奥さんも子供もいるなんて」
佳奈の声は震え、さつきは険しい顔をしている。私は洋子を見たまま、頭の中で秋人のことを思い浮かべた。関係を維持するために結婚を匂わせるようなことまで仕組んでいたのかと思うと、我が夫ながら嫌悪感しかない。
「洋子さん、ご両親は?」
「まだ詳しくは話していません。自分の中で整理してからと思っていました」
「ですよね」
「ただ、あの人が真剣だと思っていたから両親に合わせたのは事実です」
怒りたくなるような話のはずなのに、不思議と頭はさえている。しばらく沈黙が続いた後、洋子が遠慮がちに尋ねた。
「舞子さん、今後どうするつもりですか?」
「離婚します。即、考えていたんです。娘のためを思って夫婦を続けてきましたが、もう我慢できません」
言い切った瞬間、胸の奥にあったモヤモヤが少し晴れた。悔しくないと言えば嘘になるけれど、これ以上秋人に付き合う理由はどこにも残っていない。
「舞子さん、離婚するなら協力させてください。私、会社の中のことならちょっと分かりますから」
「会社の中のこと?」
「はい。秋人さんって社内でも異様に外回りが多い方なんですけど、予定表と合わない日が何度もありました。調べればもっと出てくると思います」
そう言って佳奈はスケジュールアプリの画面を見せた。もちろん全部ではないが、自分が把握している範囲なら秋人の行動記録を出せるという。ようやく話が前に進み始めた気がした。
「じゃあ、日にちを並べていけばいいんじゃない?」
「確かに時系列で整理した方が良さそうですね。私、メモります」
バッグから小さな手帳を取り出した私は、日付を書き始めた。佳奈は取引先との会食だと聞いていた日、さつきはその時間帯に秋人と会っていたと話す。洋子は国内旅行や両親に会っていた日程を教えてくれた。私も手帳をめくりながら、彼が休日出勤だと言って家を開けた日を思い出す。
「この金曜、秋人さんは直帰って言ってました。夜の予定は入ってなかったです」
「あ、その日私と会ってる。仕事が長引いたって連絡の後、19時には家に来たかな」
「私には会社の飲み会だから帰りが遅くなるって言ってました」
「同じ週の日曜は、私に親が体調を崩したから実家に行くと言っていました」
4人で話すたびに、バラバラだった情報が1本の線につながっていった。誰に何を言い、いつどこへ行き、どんな約束をしていたのか。書き出していくと、秋人のスケジュールの全貌が明らかになった。
「うわ、これほとんど全部嘘じゃん。出張って言ってたくせに、有給を取ってる日もあります」
「私には会議で連絡できないと言いながら、別の人には会っていた可能性もありますね」
「これは言い逃れできないね」
そう言って私は手帳のページを見下ろした。私が疑い深かったわけではなく、本当に秋人が裏切っていたのだ。
「舞子さん、前から何か気づいてたんですか?」
「確信してたわけじゃないです。でも怪しいとは思ってました。家での態度もずっとおかしかったので。今日3人の話を聞いて、心が決まりました。私、もう迷いません」
はっきりと宣言すると、3人は大きく頷きながら口を開いた。
「だったら私も協力します。社内で分かることを確認しますよ」
「もちろん私も。メッセージも通話履歴も、残ってるもの全部出すから」
「私も全面的に協力します。両親に会った件も含めて、必要なら整理してお伝えします」
全員、先ほどまでとはまるで違う顔をしている。裏切られて深く傷ついていることに変わりはない。それでも今は、各々が秋人を許さないという意思をはっきり持っている。彼女たちの顔を見て、私は自分が1人ではないと悟ったのだ。
「ありがとうございます。感情でぶつかるんじゃなくて、事実で固めたいです」
「その方がいいと思います。もう好きにさせたくないです」
「ここまで来たら、逃げられないように徹底的にやりましょう」
店を出る頃には外は夕方の色に染まり始めていた。私たちは連絡先を改めて確認し、必要な情報を持ち寄る約束をした。駅へ向かう3人の背中を見送りながら、自分の心が不思議と軽くなっているのを感じる。ここからは秋人の嘘に振り回されるのではなく、彼が私に与えた理不尽を1つずつ終わらせていく時間になるだろう。
1週間後、私は萌花を実家に預けてからマンションへ戻った。夕方のうちに部屋を整え、テーブルの上には必要なものを並べた。離婚届、私がまとめた時系列の表、3人から提供してもらった写真とメッセージの控え。佳奈とさつきと洋子は約束の時間より早めに来て、リビングのソファーに静かに座っている。誰も余計なことは言わなかった。もう慌てふためく段階ではないと分かっていたからだ。
「ただいま」
ドアを開けた秋人は気の抜けた顔のまま1歩中に入り、リビングの光景を見た瞬間にぴたりと足を止めた。
「なんで?」
「こっちが聞きたいんだけど」
「秋人さん、説明してもらえますよね」
「もう知らないふりは無理です」
秋人は立ち尽くしたまま、私と4人の顔を順に見た。半開きになった口がパクパクと動き、ネクタイに触れた指先も落ち着かない。
「なんでお前たちが一緒に?」
「私が呼んだの。ごまかしても無駄だよ。話は全部聞いたから」
「は?何言ってるんだよ」
「独身、バツイチ、子供はいない。1人暮らし。相手によって色々設定を変えてたみたいだね」
そう言って私は机の上に並べた書類を示した。秋人は近づこうともせず、その場で固まっている。
「私の両親に会った時のやり取りもあります。社内の予定と違っていた日も整理しました。私とのメッセージも通話記録も残ってる」
洋子が封筒を机に置く。佳奈は膝の上で手を握り、さつきは秋人から目をそらさずにいる。
「ちょっと待てよ。誤解だって。これはその誤解じゃないよ」
「いや、違う。全部ちゃんと話せば分かるから」
「分からないよ。あなたの本性はもう十分思い知った。だから今日はその先の話をするの」
それから私は離婚届を秋人の前へ押し出した。白い紙がテーブルの上を滑る音が、やけに大きく聞こえる。
「離婚してください。もちろん慰謝料も請求する。萌花の養育費もきちんと払ってもらう」
「ふざけるなよ。こんなの急すぎるだろう」
「急じゃないよ。私は前から考えてた」
「お前、こいつらの話をそのまま信じるのかよ」
その言葉にさつきが短く息を吐いた。苛立っているのが見て取れる。
「その言い訳もここまで来ると見苦しいよ。全部自分でやったことじゃないですか?私たちが嘘ついてるって言うつもりなら、そちらも相応の証拠を出してください」
3人から一斉に反撃され、秋人の目が泳いだ。机の上の紙と私たちの顔を見比べながら、逃げ道を探しているのが分かる。
「佳奈。お前とはただの会社の先輩後輩だよな」
「ただの後輩なら、なんで私の家に泊まったんですか?」
「それはその場の流れで」
「男女の関係になったのもその場の流れ?」
佳奈が涙目で睨みつけると、秋人はすぐにさつきへ視線を移した。
「さつき、お前も分かるだろ?これは大げさにする話じゃない。悪気はなかったんだって」
「私にはバツイチだって言ったよね。既婚者なのに」
「それは説明が面倒で、面倒だから嘘ついたんだ」
「最低だね」
さつきはソファーの背に持たれ、冷たく吐き捨てた。弱り果てた秋人はすがるように洋子の方を見る。
「洋子、信じてくれ。お前は他の2人とは違う。ちゃんと真剣に付き合ってたつもりだった」
「よくそんなセリフが言えますね」
「俺なりに将来を考えてたんだよ」
「本当に将来を考えていたのなら、舞子さんと別れてから私と付き合うべきでした」
痛いところを突かれた正論に、秋人は沈黙した。そしてようやく口を開いたかと思うと、絞り出すように言う。
「ちょっと頭冷やしてくる」
「逃げないで」
「逃げるんじゃねえよ」
「でも今は無理だ」
秋人は急に立ち上がり、玄関へ向かった。逃げられると思った瞬間、さつきが素早く立ち上がって彼の腕を掴んだ。
「ちょっと待ちなよ。今まで散々好き放題してたくせに、自分が追い込まれたら逃げるの?それって最高にダサいよ。男なら腹くくりなよ」
腕を振りほどこうとする秋人。しかしさつきはさらに強く腕を引き寄せ、1歩前に出て彼の行手を塞ぐ。
「さつきさんの言う通りですよ。これ以上見苦しいことはやめてください。逃げたところで何も解決しませんから」
「っていうか、本当かっこ悪いんですけど」
「今すぐ離婚届に署名しろとは言わない。でも、この話し合いが避けられると思わないで」
秋人はようやく抵抗をやめた。額には薄ら汗が滲み、呼吸が荒い。そんな秋人を見ても、私の気持ちは揺れなかった。
「分かったよ」
しぶしぶ秋人がソファーに腰を下ろした後、最初に口を開いたのは佳奈だった。
「私も秋人さんに慰謝料を請求します」
弾かれたように顔を上げる秋人。信じられないものを見るような目だった。
「私も同じこと考えてた。それなら私も請求します」
3人の発言を聞き、秋人は一瞬黙り込んだ後、急に鼻で笑った。
「は?何言ってんの?」
「聞こえましたよね。請求するって言ったんです」
「あのさ、ふざけてる。浮気したのはお前らも同罪だろ。むしろ慰謝料払う側なんだよ。バカ」
子供じみたその言い方に、私は思わず呆れを覚えた。ここまで来てもなお、秋人はまだ自分の立場を理解できていないらしい。
「秋人、違うよ。この3人はあなたに騙されてたんだから、慰謝料を払う必要はないの」
「いや、俺と会ってたのは事実だろ」
「でも既婚者だと知らされていなかった。それで一方的に加害者扱いはできないよ」
「そんなのお前が勝手に言ってるだけじゃん。俺はこいつらに金なんて払わねえぞ」
私は机の上の資料を秋人の方へ向けた。そこには誰に何をどう説明していたのかが、日付ごとに並んでいる。
「じゃあ言わせてもらうけど、洋子さんに関してはご両親にまで会ってるんだって。それはしかも、仕事が落ち着いたら実家に挨拶に行くって言ったんでしょ」
「はい。秋人さんから言われました」
ごくりと生唾を飲み込む秋人。頭を高速回転させて、この状況の突破口を探っている。
「それって、自分は既婚者なのに結婚を匂わせて、相手に時間もお金も使わせてたってことだよね」
「大げさだって」
「全然大げさじゃないよ。結婚を餌に利益を得ていたなら、結婚詐欺になる可能性もある」
「俺はそんなつもりじゃなかった」
かすれるように秋人が叫ぶ。ただ虚しく響いて聞こえた。
「内勤の佳奈さんでさえ、まっすぐに秋人を見てるよ」
「じゃあどういうつもりだったんですか?家族に隠れてこそこそ浮気してさ、都合のいいことばっかり言ってましたよね。全部自分のために」
4人で順に言葉を重ねるたび、秋人の顔から余裕が消えていく。
「いや、だからそこまで大げさな話じゃない」
「そこまでの話にしたのは自分でしょ」
「私、会社でも顔を合わせるんですよ」
「私は両親に説明しないといけません」
容赦なく秋人を攻め立てる3人。彼女たちの勢いに勇気づけられ、私も覚悟を決めた。大きく息を吸い込んで宣言する。
「これ以上、秋人が嘘をつくのを見たくない。萌花のためにも。だから私たち親子はもちろんだけど、3人に対しても誠実に向き合ってほしい」
その一言の後、秋人はすぐには何も返せなかった。口を開いては閉じ、何度も同じ動きを繰り返す。
「こんなことになるとは思わなくて」
「その言い訳、さっきから何回目ですか?」
「どういうつもりだったとしても、やらかしたことは消えないよ。もう曖昧に済ませられる段階ではありません。いい加減観念してください」
4人の言葉を受けて、秋人はしばらく黙り込んでいた。ほどまでの強がった表情は消えている。そしてようやく私の方を見た。彼の目つきが変わった瞬間、次に言い出すのがロクでもないことだとなんとなく分かった。
「舞子、ちょっと待ってくれよ」
あえて私は返事をせず、ソファーに座ったまま秋人を見返す。すると秋人はそこで急に声を震わせた。今度は強引に押し切るのではなく、哀れに訴えるつもりのようだ。
「悪かった。もう全部終わらせるから」
「終わらせるのは当然だよ。だから離婚しようって言ってるんじゃん」
「そうじゃなくて、やり直そうよ。この3人から慰謝料をもらって、それで家族を再スタートすればいいだろう」
あまりにも身勝手な提案に、佳奈ははっきりと顔をしかめた。さつきは呆れたように息を吐き、洋子は眉をひそめる。私はそこまで驚きはしなかった。秋人なら、この後に及んでまだ自分中心に考えると思っていたからだ。
「何を言ってるの?意味が分からないんだけど」
「ほら、既婚者と関係持ってたんだから、舞子から慰謝料請求すればいい」
「それはできないって説明したよね。この3人は騙されてたの」
「でも金はあった方がいいだろ。萌花のためにも」
そこで私はキッパリと言い切った。もう秋人の都合に合わせて話を長引かせる気はない。
「あなたは今、慰謝料を払いたくないだけでしょ。結局気にしてるのは自分のことばっかり」
「そんな言い方するなよ。俺は家族のことも考えてる」
「本気で家族のことを考えていた人は、浮気なんてしない」
「違うって。俺がいないとお前ら生活に困るだろう」
その一言で、自分の中に残っていた秋人への情が消え去った。今まで離婚を決めきれなかった理由の1つ。結局金の話に戻るのかと思った。秋人は私の悩みを分かっていて、それを最後の切り札のように使ってきたのだ。しばらく間を置いて、私は机の上で組んでいた手をほどき、静かに言った。
「それはもう大丈夫。生活の心配はないから」
「は?」
「私、行政書士の資格を取ったの」
「何言ってるんだよ」
縛り付けられたように秋人の表情が止まる。佳奈たちも少し驚いてこちらを見たが、私はそのまま続けた。元々言うつもりはなかったけれど、もう秋人に経済面で頼る理由がないと知らせる必要がある。
「結構前から勉強してたの。事務所には話してあって、所長の紹介で新しい就職先も決まってる」
「嘘だろ?」
「嘘じゃない。だから生活の心配で離婚をためらう段階はもう終わってるの」
これは私がずっと自分の中で用意してきた逃げ道だった。もしもの時に萌花を守れるように、秋人に黙って根気よく準備してきたのだ。
「急に言われても」
「だから急じゃない。私は前から考えてた」
「でも萌花はどうするんだよ」
「萌花は私と一緒に実家で暮らす。当然でしょ」
そこまで言うと、秋人はようやく本当に追い詰められた表情になった。何もかも自分の思った通りには進まないと分かったのだろう。
「何を言われても請求は取り下げませんから。もちろん絶対なかったことにはしない。私も必要な手続きを進めます。両親にもきちんと話して、今後のことを相談しますので、そのつもりで」
秋人は目に見えて顔面蒼白になっていった。先ほどまで活路を探していた視線は、今は所在なげに宙を彷徨っている。
「やりすぎだって」
「いや、私たちにここまでさせたの、あんただから」
「そうです。全然かわいそうだなんて思えません。今更哀れに訴える資格はないですよ」
私は机の上の書類を整え、立ち上がった。佳奈とさつきと洋子も、それぞれ静かに席を離れる。秋人1人が椅子に座ったまま、私たちを見上げていた。
「今日はこれで終わり。必要なことはこれから順番に進める。舞子、私萌花と実家にいるけど、アポなしで来たりしないでね」
そう言って私はバッグを持ち、玄関へ向かった。背後ではまだ秋人が何か言おうとしている気配がするけれど、最後まで言葉にはならなかった。振り返ると、秋人はダイニングの椅子に取り残され、机の上の離婚届と証拠の紙を見ていた。今は立ち上がることすらできないように見える。私はドアを開け、3人と共に家を出て行った。
翌日、私は萌花と一緒に実家で過ごしていた。事情を知った父と母は、秋人の所行に怒りながらも、私たちを温かく迎え入れてくれた。両親が普段通りに振る舞っているおかげか、萌花は絵を描いたりゲームをしたりと、ご機嫌で遊んでいる。その無邪気な姿に、私は大いに救われた。
昼前になって、突然スマホが震えた。画面には佳奈の名前が表示されている。私は萌花に背を向け、廊下へ出た。
「もしもし」
「舞子さん、今お時間大丈夫ですか?」
「うん。どうしたの?」
「今朝、会社の上司に全部話しました」
佳奈の口調は緊張気味だったが、どこか決意のようなものも混じっている。壁に軽く寄りかかり、私はその先を促した。
「上司って、佳奈さんの直属の?」
「はい。女性の課長で、入社してからずっと気にかけてもらってる上司です」
「そうなんだ。全部って、どこまで?」
「本当に私の知ってること全部です。秋人さんが既婚なのを隠して私に交際を申し込んでいたこととか」
無意識に私は息を止めていた。知らなかったとはいえ、既婚者と関係を持ってしまったのは事実。中には佳奈を心よく思わない人もいるだろう。そこまで告白するのは、彼女にとって簡単なことではなかったはずだ。
「秋人が浮気してるって言ったんだね」
「ばっちり言いました。社内の空気が乱れるから交際のことは黙っておこうって、秋人さんから口止めされていたことも」
「あ、口止めね」
「ですよね。今思うと怪しさ満点なのに、受け入れた自分が恥ずかしい」
社内で知られたらまずいと分かっていたからこそ、秋人は先に佳奈の口を塞いでいたのだ。その手際の良さに、みるみる気持ちが覚めていった。
「つい先日、秋人さんに奥さんとお子さんがいるって知ったことも話しましたよ」
「そうなんだ。上司の反応はどうだった?」
「ものすごく怒ってました」
「そうだよね」
そこで佳奈は呼吸を整えてから、やや低い声で続けた。
「私も初めて知ってびっくりしたんですけど、うちの課長、前に社内の人間に浮気されたことがあるそうです。だから余計に秋人さんのこと許せなかったみたいで、その場でコンプラ窓口に通報してくれました」
「その場で?すごいね」
感心しながら、私は廊下の窓から庭を見た。今朝干した洗濯物が風に揺れている。
「通報ってことは、会社にも知られたんだ」
「はい、すぐにです」
「これから秋人がどうなりそうか分かる?」
「最終的な処分は分からないですけど、今日早速聞き取り調査で呼び出されてるそうです」
佳奈の一言で、秋人が置かれた厳しい立場が一気に現実味を帯びた。昨日までは関係者のみの話だったが、もう会社の中でも説明を求められている。
「課長さん、かなり動いてくれたんだね」
「人事とコンプラに、秋人さんの悪質さを訴えてくれました。多分、私が責められないように、佳奈さんを守ってくれたんだ」
「いい上司だね」
「はい。そこは本当にありがたかったです」
それを聞いて、私は肩の力を抜いた。被害者である佳奈が非難される形になっていないと分かっただけでも、気持ちは違う。
「課長、他にも問題行動がなかったか徹底的に調べるって言ってました。勤務実態とか、社内での接し方とか、口止めみたいなことを別の人にもしてないかとか」
「え、そこまで見るんだ」
「払い出し全部確認するって言ってましたよ。課長優秀なんで、証拠ザクザク見つかると思います」
冗談めかして言った佳奈。釣られて笑いながら、私は見知らぬ彼女の上司に心から感謝した。
「佳奈さん、本当にありがとう。会社に相談するの、勇気いったよね」
「いえいえ。怖くなかったって言ったら嘘ですけど。でも黙ってたら何も解決しないと思って、頑張りました」
「そうだね」
初めて会った時は大いに動揺していた佳奈だったが、今の彼女には迷いがない。もう後戻りしないと自分でも決めたことで、気持ちが吹っ切れたのだろう。
「私、最後まで舞子さんに協力します」
「頼りにしてる。また何か分かったらすぐ連絡しますね」
「ありがとう。でも無理はしないでね」
翌日の昼過ぎ、私は実家の和室で萌花の学校用の持ち物を確認していた。母は台所で昼の片付けをしていて、縁側からはテレビの音が流れている。昨日佳奈からの電話で秋人の件が会社の中でも動き始めたと知ったばかりだったから、少し気が緩んでいたけれど、スマホにさつきの名前が表示された瞬間、その気の緩みはすぐに消えた。
「もしもし。今大丈夫?」
「うん。何かあったの?」
「多分、秋人さんの噂、思ってるより広がるよ」
どこか楽しげなさつき。事態が大きく動いたらしい。私は廊下に誰もいないのを確認すると、襖を閉めた。
「どういうこと?」
「今朝、店でこの件を少し話したの。もちろん最初は名前を出さなかったんだけど」
「うん」
「そしたら同僚の美容師が、心当たりがあるって言い出して」
予想外のセリフに、私は思わず背筋を伸ばした。さつきは間を置かずに続ける。
「うん。その同僚のお客さんに、秋人さんと付き合ってるって言ってた女性がいたみたい」
「まだ他にもいるの?」
「少なくとももう1人」
浮気相手が3人もいるという事実は、私にとって十分衝撃的だった。それなのにまだ人数が増えるのかと思うと気持ちは重く沈んだけれど、同時に呆れて笑いそうになる自分もいる。
「その人とは話せたの?」
「うん。同僚に連絡先を聞いて、さっき直接話した」
「なんて言ってた?」
「最初は信じてなかったけど、既婚者で子持ちだって伝えて、奥さんとも会ったって言ったら、たまらなかったよ」
電話の向こうで、店のドライヤーらしい音が一瞬混じった。営業の合間に連絡をくれたのだと分かる。
「ちなみにその人、バツイチで子供がいる人だった。だから余計に怒ってたよ。家庭があることの重さがすぐ分かったんだと思う」
座敷に座り込んだ私は、畳の上に視線を落とした。相手がどんな立場の人であっても、秋人は自分に都合のいい説明しかしない。重ねた嘘が、ここに来て次々と露見していた。
「その人も協力してくれるの?」
「うん。もう完全にこっち側。それだけじゃなくて、彼女かなり顔が広いの」
さつきの言葉に、ほんの少し意地悪な響きが待ち受ける。
「顔が広い?」
「うん。しかも思ったことをすぐ人に話すタイプ」
「あ、それって多分、秋人の悪評あっという間に広がるよ」
しばらく私は黙っていた。自分から噂を広めるつもりはなかったし、そういうやり方を選ぶ気もなかったけれど、秋人が自分で作った関係の中から話が漏れていくのなら、それは止めようがない。
「さつきさんは、その人にどこまで話したの?」
「奥さんと子供がいること。私たち3人のことも」
「十分だね」
「うん。萌花ちゃんのこととか余計な個人情報は話してない。でもその人かなり怒ってたから、もう止まらないと思う」
畳の縁を見つめながら、秋人がこれまでどれだけ軽く嘘を重ねてきたのかを、私は改めて考えた。1人を相手についた嘘ならまだごまかせたのかもしれない。でも相手が増えれば、いつかどこかで必ず線が繋がる。彼はそんな当たり前のことすら考えずに動いていたのだ。
「うん。私もそう思う。正直ちょっとすっきりしてる。だって自分だけ平気な顔して日常に戻るつもりだったでしょ?あの人」
さつきの不満げな様子に、私は昨日の秋人の顔を思い出した。4人から問い詰められてもなお、彼は自分がどう助かるかしか考えていなかった。
「さつきさん、連絡くれてありがとう」
「また動きがあったら言う。あの人、まだ何かボロ出てきそうだから」
「じゃあ切るね」
1ヶ月後、私は佳奈とさつきと洋子と一緒に、勤め先とは別の法律事務所の会議室にいた。机の上には離婚に必要な書類と、これまで集めた証拠の控えが整然と並べられている。秋人は約束の時間ぴったりに入ってきたが、1ヶ月前とは別人のようにやつれていた。頬はこけ、目の下には濃い隈があり、髪も髭も整っていない。けれど、そんな彼の姿を見ても、私の気持ちは全く動かなかった。
「私は秋人と離婚します。不貞行為の慰謝料も請求するし、萌花の親権も養育費も譲るつもりはありません」
秋人は椅子に座ったまま視線を落とした。虚勢を張って強がる力すら、もう残っていないように見える。
「私も請求します。既婚者だと隠されて、交際を迫られました」
「同じく、嘘を前提に関係を持たされて、深く傷つきましたから。私も慰謝料を請求します」
「家族にまで挨拶して結婚をほのめかした責任は、軽くありません」
3人の声は表面上は穏やかだったが、どれもはっきりとした意思を宿していた。誰も引き下がらないのだと分かる。
「それだけじゃない」
「なんだよ。まだあるのか」
「新しく分かった浮気相手4人も、秋人に慰謝料の支払いを求めてる」
「4人?」
聞いた瞬間、秋人の顔は一層白くなった。自分でも遊び相手を把握しきれていなかったのだろう。
「舞子、悪かった。本当に反省してる」
「もう遅いよ」
「頼む。許してくれ。ちゃんと心を入れ替えるし、俺にできることは何でもする」
「許すかどうかは、こちらが決めることです」
秋人に冷たい視線を送りながら、佳奈は言った。さつきは腕を組んだまま、秋人をまっすぐ見ている。
「俺も追い詰められてたんだよ。毎日仕事が大変でさ」
「追い詰められてたからって、奥さん裏切って浮気してもいいと思ってんの?謝罪の段階はもうとっくに過ぎています」
秋人はそこで顔を上げる。目つきが変わり、最後の悪あがきを始めたのが分かった。
「佳奈、お前だって最初は乗り気だっただろ」
「既婚者だと知らなかったからです」
「さつきもだ。一緒に楽しんだくせに、今更被害者ぶるなよ」
「被害者ぶってるんじゃない。本当に騙されてたの」
さつきと佳奈から睨まれた秋人は、すぐさま洋子へ視線を向ける。
「洋子は違うだろ。ちゃんと付き合って、結婚する気だったし」
「真剣交際だったと?ではなぜ、既婚者の存在を隠したんですか?両親に会った後も、秘密にし続けた理由は?」
「それはその、あれだ。言うタイミングがなかっただけで」
「タイミングはいくらでもあったはずですよ。安直な言い訳はやめてください。不愉快なので」
洋子の声は低く平坦だった。感情を抑えている分、言葉の重さが際立って聞こえる。
「いい加減にして。秋人は都合よく相手を利用してたんでしょ?」
「そんな風に決めつけるなよ」
「決めつけじゃない。私は3人から実際に話を聞いて、事実を確認したの」
「そんな攻め方しなくてもいいだろ。俺には俺の事情があるんだって」
そのセリフを聞いて、もはや私は秋人に何も期待していないとはっきり感じた。
「まだ自分が被害者だと勘違いしてるみたいだね」
「そりゃそうだろ。俺は被害者だ。お前ら全員で寄ってたかって、俺を潰しに来てるんだから」
「潰す?自滅したの間違いでしょ」
「うるさい。舞子が悪いんだ。女として魅力がないから浮気されるんだよ。俺に」
「お前ら3人だって、俺のこと好きで付き合ってたくせに、人のせいにするな」
秋人が感情を任せにまくし立てた途端、会議室の空気がさらに張り詰めた。私を含めた4人全員が、一斉に彼に軽蔑のまなざしを向ける。
「まだそれ言うんだ」
「だから、知らなかったって何度言えば分かるんですか?」
「この後に及んで責任転嫁をするんですね。本当、最後まで変わらないんだ」
次の瞬間、秋人は勢いよく椅子を蹴り、机を手のひらで強く叩いた。書類が大きくずれ、ペンが床に落ちる。担当弁護士が席を立ったかと思うと、会議室の外が一気に騒がしくなり、通報されたのだと分かった。私たちは誰も椅子から立たず、ただ秋人の奇行を見ていた。
「ふざけるな。俺はこんなの認めないからな」
「あなたが認めるかどうかは関係ないんだよ」
「黙れ。俺に何も指図するな。女のくせに」
「暴れたって変わらないよ。落ち着きな」
やがて会議室の扉が開き、外から警備員が入ってくる。秋人はなおも叫び続けたが、もはや形にはならなかった。
「人の気持ちを持て遊んだこと、一生許しません」
「私を都合よく使った分、ちゃんと払ってもらうから」
「よくも人の貴重な時間を無駄にしてくれましたね。でももう、その場しのぎの嘘には騙されませんよ」
「私はあなたを家族だとは思わない。さようなら」
間もなく駆けつけた警察によって、秋人は呆気なく連れて行かれた。ドアが閉まった後、私は佳奈、さつき、洋子の3人と順に顔を見合わせて、大きく息をついた。長い苦悩の日々が、これでようやく終わったのだ。
3ヶ月後、無事に離婚が成立。慰謝料、萌花の親権、そして養育費。私が求めた条件はどれも認められた。佳奈、さつき、洋子の3人をはじめとした浮気相手たちも、それぞれ少額ではあるが慰謝料を受け取ったと聞いている。慰謝料や養育費など各方面への支払いを続けるために、秋人は借金を背負うことになったという。また、会社での問題行為は不貞行為のみではなかったらしい。秋人が業務用携帯や社内メールで女子社員に不適切な連絡をしていたことや、顧客と不適切な距離で関わっていたことまで発覚したのだ。その結果、彼は地方支社への移動と大幅な減給が決まったけれど、移動先での仕事は長くは続かなかった。秋人は新しい職場に馴染めず、最終的に自主退職したそうだ。今は養育費の支払いと借金返済のために、いくつかのアルバイトを掛け持ちしているという。朝も夜も関係なく働いていると人づてに聞いたが、同情は分かなかった。守るべき家族を裏切り、他人をないがしろにし続けた結果が、ようやく自分自身に帰ってきただけだ。最後まで秋人は、何を失ったのかを本当の意味では分かっていなかったのだろう。けれど、もうそれを私が考えてやる義理はない。秋人がたどった末路は、あまりにも当然の行き先だと思う。
離婚から半年後、私は萌花と一緒に実家で暮らしている。両親を含めた4人での生活は賑やかで楽しい。朝になると母が食事を作ってくれ、父は新聞を読みながら萌花の相手をしてくれる。その間に私は身支度を整え、実家の近くにある行政書士事務所へと向かうのだ。今の職場には、私と同じように子供を育てながら働く人が多い。急な遅刻や早退にも比較的理解があり、学校から連絡が入った日も、肩身の狭い思いをせずに済む。仕事そのものは覚えることが多いけれど、以前よりずっと落ち着いて働けていると思う。
佳奈、さつき、洋子とは定期的に会って、近況を話せる間柄になった。仕事のこと、体調の話、時には恋愛の相談まで、何でも気軽に共有できる友人たちだ。3人とも萌花のことを随分可愛がってくれる。会うたびにお菓子や文房具を持ってきたり、お年玉やお小遣いを渡そうとしたりするので、その度に私は慌てて止める。それでも全員笑って、「萌花ちゃんのおかげで目が覚めたんだから」という。
あの日、玄関で見つけた1台のスマホから、私の生活は大きく変わった。正直、失ったものは大きい。でも、あのまま何も知らずに結婚生活を続けた未来より、ずっとマシな場所にいるはずだ。ようやく私は、自らの人生を自分の手に取り戻せたのだと思う。



