結婚式の最中、私は三列目の後方に、黒いスーツを着た男を見た。肩のライン、立ち姿、顎の角度。すべてが、二十年前に交通事故で死んだ夫、鈴木健一とそっくりだった。心臓が止まるかと思った。まさか、あの人が生きているなんて。
その瞬間、背後で息子の拓也が声をかけた。「お母さん、あの男の人は誰ですか? 私たちの結婚式に来ているんですけど。」
私は答えられなかった。ただ、震える手でスーツの裾を握りしめた。
横浜のウェディングホール。午後三時、晩秋の陽光が全面ガラス窓から降り注いでいた。花束の香りとシャンパンの泡が空気に混ざり合う。私は五十二歳。二十年間、女手一つで育てた息子の結婚式だ。泣いていた赤ん坊が、いつの間にか新郎の衣装をまとって立っている。
私は黒いフォーマルドレスを着ていたが、指先が絶えず震えていた。それは喜びだけが理由ではなかった。
「さあ、新郎のお母様、こちらをご覧ください。」
四十代のウェディングカメラマン、佐藤がカメラを構えて叫んだ。彼はこのホールの常連で、三百組以上のカップルを撮ってきたという。しかし今日に限って、シャッターを押す手が何度も止まった。
「お母様、もう少し目を開けてください。眠そうな表情だと、一生ものの写真が台無しになりますよ。」
私は無理に微笑んだ。しかし視線は、三列目の後方に向いていた。受付の近くに、黒いスーツの男が立っていた。
心臓がドキリと音を立てて落ちた。
鈴木健一。二十年前に交通事故で死んだ夫。いや、死んだと信じていた夫。
私は男の顔を追った。しかし人々の間に隠れて、よく見えなかった。気のせいだろうか。そんなはずはない。二十年連れ添った人の後ろ姿を、忘れるはずがない。
「お母様、しっかりしてください。今、視線が全然違うところに向いていますよ。」
佐藤が苛立ったような声で叫んだ。私は首を振った。フラッシュが焚かれた。しかし、私の表情は固まっていた。
花屋のみさき(四十八歳)がブーケを持って近づいてきた。彼女はこのホールで十年以上花を納品してきた。人の表情を読むことにも長けていた。
「お母様、幽霊でも見ましたか? 顔が真っ青ですよ。」
私は唇を噛んだ。返事の代わりに首を横に振った。みさきが水のペットボトルを差し出した。
「お水、一口どうぞ。緊張しているのが分かりますから。」
私は水を受け取ったが、飲むことができなかった。手が震えて、ボトルをまともに持てなかった。みさきが私の手を包み込んだ。
「大丈夫ですよ。深く息を吸ってみてください。」
私は目を閉じ、息を吸い込んだ。しかし目を開けるや、再びあの男を探した。消えていた。受付の横は空っぽだった。
式が終わり、参列者たちが引き上げていった。私は椅子に崩れるように座った。足から力が抜けていた。
佐藤がカメラを片付けながら近づいてきた。
「お母様、今日の写真、少し変に映っていますよ。ずっと表情が暗かったので。」
私は答えなかった。佐藤が液晶画面を回して見せた。写真の中の私は微笑んでいたが、目は不安げだった。視線はカメラではなく、別の場所を向いていた。
「何かあったんですか?」
私は首を横に振った。しかし心の中は混乱していた。確かに健一を見た。見間違いではない。しかし、どうしてそんなことがあり得るのだろう。二十年前、私は自ら霊安室で夫を確認し、死亡診断書に判を押したのだ。
翌朝、拓也と嫁の桜が受付を整理していた。新居のリビングのテーブルの上に、祝儀袋が山積みになっていた。桜が一つを手に取った。
「まあ、この祝儀袋、高級だわ。」
拓也がそれを受け取った。高級な和紙に筆文字で書かれたお祝いの言葉。その下に、小さな文字で「私たちのゆうちゃんへ」とあった。
拓也の手が止まった。「ゆうちゃん?」
桜が首をかしげた。「誰かが私のことをゆうちゃんって呼ぶの?」
拓也は答えなかった。唇がカラカラに乾いていた。ゆうちゃん。その名前は、父が自分につけたあだ名だった。母のお腹の中にいる時、父は自分をゆうちゃんと呼んでいたと、母が話してくれたことがあった。
拓也は祝儀袋を裏返した。名前も住所もなかった。中を覗き込むと、一万円札が数枚入っていた。
拓也はスマートフォンを手に取り、母に電話をかけた。
私は祝儀袋を受け取った。手が震えた。引き出しを探り、古い手紙の封筒を取り出した。二十年前に健一が病院で書いた手紙だった。
「ゆうちゃんへ。父さんは君を待っているよ。」
文字を照らし合わせた。角度、線の太さ、点の位置。一つ一つを比較した。すべてが同じだった。完璧に一致していた。
私の目から涙がこぼれ落ちた。二十年間、固く凍らせていた記憶が溶け出した。結婚式で見た後ろ姿、祝儀袋の筆跡。すべてが健一を指していた。
「あなた、生きているの?」
私は呟いた。部屋は静まり返っていた。答えはなかった。しかし、私の心はすでに確信していた。
その日の午前十一時、結婚式の開始一時間前。私はウェディングホールの入り口に立ち、バージンロードを眺めていた。白い布が敷かれ、両脇に参列者用の椅子が並んでいた。祭壇には新郎新婦が立つ場所が設けられていた。
「家族は消えたりしない。」
私は呟いた。独り言だった。しかし、その言葉には二十年の重みが込められていた。
二十年前、私は一人で子供を育てた。おむつを変え、ミルクを作り、一晩中泣いた。夫なしで、父親なしで。三つの仕事を掛け持ちして学費を稼いだ。運動会にも卒業式にも一人で行った。
「お母さん。」
背後から声が聞こえた。拓也だった。二十九歳。今日の新郎、タキシードを着た息子が近づいてきた。
私は涙を拭って笑った。「拓也、本当に素敵よ。」
拓也が私の手を握った。「お母さんのおかげです。」
私は首を横に振った。喉が詰まった。「いいえ。あなたが立派に育ってくれたからよ。」
拓也は母の手を強く握った。その手は荒れていた。二十年の労働が刻まれた手だった。食堂の皿洗い、工場の夜勤、コンビニのレジ。そのすべての時間が、この瞬間のためだった。
「準備はできた?」
私が訪ねた。声が震えていた。
「はい。準備できています。」
拓也は答えた。しかし、彼の目も揺れていた。今日、父親なしでバージンロードを歩くこと。その空席が、一際大きく感じられる日だった。
私は神父の控室に向かった。桜がドレスを着ていた。二十八歳、顔には緊張が満ちていた。
「お母様。」
桜が私を見て立ち上がった。私は嫁の手を握った。「桜さん、綺麗よ。」
桜の目元が赤くなった。「お母様、これからよろしくお願いします。」
私は頷いた。言葉なく嫁を抱きしめた。桜の肩が小さく震えた。
「よろしくね。」
私は囁いた。桜は答えた。「はい。お母様。」
カメラマンの佐藤が控え室のドアをノックした。「お母様、先に写真を撮っておきましょうか。式が始まると忙しくなりますから。」
私がドアを開けると、佐藤がカメラを持って入ってきた。みさきもブーケを持ってついてきた。
「新婦さん、まさに女神ですね。今日の写真は最高傑作になりますよ。」
佐藤が言った。みさきがドレスの裾を整えた。「お花が本当によくお似合いです。白いバラは新しい始まりを意味するんですよ。」
私は窓の外を眺めた。参列者たちが一人、また一人と入ってきていた。親戚、友人、会社の同僚。皆、祝いに来た人々だった。
その時だった。三列目の後方に、黒いスーツの男が現れた。身長、体格、歩き方。すべてが見慣れたものだった。
私の息が止まった。「あの人…」
私は呟いた。みさきが首を巡らせた。「どこですか?」
しかし、男はすでに椅子の影に消えていた。私は目をこすった。見間違いであってほしかった。しかし、心はすでに分かっていた。
「お母様、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。」
みさきが心配そうな表情で訪ねた。私は首を横に振った。「いいえ、大丈夫よ。」
大丈夫だと言ったが、声が震えていた。みさきは私の表情を伺った。何か尋常ではないことが起きていると感じた。
式が始まった。オルガンが鳴り響いた。参列者たちが立ち上がった。拓也がバージンロードを歩き出した。私が息子の腕を取った。ゆっくりと歩いた。一歩、また一歩。フラッシュが焚かれ、拍手が聞こえた。
しかし、私の視線は三列目の後方に向いていた。男が立っていた。顔は見えなかった。しかし、肩のライン、立ち姿、頭を下げる角度。すべてが健一だった。
私の足がふらついた。拓也が母を支えた。「お母さん?」
私は首を振った。無理に微笑んだ。「大丈夫。続けましょう。」
しかし、私の心臓は狂ったように鼓動していた。二十年前の記憶が押し寄せてきた。病院の廊下、霊安室、冷たい遺体、死亡診断書に押した判。それなのに、どうしてあの人がここにいるのだろう。
祭壇に到着した。新郎新婦が入場した。司会者が祝いの言葉を述べた。指輪の交換、誓いのキス。すべてが完璧だった。しかし、私は何ひとつまともに見ることができなかった。
式が終わった。参列者たちが拍手をした。新郎新婦が退場した。人々が披露宴会場へと移動していく。私は三列目の後方へ走った。男を探した。しかし、すでに消え去った後だった。空の椅子だけが残っていた。
「お母様。」
佐藤が後ろから呼んだ。「家族写真を撮りますよ。どこへ行くんですか?」
私は立ち止まった。ゆっくりと振り返った。佐藤がカメラを構えていた。みさきがブーケを整理していた。
「はい。」
私は答えた。しかし、声に力はなかった。
家族写真を撮った。新郎新婦の隣に私が立った。フラッシュが焚かれた。しかし、写真の中の私の目は不安で、どこか別の場所を見ていた。空席を。二十年前に消えた人が立つべきだった場所を。
午後、式が終わり、披露宴の準備が真っ盛りだった。準備室はごった返していた。新婦の友人たちが化粧を直し、親戚たちが祝儀袋を整理していた。ケータリングのスタッフが料理を運んでいた。
佐藤がカメラのバッテリーを変えながら愚痴をこぼした。「今、本当にありえないですよ。新婦の友人、百人はいますよね。まつ毛一本一本まで綺麗に撮らないといけないのに、俺の手首が先に壊れそうだ。」
彼は首を左右に回した。骨がポキポキと音を立てた。すでに三百枚以上の写真を撮っていたが、仕事はまだ終わっていなかった。
みさきが花束を並べ替えながら笑った。「佐藤さん、また愚痴ってる。まつ毛より心が大事だって言うのに。」
「花は嘘をつかないわ。人は嘘をつくけど。」
佐藤は花で笑った。「みさきさんはいつも花の話ばっかりだ。花だって枯れたら捨てられる。同じことですよ。」
二人はいつも通り軽口を叩き合っていた。十年以上ホールで働き、お互いをよく知っていた。
桜は鏡の前で口紅を直していた。手が震えていた。緊張が解けなかった。友人が肩を叩いた。「さ、すっごく綺麗。旦那さん、惚れ直しちゃうよ。」
桜は笑った。しかし、ぎこちない顔だった。「お母様はどこかしら?」
友人が首を巡らせた。「さっき廊下の方へ行かれたみたいだけど。」
私は廊下に立っていた。披露宴会場の入口、受付テーブルの横。あの男が立っていた場所。誰もいなかった。しかし、私はその場所をじっと見つめていた。心臓が早く鼓動し、手のひらに汗が滲んだ。
「本当にあなただったの?」
私は呟いた。声が震えていた。答えはなかった。静かな廊下が広がっているだけだった。
みさきが水のペットボトルを持って近づいてきた。「お母様、どうしてここに? お水、どうぞ。顔が真っ青ですよ。」
私はボトルを受け取ったが、飲めなかった。手が震えて、ボトルが揺れた。みさきが私の手を支えた。
「お母様、何かあったんですか? 話してください。私、ここで十年以上働いて、色々なことを見てきましたから。」
私はみさきを見つめた。話すべきだろうか。しかし、どこから説明すればいいのか分からなかった。二十年前に死んだ夫を見たと話せば、頭がおかしいと思われるに決まっていた。
「いいえ、大丈夫よ。」
大丈夫だと言ったが、目は揺れていた。みさきは首をかしげた。何か尋常ではないことが起きている。
「お母様、もしかして、さっき誰かを見ましたか? 式の間、ずっと後ろの方を見ていましたよね。」
私の唇が固まった。みさきの観察力は鋭かった。
「いいえ、誰も…」
言葉尻が消え入るようだった。みさきはそれ以上は聞かなかった。代わりに静かに言った。
「私ね、死んだ人が生き返ることも信じているんです。花が一度枯れても、また咲くみたいに。根っこが生きていれば、いつかまた花は咲きますから。」
私はみさきを改めて見た。どういう意味だろう。みさきは微笑んで、ボトルを握らせた。「お水をどうぞ。今日はとてもお疲れでしょう。」
佐藤が廊下に出てきた。カメラを手にしていた。「お母様、ここにいらっしゃったんですね。家族写真を撮りますよ。みんな待っています。」
私は頷いた。佐藤について披露宴会場に入った。しかし、足取りは重かった。
披露宴会場の天井には防犯カメラが取り付けられていた。私はカメラを見上げた。あのカメラは、あの男を捉えただろうか。証拠は残っているだろうか。
「お母様、こちらです。」
佐藤が叫んだ。私は祭壇の前へ向かった。拓也と桜が立っていた。親戚たちが両脇に並んだ。
「はい、皆さん、いち、に、さん。」
フラッシュが焚かれた。私は笑おうとした。しかし、口元がわずかに上がるだけだった。本当の笑顔ではなかった。
佐藤が液晶を確認して顔をしかめた。「お母様、表情が硬すぎます。もう一枚撮りますね。」
再びフラッシュが焚かれた。しかし、私の目は以前として不安げで、視線は受付の方へ何度も向かった。
披露宴が始まった。参列者たちが食事をし、音楽が流れた。新郎新婦がテーブルを回って挨拶をした。私は席に座っていた。料理を口に入れたが、噛むことも飲み込むこともできなかった。ずっと受付ばかりを見ていた。
みさきが隣に座った。「お母様、本当に召し上がらないんですか? 今日一日、何も食べていないようですが。」
私は首を横に振った。「食欲がないの。」
みさきがグラスに水を注いだ。「それなら、せめてお水を。脱水症状になったら大変ですよ。」
私は水を飲んだ。喉が焼けるように乾いていた。一口、二口と水を飲み干した。
佐藤がテーブルの間を回りながら写真を撮っていた。参列者たちの笑顔、会話する様子、食事をする風景。その時、佐藤のカメラが受付を捉えた。一瞬、動きが止まった。
「あの祝儀袋…」
佐藤は呟いた。一つの祝儀袋が目に留まった。他の袋とは違っていた。高級感があった。佐藤は近づいて袋を覗き込んだ。筆文字、線の流れ。どこかで見たことがあるような気がした。
「この筆跡、どこで見たんだっけ?」
佐藤は首をかしげた。思い出せなかった。しかし、確かによく知っている文字だった。
披露宴が終わる頃、私は静かに席を立った。受付に近づき、袋を覗き込んだ。和紙の袋が見えた。手を伸ばし、袋に触れた。厚みがあった。
「お母さん。」
後ろから拓也の声が聞こえた。私は手を引っ込めて振り返った。「どうしたの?」
「明日、僕たちが整理しますから、お母さんは休んでください。」
私は頷いた。しかし、視線は依然として和紙の袋に向けられていた。
その夜、私は眠れなかった。天井を見つめながら、結婚式の光景が何度も頭に浮かんだ。黒いスーツの男、肩のライン、歩き方。すべてが健一だった。
「あなたなの?」
私は暗闇の中で呟いた。答えはなかった。
翌日の午前十時、拓也と桜の新居。リビングのテーブルの上に祝儀袋が山積みになっていた。大きさも様々な袋。ピンク、金色。拓也がノートパソコンを開き、エクセルファイルを開いた。受付のリストを作るためだった。
桜が袋を一つずつ手に取った。「田中さん、十万円。鈴木さん、五万円。」
拓也がタイピングをした。カチャカチャというキーボードの音が静かなリビングに響いた。
「これ、本当に多いわね。百五通くらいありそう。」
拓也はため息をついた。桜は笑った。「でも、幸せな悩みじゃない。」
袋を一つずつ開け、お金を数え、名前を確認し、エクセルに入力する。同じ作業を繰り返した。
その時、桜の手が止まった。一つの祝儀袋だった。他の袋とは違っていた。高級感があり、厚みがあった。表面はザラザラとしていて、伝統的な和紙の質感だった。
「まあ、この袋、何すごく高級なんだけど。」
桜は袋を光にかざしてみた。筆文字が見えた。黒い墨で書かれた文字。線が太く力強かった。「お祝い申し上げます。」その下に、小さな文字があった。桜は目を細めた。「私たちのゆうちゃんへ。」
「ゆうちゃん?」
桜は首をかしげて拓也を見た。「ねえ、誰かが私のことをゆうちゃんって呼ぶの。私の名前は桜なのに。」
拓也は袋を受け取った。息が止まった。ゆうちゃん。その名前は自分のあだ名だった。母のお腹の中にいる時、父がつけた名前。母が時々思い出話として口にしていた。「お父さんはね、あなたのことをゆうちゃんって呼んでいたのよ。」
拓也の手が震えた。袋を裏返した。名前も住所もなかった。中を覗き込むと、一万円札が十枚入っていた。
「十万円…」
桜は呟いた。しかし、拓也はお金を見ていなかった。ただ文字だけを見つめていた。
「ねえ、これ、誰が送ってきたの? 何だか変よ。」
桜の声は不安げだった。拓也は答えず、スマートフォンを取り出した。母に電話をかけた。
「お母さん、今すぐ来られますか? 急いでいます。」
声が震えていた。
私は三十分で到着した。息を切らしていた。タクシーで駆けつけたのだ。玄関のドアを開けて入ってきた。
「どうしたの?」
拓也が和紙の祝儀袋を渡した。私は袋を受け取った。手が凍りついた。
「私たちのゆうちゃんへ」
四つの文字。二十年前の記憶が押し寄せてきた。病院の廊下、新生児室のガラス窓。夫が赤ん坊を見て笑っていた。「ゆうちゃん、父さんだよ。」
私の目から涙がこぼれた。
「お母さん?」
拓也が驚いて駆け寄った。私は袋を強く握りしめた。髪がくしゃくしゃになった。
「この文字、誰が書いたんですか?」
桜が恐る恐る訪ねた。私は答えなかった。バッグを探り、古い手紙の封筒を取り出した。いつも持ち歩いているものだった。二十年前の手紙。夫が病院で書いた最後の手紙。出産当日の朝、会社へ行く前に残した手紙。
「ゆうちゃんへ。父さんは君を待っているよ。お母さんと一緒に元気に生まれておいで。愛してる。」
私は二つの文字を並べた。テーブルの上に光が文字の上に降り注いだ。比較した。最初の点、最後の払い、角度。すべてが同じだった。線の丸みを帯びた部分、曲線、力強さ。完璧に一致していた。線の太さ、点の位置。一つも違わなかった。
拓也が二つの文字を覗き込んだ。息を止めた。「これ、同じ人が書いたんですか?」
桜も顔を寄せた。「本当にそっくり。これ、絶対に同じ人の字ですよ。」
私の唇が震えた。声が出なかった。ただ頷くだけだった。
「じゃあ、父さんが…」
拓也の声が大きくなった。「父さんが生きているってことですか?」
私は目を閉じた。涙が頬を伝った。「分からない。」
小さな声だった。震えていた。
「父さんは亡くなりました。二十年前に。」
拓也はきっぱりと言った。しかし、声の終わりは震えていた。「じゃあ、これは何なんですか? 誰かがいたずらしているんですか?」
桜は訪ねた。私は再び袋を手に取り、裏返し、表裏をくまなく調べた。何か手がかりはないかと。しかし、何もなかった。
拓也が手紙を手に取り、光にかざした。「この手紙、いつ受け取ったんですか?」
「あなたが生まれた日よ。二〇〇五年の三月十五日。その日の朝、お父さんが会社へ行く前に書いてくれたの。」
拓也の手が震えた。二十九年前の手紙。自分が生まれた日に、父が最後に残した言葉。その日に事故が…
私は頷いた。「帰り道に、交差点で。」
リビングが静まり返った。時計の音だけがカチカチと響いた。
桜が袋の中をもう一度確認した。「他に何か入っていませんか? メモとか名刺とか。」
私は袋を受け取り、再び中を探った。手を入れて隅々まで触った。しかし、何もなかった。お金だけだった。
「お札に何か書いてあるかもしれません。」
桜がお札を一枚ずつ広げ、光にかざした。しかし、何の印もなかった。綺麗な新札だった。
私はスマートフォンを取り出し、カメラマンの佐藤に電話した。
「佐藤さん、今お電話大丈夫ですか?」
「はい。お母様、どうされました?」
「あの防犯カメラの映像、確認できますか?」
「ウェディングホールの防犯カメラですか? 何かあったんですか?」
佐藤はいぶかしんだ。
「確認したい人がいるんです。お願いします。」
私の声は切迫していた。佐藤は少し躊躇した。「お母様、もしかして、昨日のあの男性のことですか?」
私は返事の代わりにため息をついた。
「分かりました。僕、ウェディングホールの事務所と仲が良いので、確認してみます。」
電話を切った。私は再び祝儀袋を見下ろした。「私たちのゆうちゃんへ。」夫の文字、夫の声。二十年ぶりに戻ってきた痕跡。
「お母さん、これ、本当に父さんが書いたんですか?」
拓也が再び尋ねた。私は頷いた。「筆跡は間違いないわ。完全に同じ。」
「じゃあ、父さんは生きているってことじゃないですか?」
拓也の声が高くなった。
「そんなはずない。私は見たの。霊安室で冷たくなったあなたのお父さんを。死亡診断書にも判を押したわ。」
拓也は口を閉ざした。桜が彼の手を握った。私は祝儀袋を胸に抱いた。心臓が張り裂けそうに鼓動していた。
「ねえ、本当にあなたなの?」
私は囁いた。答えはなかった。
その日の後、拓也の新居のリビングは重い沈黙に包まれていた。私はソファに座り、祝儀袋を見つめていた。手が震えていた。二十年間、固く凍らせていた記憶が溶け出していた。
拓也は窓の外を眺め、拳を握り、開き、また握った。
「お母さん。」
拓也は振り返った。声が低かった。「父さんは亡くなりました。二十年前に。」
私は顔を上げた。息子の目は冷たかった。
「じゃあ、これは何なんですか? 誰かが俺たちをからかっているんですか?」
拓也の声が高くなった。桜が彼の腕を掴んだ。「あなた、落ち着いて。」
拓也は手を振り払った。「どうやって落ち着けって言うんだ? 死んだ人が祝儀を送ってきたんだぞ。ありえないだろう。」
私は唇を噛んだ。返す言葉がなかった。拓也の言う通りだった。ありえないことだった。
「分かってるわ。」
私は小さく言った。「ありえないことだって。でも、この筆跡を見て。完全に同じなのよ。」
拓也はテーブルの上の手紙を掴み、くしゃくしゃにした。「じゃあ、何なんだ? 幽霊でも現れたのか。それとも、誰かが筆跡をそっくりに真似したのか。」
私は首を横に振った。「筆跡は真似できない。特に筆文字は、力の強弱、速さ、角度、すべてが違うものなの。」
拓也は手紙を投げ捨てた。紙が床に落ちた。「じゃあ、一体何なんだ?」
桜が手紙を拾い、そっと広げた。「お母様。もしかしたら、お父様が本当に生きていらっしゃる可能性もあるんじゃないでしょうか。」
拓也が桜を睨みつけた。「何を言ってるんだ。バカなこと言うな。」
桜はびくっとした。拓也の声はあまりにも大きかった。「ごめん。でも、可能性はあるじゃない。」
拓也は壁を殴った。ドーンという音が響いた。「可能性なんてあるわけないだろう。お母さんが霊安室で直接確認したんだぞ。死亡診断書もあるんだ。」
私は目を閉じた。あの日が蘇る。二十年前のあの日。病院の廊下の冷たい空気。霊安室のドア。白い布で覆われた。布をめくった時の夫の青白い顔。閉じた目。冷たい肌。
「そうよ。」
私は呟いた。「私は見たわ。あなたのお父さんが死んでいる姿を。」
しかし、声には確信がなかった。
拓也はソファに崩れるように座り、頭を抱えた。「じゃあ、一体誰がこんなことを? 何のために?」
誰も答えられなかった。
スマートフォンが鳴った。佐藤からだった。私が電話に出た。
「お母様、ウェディングホールの事務所を通して、防犯カメラを確認しました。」
私の心臓が早くなった。「何か分かりましたか?」
「男の人が映っていました。受付の前に。でも、顔がよく見えないんです。角度のせいで。」
私は息を飲んだ。「ファイルを送ってもらえますか?」
「はい、今送ります。でも、お母様…」
佐藤はためらった。
「何ですか?」
「奇妙な点があるんです。その男の人が祝儀袋を入れる時、十二秒ほど映像が途切れているんです。」
私の目が大きくなった。「途切れてる?」
「はい。元のファイルがそうなっているんです。削除されたのか、エラーなのかは分かりません。」
電話を切った。私は拓也を見た。「防犯カメラに男の人が映ってたって。でも、顔は見えないそうよ。」
拓也が顔を上げた。「じゃあ、確認しようがないじゃないですか。」
私はスマートフォンを覗き込んだ。佐藤から送られてきたファイルが届いていた。動画を再生した。白黒の映像。披露宴会場。参列者たちが動いている。受付。黒いスーツの男が現れた。頭を下げている。祝儀袋を入れる。そして、画面が乱れた。ノイズが入る。十二秒。再び画面が戻った時、男は消えていた。
「これを見て。」
私はスマートフォンを拓也に渡した。拓也と桜が一緒に見た。
「どうして途切れてるの?」
桜が訪ねた。拓也が映像を巻き戻した。男の手が見えた。左手。祝儀袋を入れる手。拡大した。
「あそこに指輪が…」
桜が画面を指差した。薬指に銀色の指輪が光っていた。
私は画面を凝視した。心臓が止まるかと思った。「あの指輪…」
声が震えた。「あなたのお父さんの結婚指輪よ。」
拓也が画面をさらに拡大した。指輪の内側に文字が見えた。ぼやけていたが、読めた。「S」と「K」。
「しず子と健一のイニシャル。特注で作った指輪。二十年前に結婚した時に作ったもの。」
拓也の声が震えた。「これ、本当に父さんの指輪じゃないですか?」
私は自分の薬指を見た。同じ指輪がはめられていた。「S」と「K」。二十年間、一度も外したことのない指輪。
リビングが再び静まり返った。桜が恐る恐る言った。「お母様、探偵に依頼した方がいいんじゃないでしょうか。専門家に調べてもらうべきだと思います。」
私は頷いた。「そうね。」
拓也が立ち上がった。「僕も一緒に行きます。はっきりさせたい。これが本当なのか、そうじゃないのか。」
私は息子を見た。拓也の目は揺れていた。怒りの裏に隠されていたのは、恐怖だった。父親が生きているかもしれないという恐怖。
そして、来た。
その夜、みさきから電話があった。「お母様、大丈夫ですか? 今日一日、心配していました。」
私はため息をついた。「みさきさん、変な質問をしてもいいかしら?」
「はい。何でも。」
「もし、死んだ人が生き返ったら、そんなことってあり得ると思う?」
みさきは少し黙った。そして、静かに言った。「私ね、すべては可能だと信じているんです。花だって、一度枯れてもまた咲くでしょう。根っこが生きていれば。人も、もしかしたらそうなのかもしれませんね。」
私は涙を拭った。「ありがとう。」
電話を切った。窓の外を見た。夜が深まっていた。星が輝いていた。
「あなた、本当に生きているの?」
私は呟いた。祝儀袋を強く握りしめた。明日、探偵に会うことにした。真実を確かめるために。怖いが、知らなければならなかった。消えた夫と、封印された真実を。
翌日の午前、私と拓也はウェディングホールの事務所へ向かった。佐藤が事務所のドアを開けてくれた。「どうぞ。マネージャーには許可を取りました。」
狭い事務所だった。机の上にモニターが置かれていた。佐藤がマウスを動かし、ファイルを開いた。「見てください。披露宴会場のメインカメラです。」
白黒の映像が再生された。参列者たちが動き、時間が早送りされていく。佐藤が受付の前で止まった。「ここからです。」
受付が画面に移った。午後三時二十七分、黒いスーツの男が現れた。頭を下げていて、顔は見えなかった。私は息を止めた。肩のライン、歩き方、立ち姿。すべてが夫だった。男が鞄から祝儀袋を取り出した。左手で。薬指の指輪が光った。
「そこです。止めてください。」
拓也が言った。佐藤が一時停止を押した。拓也が画面を指差した。「指、拡大できますか?」
佐藤が画面を拡大した。ピクセルは荒かったが、指輪が見えた。銀色でシンプルなデザイン。内側に二文字がかすかに見えた。
私は自分の薬指を見た。同じ指輪。「S」と「K」。二十年前の結婚指輪。
「この指輪、お母さんのと同じですよね。」
拓也の声が震えていた。私は頷いた。「オーダーメイドよ。世界に二つしかない。」
佐藤が再生を続けた。男が祝儀袋を受付の箱に入れた。その時だった。画面が乱れ、ノイズが入り、灰色の画面になった。時間は止まった。いや、過ぎてはいたが、映像がなかった。十二秒。正確に十二秒。再び画面が戻った時、男は消えていた。
「どうして途切れているんですか?」
拓也が訪ねた。佐藤は肩をすくめた。「僕にも分かりません。元のファイルがこうなんです。他のカメラも確認しましたが、廊下の防犯カメラも同じ時間帯に切れていました。」
「偶然ですか?」
私が訪ねた。佐藤は首を横に振った。「ううん。偶然にしては正確すぎますね。ちょうどその人が出ていく時間だけが途切れているんですから。」
拓也は拳を握った。「誰かが意図的に消したんですね。」
私は画面を凝視した。消された十二秒。その間に何があったのか。男はどこへ行ったのか。
みさきがコーヒーを持って入ってきた。「お母様、コーヒーどうぞ。お砂糖は入れていません。」
私はコーヒーを受け取った。温かさが手に伝わった。
「みさきさん、結婚式の日に、あの男の人を見ましたか?」
みさきは画面を覗き込み、首をかしげた。「ううん。後ろ姿だけですが、はっきりとは。」
「どんな印象でしたか?」
みさきは記憶をたどった。「静かな方でしたね。参列者の方々とは交わらず、一人で立っていました。言葉も発さずに。」
私は頷いた。夫もそういう人だった。人混みが嫌いで、いつも静かに隅の方にいた。
「ファイル、コピーしてもらえますか?」
拓也が訪ねた。佐藤がUSBメモリを取り出した。「入れてあります。どうぞ。」
拓也はUSBを受け取り、ポケットに入れた。「ありがとうございます。」
「いえいえ。それで、これからどうするんですか?」
私はスマートフォンを取り出した。昨日検索した探偵事務所の番号があった。「専門家に依頼します。」
電話をかけると、コール音が二度、三度なった。
「はい。高橋探偵事務所です。」
落ち着いた女性の声だった。
「ご相談したいのですが。」
「どのようなご要件でしょうか?」
私は一瞬ためらった。どこから説明すればいいのだろう。
「…いえ、死亡した人を探してほしいんです。」
電話の向こうが静かになった。
「死亡された方ですか?」
「はい。二十年前に。でも、生きているかもしれないんです。」
高橋と名乗った探偵はため息をついた。「今日の午後二時にこちらへお越しいただけますか? 直接お会いして、お話を伺う必要がありそうです。」
「はい、伺います。」
電話を切った。私は拓也を見た。「午後に探偵に会いに行くわ。」
拓也は頷いたが、表情は固かった。
午後二時。都内のあるビルの三階。高橋探偵事務所という小さなプレートが掲げられていた。ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。
ドアを開けると、そこは狭い事務所だった。机と椅子、ファイルキャビネット。壁には資格証や写真が飾られていた。
高橋が立ち上がって握手を求めた。四十代前半だろうか。短い髪、鋭い目。
「お座りください。」
私と拓也が椅子に座った。高橋はノートを開き、ペンを手に取った。「ゆっくり、最初からお話しください。」
私は息を吸い込み、話し始めた。二十年前の事故のこと、結婚式で見た後ろ姿、祝儀袋、筆跡、防犯カメラ、指輪。
高橋は黙って聞き、メモを取った。質問はしなかった。私が話し終えると、高橋はペンを置いた。
「死亡診断書はお持ちですか?」
「はい。」
「保険金は受け取りましたか?」
私は頷いた。「一部だけです。残りは、書類に問題があるとかで…」
高橋の目が鋭くなった。「書類の問題?」
「はい。当時、保険会社から連絡があって、何かおかしいと。でも、私も気が動転していて、そのままになってしまって。」
高橋はメモを取った。「調べてみましょう。USBをいただけますか?」
拓也がUSBを渡した。高橋はノートパソコンに差し込み、映像を再生した。十二秒途切れた部分を繰り返し見た。
「これは削除ですね。意図的な。」
高橋はきっぱりと言った。
「確かなんですか?」
「はい。タイムスタンプを見てください。時間は流れ続けているのに、映像だけがない。誰かが編集したものです。」
私の心臓が早くなった。「じゃあ、本当に何か隠していることがあるんですね。」
高橋は頷いた。「一週間ください。病院の記録、事故の記録、保険の書類。すべて確認します。」
私はバッグから祝儀袋を取り出した。「これも、指紋やDNA、確認できますか?」
高橋は袋を受け取り、慎重に中を覗き込んだ。「やってみましょう。」
しかし、彼女は私をまっすぐに見つめた。「お母様、真実があなたの望むものと違うかもしれません。それでも大丈夫ですか?」
私は目を閉じ、息を吸い込んだ。そして答えた。「大丈夫です。知りたいんです。真実を。」
「分かりました。調査を開始します。」
その夜、拓也の新居。拓也はソファに座り、ぼんやりと天井を眺めていた。探偵事務所から帰ってきてから、一言も話していなかった。
桜が水のグラスを差し出した。「あなた、お水飲んで。」
拓也は受け取らず、首を横に振っただけだった。
「あなた…」
桜は拓也の隣に座り、手を握ろうとした。拓也は手を引いた。「一人にしてくれ。」
声は低く、冷たかった。桜は唇を噛んだ。「でも…」
拓也は目を閉じた。桜はそれ以上何も言えず、静かに立ち上がって部屋に入っていった。ドアが閉まり、拓也は一人、暗い部屋の中に残された。電気もつけなかった。
二十年。父を失い、父なしで生きてきた時間。赤ん坊の頃から今まで、母が一人で自分を育ててくれた。三つの仕事を掛け持ちし、夜遅く帰ってきては、疲れた顔で笑ってくれた。
初めての運動会。父親と走る競技。友達はみんな父親と手をつないで走っていた。拓也は一人だった。母が走ってきた。スカートにハイヒール姿で、息を切らしながら。「お母さんが一緒に走るわ。」
しかし、拓也は首を横に振った。「大丈夫。一人で走る。」
ビリだった。友達に笑われた。拓也は泣かなかった。
小学校の卒業式。父親が花束を渡す時間、拓也の席は空いていた。先生が訪ねた。「拓也君、お父さんは?」
拓也は答えた。「いません。」
先生は戸惑い、友達はひそひそと話した。拓也は平気なふりをした。
中学、高校、大学。すべての瞬間に、父親はいなかった。そして、結婚式。人生で最も大切な日。バージンロードを歩く時、普通は父親と手をつないで歩く。拓也は母の手を握った。「お母さん、ありがとう。」
母は泣いていた。こらえようとしても、涙が流れていた。
なのに、あの人はそこにいた。披露宴会場に、祝儀を置いて。
なぜ今なんだ。なぜ今頃。
拓也の拳が震えた。怒りが込み上げてきた。
翌朝、私が訪ねてきた。チャイムを鳴らすと、桜がドアを開けた。「お母様、どうぞ。」
拓也は食卓に座り、コーヒーを飲んでいた。
「拓也。」
私が恐る恐る声をかけた。拓也は顔を上げなかった。
「探偵さんから連絡があったわ。一週間以内に結果が出るって。」
拓也は答えなかった。私が彼の前に座った。「拓也、こっちを見て。」
拓也はゆっくりと顔を上げた。目は冷たかった。「何しに来たんですか?」
私は息を飲んだ。声が鋭かった。「拓也、それは…」
「どうして探すんですか?」
拓也は言葉を遮った。「俺たちを捨てていった人間を、どうしてわざわざ探す必要があるんですか?」
私は唇を噛んだ。「拓也、お父さんは…」
「俺の父親は死んだ。」
拓也は叫んだ。コーヒーカップが揺れ、コーヒーがこぼれた。「二十年前に事故で。そう、お母さんが言ったじゃないか。」
私の目に涙が溜まった。「ええ、そうよ。でも…」
「でも、なんだ? 生きて帰ってきたっていうのか? じゃあ、この二十年間は何だったんだ? どこで何をしていたんだ?」
拓也の声は震えていた。怒りの裏に、悲しみがあった。「俺が運動会で一人で走っていた時、卒業式で一人で立っていた時、どこにいたんだ?」
私は答えられなかった。
「お母さんが三つも仕事をしながら俺を育てていた時、毎晩疲れ果てて倒れていた時、あの人は何をしていたんだ?」
拓也は壁を殴った。ドンという音が響いた。「なぜ今現れるんだ? なぜ今なんだ? 俺の結婚式に。なぜ?」
桜が拓也を抱きしめた。「あなた、落ち着いて。」
拓也は桜を突き離した。「落ち着けって? どうやって落ち着けばいいんだ?」
桜はよろめき、椅子にぶつかって倒れそうになった。私が桜を支えた。
「拓也!」
私が鋭く言った。拓也は動きを止め、荒い息をついた。「…ごめん。」
拓也は頭を下げ、桜に近づいた。「ごめん。」
「大丈夫よ。」
桜は頷いたが、涙が流れていた。
私が拓也の肩を掴んだ。「拓也、お母さんにも分からないの。これが何なのか、どうしてこうなったのか。でも、知らなければならない。真実を。」
拓也は母を見た。目が赤くなっていた。「お母さんは、あの人に会いたいんですか?」
私は答えられなかった。心は複雑だった。分からない。会いたいような、怖いような。
拓也はため息をついた。「俺は会いたくない。正直に言って。」
私は頷いた。「分かってるわ。でも…」
拓也は窓の外を見た。「お母さんが望むなら、一緒に行きます。確かめに。」
私は息子を抱きしめた。拓也は最初は抵抗したが、やがて力を抜き、母の腕の中に収まった。
「ごめんね、拓也。苦労をかけたわね。本当に。」
拓也の肩が震えた。二十年間、堪えていた涙が溢れ出した。桜はキッチンから静かにその様子を見て、涙を拭った。
スマートフォンが鳴った。私のスマートフォンだった。高橋探偵からだった。
「お母様、重要なものを見つけました。今すぐお越しいただけますか?」
私は拓也を見た。拓也は頷いた。「行きます。」
三人は一緒に探偵事務所へ向かった。真実を知る時が来た。
四日後、夜。佐藤が企画した小さな集まりだった。ウェディングホールの隣の小さなレストラン。親しい人たちだけが集まっていた。拓也と桜、私、佐藤、みさき、そして数人の親戚。
「今日は気楽に撮りますよ。本当の家族写真としてね。」
佐藤がカメラを持って回り、笑い声が混じった。雰囲気は和やかで、結婚式の時とは違っていた。
みさきがテーブルごとに花を置いた。白いバラとスイートピー。「花は真実を知っているの。枯れたら嘘、咲いたら真実よ。」
みさきは笑って言った。桜が首をかしげた。「みさきさん、それ、どういう意味ですか?」
みさきはウインクした。「さあね。」
私は窓の外を見た。日が暮れて、赤い夕焼けが空を染めていた。心が落ち着かなかった。高橋探偵が、今日、重要なことを知らせてくれると言っていた。
午後六時。ドアが開いた。黒いスーツの男が入ってきた。
レストランが静まり返り、フォークが落ちる音が響いた。
私の息が止まった。心臓が張り裂けそうだった。
健一だった。顔は二十年前とそっくりだった。いや、年を取った顔だった。しわが増え、白髪が混じっていた。しかし、目は同じだった。
男はゆっくりと近づいてきた。私のテーブルへ。
「遅くなったけど…」
声が聞こえた。低く、震えていた。「…ただいま。」
私の唇が震え、言葉が出なかった。
拓也が席を立った。顔が強張っていた。「あなたは誰ですか?」
声は冷たかった。
男は拓也を見た。「拓也か。」
「俺の名前を気安く呼ばないでください。」
拓也は叫んだ。桜が彼の腕を掴んだ。
男は鞄から写真を取り出した。古い写真だった。縁が擦り切れていた。病院の新生児室の前。男が赤ん坊を抱いて笑っていた。裏には文字があった。「私たちのゆうちゃん。二〇〇五年三月十五日。」
私は写真を受け取った。手が震えた。「これは…」
声が出なかった。
男は手紙を取り出した。くしゃくしゃになった封筒。二十年前の紙。「これも。」
私は手紙を広げた。見慣れた筆跡。あの文字。「ゆうちゃんへ。父さんはいつも君を見守っているよ。元気に育て。愛している。」
私の目から涙がこぼれ、手紙を濡らした。
佐藤が静かにカメラを構え、シャッターを切った。この瞬間を記録しなければならなかった。みさきは手で口を覆い、涙を流した。
拓也は写真をひったくるように手に取り、覗き込んだ。「赤ん坊…。自分だ。」
「これが本当なんですか?」
声が震えていた。怒りではなかった。混乱だった。
男は頷いた。「本当だ。お前が生まれた日に撮ったんだ。」
拓也は男をまっすぐに見つめた。「じゃあ、あんたが俺の父親だっていうのか。」
男は答えた。「そうだ。」
拓也は写真を投げ捨てた。床に落ちた。「バカな。俺の父親は二十年前に死んだんだ。」
桜が写真を拾い、そっと拭いた。
私は男を凝視した。顔の一つ一つを確かめた。額のしわ、目元の線、鼻の形、唇の形。すべて夫だった。
「あなた…」
私は震える声で訪ねた。「本当に健一なの?」
男が顔を上げた。目があった。私の心臓がドクンと音を立てた。その目。二十年前のあの目。
「そうだ。」
男は答えた。一言だけ。しかし、確信に満ちていた。
みさきが花束を持って近づいてきた。「これは本物かもしれないわね。」
佐藤がフラッシュを焚いた。男と私、拓也と桜。全員が一枚に収まった。
拓也は拳を握った。「証明してください。あんたが俺の父親だということ。」
男は左手を上げた。薬指に銀色の指輪が光っていた。「S」と「K」。
私は息を飲み、自分の指輪を見た。「S」と「K」。
「この指輪、結婚した時に作ったものだろう。」
男が尋ねた。私は頷いた。「そうよ。」
声が震えていた。
男はポケットからもう一枚の写真を取り出した。結婚式の写真。赤い着物の私と健一が笑っていた。二人の手には指輪が見えた。
「二十八年前だ。俺たちの結婚式の日。」
私の目から涙が溢れ出した。
「どうして…どうしてこんなことが…」
拓也は椅子に崩れるように座り、頭を抱えた。桜が彼の背中をさすった。
佐藤はカメラを下ろした。これは撮るべきではないと感じた。
レストランの主人が水を持ってきた。私は水を飲んだが、手が震えて水がこぼれた。
「どうして…」
私は尋ねた。「どうして今頃になって?」
男は頭を下げた。「済まない。」
小さな声だった。「説明する。すべて。」
しかし、その時、レストランの窓の外に誰かが立っていた。影。男をじっと見ていた。
みさきが窓の外を見た。影は消えていた。
「お母様…」
みさきが恐る恐る言った。「何かおかしいです。」
私は窓の外を見た。誰もいなかった。しかし、不安が押し寄せてきた。背後に隠された真実がある。
翌日の午前。高橋探偵の事務所。私、拓也、桜が机の前に座っていた。高橋がファイルを開いた。分厚い書類の束だった。
「確認しました。二十年前の事故記録から保険の書類まで、すべて。」
高橋の声は落ち着いていたが、目は鋭かった。
私は息を飲み、手を強く握った。
「死亡診断書です。二〇〇五年三月十六日に発行されています。」
高橋は書類を見せた。私はその紙を何度も見た。二十年間、引き出しにしまっていたものだ。
「ここに、遺族の署名欄がありますね。」
高橋が指で示した。私の名前。しかし、筆跡がおかしかった。
「これ、私が書いたものじゃありません。」
私は書類を覗き込み、目を細めた。「私はこんな風には書きません。『ず』の最後、こんなに長く跳ねたりしません。」
高橋は頷いた。「その通りです。筆跡鑑定を依頼しました。結果、お母様の筆跡ではないとのことです。」
拓也が身を乗り出した。「じゃあ、誰が書いたんですか?」
高橋は別の書類を取り出した。「保険金の請求書です。こちらも同じ。第三者の署名です。」
私の顔が曇った。「私、保険金の請求なんてしていません。当時は気が動転していて、後で保険会社から連絡があった時も、おかしいとは思ったんですが…」
高橋はまた別の書類を広げた。「保険金の入金履歴です。五百万円。二〇〇五年四月三日に入金されています。」
私は首を横に振った。「私、そのお金受け取っていません。一部だけです。二百万円。それも半年も後になって。」
高橋の目が光った。「では、残りの三百万円はどこへ行ったんでしょうか?」
書類をめくると、口座の履歴が見えた。「第三者の口座に入金されています。名前は、鈴木健太郎。」
私の目が大きくなった。「健太郎さん…」
声が震えた。
拓也が訪ねた。「誰ですか?」
「あなたのお父さんのお兄さんよ。おじさん。」
私の手が震えた。
高橋が説明を続けた。「死亡届も、この人物が出しています。遺族の代理として。当時はそれが可能でした。」
拓也が机を叩いた。ドンという音が響いた。「どういうことですか? おじさんが父さんを殺したってことですか?」
高橋は手を上げた。「正確に言えば、生きている人間を死んだことにしたんです。書類上。」
私は目を閉じた。頭の中が混乱していた。「なぜ…なぜそんなことを…」
高橋は答えた。「お金でしょう。保険金の三百万円。二十年前にしては大金です。」
拓也は拳を握った。「これは詐欺じゃないか。完全な犯罪だ。」
高橋は頷いた。「その通りです。保険金詐欺ですね。ですが、さらに奇妙な点があります。」
高橋はまた書類をめくった。「病院の記録です。事故当日の救急の記録。横浜中央病院、午後六時三十五分、入院。」
拓也が書類を受け取った。「そりゃ、事故にあったんだから、病院に行くでしょう。」
高橋は別の書類を取り出した。「ですが、こちらも見てください。同日、同時刻。静岡の医療センター、午後六時四十分、入院。」
私が顔を上げた。「二箇所?」
「はい。同じ人間が、同じ時間に、二つの病院に入院している。ありえません。」
拓也が書類を比較した。「名前、住民票、行動。すべてが同じだ。どうしてこんなことが可能なんだ?」
高橋は説明した。「捏造です。誰かが横浜の病院の記録を作り上げた。実際には静岡へ搬送されたのに。」
私の心臓が早くなった。「じゃあ、夫は本当に静岡にいたっていうの?」
高橋は地図を広げた。「はい。事故現場から最も近い救急連携病院が、静岡の医療センターでした。当時、横浜市内の病院は満床状態だったようです。」
拓也は地図を覗き込んだ。「じゃあ、おじさんはわざと横浜の病院の記録を作って、実際には静岡にいる父さんを見捨てたってことか。」
高橋は頷いた。「そう推測されます。そして、死亡届を出し、保険金を受け取った。」
私は涙を拭った。「じゃあ、夫は二十年間、静岡にいたの?」
高橋はファイルを閉じた。「確認が必要です。静岡の病院へ直接行って。」
拓也が立ち上がった。「今すぐ行きましょう。おじさんも探さないと。あの人は今、どこにいるんですか?」
高橋は住所をメモしてくれた。「横浜市〇〇区です。ですが、気をつけてください。危険な人物かもしれません。」
私は住所を受け取った。手が震えていた。
桜が恐る恐る訪ねた。「お母様、本当に大丈夫ですか? 先に警察に届けた方が…」
私は首を横に振った。「いいえ。直接確認しないと。この目で。」
拓也が母の手を握った。「一緒に行きます。一人にはしません。」
私は頷いたが、心は重く沈んでいた。真実よりも怖いのは、家族が再び揺らぐ可能性だった。
その日の午後、三人は横浜へ向かった。おじ、鈴木健太郎を探しに。
二日後の朝、会社。オフィスは静かだった。しかし、拓也の席の周りだけは騒がしかった。同僚たちがスマートフォンを覗き込み、ひそひそと話していた。
「おい、これ見たか? マジでやばいぞ。」
「本当なのか? 死んだ人が生き返ったって?」
拓也はモニターだけを見つめ、聞こえないふりをした。しかし、耳が痛かった。
課長が近づいてきた。「鈴木君、ちょっといいか?」
拓也は課長について会議室へ入った。ドアが閉まる。
「これは何だ?」
課長がスマートフォンを突き出した。画面には動画が再生されていた。レストランで健一が入ってくる場面。私が泣く姿。拓也が叫ぶ様子。刺激的なタイトルがつけられていた。「衝撃映像! 死んだ夫の奇跡の再会! 結婚披露宴で」
再生回数は十万回を超え、コメントが数千件ついていた。
「これ、演出じゃないの?」
「家族の表情を見てよ。本物っぽい。」
拓也の顔が青ざめた。「これ、誰が投稿したんですか?」
課長は肩をすくめた。「さあな。だが、鈴木君、これは会社のイメージに良くない。しばらく在宅勤務にしてくれないか。」
拓也は歯を食い縛った。「僕が何か悪いことをしたんですか?」
「悪いとかじゃなく、少し静かになるまで。」
拓也は答えず、会議室を出て荷物をまとめた。同僚たちの視線が痛かった。
家に帰ると、桜がソファで泣いていた。スマートフォンを握りしめて。
「拓也さん…」
桜が近づくと、桜はスマートフォンを見せた。同じ動画だった。
「家の前に、記者の人たちが来てるの。ドアの前で待ってる。」
桜の声は震えていた。拓也は窓の外を見た。マンションの入り口に、カメラを持った人々が見えた。
「一体何なんだ? 俺たちが何をしたって言うんだ。」
拓也は壁を殴った。桜は驚いてびくっとした。「ごめん。」
拓也はソファに崩れ落ち、頭を抱えた。
スマートフォンが鳴った。私からだった。
「拓也、動画見た?」
私の声は震えていた。
「うん。」
「誰がこんなこと…分からないわ。でも、今すぐ来てくれないかしら。大変なことになったの。」
「どうしたんですか?」
「DNA鑑定。サンプルが汚染されたって。」
拓也の目が大きくなった。「だって…」
「病院から連絡があったの。再検査が必要だって。」
拓也はスマートフォンを持ったまま、凍りついた。
一時間後、病院の廊下。私、拓也、桜が椅子に座っていた。検査室の前だった。
看護師が出てきた。「申し訳ありません。サンプルの汚染が確認されました。再検査が必要です。」
拓也が勢いよく立ち上がった。「サンプル汚染? どういうことですか?」
看護師は戸惑った。「私どもにも原因が…保管中に…」
「保管中に何があったんだ? ふざけてるのか?」
拓也の声が廊下に響き、人々が振り返った。桜が拓也をなだめた。「あなた、落ち着いて。ここ病院よ。」
拓也は壁に手をつき、拳を握ったり開いたりした。
私は看護師に尋ねた。「再検査はいつできますか?」
「一週間後になります。申し訳ありません。」
看護師は頭を下げて中へ入っていった。廊下が静まり返った。私は椅子に崩れるように座り、手が震えていた。
「誰が…どうしてこんなことを…」
私は呟いた。拓也は答えられなかった。
またスマートフォンが鳴った。高橋探偵からだった。
「お母様、大変です。鈴木健太郎が逃げました。」
私は息を止めた。「なんですって?」
「自宅がもぬけの殻でした。荷物をまとめて出ていったようです。」
私の顔が真っ白になった。「じゃあ、証拠も…」
「警察には通報しましたが、時間がかかるでしょう。」
電話を切った。私はスマートフォンを落とした。床を転がった。拓也がそれを拾った。
「お母さん、どうしたんですか?」
私は涙を拭った。「おじさんが逃げたって。」
拓也は拳で壁を殴った。ドンという音が響いた。「何なんだよ、これは。めちゃくちゃじゃないか。」
桜が静かに、声もなく泣き始めた。肩だけが震えていた。
その夜、拓也の家。三人は食卓に座っていたが、食べ物はなく、誰も何も食べられなかった。
佐藤から電話があった。「お母様、動画、僕がアップしたものじゃありません。誰かが盗撮したんです。」
「分かってるわ。大丈夫よ。」
私は力なく答えた。
みさきからも電話があった。「お母様、マスコミなんて気にしないで。真実は一つなんですから。」
「ありがとう。」
しかし、私の声に力はなかった。
拓也はパソコンを開き、コメントを一つ一つ読んだ。ほとんどが悪質なコメントだった。「詐欺家族」「目立ちたがり屋」「演出がバレバレ」。
桜が拓也の手を握った。「やめて。傷つくだけよ。」
拓也はパソコンを閉じたが、画面が消えても文字が目に焼きついていた。
私は窓の外を見た。夜だった。星は見えず、雲が空を覆っていた。
「理由が分かるまで、何も信じられない。」
私は呟いたが、声は震えていた。
再検査の予約をしたが、一週間待たなければならなかった。その一週間が、一年のように感じられた。
一週間後、再検査の当日。午前九時、病院のロビーに私、拓也、桜が座っていた。健一も一緒だった。四人は無言だった。
看護師が出てきた。「鈴木健一様、鈴木しず子様、鈴木拓也様、検査室へどうぞ。」
四人は立ち上がり、検査室へ入った。綿棒で口腔内のサンプルを採取した。私、健一、拓也。三人のDNA。
「一週間後に結果が出ます。」
医師は冷たく、無表情で言った。
廊下に出ると、健一が私を見た。「一週間後には真実が分かる。」
私は頷いたが、目は揺れていた。「そうね。」
声に力はなかった。拓也は何も言わず、ただ歩いていった。
その日の夜、私の家。私はソファに座り、祝儀袋を眺めていた。「私たちのゆうちゃんへ。」二十年ぶりに戻ってきた文字。しかし、今や確信は揺らいでいた。本物か偽物か、誰かのいたずらか。
スマートフォンが鳴った。高橋探偵からだった。
「お母様、鈴木健太郎を確保しました。」
私の心臓が跳ねた。「どこに?」
「空港です。出国しようとしていたところを、警察が身柄を確保しました。」
「じゃあ、これで真実が分かるんですね。」
高橋はため息をついた。「いえ、問題がありまして。取り調べで一切話さないそうです。黙秘権を行使しています。」
私の顔が強張った。「じゃあ、証拠がないってことですか?」
「保険金の横領は立証されました。ですが、健一さんをどうしたのかについては、本人が話さない限りは…」
電話を切った。私は祝儀袋を落とした。床を転がった。
「どうして…どうして皆、口を閉ざすの?」
夜、拓也が訪ねてきた。顔は青白かった。
「お母さん…」
声が低かった。「会社、やめるように言われた。」
私が顔を上げた。「なんですって?」
「SNSの件で、会社のイメージが悪くなるって。自主退職を進められた。」
私は唇を噛んだ。「拓也、大丈夫だよ。新しい会社を探すから。」
大丈夫だと言ったが、声は震え、目が赤くなっていた。
「桜は…泣いてる。家で。実家のご両親から、離婚しろって言われてるらしい。」
私の目から涙がこぼれた。「全部、私のせいだわ。」
「お母さんのせいじゃない。」
拓也は叫んだが、声の終わりは震えていた。「じゃあ、誰のせいなんだ? 死んだはずなのに生き返ってきたあの人のせいか? それとも、俺たちを弄んで遊んでいる誰かのせいか?」
私は答えられなかった。拓也はソファに崩れ落ち、頭を抱えた。
「お母さん、正直、俺はあの人を信じたくない。二十年間、どこにいたかも分からない人間が、突然現れて俺たちの人生をめちゃくちゃにする。そんな人間を、どうやって信じろって言うんだ。」
私は目を閉じた。息子の言う通りだった。
「DNAの結果が出れば、全部終わるわ。」
私は小さく言ったが、確信はなかった。終わる。本当に終わるのか?
「父親だって判ったら、何が変わるんだ? 二十年間は戻ってこないんだぞ。」
拓也は立ち上がり、ドアへ向かって歩いた。「もう、あの人には会わないでください。お願いします。」
ドアがバタンと閉まった。私は一人残された。夜が深かった。
私は引き出しを開け、二十年前の手紙と祝儀袋を取り出し、並べて筆跡を比較した。やはり同じだった。しかし、今では疑念が湧いていた。誰かが真似したのではないか。技術は進歩している。筆跡の再現も可能かもしれない。
私は手紙を破ろうとした。手が震えた。しかし、破れなかった。
「あなた、本当にあなたなの?」
ささやきだった。答えはなかった。私は祝儀袋を胸に抱き、声を上げて泣いた。二十年間、堪えていた涙が溢れ出した。
翌朝、佐藤から電話があった。「お母様、動画、削除されました。通報があったみたいです。」
「ありがとう。」
力ない声だった。
みさきからも電話があった。「お母様、最後まで耐えてください。花は冬を乗り越えれば、また咲くんですから。」
「ありがとう、みさきさん。」
しかし、私は疲れ果てていた。
午後、私は窓の外を見た。雨が降り始め、空は灰色だった。スマートフォンが鳴った。健一からだった。
「しず子。」
久しぶりに聞く呼び名。私の胸が張り裂けそうだった。「何ですか?」
「会いたい。話がしたい。すべて。」
私は少し黙った。「一週間後です。DNAの結果が出た後で。」
「分かった。待っている。」
電話を切った。私は再び祝儀袋を取り出し、「私たちのゆうちゃんへ」という文字を指でなぞった。真実が怖かった。本物であろうと偽物であろうと、どんな結果が出ても、人生は変わってしまう。しかし、知らなければならなかった。理由が分かるまで、前へは進めない。
私は祝儀袋を引き出しにしまい、目を閉じて深く息を吸った。一週間。結果が出るまでの一週間。最も長い一週間が始まった。
翌日の午前十時、病院。私、拓也、桜、健一が医師の前に座っていた。医師が書類を広げた。
「DNA鑑定の結果が出ました。」
部屋が静まり返った。息遣いだけが聞こえる。
「鈴木健一様と鈴木拓也様、親子関係の一致率は九九・九九%です。」
私の目から涙がこぼれた。拓也は頭を下げた。
「鈴木しず子様と鈴木健一様、夫婦関係も確認されます。」
医師が書類を渡した。公的な文書だった。判が押されていた。
「本当? 本当だったのね。」
私は呟いた。健一が私の手を握った。
拓也は書類を受け取り、数字を見つめた。「九九・九九%…。科学が証明したんですね。もう、信じるしかないですね。」
拓也は小さく震える声で言った。
病院を出ると、陽光が降り注いでいた。私は空を見上げた。雲一つなかった。
「これから、どうすればいいんですか?」
桜が訪ねた。私は答えた。「法的に戻さないと。死亡宣告を取り消して、家族関係を元に戻すの。」
高橋探偵に電話した。「結果が出ました。本物でした。」
「分かりました。書類を準備します。家庭裁判所へ行く必要があります。」
数日後、横浜家庭裁判所。裁判官の前に私と健一が立った。弁護士が書類を提出した。「死亡宣告の取り消しを請求します。鈴木健一氏は失踪ではなく、生存が確認されました。」
裁判官は書類を検討した。「DNA鑑定結果、病院の記録、陳述書…。死亡宣告の取り消しを決定します。」
ガベルが打ち鳴らされた。私は目を閉じた。二十年ぶりに、夫が法的に生き返った。
裁判所の外で、私は健一を抱きしめた。「本当に戻ってきたのね。」
健一は頷いた。「ああ、戻ってきたよ。」
拓也は離れた場所からその様子を見ていた。複雑な表情だった。桜が彼の手を握った。「あなた、大丈夫?」
拓也は答えた。「分からない。嬉しいのか、悲しいのか。まだ、よく分からない。」
桜は彼を抱きしめた。
翌日、市役所の戸籍係。係員が書類を受け取った。「死亡宣告が取り消されたんですね。家族関係の回復届ですね。」
私は頷いた。「はい。夫として、もう一度登録したいんです。」
係員がコンピューターを操作した。「鈴木健一様を鈴木しず子様の配偶者として登録、鈴木拓也様の父として登録。家族は一瞬で書き換えるだけですから。」
キーボードの音が響いた。カチャカチャ。
「完了しました。戸籍謄本を発行しますね。」
プリンターから紙が出てきた。私は戸籍謄本を受け取り、涙を流した。
「鈴木健一」の文字。健一が家族を取り戻した。
佐藤が市役所の前で待っていた。カメラを構えて。「お母様、おめでとうございます。記念写真を撮らないと。」
フラッシュが焚かれた。私、健一、拓也、桜。四人が一緒に立った。みさきが花束を持って現れた。「お母様、本当の家族になりましたね。法的に。」
私は涙と共に笑った。「ありがとう、皆さん。」
市役所を出ると、陽は温かかった。
「これから、どうするんですか?」
拓也が訪ねた。私は答えた。「保険の清算をしないと。おじさんが持ち去ったお金、返してもらわないと。」
高橋探偵から電話があった。「お母様、鈴木健太郎が起訴されました。保険金詐欺罪で。お金は返還されます。」
「どのくらいかかりますか?」
「三ヶ月ほどです。裁判の判決が出れば、すぐに回収されます。」
電話を切った。私は空を見た。
「俺は、もう家に帰ってもいいかな。」
健一が尋ねた。私は彼を見た。二十年ぶりに聞く質問。
「いえ、狭いわよ。十五畳しかない。」
健一は笑った。「大丈夫だよ。広さは問題じゃない。」
私も笑った。「じゃあ、帰りましょう。私たちの家に。」
四人は一緒に歩いた。拓也はまだぎこちなかったが、拒否はしなかった。
「お父さんができて、おめでとうございます。」
桜が囁いた。拓也はふっと笑った。「まだ、実感が湧かないな。」
「ゆっくり慣れていけばいいのよ。」
その夜、私の家。健一が家の中を見回した。小さかったが、温かかった。
「ここで、拓也は育ったんだな。」
私は頷いた。「ええ、一人で。」
健一は壁に飾られた拓也の幼い頃の写真を見た。小学校、中学校、高校、大学。
「すまない。一緒にいてやれなくて。」
私が彼の手を握った。「今からでも、戻ってきたじゃない。それで十分よ。」
健一は私を抱きしめた。二十年ぶりの温もり。
「愛してる。」
「私もよ。」
窓の外で日が暮れ、夕焼けが空を赤く染めていた。二十年の空白が終わり、家族が復活した。残されたのは、心の回復だった。
三ヶ月後、横浜拘置所。私、拓也、健一が面会室に座っていた。ガラスの向こうに、鈴木健太郎が入ってきた。囚人服姿で、無精髭が生えていた。
健太郎がガラスの前に座り、受話器を取った。健一も受話器を取った。
「兄さん…」
健一の声が震えていた。健太郎は頭を下げた。「済まない。」
小さな声だった。
健一は尋ねた。「どうしてだ? なぜ、俺を見捨てたんだ?」
健太郎は目を閉じ、しばらくして口を開いた。「必要だったんだ。事業に失敗して、借金が五千万円あったんだ。」
拓也が割って入った。「だからって、だから俺の父親を死んだことにして、保険金を騙し取ったのか。」
健太郎は頷いた。「そうだ。事故の知らせを聞いて、病院へ行った。だが、健一は意識不明で、医者からは助かる確率は二十%だと言われた。」
私の手が震えた。「だから、死ぬと判断したのね。」
健太郎は答えた。「病院の記録を捏造した。横浜の病院に。実際には静岡へ搬送されたのに。そして、死亡届を出し、しず子さんの署名もした。」
拓也は拳を握った。「狂ってる。」
健太郎は頭を下げた。「分かっている。だが、あの時は他に選択肢がなかったんだ。」
健一は尋ねた。「じゃあ、俺が生き返ったのは…記憶が戻ったのは…」
健太郎は顔を上げた。「知らなかった。本当に知らなかったんだ。静岡の病院が財団の合併で記録がごちゃごちゃになって、俺は健一が本当に死んだと思っていた。」
「じゃあ、防犯カメラは? 結婚式の日の、消された十二秒は?」
拓也が追求した。健太郎は首を横に振った。「それは俺じゃない。俺は結婚式にも行っていない。動画を見て知ったんだ。」
私が訪ねた。「じゃあ、誰が…」
健太郎はため息をついた。「おそらく、後見してくれた夫婦だろう。健一を守るために、身元がバレないように。」
健一は頷いた。「そうだ。あの方たちが俺の身元を隠してくれた。新しい名前で生きられるようにしてくれたんだ。」
高橋探偵が資料を広げた。「確認しました。静岡の医療センターの理事長夫妻が、匿名で鈴木健一様の五年間の治療費を全額負担し、身元の変更も手伝っています。」
拓也が尋ねた。「どうして? なぜそこまでして、父さんを隠したんだ?」
高橋は説明した。「記憶喪失の患者だったからです。家族も分からない状態で、社会に放り出すことはできないと。保護のためです。」
私は涙を拭った。「じゃあ、すべては過ちだったのね。犯罪と過ちが混ざり合った。」
健太郎がガラスに手をついた。「すまない。本当にすまない。」
健一は受話器を置き、立ち上がって背を向けた。
拓也が叫んだ。「それだけか? すまないの一言で終わりか。」
健太郎は頭を下げた。「他に言う言葉がない。」
面会は終わった。三人は外へ出た。
「兄さんを許すべきだろうか。」
健一が尋ねた。私は答えた。「あなたが決めることよ。私には分からない。」
拓也は言った。「俺は許せない。まだ。」
健一は頷いた。「分かった。ゆっくり考える。」
数日後、裁判の判決が出た。健太郎は懲役三年。保険金の返還命令。私に三百万円が戻ってきた。
「このお金、どうする?」
健一が尋ねた。私は笑った。「あなたが仕事を見つけるまで使えばいいじゃない。私たちはやり直すんだから。」
健一は私の手を握った。「ありがとう。」
拓也の家。夜。桜がお腹をさすっていた。妊娠三ヶ月だった。
「あなた、お父様に伝えないと。」
拓也は頷いた。「そうだな。」
電話をかけた。健一が出た。
「父さん。いや、お父さん。」
初めて呼ぶ呼び名。健一の声が震えた。「ああ、拓也。」
「桜が妊娠しました。三ヶ月です。」
電話の向こうが静かになり、そして泣き声が聞こえた。「本当か?」
「はい。おじいちゃんになりますよ。」
健一は泣いていた。喜びの涙だった。「ありがとう。ありがとう。」
拓也も目頭が熱くなった。「来週、うちに来てください。一緒に食事しましょう。」
「ああ、行くよ。必ず。」
電話を切った。拓也は桜を抱きしめた。「大丈夫。」
桜が訪ねた。「…拓也さん?」
拓也は笑った。「うん。もう大丈夫だ。」
喪失は回復へ。回復は拡張へと繋がった。二十年の空白。七十二時間の秘密。すべてが明らかになった。
半年後、横浜の写真館。午後。同じ写真館。佐藤がカメラをセッティングしていた。
「お母様、いらっしゃいませ。今日は本当の家族写真ですよ。」
佐藤が明るく笑って迎えた。私も笑った。夫の健一が隣に立った。
「ここに来るのも久しぶりだな。」
健一が周りを見回した。写真館の壁には、たくさんの家族写真が飾られていた。
「半年ぶりね。拓也の結婚式以来。」
健一が私の手を握った。「これからは、俺も一緒に映れるんだな。」
みさきが花束を持って入ってきた。「お母様、今日は特別な日ですから、赤いバラを用意しました。再会の花です。」
みさきが花を飾り、白い背景の前に椅子を置いた。
拓也と桜が入ってきた。桜のお腹は大きくなっていた。妊娠八ヶ月だった。
「お母さん、お父さん。」
拓也が挨拶した。健一が嫁を支えた。「桜さん、気をつけて。」
「大丈夫ですよ。お父様、まだ一ヶ月ありますから。」
桜は笑って言った。健一は嫁のお腹を見て微笑んだ。「孫に早く会いたいな。」
「男の子だそうです。エコーで見ました。」
拓也が言った。健一の目が潤んだ。「孫か…」
佐藤が手を叩いた。「さあ、ポーズを決めましょうか。新郎のお父様、こちらへどうぞ。」
健一が椅子に座った。二十年前、空いていた席。今は埋まっていた。私が隣に立ち、拓也と桜が後ろに立った。四人。いや、五人だった。お腹の赤ちゃんも入れて。
佐藤がカメラを調整した。「表情、固くしないで、自然に。」
みさきが横から助言した。「家族写真は、作り笑いより本当の笑顔が素敵ですよ。」
私が健一を見た。健一も私を見た。目があった。二十年ぶりの再会。法的な復活。そして、新しい始まり。
二人は笑った。本当の笑顔だった。拓也も笑い、父の肩に手を置いた。最初はぎこちなかったが、今は慣れていた。
「はい。いち、に、さん。」
フラッシュが焚かれた。
「いいですね。もう一枚。今度はみんなで手を振ってください。」
四人が手を振った。
「はい、もう一枚。完璧です。最高の家族写真が撮れました。」
佐藤が親指を立てた。みさきがリボンを結びながら言った。「結び目は、一度こじれた方が綺麗に結べるものなのよ。これで、本当に完成ね。」
撮影が終わり、佐藤がモニターを見せた。「見てください。人生最高の一枚じゃないですか?」
画面には家族写真が映っていた。健一が椅子に座って笑い、私が隣で夫の肩に手を置き、拓也と桜が後ろで微笑んでいた。空いていた席は、埋まっていた。
「これ、額に入れてください。」
私が言った。佐藤は頷いた。「もちろんです。一番大きなサイズで。」
写真館を出ると、陽光は温かかった。秋だった。落ち葉が舞っていた。
「お腹空いた。ご飯食べに行きましょう。」
桜が言った。拓也は笑った。「またさっき食べたばっかりだろう。」
「赤ちゃんが食べたがってるの。」
桜はそう言って、お腹をさすった。健一が笑った。「じゃあ、行こう。じいちゃんがご馳走する。」
四人は近くの食堂へ向かった。初めて、家族として歩いた。
食堂のテーブルに料理が並んだ。祝いの前に、焼き魚、味噌汁。
「いただきます。」
四人が一緒に言った。箸を取る。健一が拓也におかずを渡した。「これ、食べてみよう。うまいぞ。」
拓也は受け取った。「ありがとうございます。お父さん。」
二度目に呼ぶ呼び名。少し慣れてきた。健一の目頭が熱くなった。「ああ、たくさん食べろ。」
私が桜に味噌汁をよそった。「桜さん、汁物もたくさん飲んでね。赤ちゃんにいいから。」
「はい。お母様。」
家族が一緒に食事をしていた。笑い声が食堂に響いた。窓から陽光が差し込み、温かかった。
二十年の空白が終わった。喪失は回復へ。回復は拡張へと繋がった。家族は消えなかった。遠回りしただけだった。そして、今、新しい家族が生まれようとしていた。
結婚式の日の不安。黒いスーツの男を見た瞬間、私は怖かった。しかし、今、写真館で撮った家族写真を見ながら、私は笑っていた。真実は必ず明らかになり、家族は必ず戻ってくる。これが、本当の家族写真だった。



