新幹線のグリーン車で、偶然再会した元恋人とその婚約者に「高卒の荷物持ち」と嘲笑された。彼女は冷たい目で「あなたと別れて正解だった」と言い放ち、俺の過去も今も全て否定した。その直後、車内で倒れた初老の紳士を救うため、俺は「医者です」と名乗り出た。彼らの驚愕の表情を背に、俺は命を救った。だが、その後の商談先で、まさかの再会が待っていた。彼女の父親が、俺の取引先の社長だったのだ。そして、彼女の婚約…

新幹線のグリーン車で、偶然再会した元恋人とその婚約者に「高卒の荷物持ち」と嘲笑された。彼女は冷たい目で「あなたと別れて正解だった」と言い放ち、俺の過去も今も全て否定した。その直後、車内で倒れた初老の紳士を救うため、俺は「医者です」と名乗り出た。彼らの驚愕の表情を背に、俺は命を救った。だが、その後の商談先で、まさかの再会が待っていた。彼女の父親が、俺の取引先の社長だったのだ。そして、彼女の婚約...

「誰か、お医者様か看護師の方はいらっしゃいませんか?」

静まり返っていたグリーン車の空気が、乗務員の悲鳴に近い声で切り裂かれた。膝の上にあるアタッシュケースの重みが、急に現実味を帯びる。最悪だ。数分前、偶然再会した昔の恋人とその傲慢な婚約者の男に、俺は高卒の荷物持ちと嘲笑われ、過去も今も全てを否定されたばかりだった。

騒ぎの中心に目をやると、通路に初老の紳士が倒れていた。そして、あの男が待ってましたとばかりに自信満々に口を開く。

「医療には精通している。ああ、窒息しかけてるだけでしょう。その人を横向きに寝かせてあげてください」

「違う。その体勢は逆に命を奪うぞ。それじゃダメだ」

俺は叫んでいた。驚く男と乗務員を押しのけ、倒れた乗客の前に進み出る。混乱する乗務員が俺に問いかける。

「あ、あのお客様は一体…」

俺は乗客の脈を確認しながら、短くはっきりと告げた。

「医者です」

嘲笑っていた男と、信じられないという目で俺を見る彼女の視線が突き刺さる。そうだ。俺が捨てたはずの過去が、今、俺の未来をこじ開けようとしていた。本当の戦いはここから始まる。

俺の名前は霧島秋斗。かつてはそんなありふれた自分の名前が、少しだけ誇らしかった時期もある。だが今は違う。

俺は今、桜総合サービスという中小企業で働いている。表向きは中小企業の取引をサポートする小さな専門集団だが、俺にとってこの会社は戦場であり、希望そのものだった。

俺は明確な目的を持ってこの会社に入った。

「霧島君」

デスクで分厚い技術分析レポートを作成していると、初老だが鋭い目をした部長に呼ばれた。

「先日のスマート製作所の技術分析レポート、素晴らしかったよ。うちの営業が、霧島君のレポートのおかげでクライアントの反応が別次元だって絶賛してたぞ」

「いえ、製品のポテンシャルが高いだけです」

「謙遜するな。君があの金属加工技術の応用可能性について追記してくれた補足資料、あれが決定的だったんだ。君の分析は確かだよ」

「ありがとうございます」

そう、俺はこの会社で地道に築いてきた信頼があった。今の職場の人間関係は悪くない。真面目に働いていれば、正当な評価はしてもらえる。そして昨日、俺にとって最大のチャンスが訪れた。

「霧島君、悪いんだけど、これ、明日の朝一で大阪のクライアント先に直接届けてくれないか?」

部長は興奮した面持ちで、1枚の新幹線のチケットと重いアタッシュケースを俺のデスクに置いた。

「例のケースだ。最新サンプルと最終提案書の原案だ。最重要機密だからな」

「はい」

「クライアント様への誠意として、グリーン車を取っておいた。会社の経費だ。何より、この案件は最初から君が技術データをまとめてくれていた。君は仕事が確実だからな。この件は霧島君に任せたい」

「ありがとうございます。必ず確実にお届けします」

俺は膝の上のアタッシュケースの重みだけを強く感じていた。流れゆく窓の外の景色をぼんやりと眺める。少し落ち着かないな。この車両の静かすぎる空気と、俺の心持ちがどうにもちぐはぐだった。

俺は重要なアタッシュケースを抱えたまま、気分転換にトイレへ向かおうと席を立った。狭い通路を車両の前方に向かって進む。その時、前方から来た女性とすれ違おうとして、互いに軽く会釈をした。ふわりと香った懐かしい匂い。

足を止めかけた俺の背中に、小さくだが確かな声がかけられた。

「あれ? もしかして、秋斗君?」

心臓が大きく跳ねた。この声は忘れるはずがない。ゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは、俺の記憶の中にいるよりも少しだけ大人びた、しかし変わらない大きな瞳を持つ、つむぎだった。

「つむぎ…なのか」

「やっぱり。久しぶりだね、秋斗君」

数秒か、あるいは数十秒か。気まずい沈黙が俺たちの間に流れた。グリーン車の静かな車内では、互いのぎこちない呼吸の音さえ聞こえてきそうだった。昔もこうやって2人で旅をしたことがあったな。

蘇ってきたのは学生時代の記憶。俺は家庭が決して裕福とは言えなかった。つむぎも、町の社長令嬢とは名ばかりで、決して贅沢ができる暮らしではなかった。そんな俺たちが、当時東京に新しくできたテーマパークにどうしても行きたいねと話し合い、何ヶ月も2人で必死にアルバイトをしてお金を貯めた。やっとの思いで手にした2枚の新幹線の自由席チケット。混雑する車内で運良く並びの席を見つけた時のあの高揚感。

窓の外を流れる景色を見ながら、つむぎが恥ずかしそうに言った。

「なんだか、こうやって2人で新幹線に乗ってると、新婚旅行みたいだね」

「バカ。気が早いだろ」

「でも、つむぎ、本当に行けるといいな」

「うん。ねえ、秋斗君は将来絶対すごい人になるよ。私、分かってるから」

「プレッシャーかけるなよ。俺は俺のやり方で、人の役に立つことをするだけだ」

「それより、つむぎこそどうなんだよ。実家の工場継ぐんだろ」

「うちはまあ、古い技術ばっかりだって取引先にも言われてる。でもね、お父さんのあの技術だけは世界一だって信じてるの。つむぎ、この技術が世界をあっと言わせるんだから」

「ああ、俺もそう思うよ。つむぎの家の技術は、いつかきっと世界を変える」

あの頃、俺たちは本気でそんな未来を信じていた。

俺が何かを言おうと口を開きかけたその時だった。

「おい、つむぎ、遅いじゃないか」

通路の奥から、聞きたくもないデリカシーのない声がした。つむぎの背後から現れたのは、高そうな光沢のあるスーツを着こなした男。俺の大学時代の同級生、馬場賢介だった。

「うん? なんだ、知り合いか」

馬場はつむぎの肩に馴れ馴れしく腕を回すと、値踏みするように俺の全身を眺めた。そして俺の顔を見て、思い出したように目を丸くした。

「うわあ、お前、霧島じゃねえか。マジかよ。こんなところで会うとか」

馬場は学生時代からこういう男だった。大手医療機器メーカー、馬場メディカルの御曹司であることを鼻にかけ、常に他人を見下すことでしか自分の価値を図れない、中身のない男。俺は昔からこいつが嫌いだった。

「お前、今どこで何してんだよ。同窓会にも来ないし。まさかフリーターか」

俺は抱えているアタッシュケースを握りしめた。

「都内の会社で、営業補佐のような仕事をしてる」

「営業補佐なんだよ、それ。便利屋みたいなもんじゃねえか」

馬場の高い笑い声が静かな車内に響いた。

「まあ、しょうがねえか。お前、頭だけは良かったけど、結局大学やめちゃったもんな。母子家庭で学費払えなくなったんだっけ? ああ、結局お前は高卒だもんな」

そうだ。俺は大学に通っていた。だが母子家庭の生活は楽ではなかった。俺も必死にアルバイトをしたが、決定的だったのは母親の病気だった。高額な治療費と生活費、そして学費。全てを天秤にかけ、退学するしかなかった。

馬場は俺の着ている安物のスーツを指差して、さらに調子に乗った。

「そんな安物のスーツ着ちゃってさ。なんでお前みたいなのがグリーン車に乗ってんだよ。そのアタッシュケース、大事そうに抱えて、どっかの社長の荷物持ちかなんかだろう。大変だな、高卒は」

俺は反論する言葉を飲み込んだ。こいつに何を言っても無駄だ。それよりも、なぜつむぎがこいつと一緒にいる? 俺の視線に気づいた馬場は、待ってましたとばかりにつむぎの肩を強く引き寄せた。

「ああ、紹介するわ。俺たち、結婚するんだわ」

その言葉が、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。結婚? つむぎがこいつと? どういうことだ? つむぎは俺から視線をそらしたまま俯いていた。その顔色は青白く、馬場に抱かれた肩が小さく震えているように見えた。

馬場は俺の絶句した顔を見て、満足そうに続けた。

「結婚式は来月。お前も…あ、いや、中小企業の社員じゃ、ご祝儀も厳しいか」

心臓が冷たい氷で握りつぶされたようだった。息がうまくできない。混乱と、かなしみと、絶望が頭を持ち上げる。俺が言葉を失っていると、俯いていたつむぎが不意に顔を上げた。その目には、先ほどの懐かしさもなく、まるで氷のような冷たさが宿っていた。

「賢介さん、もう行きましょう。こんなところで立ち話なんて」

つむぎは俺の目を一切見ずに、馬場の腕を引っ張った。

「おお、そうそう。そうだな」

馬場は満足そうに頷き、勝ち誇った笑みを俺に向けた。2人が俺の横をすり抜け去っていこうとする。俺はとっさに腕を伸ばし、つむぎの細い腕を掴んでいた。

「つむぎ…」

「触らないで」

つむぎはまるで汚れたものに触れられたかのように、激しく俺の手を振り払った。彼女は憎しみを込めたような目で俺を睨みつけた。

「私、あなたと別れて本当に正解だったわ。つむぎ、何を…」

「だって、あなたは今も昔も変わらない。こんな無理してグリーン車なんて乗っちゃって、見えっぱりなところ、本当に嫌いだった」

「違う。俺は仕事で…」

「言い訳しないで。私はね、こんな窮屈な思いしなくても、毎回当たり前のようにグリーン車に乗せてくれるくらい経済力のある人と結婚したいの」

つむぎは馬場の腕にこれ見せしめにしがみついた。

「賢介さんはそれを叶えてくれる。あなたは、あなたに何ができるの?」

その言葉は、学生時代を必死に生きてきた俺たちの思い出全てを否定するようだった。

「さ、行きましょう、賢介さん」

「ああ、じゃあな、霧島。せいぜい荷物持ち頑張れよ」

馬場の高い笑い声と、つむぎの冷たい背中が通路の向こうへと消えていく。俺はその場に立ち尽くしたまま、アタッシュケースを抱え直すことしかできなかった。

俺はそのままよろよろと自分の席に戻った。窓の外を流れる景色は先ほどと何も変わらない。それなのに、俺の目にはまるで色のない、無機質な風景にしか映らなかった。結婚? つむぎがあの馬場と? 信じられなかった。いや、信じたくなかった。つむぎが最後に放った言葉が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。

「あなたと別れて本当に正解だったわ」「見えっぱりなところ、本当に嫌いだった」「私はね、経済力のある人と結婚したいの」

俺の知っているつむぎは、そんなことを言う人間ではなかった。学生時代、俺たちはいつも2人で笑い合っていた。金はなかったが、未来があった。俺が大学をやめなければならなくなった時、母親の病室の前で俺はつむぎに別れを切り出した。

「ごめん、つむぎ。俺はもうお前と一緒にいられない」

「どうして? 秋斗君が大学をやめても、私、気にしないよ。一緒に働こう。私も工場手伝うから」

「そういうわけにはいかないんだ。俺は母さんを支えるって決めた。それに、今の俺じゃお前を幸せにできない」

「幸せって、お金のこと? 私は秋斗君がいれば…」

「やめてくれ」

俺は声を荒げてしまった。

「俺は、金がないせいで母さんにも満足な治療を受けさせてやれないかもしれない。大学もやめるしかない。そんな情けない男なんだ。そんな俺が、お前の隣にいる資格はない」

本当は違った。本当は、ただ彼女を俺の背負い重に巻き込みたくなかっただけだった。彼女には彼女の夢があった。あの素晴らしい町の技術を世界に羽ばたかせるという夢が。俺という足かせが、彼女の未来を邪魔してはいけないと思った。泣き崩れるつむぎを残して、俺はその場を逃げ出した。それが俺たちの最後の記憶だった。

俺はつむぎを傷つけた。俺が、彼女にあんな言葉を言わせる人間に変えてしまったんだ。アタッシュケースが、まるで俺の過去の過ちの重さそのものであるかのように、膝に食い込んだ。

その時だった。

「きゃっ」

車両の前方で女性の短い悲鳴が上がった。ついで、重いものが倒れる鈍い音と、何かが割れる音。

「お客様、お客様、どうされましたか?」

乗務員の慌てた声が響く。静かだったグリーン車の空気が一瞬で凍り付いた。俺は弾かれたように顔を上げ、車両の前方を見た。

通路に初老の男性が倒れているのが見えた。上質なスーツを着た、どこかの企業の重役のような風貌の男性だ。その傍らには、呆然と立ち尽くすつむぎと、一歩引いた場所で顔をしかめている馬場の姿があった。どうやら彼らの席の近くだったらしい。

「お医者様か看護師の方はいらっしゃいませんか?」

乗務員の切羽詰まった声が車内に響き渡った。

「おい、どうするんだよ」「ひどい顔色だぞ」

乗客たちの不安そうな声が俺の耳を打つ。その時、1人の男がすっくと立ち上がった。馬場だった。

「皆さん、落ち着いてください」

馬場はわざとらしく咳払いを1つすると、自信満々な態度で乗務員に近づいた。

「俺は医療機器の大手会社、馬場メディカルの役員、次期社長だ。医療には精通している」

「おお…」

と、乗客たちの間から小さな声が漏れる。つむぎが不安が入り混じったような複雑な表情で馬場を見上げていた。馬場は倒れた男性を上から見下ろし、大げさに顔をしかめた。

「ふむ。これはひどいな。チアノーゼも出ている」

乗務員が藁にもすがる思いで馬場に問いかけた。

「あ、あの、どうすれば…何かご指示を」

馬場は親切ぶって呆れたように大げさに肩をすくめた。

「君は何を言ってるんだ? さっきも聞こえなかったのか? 私は医療機器メーカーの次期社長だが、医師免許は持ってないんだよ」

「え?」

「そんな私が下手に何か処置をして、万が一のことがあったらどうするんだ? 下手したら法律に触れてしまうだろう。そのぐらいも分からないのか?」

「え…」

乗務員の顔からさっと血の気が引いた。馬場はまるで偉人のように腕を組んだ。

「まあ、ここにうちの最新AIポータブル診断機でもあれば、まあ、救えたかもしれないが、生憎とそれもないからな。今はこうして黙って見守るしかできませんね」

「そ、そんな…」

乗務員が絶望に顔を歪ませる。倒れた男性の呼吸がさらに荒く、苦しそうになっていく。

「ああ、でも、私の見立てたところ、多分窒息しかけてるだけでしょう」

馬場は自信なさげに顎をさすりながら、思いついたように言った。

「そうさ、気道を確保してあげれば大丈夫だ。乗務員さん、その人を横向きに寝かせてあげてください。楽になるはずだ」

「はい。横向きに…」

乗務員が言われるがままに男性の体を動かそうとした。その瞬間だった。

「それじゃダメだ」

静かな車内に、俺の鋭い声が響いた。俺は馬場と乗務員を押し分けるようにして、男性の前に進み出た。

「な、なんだよ、霧島。邪魔だぞ」

馬場が俺の肩を掴もうとする。

「その体勢は危険です」

俺は馬場の手を振り払った。

「意識のない人を無理に横向きにすれば、舌が喉の奥に落ち込んで完全に気道を塞ぐか、あるいは嘔吐した場合に誤嚥する危険がある。助かる命も助からなくなるぞ」

「あ、誤嚥だ…」

馬場が聞いたこともない単語に怯んだ。

「お、お前、何を偉そうに。素人は引っ込んでろ。俺は医療のプロだぞ」

「お前こそ、何を言ってるんだ」

乗務員が俺と馬場を見比べ、混乱している。

「あ、あのお客様は一体…」

俺は男性の前に膝をつき、即座に脈と呼吸の確認をしながら、乗務員に顔を向けた。

「医者です」

一瞬、車内が静まり返った。全ての視線が俺に集中する。

「医者だ?」

1番大きな声を上げたのは馬場だった。

「はあ? お前が? 霧島、前とうとう頭がおかしくなったのか。お前は高卒のただの荷物持ちだろうが」

馬場の隣で、つむぎの大きな瞳が信じられないという色を浮かべて激しく揺れていた。

「秋斗君が…」

俺は彼らに答える時間さえ惜しかった。

「乗務員さん」

「あ、はい」

「すぐにAEDと救急箱を持ってきてください。それから車掌に連絡を。次の停車駅、最短で着く駅に緊急停車し、救急隊の受け入れ準備を要請してください」

俺の普段の営業補佐からは想像もつかない、冷静で有無を言わせぬ指示に、乗務員は弾かれたように走り出した。

「おい、霧島、お前、本気で言ってるのか? お前に何の資格が…」

「黙っていろ。人命がかかってるんだ」

俺は馬場を睨みつけると、男性の首筋に指を当て脈を確認した。弱い。不規則だ。呼吸も浅く、早い。顔面蒼白。冷や汗。これは急性心筋梗塞か。あるいは不整脈による心停止が近い。

俺は男性の胸元のネクタイを緩め、シャツのボタンを外した。

「もしもし。分かりますか? 私の声が聞こえますか?」

肩を強く叩きながら呼びかけるが、応答はない。気道を確保し、呼吸を確認する。呼吸停止している。

「くっ」

すぐさま胸骨圧迫を開始する。一定のリズムで、強く、早く、胸の中心を圧迫し続ける。

「おい、お前、本当に…」

馬場が俺の危機迫る様子に気圧されて後ずさる。つむぎはその場に立ち尽くしたまま、ただ俺の手元を凝視していた。

「AED、持ってきました」

乗務員が赤いケースを抱えて戻ってきた。

「よし、電源入れて、パッドを指示通りに貼ってください」

「全員離れて」

俺は叫んだ。乗務員と、矢も盾も持たずに見ていた乗客。そして呆然と立ち尽くす馬場とつむぎが、一斉に数歩下がる。俺は点滅するボタンを強く押し込んだ。

戻ってこい。戻ってこい。俺は胸骨圧迫を続けながら、ただ目の前の命に集中した。

どれくらいの時間が経っただろうか。AEDの指示に従い、ショックと胸骨圧迫を繰り返す。

「はあ…はあ…くそ…」

「ショックが必要です。充電中です」

3度目の電気ショックを与え、間髪入れずに胸骨圧迫を再開した。その時、男性が激しく咳き込んだ。

「はっ…意識が戻った」

俺は圧迫を止め、男性の肩を叩いた。

「もしもし。分かりますか?」

男性はゆっくりと目を開け、混乱したように俺の顔を見た。

「ああ…ここは…」

「大丈夫です。新幹線の中ですよ。あなたは急に意識を失いましたが、今、戻りました」

「おお客様…」

乗務員が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。

「すごい。本当に意識が…」

車内の乗客たちからも安堵のため息と、小さな拍手が起こった。俺は床にへたり込んだまま、荒い息を整えた。心臓がまだ激しく高鳴っている。助かった。

間もなく緊急停車いたします。救急隊員が待機しております。車内アナウンスが流れた。俺は乗務員に男性の容態を簡潔に伝え、引き継ぎの準備を指示した。新幹線はほどなくして最寄りの駅に滑り込むように緊急停車した。ホームにはすでにストレッチャーを用意した救急隊員たちが待機していた。俺は到着までの間にまとめた男性の容態を、駆けつけた隊員に簡潔かつ正確に引き継いだ。

「以上です。おそらく心筋梗塞の疑いが濃厚です。受け入れ先病院への迅速な情報共有をお願いします」

「はい。承知いたしました。先生、迅速なご対応、ありがとうございました」

隊員の1人が深々と頭を下げた。男性はまだ意識はもうろうとしながらも、自発呼吸を取り戻した状態でストレッチャーに乗せられ、慎重にホームへと運び出されていった。その姿を見届け、俺はホームに吹き込む風で額の汗を拭った。

「秋斗君」

背後でか細い声がした。つむぎだった。彼女は不安と混乱が入り混じったような、潤んだ瞳で俺を見つめていた。

「すごかった…本当にお医者さんだったんだね。夢、叶えたんだね」

「昔の話だ」

俺は短く答えた。今、この話をする時間も、心の余裕もなかった。

「おい、つむぎ。何してんだ? 早く戻るぞ」

馬場が少し離れた場所から不機嫌そうな声でつむぎを呼んだ。彼はさっきまでの騒動の中心にいた俺から距離を取り、どこか居心地悪そうに腕を組んでいる。

「間もなく発車いたします。お席にお戻りください」

無情なアナウンスがホームに響いた。俺はつむぎに背を向け、止まっていた新幹線へと再び乗り込む。自分の席に戻り、まずは網棚の上の荷物が無事であることを確認する。よし、鞄は…その時、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

ない。足元に置いていたはずの、あのアタッシュケースがない。まさか。蘇生処置に気を取られ、席を立つ時に持ち出すのを忘れていた。くそ。俺は慌てて、さっきまで処置をしていた車両前方のスペースへと駆け戻った。だが、乗務員が清掃を始めたそこにも、あの重いケースは見当たらない。

「ない…どこだ?」

心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。あれは会社の、いや、俺の未来がかかった最重要機密だ。どこだ? どこに忘れた? ああ、俺は自分がアタッシュケースを抱えたまま一度トイレに立とうとしたことを思い出した。そして通路でつむぎと再会し、馬場と言い争いになり、そのまま席に戻らずに緊急事態に対応したのだ。まさか、あの通路に置き忘れたまま…絶望的な気分で狭い通路をキョロキョロと見渡す。だが、見当たらない。

「秋斗君、これ、探してるんじゃない?」

不意に背後から、つむぎの声がした。振り返ると、彼女はあの見慣れたアタッシュケースを両手でしっかりと抱えていた。

「つむぎ…」

「やっぱり、さっきの騒ぎの時、通路に置きっぱなしになってたから。秋斗君、新幹線であった時から、何があってもずっと大事そうに持ってたじゃない。よっぽど大切なものなんだろうなって」

つむぎはどこか申し訳なさそうな、それでいて少しだけ嬉しそうな、複雑な表情で俺にケースを差し出した。俺は安堵の息を大きく吐き出し、それを受け取った。

「ありがとう、つむぎ。本当に助かった。これがなかったら、俺は…」

「うん。私、さっきはごめんなさい。あんなひどいこと…秋斗君、さっきすごかった。本当に、かっこよかった」

つむぎはアタッシュケースから手を離した後も、その場から動かず、まっすぐ俺の目を見つめていた。

「私、思い出した。学生の頃、秋斗君って言ってたよね。人の命を救う医者になりたいって。周りのみんなは、お前には無理だなんてひどいこと言ってたけど、私は心のどこかでずっと信じてた。秋斗君は誰よりも頑張り屋だから、きっとその夢を叶えるって」

彼女の瞳がわずかに潤んでいるように見えた。

「だから、さっき冷静に指示を出してる秋斗君の姿を見られて、私、本当に嬉しかったんだ。やっぱり秋斗君はすごい人だって。実はね、私…」

つむぎが何かを言いかけたように口を開きかけた。その時だった。

「たく、何やってんだよ、お前ら」

馬場が苛立ちを隠せない様子で、再び俺たちの間に割って入ってきた。

「おい、霧島。お前、医者ぶってたけど、結局そのざまかよ。そんな大事な荷物も放ったらかしか。ああ、だから高卒の荷物持ちは信用できねえんだよ」

「馬場、それは関係ないだろ」

「関係あるね。お前、さっき偉そうに指示してたけどよ。医者つっても、どうせやめた医者だったんだろう。だからやめたんじゃねえのか。大体、今だって医者やってねえじゃねえか。中途半端な知識で人命救助ごっこかよ」

馬場の言葉には棘があった。自分が何もできなかったことへの苛立ちと、俺への嫉妬が、見え隠れに混じっていた。

「全く、俺だってな。うちの最新のポータブル診断機器がありゃあ、あんなのお茶の子さいさいなんだよ。道具がなかっただけだ。道具が」

彼は自分の失態を棚に上げ、なおも俺を貶めようとした。俺はアタッシュケースを握る手に力を込めた。こいつと話していても無駄だ。

「間もなく発車いたします。お席にお戻りください」

アナウンスが車内に響いた。

「つむぎ、とにかくありがとう。また後で」

「え?」

つむぎが俺の言葉の意味を測りかねて、戸惑ったように小さく声を漏らした。俺はそれには答えず、彼女と、その横で不機嫌そうに腕組みする馬場に背を向け、今度こそ自分の席へと足を向けた。つむぎの戸惑ったような視線を背中に感じながらも、俺は振り返らなかった。

切り替えろ、霧島秋斗。俺は窓の外を流れ始めた景色を見ながら、自分に強く言い聞かせた。膝の上のアタッシュケースのずっしりとした重みを感じる。桜総合サービスに入ってから、俺がどれだけこの日を待ち望んでいたか。このアタッシュケースの中身が、どれほどの価値を持つか。俺はただの営業補佐じゃない。この会社で、俺の知識と分析能力を武器に、必ずやり遂げなければならないことがある。そうだ。今日の俺の任務は、これを確実に取引先に届けることだ。

俺は目を閉じ、大きく深呼吸を1つした。新幹線は何事もなかったかのように速度を上げ、西へ、大阪へと向かって走り続けた。

新大阪駅に到着したのは、予定より少し遅れていた。俺は他の乗客に紛れてホームに降り立った。つむぎと馬場の姿を探すことはしなかった。もう彼らと関わっている時間はない。足早に改札を抜け、タクシー乗り場へと急ぐ。幸いにもすぐに1台のタクシーが止まった。

俺は後部座席に乗り込み、アタッシュケースをしっかりと膝の上に抱え直した。

「運転手さん、すみません。東大阪市の須磨製作所までお願いします」

「はい。須磨製作所さんですね。分かりました」

タクシーは都心のビル群を抜け、次第に景色が変わっていく。高いビルは姿を消し、小さな工場や町工場がひしめき合う、独特の活気を持ったエリアに入っていく。ここが東大阪。日本のものづくりを支えてきた技術の集積地。

「お客さん、着きましたよ」

目の前には、想像していたよりもさらに古く、小さな工場があった。「須磨製作所」と書かれた少し錆びついた看板だが、その佇まいは、長年この地で愚直に技術を磨き続けてきたという静かな誇りに満ちているように見えた。

「ありがとうございます」

俺は料金を支払い、タクシーを降りた。工場の入り口に向かって歩きながら、ジャケットの襟を正し、ネクタイを締め直す。俺が事務所のドアを開けようとしたその時。

「お待ちしておりました」

中から、油の匂いが染みついた作業着姿の、人の良さそうな初老の男性が出てきた。年の頃は60代前半だろうか。深く刻まれた皺と、厳しくも温かい目元が印象的だ。この人が須磨製作所の社長か。

「桜総合サービスの霧島様ですね。遠いところ、わざわざありがとうございます。私が社長の須磨です」

「こちらこそ。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

俺は膝のアタッシュケースを左手に持ち替え、深く頭を下げた。そして胸ポケットから名刺入れを取り出し、1枚の名刺を差し出した。

「申し遅れました。私、桜総合サービス営業サポート部の霧島秋斗と申します」

社長は俺の名刺を受け取ると、ぽつりと小さく声を漏らした。

「霧島さん…あなたが、あの素晴らしい分析レポートを…」

「え?」

「いや、失礼。うちみたいな小さな工場の古い技術を、あそこまで深く理解し、未来の可能性まで示唆してくださったレポートは初めてでした。担当の営業さんからも、霧島という技術分析のスペシャリストがいると伺っておりましたが…」

社長は俺の顔をまじまじと見つめた。

「想像していたよりもずっと若い。素晴らしい才能をお持ちだ」

「いえ、とんでもない。御社の技術がそれだけ素晴らしいということです」

俺が謙遜すると、社長は「ははは」と豪快に笑った。

「そう言っていただけると、技術者冥利に尽きます。さ、立ち話も何です。どうぞ中へ」

社長が俺を事務所に招き入れようとした。まさにその時だった。

「ただいま。ごめんなさい、新幹線が遅れちゃって」

工場の入り口から、聞き慣れた声が響いた。ガラガラと事務所のドアが開く。そこに立っていたのは、新幹線で来ていたのと同じ、少しよれよれのワンピース姿のつむぎだった。彼女は俺の存在に気づき、その場に凍り付いた。

「え…?」

つむぎの大きな瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。

「秋斗君…」

彼女の視線が、俺と、俺の隣に立つ父親と、そして俺が差し出した名刺の間を往復する。

「なんで…なんで、あなたがここに…」

つむぎの声が工場の事務所に響く。俺の隣に立つ須磨社長が、俺と娘の顔を不思議そうに見比べた。

「おや、つむぎ、知り合いだったのかね」

「え? あ、うん。だ、大学の…」

「おお、そうでしたか」

なんと、社長は目を見開いて声を上げた。

「この方は、桜総合サービスでうちの技術分析レポートを書いてくださった、霧島秋斗さんだよ」

「お前が…すごい分析だって、何度も読み返してた、あのレポートの…」

つむぎの視線が、俺が社長に差し出した名刺と、俺の顔とを再び往復する。新幹線で再会した、高卒の荷物持ちと嘲笑された、安物のスーツの男。さっきまで「医者です」と叫び、人の命を救っていた男。そして今、父が希望だと語るビジネスパートナー。その全てが、彼女の中で「霧島秋斗」という一点に繋がった瞬間だった。

「そうか。大学の同級生でしたか。いや、奇遇だ。つむぎ、何をぼさっと突っ立ってるんだ。今日は大事な商談の日だと、あれほど言っておいただろう。お客様に失礼だ。早く着替えてきなさい」

「あ、は、はい。ごめんなさい」

つむぎはバタバタと慌てて、事務所の奥にある居住スペースへと消えていった。その背中を見送りながら、社長は「やあ、お恥ずかしい」と頭を掻いた。

「どうぞ、霧島さん、こちらへ」

俺は使い込まれて艶の出た応接セットのソファーに腰を下ろした。社長が湯呑みに熱い茶を入れてくれる。

「本当に、跳ねっ返り娘でして。じゃじゃ馬というか。ああ、まあ、昔から私に似て頑固でしてな」

社長は湯呑みを俺の前に置きながら、どこか寂しそうに笑った。

「ですが、まあ、来月には嫁に行くことが決まりましてね」

新幹線での馬場の言葉が、現実の重みを持って蘇える。俺は努めて平静を装い、営業としての仮面をかぶった。

「そうでございましたか。それはおめでとうございます」

「ええ…」

社長は力なく首を振った。

「娘はね、私がお父さんの工場をもっと大きくするんだなんて、無理なことを言ってくれてはいるんですが…正直に申し上げて、霧島さん、私は自分の手でこの工場を畳もうと、そう思っていたんですよ」

その言葉は、俺が恐れていた現実だった。

「と、おっしゃいますと?」

「ええ、どんなにいいものを作っても、それが世間に正しく評価されなければ、我々は食べていくことができません。この東大阪でも、どれだけの工場が時代の波に飲まれて消えていったか…」

社長は窓の外にある、今は動いていない古い旋盤に目をやった。

「あの子には、本当に苦労をかけてきました。妻が早くに亡くなって、大学も、本当はもっとやりたいことがあったかもしれないのに、この工場を継ぐために工学の道を選んでくれた。それなのに、私と来たら…」

社長の声が悔しさに震えていた。

「もういいんです。私は、あとはあの子が、つむぎが幸せになってくれれば。結婚相手は大手の医療機器メーカーの御曹司でしてな。経済的にも申し分ない。あの子がもうお金のことで苦労しなくて済むのなら、私はそれで満足なんですよ」

それは、諦めの言葉だった。社長はふと長い息を吐くと、俺の目をまっすぐに見た。

「そう思っていました。あなたのあのレポートが届くまでは」

「え?」

「霧島さん、あなたのレポートは、私たちが諦めかけていた光そのものでした。うちのこの古臭いだけの技術に、私たちが想像もしなかった未来があると、そう示してくれた」

社長は身を乗り出した。

「だから、今日のお話を、私はこの工場の最後の希望だと思っております。どうか、よろしくお願いいたします」

深く頭を下げる社長に、俺は膝の上のアタッシュケースを握りしめた。俺がこの会社に入った目的。俺が医者の道を捨ててまで、この営業サポートという立場で成し遂げたかったこと。その全てが、今この瞬間に繋がっている。俺は社長に向かって、深く、深く頭を下げた。

「社長、お任せください」

俺は顔を上げ、はっきりと告げた。

「須磨製作所の技術は、世界にまだない画期的なものです。あれは決して夢物語ではありません。今日、私はその現実をお持ちしました」

「おお…」

「お待たせしました」

その時、奥のドアが開き、作業着に着替えたつむぎが、緊張した面持ちで入ってきた。髪を後ろで1つに束ね、顔にはまだ戸惑いの色が残っている。だが、その瞳の奥には、学生時代に技術の話をする時と同じ、強い光が宿っていた。彼女は俺の向かい側の席に、背筋を伸ばしてちょこんと座った。

俺はアタッシュケースをテーブルの中央に置き、静かにロックを外した。

「こちらが、御社の技術に基づき、弊社で試作したサンプルと、今後の市場展開に関する最終提案書です」

俺は中から1枚の分厚い資料と、ビロードの布に包まれた小さな金属片を取り出した。社長とつむぎが息を飲む。俺はプレゼンテーションを開始した。

「社長、つむぎさん。御社の技術の真髄は、異種金属の超精密切合技術にあります。ですが、それは今まで、特定の工業機械の部品という、非常に限定的な分野でのみ使用されてきました」

俺は資料のページをめくり、1枚のグラフを指差した。

「ですが、私が注目したのは、その接合部分の生体親和性と、非腐食性です」

「せ、生体親和性…」

「はい。私が独自に分析したところ、御社の技術で接合された金属は、人体の体液に長期間触れても、金属が一切溶け出さないという、驚異的な特性を持っていることが判明しました」

俺の言葉に、社長とつむぎの顔色が変わった。

「そ、そんなデータは、うちには…」

「ええ、おそらく、測定する機材も、その視点も、今までなかったからです。ですが、これは間違いのない事実です」

俺は自分が医者であったことを隠し、あくまで桜総合サービスの技術アナリストとして続けた。

「これが何を意味するか。医療分野への全面的な応用です」

俺はテーブルに置いた金属片を指差した。

「例えば、人工関節、心臓のペースメーカーの部品、あるいはこれまでのものとは比較にならないほど耐久性が高く、アレルギー反応も起こさない、外科手術用のメスや鉗子」

「い、医療…」

つむぎが震える声で呟いた。

「そんな、夢みたいな…」

「夢ではありません」

俺は彼女の目をまっすぐに見据えた。

「これは、御社の技術だからこそ可能な現実です。桜総合サービスは、この技術を『スマートメタル』としてブランド化し、世界中の医療機器メーカーへ売り込む準備があります。これは、そのための第一歩です」

社長はテーブルの上の小さな金属片を、震える手で掴んだ。

「これか…これが、わしらの…」

その目には涙が浮かんでいた。

「霧島さん、もし、もしもこの話が本当なら、わしらは…」

俺は社長のその目をまっすぐに見据え、力強く頷いた。

「本当です、社長。『もし』ではありません」

俺は提案書の1番最後に挟んでいた1枚のシートを引き抜いた。

「御社のスマートメタルが、まず国内の医療機器市場に参入した場合、試算では、初期段階でも年間数十億円の売上が見込めます」

「十数億…」

つむぎが息を飲む音が聞こえた。社長も信じられないという顔で固まっている。

「ですが、それは国内だけの話です」

俺は続けた。

「この技術は世界規格です。我々桜総合サービスが持つ海外ネットワーク、ヨーロッパ、アメリカの市場へ展開した場合…」

俺はシートに書かれた数字を指差した。

「この技術が持つ潜在的な市場規模は、控えめに見積もっても、年間で数千億円に達します」

「す、数千億…」

社長とつむぎの驚愕に目を見開いた声が、綺麗に重なった。小さな町工場の事務所には、あまりにも現実離れした金額。俺は2人の驚きを真正面から受け止めた。

「ええ、そうなれば、もう毎月の資金繰りに頭を悩ませるようなレベルの話ではありません。世界中の患者の命を救い、同時にこの須磨製作所が、世界トップクラスの最先端技術開発拠点として生まれ変わる。そういう未来の話です」

「すごい…」

つむぎが感嘆の息を漏らした。

「素晴らしい、霧島さん。あなたという人は…」

須磨社長はテーブルに広げられた提案書と、手のひらの上にある金属サンプルを、何度も何度も見比べていた。その目には、長年の苦労が報われるかのような熱い光が宿っている。

「社長、これはまだ始まりに過ぎません。御社の技術と、我々の持つ販路、そしてこの医療分野という新しい視点。この3つが組み合わさって初めて…」

「分かっております」

社長は俺の言葉を遮るように力強く頷いた。

「分かっておりますとも。しかし、これほどの提案を、これほどの熱量を持ってきてくださった。それだけで、私はもう言葉に詰まる」

社長の横で、つむぎは俯いたまま動かなかった。彼女の肩が、小さく小刻みに震えているのが見えた。

熱のこもった議論は、その後も続いた。具体的なスケジュール、製造の確認。そして何よりも、この機密情報をいかにして守り、特許申請と同時に市場へ発表していくか。俺が営業サポート部の人間として蓄積してきた知識と、かつて医療現場で培った知見を総動員して、社長の疑問に1つ1つ答えていく。つむぎは時折り、専門的な技術の観点から鋭い質問を挟みつつも、そのほとんどの時間を、まるで初めて見る生き物でも観察するかのように、俺の顔をじっと見つめていた。

気づけば、工場の窓から差し込む光はとっくに傾いていた。

「ああ、いけない。もうこんな時間でしたか」

俺は腕時計を確認し、慌てて立ち上がった。

「霧島さん、申し訳ない。あまりに嬉しくて、つい長居をさせてしまいましたな」

「いえ、とんでもない。こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」

俺はアタッシュケースを閉じ、深く頭を下げた。

「それでは、私はこれで失礼いたします。今後の具体的な進め方につきましては、本日のお話を踏まえ、改めて弊社担当営業より正式にご連絡させていただきます」

「ほう、そうですか。いや、本当にありがとうございました」

社長は工場の入り口まで、名残惜しそうに俺を見送ってくれる。俺が「失礼します」と事務所のドアに手をかけた、その時だった。

「ああ、そうだ。つむぎ」

社長がふと思い出したように娘を呼んだ。

「お前、霧島さんとは大学の同級生だったんだろう。久しぶりに会ったんだし、積もる話もあるだろう。新大阪の駅まで、お前が送っていって差し上げなさい」

「え?」

つむぎが驚いたように顔を上げた。

「いえ、社長、お構いなく。タクシーを拾いますので、本当にお気遣いなく」

俺は慌てて辞退しようとした。だが、俺の言葉を遮るように、つむぎがはっきりとした声で言った。

「うん、分かった。お父さん、私、送ってくるよ」

「え、つむぎ…」

「秋斗君、いいよね」

つむぎは有無を言わせぬ、真っ直ぐな瞳で俺を見つめていた。

「あ、ああ。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

彼女のその目に、俺はなぜか逆らうことができなかった。

「じゃあ、これで行くから、ちょっと待ってて」

つむぎが俺を案内したのは、工場の片隅に止められていた1台の小さな軽自動車だった。須磨製作所のロゴが控えめに入った、年季の入った営業車だ。

「営業車でいい?」

「もちろんだよ。なんか懐かしいな、こういう感じ」

「そうでしょ」

俺が助手席に乗り込むと、つむぎは慣れた手付きでキーを回し、エンジンをかけた。軽自動車は少し頼りないエンジン音を立てて、ゆっくりと工場の敷地を出た道を走り出した。

「私が運転するなんて、びっくりしたでしょ」

しばらく続いた沈黙を破ったのは、つむぎだった。

「ああ、そうだな。正直、驚いた」

俺は横顔で笑った。

「昔のつむぎは、自転車に乗るのもどこか危なっかしいところがあったからな」

「ひどい。さすがに自転車は普通に乗れてたよ」

つむぎは楽しそうに頬を膨らませた。だが、その笑顔はすぐに、どこか寂しげなものに変わった。

「でもね、私もしっかりしなきゃいけなかったのよ」

彼女は前を向いたまま、ぽつりと言った。

「見ての通り、うちはもう本当にギリギリの状態で。お父さん、さっきはあんなに喜んでたけど、ここ数年、工場の機械を動かしてない日の方が多いくらいだったんだから。私、大学は出たけど、まともなお給料なんてもらったことない。赤字を切り盛りしてただけ」

その声は震えていた。

「でもね」

つむぎは信号待ちで車を止めると、俺の顔をまっすぐに見た。

「さっきの、秋斗君の会社の分析レポート、本当にすごかった。私、何度も読んだ。お父さんも、2人で、こんな未来があるなんて。もし、あれで本当に世界の市場が開けたら、うちは…うちは持ち直せると思う」

彼女の目に涙が滲んだ。

「本当にすごいよ。夢みたい。あんな古くて小さいだけのうちの技術が…」

「夢じゃないよ、つむぎ」

俺は彼女の言葉を静かに遮った。

「え?」

「俺は、俺はお前の家の工場を救うために、あの会社に入ったんだ」

「え、な、何を言ってるの?」

つむぎが信じられないという顔で俺を見る。車内に重い沈黙が落ちた。俺の言葉があまりにも唐突すぎて、彼女は理解が追いつかないようだった。

「プップー」

その時、背後からけたたましいクラクションが鳴り響いた。

「ああ、つむぎ、行くよ」

見れば、さっきまで赤だった信号が、とっくに青に変わっていた。

「ごめんなさい」

つむぎは後ろの車に軽く手を合わせると、慌ててハンドルを切り、ウィンカーを出した。このまま大通りで話せる雰囲気ではない。彼女はとっさの判断で、車をすぐそこの開いている脇道へと滑り込ませた。そこは工場の資材置き場か何かがある、人通りのない静かな路地だった。

つむぎはゆっくりと車を路肩に寄せ、エンジンを止めた。キーを回す音がカチリと響くと、さっきまでの喧騒が嘘のように、車内は静寂に包まれた。

「ごめん、びっくりさせちゃって」

つむぎはまだ少し動揺した様子で、ハンドルの上で指を組んだ。そして、ゆっくりと俺の方に向き直った。その瞳は、さっきまでの涙とは違う、真剣な色をしていた。

「秋斗君、さっきの言葉、もう一度聞かせてくれる?」

彼女はごくりと喉を鳴らした。

「本当に、うちの工場を救うためにって、どういうことなの?」

俺は彼女の真っ直ぐな視線を受け止め、ゆっくりと、自分が隠し続けてきた過去を話し始めた。

「俺が大学を辞めた後、母さんの看病とバイトに明け暮れてたのは、知ってるだろ?」

「うん」

「あの時、母さんの担当だったお医者さんが、すごい人だったんだ。俺が金がなくて大学をやめたこと、本当は医者になりたかったことを見抜いてた。その先生がある日、俺に言ったんだ。『君みたいな人間こそ、医者になるべきだ』って。世の中には、君が知らない道がたくさんある。奨学金、地域医療を支えるための特別な学費免除プログラム。本気でやる気があるなら、道は必ず開けるって」

俺はあの時の先生の、厳しくも温かい目を思い出していた。

「俺はその言葉に賭けた。母さんの容態が落ち着いた後、俺はもう1度、今度は医学部を目指して猛勉強した。奨学金も、先生が紹介してくれた制度も、全部利用して。ギリギリだったけど、医者になれたんだ」

「そうだったんだ…秋斗君、そんなに頑張って…」

「医者になって、数年は無我夢中だった。人の命を預かる現場は、想像を絶するものだった。でも、そこで俺は限界も感じたんだ」

「限界?」

「ああ。ある手術でのこと。どうしても今の医療機器の素材では、患者さんの体に負担がかかりすぎてしまう。ベテランの外科医が、オペの後に疲れきった顔で呟いたんだ。『あと数ミクロン薄くて、絶対に錆びなくて、体内でアレルギー反応も起こさない。そんな夢みたいな金属があれば、あの子はもっと楽になれたかもしれないのに』って」

俺はつむぎの目をまっすぐに見た。

「その瞬間、俺の頭に雷が落ちたみたいに、学生時代の記憶が蘇ったんだ」

「まさか…」

「ああ。学生の頃、お前が工場の隅で見せてくれた、あの金属片だ。『これ、お父さんの技術なんだけどね』って、すごく自慢げに話してただろ。『うちの技術はね、違う種類の金属を、まるで1つの金属みたいにピタッとくっつけられるんだよ』って。あの時のお前の誇らしそうな顔を、思い出したんだ」

つむぎが息を飲んだ。

「俺は直感した。これだ、って。これなら、あの先生が言ってた夢みたいな金属が作れるかもしれない、って。でも、それを確かめるには、医者を続けながらじゃ無理だった。医療の知識と、金属工学の知識。そして何より、それをビジネスとして世界に広める力が必要だった」

「だから、秋斗君は医者を…」

「ああ、医者をやめた。そして、医療分野にも強くて、技術を正しく評価して世界に売るノウハウを持ってる専門商社、桜総合サービスに入ったんだ。いつか必ず、須磨の技術を俺が分析して、この提案を通す。それだけを決めて、全てを…」

話し終えた時、俺は自分がひどく興奮していることに気づいた。

「でも、理由はそれだけじゃない」

俺は声を少し落とした。

「俺1人が医者として現場で救える命の数には、限りがある。でも、日本の、世界中の医者がそれを使って、今まで救えなかった命を救えるようになるかもしれない。俺が直接自分の手で救わなくても、こうやって間接的にもっと多くの人を救えるかもしれないだろ」

「ふう…」

つむぎは、とうとう。

「秋斗君の、バカ」

「え?」

「バカ。なんで、そんな、そんな大事なこと、今まで黙ってたの? 私が新幹線であんなにひどいこと言ったのに」

「ああ、あれはさすがに応えたけどな」

俺は苦笑しながら言った。あの時の胸をえぐられるような痛みは、本物だった。だが、俺は彼女のあの冷たい瞳の奥に隠された、ほんのわずかな揺らぎを見逃してはいなかった。

「でも、分かってたよ。あれ、本心じゃないだろう」

「え?」

つむぎが涙に濡れた顔を上げた。

「お前、俺をあの馬場から遠ざけようとしたんだ。俺があいつとこれ以上揉めて、面倒なことに巻き込まれないように。あえて俺に嫌われるようなひどいことを言って、俺を突き離した。あえて憎まれ役を買って出て、自分だけが傷つけばいいなんて。そういう不器用でお人好しなところ、昔から本当に変わらないな、お前は」

俺の言葉に、つむぎはまるでこらえていた堰が完全に決壊したかのように、さらに激しく声を上げて泣き出した。ハンドルに顔を伏せ、子供のようにしくしくと泣く。

「ごめんなさい。ごめんなさい。でも、秋斗君まで、あの人に目をつけられたらと思ったら、怖くて…」

「もういい。分かってるから」

俺はティッシュを差し出すことしかできなかった。

「私、ずっと…」

つむぎはしゃくり上げながら、途切れ途切れに続けた。

「秋斗君は夢を諦めて、どこかで平凡に暮らしてるんだって、勝手にそう思ってた。それなのに、秋斗君は私なんかより、ずっとずっとすごい場所で…秋斗君はすごいよ。本当にすごい。たくさんの人を救ってる。それに、私を…私も救ってくれた」

彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔で俺を見た。

「ひどい彼女だったのに。あんな別れ方。秋斗君が1番大変な時に、何も支えてあげられなかったのに」

「よせよ」

俺は照れ隠しに視線をそらした。

「そんなこと言い出したら、俺の方こそひどい彼氏だっただろう。お前を幸せにできないって、勝手に決めつけて。お前が一緒に頑張ろうって言ってくれてたのに、その気持ちも聞かずに、一方的に逃げ出した。1番大変な時だったのは、お互い様だったはずなんだ。あの時の俺は、自分のことで精一杯で、本当に情けなかったと思ってる」

「秋斗君、そんなこと…」

「おあいこだ」

俺は彼女の心の重荷を少しでも軽くするように、努めて穏やかに言った。

「過去はもう変えられない。でも…」

俺は彼女の、ハンドルを握ったままの手に、自分の手をそっと重ねた。

「だからこそ、今度は絶対に成功させたいんだ。お前と、お父さんと一緒に。これが本当にうまくいくかどうかは、正直、これからが勝負だ。俺はさっき大口叩いたけど、簡単な道じゃないのは分かってる。でも…」

俺の言葉を遮るように、つむぎが重ねた俺の手に、自分の手を強く握り返してきた。彼女は涙に濡れた顔で、だが、今までにないほど力強い光を目に宿して、俺をまっすぐに見つめた。

「絶対にうまく行く。私が、お父さんが、この手でうまく行かせてみせる。秋斗君が信じてくれたんだもん。お父さんの技術が、うちの技術が、世界に認められるなんて。そんな日が来るなんて…」

つむぎの力強い言葉だった。その熱意は、重ねた手を通して、俺にもはっきりと伝わってきた。俺たちはしばらくの間、薄暗い路地で、お互いの未来への決意を確かめ合うように、手を握り合っていた。

「そろそろ行かないと」

どちらからともなく、俺が言った。

「新幹線、乗り遅れちまう」

「うん」

つむぎは名残惜しそうに、ゆっくりと俺の手を離した。彼女は涙の跡が残る顔を袖で乱暴に拭うと、もう一度深く息を吸い込んだ。

「よし」

気合を入れるように、彼女はキーを回し、再びエンジンをかけた。ブルンと軽自動車が静かに震える。

「秋斗君、しっかり捕まってて。新幹線、絶対間に合わせるから」

「おいおい、安全運転で頼むよ」

「任せて」

つむぎはさっきまでの泣き顔が嘘のように、きりっとした笑顔でウィンカーを出した。車は静かな路地を抜け、再び暮れの喧騒が戻ってきた大通りへと合流した。

俺は助手席で、窓の外を流れる大阪の街並みを眺めていた。さっきまでとは、まるで違う景色に見えた。つむぎはもう何も喋らなかった。ただ、まっすぐに前を見据え、ハンドルを握っている。その横顔は、俺が知っているどのつむぎよりも、凛として美しく見えた。

気がつくうちに、車はいつしか新大阪駅に続くロータリーに差しかかっていた。駅の巨大な建物が目の前に迫ってくる。

「着いちゃうね」

つむぎがぽつりと言った。彼女はハザードランプをつけ、ゆっくりと路肩に車を寄せた。クラクションの音や雑踏が、急に現実の音として耳に届く。

「そうだな」

俺は助手席のドアハンドルに手をかけようとした。分かってる。行かないといけない。彼女には馬場という婚約者がいて、来月には結婚する。俺はただの取引先の人間だ。これ以上、2人でいるべきじゃない。

「秋斗君」

俺の手を、つむぎの小さな手がそっと上から抑えた。

「え?」

「分かってる。分かってるの。もう行かないといけないって、分かってるんだけど…」

彼女は俯いたまま、か細い声で言った。

「私、今、ずっとこの時が続けばいいのにって思ってる」

その言葉は、小さくだが確かに俺の心に突き刺さった。新大阪駅のロータリーの喧騒が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。俺はつむぎの手を振り払うことも、握り返すこともできず、ただ戸惑っていた。

「つむぎ。お前、来月結婚するんだろ? あの馬場と」

俺が絞り出した声は、自分でも驚くほど固く、冷たい響きを持っていた。つむぎの肩がびくりと震えた。彼女は俺の手に重ねていた手を、慌てて引っ込めた。

「ごめんなさい。私、どうかしてた。婚約者がいるのに、こんな…」

「違う。責めてるんじゃない」

俺は彼女の顔を覗き込むように向き直った。

「俺は、ただ分からないんだ。どうしてお前があんな奴と…新幹線であった時のお前は、昔のつむぎとは別人みたいだった。あんな冷たいことを言う人間じゃなかったはずだ。それに、あの馬場だぞ。学生時代、あいつがどれだけ他人を見下して、人を傷つけるようなことばかり言ってたか。お前だって知ってるだろ。なんで、あんな奴と?」

つむぎはハンドルの上で固く握りしめた自分の両手を、じっと見つめていた。

「このためなの?」

ぽつりと、か細い泣くような声で彼女が言った。

「え?」

「馬場メディカルは、うちの数少ない取引先の1つだったの。数年前から、お父さんが昔のよしみで、細々と部品を納入させてもらってて…」

彼女はゆっくりと顔を上げた。その目には、諦めと深い疲労の色が浮かんでいた。

「うちの経営が本当に苦しくなって、もう今月の支払いもできないかもしれないってなった時、賢介さん、馬場さんが言ってきたの。『須磨製作所の技術には将来性を感じてる。うちと専属契約を結んで、俺と結婚してくれるなら、工場を丸ごと救ってやる』って」

「なんだと?」

それは、援助ではなく、脅迫に近い取引だった。

「私、最初は馬鹿にしないでって思った。そんな風にして生き延びても、お父さんの技術が誇りを失うだけだって。でもね…」

つむぎの目から、堪えていた涙が一筋、伝った。

「でも、お父さんが、お父さんがすごく喜んだの。あんなに嬉しそうなお父さんの顔、私、何年も見てなかったから」

彼女は唇を噛みしめた。

「だから、私、決めたの。これでいいんだって。私が我慢すれば、お父さんの工場が守れるなら。お父さんがあんな風に笑ってくれるなら、私はそれでいいんだって、自分に言い聞かせて」

「つむぎ…」

俺は彼女の言葉を遮った。

「それは、お前の本当の幸せなのか?」

「え?」

つむぎが息を飲んだ。俺は彼女の目をもう1度、強く見つめた。

「さっき、工場の応接室で、お父さんと2人で話したんだ。お父さん、こう言ってた。『あの子が、つむぎが幸せになってくれれば、私はそれで満足だ』って」

「お父さんが…」

「ああ。お父さんは、お前の幸せだけを願ってた。工場の未来じゃない。お前自身の幸せだ。もちろん、今日の俺の提案で工場が助かる可能性が見えたのは事実だ。でも、つむぎ。もしお前が、工場のために自分を犠牲にしようとしてるんだったら、それはお父さんが本当に望んでることじゃない。今からでも、やめた方がいいんじゃないか」

俺はそこで一度言葉を切った。

「あの…もしお前が本気で馬場のことを好きだって言うなら、俺は別に止めないけど」

その言葉は、少しだけ自分でも意地悪な言い方だと思った。だが、つむぎはその言葉に、力なく首を振った。

「好きじゃない」

はっきりと、彼女は言った。

「こんなこと言ったら、私すごくひどい女だって、秋斗君に軽蔑されちゃうかもしれないけど…」

つむぎは深呼吸を1つした。

「私ね、秋斗君と別れてから、もう…今日、新幹線で再会して、あんなひどい態度を取った時でさえ、本当はずっと…」

「彼女が、私がまだ好きなのは…」

と続けようとした、その時だった。

「俺は、まだお前が好きだ」

俺は彼女の言葉を遮るように、そう告げていた。自分でも何を言っているのか、一瞬分からなかった。だが、言葉はもう止まらなかった。

「え…」

つむぎの目が、信じられないというように大きく見開かれる。

「新幹線で再会した時、馬場に結婚するって言われて、頭が真っ白になった。正直、今もそうだ。俺は、お前を幸せにできないって、お前から逃げた。俺がこんなことを言う資格がないのは、分かってる。でも、さっきお前が工場のために自分を犠牲にしてるって聞いて、許せなかった。お前にも、馬場にも、そして、お前をそんな風に追い詰めたの、俺自身にも」

「秋斗君…」

「俺は医者をやめて、桜総合サービスに入った。それは、お前の家の工場を救うためだ。こんなことになってるなんて、思わなかったんだ。もっと早く、お前がこんな状況になる前に、俺がこの提案を持ってくるべきだった。タイミングが全部遅くなって、本当に申し訳ないと思ってる」

俺は自分の気持ちを一気に吐き出していた。つむぎは何も言わなかった。ただ、さっきよりももっと激しく、大粒の涙をぼろぼろとこぼし、嗚咽を漏らしていた。車内に、彼女の泣き声だけが響く。

「返事は急がない」

俺はなんとか、それだけを付け加えた。

「とにかく、馬場の言いなりになる必要はもうない。俺たちの提案は本物だ。お前の家の技術は、世界が放っておかない。だから、自分の気持ちにちゃんと向き合ってほしい」

「ありがとう…」

どれくらいの時間が経っただろうか。つむぎはしゃくり上げながら、なんとかそれだけを言った。

「ありがとう、秋斗君。私、私、ちゃんと自分の気持ちに向き合ってみる」

「ああ」

俺はそれ以上、何も言えなかった。もう行かないと、間に合わなくなる。俺は今度こそ、助手席のドアハンドルに手をかけた。

「うん」

つむぎは涙を袖で乱暴に拭いながら、頷いた。

「気をつけて帰ってね」

「ああ。じゃあな」

俺はアタッシュケースを抱え、軽自動車を降りた。ドアを閉めると、つむぎは俺の姿が見えなくなるまで、ずっと車の中から俺を見つめていた。俺は1度だけ、小さく手を振ると、彼女に背を向け、足早に新大阪駅の改札へと流れ込んでいった。

東京に戻る新幹線の中、俺はさっきまでの出来事がまるで現実ではなかったかのように、ぼんやりと窓の外を眺めていた。俺は、まだお前が好きだ…か。あんなことを言うつもりはなかった。だが、つむぎの涙を見た瞬間、俺の中の何かがはじけてしまった。これから、どうなるんだろうな。彼女は馬場との結婚をどうするのか。そして、須磨製作所は俺たちの提案を受け入れてくれるのか。全てが不確定だった。

いや、今は感傷に浸ってる場合じゃない。俺は思考を切り替えた。まず、会社への報告だ。俺はスマートフォンを取り出し、会社の上司である営業サポート部の部長に電話をかけた。

「お、霧島君か。お疲れ様。どうだった? 例の物は無事に届けて、感触は?」

「はい、部長。無事にプレゼンは完了しました。社長及び、ご令嬢のつむぎ様も、非常に前向きに検討してくださるとのことです」

「おお、そうか。やったじゃないか」

電話の向こうで、部長の興奮した声が響いた。

「いや、さすがだな、霧島君。君の分析レポートが、社長の心をがっちり掴んでたみたいだからな。営業の奴らも、霧島君の資料がなかったら、あの頑固な社長、絶対に首を縦に振らなかったって、感心しきりだったぞ。本当によくやった」

「ありがとうございます。ですが、まだスタートラインに立っただけです」

「分かってる。だが、大きな一歩だ。とにかく、明日はゆっくり休んで、明後日、詳しく話を聞かせてくれ」

「はい。失礼いたします」

通話を切り、俺は大きく息を吐いた。よし、第一関門は突破だ。だが、本当の戦いはここからだ。

翌日、俺が桜総合サービスに出社すると、社内は異様な熱気に包まれていた。俺が大阪から持ち帰った「前向きに検討」という感触は、すぐに役員会で共有された。

「霧島君」

俺が自分のデスクにつくや否や、稲葉部長が顔を輝かせて飛んできた。

「すごいことになったぞ。今朝の役員会で、君のスマートメタルプロジェクト、正式に全社を上げた最重要プロジェクトとして承認された」

「お、本当ですか?」

「ああ。社長が、偉く感激してな。『これは我が社の社運を賭けるに値する技術だ』と。君の分析レポートと、医療分野への応用という視点、あれが決め手だった」

周りの同僚たちも、興奮した面持ちで俺たちを遠巻きに見ている。

「というわけでな、霧島君」

部長はわざとらしく咳払いを1つした。

「君は今日から、ただの営業補佐じゃない。社歴は浅いが、君の医学的知見と分析能力は、このプロジェクトに不可欠だ」

部長は1枚の辞令を俺に手渡した。

「スマートメタルプロジェクト室、本日付けで設立。君をその室長代理に任命する。事実上の技術部門のトップだ」

「室長代理…」

「ああ。予算も人員も、最大限のバックアップを約束する。もう営業のサポートなんかしてる場合じゃない。君には、須磨製作所と二人三脚で、あの技術を世界の製品にまで高めてもらう。頼んだぞ、霧島君」

「はい」

俺は辞令を強く握りしめた。医者をやめて、この会社に入った日、俺が夢見た未来が、今、確かに動き出そうとしていた。

プロジェクト室は、設立と同時に会社の熱気と期待の全てを注ぎ込まれた。俺が分析した生体親和性に関する詳細なデータをもとに、法務部と連携して国際特許申請の準備が急ピッチで進められる。同時に、須磨製作所側では、医療機器グレードの試作品製造ラインの構築が始まった。

「霧島さん、こっちのデータはどう思う?」

「ああ、そっちはもう少し研磨の精度を上げる必要がある。医療用のガイドワイヤーに応用する場合、ミクロン単位の誤差が命取りになるんだ」

「はい。すぐに須磨社長にフィードバックします」

俺は営業サポート部で培った知識と、かつて医療現場で培った医師としての知見を、今こそ融合させていた。デスクに積み上げられた海外の医療論文の山と、金属工学の専門書を睨めながら、俺はスマートメタルが応用可能なあらゆる医療分野のデータを洗い出していった。

これだ。この技術は本物だ。調べれば調べるほど、あの小さな町工場が持つ技術の特異性が浮かび上がってくる。異種金属の結合面が、なぜあれほどまでに体液による腐食に強いのか。なぜ金属アレルギー反応を極限まで抑え込めるのか。須磨社長自身、長年の勘だとしか言わなかった。その技術の真髄に、俺は医学的な視点から確かな裏付けを与えつつあった。

「もしもし。秋斗君、今、大丈夫?」

夜更けに鳴ったスマートフォンから、つむぎの少し疲れたような、しかし弾んだ声が聞こえた。

「ああ、つむぎか。お疲れ様。こっちは今、追加の耐久性試験のレポートを読んでるところだ」

「そっか。こっちもやっと試作ラインが落ち着いたところ。お父さん、さっきまで機械にかじりついてたけど、今、事務所の椅子でびっくりして寝ちゃった」

電話の向こうで、つむぎがくすっと笑う。その声を聞くだけで、俺の張り詰めた神経がわずかに緩むのを感じた。

「お父さんね、『こんなにワクワクしながら仕事したの、何十年ぶりだろう』って、本当に楽しそうなの。全部、秋斗君のおかげだよ。ありがとう」

「やめてくれ。俺は俺のやりたいことをやってるだけだ。それより、そっちは大丈夫なのか?」

「え?」

「馬場の件だよ。あいつに結婚を一旦保留にして欲しいって言ったって聞いてたけど、それから…ああ、あいつ、最近どうしてる? お前の周り、うろちょろしてないか?」

俺の問いに、電話の向こうでつむぎが息を詰める気配がした。

「それが、来てるの…」

「え?」

「結婚式の準備の打ち合わせだって。馬場メディカルはまだうちの取引先でもあるから、お父さんも私も、無下にはできなくて…」

「つむぎ」

俺は声を低くしていった。

「それは危険だ。俺たちのプロジェクトのことは、まだ社外秘だ。特許申請が完了するまでは、絶対に情報が漏れるわけにはいかない。あいつは、何を考えてるか分からない男だぞ」

「分かってる、分かってるよ。事務所のパソコンには、秋斗君からもらったデータが全部入ってるから、ちゃんとロックして。私も、馬場さんの前では絶対に仕事の話はしないようにしてる。大丈夫、心配しないで」

「ああ、分かった。だが、何かあったら、夜中でも構わない。すぐに連絡してくれ」

「うん。ありがとう。じゃあ、私ももう少しだけ頑張るね。おやすみ、秋斗君」

「おやすみ、つむぎ」

通話を切り、俺は胸騒ぎが消えないまま、再び分厚い資料に目を落とした。大丈夫か? あの男が、自分から逃げていくつむぎを、そうやすやすと手放すとは思えなかった。

そして、その胸騒ぎは、最悪の形で現実のものとなった。

特許申請の準備が全て整い、法務部の担当者と共に最終確認を終えた日の翌朝。俺がプロジェクト室に出社すると、そこには見たこともないような冷たい空気が張り詰めていた。昨日まで俺を「霧島室長代理」と呼んでいた部下たちが、誰も俺と目を合わせようとしない。

「おはよう」

俺の挨拶に、誰も返事をしなかった。その時、内線電話が鳴り響いた。

「霧島です」

「部長だ。今すぐ第一会議室に来てくれ。役員、全員揃ってる」

部長の絞り出すような声だった。重い足取りで第一会議室のドアを開ける。そこには、桜総合サービスの全役員が、苦い表情で座っていた。俺の心をほど喜んでくれた部長が、青ざめた顔で俺から目をそらす。中央に座る社長が、俺を睨むような冷たい目で見据えた。

「霧島君」

「はい」

「君は、我が社にとんでもない恥をかかせてくれたようだな」

「と、おっしゃいますと?」

「これを見たまえ」

社長が投げつけたのは、1枚の見慣れない法律事務所から届いた内容証明郵便だった。俺はその紙を手に取った。そこに書かれていたのは、俺の目を疑うような文字列だった。

「特許侵害の可能性に関する警告、及び、即時開発中止要求…」

読み上げた差出人は、馬場メディカル。

「馬場メディカルから、機能付けで連絡があった」

社長の冷たい声が会議室に響く。

「我々が申請準備を進めていたスマートメタルの基幹技術、特に生体親和性に関する応用技術について、彼らが我々よりも先んじて特許出願済みだとな」

「そんなバカな。あのデータは、俺が、俺だけが分析したもので…」

「では、これは何だね?」

別の役員がタブレット端末を俺の前に突き出した。そこに表示されていたのは、特許庁の公開データベース。特許出願番号、2025年10月17日、出願人、株式会社馬場メディカル。発明の名称、「異種金属接合における生体親和性の向上及びその医療器具への応用」。日付は、今から3日前。俺たちが最終申請の準備を終えた、まさにその日だった。

ああ、全身の血が急速に引いていくのが分かった。頭が真っ白になる。

「どういうことだね、霧島君」

社長が唸るような声で言った。

「君が独自に分析したはずの技術データが、なぜ競合他者に流れている? しかも、なぜ我々より先に出願されているんだ? それは、君の分析がそもそも馬場メディカルのデータを盗用したものだったということはないだろうな」

「違います」

俺は声を張り上げていた。

「絶対に違います。あれは、俺と須磨製作所が生み出した独自の技術です」

「だが、結果はこれだ」

社長がテーブルを強く叩いた。

「スマートメタルプロジェクトは、本日付けで全面凍結する。全予算を引き上げ、室も解散だ。霧島君、君には別途、厳重な処分を検討する。それまで、自宅にて謹慎していなさい」

「社長、お待ちください。これは何かの間違いです。罠だ…」

「見苦しいぞ、霧島君」

別の役員が吐き捨てるように言った。

「君を信じて、社を賭けようとした我々の期待を、君は裏切ったんだ。医者崩れの、どこの馬の骨とも知れん男を室長代理にまで引き立てた、我々の判断ミスだ」

ああ、俺は唇を噛みしめることしかできなかった。

「出ていきなさい」

社長のその一言が、俺の解雇宣告のように響いた。

俺はふらつく足で自分のデスクに戻った。いや、もう俺のデスクではなかった。私物をダンボール箱に詰めながら、部下たちの冷たい視線が背中に突き刺さる。どうして? なぜだ? 3日前、馬場メディカルが…まさか。

俺はダンボール箱を抱えたまま会社のロビーに飛び出し、震える手でスマートフォンを取り出した。コール音が、永遠のように長く感じられる。

「もしもし、秋斗君…」

電話の向こうから聞こえてきたのは、つむぎの泣きじゃくった声だった。

「つむぎ、どうした? 何があった?」

「ごめんなさい。ごめんなさい。秋斗君…」

「何があったんだ? 説明してくれ」

「私のせいなの。私が、秋斗君のレポートを…」

「レポート?」

「3日前にね、馬場さんが工場に来たの。結婚式の最終確認だって。お父さんが別のお客さんと大事な話をしてたから、私が事務所で対応して…」

つむぎの途切れ途切れの説明が、俺の頭の中で恐ろしいパズルのピースをはめていく。

「そしたら、馬場さんがお茶が飲みたいって言い出して、私、ほんの少しだけ席を外して…パソコン、ロックするの忘れちゃって」

「まさか…」

「戻ってきたら、馬場さんの鞄にUSBメモリーが差し込まれてたのが見えて。私が『何してるの』って叫んだら、馬場さん、笑って『ありがとう、つむぎちゃん。これで君も、君のお父さんの工場も、俺が救ってあげられるよ』って…まるで意味が分からなかったけど、今朝、うちにも弁護士から内容証明が届いたの。特許がどうとか…お父さん、それ見て、倒れちゃって」

「社長は? 社長は無事なのか?」

「ううん。今は落ち着いてるけど、もう工場の電気も消して、事務所でずっと座り込んでる。『全部終わりだ』って。どうしよう、秋斗君。私のせいで、全部…」

「お前のせいじゃない」

俺は叫んだ。

「あいつが、最初から全部仕組んでたんだ。つむぎ、社長と2人で、すぐに来て欲しい場所がある。あいつは、馬場は必ず次の手を打ってくる」

「次の手?」

「ああ。あいつは俺たちを法的に追い詰めた上で、完全に息の根を止めるつもりだ。でも、その交渉の場が、俺たちに残された最後のチャンスになるかもしれない」

馬場から指定されたのは、大阪市内のホテルの一室だった。俺が東京の会社で謹慎を言い渡されたのとほぼ同時に、須磨製作所にも、若い交渉の通知が届いていた。馬場は東京の俺と、大阪のつむぎたちをあえて呼びつけ、俺たちが情報を共有し、対策を練る時間さえ与えないつもりだった。

重い扉を開けると、そこには広い会議室の長テーブルの向こう側に、ふんぞり返った馬場と、その両脇を固める、いかにも高級といった風貌の弁護士が座っていた。

「よう、霧島」

馬場は俺の姿を見ると、心底愉快そうにニヤニヤと笑った。

「わざわざ東京からご苦労さん。ああ、そうか。会社謹慎処分になったんだっけ? 事実上の首だろ、それ。だから言っただろ。高卒の荷物持ちがお似合いだって」

「馬場…」

俺の背後で、つむぎが悔しさに唇を噛みしめている。須磨社長は、正気を失ったような目で床の一点を見つめていた。

「まあ、立ち話もなんだ。座れよ、元室長代理様」

俺たちはまるで被告人のように、テーブルの反対側に並んで座った。

「さて」

馬場がわざとらしく咳払いをした。

「君たちも状況は理解してると思うけど、一応、うちの優秀な弁護士先生から説明してもらおうか」

弁護士の1人が冷たい目で俺たちを見渡し、機械的な口調で話し始めた。

「東雲、株式会社馬場メディカルは、先日、貴殿が開発中であった技術の基幹部分について、適法に特許を出願いたしました。ららのその後の製造、販売は、東雲の知的財産権を著しく侵害するものであり、我々は貴殿らに対し、数億、いや数十億円規模の損害賠償請求訴訟を起こす権利を有しております」

「そんな…あの技術は、我々が何十年もかけて…」

須磨社長が細い声で抗議する。

「おっと、社長さん」

馬場がそれを遮った。

「技術はそうかもしれないね。でも、応用可能性は違いますよね。生体親和性だっけ? そんなこと、あんたたち、気づいてもいなかっただろう。それを発見し、特許として申請したのは、この俺、馬場メディカルなんですよ」

「盗んだくせに」

つむぎが叫んだ。

「ああ、盗んだ」

馬場は大げさに耳を当てた。

「ひどいな、つむぎちゃん。婚約者に向かって泥棒呼ばわりか。俺はね、君の工場の机の上に無造作に置かれていた資料を、たまたま拝見しただけだ。それをビジネスチャンスとして消化させた。むしろ、感謝して欲しいくらいだぜ。あんな宝の持ち腐れにしてたんだから」

「貴様…」

俺はテーブルを叩いて立ち上がりそうになるのを、必死でこらえた。ここで俺が暴れれば、それこそ相手の思う壺だ。

「まあ、落ち着けよ、霧島。俺はね、鬼じゃない」

馬場は心底満足そうに、椅子に深くもたれかかった。

「君たちに最後のチャンスをあげようと思って、わざわざこんな席を設けてやったんだ。感謝しろよ」

「最後のチャンスだと?」

「そう」

馬場は指を1本立てた。

「俺からの要求だ。よく聞けよ」

彼は勝ち誇った笑みを、俺たち3人に順番に向けた。

「まず1つ。須磨製作所は、スマートメタルに関する一切の技術資料及び特許権を含む全権利を、馬場メディカルに無償で譲渡する」

「な…」

須磨社長が息を飲んだ。

「2つ。桜総合サービス及び霧島秋斗君は、今回の特許侵害未遂について、業界に公式な謝罪広告を出す。もちろん、君たちの出方は即座に取り下げだ」

馬場は楽しそうに言葉を続けた。

「そして3つ目」

彼はつむぎの顔をねっとりと見つめた。

「つむぎちゃん。君と俺との結婚。これは予定通り、来月、取り行う」

「ふざけないで」

つむぎが叫んだ。

「絶対に嫌。あなたみたいな人と結婚なんて…」

「おっと、かい」

馬場は肩をすくめた。

「じゃあ、この話は無しだ? 弁護士先生、すぐに訴訟の準備を。須磨製作所はもちろん倒産。桜総合サービスも、株価暴落で大騒ぎだろうな。ああ、霧島。君は自分の会社からも、上場単位の賠償請求をされるかもな。大変だ。高卒なのに。どうやって返すんだよ」

「ひどい…」

つむぎが青ざめて口を閉ざす。須磨社長はがっくりと肩を落とし、もはや言葉も出ないようだった。絶望。その2文字が、この部屋の空気を支配していた。

「どうする? 馬場が俺たちを見下す」

「俺の要求を飲めば、悪い話じゃないぜ。訴訟は全部取り下げてやる。須磨製作所は、うちの馬場メディカルの専属下請け工場として、食わせてやる。仕事はくれてやるよ。良かったな、社長さん」

それは救いなどではなかった。技術者の誇りを、未来を。そして、つむぎの人生そのものを、根こそぎ奪い取るという、悪魔の宣告だった。

「つむぎ…」

須磨社長が震える声で、娘の名を呼んだ。

「お父さん、もういい。もう疲れた。わしが意地を張ったばかりに、お前を…」

「ダメ、お父さん、そんなこと言わないで」

「霧島さん」

社長が俺の顔を見た。その目には、もう何の光も宿っていなかった。

「申し訳ない。あなたを巻き込んでしまった。もう結構です。この男の言う通りに…」

「お父さん!」

「おいおい、感動の親子劇場かよ」

馬場が嗤った。

「で、どうすんだ、霧島? お前が決めろよ。ここで土下座して、俺の靴でも舐めるか? そしたら、桜総合サービスへの謝罪要求は、少し軽くしてやってもいいぜ」

俺は硬く、硬く拳を握りしめた。ダンボール箱の重みが腕に食い込む。負けるのか? ここで、全て終わるのか? つむぎの涙も、社長の希望も、俺が医者を辞めてまで掴もうとした未来も、こんなクズ野郎1人の薄汚い欲望のために…

「返事を聞かせてもらおうか」

馬場の苛立つ声が、ホテルの会議室に響き渡った。つむぎが泣き崩れそうになるのを必死でこらえ、その肩は小さく震えている。須磨社長は、正気を失った目でテーブルの一点を見つめたまま、動かない。俺は何も言い返せない。ここで俺が何を言っても、法という名の盾をかざした馬場には届かない。俺の無力さが、過去のトラウマのように全身に重くのしかかる。

「おい、どうした、霧島? ついに頭が回らなくなったか。まあ、高卒の頭じゃ、この高等な交渉は難しすぎたか」

馬場が勝利を確信した、下品な笑い声を上げ、椅子から立ち上がろうとした。その時だった。

コンコン。

静かだが、確かな意志の込められたノックの音が、重い会議室のドアを鳴らした。

「ああ?」

馬場が不機嫌な顔でドアを睨む。

「誰だ? 今、大事な話の途中だぞ」

馬場の弁護士が静止しようとするより早く、ドアは静かに開かれた。そこに立っていたのは、上品だが、しかし決して華美ではないスーツを着こなした、初老の男性だった。彼の背後には、まるで隙のない鋭い目をした男女が数名、随行していた。その中には、法曹界のバッジをつけた、明らかにただ者ではない風格の弁護士も含まれている。

「な、なんだ、あんたたちは?」

馬場が見知らぬ集団の乱入に、苛立ちの声を上げた。

「関係ない人間は出ていけ。ここは、馬場メディカルがこいつら犯罪者と和解してやるための、大事な席なんだ」

初老の男性は、馬場の怒号を意にも返さなかった。彼は馬場には一瞥もくれず、まっすぐに俺のところまで歩いてきた。そして、俺の目の前で、深く、深く頭を下げた。

「霧島先生」

その場にいた全員が、息を飲んだ。

「その節は、私の命を救っていただき、誠にありがとうございました」

「あ、あなたは?」

俺は驚きに目を見開いた。新幹線の中で、俺の目の前で倒れた、あの男性だ。なぜ、ここに? 俺はもう医者では…

「先生…」

馬場が呆けたように、その言葉を繰り返した。

「はあ? 霧島が、先生?」

「何言ってんだ、このじじい」

「馬場賢介さんでしたかな?」

初老の男性はゆっくりと顔を上げると、その鋭い視線を初めて馬場に向けた。

「私の名は、山代健蔵ぞ。この日本の医療機器業界で、ほんの少しばかり、皆様より長く仕事をさせていただいているものです」

「山代…健蔵?」

馬場はその名前を反芻し、次の瞬間、顔面からさっと血の気が引いた。

「や、山代…まさか、あの山代医療の、山代健蔵会長…」

馬場の声は裏返っていた。山代医療。日本の医療機器業界において、その名を知らぬものはいない。一代で世界的な大企業を築き上げ、数年前に会長職を退いた後も、業界の生きる伝説として絶大な影響力を持つ人物。馬場の父親が束になっても敵わない、まさに頂点に立つ人間だった。

「な、なぜ、なぜあなたがこんなところに…」

馬場は先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、怯えきっている。

「なぜですと?」

山代会長は静かに、だが重い声で言った。

「霧島先生に救われたこの命。私はこの方のことが気になり、知人を通じて、少しだけ調べさせていただきました」

彼の視線が俺の顔に戻る。

「霧島先生が、かつて優秀な医師を志していたこと。ご家庭の事情で一度は道を断念されたこと。しかし、再度医学を志し、医師免許を取得されたこと。そして、ある大きな目的のために、その医師の職を辞し、桜総合サービスに入社されたこと」

俺は息を飲んだ。この人は、そこまで…。

「そして、山代会長は再び馬場を、今度は氷のように冷たい目で見据えた」

「この須磨製作所様の素晴らしい技術を見い出し、それを世に出そうと奔走されている矢先に、このような小賢しい男による卑劣な妨害が行われているという知らせも、私の耳に入りました」

「ひ、卑劣…」

「馬場さん」

山代会長が、隣に控えていた顧問弁護士団のリーダーに目配せをした。リーダー格の弁護士が、1歩前に進み出る。

「馬場メディカル代理人弁護士の方々、お揃いですな」

馬場側の弁護士団が、明らかに緊張した面持ちで、ごくりと喉を鳴らす。山代会長の顧問弁護士団は、この業界の法廷において最強の布陣として知られていた。

「あなた方が先んじて出願したという、その特許申請書。我々も特許庁を通じて、その内容を徹底的に精査させていただきました」

山代会長の弁護士は、分厚いファイルをテーブルの中央に、ドンと音を立てて置いた。

「結論から申し上げましょう。あなた方の申請書は、法的に無効です」

「む、無効だと?」

馬場の弁護士が声を荒げた。

「バカな。我々が先に出している。先願主義の原則に乗っ取り、我々に優先権が…」

「優先権の問題ではありません」

山代しの弁護士は冷たく言い放った。

「申請書の中身の問題です。あなた方の書類には、このスマートメタルがなぜ生体親和性を持つのか、その技術的な裏付け根拠が、何1つ記されていない。これでは、ただの現象を報告しているに過ぎない。霧島先生が作成したであろう分析レポートから、結果だけを盗用し、張り付けただけ。その技術が、なぜ、どのようにして特性を発揮するのか。発明のプロセスを、あなた方は何1つ理解していない」

弁護士は馬場を、そしてその弁護団をまっすぐに見据えた。

「基礎のない家は、家とは呼べません。こんな不完全な申請書は、こちらから正式に異議申し立てを行えば、特許庁は即刻これを却下するでしょう。これは特許の盗用以前の問題。あなた方は、技術者としても、法律家としても、あまりにお粗末だ」

馬場の弁護士たちの顔が、青から白へと変わっていく。明らかに、読みが外れていたのだ。

「そ、そんな…」

馬場がしどろもどろに叫ぶ。

「さて」

その時、山代会長が静かに手を上げた。

「法律的な話は、私の優秀な弁護士にお任せするとして。馬場さん、私からもあなたに、1つお聞きしたいことがありましたな」

山代会長はゆっくりと、馬場に近づいた。その凄みに、馬場は1歩後ずさる。

「あの新幹線の中でのことです」

「し、新幹線?」

「あなたは、私が倒れた時、こう言った。『俺は医療機器の大手会社、馬場メディカルの役員、次期社長だ。医療には精通している』と」

馬場の目が、恐怖に見開かれた。

「まさか、このじじい、あの時の…」

山代会長の声が、静かな怒りに震え始めた。

「あなたが乗務員に出した指示は、何でしたかな? 『その人を横向きに寝かせてあげてください』」

つむぎがはっと息を飲む。俺も、あの時の光景を鮮明に思い出していた。

「もし、あの時、あの場にこの霧島先生がいらっしゃらなかったら…」

山代会長はテーブルの端を指で強く叩いた。

「私は、あなたのその誤った知識のせいで、舌が喉に落ち込み、気道を塞いで、今頃ここにはいなかったかもしれない」

「ひっ…」

「人命がかかった、あの切迫した状況で、自らの保身のために『医師免許はない』と逃げ、挙げ句の果てには、生半可な知識で人を危険にさらす」

山代会長の声が、雷鳴のように会議室に響き渡った。

「人の命を、何だと思っている。技術者の長年の努力と汗の結晶である誇りを、平然と盗み、踏みにじる。そのような人間が、そのような企業が、人々の尊い命を預かる医療という仕事を語る資格があるとでも思っているのか」

馬場は腰が抜けたように、その場にへたり込んだ。ああ、もはや何の言葉も出てこない。先ほどまで俺たちを追い詰めていた男の、哀れな残骸だけがそこにあった。

山代会長の魂からの糾弾。それは、馬場賢介という1人の人間の嘘と傲慢を暴くだけでなく、彼を雇っていた弁護士の職業倫理をも、根本から揺るがすものだった。馬場のリーダー格だった弁護士が、静かに立ち上がり、山代会長の弁護士団に向かって、深々と頭を下げた。

「我々の完敗です」

そして、弁護士としてはあるまじき事態を招いたこと、深くお詫び申し上げる。彼は馬場の方を振り返りもせず、冷たく告げた。

「馬場さん、これ以上は、我々法人はあなたの弁護を引き受けることはできません。契約は、ただいまをもって解除させていただきます」

「な、おい、待てよ。お前ら、金はいくらでも…」

弁護士団は馬場の喚きを無視し、無言で荷物をまとめ、足早に会議室を去っていった。

「待ってくれ。行かないでくれ…」

完全に1人。最強の盾であり、保身であったはずの法律家たちに、その場で見捨てられた馬場は、絶望的な顔でその場に立ち尽くした。その、まさにその時だった。彼のジャケットのポケットで、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面を見た馬場の顔が、さらに絶望に歪む。

「お父…」

馬場メディカルの現社長、父親からだった。

「どうぞ」

山代会長が冷徹に促す。

「お出になりなさい。正しく、みんなに聞こえるように」

馬場は震える指で通話ボタンを押し、スピーカーモードにした。

「お父さん…」

「賢介! 貴様、一体、何をしてくれたんだ?」

スピーカーから、鼓膜が破れそうなほどの怒号が響き渡った。

「たった今、山代医療の山代健蔵会長ご本人及び、法務部から正式に連絡があった。それだけじゃない。業界の全ての主要取引先からだ。『馬場メディカルとは、倫理観の違いにより、今後一切の取引を停止する』とな」

「そ、そんな、お父さん、これは誤解で…」

「誤解だと? 山城会長という、この業界の重鎮に対し、お前が何をしたか。その御仁である霧島先生という方の、血の滲むような努力の結晶を、お前がどうやって盗もうとしたか、全部聞いたわ」

「ああ…」

「お前のせいで、我が社は今日、業界からの信用を全て失った。お前は、馬場家の恥だ。これ以上、会社の看板を汚すな。ただいまをもって、お前を全ての役職から解任する。未来永劫、会社の敷居をまたぐことは許さん。首だ」

ブツッ。一方的に、通話は切られた。

「首…」

馬場は手から滑り落ちたスマートフォンを、呆然と見つめていた。

「俺が…首…嘘だ…」

彼は助けを求めるように、俺たちを、そして山代会長を見た。だが、その目には反省の色など微塵もない。ただ、全てのおもちゃを取り上げられた子供のような、自己憐憫と混乱だけが浮かんでいた。

山代会長は、そんな彼に最後通告を突きつけた。

「出ていきなさい」

「え?」

「この場は、これから本物の仕事の話をする。あなたの居場所は、もうここにはない」

「あ、うあ…」

馬場はまるで操り人形のように、フラフラとした足取りで会議室のドアに向かった。数分前まで、この世の王様のように振る舞っていた男は、誰からも見送られることなく、静かに惨めに退場した。

馬場が去った後、あれほど重く、毒に満ちていた会議室の空気が、まるで浄化されたかのように澄み渡っていくのを感じた。山代会長は俺たち3人に向き直ると、先ほどまでの厳しい表情を解き、穏やかな、優しい笑みを浮かべた。

「さて」

彼は須磨社長とつむぎ、そして俺の顔を、ゆっくりと見渡した。

「霧島先生、須磨社長、そしてつむぎさん。改めて言わせていただきます。このスマートメタルの技術は、素晴らしい。これは、世界中の救われるべき多くの命を救う、まさに宝ですよ」

「や、山代会長…」

須磨社長が震える声で、テーブルに手をついた。

「もったいないお言葉で…」

「桜総合サービスには、私から厳重に、そして丁重に話を通しておきましょう」

山代会長は俺に向かって、力強く頷いた。

「あなたの不当な謹慎処分は、即刻解かれるはずです。そして、スマートメタルプロジェクト室は、全社を上げた最優先プロジェクトとして、再び始動することになるでしょう」

「あ、ありがとうございます」

俺は深く、深く頭を下げた。

「そして、山代会長はどこか楽しそうに言葉を続けた」

「もしよろしければ、その素晴らしいプロジェクト…」

彼は俺たち3人に、手を差し伸べるように言った。

「このスマートメタルを、日本国内だけでなく、一気に世界へと羽ばたかせる。そのお手伝いを、この山代健蔵にさせていただくわけにはいきませんか?」

「え…」

「私のこの命の恩人である霧島先生への、そして、これほどの技術を守り抜いて来られた須磨製作所様への、私からのせめてもの恩返しとして」

その言葉は、馬場が提示した要求案とは比べ物にならない、金銭や取引というレベルを超えた、技術者としての、そして命を救われた人間としての、最大限の誠意だった。

俺は隣に座るつむぎを見た。彼女はぼろぼろと大粒の涙を流していた。だが、それは絶望の涙ではなかった。安堵と喜びと、そして未来への希望に満ちた、温かい涙だった。須磨社長は顔を覆い、しゃくり上げていた。長年の苦労が、今、報われたのだ。

俺はまっすぐに立ち上がった。そして、目の前の偉大な男、山代健蔵に向かい、もう一度、深く頭を下げた。

「山代会長」

俺は顔を上げた。

「ありがとうございます。いえ、とんでもない。こちらから、お願いいたします。どうか、我々にお力を貸してください」

俺は涙で濡れた顔のまま、強く微笑んだ。

「一緒に、この技術で、世界中の1人でも多くの命を救いに、行きましょう」

その言葉に、つむぎも、須磨社長も、力強く何度も頷いていた。悪夢のような時間は終わりを告げた。俺たちの本当の戦いと、本当の夢が、今まさに始まろうとしていた。

あの日、山代会長という最強のスポンサーを得た俺たちのプロジェクトは、そこからまるで堰を切ったような勢いで進み始めた。山代会長の言葉通り、桜総合サービスは俺の謹慎を即刻解除したどころか、社長自らが俺に深々と頭を下げ、今回の件の陳謝をした。スマートメタルプロジェクト室は、以前の数倍の規模と予算を与えられ、俺は室長代理ではなく、正式な室長、そしてこのプロジェクトにおける全権を委任されることとなった。

一方、馬場賢介が追放された馬場メディカルは、悲惨な末路を辿った。山代会長と業界全体からの取引停止通告は、致命傷だった。彼らは会社の存続と引き換えに、馬場の父親が保有していた株式の大半を、山代会長が運営する技術者支援ファンドに譲渡するしかなかった。会社は事実上解体され、残った技術も、より誠実な他社へと引き継がれていった。

全てが落ち着き、スマートメタルの国際特許申請が無事に受理された、ある日の夕方。俺が桜サービスのビルから出ると、ロビーの隅に見慣れない、しかし見覚えのある男が立っていた。高価な光沢のあるスーツは見る影もなく、安物のジャケットを羽織った、やつれきった顔。

「馬場か…よう」

馬場は力なく手を上げた。以前の傲慢な態度は、そこにはなかった。俺は警戒しながらも、彼の前に立った。

「何の用だ?」

俺がそう言うと、馬場は俺に向かって、深く、深く頭を下げた。

「悪かった」

絞り出すような、か細い声だった。

「俺が、全て間違ってた。本当に、すまないことをした」

俺は何も言わずに、彼を見ていた。

「親父にも勘当された。業界にもいられない。全て、失ったよ」

彼は自嘲するように笑った。

「全部失って、初めて分かった。俺は、ずっとお前に嫉妬してたんだ。学生の頃から、お前は俺が金でしか手に入れられないものを、全部持ってた。才能も、人望も、つむぎも…お前の分析レポートを盗んだ時、正直、嫉妬で狂いそうだったんだ。こんなすごいものを、高卒のくせに、俺が馬鹿にしてた霧島が見つけ出しやがった、って。だから、潰してやりたかった。お前から、全部奪ってやりたかった」

「もういい」

俺は静かに言った。

「今更、許すも許さないもない。あんたは、あんたのやったことの責任を取った。それだけだ」

「ああ、そうだな」

馬場はふっと息を吐いた。

「俺は、地方の親父とは関係ない小さな会社で、1からやり直すことにした。もう、医療業界には戻れねえ」

彼は俺の目をまっすぐに見た。

「霧島…秋斗。俺は、お前に謝っても謝りきれないことをした。でもな…」

彼はもう一度、深く頭を下げた。

「あの技術を、世に出してくれて、ありがとう。あんなことをした俺が言う資格はないが、あれは本物だ。お前が見つけた、本物の宝だ。俺なんかに潰させないでくれて、よかった」

それだけを言うと、馬場は顔を上げ、俺に背を向けた。

「じゃあな」

夕暮れの雑踏に消えていく、小さな背中。俺はその背中が見えなくなるまで、動かずに立ち尽くしていた。

そして1年後、俺はドイツで開かれた世界最大の医療技術展示会の、最も大きなメインステージに立っていた。

「このスマートメタルが、従来の医療用金属素材と一線を画すのは、その超精密金属接合技術にあります。これにより、我々は従来では考えられなかったレベルでの生体親和性と耐久性を両立させることに成功しました」

俺はかつて医師だった頃の知識と、営業マンとして培ったプレゼン能力を総動員し、世界中から集まった医師や技術者たちに、その可能性を語っていた。プレゼンが終わり、俺が一礼すると、会場は割れんばかりの拍手と、スタンディングオベーションに包まれた。客席の最前列で、須磨社長が涙を拭うのも忘れて、誇らしそうに手を叩いている。その隣には、今日の日のために誂えた美しいスーツ姿のつむぎが、俺に満面の笑みを向けてくれていた。そして、少し離れた席で、山代会長が我が子のように満足そうに頷いている。俺たちの技術は、この日、正式に世界に認められたのだ。

「お疲れ様、秋斗君」

ステージを降りた俺に、つむぎがタオルとドリンクを持って駆け寄ってきた。

「すごいプレゼンだった。ドイツ語の質疑応答まで完璧。いつの間に、あんなに勉強したの?」

「まあな。出たとこ勝負だ」

俺は照れ隠しにそう言って、ドリンクを受け取った。

「それより、お父さんは?」

「もう、大変。さっきから、ヨーロッパ中のメーカーの技術者に囲まれて、質問攻め。『あの接合面の研磨はどうなってるんだ』とか、『あの金属の配合比率は』とか…あんなに生き生きしてるお父さん、私、生まれて初めて見たかも」

つむぎは本当に嬉しそうに笑った。彼女の左手の薬指には、婚約指輪とは違う、シンプルなプラチナのリングが光っている。それは、スマートメタルの試作第1号。世界で初めて医療応用を前提として作られた、特別な金属でできた指輪だった。

あの一件の後、つむぎは馬場から送られてきた婚約破棄の書類に、一言「承知いたしました」とだけ書き添え、送り返した。そして、全てが落ち着いた日、俺から彼女に告白した。

「俺と、結婚してほしい。今度は、医者としてでも、営業マンとしてでもなく、霧島秋斗として、お前と、お前の家族と一緒に、未来を作っていきたい」

つむぎは泣きながら、何度も頷いてくれた。

「それにしても」

つむぎが展示会の喧騒から少し離れたテラスで、俺の腕にそっと寄りかかってきた。

「不思議だね。秋斗君があの日、新幹線で山代会長を助けてなかったら…ううん。秋斗君がお医者さんをやめて、桜サービスに入ってなかったら、今の私たちは、絶対にいなかったんだもんね」

「そうだな」

俺は遠い異国の空を見上げた。学生時代、大学をやめざるを得なくなった時、俺は自分の人生は終わったとさえ思った。医者という夢を諦めた、負け犬だと。だが、違った。あの時、母の看病を通して学んだ命の重さ。医者として現場で感じた、技術の限界。そして、営業マンとして学んだ、素晴らしい技術を見つけ、育て、世界に売るという力。そのどれか1つでも欠けていたら、俺はスマートメタルの価値に気づくことも、山代会長と出会うことも、そして馬場の卑劣な罠を打ち破ることも、できなかっただろう。

俺は、つむぎの肩を優しく抱き寄せた。

「俺は、医者として目の前の1人の患者さんを救う道は選ばなかった。いや、選べなかった」

「秋斗君…」

「でも、今なら分かる。俺は、つむぎの、お父さんの技術と、山代健蔵会長の力と、桜総合サービスの仲間たちを繋ぐことで、これから生まれる新しい医療機器で、世界中の何百万人、何千万人の人を救うことができるかもしれない。回り道だったかもしれない。だが、それは決して無駄な道じゃなかった。俺にしか歩めなかった、俺だけの道だったんだ」

「ねえ、秋斗君」

つむぎが俺の顔を覗き込む。

「ん?」

「日本に帰ったら、久しぶりに2人で、どこか行かない?」

「は? いいな。どこがいい?」

つむぎはいたずらっぽく笑った。

「新幹線に乗って、行きたいところがあるの」

「新幹線?」

「うん。あの時、学生の時に2人で行ったでしょ」

つむぎは俺の胸に顔を埋めた。

「あのテーマパーク。あの時は必死にお金貯めて、ぎゅうぎゅうの自由席だったけど、今度はほら、グリーン車でゆっくりと…新婚旅行の本番、しとかないとね」

俺は吹き出しそうになるのをこらえ、彼女の柔らかな髪に顔を埋めた。

「気が早いだろう」

「だって、秋斗君は私の知ってる誰よりもすごい人なんだから。私、分かってるんだから」

それは、学生時代に聞いた、懐かしいセリフだった。俺は彼女を強く抱きしめた。俺たちの本当の人生と、本当の夢は、まだ始まったばかりだ。

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