兄の葬式で、元上司の高橋が現れた。黒っぽい服を着崩し、ニヤニヤしながら言った。「まさか唯一の身内が死んじまうとはな。お前天外孤独になっちまったってわけか」そして、追い打ちをかけるように、俺に向かってご縁玉を投げつけた。「公電だよ。底辺のお前らにはそれで十分だろ。かわいそうな貧乏人にどうかご縁があるようにってな」俺は拳を握りしめ、今にも殴りかかろうとした。その瞬間、さっと入ってきた人影があった…

兄の葬式で、元上司の高橋が現れた。黒っぽい服を着崩し、ニヤニヤしながら言った。「まさか唯一の身内が死んじまうとはな。お前天外孤独になっちまったってわけか」そして、追い打ちをかけるように、俺に向かってご縁玉を投げつけた。「公電だよ。底辺のお前らにはそれで十分だろ。かわいそうな貧乏人にどうかご縁があるようにってな」俺は拳を握りしめ、今にも殴りかかろうとした。その瞬間、さっと入ってきた人影があった...

葬儀の最中、高橋が現れた。黒っぽい服を着崩し、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。

「まさか唯一の身内が死んじまうとはな。お前天外孤独になっちまったってわけか」

兄の葬式で、元上司の高橋がそんな言葉を吐いた。俺は怒りを必死に抑えた。

「それにしても貧乏人は寿命が短いのかね。お前ら家族みんなだよな。栄養が足りなかったのかな」

追い打ちをかけるように、高橋は俺に向かって何かを投げつけた。俺に当たって落ちたのはご縁玉だった。

「公電だよ。底辺のお前らにはそれで十分だろ。かわいそうな貧乏人にどうかご縁があるようにってな。俺からのせめてもの施しだよ。嬉しいだろ」

うら笑いを浮かべる高橋。これ以上の侮辱があるだろうか。もう我慢できない。拳を強く握りしめた俺が今にも殴りかかろうとした瞬間、さっと入ってきた人影があった。そして高橋は顔を真っ青にさせるのだった。

俺の名前は野島洋介。今でも時々思い返すことがある。子供の頃、両親と兄の家族4人で幸せに暮らしていた。父は大工の棟梁で、腕も立ち、親分肌でたくさんの職人に慕われていた。父が建てた家は立派で、お客さんから感謝されているのをよく目にした。子供の俺にとって父は誇りであり、憧れでもあった。将来は父みたいな大工になりたいと本気で思っていたものだ。

ずっと続くと思っていた幸せの日々。それは唐突に打ち切られた。

酒のみだった父は肝臓を悪くしていた。現場で倒れた父が病院に搬送されて検査を受けた結果、手の施しようがないほど癌が悪化していたという。肝臓は自覚症状がないうちに病気が進行する臓器だとずっと後に知ったが、当時は父が病気で倒れるなんて信じられなかった。なぜなら、それまで父は病気一つしない健康で頑丈な体だったから。

しかし入院した途端、別人のように痩せ衰えていき、1年も持たずに亡くなってしまった。父を失った我が家は、大黒柱を失った家のように傾いていった。まだ学生だった俺たち兄弟のため、母はパートに出るようになった。それでも貧乏なのは変わらなかった。

悪いことは重なるものだ。元々母は丈夫ではなかったのに、無理に働いたことで体を悪くしてしまった。働きに出ることもできず、寝込む日もあった。

中学に入った俺だが、うちには新しい制服を買うお金がなく、知り合いからもらった古い学ランを母が仕立て直した。貧乏というのは悪い意味で目についてしまう。新年度早々、俺はクラスメイトにからかわれた。

「おい、見ろよ。あいつの制服、みすぼらしいぜ。みっともねえ」

「知ってるぜ。あいつは母子家庭だからな。制服すら買ってもらえないんだぜ」

俺は黙っていられるほど我慢強くなかったし、育ちも悪くなかった。

「うるせえんだよ」

俺はひそひそと陰口を叩くクラスメイトの胸ぐらを掴み、殴った。本気の力じゃなかったが、そいつは簡単に吹っ飛んだ。

俺は父に似て、同い年の子供の中でも体が大きく力は強い方だった。大工道具や重い木材を運ぶのを、職人たちに混じって手伝っていたものだ。父には「男は強くあれ」と教えられてきた。馬鹿にされて黙っているようでは、父の言う強い男ではない。その時はそう思っていた。

中学に入学して以来、俺は馬鹿にする奴を力づくで黙らせるようになった。相手が先輩であろうと関係なかった。多勢に無勢で痛めつけられても、絶対に負けを認めなかった。後日、1人ずつ捕まえてやり返してやった。

半年経つ頃には、先輩ですら俺に一目置くようになり、貧乏だからと馬鹿にされることはなくなった。

気になっていた俺だったが、母と兄は苦い顔をしていた。

「喧嘩ばかりして人様に迷惑をかけちゃだめよ」

「一時は力でねじ伏せることができても、相手はやられたことを根に持っているもんだぞ。貧乏だからって馬鹿にされたら悔しいだろ」

「なんで分かってくれないんだ?」

当時の俺は2人の言葉を素直に受け取れなかった。母に逆らうように、俺は毎日喧嘩に明け暮れた。そんな俺を教師たちは苦く思っていたようだ。

「兄は学年トップの秀才なのに、弟はとんでもない問題だ」

聞こえよがしにそんな陰口を叩かれた。確かに兄は地元で一番の進学校に進むほど頭が良かった。性格も温厚だ。俺が喧嘩ばかりして荒んだ生活を送っていても、兄の態度は昔と変わらなかった。毎日のように声をかけてくれた。だから本音では兄に感謝していたが、それを態度と言葉に出すことはできなかった。

たまたま学校帰りに駅前をぶらついていた時、兄が不良に脅かされているのを見つけた。相手に面識があった。兄と同級生で、中学時代から不良として有名だった。貧しい兄をよくからかっていたと聞いた覚えがある。すぐに手を出した俺と違って、兄は喧嘩するようなことはしない。その代わり、成績が優秀だった兄には友人や教師が味方したようだ。しかしここでは兄を守れる人はいない。だったら俺が何とかしてやろうと思った。

俺は無言のまま不良を蹴飛ばした。2度と兄が絡まれないよう、徹底的に痛めつけてやった。

「高校生相手に喧嘩を売るなんて、そんな危ない真似をしないでくれ」

後から思えば優しい兄のこと。俺の身を案じてくれたのだろう。だがその時の俺は、感謝されるより先に忠告されたことにむかついてしまうのだった。

数年後、高校でも優秀な成績を収めた兄は有名私立に推薦で合格し、奨学金を使って進学した。大学卒業後は名の知れた建築会社に就職が決まった。一方で俺は高校に進学もせず、やりたいことも見つからず、毎日ブラブラしていた。最初のうちは遊び仲間もいたが、そのうちにバイトを始めるなどして減っていった。1人で遊んでいてもつまらない。家に早く帰ると、今日も母は寝込んでいた。前よりもだいぶ弱ってきた。本当ならば医者にかかった方がいいに決まっている。だが貧乏なので、医者にかかろうとしないのだ。兄が最初の給料が出たら無理やりにでも病院に連れて行くと言っていたが、母の姿を見ると気が滅入る。

俺は静かに部屋に入ろうとしたが、母に見つかってしまった。

「昼間から遊び歩いて、情けなくて仕方ない」

痩せた体を震わせて、母は本気で怒っていた。その目には涙が浮かんでいる。

「父さんが今のあんたを見たらどう思うか? 今更学校に行けとは言わない。どんな仕事でもいいから働いたらどうなの?」

「う、うるせえよ」

人は痛いところを突かれると、素直に謝ることができないものらしい。居た堪れなくなった俺は家を飛び出した。だから直後に母が倒れたことなんて知る由もなかった。

ゲームセンターを始め、遊び場で憂さを晴らすように遊んだ。途中で絡んできた不良を路地裏でぶちのめした。でも俺の心は少しも晴れなかった。

夜が更けた頃、俺はスマホに何件も着信があったことに気づいた。全部兄からだった。入っていた留守電を聞いて、俺は慌てふためいた。母が倒れて病院に緊急搬送されたという。

急いで病院に駆けつけると、案内された先は病室ではなかった。地下の霊安室だ。ひんやりとする部屋で、顔に白い布をかけられた母と対面した。

「なんで死んじまったんだよ。だから早く医者にかかれって言ったんだ。バカ野郎」

「母さんはな、お前のことが心配でたまらなかったんだよ」

普段は温厚な兄が顔を真っ赤にして怒っているのを初めて見た。その勢いに押されたというか、呆然となった俺は、兄に促されて母の死顔を見た。死後硬直のせいか、寝ているようにしか思えなかった。今にも起きそうな気がした。でも俺がいくら呼びかけても返事をしてくれない。手で触れるとまだ温かい。

「母さん」

母との思い出が次々に蘇った。母は料理が得意で、俺の好物をよく作ってくれたものだ。小学校の運動会では、好物ばかりで埋め尽くされた弁当が本当に楽しみだった。家族4人でピクニックにも行った。父は歩くのが早くて、1人でどんどん先に行ってしまう。

「お母ちゃん、早く早く」

「はいはい。分かりましたよ」

幼い頃の俺は母が心配で、手を繋いでそんな会話をしたものだ。家族4人のささやかな幸せが続いていた日々。それすら最近の俺は忘れてしまっていた。

葬儀は兄が主となって取り行われた。訪れる客も少なく、ひっそりとした葬式だった。だが俺は母の遺影を見ながら心の中で誓っていた。ニートのような生活は今日で終わりだ。生前に親孝行はできなかったが、これから俺は変わってみせる。まともに働いて、天国の父と母を安心させてあげるのだと。

いざ働き始めようとしても、職場は選べなかった。接客するような柄ではない。しかし俺には父譲りの体格と力がある。様々な建設現場に派遣されて働く、いわゆる土木作業員として働くことにした。

建設業界を選んだのは、大工をしていた父の影響があったのかもしれない。それまで不摂生な生活を送っていたせいもあってか、仕事はきつかったが慣れていった。1日汗を流してお金を得る。大人になったら誰もがやっていること。ようやく俺も人並みに慣れた充実感があった。しかしそこで現場監督に目をつけられてしまった。

高橋という名の監督が現場にやってきて、俺を見て驚きに口をポカンと開けた。だがすぐにニヤニヤしながら近づいてきた。

「お前、野島だな」

彼は俺たち作業員を監督する地元工務店の社員だと聞いた。名前はともかく、なぜ俺の出身中学まで知っている? 高橋は見るからに不良上がりといった風貌だ。昔喧嘩した中の1人かもしれないが、記憶になかった。

「誰だっけ?」

「てめえ、覚えてねえのかよ」

正直に答えたら、高橋は目を吊り上げて怒り出した。高橋は兄と同い年。中学時代から兄をからかっていた人物で、高校時代も通学時に兄を見かけては絡んでいた。たまたま駅前で兄を脅しているのを俺が見かけて、徹底的に痛めつけてやった。その時の不良が高橋だった。

それ以来、高橋は後輩にやられたのが噂になり、散々恥をかいたらしい。そんなこと俺が知る由もないが、ともかく面倒なことになった。せっかく働き始めた職場の上司が因縁ある人物だったとは。

「あの時の恨み、今でも忘れちゃいねえぞ」

高橋はそう言って睨みつけた。今喧嘩したって負ける気はしない。だが仕事は続けられなくなるだろう。ここで短気を起こして仕事をやめるようでは、変わったとは言えない。亡くなった母に申し訳が立たない。

「すいませんでした」

俺は頭を下げて謝罪した。だがそれで高橋の機嫌が直ることはなく、嫌がらせを受ける日々が始まった。

「そんなところに突っ立ってたら邪魔だって分かんねえのかよ。使えねえな、新人」

後ろから鉄パイプで叩かれる。建築資材を抱えて運んでいると、足を引っかけて転ばせる。上から物を落とされた時は、危うく怪我するところだった。危険物があちこちにある建築現場だ。嫌がらせにはこたえた。高橋が目の届く場所にいなくても油断できない。他の作業員は率先して嫌がらせに協力することはなかったが、監督には逆らえないから、指示されたらやるしかない。仕事ではなく嫌がらせによって疲れが耐えない毎日だった。

今になってようやく分かってきたことがある。「男は強くあれ」という父の教え。強さとは力が強いこと、喧嘩に強いことだと俺はずっと思い込んでいた。そうではないのだ。例えば兄は喧嘩は強くないが、意思が強い。中学時代は高橋のような不良に絡まれても動じなかった。ひたすら努力を続けて優秀な成績を収めた。その結果、いい大学を出て立派に働いている。今の俺に必要なのは、兄と同じ強さなのだと理解した。雑音に惑わされることなく、短気を起こすことなく、仕事を続けていく意思。俺は高橋の嫌がらせに屈することなく、仕事に精を出すことにした。

高橋は俺がすぐに音を上げてやめると思っていたのだろう。しかし1ヶ月、2ヶ月と過ぎていくうちに、嫌がらせに飽きたのか、あるいはやりすぎて仕事に支障が出て上に怒られたのか、下火になっていった。

初めての給料で、俺は花束を両手いっぱいに買い込んだ。母が亡くなって以来、兄とはギクシャクしたままだった。だが俺が寂しかった母の仏壇を花で飾り立てたのを見て、兄は泣き笑いを浮かべた。ようやく元のように話せるようになった。

そして夕食に誘われた。兄は就職後にマンションに移り住んでいたが、気まずくなって行っていなかった。兄がどんな暮らしをしているか気になった俺は、誘いを受けることにした。

「すげえいい部屋に住んでんじゃん」

「いや、それほどでも」

「1人で住むにはもったいないほどだな。誰か来るのか?」

俺がそう言うと、なぜか兄の目が泳いだ。

「とにかく夕食だ」

働くようになってから飯がうまい。ただ自分じゃ手の込んだ料理はできない。兄はいつの間にか母に教わっていたようで、料理上手だ。一緒に住んでいた頃、母も体調を崩していたのでよく作ってくれた。久しぶりに兄の料理を味わえると思うと、俺はワクワクした。

「お前が仕事を頑張っているのを知って、俺は嬉しいよ。天国の父さん母さんも喜んでいるだろうな」

兄にそう言われた途端、胸がじんと熱くなった。照れ臭くてうまく言葉にできなくて、俺は頭を掻くしかなかった。両親亡き後、たった2人残された家族だったから、兄と気まずくなっていた時は辛かった。こうして兄に褒めてもらえたのが嬉しくてたまらない。

「父さんが現役だった頃、お前はよく手伝っていたもんな。どうせなら建築の仕事を極めてみろよ。宅建の資格を取ってみたらどうだ?」

「おいおい、俺が勉強できないの知っているだろ? 資格なんて無理だよ」

「やる前から諦めちゃだめだ。いいか? 資格を取るにはコツがある。俺が教えてやるよ」

自分1人じゃ受かる気がしないと言ったら、ここに通えばいいという。結局流されるように、俺は宅建の資格を取るため勉強することになった。不思議なもので、教え方1つで勉強の効果は全く違う。大学時代に家庭教師のバイトをしていた兄の教え方は、今まで教わったどんな先生よりも上手だった。用語を覚えるのに苦労はしたが、真面目に取り組んでいると知識として身についた。俺は生まれて初めて勉強が楽しいと思えるようになった。

兄のマンションに通って勉強を教えてもらい、ついでに料理をご馳走になる日々が続いた。ある日のこと、来客があった。兄に連れられて入ってきた客を見て、俺は肝を抜かれた。女優かモデルかと思うぐらいの美人だった。

「紹介するよ。恋人の弓だ。吉田弓です」

「よろしくお願いしますね」

「紹介するのが遅くなってしまってすまなかったな。実は婚約したんだ」

照れる兄と、幸せそうに微笑む弓という彼女。2人が放つオーラが眩しすぎて直視できないくらいだ。ともかく真面目一辺倒だった兄が、こんな美人な彼女と婚約するなんて。

「改めて兄貴はすごいと思ったよ。いや、マジで尊敬する」

「なんだそれ?」

「前から伺っていたけど、面白い弟さんね」

弓は美しいだけではなかった。兄にも増して抜群にうまい料理を振る舞ってくれた。名前も聞いたことのない洋風の料理だった。食事して感動したのは初めてだと思う。ただ2人がキッチンに立って、仲睦まじく食事の支度をしているのを眺めていて思った。2人はお似合いだ。兄は頑張って働いて幸せになろうとしている。俺も負けずに頑張らなければと思った。

試験の日程が近くなって、勉強の頻度を増やした。本番形式の模試を何度も受けさせられた。平日仕事を終えた後に勉強するのは辛かった。でもそんな時に限って弓が来て、美味しい料理を振る舞ってくれる。俺は勉強後の食事を楽しみに通っていると言ってもいいくらいだった。

兄の特訓のおかげもあってか、本番の試験でも平常心で受けられたと思う。それでも本当に受かっているか、やっぱり勉強不足で落ちてしまったのではないか。通知が来るまでは気が気じゃなくて、配達予定日には何度も郵便受けに行って確かめてしまうほどだった。

いざ通知が届くと、今度は怖くて開封できない。俺は両親の仏壇の前で散々迷った挙句、中身を開けた。結果は合格。思わず腰から力が抜けて、その場に寝転んでしまうくらいだった。

早速兄に合格したことを伝えた。兄は我がことのように喜んでくれた。その場で弓にも連絡して、2人で祝ってくれることになった。俺にはもったいないくらい立派な兄と、もうすぐ結婚して義姉になる弓。2人に祝ってもらえるのが嬉しくて、俺は電話を持ちながら涙が止まらなかった。

その際「お前に大事な話がある」と言われた気がしたが、胸がいっぱいで耳に入っていなかった。

その日は週末で、俺は仕事が入っていた。宅建に合格したことで自信がついたらしい。いつもにも増して張り切って働いていた。昼食を取っていた時、電話が入っていると事務所から呼ばれた。一体誰だろうと首をかしげながら出ると、聞いたことのない病院からだった。用件を聞いて俺は耳を疑った。兄が交通事故にあったというのだ。それも重症で、一刻を争う事態にある。

俺は急ぎ早退させてもらおうとした。

「だめだ。下っぱとはいえ、抜けられると迷惑だ」

高橋は仏頂面で俺の願いを断った。何度頼み込んでも首を縦に振らなかった。俺は信じられなかった。現場監督として責任があるのは分かるが、こっちは唯一の肉親が大変な状態にある。仕事してる場合じゃない。

「そんなにサボりたいんなら首だぞ」

家族が危篤状態にあると言っているのに、信じていないのか。高橋はせせら笑った。他の作業員ならここまで融通が利かないことはない。もしかして、こんな時まで嫌がらせなのか? とうとう頭に血が登った俺は、高橋の胸ぐらを掴んで睨みつけた。

「こんな話の分からん奴の元で働いていられねえ。やめてやる」

力任せに放り投げた。高橋は積んであった砂利の山に埋まって情けない悲鳴を上げていたが、俺は構わず走り出した。汚れた作業着を着替える間も惜しみ、タクシーを捕まえて乗った。運転手には嫌な顔をされたが、こっちはそれどころじゃない。

病院に駆けつけた時、兄はICUとかいう特別な治療室に入れられていた。よく分からん機械がいっぱいあって、何本もの管が体に繋がれていて、ベッドのそばで弓が泣き崩れていた。

「あ、兄貴、嘘だろ?」

「弟さんですか? 手を尽くしましたが、残念です」

搬送された時には心拍停止状態だったと医師から説明されたが、頭に入ってこなかった。兄が亡くなったという事実が信じられなくて。しかし目の前の兄は、弓がいくら泣き叫んでも目を開けようとはしなかった。

父は肝臓癌で亡くなった。母も心労が重なって体を弱らせた末に亡くなってしまった。これから幸せになるはずだった兄は、交通事故であっけなくこの世を去った。ついに俺は1人ぼっちになってしまった。

これ以上の絶望があるだろうか。はっきり言って何もしたくはなかった。子供のように泣き喚き疲れて寝て、次の日起きたら嫌なことは忘れてしまう。そんな風にできたらよかった。しかし葬儀は行わなければならない。

悲しみに沈んでいた弓だったが、快く手伝ってくれた。世間知らずの俺にとって、彼女が手伝ってくれなかったら碌な葬儀はできなかったかもしれない。葬儀には予想以上に多くの弔問客が訪れた。兄は会社でも慕われていたらしい。訪れる誰もが兄の死を悼んでいた。

絶えることなく弔問客が続く中、見覚えのある顔を見つけた俺は驚きに目を見開いた。事前に職場には葬儀のためしばらく仕事に行けないと伝えてある。まさか葬儀には来ないとは思っていた。しかし目の前に高橋をはじめとする数人の同僚がいた。同僚は黒いスーツだが、高橋だけは黒っぽい私服だった。正直顔も見たくはなかったが、来たのを追い返すわけにはいかない。

「まさかあいつが死んじまうとはなあ。人間なんてあっけないもんだな。今だから言うけどよ。同じ中学のよしみで来てやったぜ」

弔問に来たとは思えないくらいふざけた態度にカチンと来た。

「やっぱりさ、貧乏人は寿命が短いのかね。栄養が足りなかったのかな?」

こいつは何を言っているんだ? 悲しみで何も考えられなかった。俺は怒りでどうにかなりそうだった。そして追い打ちをかけるように、高橋は俺に向かって何かを投げつけた。俺に当たって落ちたものはご縁玉だった。

「何の真似だ?」

「公電だよ。底辺のお前らにはそれで十分だな。かわいそうな貧乏人にどうかご縁があるようにってな。俺からのせめてもの施しだよ。嬉しいだろ」

うら笑いを浮かべる高橋。これ以上の侮辱があるだろうか。もう我慢できない。拳を強く握りしめた俺が今にも殴りかかろうとした瞬間、さっと入ってきた人影があった。婚約者の弓だった。

「もう結構ですので、お帰りください」

「はあ?」

「大切な方の葬式でこんな振る舞いをするなんて許せません。どうかお引き取りを」

「なんだてめえは。貧乏人が偉そうに」

「弓さんから伺っていますよ。あなた、蛍光店の方だそうですね」

弓は高橋の務めている工務店の名前を出した。兄の務める建築会社と取引があったらしい。さらに「同じ中学だったから」と言って、もっと仕事を回してくれと頼まれたことがあるということも。

「あなたのような失礼な方がいる会社とは、今後一切のお付き合いを遠慮させていただきますので」

弓は冷たく言い放った。高橋は一瞬気に取られていたが、我に帰った途端怒鳴り始めた。

「このクソが。一体何の権限があって」

「権限と言われましたね。副社長を務めておりますが、何か」

弓は名刺を取り出すと、高橋の目の前に掲げた。いつの間にか弓の会社の部下と思われる男性たちがそばに来ていた。その中には高橋も面識のある人物がいたようで、弓が嘘を言っているわけではないと気づいたようだ。ようやく高橋はとんでもない相手に悪態をついていたことを悟り、見る見るうちに顔が青ざめていった。

建築業界は大手建設会社、いわゆるゼネコンを頂点としたピラミッド構造となっている。弓の会社はゼネコンから直接仕事を受け、一次受け。高橋の工務店はピラミッドの末端にある孫受け。つまり弓の会社から主な仕事を回してもらっている立場なのだ。

「亡くなった方は、父の後を継いで将来社長になるべきお方でした」

兄の名を出した時、弓の表情が悲しみに歪んだ。

「そんな孝志さんを冒涜するような社員のいる会社とは、今後一切取引するつもりはありません」

高橋はまるで死刑判決を受けた容疑者のような表情で、がっくりと項垂れた。顔を上げた高橋は情けない表情で弓に謝罪した。

「あ、いや、お許しください。これはちょっとした勘違いでして」

許しを得ようとしたが、すでに時遅しだった。兄といる時の弓は声を荒げることはなく、いつもニコニコ笑顔だった。清楚で控えめな性格だと思っていた。だが普段おとなしい人ほど怒らせると怖いものだ。高橋が許されることは決してないだろう。

その後、高橋は普段の勤務態度にも問題があったとの証言もあり、工務店を首になった。社長自ら弓の会社に謝罪に訪れて、取引停止は覆らなかったようだ。ただし葬儀の件で高橋が取った態度は噂になっている。建築業界で再就職は難しいだろう。

俺は弓に依頼されて、兄のマンションで遺品整理を手伝っていた。兄との思い出が詰まった記念品や写真を目にするたび、涙をこらえる姿が切なかった。こんな時に気の利く言葉をかけられない自分がもどかしかった。整理を終えようとした時、彼女がぽつりと言った。

「孝志さんに、宅建の資格を取れって強く言われたでしょう」

言われて思い出す。中学まで勉強しろとは一言も言わなかったのに、なぜ急に資格を取ってみろと言ったのか。

「まあ、勉強は辛かったけど、根無し草だった俺が試験に合格したのは、兄貴と弓さんのおかげです。おかげで自信がつきました」

本当はお祝いの席で2人にお礼をしたかった。俺は兄の分も含めて頭を下げた。顔を上げると、弓はにっこりと微笑んでいた。

「孝志さんはね、あなたと一緒に働きたいと言っていたわ。お父様のような人に感謝される仕事をしたいという、あなたの夢を叶えてあげたかったから」

「兄貴が」

俺が宅建の資格を取れたら、会社に呼ぶつもりだったという。その思いを知り、涙が溢れて言葉が繋がなかった。

「改めてお願いします。私の会社に来てもらえませんか? 入社というわけじゃないけれど、それが孝志さんの願いだったから」

こんな俺でいいのだろうかという迷いはあった。それでも兄に見込まれていたのなら、尻込みできない。父の教えと母の涙、そして兄の思いが俺を突き動かした。

数日後、俺は今までの職場にやめることを伝えると、スーツを新調した。弓の会社で働くことを決めたから。弓の会社は建設現場とは勝手が違って戸惑うことばかりだ。それでも俺は一生懸命に働いている。亡くなった家族のためにも、精一杯生きていくつもりだから。

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