風呂場のドアを開けた瞬間、義理の姉がいた。「きゃあああ!」悲鳴と同時に、俺の頬に拳が炸裂した。二十四歳の夏、残業続きでクタクタの体で帰宅した俺は、玄関に女性物の靴があるのを見て、また母が来たのかと思った。まさか脱衣所に、四年ぶりに再会する義理の姉がいるとは夢にも思わず、何の警戒もなく勢いよくドアを開けてしまったんだ。「いつまでも見ないでよ」そう言って彼女はアイアンクローを決め、俺は床に転がっ…

風呂場のドアを開けた瞬間、義理の姉がいた。「きゃあああ!」悲鳴と同時に、俺の頬に拳が炸裂した。二十四歳の夏、残業続きでクタクタの体で帰宅した俺は、玄関に女性物の靴があるのを見て、また母が来たのかと思った。まさか脱衣所に、四年ぶりに再会する義理の姉がいるとは夢にも思わず、何の警戒もなく勢いよくドアを開けてしまったんだ。「いつまでも見ないでよ」そう言って彼女はアイアンクローを決め、俺は床に転がっ...

ああ、今日も疲れた。俺は順一、二十四歳。社会人二年目のソフトウェアエンジニアだ。仕事は忙しくて、残業続きの毎日。でも、そんな俺を支えてくれている存在がいる。今の妻、愛花さんだ。

驚かれるかもしれないけど、実は愛花さんは俺の義理の姉だった人なんだ。俺がまだ子供の頃に父が亡くなって、母が一人で必死に俺を育ててくれた。そして中学一年の時、母が再婚したんだ。相手は気さくで優しい人だった。その新しい父には、俺より四歳年上の娘がいた。それが愛花さん。義理の姉として出会い、家族として過ごしてきた彼女と、まさか結婚することになるなんて。当時の俺は想像もしていなかった。

どうしてそうなったのか。その話を順を追って話していこうと思う。

仕事を終え、いつも通り残業をこなしてから、クタクタの体で家に帰り着いた。玄関に明かりが点いている。しかも鍵が開いていて、靴箱には女性物の靴が並んでいた。

ああ、また母さんが来てるのか。

実家に置いてある合鍵を使って、母さんは時々勝手に部屋に入り、料理を大量に作っては帰っていく。ありがたいことなんだけど、正直ちょっと迷惑なんだ。何せ母さんの料理は壊滅的に下手だからな。今夜もまた随分ベチャベチャのチャーハンか。

そんなことを思いながら靴を脱ぎ、部屋に上がる。だけど、そこに母さんの姿はなかった。

買い物にでも出たのか?風呂でも入って待ってるか?そう思って、何の警戒もなく脱衣所のドアを勢いよく開けた。

うわ。

そこには、愛花さんがいた。

突然の再会。お互いに驚いて叫び声を上げた。けれど、俺は思わず視線を愛花さんの体に向けたまま固まってしまった。愛花さんの拳が俺の頬に炸裂する。それでも、目のやり場に困るほど彼女の姿は刺激的で、目をそらすことができなかった。

「ちょっと、いつまでも見ないでよ」

次に繰り出されたのはアイアンクロー。そのまま俺は床に転がり、頬を抑えながら悶絶する。

「う、うわ、目が、目が」
「全く自業自得よ。いやらしい目で見るからでしょ」
「ふざけんなよ。不可抗力だろ」
「言い訳しない」

タオルで体を隠しながら、彼女はもう一発をお見舞いしてきた。

「落ち着けって。話せば分かる。頼む」
「冷静になってくれ」

俺はそう叫んでその場から逃げ出した。せっかくの久しぶりの再会だったのに。これで完全に台無しだ。

数分後、俺たちは部屋着に着替え、向かい合って座っていた。愛花さんはまだ少し不機嫌そうに口を尖らせている。

「なんで愛花さんがここにいるんだ?」

すると彼女はふっと吹き出して言った。

「何よ、愛花さんなんて他人行儀。いつもみたいに“お姉ちゃん”って呼びなさいよ。もしかして照れてるの?」

からかうような口調で笑いかけてくる。

「う、うるせえな」

そう返しながらも、内心ドキドキしていた。愛花さんと顔を合わせるのは本当に久しぶりだったから。

「そもそも、どうやって家に入ったんだ?」
「実家に置いてあった合鍵、借りてきたの」

何の悪びれもなく、さらっと答えてくる。そのまま話を続ける愛花さん。

「元気だった?仕事はどう?彼女とかできた?」
「絶賛社畜中だよ。彼女なんかできるわけないだろ」

「今日はね、ちょっと大事な話があって来たの」

愛花さんの話を聞くと、彼女は会話教室を全国展開する会社でエリアマネージャーとしてバリバリ働いていたらしい。その実績が評価されて、今度から本社勤務になるという。しかもその本社が、俺の住んでいる場所のすぐ近くらしい。

「引っ越し先が見つかるまで、ここに置いて欲しいんだけど。だめ?」

珍しく真剣な声で頼まれ、俺はつい反射的に言ってしまった。

「はあ。勝手にすれば」

「やった。ありがとう。でも、もうお風呂は覗かないでね」
「だから覗いてないっての。バカ」
「焦りすぎ。本当子供ね」

ムカついた俺は思わずクッションを投げつけたが、彼女はひょいっと避けて、にやりと笑っていた。

「じゃあ今日はお休み」

こうして、俺と愛花さんの同居生活が、半ば強制的に始まったのだった。

同居生活を始めて間もない日。俺が夜遅く帰宅すると、部屋の電気は消えていた。静かだな、と思いながら寝室に向かい、寝ようとする。

しばらくすると、暗闇の中から声がした。

「順一、起きて」

「うわ、なんだよ」

愛花さんが俺の布団のそばにペタンと座っていた。

「ああ、疲れた。お姉ちゃんをほったらかして寝るなんて、ひどいよね。今すぐ癒して」
「おい、やめろって。苦しいから」

そう言いながら彼女はぎゅっと俺に抱きついてくる。

「やだやだ。疲れたし。もう明日仕事行きたくないなあ。抱っこして。抱っこ、抱っこ」

そのまま俺の膝に乗ってきて、首に両手を絡めてくる。

マジかよ。完全に酔ってる。ああ、酒臭い。

「マッサージしてくれたら、明日頑張って出社してあげる。はい」
「はいはい。分かったよ」

仕方なく、俺は彼女の肩を揉んでやることにした。

「あー、気持ちいい。そういえばね、課長にこっぴどく叱られちゃって。出した企画、全然ダメだって」
「ああ、そうだったんだ」
「お姉ちゃん、ちょっとメンタル折れそう。このままだと自信なくして、仕事やめたくなっちゃうかも」
「そんなことないだろ。頑張ってんだし」

「あ、そうだ。いいこと思いついた。ねえねえ、私の好きなところを十個言って。それで明日も頑張れる」

「え、じゅ、十個?」

唐突なお願いに、俺はどう返していいか分からず戸惑った。

「ねえ、早く言ってくれなきゃ立ち直れない」
「あー、全く。酔うと別人だな」

とはいえ、困っている様子を見ると無視もできなくて、俺は思いつく限りの褒め言葉を口にした。

「えっと、美人で、明るくて、仕事できて、その、スタイルも悪くないし」
「ありがとう。嬉しい」

愛花さんは俺の頭を優しく撫でながら言った。

「いい子いい子してあげる。本当可愛い弟ね」

その仕草に、俺はめちゃくちゃドキッとしてしまった。

だが翌朝。

「ちょっと。靴下を丸めて洗濯かごに突っ込まないでよ」
「え?ああ、悪い」
「言わなくても分かってよ。全くもう」

昨夜の甘えん坊モードはどこへやら。彼女は完全に、いつものしっかり者に戻っていた。どうやら酔うと記憶が飛ぶらしい。頼むから自覚してくれ。この二重人格。

それ以降も、酔っ払った時の愛花さんは別人のようだった。

ある日、仕事から帰ると愛花さんがリビングでスマホを手に、真剣な表情で画面を見つめていた。次の瞬間、彼女はすっと立ち上がり、スマホを持って別の部屋に移動する。いつもなら仕事の電話でもその場で出るのに。何か違和感を覚えた俺は、気になってこっそり聞き耳を立てた。

「あの、ですから。何度も言ってますけど、お見合いなんて困ります。しかもそんな立派な方となんて、とんでもないです」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。

え、姉さん、お見合いするの?

愛花さんが電話を切ってリビングに戻ってくる。俺は何も聞こえていなかったふりをしながら、さりげなく話を切り出した。

「さっきの電話、誰から?」
「え?な、何でもない。別にいいじゃん」
「はあ?とぼけんなよ。聞こえちゃった。お見合いってどういうことだよ」

少し語気を強めると、彼女は観念したように口を開いた。

「会社の社長がね、いい人を紹介したいんだって。すごく優秀な人らしくて、写真も見せられたの。是非一度会ってみて欲しいって。上司にも進められてるの」

ああ。頭の中が真っ白になっていく。

「ねえ、順一はどう思う?」
「どう思うって?そんなの、知らねえよ。勝手にすれば」

思わず冷たい言葉が口からこぼれた。

「スカートだなんだって浮かれる前に、さっさと部屋から出て行くんだったな。まあ、同居されて迷惑なんだよ」

自分でも信じられないほど、ひどい言葉が次々と出てきた。彼女は黙ったまま、俺をじっと睨みつけていた。そして――

「ああ、悪かったわね。邪魔して」

そう吐き捨てると、玄関に向かって歩き出す。足元にサンダルを引っかけ、そのままドアを開けて外へ飛び出していった。

その夜、彼女は帰ってこなかった。

翌朝、リビングのテーブルに置かれた賃貸情報誌を見て、俺の胸は騒いだ。そしてその日から、愛花さんはあからさまに俺を避けるようになった。食事の時も、生活の合間も、一切目を合わせない。気づけば、俺たちは一言も会話をしない日々に突入していた。

言いすぎたか。やっぱり謝るべきだよな。でも、口に出すのが怖かった。時間だけが過ぎていき、いつの間にか三日が経っていた。

そんなある休日の朝、インターホンの音が鳴り響いた。玄関のドアを開けると、そこに見知らぬ男性が立っていた。

「あの、どちら様ですか?」

声をかけようとした瞬間、背後から愛花さんの声が飛んだ。

「ああ、その人。私のお客さん」

彼女は笑顔で玄関に現れ、優雅に挨拶した。

「おはようございます。横山さん。今日はよろしくお願いします」

聞いたことのない猫なで声だった。この人が、あのお見合いの相手か。横山さんは背が高くて、いいスーツに身を包んでいた。さらに外には、ピカピカの高級車が止まっている。

「お迎えありがとうございます。素敵な車ですね。新車ですか?」

愛花さんが懸命に話しかけているのを、俺は醒めた目で見ていた。

ああ、なんだよあの態度。マジでムカつく。二人はそのまま、早々と車で出かけていった。

そして夜になっても、愛花さんは帰ってこなかった。時計が八時を過ぎ、九時を回っても戻らない。

まさか、朝帰りなんて。

落ち着かなくて、ソファーに座ってもベッドに入っても、眠れるはずがなかった。結局俺は寝ずに、ずっと彼女の帰りを待っていた。やっと玄関の鍵が開いたのは、夜の十一時。

「ただいまー。可愛いお姉ちゃんのお帰りだぞ」
「は?自分で可愛いとか言うか」

戻ってきた愛花さんは、完全に酔っ払いモードだった。

「ねえ、聞いてよ、順一。今日のお見合い、マジで最悪だったんだから」

帰宅早々ソファーにだらりと横たわった愛花さんは、酔った勢いのまま愚痴をまくし立て始めた。

「横山さん、最初から最後までずっと自慢話ばっかり。何食べたか全然覚えてないくらいつまらなかったの」
「そ、そうなんだ」
「しかもね、レストランはおしゃれなフレンチだったけど、味は微妙だったし。ご馳走しますって言ったくせに、食べ終わった後に行ったのが割り勘」
「うわ、それはひどいな」
「ていうか、ずっと私の胸見てたし。横山さんマジでマイナス百点だわ」
「ああ、うん。お疲れ様」

完全に酔っ払いモードの愛花さんは、玄関先にしゃがみ込んだまま手足をバタつかせている。

「ああもう、ほら。ちゃんと中に入りなって」
「やだー」

俺は彼女をソファーまで連れて行き、横にならせた。

「ああ、あんな店の料理よりさ、お母さんのベチャベチャチャーハンの方が百倍うまいよね」
「言うと思ったよ」

「ねえ、今作って。食べたい食べたい食べたい食べたい」

愛花さんが床でジタバタ暴れるので、俺はしぶしぶキッチンに立ち、母直伝のベチャベチャチャーハンを作る。

「あ、この味よ。この水分量が最高」

そう言いながら、彼女はチャーハンを完食した。

「なあ、あの男。横山さんとまた会うの?」

俺が恐る恐る尋ねると、愛花さんは即答した。

「会うわけないじゃん。だって、好きじゃないもん」

「え、じゃあ、俺のことは」

少し間を置いて、聞き返す。

「俺のことを、どう思ってる?」

一瞬だけ、空気が止まった。そして次の瞬間――

「大好き。すっごく好き。可愛い順一のためなら何でもしてあげる」

ハイテンションのまま、彼女は叫ぶように言った。

「じゃ、じゃあさあ、今すぐ横山さんにはっきり断ってくれ」
「了解」

愛花さんは即座にスマホを取り出し、そのまま会社の社長に電話をかけ始めた。

「いや、ちょっと待て。社長に直接かけるのか?」
「あ、社長。夜分遅くにすみません。実はですね、私、弟と結婚することにしました。なので例の話は長々とお断り申し上げます」

それじゃない。

「いやいやいや、首になるぞ。バカか?ていうか結婚って、俺、そんなこと一言も言ってないし」

慌てて言い返すと、愛花さんは信じられないという顔をして言った。

「え、結婚してくれないの?」
「いや、そ、それはやだって言ってるんじゃなくて」
「やだやだ。するの。絶対するの。結婚するの」
「だから、声でかいってば。分かった、するから。結婚するから」

そのままバタンと仰向けに倒れ込んだ愛花さんは、満足そうな顔のまま眠ってしまった。

マジで酒癖やべえな。これがシングルの理由か。美人でしっかり者なのに、こんな一面があるから。

だけど、俺は寝息を立てる彼女を見ながら、なんだか愛しくて微笑んでしまっていた。

翌朝。

「うー、頭痛い。順一、頭痛薬ってどこだっけ?」

完全にノーマルモードに戻った愛花さんは、昨夜のことを全く覚えていない様子だった。

「あ、あれ、聞かせてみようかな」

俺はスマホに残していた昨夜の録音を再生した。

「え、何これ?嘘。これ、私の声?」

顔を真っ赤にして、手で顔を覆う愛花さん。

「ちょ、ちょっとやだ。何言っちゃってるの?マジ恥ずかしい」
「うん。全部聞いたぞ」
「バカ。年下のくせに、そういうとこだけ生意気」

そう言って、彼女は俺の胸に顔を埋めてきた。

「本当はね、焼きもち焼かせようとしてたの。横山さんとのお見合いも。それで、酔った勢いで告白とか、私、本当バカじゃん」
「え、じゃあ、俺のこと好きだった?」
「うん。もう忘れちゃった。思い出したら教えるね」

俺は愛花さんの肩を引き寄せながら、そっと答えた。

「分かった。じゃあ、いつか聞かせて」

その日から、俺たちは恋人同士になった。

それからというもの、俺と愛花さんは恋人として毎日を過ごしていた。付き合うようになってから、俺は幸せの絶頂にいた。

だが、そんな中でも愛花さんは時々、不安な顔を見せる時があった。

「どうしたの?なんか考え込んでる?」
「うん。その、お父さんたちに、私たちのこと何て言えばいいのかなって。義理の姉と弟が付き合ってるなんて、普通に考えてやばいでしょ」

彼女の声には、いつもより弱さが滲んでいた。

「別に問題ないだろ。俺たちが血の繋がってるわけじゃないんだし」

そう口では言ったものの、実は俺もどこかで引っかかっていた。もし反対されたらどうしよう。あの父さんがもし激怒したら。それでも俺は決意した。

「大丈夫。俺がちゃんと話してくる」

そしてその週末、俺は愛花さん抜きで実家へと向かった。結婚を前提に付き合ってるということを、父さん、母さん、そして愛花さんのお母さんに、しっかり自分の口で伝えるために。ちなみに「結婚する」って言ったことは、まだ愛花さんには話していない。

家に着くと、母さん、父さん、愛花さんのお母さんが俺を迎えてくれた。緊張で胃がキリキリしていた。何せ父さんは柔道の黒帯で、過去に大会で優勝経験もあるらしい。こんな人に「娘さんをください」なんて。それでも腹を括って、三人の前に正座して告げた。

「あの、実は俺、愛花さんと付き合ってます」
「え、ちょっと、今何て?」
「俺と愛花さん、付き合ってるんです。だからどうか、交際を認めてください」

「おい、バカなこと言うな。お前に娘は絶対やらん」

予想通り、父さんは声を荒げた。その瞬間、全身から冷や汗が吹き出す。

うわあ、終わった。これはマジでぶん投げられるパターンだ。

と思ったら――

「嘘嘘。ごめんごめん。一度言ってみたかったんだよなあ。“娘はやらん”って」

満面の笑顔で、父さんが笑い出す。

「もう、驚かせすぎよ。でも、受けるけど」
「うん。まあ、お互い好きなら、別に問題ないと思うわよ」
「そうそう。俺も賛成だ」

一瞬で緊張が解け、俺はその場にへたり込んだ。

「そ、それでもし、結婚ってことになったら、その、お、嫁さんもらうよな?」
「いいねえ」

突然三人がノリノリになり、勝手に話が進み始める。

「プロポーズはちゃんとしなきゃだめよ。夜景の見えるレストランとかで、バラの花束とか用意してさ」
「いやいや、フラッシュモブだろ。今時の女の子はああいうのが大好きなんだって」
「は?何言ってるの?女の子が全員フラッシュモブ好きなんて、あんなの妄想よ」
「な、なんだと?あの時のプロポーズが最悪だったってことかよ」
「今だから言うけど。うん。あれはマジで最悪だった」
「何このわがまま女」
「この勘違い男」

「喧嘩はやめてくださいよ。落ち着いて、二人とも」

俺がなんとか割って入ったその時――

「あのさ、家の外まで声丸聞こえなんだけど」

愛花さんが玄関からひょっこり現れた。

「は?なんでここに?ていうか、聞いてたのかよ」
「聞こえちゃった。全部」

じゃあ、もう正直に言うしかないな。

「いいか、順一。男を見せる時だな」
「ここで決めなきゃ、いつ決めるのよ」

母さんは俺の肩をポンと叩いた。

「あ、あの、愛花さん。俺と結婚してください」

「はい」

両親が後ろで「やったな」と小声で喜んでいるのがちょっとだけムカついたけど、とにかく俺の思いはちゃんと伝わった。

それから数ヶ月後、俺と愛花さんはついに夫婦になった。結婚式は派手にやらず、親族と親しい友人だけを招いた小さな挙式だったけど、心から温かくて、俺にとっては一生忘れられない時間になった。

そして現在。夫婦になっても、俺たちの暮らしはあまり変わらない。一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、くだらないことで喧嘩して。それでも最後にはちゃんと仲直りして。そんな日々を送っている。

ある日、いつものようにソファーに並んでテレビを見ていた時、愛花さんがふと俺に身を寄せて言った。

「ねえ、覚えてる?最初にベチャベチャチャーハン作ってくれた時のこと」
「あの時、酔っ払って土下座でバタバタしてたでしょ」
「ひどい。そんな言い方しなくたっていいじゃん」

愛花さんはそう言いながら少し頬を膨らませて見せた。でもすぐに、くすくすと笑い出して、こう続けた。

「でも、あの時ね。“この人となら結婚してもいいかも”って、ちょっと思ったんだ」
「え、それ、初耳だぞ」
「でしょ?今初めて言ったもん」
「おお、ありがとうな」
「こちらこそ、ありがとう」

照れ臭そうに微笑み合う俺たち。付き合っていた頃も幸せだったけど、今はその何倍も心が満たされている。家族になるって、こんなに安心するものなんだな。

そして、とある夕方。俺が帰宅すると、キッチンからいい匂いがしてきた。覗いてみると、愛花さんがエプロン姿で料理をしていた。

「おかえり。今日は順一の好きなやつ作ってるよ」
「マジか。やった。サンキュー」
「うん。でもね」

愛花さんは俺の方を向いて、ほんのり恥ずかしそうな顔で続けた。

「ちょっと味、変わってるかも。今、二人分じゃないから」
「え?」
「ここに、お腹にいるんだ」

俺は驚いて、しばらく言葉が出なかった。そして次の瞬間、自然と彼女を抱きしめていた。

「ありがとう。マジでありがとう」
「何泣いてんのよ。年下のくせに、すぐ泣くんだから」

そんな風にからかわれながら、俺は心の中で何度も何度も思っていた。この人に出会えて本当に良かった。家族になれて、本当に良かった。

そしてこれからは、三人で新しい毎日が始まっていく。

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