整備士がその服で来るのかよ。笑えるわ——合コンの個室で、初対面の男にそう笑われた瞬間、俺は自分の耳を疑った。週末の予定を埋めるためだけに渋々参加した席で、まさか作業着姿をここまで見下されるとは思わなかった。「オイルまみれって、やばくない?」「ちゃんと稼げてるわけ?」ブランドバッグを弄りながら鼻で笑う令嬢たち。カクテルが並ぶテーブルなのに、喉を通る気配もない。背筋に冷たい視線が突き刺さる。「悪…

整備士がその服で来るのかよ。笑えるわ——合コンの個室で、初対面の男にそう笑われた瞬間、俺は自分の耳を疑った。週末の予定を埋めるためだけに渋々参加した席で、まさか作業着姿をここまで見下されるとは思わなかった。「オイルまみれって、やばくない?」「ちゃんと稼げてるわけ?」ブランドバッグを弄りながら鼻で笑う令嬢たち。カクテルが並ぶテーブルなのに、喉を通る気配もない。背筋に冷たい視線が突き刺さる。「悪...

「整備士がその服で来るのかよ。笑えるわ」
合コンに呼ばれたのは、週末の予定を埋めるためだけだった。渋々参加した先で、初対面の連中にいきなりダメ出しをされるとは思ってもみなかった。
「車いじりが好き? へえ。それで、ちゃんと稼げてるわけ?」
「オイルまみれって、やばくない?」
片方はブランドバッグを弄りながら鼻で笑い、もう片方は俺のツナギ姿を上から下まで眺めては含み笑いを漏らす。目の前にはカクテルやワインが並んでいるのに、喉を通る気配は一切ない。冷たい視線が全身に突き刺さり、背筋が凍るようだった。
「悪い。用事を思い出したから帰るわ」
席を立つと、連中は面白がって後をついてきた。
「どれだけのボロ車に乗ってるのか、見せてもらおうぜ」
ところが、俺がとある高級車の前で足を止めると、彼らの顔色が一変した。
「ま、マジかよ……なんでお前がこんな車に……」
俺の本当の姿を知った金持ち連中は、震え上がったのだった。

俺の名前は高村修也。都内の小さな整備工場で働くメカニックだ。朝から晩まで油にまみれ、工具を握りしめてはエンジンを覗き込む日々。幼い頃から車が大好きで、どんな車でも蘇らせてみせると息巻いていた時期もあった。実際、エンジンから微小な異音が聞こえれば、原因を突き止めるまで決して諦めない。調子を取り戻した車が再び快音を響かせる瞬間は、何度味わっても飽きることがない。工場の空気には独特のオイルの匂いが染みついている。朝、冷たい空気を吸い込みながらシャッターを開ける時、自然と胸が高鳴るのだ。手が汚れようが服が油まみれになろうが、どこか誇らしい気持ちになる。外から見れば肉体労働だし、華やかな仕事ではない。それでも、この仕事にこそ誇りを感じている。地味な修理や細かいメンテナンスの繰り返しでも、エンジン音が変わるたびに車の声を聞いている気分になる。一台一台を丁寧に仕上げ、オーナーの元へ戻す瞬間が心の底から嬉しい。

その日、昼休憩にコンビニ弁当を温めようとレンジの前で待っていると、スマホが震えた。画面に映った名前は樋口大輔。高校時代からの付き合いで、最近は少し疎遠になっていたが、数少ない友人の一人だ。
「おい、修也。元気にしてるか?」
「まあな。どうした?」
電話越しの大輔は、気まずそうな声で週末に時間があるかと尋ねてきた。俺が特に予定はないと答えると、合コンの人数合わせに来てほしいと言う。合コンは苦手だ。柄じゃないし、こういう場はどうにも居心地が悪い。だが大輔に「誰も捕まらなくてさ、気楽な飲み会だし、みんなで盛り上がればいいから」と懇願されると、なかなか断れない。少し迷いながらも「まあ、いいけどよ」と返事をすると、大輔は安堵した様子で電話を切った。

迎えた当日、俺はいつものように朝から工場で作業していたのだが、想定外のトラブルが立て続けに起こり、予想以上に時間を取られてしまった。時計を見ると、開始時刻まであと三十分もない。一度家に戻って着替えるのは不可能だ。大輔に電話すると、彼は予想していたのか落ち着いた声で言った。
「いや、そんなこと言わず来てくれよ。席はもう取ってあるし、お前が来ないと困るんだって」
ここまで言われては仕方ない。作業場のロッカーを引っかき回すと、新品のツナギが一枚残っていた。これで行くしかない。高級レストランに向かうのに作業着姿なんて、自分でも冗談じゃないと思う。だが、大輔のために一肌脱ぐと決めた手前、投げ出すわけにはいかなかった。

指定された店は、普段俺が縁のないような洒落たダイニングバーだった。ガラス張りの扉を開けると、落ち着いた照明の下、バーカウンターには光るグラスが並んでいる。俺は居心地の悪さを感じながら個室に通された。扉を開けると、そこにはすでに男女数名が着席していた。ドレスアップした華やかな女性たちがずらりと並んでいる。想像以上にお嬢様感が漂う連中ばかりだ。紙一重の完璧な統一感がある。大輔の取引先関係で知り合った女性グループらしい。男性側は大輔の他にもう一人だけいて、そいつは完璧にスーツを着こなし、俺の方をチラチラと見ながら何やら笑っている。多分、俺の服装のせいだろう。俺が席につくや、その男が口を開いた。
「大輔、こいつ誰だよ。こんなの連れてくるなんて聞いてないんだけど」
「いや、確かに誰でもいいから連れてきてくれとは言ったけどさ……人間違えてないか?」
見下すような口調に、俺は思わず目を向ける。大輔が小声で説明してくれた。こいつは日立院大和。取引先の御曹司らしい。大輔は苦い顔で頭を下げていた。
「す、すみません。ちょっと人数合わせが間に合わなくて急遽呼んだんです」
しかし大和は聞く耳を持たない。
「まあ、座れば。せっかく来たんなら盛り上げてくれよ」
向かい側では、女性たちが俺を見てクスクス笑っている。大輔が耳打ちしてくる。
「悪い、ちょっとだけ我慢してくれ。二時間もすれば解散できると思うから。埋め合わせはするからさ」
俺は苦笑いを浮かべて「気にすんな」とだけ返した。できるだけ早くお開きになってほしいと願うしかなかった。

軽い自己紹介タイムが始まった。大和がまず名乗る。
「俺は日立院大和。日立コンセルンの御曹司ってやつだな。親父の会社を継ぐために色々と勉強中さ」
続いて女性陣が名乗り始めると、どれもこれもテレビや雑誌で見かけるような名家の名前ばかり。彼女たちは当然のように自分のステータスをひけらかし、どこかの国のリゾートが良かっただの、父の会社が急成長しているだのと、互いに張り合うような自慢話が始まった。やがて一息ついた女性が俺を指さす。
「じゃあ、そちらの方は?」
「高村修也です。車の整備工場で働いてます」
それだけ述べると、待ってましたとばかりに女性たちはクスクスと笑い声を交わす。
「へえ、大変そう」
興味のなさそうな感想ばかりだ。自己紹介が一通り終わり、しばらく沈黙が落ちると、再び大和が声を張り上げた。
「ところでさ、整備士って普段どんな仕事してんの? ここのお嬢様たちは、そういう泥臭い世界に触れる機会がないから興味あるっていうか」
わざとらしく同意を求める。その瞬間、またクスクスという笑いが戻ってきた。
「まあ、興味といえば興味だけど。私たちには遠い世界だよね。でも整備士って体力はあるんじゃない? どうなの?」
笑い混じりの会話が続く中、俺は大輔が無言のまま「本当にすまん」と頭を下げるのを横目に、早く終われと心の中で叫ぶしかなかった。一時間ほどが経ち、俺は完全に会話から取り残されていた。大輔が何度か気を遣って声をかけてくれたが、もう限界だった。
「悪いな、俺。明日の朝も早いし」
適当な理由をつけて席を立とうとすると、大和が鼻で笑った。
「そりゃ、お前にはここは場違いだろうよ」
その目は汚いものを見るかのようだった。令嬢たちも形式的に「え、もう帰るの?」と言うだけ。さすがに疲れた。俺は「悪いな、大輔。後で連絡する」とだけ言い残し、個室を出た。

駐車場に戻ろうとすると、後ろから笑い声が聞こえてきた。振り返ると、大和や令嬢たちが店の扉付近でこちらを指さしている。
「おい、あいつの車見物じゃないか。せっかくだから、どれだけ見窄らしいか拝ませてもらおうぜ」
大和は皮肉たっぷりに言い放つ。俺は正直うんざりしたが、ここまで言われたら逆に見せてやろうという気分になった。無言のまま駐車場の奥へ歩き出す。街灯に照らし出されたのは、青く塗装されたスポーツカー。フェラーリの中でも比較的新しいモデルだ。
「あ、フェラーリだと……嘘でしょ?」
「こんな作業服の整備士が?」
大和たちは明らかに衝撃を受けていた。さっきまでの騒ぎが嘘のように、一瞬静寂が落ちる。俺はドアロックを解除し、運転席に滑り込んだ。駆け寄ってきた大和が半ば叫ぶように問い質す。
「お、お前、なんでそんな車に乗ってるんだ? 一体何者だよ」
俺はエンジンをかけた。低く重厚なサウンドが闇に響き渡る。ウィンドウを下ろし、大和に視線を向ける。
「別に隠してたわけじゃないさ。俺はただ車の整備が好きで工場で働いてるだけだ。けど、実は自動車整備会社の社長でもあるし、産業廃棄物処理の会社とか、何社か経営に関わってる。社長って言っても、現場が好きだからこうして作業してるだけだけどな」
大和は言葉を失った。令嬢たちも「え、社長?」「嘘……」と混乱気味だ。俺はゆっくりと続ける。
「俺は金の話をひけらかすつもりはないし、そういうのに興味もない。でも、わざわざ人を呼んで見下すのは最低だな。お前がどんな御曹司か知らんが、そっちの方がよっぽど場違いじゃないか」
大和の顔が真っ青になる。それを見届けて、俺は軽くアクセルを踏んだ。高い排気音が暗い路地にこだまし、フェラーリはスムーズに駐車場を後にした。ルームミラー越しに、立ち尽くす大和たちの姿が見える。心の底からスカッとしたわけではないが、一矢報いたとは思った。

数日後、いつものように早朝から工場のシャッターを開け、点検作業を始めていると、外に車のエンジン音が聞こえた。最初は業者か何かだろうと気にも留めなかったが、その音はやけに静かで、高級車特有の滑らかな響きがあった。シャッター越しに視線を向けると、真っ白な車体が光を反射している。工場の前に止まったのは、大輔のワンボックスカー。そして、少し遅れて高級車が滑り込むように止まった。運転席から降りてきた大輔が手を振る。隣の高級車のドアが開き、すらりとした美脚を包んだ上品なドレス姿の女性が現れた。先日の合コンで見かけた、嬢川玲奈だ。
「おう、どうしたんだお前ら?」
俺が近寄ると、大輔は罰が悪そうに頭をかきながら口を開いた。
「悪い。この間は本当にすまなかった。あそこまで大和がやるとは思ってなくてさ。改めて謝るよ」
「いいって。人数合わせだろ、仕方なかったんだろう。まあ、その代わり今度なんか奢れよ。腹いっぱい焼肉とか、車のパーツとか俺が選んだら高いぜ」
冗談めかして言うと、大輔は苦笑しながらも力強く頷いた。一方、玲奈は俺に一礼して言った。
「この間は、突然失礼な場面に巻き込んでしまってごめんなさい」
「いや、姫川さんが謝ることじゃないだろう。要件は何だ? まさかまた合コンってわけでもないんだろう」
そう促すと、玲奈は少し笑顔を見せて車のボディを一瞥してから口を開いた。
「実は車の定期点検をお願いしたくて。いつもはディーラーに任せてたんだけど、修也さんがエンジンのことをすごく大切に考えてるって大輔さんから聞いて。私も大事にしている車だから、信頼できる人に見てほしいの」
ディーラーならVIP待遇で受けられるはずだ。それでも、わざわざこんな小さな工場を選んで来てくれた。車への情熱を認めてもらえたような気がして、胸が高鳴った。
「そりゃありがたい申し出だな。俺でよければ喜んでやらせてもらう。早速始めるか。ボンネット開けるから、そこに立っててくれ」
俺は作業用の手袋をはめ、車のボンネットを持ち上げた。玲奈は吸い込まれるようにエンジンルームを覗き込む。俺は配管の精密さ、欧州車特有の電子制御系の美しさを説明しながら、点検を進めていく。思わず独り言のように「すげえな」と漏らすと、玲奈がくすっと笑った。
「うちの父も同じようなことを言ってたわ。車は芸術だって」
その言葉に、一瞬だけ心が温かい何かに包まれた気がした。作業に没頭していると、いつの間にか午後も遅い時間になっていた。顔を上げると、入り口のところで玲奈が控えめに立っている。
「ああ、悪い。ずっとここにいたのか。作業に熱中しすぎて忘れてた」
「うん。気にしないで。修也さんの仕事ぶりを見てると、なんだか引き込まれちゃって」
玲奈は恥ずかしそうに微笑む。すると、静かな声で話し出した。
「修也さん、この間本当にごめんなさい。大和さんは昔からあんな感じで、周りの人間は逆らえなくて。私や大輔さんを含めて、何かと恩や取引が絡んでるから。でも、だからってあそこまで失礼なことをしていいわけないのに」
玲奈の声は苦しげだった。彼女は大和に逆らえなかった自分を責めているのだろう。
「気にすんなって。俺がむかついたのは事実だが、もう過ぎたことだし、あいつにどう思われようが痛くも痒くもない」
そう言うと、玲奈は少しほっとしたように頷き、視線を落として小さな声で呟いた。
「ありがとう。でも、実は……修也さんが車をすごく大事にしている姿を見て、私はそれに惹かれているんだと思う。お金のためとかじゃなくて、好きだからこそ時間を惜しまず真剣に向き合う。そういうものに対する考え方が、私には新鮮で。こんなの初めてかもしれない」
俺は思わず目を瞬かせる。玲奈は続けた。
「私、昔から親の敷いたレールの上で生きてきたの。悲鳴県の令嬢だから、こうあるべきっていう期待にずっと答えようとしてきた。周りから見れば恵まれてるって分かってる。実際、家は大企業で裕福だし。でも、自分の意思が入る余地はあまりなくて。自分がないみたいに感じることも多いの」
俺は無言で耳を傾けた。
「それに、私、小さい頃に母を亡くしてるの。母はすごく優しくて、でも病気で急にいなくなってしまった。その時、大事な人を失うのが怖いって幼いなりに強く感じた。だから、それからあまり何かに執着したり、情熱を注ぎ込むことを避けてきたのかもしれない。大切にすればするほど、いなくなった時に耐えられなくなるって分かってたから」
玲奈の声が震えたように聞こえ、俺は何とも言えない気持ちになった。愛する人を急に失う痛み。想像を絶するものだろう。だが、俺は自分の気持ちを整理するように、ゆっくり言葉を選んだ。
「でもさ、こだわらない人生って本当にそれでいいのか? 俺は何かを愛したり大切にしたりする喜びって、めちゃくちゃ尊いもんだと思うんだよ。確かに失う怖さはあるけど、それよりも好きでいる時間の方が長いじゃないか。車が好きでメカニックになった。失うリスクは常にある。思い通りに直せないこともあるし、オーナーが乗り換えを決断することだってある。それでも、車を愛する幸せを捨てようとは思わない。勇気を出して、これが好きだとかこうしたいってこだわってみると、人生って違った景色が見えると思うぞ。偉そうに言ってるけど、俺もまだまだ発展途上だ。ただ、何か一つでいいから本気で大事にしてみて欲しいんだ。大事にした分だけ、きっと人生は色づくし、誰かにバカにされたって気にする必要なんかない」
そう言った瞬間、玲奈は小さく息を飲んだように見えた。
「私……私にも本当にそんな資格があるのかな?」
玲奈の声はかすかに震えている。彼女は肩を小刻みに揺らしていた。
「資格なんて大げさすぎるさ。好きになることって、誰にだって許されてると思う。失うのが怖いのは当たり前だろ。でも、もし怖いからって何も大事にしないままだと、きっと寂しいじゃないか」
玲奈は少し涙を拭うように目元に手をやりながら、かすかな微笑を浮かべた。
「ありがとう。怖いけど、やっぱり私は私なりに大事にしたいものを見つけるべきなんだよね」
すると、玲奈は何か思い出したように口を開いた。
「実はこの車、母の形見でもあるの。正確には、この車の一部に母が大事にしていたパーツが組み込まれてるのよ。小さなカスタムパーツだけど。母がいつか自分の子供に渡したいって言ってたものなの」
だから彼女にとって車はただの乗り物じゃないんだ、と腑に落ちた。そこには家族の思い出や、消せない温もりが宿っている。
「だからこの車だけは、絶対に大事にしたいと思ってた。修也さんがエンジンのことをすごく大切にしてるって聞いて、この人ならきっと大切に扱ってくれるって確信みたいなものがあったの。今日見てもらえて本当に良かった。これからもお願いしていい?」
その問いかけに迷いなどなかった。
「もちろん。エンジンの不調だろうが、ちょっとした傷の修理だろうが、いつでも頼んでくれ。姫川さんの車の調子は、俺が責任持って最高の状態にしてやるよ」
言い切った瞬間、玲奈の表情がぱっと明るくなった。さっきまで涙ぐんでいたのが嘘のように、柔らかな笑顔が咲く。
「それと、車の整備以外でも、もし玲奈さんに会ってもいいかな?」
「私のこだわりがまだはっきり形になってるわけじゃないけど、それでもあなたといると色々なものが見えてきそうで、どきどきするの」
まさか面と向かってそんなことを言われるとは思わなかった。
「え、えっと、それはもちろん構わない。俺はいつでも暇ってわけじゃないけど、どうにだって時間作るし。でも俺、普段こんなツナギ姿だし。会うって言ってもどんな場所行きゃいいんだ。いい服も持ってないし」
言葉が焦って、完全に動揺が声に出ている。玲奈はくすっと笑った。
「じゃあ、今度買いに行こう。お礼も兼ねて、似合う服をいくつか選んでプレゼントするわ」
「え、それはちょっと悪いよ。俺の服なんて自分で払うから」
「遠慮しないでよ。大切な車を整備してくれた、私からってことで」
「分かった。お言葉に甘えさせてもらうよ。けど、その代わりメンテナンスはこれからも格安でやってあげるからな。お互い様ってことでいいだろ」
俺が照れくさそうに笑うと、玲奈も「ありがとう」と優しく笑ってくれた。

静まり返った工場の中で、俺たちはしばし言葉もなく向き合った。外の空気はすっかり夜の気配を帯びている。俺は背筋を伸ばした。
「よし、じゃあそろそろ仕上げの洗車でもするか。せっかくなら、姫川さんもやってみるか?」
思わずそんな提案をしたのは、彼女自身が母の形見となったこの車に触れてみることで、何か得られるものがあるんじゃないかと思ったからだ。玲奈は一瞬目を丸くしたが、すぐに「いいわね」と乗り気になってくれた。二人で並んで泡立てたスポンジを握る。彼女の柔らかな笑顔が工場の照明の下で、より一層輝いて見えた。母の思い出の詰まった車のボディを、二人で丁寧に撫でるように洗い上げる。その合間に交わす言葉は多くないけれど、確かに温かい絆が育ち始めている気がした。

洗い終わり、水滴を拭き取るために細かいチェックを続けていると、車体の裏側にとんでもない異変に気がついた。車の底面の目立たない場所に、キーホルダーみたいなサイズの黒いケースが強力な粘着テープで取り付けられている。指先でつまんでみると、見覚えのあるアンテナモジュールが仕込まれていた。衛星と通信するGPSトラッカーだ。
「姫川さん、これ心当たりある?」
俺は慌てないよう気をつけながら、玲奈にひそひそ声で話しかける。彼女は目を丸くして首を横に振った。
「GPS? そんなものつけた覚え、もちろんないわ。ディーラーに出してもこんな装置は見かけなかったし。父が勝手につけるとも思えない」
彼女の顔に不安が広がる。俺はその装置を外し、玲奈に見せる。
「最近誰かに監視されてるとか、付け回されるような心当たりは?」
玲奈は暗い表情で少し考え込む様子を見せたが、すぐに分からないと首を振った。何しろ危険だ。セキュリティを見直すか、警察に相談してもいいかもしれない。俺がそう言ったその時だった。
「こんなところにいたのか」
不意に低い男の声が背後から響いた。工場の入り口に目を向けると、見慣れたスーツ姿の男。日立院大和が鋭い目つきでこちらを睨んでいる。
「大和さん……どうしてここに?」
玲奈がぎこちなく問いかけると、大和は肩をすくめるように笑った。
「どうしてお前がどこで何をしているか気になったからだよ。言うまでもないけどな」
まさかこの男がGPSを……嫌でも頭に浮かぶ。悪い予感はあっさり当たった。
「お前たちが騒いでる、それGPSだろ? 俺がつけたんだよ」
大和はさも当然のように言い放ち、開き直った。俺の拳が硬くなる。許せない。
「なんでそんなこと?」
玲奈が声を震わせながら問い詰めると、大和は悪びれずに答える。
「お前に悪さをされないように見張ってただけさ。俺はお前の婚約者候補なんだぜ。親同士が決めたこととはいえ、お前は俺のものになる可能性が高い。だからこそ、勝手に男と会ってるんじゃないかとか、どこかで変な行動を取ってないか気にしてやってんだよ」
玲奈を自分の所有物だと言わんばかりの歪んだ執着。俺はもう黙っていられなかった。
「人の車に勝手にGPSを仕込むのが、見張るって表現で済むか。お前やってること犯罪スレスレだぞ。いや、もはや犯罪と言っていい」
だが、大和は鼻で笑って取り合わない。
「企業の顧問弁護士もこっちには腐るほどいる。俺の家名を知ってて、お前らが警察が動くと思うか? 大した証拠があるわけでもなしに、心配のあまり情報を管理してたくらいで終わりだろう」
玲奈の瞳に怒りと悲しみが混じり合った色が浮かんでいる。
「そんな……大和さん、あなたがそこまで卑劣だとは思わなかった。いくら親同士が決めた婚約候補だからって、人として最低よ」
玲奈の口調は震えていたが、その声には確かな意志が宿っていた。すると大和は渋い顔をし、再びにやりと笑って開き直る。
「まあ黙ってたのは悪かったさ。でも俺は本気でお前が好きなんだよ。逃さないためにGPSをつける。確かにやりすぎかもしれないが、俺はお前を守りたいだけだ。勝手に男に近づかれるのも気に入らないんだよ。何が悪い?」
どこまでも自分本意だ。玲奈が静かに息をつき、そして毅然とした表情で言い放った。
「大和さん、親が決めた縁談の話があるのは事実だけど、私はまだ受け入れると決めたわけじゃない。さっきのGPSのことも含めて、今は少し時間をちょうだい。ちゃんと考えたいの」
その言葉に大和の表情が悔しそうに歪む。玲奈は負けていなかった。
「そうかよ。まあいいさ。姫川も日立院との結びつきを完全に断ち切れるほど自由じゃない。お前も分かってるだろう。まあ、そのうち気が変わるさ」
そう吐き捨てると、大和は背を向けて工場のシャッター口へ向かっていく。玲奈は肩を震わせ、必死に自分の感情を抑えているようだった。
「すまない。俺がもう少し早く気づいて、GPSなんかつけられてないか確認してれば」
「修也さんのせいじゃないわ。大和さんがやったこと、それだけよ。でも、本当に気持ち悪くて腹立たしくて。あんな形で見張られてたなんて」
俺は玲奈の肩に手を置いた。
「今はショックかもしれないけど、俺がついてる。姫川さんの車にはもう変なものはついてないし、これからはもっと気を配る。あいつが妙な真似しないように、こっちも何か考えないとな」
玲奈は少しだけ表情を緩め、俺の方を見て控えめに頷いた。
「ありがとう。修也さんがいると心強いわ。でも、あなたにまで迷惑をかけるのは申し訳ない」
「気にするな。どのみちあの男の傲慢な態度は癪に触ってたし、GPSなんかつけられて黙ってられねえ。俺の方こそ、逆にあいつが何を仕掛けてくるか楽しみなくらいだよ」
「分かったわ。それと、本当に考える時間が欲しいの。父の意向もあるし、日立院との繋がりをいきなり断つことは難しいかもしれないけど。それでも、私は自分の意思で決めたい。母の形見の車を大事にしたいって思ったのと同じように、自分の未来も大切にしたいから」
玲奈がしっかりと前を向いてそう言う姿を見て、俺の胸には不思議な安心感が広がる。
「俺はいつでも姫川さんの味方だ。それだけは忘れないでくれ」
玲奈は「うん」と瞳をそっと閉じ、静かに頷いた。
「さ、とりあえず今日はもう遅い。車はばっちり調子を整えたし、GPSも外した。送っていくよ」
「ありがとう。でも、自分で運転して帰るわ」
玲奈は少し迷ったような顔をしたが、俺が「まだ動揺してるだろうし、こんな時間だ。送っていくくらい任せてくれ」と言うと、「ありがとう。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらおうかしら」とほっとした表情になった。外したGPSをポケットにねじ込み、工場のシャッターを下ろす。車を走らせると、玲奈はシートに深く腰かけ、静かに息を吐き出した。
「修也さん、本当にありがとう。もっと早く出会いたかったな」
思いがけない一言に、ハンドルを握る指先が微かに震える。玲奈はかすかな微笑を浮かべたまま、どこか遠くを見つめていた。その繊細な横顔に胸が熱くなるのを感じながら、俺は静かにアクセルを踏み込んだ。

あれから数日後、俺はいつものように工場で作業に没頭していた。そろそろ昼休憩を取ろうかと腕時計に目をやった、その時だった。工場の入り口に、見覚えのあるスーツ姿の男が立っている。日立院大和だった。
「どうした? 何の用だ?」
俺はツナギを払いながら大和を見返す。すると大和は思いもよらない言葉を口にした。
「ちょっと話がある。悪かった。この前は俺がやりすぎた。あれで玲奈に嫌われたら元も子もないと分かったんだよ」
まさかあのプライドの塊が謝罪をするとは思わなかった。
「で、話ってのは?」
俺が促すと、大和は居心地悪そうに視線をそらしながら続けた。
「車の点検を頼みたい。最近どうも調子が悪くてな。ディーラーには持って行ってるが、いまいち原因を突き止められないらしい。お前、車のことには詳しいんだろ。修理してほしいんだよ」
正直驚いた。あれだけ整備士を見下していた男が、自分から頭を下げてくるとは。
「あんた、本気で反省したってことか」
「別にお前に興味はない。が、玲奈に嫌われたくないって気持ちは本物だ。それに、修理にかかる金を渋るつもりもない。きちんと直してくれればそれでいい」
言葉の調子はぶっきらぼうだが、確かに頭を下げたものは感じられる。
「分かった。整備を引き受けるよ。だが、二度と俺や玲奈に対して失礼なことはするんじゃねえぞ」
そう釘を刺すと、大和は苦い表情を浮かべ「言われなくても分かってる」とだけ返事をし、後日車を持ってくると言い残して工場を後にした。夕方、仕事を終えてロッカーでツナギを脱ぎかけたところでスマホが震えた。玲奈からだ。
「もしもし」
「修也さん、今日は色々と会ったみたいね。大和さんから修理を頼むことにしたって連絡が来たの。驚いたわ」
「ああ、正直まだ信用はしてないけどな」
俺が苦笑いしながら応じると、玲奈も「そうよね」と苦い声を漏らした後、少し間を置いてどこか嬉しそうな響きを含んだ調子で言葉を継ぐ。
「それでね、実は今度改めて修也さんと話がしたいの。あの時一緒に服を買いに行きたいって言ったでしょ。この前デパートを回ってたら、修也さんにぴったりな服を見つけたの。すごく似合うって確信したのよ。だからよかったら一緒に選びに行ってくれない?」
一気にまくし立てる彼女の声は少し早口だ。言い終えた後、自分の勢いに照れたのか息を飲んでいるのが分かる。
「そうか。服か。どんなやつなんだ? 俺に似合うかどうか自信ないけど。姫川さんが言うなら信じてみようかな。もちろん一緒に行くのは大歓迎だよ」
俺が軽く冗談めかして返すと、玲奈は電話の向こうでくすっと笑う。
「絶対似合うわ。自信あるの。それともう一つ、大事な話もしたいの。車のこととは別に、私自身のこと。それからあなたとのこと。色々ちゃんと伝えたいんだ」
胸が高鳴る。俺はスマホを握りしめながら応じる。
「そっか。分かった。いつでも時間を作る。連絡くれれば飛んでいくよ」
「じゃあ、日程とか詳細はまた後で決めようか。うん。ありがとう。ごめんね、急にこんなこと言い出して。じゃあ、楽しみにしてるわ」
電話を切った後も、俺の胸には妙な興奮と期待感が渦巻いていた。

翌週、約束通り大和が車を持ち込んできた。黒のセダンは外観こそ綺麗に磨かれているが、エンジンをかけると違和感がある。微妙に回転数が安定せず、金属が擦れるようなノイズが混じっている。テスターをつなぎ、エンジンルームを入念にチェックすると、電子制御周りの不具合が濃厚だ。
「原因は何だ?」
「ディーラーでもよくわからないで返されてるからな」
大和が苛立たしげに聞いてくる。
「電子制御ユニットに怪しい信号が走ってる。部品交換も視野に入れて、時間をかけて調べさせてもらうぞ」
作業を進めていく中で、俺は奇妙な違和感を覚えた。どうにも整備の手順を進めるごとに、誰かの意図が見え隠れする。わざと接触部分を緩めた痕跡があったり、排気系統に妙な加工の跡があったりと、普通ならありえない形で弄られている形跡がある。こいつ、本当に直してほしいだけなんだろうか。嫌な予感がする。いつもより神経質なほど慎重に車をチェックしたが、その嫌な予感はその日の夕方に現実となった。試運転のために車を工場の外へ出した時、大和が現場に立ち会うと言い出した。俺が運転席に乗り込み、工場周辺をぐるりと一回りする。エンジンの調子は一見安定しているようだが、やはり妙な違和感がある。次の瞬間、アクセルを踏み込んだ時にガクンという強烈な振動が走り、警告灯が一瞬で赤く点灯した。ブレーキに足をかけるが、効きが甘い。血の気が引くのを感じた。なんとかサイドブレーキを引き、ハンドルを切って路肩に乗り上げる形で車を止めた。激しい衝撃音と共に体が大きく揺れ、フロントが地面にめり込んでいる。一瞬ぐらりとして視界が白く翳ったが、どうやら命に別状はなさそうだ。ドアを力任せにこじ開け、地面に両手をつくと、息を切らしながら額の汗を拭う。
「一体、何が起きたんだ」
車のフロントを振り返ると、そこにスーツ姿でこちらを見下ろす大和の姿があった。まるで計画通りだと言わんばかりの薄ら笑いを浮かべている。
「どうやら、わざと仕込んだ細工がちゃんと効いたみたいだな。ブレーキ周りをちょっといじらせてもらったんだよ。こうなったのも自業自得じゃないか」
「てめえ……」
怒りで言葉が出ない。大和はまったく罪悪感を抱く気配がない。
「お前一人いなくなったところで、誰も困りはしないだろう。まあ、もうちょい派手にやれると思ったんだが。渋いな」
「ふざけんじゃねえ」
拳を握りしめて飛びかかりたくなる気持ちを何とか抑える。下手に手を出せば、今度はそこを挙げ足取られかねない。すると、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「修也、大丈夫か?」
慌てた様子の大輔が走ってくる。大輔が大和の姿を確認するや、大和は勝ち誇ったように口元を歪める。
「ああ、いいところに来たじゃないか。大輔、お前の会社、こないだ新規開発案件欲しがってたよな。あれくれてやるよ。条件は簡単だ。分かってるだろう。いつも通り、俺の言う通りにやれってことさ。そうすりゃ、お前はもっと上に行ける。悪い話じゃないだろ」
大輔は低く「賢明な判断だな」と声を出すと、そっとポケットからスマホを取り出した。そして大和へ向き直り、改めて低く一礼する。その仕草に大和は満足そうに目を細めた。が、大輔の指は素早くスマホの画面を操作していた。
「では、早速準備を始めます」
静かな声と共に、大輔はスマホを少しだけ掲げるように持ち直す。
「やっぱりお前は利口だな。うちの案件が手に入れば未来は明るい。修也なんかに肩入れするよりよっぽど得だろう」
「お前も思い知ったか? お前が生意気に逆らうから、こうして痛い目を見ることになるんだよ。これに懲りたら、大人しく頭を下げて俺の言うこと聞けよ。分かってるんだろうな。会社ごと叩き潰されるのが嫌なら、二度と口応えなんざするんじゃねえ。特に玲奈のそばをうろちょろするんじゃねえよ。お前とは住む世界が違うんだからな」
大和の汚い声が夜の空気を震わす。だが、大輔は一歩も引かない。
「大和さん、ちょっとだけ訂正させていただきますよ。お忘れかもしれませんが、この修也を痛い目に合わせろって言ったのはあんたですよね。しかもその交換条件に新規開発案件を用意すると。ええ、ちゃんと録画も配信もしてますよ。今、全国の人たちがあんたの言葉を聞いてます」
途端に大和の表情が凍る。大輔のスマホの画面には、続々とコメントが流れているのが見えた。
「『マジ? こいつ犯罪だろ?』『御曹司かよ』『全世界配信』……」
「お前……勝手なことしやがって。ネットで拡散したところで、こっちには潰す手段がいくらでも」
大和は凄みながら俺たちを睨む。だが大輔は動じない。
「潰す? お前がどう動こうと、この映像は一生残るんだ。御曹司が整備士を狙って事故を引き起こしたなんてスキャンダル。いくら金や権力を使っても完全には消せないぜ」
「このクソが……お前なんか俺の会社の取引先から外してやる。経済的に締め上げてやるぞ」
夜の冷たい空気を切り裂くような大和の怒鳴り声に、一瞬その場の空気が凍りついた。だが、次の瞬間、大輔がすっと前へ踏み出す。その瞳は今まで見たことがないほど鋭い光を帯びていた。
「どうぞご自由に。取引先を外すなら外せばいい。金と権力で人を踏みにじるのが日立院家のやり方だって言うなら、こっちもそれなりに構えるまでだ」
大和がギラリと大輔を睨むが、大輔は全く怯まない。
「勝手にしろよ。俺は別にお前のご機嫌取りで会社を経営してるんじゃねえんだ。もうゴリゴリだ。何が日立院家だ、何が権力だ。そんなもん振りかざして他人を傷つけていい理由になるわけがない」
大和の表情がはっきり分かるほど引きつる。大輔はさらに追い打ちをかける。
「それに、お前が取引先を切るぞって息巻いてるところも、ちゃんと記録されてる。今までは黙って付き合ってやったが、もうこれ以上、誰もお前の横暴に振り回されたくないんだ。俺だってそうだし、修也だってそう。玲奈さんもきっと同じだろうな」
大和は奥歯を噛みしめながら、苦い口調で吐き捨てる。
「お前ら……全員後悔させてやる」
そう言い残し、拳を握りしめたまま大和は闇の向こうへ去っていった。俺は大輔の背中を見つめた。いつも穏やかな大輔が、ここまで強く立ち向かうとは思わなかった。
「大輔、助かったよ。ありがとうな」
「礼を言うのは俺の方だ。今まで大和の圧力に屈してきたけど、これで目が覚めたよ。もう二度とあいつの好きにはさせない。修也、お前には悪いことをした分も含めて、これからは俺も全力で戦う」
俺と大輔は顔を見合わせ、深く息を吐いた。

翌日、SNSの世界はちょっとした祭り状態になっていた。大和が事故を仕組んだ上に俺と大輔を脅迫するような発言をした一部始終が拡散され、あっという間に炎上。日立コンセルンの御曹司としての名前と顔が、世間の好奇の目に晒されることになった。さらに日立グループ本社も状況を重く見たのか、後継者候補の大和を表舞台から外し、事実上の降格処分という形で動いたらしい。テレビやネットの記事には「日立院大和氏、長期謹慎」「御曹司の公認は別人」なんて見出しが踊っている。あれだけ大口を叩いていた男の転落ぶりに複雑な思いもあったが、これが彼の選んだ道だ。その後、SNS拡散の影響で俺の整備工場はちょっとした話題のショップになっていた。御曹司の妨害を跳ね返したメカニック、正義感の強い職人として取り上げられ、マスコミの取材が舞い込むようになった。もちろん俺としては、これまで通り黙々と整備を続けたいだけだ。しかし話題になったおかげで新しい取引先の問い合わせも増え、工場の稼働率は格段に上がった。大輔も大和の悪習から解放され、新規プロジェクトに純粋に実力で勝負すると張り切っている。ある日、いつものように工場で作業をしていると、シャッターの向こうから足音が聞こえた。
「修也さん、よかった。無事だったのね」
その声に振り向くと、玲奈の姿があった。彼女はもう涙をこらえきれないのか、潤んだ瞳で俺にかけ寄り、思わず肩を抱きしめてくる。
「玲奈、ごめんな。心配かけて。俺は大丈夫だから」
そう言いながら彼女の背中にそっと手を回すと、きゅっと強く握り返される。
「ごめん。私、あんなことが起きてるなんて知らなくて。大和さんのことをはっきり拒絶できなかったから、修也さんを危険にさらすことになったんじゃないかって」
玲奈の声はかれていたが、その言葉に込められた思いは痛いほど伝わる。俺はかぶりを振って、その瞳をまっすぐ見つめた。
「誰のせいでもないさ。大和が勝手に暴走しただけだ。俺は、姫川さんが自分の意思を貫いてくれたことが嬉しい。もう決まったレールなんて気にしなくていいんだ。自分の道を自由に選んでいいんだよ」
すると玲奈は瞳からこぼれる涙を拭いもせず、少しだけ笑った。
「うん。ありがとう。修也さん、あなたが支えてくれたおかげで私も勇気が出せた。これからは……玲奈って呼んで。修也」
声が震えたまま、その顔は真っ赤に染まっている。俺は照れ臭い気持ちを抑えながら、彼女の両肩に軽く触れた。
「もちろんだよ、玲奈」
こうしてちゃんと呼び合うのは初めてだ。二人で顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。静かな工場の空気の中で、その笑顔は何よりも鮮やかだった。車のオイルの匂いに混じって彼女の香りがほんのり鼻先をくすぐる。まるでずっとこうしたかったかのように、二人の距離は近づいていった。俺は整備士として、経営者として、そして玲奈を支える男として、胸を張ってこの道を歩いていくんだと心に決めた。

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