工場の入口に立った村田は、こちらを見てにやにやと笑った。いつもの嫌味な口調だ。中卒が工場長なんて、この会社もおしまいだな。俺は名前は北川。四十歳で先日中堅の工場長に就任したばかり。中卒の俺を拾って育ててくれたのはこの会社の社長だ。父の工場を古臭いと思い、反発して家を出た。高校受験の日に父と喧嘩し、受験に行かず、そのまま中卒になった。家を追い出され、何でもいいから金が欲しいと探した仕事が今の機械メーカーだった。社長の元で修行を積むうちに、筋がいいと褒められた。昔から父の工場に出入りし、職人たちの作業を見ていたからだろう。働くうちに、父への思いは尊敬へと変わった。今では和解し、兄が父の工場で働いている。俺は外でもっといろんなことを学ぼうと思っている。
村田は大手勝者の担当者だ。俺と同年代で、小学校から私立に通い、有名大学を出たエリート。ただし人間性はエリートとは程遠い。ある日の雑談で俺が中卒だと知ると、この世の中に中卒なんているのかと馬鹿にしてきた。さらに、その知性を生かしてギャンブルで大儲けしていると自慢してくる始末だ。俺がどれくらい儲けているのかと聞くと、トータルで分かってるからなと曖昧な答えが返ってきた。金額を言わないあたり、そんなに儲かっていないのだろう。こいつはいつかギャンブルで破滅するタイプだと、少し可哀想にさえなってくる。ただし、俺を馬鹿にする態度には腹が立つ。村田が務める勝者は、うちの主力製品に欠かせない機関部品の唯一の仕入れ先だ。海外からの特線ルートで仕入れていて、国内でこの部品を扱っているのは村田の会社だけ。どれだけ嫌な相手でも、この部品がある限り付き合いは切れない。だから村田はあんなに横柄な態度を取れるのだ。俺はそれを歯がゆく思いながら、仕事だからと我慢していた。
そんな関係を、村田自身が自らぶち壊しにしにきた。ある日、俺に向かって中卒が工場長なんて、この会社もおしまいだなと言い放った。俺はそうですけど、取引先を見下す人間が入れる勝者もどうかと思いますけどね。と、つい嫌味を返してしまった。その日は睨みつけられて帰られたが、数日後、村田はアポなしで工場へ乗り込んできた。いつも以上に嫌な笑みを浮かべ、わざと靴音を鳴らし、事務所のドアをノックもせずに開ける。相変わらず油臭い部屋だな。俺は驚いて顔を上げた。村田さん、どうしたんですか。アポもなしに。すると村田は勝手にソファーに腰かけ、今日は君に極上のビジネスプランを持ってきたよと言って、書類を一枚テーブルに放り投げた。
そこに書かれた数字を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。うちの主力製品に使っている機関部品の価格改定表。何と現在の価格の十倍の金額が並んでいた。何ですかこれ。桁が一つ間違っていますけど。俺が眉を潜めると、村田は声を上げて笑った。間違ってない。間違ってない。来月からその価格ね。まあ、先に行っておくけど、交渉の余地はないから。そんなの困りますよ。こんな価格でうちの会社が傾きます。慌てて口を開く俺を、村田は鼻で笑った。君さ、自分の立場分かってる。こないだ俺に嫌味を言ってきたよね。中卒ごときが放つ嫌味に傷つくことはないけど、ちょっと頭に来ちゃったよね。こんな要求、会社が正式に許可するわけがない。こいつは何か後ろ暗いことがあるんじゃないか。そんな疑念が頭の隅をよぎった。俺が少し反論しただけで頭に来ただと、随分器が小さい。
あ、君が工場長に就任した途端、うちとの交渉に失敗するなんて、まるでこの会社に取り着いた貧乏神だなあ。貧乏神様。貧乏神だと。胸の奥で何かが燃え上がる音がした。これは俺個人への侮辱じゃない。中卒の俺を拾って育ててくれ、頼りにしていると工場長にまでしてくれた社長への恩をあだで返すわけにはいかない。不器用ながらも必死に生きて、やっと和解できた父の顔に泥を塗る真似は絶対にさせない。俺は怒りを冷たい思考へと切り替え、前々から温めていた計画を頭の中で計算し直した。確認のため、村田に問いかける。この部品の流通ルートはあなただけでしたよね。村田はそうだ。うちは海外からの特線ルートで仕入れている。この部品を使っている国内企業はうちから買うしかないんだよ。それが勝者ってもんだ。君みたいな中卒には分からない次元のビジネスだけどな。どこまでも俺を馬鹿にしてくる。村田は勝ち誇った顔で身を乗り出し、高笑いした。いいか。その中卒の頭にもう一度叩き込んでやるよ。部品代はこれから十倍だ。無理なら供給を止める。さあ、どうする。
ここまでこけにされて黙っていられるか。それにこの部品、実はまだ改良できる点があると思っている。うちの工場には設備がないが、父の工場ならどうだ。この部品は特許を取っているわけでもない。父の工場でこれに似た部品を作れば、今よりクオリティの高いものが手に入るのではないか。今まで考えたことはあったが、勝者との付き合いがなくなると困るかもしれないと思い、実行に移そうとは考えたことがなかった。だが、こうなったら話は別だ。村田、お前が仕入れてくる部品よりもクオリティが高いものを使って、今までよりもいいものを作って見返してやりたい。俺は村田から視線を外し、そう考えていた。すると村田は身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。ほら、中卒ごときが俺みたいなエリートに向かうからこういうことになるんだ。早くここに判を押せ。部品の値段は十倍。これがなければ困るのはお前だろう。俺も暇じゃないんだ。早くしろ。
俺は顔を上げ、村田に向かって言った。では、契約解除で。村田はそうかそうか。じゃあすぐにファンをと言いかけて、俺の言葉が自分が思っていたものと違うことに気づいたようだ。あ、契約解除。村田の動きが止まる。俺はええ、そんなぼったくりの金額で買うほどの価値はこの部品にはありません。契約を解除させていただきます。自分が思い描いた展開と違うことに慌てた村田は、な、何を言っているんだ。供給が止まれば困るのはとパニックになりかける。俺は冷ややかに微笑んで見せた。あなたが十倍の値上げ要求という不当な書類を持ってきた。条件が強引に達しない以上、うちにも契約を解除する正当な権利はあります。エリート勝者の村田さんなら、そのくらいの法律は当然ご存知ですよね。村田の顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。それでも自分で言い出したことに引っ込みがつかなくなったのだろう。本当にいいんだな。君の独断でこの工場を潰すことになるぞ。村田は強気でそう言ってくる。俺はもう一度微笑み、それで潰れるならこの会社はそれまでですよ。では、話はついたのでお引き取りくださいと言って、村田を追い出した。
ここからが本番だ。俺はすぐに社長に連絡をし、経緯を話した。そして、この部品は俺が責任を持って調達しますと言うと、社長は落ち着け、淳。そうは言ってもこの部品は他で扱ってないんだ。俺が村田さんに連絡して、今までの値段に戻してもらえないか交渉するから、ちょっと待ってろと俺を落ち着かせる。だが俺は反論した。落ち着いています。俺に考えがあるんです。俺をここまでにしてくれた社長への恩をあだで返すわけにはいきません。そう言って、父の工場で作れるように手配することを告げる。社長は親父さんのところででも、そんなにすぐにできるのかと半信半疑だ。俺は実はこの部品、額が高いし、もっと改良の余地はあると思って設計図を書いていたところなんです。これを持っていけば、兄の頭脳と父の技術で必ず形になりますと胸を張る。社長は俺の話を聞くと、分かった。お前がそこまで言うなら信じよう。だが、うちにある部品の在庫はあと五日分だ。それが切れればうちの製造ラインは止まる。期限は五日だ。親父さんには俺からも連絡を入れる。今すぐ行ってこいと俺に指示を出した。俺はありがとうございます。でも、社長。三日で完成させます。任せてくださいと言って電話を切り、実家の工場に急いだ。
父の工場に到着すると、淳、社長から話は聞いたぞ。あの社長にはお前を雇ってもらった恩があるからな。最高の部品を作ってやると父がにやりと笑う。俺はこれ、俺が作った設計図。兄ちゃん、頼むよと兄に設計図を渡すと、兄は頷いてその設計図をじっくりと見る。これはこっちの方がいいな。兄はそう言って設計図に修正を入れ、すぐに作業に入った。父は図面を一度見ただけで、どこをどう変えるか分かったようだった。無口な父がこの時だけは俺に次々と質問を投げかけてくる。この交差はどこまで許容できる。素材はこっちの方が熱に強いぞ。一方、兄は機械に向かった途端、別人のように変わった。さっきまでの穏やかな顔つきが消え、目が鋭くなる。手が迷いなく動く。俺はその二人の背中を見ながら、子供の頃に感じたこの工場はすごいという感覚を久しぶりに思い出していた。昔は古臭いと思っていた。だが今は違う。ここには金では買えない技術と積み重ねてきた時間がある。俺はそれを誇りに思う。三日後、試作品を持って社長のところに戻る。社長は試作品を手に取り、淳、よくやったな。確かにこれなら今までのものよりもクオリティが高いと褒めてくれた。
俺はその言葉を受け止めつつ、ですが、一つ問題があってと切り出す。うちの工場で使うだけの量を作るとなると、なかなか難しくて。町工場の仲間に話を持っていきたいんです。複数の工場で作れば生産も問題なく間に合います。ただ、町工場はどこも経営が苦しく、しっかりと契約した上で作業に入ってもらいたい。だから、社長に来て欲しいんですと俺は社長に頭を下げた。社長はお前、何言ってんだよ。そんなもん行くに決まってんだろ。ほら、すぐ行くぞと言って俺の背中を叩いた。俺はなんだか目頭が熱くなる。こんな俺を信用してくれて、任せてくれた。少しは俺も社長の力になっているだろうか。社長の元で働けてよかったと改めて思った。それと、社長も黙ってはいなかったようで、水面下で色々と動いてくれていたことも後になって知った。社長とすぐに実家の工場に戻り、話を詰める。町工場の仲間もきちんと契約した上で製造を手伝ってくれることになった。北川さん、仕事をくれてありがとうなと町工場の親父が声をかける。淳、お手柄だなと父が俺の背中を叩いた。社長はその様子をにこにこしながら眺めている。俺は皆さん、ありがとうございます。よろしくお願いしますと町工場の仲間にも頭を下げた。
それから一ヶ月後、新しい部品はもちろん順調で、今までよりも性能が上がったと現場からも声が上がっている。完成の日に兄が俺にこう言ってきた。淳、この部品、その勝者から買ってる他の工場に売り込んだらどうだろう。その手があったかと俺は膝を打った。兄のアイデアは完璧だった。見事に村田の会社から乗り換える工場が続出し、父の工場も町工場の仲間もみるみる売上が伸びていったという。ということは、村田の会社は工場から契約を切られているということだ。そろそろかと思っていた矢先、北川、お前、何をした。と案の定、うちの工場に村田が乗り込んできた。目は血走っているし、スーツも乱れている。ここのところ工場が次々と部品の供給を断ってきている。今日もそうだ。問い詰めたらお前の名前が出てきた。どういうことだ。やはりどこかの工場に行って契約を切られた帰りだった。
ああ、そうですね。うちの実家の工場でこの機関部品を作ってもらったんです。今までの部品にはまだまだ改良点がありましたからね。で、町工場の仲間にも製造に協力してもらったところ、量産できることが分かり、町工場のネットワークを使ってこの部品を広めました。俺は続ける。今までより低価格で品質がいい日本製の部品、売れないわけないじゃないですか。すると村田はお前、営業妨害だぞ。ふざけるなと声を荒げる。営業妨害ですかね。うちは特許も侵害していませんし、正当なビジネスをしているだけです。それより村田さん、あなたの懐事情は大丈夫なんですか。俺がそう言うと、村田はな、何のことだとぴくりと反応した。うちの社長があなたの会社にあの不当な値上げは何だったのかと聞きました。会社はそんな値上げは指示していないし、報告も受けてないと言ったそうですよ。そこへタイミングよく社長がやってきた。うちの従業員が村田のあまりの見幕に、社長に連絡を入れていたようだ。社長は村田さん、知り合いを通じて聞きましたよ。あなた、ギャンブルで首が回らなくなったそうですね。と言うと、村田はどうしてそれをと青ざめる。俺はそれを聞いた時、ある仮説が浮かんだ。会社の知らない、報告もしていない値上げ。これって、もしうちが十倍の値上げに了承していたら、その差額は着服するつもりだったんじゃないですか。社長も頷き、北川がそういうもんだから、そのことを君の会社に伝えてある。先ほど乗り込んできたこともなと言った。村田はち、違う。そんなつもりじゃない。もういいと慌てて帰ろうとしたが、工場のドアを開けると一人の男性が立っている。村田の上司だ。村田、お前、どういうつもりだ。と若い上司が村田の首根っこを掴み、俺らに謝罪して連れて行った。その後、村田の上司から社長に謝罪の連絡があったそうだ。村田は会社の金を横領していたことが発覚し、解雇されたという。借金を返すため、アルバイトや日雇いの仕事で食いつないでいるらしい。エリートの末路はとんでもないものだった。
社長から呼び出され、淳、お前は俺の想像以上に育ったな。これからも頼むぞ、工場長。とお褒めの言葉をいただいた。俺は父にも社長にも育ててもらった。この恩は忘れない。これからも恩を返せるように、もっともっと頑張っていこうと思う。よし、今日も気合入れていくぞ。



